ドグラ・マグラ 夢野久作 [#ページの左右中央]  巻頭歌 胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか [#改ページ]  …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。  私がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂(みつばち)の唸(うな)るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残 していた。  それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、又もウトウト しているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。  私はフッと眼を開いた。  かなり高い、白ペンキ塗の天井裏から、薄白い塵埃(ほこり)に蔽(おお)われた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。その赤黄色く光る硝子球(ガラ スだま)の横腹に、大きな蠅(はえ)が一匹とまっていて、死んだように凝然(じっ)としている。その真下の固い、冷めたい人造石の床の上に、私は大の字 型(なり)に長くなって寝ているようである。  ……おかしいな…………。  私は大の字型(なり)に凝然(じっ)としたまま、瞼(まぶた)を一パイに見開いた。そうして眼の球(たま)だけをグルリグルリと上下左右に廻転さして みた。  青黒い混凝土(コンクリート)の壁で囲まれた二間(けん)四方ばかりの部屋である。  その三方の壁に、黒い鉄格子と、鉄網(かなあみ)で二重に張り詰めた、大きな縦長い磨硝子(すりガラス)の窓が一つ宛(ずつ)、都合三つ取付けられて いる、トテも要心(ようじん)堅固に構えた部屋の感じである。  窓の無い側の壁の附け根には、やはり岩乗(がんじょう)な鉄の寝台が一個、入口の方向を枕にして横たえてあるが、その上の真白な寝具が、キチンと敷き 展(なら)べたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。  ……おかしいぞ…………。  私は少し頭を持ち上げて、自分の身体(からだ)を見廻わしてみた。  白い、新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せてあって、短かいガーゼの帯が一本、胸高に結んである。そこから丸々と肥(ふと)って突き出てい る四本の手足は、全体にドス黒く、垢だらけになっている……そのキタナラシサ……。  ……いよいよおかしい……。  怖(こ)わ怖(ご)わ右手(めて)をあげて、自分の顔を撫(な)でまわしてみた。  ……鼻が尖(と)んがって……眼が落ち窪(くぼ)んで……頭髪(あたま)が蓬々(ぼうぼう)と乱れて……顎鬚(あごひげ)がモジャモジャと延びて…… 。  ……私はガバと跳ね起きた。  モウ一度、顔を撫でまわしてみた。  そこいらをキョロキョロと見廻わした。  ……誰だろう……俺はコンナ人間を知らない……。  胸の動悸がみるみる高まった。早鐘を撞(つ)くように乱れ撃ち初めた……呼吸が、それに連れて荒くなった。やがて死ぬかと思うほど喘(あえ)ぎ出した 。……かと思うと又、ヒッソリと静まって来た。  ……こんな不思議なことがあろうか……。  ……自分で自分を忘れてしまっている……。  ……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。……自分の過去の思い出としては、たった今聞いたブウ――ンンンというボンボン時計の音がタッタ一 つ、記憶に残っている。……ソレッ切りである……。  ……それでいて気は慥(たし)かである。森閑(しんかん)とした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと 感じられる……。  ……夢ではない……たしかに夢では…………。  私は飛び上った。  ……窓の前に駈け寄って、磨硝子の平面を覗いた。そこに映った自分の容貌(かおかたち)を見て、何かの記憶を喚(よ)び起そうとした。……しかし、そ れは何にもならなかった。磨硝子の表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、私自身の影法師しか映らなかった。  私は身を飜(ひるがえ)して寝台の枕元に在る入口の扉(ドア)に駈け寄った。鍵穴だけがポツンと開いている真鍮(しんちゅう)の金具に顔を近付けた。 けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。  ……寝台の脚を探しまわった。寝具を引っくり返してみた。着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前は愚(おろ)か、頭文字らしい ものすら発見し得なかった。  私は呆然となった。私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。私自身にも誰だかわからない私であった。  こう考えているうちに、私は、帯を引きずったまま、無限の空間を、ス――ッと垂直に、どこへか落ちて行くような気がしはじめた。臓腑(はらわた)の底 から湧き出して来る戦慄(せんりつ)と共に、我を忘れて大声をあげた。  それは金属性を帯びた、突拍子(とっぴょうし)もない甲高(かんだか)い声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうち に、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。  又叫んだ。……けれども矢張(やは)り無駄であった。その声が一しきり烈(はげ)しく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓 と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。  又叫ぼうとした。……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、咽喉(のど)の奥の方へ引返してしまった。叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ ……。  奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝頭(ひざがしら)が自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦し さ。  私は、いつの間にか喘(あえ)ぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央(まんなか)に棒立ちになったまま喘 いでいた。  ……ここは監獄か……精神病院か……。  そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、凩(こがらし)のように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。  そのうちに私は気が遠くなって来た。眼の前がズウ――と真暗くなって来た。そうして棒のように強直(ごうちょく)した全身に、生汗をビッショリと流し たまま仰向(あおむ)け様(ざま)にスト――ンと、倒れそうになったので、吾知らず観念の眼を閉じた……と思ったが……又、ハッと機械のように足を踏み 直した。両眼をカッと見開いて、寝台の向側の混凝土(コンクリート)壁を凝視した。  その混凝土壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。  ……それは確かに若い女の声と思われた。けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほど嗄(しゃが)れてしまって、ただ、底悲しい、痛々しい 響(ひびき)ばかりが、混凝土の壁を透して来るのであった。 「……お兄さま。お兄さま。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……モウ一度……今のお声を……聞かしてエ――ッ…………」  私は愕然(がくぜん)として縮み上った。思わずモウ一度、背後(うしろ)を振り返った。この部屋の中に、私以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いて いながら……それから又も、その女の声を滲(し)み透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。 「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。妾(あたし)です。お兄様の許嫁(いいなずけ )だった……貴方(あなた)の未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして ……聞かしてエ――ッ……お兄様お兄様お兄様お兄様……おにいさまア――ッ……」  私は眼瞼(まぶた)が痛くなるほど両眼を見開いた。唇をアングリと開いた。その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。そうして両手 で下腹をシッカリと押え付けた。そのまま一心に混凝土(コンクリート)の壁を白眼(にら)み付けた。  それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑をドン底まで凍らせずには措(お)かないくらいタマラナイ絶体 絶命の声であった。……いつから私を呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深い怨(うら)みの 声であった。それが深夜の混凝土壁の向うから私? を呼びかけているのであった。 「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしですあたしです。お兄さまは お忘れになったのですか。妾(あたし)ですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁(いいなずけ)だった……妾……妾をお忘れになったのですか。……妾はお兄様 と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中 から生き返ってここに居るのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄 様はあの時の事をお忘れになったのですか……」  私はヨロヨロと背後(うしろ)に蹌踉(よろめ)いた。モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した……。  ……何という奇怪な言葉だ。  ……壁の向うの少女は私を知っている。私の許嫁だと云っている。……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうして又、生 き返った女だと自分自身で云っている。そうして私と壁一重(ひとえ)を隔てた向うの部屋に閉(と)じ籠(こ)められたまま、ああして夜となく、昼となく 、私を呼びかけているらしい。想像も及ばない怪奇な事実を叫びつづけながら、私の過去の記憶を喚び起すべく、死物狂(しにものぐる)いに努力し続けてい るらしい。  ……キチガイだろうか。  ……本気だろうか。  いやいや。キチガイだキチガイだ……そんな馬鹿な……不思議な事が……アハハハ……。  私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。……又も一層悲痛な、深刻な声が、混凝土の壁を貫いて来たのだ。笑 うにも笑えない……たしかに私を私と知っている確信にみちみちた……真剣な……悽愴(せいそう)とした……。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。何故(なぜ)、御返事をなさらないのですか。妾がこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を ……」 「……………………」 「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事が……わかるので す。そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様お兄様お兄様お兄さま ……何故……御返事をして下さらないのですか……」 「……………………」 「……妾の苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に這入(はい)らないのですか… …ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様……あんまりです、あんまりですあんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」  そう云ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。それは平手か、コブシかわからないが、とにかく生身(なまみ)の柔らかい手で、コ ンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。私はその壁の向うに飛 び散り、粘り付いているであろう血の痕跡(あと)を想像しながら、なおも一心に眼を瞠(みは)り、奥歯を噛み締めていた。 「……お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っている妾です。お兄様よりほかにお便(たよ)りする方は 一人もない可哀想な妹です。一人ポッチでここに居る……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」 「お兄様もおんなじです。世界中にタッタ二人の妾たちがここに居るのです。そうして他人(ひと)からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉 じ籠められているのです」 「……………………」 「お兄様が返事をして下されば……妾の云う事がホントの事になるのです。妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです ……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……あ あ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」  私は思わず寝台の上に飛乗った。その声のあたりと思われる青黒い混凝土(コンクリート)壁に縋(すが)り付いた。すぐにも返事をしてやりたい……少女 の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。… …が……又グット唾液(つば)を嚥(の)んで思い止(とど)まった。  ソロソロと寝台の上から辷(すべ)り降りた。その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリ と後退(あとしざ)りをして来た。  ……私は返事が出来なかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。  私は彼女が私の妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ない私で はないか。自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議 な痴呆患者の私ではないか。  その私が、どうして彼女の夫(おっと)として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭(かげ)で、私の自由が得られるような事があった としても、その時に私のホントウの氏素性(うじすじょう)や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して 正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。そればかりじゃない。  万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに外(ほか)ならないとしたら、どうであろう。私 がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因(もと)にならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たし かにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の軽率(かるはずみ)から、他人の妻を横奪(よこ ど)りした事になるではないか。他人の恋人を冒涜(ぼうとく)した事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返 しくり返し唾液(つば)を嚥(の)み込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いか かって来るのであった。 「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」  そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。  私は頭髪(かみ)を両手で引掴んだ。長く伸びた十本の爪(つめ)で、血の出るほど掻きまわした。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は貴方(あなた)のものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」  私は掌(てのひら)で顔を烈しくコスリまわした。  ……違う違う……違います違います。貴女(あなた)は思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。  ……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を噤(つぐ)んだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知 らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私 ……。  私は拳骨(げんこつ)を固めて、耳の後部(うしろ)の骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。  それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。 「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」  私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、扉(ドア)を見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。  ……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。  と思ううちに、全身がゾーッと粟立(あわだ)って来た。  入口の扉(ドア)に走り寄って、鉄かと思われるほど岩乗(がんじょう)な、青塗の板の平面に、全力を挙げて衝突(ぶつか)ってみた。