どうもなかけんです。
これまでにこういった言葉、聞いたことある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「お前、そっち系?」
「ちげーよ、彼女いるわ笑」
みたいな。
まぁまずまず、そっちって具体的にどっち方面ですかっていう質問は置いといたとして、
この会話がまかり通っているのはかなりやばい。
他人のセクシャリティを決め付けている、あるセクシャリティを侮辱しているという点でも勿論おかしいのですが、それ以上に私は「
そうでないことを証明しようとしていること」が気になります。
彼女・彼氏という存在を使って「私は異性の人を好きになりますよ」「普通(マジョリティ)ですよ」と伝えてる状況も、そう伝えないと不安になってしまうような状況も、なんていうか気持ちのいいものじゃないなと感じます。
それぞれの関係性を周りが判断することはできない
それに、彼女・彼氏がいたとしても様々な可能性があります。
今回の場合なら、両性を好きになる人で女性を好きになったという場合も、好きになった人がたまたま女性だった場合も、恋愛という形ではないパートナーである場合もあります。
それを詮索してと言っているのではありません。(というかそれは絶対にいけない行為です)
ただ、そんな様々な関係性を誰かが事実のみで判断できるはずがないということが言いたいのです。
それに、そうでないことを証明する必要も、自身のセクシャリティを証明する必要もなくて、ましてや証明の材料のように相手を扱う行為はとても悲しいものだなと感じます。
結婚にも恋愛にもその人それぞれの形があって、グラデーションがあるから素敵なものであるのに、それを証明する材料に使われている気がして…。
セクシャリティは自らの経験や感じたことを通して、自らが決定すべきことです。
セクシャリティは証明するもの?
証明しないと生きづらい社会は窮屈だと思います。
私は私自身がアセクシュアルであるということを証明したいために活動しているわけではありません。
むしろ、「もしかしたらこれかもしれない」「迷っているけどこのセクシャリティが1番近いと思う」といった人が証明をしなくてもその状態を表現できるようになって欲しいから活動しています。(勿論純粋に様々な方とお会いできて楽しいとか、多くの理由がありますが)
セクシャリティについて確信がある状態で名乗ったほうがいいという方も勿論います。
ただ、私は性自認や性指向に悩んでいるときに確信がないと自覚してはいけないと思い、セクシャリティをさらに迷う期間がありました。
迷う期間は必要だと私自身も感じます。でも、まだ確信が持てないからこそ自分は発信したいと思っています。日ごとに波があったり、期間によってセクシャリティが変化したり、そんな揺れている人も確かにいるし、それは決していけないことではないということを今後も伝えていきたいです。
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