家庭の人へ 寺田寅彦       風呂の寒暖計  今からもう二十余年も昔の話であるが、ドイツに留学していたとき、あちらの婦人の日常生活に関係した理化学的知識が一般に日本の婦人よりも進んでいる ということに気のついた事がしばしばあった。例えば下宿のおかみさんなどが、呼鈴(よびりん)や、その電池などの故障があったとき少しの故障なら、たい てい自分で直すのであった。当時はもちろん現在の日本でも、そういう下宿のお神さんはたぶん比較的に少ないであろうと思われる。室内電燈のスウィッチの 、ちょっと開けてみれば分るような簡単な故障でも、たいてい電燈会社へ電話をかけて来てもらうのが普通であるらしい。  些細なようなことで感心したのは、風呂を立ててもらうのに例えば四十一度にしてくれと頼めばちゃんと四十一度にしてくれる。四十二度にと云えば、そん なに熱くてもいいのかと驚きはするが、ちゃんと四十二度プラスマイナス〇・何度にしてくれるのである。もちろんこれは湯沸(ゆわか)しの装置がうまく出 来ているから、そういう温度の調節が誰にでも容易に出来るのであって、われわれの家の原始的な風呂桶などとは訳がちがうことは確かである。しかしそうい う装置を使っているだけに、摂氏一度だけの高低が人間の感覚にいかなる程度の差違となって表われるかということが、かなり明瞭に意識されているようであ った。  今から数年前三越かどこかで、風呂の湯の温度を見るための寒暖計を見付けて買って来て、宅の女中にその使用法を授けてみたのであるが、これは結局失敗 に終った。先ず初めは、浴槽の水を掻き廻さないで、水面二、三寸のところへ寒暖計の球をさしこんで、所定の温度に達した頃に報知して来るのだから、かき 廻さないで飛び込めば上の方は適温だが、底の方はまだ水である。掻き交ぜれば、ぬるくてふるえ上がってしまう。またよくかき廻して丁度になっていても、 一方で燃料が唸(うな)って燃え上がっているのでは這入(はい)っているうちにすぐに猛烈に熱くなって来るから工合が悪い。これらも少し科学的に頭を使 ってやれば、燃料が燃え切った頃にだいたい丁度になるようにするくらいは、何でもない事であろうが、これは現在の状況では、要求する方が無理であろうと 思って、とうとう断念してしまった。それから一年くらいはその寒暖計が風呂場のどこかの隅に所在なさそうにころがっていたようであったが、いつ無くなる ともなく見えなくなってしまってそれっきり永久に消えてなくなってしまったのである。これは適者生存自然淘汰の原理によって、元来寒暖計などあるまじき 原始人の風呂場にあった寒暖計が、当然に自然に消失したものであろう。  チャムバーレンという人が云った皮肉な詞(ことば)に「日本人に独自なものは風呂桶とポエトリーだけだ」というのがある。その風呂なるものが実にはな はだ科学的には不合理不経済に出来ているものである。その不合理不経済なところにポエトリーはあるが現代には少し不向きである。  今日は暑くて九十度を越したなどとというあの寒暖計、体温が三十九度もあるなどというあの寒暖計、それから風呂を四十度にしてくれなどというあの寒暖 計、いずれもみな物理学上でいうところの「温度」を測り示すものであるが、非科学的国民の頭には、この三つのものの示す温度がどうも別々のもののように 感じられることもあるらしい。そのせいでもあるまいが、体温計とその度盛はたいそう大事がられ、風呂場の寒暖計はひどく虐待されるようである。  話は横道に外れるが、盥(たらい)に入れた湯の湯気の上り方を見れば、だいたいの温度の見当がつくものである。しかしいつか赤ん坊をいきなり盥の熱湯 に入れて、大火傷(おおやけど)をさせた女の話を聞いたことがある。これなどはちょっと想像のつきかねることである。たぶんそのときだけ頭の内が留守に なっていたのであろうと思う。  しかし風呂に限らず、われわれの日常生活でわれわれの科学的知識の欠乏のために色々な損失をし、色々な危険を冒していることは数え上げればその外にも ずいぶん沢山にあるであろうと思われる。普通教育にも理科の課程がかなり豊富にあるようであるから、それがよく呑み込めていれば、それだけでも一通りは かなり役に立つべきはずであるが、実際それがそうでないのは、教える方と教わる方と両方に罪があるであろう。教程や教授法にも改良の余地が沢山にあるよ うに思われるが、第一教わる方に心掛けと興味がなければ結局何の効果もない訳である。この興味と心掛けはどこから生れるか。これが一番重大な問題である 。一つには国民性もあるかもしれないが、また一つには幼い頃からの家庭の教育に最も多く影響されるであろうと思われる。これについては特に母となる人達 の理化学的知識に対する理解と興味の水準をもう少し引上げることが肝要であろうと思われる。科学に対する興味を養成するには、六(むつ)かしくて嘘だら けの通俗科学書や浅薄(せんぱく)で中味のないいわゆる科学雑誌などを読んでもたいして効能はない。むしろ日常身辺の自分に最も親しい物質の世界の事柄 を深く注目し静かに観察してその事柄の真相をつき止めようという人間本然の傾向を助長し発育させるのが第一の近道であろう。それの手始めには、例えば風 呂場に一本の寒暖計を備えるのも一策である。そうしていろいろやってみて、考えてみてどうしても分らない疑問が起ったときに行きあたって、そこで適当な 書物を読めば、その時に初めて書物の知識が本当の活きた知識になるのである。それまでは何度読んでも結局はただの活字の行列を見物しているのもたいした ちがいはなさそうである。 (昭和六年六月『家庭』)       こわいものの征服  ある年取った科学者が私にこんな話をして聞かせた。私は子供の時から人並以上の臆病者であったらしい。