暗い鍵穴を覗いて みた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、痺(しび)れ上るほど脅(おび)やかされながら……窓の格子 を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引歪(ひきゆが)める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。  私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタ慄(ふる)えながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。  私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから幽瞑(あのよ)の世界に来て、何かの責苦(せめく)を受けているのではある まいか。  この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間(むげん)地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音 ばかり……。  ……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責(さい)なまれ初めた絶体絶命の活(いき)地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋 を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫(えいごう)の苛責……。  私は踵(かかと)が痛くなるほど強く地団駄(じだんだ)を踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。… …聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た隣室(となり)の物音と、切れ切れに起る咽(むせ)び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出 来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。  こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚(からっぽ)であっ た。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に就(つ)いても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、空(から)っ ぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に逐(お)いまわされながら、ヤミクモに藻掻(もが)きまわっているばかりの私であった。  そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走(かんばし)って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、と うとう以前(もと)の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。  同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉(ドア)の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞き つつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。  ……コトリ……と音がした。  気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体(からだ)を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで項垂(うなだ)れたまま、鼻の先 に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。  見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。  ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。  という静かな雀(すずめ)の声……遠くに辷(すべ)って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。  ……夜が明けたのだ……。  私はボンヤリとこう思って、両手で眼の球(たま)をグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、 恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に剛(こわ)ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして 、力一パイの大きな欠伸(あくび)をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。  向うの入口の扉(ドア)の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の膳(ぜん)が這入って来る ようである。  それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……吾(われ)を忘れて立 上った。爪先走りに切戸の傍(かたわら)に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を狙(ねら)いすまして無手(むず)と引っ掴 んだ。……と……お膳とトースト麺麭(パン)と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。  私はシャ嗄(が)れた声を振り絞った。 「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」 「……………………」  相手は身動き一つしなかった。白い袖口(そでぐち)から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。 「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は狂人(きちがい)でも……何でもない……」 「……アレエ――ッ……」  という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく藻掻(もが)き初めた。 「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」 「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します…… 」  ……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力が弛(ゆる)んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ脱(ぬ)け出したと思うと、同 時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。  一所懸命に縋(すが)り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを喰(くら)った私は、固い人造石の床の上にドタリと尻餅(しりもち)を突いた。あぶなく 引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。  すると……又、不思議な事が起った。  今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに連(つ)れて、何とも知れない可笑(おか)しさが、腹の底からム クムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それは迚(とて)もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本毎(ごと)にザワザワ とふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから止(と)め度(ど)もなく湧き起って、骨も肉 もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。  ……アッハッハッハッハッ。ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃ ないか。アハアハアハアハアハ………。  こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った… …笑った。涙を嚥(の)んでは咽(む)せかえって、身体(からだ)を捩(よ)じらせ、捻(ね)じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。 ……アハハハハ。こんな馬鹿な事が又とあろうか。 ……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人居る。俺はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。 ……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が附かない。俺はタッタ今、生れて初め てこんな人間と識(し)り合いになったのだ。アハハハハハ…………。 ……これはどうした事なのだ。何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。アハ……アハ……可笑(おか)しい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。 ……ああ苦しい。やり切れない。俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。  私はこうして止(と)め度(ど)もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可 笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼の球(たま)をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残 りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、栓(せん)をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。  私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちてい た帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタを塗(な)すくった焼麺麭(パン)を掴んでガツガツと喰いはじめた。そ れから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお美味(いし)さをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクと 嚥(の)み込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、背後(うしろ)に横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って 、長々と伸びをしながら眼を閉じた。  それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、掌(てのひら)と、足の裏がポカ ポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く ……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。  ……往来のざわめき。急ぐ靴の音。ゆっくりと下駄を引きずる音。自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。  ……遠い、高い処で鴉(からす)がカアカアと啼(な)いている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の 外で、不意に甲走(かんばし)った女の声……。 「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」  ……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界 へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。  ……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。それはたしかに自動車の警笛(サイレン)で、大きな呼子 の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高い音(ね)であるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私の処 へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。それが朝の静寂(しじま)を作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻 々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見る私に迫り近付いて来 て、今にも私の頭のモシャモシャした髪毛(かみのけ)の中に走り込みそうになったところで、急に横に外(そ)れて、大まわりをした。高い高い唸(うな) り声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、私の耳の穴に沁(し)み入るほどの高い悲鳴を揚(あ)げつつ、 急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。何の物音も聞えなくなった。……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシ ックリと濃(こま)やかになって行く…………。  ……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイ――ッと 開いて、何やらガサガサと音を立てて這入って来た気はいがしたので、私は反射的に跳ね起きて振り返った。……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。  私の眼の前で、緩(ゆる)やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籐椅子(とういす)が一個据(す)えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき 異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を衝(つ)くばかりに突立っているのであった。  それは身長六尺(しゃく)を超えるかと思われる巨人(おおおとこ)であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く 引いた眉の下に、鯨(くじら)のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死(ひんし)の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリ と曇っていた。鼻は外国人のように隆々と聳(そび)えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そ こいらの皮膚の色と一(ひ)と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に罹(かか)っているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い額( ひたい)の斜面と、軍艦の舳先(へさき)を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない 。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の外套(がいとう)を着て、その間から揺らめく白金色(プラチナいろ)の逞ま しい時計の鎖(くさり)の前に、細長い、蒼白(あおじろ)い、毛ムクジャラの指を揉(も)み合わせつつ、婦人用かと思われる華奢(きゃしゃ)な籐椅子の 前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。  私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵化(かえ)った生物(いきもの)のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中で オズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、吾(わ)れ知 らずその方向に向き直って座り直した。  すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。そうして、あべこべに私 の姿をジリジリと見下し初めたので、私は何故となく身体(からだ)が縮むような気がして、自ずと項垂(うなだ)れさせられてしまった。  しかし巨大な紳士は、そんな事を些(すこ)しも気にかけていないらしかった。極めて冷静な態度で、一(ひ)とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼 をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私は何故という事なしに、今朝 眼を醒ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず看破(みやぶ)られているような気がして、一層身体を縮み込ませた。……この気味の悪い紳士は一体、何の 用事があって私の処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。  するとその時であった。巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて前屈(まえこご)みになった。慌てて外套のポケットに手を突込んで、 白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなく私の方に身体を反背(そむ)けつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱 々しい咳嗽(せき)を続けた。そうして稍(やや)暫らくしてから、やっと呼吸(いき)が落ち付くと、又、徐(おもむ)ろに私の方へ向き直って一礼した。 「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」  それは矢張(やは)り身体に釣り合わない、女みたような声であった。しかし私は、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。この巨大な紳士 が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、恭(うやうや)しく一葉の名刺 を差出しながら、紳士は又も咳(せ)き入った。 「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」  私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。 九州帝国大学法医学教授              若林鏡太郎 医学部長  この名刺を二三度繰り返して読み直した私は、又も唖然(あぜん)となった。眼の前に咳嗽(せき)を抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上 げ、見下ろさずにはいられなかった。そうして、 「……ここは……九州大学……」  と独言(ひとりごと)のように呟(つぶ)やきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。  その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、微(かす)かにビクリビクリと震えた。或(あるい)はこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思わ れる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。 「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもお寝(やす)みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然 にお伺い致しました理由と申しますのは他事(ほか)でも御座いませぬ。……早速ですが貴方は先刻(さきほど)、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋 ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、如何(いかが)で御座いまし ょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」  私は返事が出来なかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。  ……これが驚かずにいられようか。私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。  私が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、その僅かな間に病気を押して、これだけの身支度をして 、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。  私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。  私は二重三重に面喰わせられたまま、掌(てのひら)の上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。  ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、瞬(またたき)一つしないで見下しているのであった。私の返事を待つつもりらしく、口をピッタ リと閉じて、穴のあく程私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリア リと現われているのであった。私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持って いるに違いない事が、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。  二人はこうして、ちょっとの間(ま)、睨(にら)み合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ない事を察したかして、如何 (いか)にも失望したらしくソット眼を閉じた。けれども、その瞼(まぶた)が再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から 唇へかけて現われたようであった。同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、微(かす)かに二三度うなず きながら唇を動かした。 「……御尤(ごもっと)もです。不思議に思われるのは御尤も千万です。元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事 に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」  と云いさした若林博士は、又も、咳嗽(せき)が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそ うに言葉を続けた。 「……と申しますのは、ほかでも御座いません。……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで正木敬之(まさきけいし)という名高いお方が、 主任教授として在任しておられたので御座います」 「……マサキ……ケイシ……」 「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から行詰(ゆきつま)ったままになっておりま す精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然として樹立されました、偉大な学者で御座います……と申しましても 、それは無論、今日まで行われて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますような非科学的な研究では御座いませぬ。純然たる科学の基礎に立脚して 編み出されました、劃時代的(かくじだいてき)の新学理に相違ありませぬ事は、正木先生がこの教室内に、世界に類例の無い精神病の治療場を創設されまし て、その学説の真理である事を、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく首肯(しゅこう)出来るので御座います。……申すまでもなく 貴方(あなた)も、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」 「僕が……精神病の治療……」 「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられました貴方に対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、 取りも直さず、甚しい筋違いに相違ないので、只今のように貴方から御不審を受けますのも、重々御尤(ごもっとも)千万と存じているので御座いますが…… しかし……ここに遺憾千万な事には、その正木先生が、この一個月以前に、突然、私に後事を托されたまま永眠されたので御座います。……しかも、その後任 教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前から居ないままになっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼 任致しているような次第で御座いますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委托を受けまして、お引受致しまし たのが、外(ほか)ならぬ貴方で御座いました。言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところ唯一つ……あなた が過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かに懸(かか)っていると申しましても、よろしい理由があるので御座います」  若林博士がこう云い切った時、私はそこいら中が急に眩(まぶ)しくなったように思って、眼をパチパチさした。私の名前の幽霊が、後光を輝やかしながら 、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。  ……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず項垂(うなだ)れてしまったのであった。 ……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ない のだ。 ……私の頭が今朝、眼を醒した時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病に罹(かか)っていた……否。現在も罹っている証拠なの だ。……そうだ。私はキチガイなのだ。 ……鳴呼。私が浅ましい狂人(きちがい)……。  ……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、叮嚀(ていねい)過ぎるくらい叮嚀な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たの であった。それに連(つ)れて胸が息苦しい程ドキドキして来た。恥かしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも判然(わか)らない感情のために 、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱(ほて)って来た。……眼の中が自然(おのず)と熱くなって、そのま まベッドの上に突伏したいほどの思いに充(みた)されつつ、かなしく両掌(りょうて)を顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。  若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、唾液(つば)を呑み込んだようであった。それから、恰(あたか)も 、貴(たっと)い身分の人に対するように、両手を前に束(たば)ねて、今までよりも一層親切な響(ひびき)をこめながら、殆ど猫撫で声かと思われる口調 で私を慰めた。 「御尤もです。重々、御尤もです。どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。… …しかし御心配には及びませぬ。貴方はこの病棟に這入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」 「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」 「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実 験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」 「……僕が……私が……狂人(きちがい)の解放治療の実験材料……狂人(きちがい)を解放して治療する……」  若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ首肯(うなず)いた。「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。 「さようさよう。その通りで御座います。その『狂人解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何に劃時代的 なものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の 新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績の裡(うち)に御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。… …のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の衝動(ショック)のために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、 只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、或る驚異す べき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」 「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」  と私は思わず急(せ)き込んで、寝台の端にニジリ出した。あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので…… 。その私の顔を見下しながら、若林博士は今迄よりも一層、冷静な態度でうなずいた。 「それは誠に御尤も千万な御不審です。……が……しかしその事に就(つき)ましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。いずれ遠か らず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」 「……僕自身に思い出す。……そ……それはドウして思い出すので……」  と私は一層急(せ)き込みながら口籠(くちごも)った。若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたよう に感じたので……。  しかし若林博士は騒がなかった。静かに手を挙げて私を制した。 「……ま……ま……お待ち下さい。それは斯様(かよう)な仔細(わけ)で御座います。……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお這入りになりました 経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。しかもその因縁のお話と申しますのは、 私一個の考えで前後の筋を纏めようと致しますと、全部が虚構(うそ)になって終(しま)う虞(おそ)れがありますので……詰(つま)るところそのお話の 筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出 来ないという……それほど左様に幻怪、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……が併(しか)し……当座の御安 心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先 生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、僅々(きんきん)四箇月間の実験を行われ ました後(のち)、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、その僅かの 間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。そうしてその結果 、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておら れたので御座います」 「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」 「さようさよう。貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。その正木先生の偉大 な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎として言明しておられたので御座います。… …のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方が嘗(かつ )て御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴を極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑 わなかったので御座います。むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」 「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」 「さよう。とりあえず空前とは申しましたものの、或(あるい)は絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」 「……そ……それは……ドンナ事件……」  と、私は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。  しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。端然として佇立(ちょりつ)したままスラスラと言葉を続けて行った。その青白い瞳で、静かに私を見下しな がら……。 「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……何をお隠し申しましょう。只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、 かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座います が……」 「……精神科学……応用の犯罪……」 「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい主題(テーマ)で御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、斯様(かよう)申上 げましたならば大凡(おおよそ)、御諒解が出来ましょう。……すなわち私が、斯様な主題(テーマ)に就いて研究を初めました抑々(そもそも)の動機と申 しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからで御座います 。たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得 る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったよう な戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻な ものがありますにも拘わらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供 にでも面白可笑(おか)しく首肯出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。……も ちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、歴々(ありあり)と展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」 「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」  若林博士は、いとも荘重にうなずいた。 