しかし私はこの臆病者であったということを今で は別に恥辱だとは思っていない。むしろかえってそうであったことが私には幸運であったと思っている。  子供の時分にこの臆病な私の胆玉(きもたま)を脅かしたものの一つは雷鳴であった。郷里が山国で夏中は雷雨が非常に頻繁であり、またその音響も東京な どで近頃聞くのとは比較にならぬほど猛烈なものであったような気がする。これは単に心理的にそう思われたばかりでなく実際物理的にもそうであろうと思わ れる。そうしてその恐ろしさは単に落雷が危険であるからという功利的な理由からよりも、むしろ超自然的な威力が空一面に暴れ廻っているように感じられる ためであった。中学校、高等学校で電気の学問を教わっても、この子供の頭に滲み込んだ恐ろしさはそう容易(たやす)くは抜け切らなかった。しかし後に自 分で電気に関する色々な「実験」を体験するようになってからは、こういう超自然的な感じはいつの間にか綺麗(きれい)に消えてしまった。もっとも一つは 年を取って神経が鈍くなったせいもあるかもしれないが、一つには自分が昔おどかされた雷の兄弟分と友達になって毎日のように一緒に遊ぶことになったため と思われる。こうして雷鳴に対する神秘的の恐ろしさがなくなりはしたが、たぶんその恐ろしさの変形したものと思われる好奇心と興味とはかえって増すばか りであった。「恐いもの見たし」という古い諺は、私の場合には普通の解釈よりももう少し込み入った意味をもって適用されることになったようである。それ で雷鳴のする度ごとに私は厭(あ)かずに空を眺めては雲の形態や運動、電光の形状、時間関係、雷鳴の音響の経過等を観察するのが無上の楽しみになって来 た。そうした雷の現象に関するあらゆる研究に興味を引かれてその方面の文献を、別に捜す気になるまでもなく、自然に渉猟するようになった。しかしどれほ ど色々の学者の研究の結果を調べてみても、私自身体験としての雷の観察から示唆されて日常に懐(いだ)いている色々の疑問を満足に説明してくれるものは 一つもない。そういう行きがかりで晩年自分が某研究所に入って自由に好きな研究の出来るという幸福な身分になったとき、別にわざわざ選ぶともなく自然に 選んだ研究題目の一つは空中放電現象のそれであった。もちろんそれに関して私のこれまでに得た研究の結果は、学界に対する貢献としては誠に些細なお恥ず かしいものであったであろうが、ただ自分だけでは、自分自身の多年の疑問の中の少部分だけでも、いくらかそれによって明らかにすることが出来たと思うこ とに無限の喜びを感じるのである。  同じように地震もまた臆病な子供の私をひどくおびえさせたものの一つである。両親が昔安政の地震に遭難した実話を、子供の時から聞かされていたことも この畏怖の念を助長する効果はあったかもしれないのであるが、しかしそれにはかかわらず、おそらく地震に対するこの恐怖は本能的なものであった。少なく とも私の子供の時分のそれはちょうど野蛮民のそれと同様な超自然的なものであったに相違ないと思われるのである。それはとにかく、後日理化学を修めるよ うになってから私の興味はやはり自然に地震現象の研究という方に向かって行った。そうして自分でその後この現象の研究を手がけるようになってからは、も う恐怖の感じは全く忘れたようになくなってしまった。もちろん烈震の際の危険は充分に分っているが、いかなる震度の時にいかなる場所にいかなる程度の危 険があるかということの概念がはっきりしてしまえば、無用な恐怖と狼狽との代りに、それぞれの場合に対する臨機の所置ということがすぐに頭の中を占領し てしまうのである。地震だなと思うと、すぐにその初期微動の長さの秒数を数えたり、主要動が始まればその方向や週期や振幅を出来るだけ確実に認識しよう とする努力が先に立つ。そうしてそれをやっている間に同時にその地震の強弱程度が直観的にかなり明瞭に感知されるから、たいていの場合にはすっかり安心 して落着いていられるのである。関東地震の起った瞬間に私は上野の二科会展覧会場の喫茶店で某画伯と話をしていた。初期微動があまり激しかったのでそれ が主要動であると思っているうちに本当の主要動がやって来たときは少しはびっくりしない訳に行かなかった。しかしその最初の数秒の経過と、あの建物の揺 れ工合とを見てからもうすっかり安心してしまった。そうしてすべての人達が屋外へ飛び出してしまった後に一人残って飲み残りの紅茶をなめながら振動の経 過を出来るだけ詳細に観察しようと努力していた。あとでこの事を友人に話したら腰が抜けて逃げられなくなったんじゃないかといって笑われたくらいであっ た。これは要するに地震というものの経過の方則といったようなものをよく知っている人なら誰でも同じであるはずである。  つまり私は臆病であったおかげでこの臆病の根を絶やすことが出来たような気がする。私は臆病ではあったが未練ではなかったのだと思っている。だから自 分の臆病を別に恥ずかしいとは思っていないのである。  この年取った、そして、少しばかり風変りな科学者のこの話は、子供を教育する親達にも何かの参考になりそうである。また同時にすべての人々にとっても 「こわいもの」に対する対策の一般的指導原理を暗示するようにも思われるのである。 (昭和六年十二月『家庭』) __________________________________________________________________ 底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店    1997(平成9)年1月9日発行 入力:Nana ohbe 校正:浅原庸子 2005年3月16日作成 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