「さようさよう。貴方は、その学説の真理である事を、身を以(もっ)て証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の 免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来に於て、御自分の過去に関する御記憶を回復されました暁(あかつき)には、必然的に、この新学理の 研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容が洩(も) れましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。……たとえば或る人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺 伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人 間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法 が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。  ……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物科学の理論と同様に一般社会 の常識として普及されるような事になっては大変である。その時には、現代に於て唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行 するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければならない訳であるが、しかしそうなったら最早(もはや)、取返しの附けようがないであろう。この精神 科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、殆ど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違な い事が、前以て、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。…… と同時に、甚だ得手(えて)勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来 る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテー マの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったよう な恰好で……。  ……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何なる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにも拘わらず、いつ、如何 なる方法で盗み出したものか、その精神科学の中(うち)でも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議 な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。……すなわちその犯罪の外観(アウトライン)と申しますは、或る富裕な一家の 血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として 構成されているので御座います。……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようにな りました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の温柔(おとな)しい、頭脳の明晰な青年の身の上に起った事件で御座います 。……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統を繋(つな)ぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい従妹(いとこ)と結婚式を挙げる事に なりました、その前の晩の夜半(よなか)過ぎに、その青年が、思いもかけぬ夢中遊行(むちゅうゆうこう)を起しまして、その少女を絞殺してしまいました 。そうしてその少女の屍体(したい)を眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が曝露さ れまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目 的であったかという事実とその犯人が何人(なんぴと)であるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという… …どこまで奇怪、深刻を極めているか判然(わか)らない事件で御座います。……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては 徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げて該(がい)事件の調査に着手致しました私も、今 日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りも掴み得ないまま、五里霧中に彷徨させられているような状態で御座います。  ……で……そのような次第で御座いますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、唯一つ……すなわち、その事件の中心人物となっ て生き残っておいでになる貴方御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと ……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この一途(いっと)よりほかに方法は無い事に相成りました。それほど左様に神変自在な手段 をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、踪跡(そうせき)を晦(くら)ましているので御座います。……こう申しましたならば、もはやお解かりで御座いま しょう。その事件に就いて、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからで御座い ます。又……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身に貴方の御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏洩を警戒致したい からで、同時に、万一、貴方の御記憶が回復いたしました節には、時を移さず駈け付けまして、誰よりも先に、その事件の真相も聞かして頂かねばならぬ…… その事件の真相を蔽(おお)い晦(くら)ましている怪魔人の正体を曝露して頂かねばならぬ……という考えからで御座います。……しかも万一、貴方が過去 の御記憶を回復されましたお蔭で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表 が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを捲き起すことに相成りましょう。すなわち正木先生が表面上、仮に 『狂人の解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得る程の大実験の、最後的な結論とするべき或 る重大な事実が、科学的に立証されまするばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と 名付くる論文の中(うち)の、最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂ける事になるので御座います。そうして正木先生と私とが、この二十年の間 、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂ける事に相成るので御座います。……で御座いますからして、あな たが果して御自身のお名前を思い出されるかどうか。過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……という事に就(つ)きまして は、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第で御座います。……然 (しか)るに……」  ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な、青白い一瞥(いちべつ)を私に与えた。……と思うと、又もやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に 押し当てながら、一所懸命に咳入り初めたのであった。  その皺(しわ)だらけに痙攣(ひきつ)った横顔を眺めながら、私は煙に捲かれたように茫然となっていた。今朝から私の周囲にゴチャゴチャと起って来る 出来事が、何一つとして私に、新らしい不安と、驚きとを与えないものは無い……しかも、それに対する若林博士の説明が又、みるみる大袈裟(おおげさ)に 、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……私の身の上に関係した事ばかりのように聞えながら、実際は私と全く無関係な、夢物語みた ような感じに変って行くように感じつつ……。  すると、そのうちに咳嗽(せき)を収めた若林博士は又一つジロリと青白い目礼をした。 「御免下さい。疲れますので……」  と云ううちに、やおら背後(うしろ)の華奢(きゃしゃ)な籐椅子(とういす)を振り返って、ソロソロと腰を卸(おろ)したのであったが、その風付(ふ うつ)きを見ると私は又、思わず眼を反(そ)らさずにはいられなかった。  初め、その籐椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにも潰れそうに見えたので、まだほかに誰か、女 の人でも来るのか知らん……くらいに考えていた。ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘掛けの間に、何の苦もなくスッポリと 這入った。そうして胸と、腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、膝小僧に乗っかる位低くして来ると、さながらに……私が、その怪事 件の裏面に潜む怪魔人で御座います……というかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。その全体の大きさは、どう見 ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなに瘠(やせ)こけているにしても……その外套の毛皮が如何に薄いものであるにしても、とても尋常な人間の出 来る芸当とは思えない。しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち付けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風 に響いて来るのであった。 「……どうも失礼を……然るに私が、只今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神の如くに的中して参りますことが、専 門外の私にもよくわかるので御座います。貴方は現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、お勉(つと)めになりながら、何一つ思い出 す事が出来ないので、お困りになっていられるで御座いましょう。それは貴方が、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一 つの過程に過ぎないので御座います。……すなわち正木先生の御研究によりますと、貴方の脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中で も、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところの或る一個所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持った或る一点が存在しておったので 御座います。  ……ところが又一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかに居(お)ったので御座いましょう。ちょうどその最も敏感な 弱点をドン底まで刺戟する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張に陥れました結果、そこに遺伝、潜在しておりました貴 方の古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、貴方の意識の表面に浮かみ現われながら 、貴方を深い深い夢中遊行(むちゅうゆうこう)状態に陥れる事に相成りました。……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われま した夢中遊行心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、只今のようにその夢遊状態から離脱される事になった訳で御座います が、しかしその異状な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その附近に在る過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻 な疲労が残っておりますために、只今のところでは全く自由が利かなくなっております。つまり古い記憶であればある程、思い出せない状態に陥っておられる ので御座います。……そこで、今まで、さほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが今朝ほどから取りあえず覚 醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと焦燥(あせ)りながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在の貴方の精神意識の状態で あると考えられます。正木先生はそのような状態を仮りに『自我忘失症』と名付けておられましたが……」 「……自我……忘失症……」 「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数箇月の間というもの、現在の貴方 とは全く違った別個の人間として、或る異状な夢中遊行状態を続けておられたので御座います。……もちろんこのような深い夢中遊行状態、もしくは極端な二 重人格の実例は、普通人によくあらわれる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて稀有( けう)のものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とか又 は『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であった事を自覚した紳士の感想録』とか『生んだ記憶(おぼえ)の無い実子に会った孤独の老嬢の告 白』『列車の衝突で気絶したと思っている間(ま)に、禿頭(とくとう)の大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡った筈の若い夫人が、翌 朝になると白髪(しらが)の老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の懺悔譚(ざんげものがたり)』なぞいう奇 怪な実例が、色々な文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の境界(さかい)に迷わせておりますが、そのような実例を、只今申しました正木先生独創の 学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるので御座います。そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられ ますばかりでなく、そんな人々が、以前(もと)の精神意識に立ち帰ります際には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の 両方から立証されて来るので御座います。……すなわち厳密な意味で申しますと、吾々(われわれ)の日常生活の中で、吾々の心理状態が、見るもの聞くもの によって刺戟されつつ、引っ切りなしに変化して行く。そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行で ありまして、その心理が変化して行く刹那(せつな)刹那の到る処には、こうした『夢中遊行』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短かさで繰返 されている。……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生は併せて立証していられるので御座います。……ですから、申 すまでもなく貴下(あなた)も、その経過をとられまして、遠からず、今日只今の御容態に回復されるであろう事を、正木先生は明かに予知しておられました ので、残るところは唯、時日の問題となっていたので御座います」  若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇を舐(な)めたようであった。  しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来 る、若林博士の説明に脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身を固(こわ)ばらせていた。……さては今の話の怪事件というのは、矢張(やは)り 自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……とい ったような、云い知れぬ恐怖から滴(した)たり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思 う。  その時に若林博士は、その仄青(ほのあお)い瞳(ひとみ)を少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。 「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。あなたは最早(もは や)、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座いま す。……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、貴下(あなた)御自身のお名前を思い出させて差上げるために、斯様(か よう)にお伺いした次第で御座います」 「……ボ……僕の名前を思い出させる……」  こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。……若林博士が特に 、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。しかし若林 博士はさり気なく静かに答えた。 「……さよう。あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座 います。その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何に恐るべきものであるか。如何なる理由で、如何なる動機の下にそのような怪犯罪 が遂行されたか。その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。……ですから、それを思 い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」  私は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。思わず座り直して頓狂(とんきょう)な声を出した。 「……何というんですか……僕の名前は……」  私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士は恰(あたか)も器械か何ぞのようにピッタリと口を噤(つぐ)んだ。私の心の中から何ものかを探し求めるかのように ……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。  後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽 情的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずには いられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤 んで、無言の裡(うち)に、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に 鋭く刺戟させようとしたのであろう。  しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで 、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。  すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽い ため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、繊細(かぼそ)い声を出した。 「……いけませぬ……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言(おっしゃ)れば、それ迄です。やはり自然と、御自 身に思い出されたのでなくては……」  私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。 「……思い出すことが出来ましょうか」  若林博士はキッパリと答えた。 「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかり でなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸 福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正 木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」  若林博士は斯様(かよう)云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力に圧(お)されて、余儀なく項垂 (うなだ)れさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が判然(わか)らないままに疲れてしまったよ うな気持ちになりながら……。  しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。 「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過 去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶が喚(よ)び 起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、如何(いかが)で御座いましょうか」  と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。  私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっとも構いません。どうなりと御随意に……という風に……。  しかし心の中では些(すく)なからず躊躇(ちゅうちょ)していた。否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。 ……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。 ……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責めら れてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。 ……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこ かに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……其奴(そいつ)が描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次か ら次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。 ……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。  その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。徐(おもむ)ろに背後(う しろ)の扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。  その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字髭(ひげ)をピンと生(は)やして、白い詰襟(つめえり)の上衣(うわぎ)に黒ズボン、古靴で 作ったスリッパという見慣れない扮装(いでたち)をしていた。四角い黒革の手提鞄(てさげかばん)と、薄汚ない畳椅子(たたみいす)を左右の手に提(ひ っさ)げていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の中央(まんなか)に湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。それか ら黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の鋏(はさみ)や、ブラシを葢(ふた)の上に掴(つま )み出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向っ て「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。  ……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。だから素跣足(すはだし)のまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字鬚( ひげ)の小男が、白い布片(きれ)をパッと私の周囲(まわり)に引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付け ながら若林博士を振返った。 「この前の通りの刈方(かりかた)で、およろしいので……」  この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなく去(さ)り気(げ)ない口調で答えた。 「あ。この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。記憶しておりますか。あの時の刈方を……」 「ヘイ。ちょうど丸一個月前の事で、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。まん中を高く致しまして、お顔全体が温柔(おとな)しい卵型に見 えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」 「そうそう。その通りに今度も願います」 「かしこまりました」  そう云う中(うち)にモウ私の頭の上で鋏が鳴出した。若林博士は又も寝台の枕元の籐椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引 っぱり出している様子である。  私は眼を閉じて考え初めた。  私の過去はこうして兎(と)にも角(かく)にもイクラカずつ明るくなって来る。若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても 、私が自分で事実と信じて差支えないらしい事実だけはこうして、すこしずつ推定されて来るようだ。  私は大正十五年(それはいつの事だかわからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、昨日(きのう)が昨日まで夢中遊 行状態の無我夢中で過して来たものらしい。そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい以前(まえ)に、頭をハイカラの学生風に刈っ ていた事があるらしい。その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。  ……けれども……そうは思われるものの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。しかも、それとても赤の他人の医学博士と 、理髪師から聞いた事に過ぎないので、真実(ほんとう)に、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから 今までの、数時間の間に起った事柄だけである。その……ブーン……以前の事は、私にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすら判然し ない。  私はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに成長(おおき)くなったか。あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……又は、若 林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。そんなに夥(おびただ)しい、限りもないであ ろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。  ……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の空洞(がらんどう)をジッと凝視していると、私の霊魂(たましい)は、いつの間にか小さく 小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる微生物(アトム)のように思われて来る。……淋しい……つまらない……悲しい気持ち になって……眼の中が何となく熱くなって……。  ……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の襟筋(えりすじ)を剃(そ)るべくシャボンの 泡を塗(なす)り付けたのであった。  私はガックリと項垂(うなだ)れた。  ……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。それならば私は、その一箇月以 前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりで はないようにも思える。もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどの詰( つま)り私は、そんな事ばかりを繰返し繰返し演(や)っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。  若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて私の周囲(まわり)に起って来た 事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下 を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んで もない夢中遊行を……。  ……私はそう考える中(うち)にハッとして椅子から飛び上った。……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違って いた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてし まったのであった。  それは二個(ふたつ)の丸い櫛(くし)が、私の頭の上に並んで、息も吐(つ)かれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持 ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、一寸(ちょっと)の間(ま)にわからなくなってしまった。……嬉しいも、悲しいも、恐ろし いも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された亡者(もうじゃ)みたようになって、グッタリと椅子に凭(も)たれ込んで底も涯 (はて)しもないムズ痒(がゆ)さを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこ うなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。前途(さき)はどうなっても構わない……というような、一切合 財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。 「コチラへお出(い)でなさい」  という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が這入(はい)って来て、私の両手を左右から、罪人か 何ぞのようにシッカリと捉えていた。首の周囲(まわり)の白い布切(きれ)は、私の気づかぬうちに理髪師が取外(とりはず)して、扉の外で威勢よくハタ イていた。  その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリと頁(ページ)を伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と咳 (せき)をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。  顔一面の髪の毛とフケの中から、辛(かろう)じて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?… …扉の外へ出た。  若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。  扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ宛(ずつ)、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁の凹( くぼ)みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網(かなあみ)で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、 今朝早くの真夜中に……ブウンンンと唸(うな)って、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて螺旋(ねじ)をかけるのか解らないが、旧式な 唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の振子球(ふりこだま)を揺り動かしているのが、何 だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた 、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札は 無い。  私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木 造西洋館があらわれた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした鶏頭(けいとう)が咲き乱れ ている真白い砂地で、その又向(むこう)は左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこ からともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。 「……ああ……今は秋だな」  と私は思った。冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グング ン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の取付(とっつ)きの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた 看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に内部(なか)に這入った。  その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際に在る石造(いしづくり)の浴槽(ゆぶね)から湧出す水蒸気が三方の硝子(ガラス)窓一面に キラキラと滴(した)たり流れていた。その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナ リ私を引っ捉えてクルクルと丸裸体(まるはだか)にして、浴槽(ゆぶね)の中に追い込んだ。そうして良(い)い加減、暖たまったところで立ち上るとすぐ に、私を流し場の板片(いたぎれ)の上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい石鹸(シャボン)とスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシと コスリ廻した。それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて泡沫(あわ)を山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで 無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、有無(うむ)を云わ さず私の両手を引っ立てて、 「コチラですよ」  と金切声で命令しながら、モウ一度、浴槽(ゆぶね)の中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、非道( ひど)い目に会わされた看護婦が、三人の中(うち)に交(まじ)っていて、復讐(かたき)を取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気 を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。  けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪を截(き)ってもらって、竹柄(たけえ)のブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、 新しいタオルで身体(からだ)中を拭(ぬぐ)い上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、流石(さすが)に生れ変ったような気持にな ってしまった。こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、い い気持になってしまった。 「これとお着換なさい」  と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風 呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの襯衣(シャツ)、ズボン、茶色の半 靴下、新聞紙に包んだ編上靴(あみあげくつ)なぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。  私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、その序(ついで)に気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持 品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれもは、殆ど仕立卸(したておろ)しと同様にチャンとした折目が附いて いる上に、身体をゆすぶってみると、さながらに昔馴染(むかしなじみ)でもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上衣の詰襟(つめえり)の新しい カラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタ リと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には幾何(いく ら)這入っているかわからないが、滑(やわ)らかに膨らんだ小さな蟇口(がまぐち)が触(さわ)った。  私は又も狐に抓(つま)まれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、生憎(あいにく)、破片(かけら)ら しいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。  するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見 下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い晒(ざら)しの浴衣(ゆかた)を取り除(の)けた。その下から現 われたものは、思いがけない一面の、巨大(おおき)な姿見鏡であった。  私は思わず背後(うしろ)によろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。  今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者(ひげむしゃ)で、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入 れをしてもらったにしても、掌(てのひら)で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。  眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳(はたち)かそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、腮(あご)の薄い、眼の大きい 、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜 けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。  その時に背後(うしろ)から若林博士が、催促をするように声をかけた。 「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」  私は冠(かむ)りかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液(つば)をグッと嚥(の)み込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色 々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明(わか)った。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私 に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してか ら、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相 違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。  しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら酬(むく)いられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わら ず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような ……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。  その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく点頭(うなず)いた。 「……御尤(ごもっと)もです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ… …では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」  私は新らしい編上靴を穿(は)いた足首と、膝頭(ひざがしら)を固(こわ)ばらせつつ、若林博士の背後に跟随(くっつ)いて、鶏頭(けいとう)の咲い た廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコ ツとノックをした。それから大きな真鍮(しんちゅう)の把手(ノッブ)を引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人ら しい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、 「只今、よくお寝(やす)みになっております」  と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。  若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部(なか)に這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせ つつ、向うの壁の根方(ねかた)に横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔 を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。  私は両手で帽子の庇(ひさし)をシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチと瞬(まばた)きをした。  ……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。  その少女は艶々(つやつや)した夥(おびただ)しい髪毛(かみのけ)を、黒い、大きな花弁(はなびら)のような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで 包んだ枕の上に蓬々(ぼうぼう)と乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい 繃帯(ほうたい)で包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは 、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが 、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、 長い濃い睫毛(まつげ)、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎(ふたえあご)まで 、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘 れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。  すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。  新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、生(う)ぶ毛(げ)で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が 、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪廓(りんか く)のすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく淋(さび)しい薔薇(ばら )色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人か と思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々(こうごう)しいこと……。  私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸(いき)も出来ないような気持になって、なおも瞬(またたき)一つせずに、 見惚(みと)れていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露の珠(たま)にな って、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、微(かす)かにふる えながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。 「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……妾(あたし)は心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な 大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ… …許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」  それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから 新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の眥(めじり)へ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢(りょうびん)の、すきとおるような生 (は)え際(ぎわ)へ消え込んで行くのであった。  しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くに つれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康(すこやか)な、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年 を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて和(なご)やかな微笑さえ浮かみ出たのであっ た。  私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後(うしろ)をふ り返った。  私の背後に突立った若林博士は、最前(さっき)からの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は 非常に緊張しているらしい事が、その蝋石(ろうせき)のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇を ソッと嘗(な)めて、今までとはまるで違った、響(ひびき)の無い声を出した。 「……この方の……お名前を……御存じですか」  私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりを憚(はばか)るように、ヒッソリと頭を振った。  ……イイエ……チットモ……。  という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で囁(ささや)いた。 「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」  私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく瞬(まばたき)をして見せた。  ……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……  といわんばかりに……。  すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝 視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足 取で、半歩ほど前に進み出て、恰(あた)かも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。 「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹(いとこ)さんで、あなたと許嫁(いいなずけ)の間柄になっておられる方ですよ」 「……アッ……」  と私は驚きの声を呑んだ。額(ひたい)を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。 「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」 「……さよう、世にも稀(まれ)な美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式 をお挙げになるばかりになっておりました貴方(あなた)の、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日 まで斯様(かよう)にお気の毒な生活をしておられますので……」 「……………………」 「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正 木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」  若林博士の口調は、私を威圧するかのように緩(ゆる)やかに、且(か)つ荘重であった。  しかし私はもとの通り、狐に抓(つま)まれたように眼を瞠(みは)りつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見た事もない天女のような少女を、 だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。 「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」 「あれは夢を見ていられるのです。……今申します通りこの令嬢には最初から御同胞(ごきょうだい)がおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが ……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんが居(お)られたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとして 只今、夢に見ておられますので……」 「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」  といううちに私は声を震わした。若林博士の顔を見上げながらジリジリと後退(あとずさ)りせずにはおられなかった。若林博士の頭脳(あたま)が急に疑 わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、外(ほか)から見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない……況(ま)して推 理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は 最初から当り前の人間ではない。事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。  けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響の無い、切れ切れの声で… …。 「……それは……この令嬢が、眼を醒(さま)しておられる間にも、そんな事を云ったり、為(し)たりしておられるから判明(わか)るのです。……この髪 の奇妙な結(ゆ)い方を御覧なさい。この結髪のし方は、この令嬢の一千年前(ぜん)の御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身 に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間 は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められます ので、むろんその時には、眼付から、身体(からだ)のこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。年齢(とし)ごろまでも見違えるくらい 成熟された、優雅(みやび)やかな若夫人の姿に見えて来るのです。……尤(もっと)も、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに 、一般の患者と同様のグルグル巻(まき)にしておられるのですが……」  私は開(あ)いた口が閉(ふさ)がらなかった。その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを惘々然(ぼうぼうぜん)と見比べない訳に行かなか った。 「……では……では……兄さんと云ったのは……」 「それは矢張(やは)り貴方の、一千年前(ぜん)の御先祖に当るお方の事なのです。その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、 この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる情景(ありさま)を、現在夢に見ておられるのです」 「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」  と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。 「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」  と云いさして若林博士もピッタリと口を噤(つぐ)んだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれども最早(もう)、遅かった。  私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見 ると、パチリパチリと大きく二三度瞬(まばたき)をした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、 その頬の色が見る見る真白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。そ れに連(つ)れて頬の色が俄(にわ)かに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、 「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」  と魂消(たまぎ)るように叫びつつ身を起した。素跣足(すはだし)のまま寝台から飛び降りて、裾(すそ)もあらわに私に縋(すが)り付こうとした。  私は仰天した。無意識の裡(うち)にその手を払い除(の)けた。思わず二三歩飛び退(の)いて睨(にら)み付けた……スッカリ面喰ってしまいながら… …。  ……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と 見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を凝視(みつ)めながら、よろよろと、うしろに退(さが)って寝台の上に両手を支(つ)いた。唇をワナワナと 震わせて、なおも一心に私の顔を見た。  それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッ タリとうなだれて、石の床の上に崩折(くずお)れ座りつつ、白い患者服の袖(そで)を顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏して しまった。  私はいよいよ面喰った。顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャ嗄(が)れた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比 べた。  若林博士は……しかし顔の筋肉(すじ)一つ動かさなかった。呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰を屈(かが)め た。耳に口を当てるようにして問うた。 「思い出されましたか。この方のお名前を……そうして貴女(あなた)のお名前も……」  この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。……さてはこの少女も私と同様に、夢中遊行状態から醒めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか ……そうして若林博士は、現在、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイ――ンと鳴るほど緊張して少女 の返事を期待した。  けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの間(ま)、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。 「……それではこの方が、貴方とお許嫁(いいなずけ)になっておられた、あのお兄さまということだけは記憶(おぼ)えておいでになるのですね」  少女はうなずいた。そうして前よりも一層烈(はげ)しい、高い声で泣き出した。  それは、何も知らずに聞いていても、真(まこと)に悲痛を極めた、腸(はらわた)を絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないた めに、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角(せっかく)その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、素気 (そっけ)なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。  男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその嗄(か)れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。 今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然(まるで)違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に陥(おとしい)れられてしまったのであった。 この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ堪(た)まらないほど痛々しい少女の 泣声と、そのいじらしい背面(うしろ)姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような 心苦しさに苛責(さい)なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。  けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。 「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう直(じ)きに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでにな るのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かに おやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」  こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙(あんるい)を拭い拭い立ち竦(すく)んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に 出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ 何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。  耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷(すす)り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気は いである。  人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと吐(つ)きながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。 ……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、 私と壁一重(ひとえ)を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。 ……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹(いとこ)で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿(むこ)さんであった私 」というような奇怪極まる私と同棲している夢を見ている。 ……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。 ……それを私から払い除(の)けられたために、床の上へ崩折(くずお)れて、腸(はらわた)を絞るほど歎き悲しんでいる……  というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。  けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に唖(おし)にでもなったかのように、ピッタリと口を噤(つぐ)んでしまった。そうして冷たい、青白い 眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣(チョッキ)のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出し て、掌(てのひら)の上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計 り初めたのであった。  身体(からだ)の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そ うしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷 淡さが、あらわれていた。小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、弛(ゆる)めたりしている 姿を見ると、恰(あたか)もタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのよ うに見えた。……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋に悶(もだ)えている少女……想像の 出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき 絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実 に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。  だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。  ……しかも……私が、何だかこの博士から小馬鹿まわしにされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。  何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信 じさせようと試みているのじゃないか知らん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中 に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。  何も知らない私を捉(つか)まえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って紹介(ひきあわ)せたり、いろいろ苦心してい るところを見るとドウモ可怪(おか)しいようである。この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の身体(からだ)に合せて仕立てたものではな いかしらん。又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。この病院 も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌 を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの勿体(もったい)らしい錯覚に陥(おとしい)れて、何かの役に立てようとして いるのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかし いとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。  ……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。  ……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の 中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの木阿弥(もくあみ)のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、 心配もない……。  けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、 細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、左掌(ひだりて)の上の懐中時計を、やおら旧(もと)のポ ケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。 「いかがです。お疲れになりませんか」  私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさ そうにうなずいた。 「いいえ。ちっとも……」 「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」  私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。 「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました正木敬之(まさきけいし)先生が、御臨終の当日まで居(お)られました部屋に御案 内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解 けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢に絡(から)まる怪奇を極めた事 件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」  若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。  しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……というよう な投げやりな気持で……。同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。  すると若林博士も満足げにうなずいた。 「……では……こちらへどうぞ……」  九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキ塗(ぬり)、二階建の木造洋館であった。  その中央(まんなか)を貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々 しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガラ ンとした玄関に出た。  その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが多分まだ朝が早いせいであったろう。その扉の上の明窓(あかりまど)から洩れ込んで来る、仄青(ほのあお )い光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって 、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつもの室が並んでいる。その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を 貼り附けた茶褐色の扉が見えた。  先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。背後(うしろ)を振り返って私を招き入れると、謹しみ返った態度 で外套(がいとう)を脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。だから私もそれに倣(なら)って、霜降(しもふり)のオーバーと角帽をかけ 並べた。私たちの靴の痕跡(あと)が、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリに蔽(おお)われているらしい。  それはステキに広い、明るい部屋であった。北と、西と、南の三方に、四ツ宛(ずつ)並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝 で蔽(おお)われているが、南側に並んだ四ツの窓は、何も遮(さえぎ)るものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のように 眩(まぶ)しく流れ込んでいる。その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種 の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。  その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余 韻を作った。 「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授を つとめていられました斎藤寿八(さいとうじゅはち)先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこ の病院に居りました患者の製作品、若(もし)くは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものが尠(すくな)くありませぬ。とこ ろがその斎藤先生が他界されました後(のち)、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こち らの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な煖炉(ストーブ )まで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規の届(とどけ)も出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたの で、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで届書(とどけしょ)を出して正規の手続きをしてもらうように、言葉を卑(ひく)うして頼みに来たも のだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。 「なあに……そんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。総長にそう云っといてくれ給え……というのはコン ナ理由(わけ)なんだ。聞き給え。……何を隠そう、かく云う吾輩(わがはい)自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの 、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在る という事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かない からね。とりあえずこんな参考材料と一所(いっしょ)に、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。……むろん内科や外 科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研 究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成し て御座ると思うんだがね……」  と云って大笑されましたので、流石(さすが)老練の塚江事務官も煙(けむ)に捲(まか)れたまま引退(ひきさが)ったものだそうです」  こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の度胆(どぎも)を抜くのには充分であった。今までは形 容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの素破(すば)らしさが、こうした何でもない諧謔(かいぎゃく)の中からマザマザと輝やき現われるのを 感じた一刹那(せつな)に、私は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が大切(だいじ)がる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばか りでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切って いる、そのアタマの透明さ……その皮肉の辛辣(しんらつ)、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然として開(あ)いた口が 塞(ふさ)がらなくなるばかりであった。  しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。 「……ところで、貴方(あなた)をこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは他事(ほか)でも御座いませぬ。只今も階下(した)の七号室で、ちょっ とお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事 を、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座い ますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りな く証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あな たの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。……正木先生は曾(かつ )て、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろ ん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。何故か と申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に 止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何 かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、そ れから先は恐らく一瀉千里(いっしゃせんり)に、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」  若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。  恰(あたか)も大人が小児(こども)に云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一 度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。  私が先刻(さっき)から感じていた……何もかも出鱈目(でたらめ)ではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いている うちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。  若林博士は流石(さすが)に権威ある法医学者であった。私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしている のではなかった。最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の隙間(すきま)もなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接 に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。その確信の底深さ……その計劃の冷静さ……周到さ……。  ……それならば先刻(さっき)から見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり真実(ほんとう)に、私の身の上に関係した事だったのか知らん。そうし てあの少女は、やはり私の正当な従妹(いとこ)で、同時に許嫁(いいなずけ)だったのか知らん……。  ……もしそうとすれば私は、否(いや)でも応(おう)でも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在 ることになる。そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。  ……ああ。「自分の過去」を「狂人(きちがい)病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の 許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。何という恥かしい… …恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。  こんな風に考えが変って来た私は、われ知らず額(ひたい)にニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の内部(なか)を恐る 恐る見廻しはじめた。思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつ つ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。  部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ硝子(ガラス)戸棚の行列が立塞(たちふさ)がっているが、反対 に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二間(けん)ぐらいに見える大卓子(テーブル)が 、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子の表面に張詰めてある緑色の羅紗(らしゃ)は、やはり薄いホコリを被(かぶ)った まま、南側の窓からさし込む光線を眩(まぶ)しく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。又、その緑色の反射の中央にカンバ ス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込(とじこ)みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上 から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面に蔽(おお)い被(かぶ)さっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてある ものらしい。しかもその前には瀬戸物の赤い達磨(だるま)の灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背 中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の欠伸(あくび)を続けているのが、何だか故意(わざ)と、そうした位置に 置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。  その赤い達磨(だるま)の真正面に衝(つ)き立っている東側の壁面(かべ)は一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽に 跼(かが)まれる位の大暖炉(ストーブ)が取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸 かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。 その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーが懸かっている。その又肖像写真の左側には 今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、清々(すがすが)しい朝の光りの中に、或(あるい)は眩(まぶ)しく、又はクッキリ と照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な静寂(しじま)を作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。  事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種の投(なげ)やりな気持ちや、彼女の運命に 対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。そ れから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。  私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々 簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に治癒(なお)りましたから、どうぞ退院さ せて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。 ――歯齦(はぐき)の血で描いたお雛様(ひなさま)の掛軸――(女子大学卒業生作) ――火星征伐の建白書――(小学教員提出) ――唐詩選五言絶句「竹里館(ちくりかん)」隷書(れいしょ)――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫(きご う)せしもの) ――大英百科全書の数十頁(ページ)を暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出) ――「カチューシャ可愛や別れの辛(つ)らさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動 俳優の自称「創作」) ――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作) ――竹片(たけきれ)で赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作) ――鼻糞で固めた観音像、硝子(ガラス)箱入り――(曹洞宗布教師作)  私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反向(そむ)けて通り抜け ようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。 それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。  それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込(つづりこみ)で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ穢(よご)れてボロボ ロになりかけている。硝子の破れ目から怪我(けが)をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに赤 (あか)インキの一頁大の亜剌比亜(アラビア)数字で、 ※(ローマ数字1、1-13-21) 、 ※(ローマ数字2、1-13-22) 、 ※(ローマ数字3、1-13-23) 、 ※(ローマ数字4、1-13-24) 、 ※(ローマ数字5、1-13-25) と番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にして ある。   巻頭歌 胎児よ胎児よ何故躍る 母親の      心がわかっておそろしいのか  その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。  一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンン ン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたよ うな、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。 「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」  若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後(うしろ)からうなずいた。 「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現(あらわ)した珍奇な、面白い製作の一つです。当科(ここ)の主任の正木先生が亡くなられ ますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気呵成(かせい)に書上げて、私の手許に提出したものですが…… 」 「若い大学生が……」 「そうです」 「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」 「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とを モデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」 「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」 「さようで……」 「論文じゃないのですか……」 「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特 別で御座います。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そう かと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛 込まれている事実的な内容が亦(また)非常に変っておりまして科学趣味、猟奇趣味、色情表現(エロチシズム)、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞと いうものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと流石(さすが)に、精神異常者でなけれ ばトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に横溢(おういつ)しております。……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質を異(こと)に した、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。世界 中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」  若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。 「ヘエ。そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」 「……それは斯様(かよう)な訳です。その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのです が、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状を呈しましたものらしく、自分自身 で或る幻覚錯覚に囚(とら)われた一つの驚くべき惨劇を演出しました。そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの 戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにも拘わらず、大 体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に幽閉(とじこ)められて、想像も及ばない恐ろ しい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」 「……ヘエ。先生にはソンナ記憶(おぼえ)が、お在りになるのですか」  若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑の皺(しわ)が寄った。それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。 「そんな事は絶対に御座いませぬ」 「それじゃ全部が出鱈目(でたらめ)なのですね」 「ところが書いてある事実を見ますと、トテモ出鱈目とは思えない記述ばかりが出て来るのです」 「ヘエ。妙ですね。そんな事があり得るでしょうか」 「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」 「イヤ。読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」 「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、少くとも専門家にとっては面白いという形容では追付(おいつ)かない位、深刻な興味を感ずる内容らしい ですねえ。専門家でなくとも精神病とか、脳髄とかいうものについて、多少共に科学的な興味や、神秘的な趣味を持っている人々にとっては非常な魅力の対象 になるらしいのです。現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。そうして、やっと全体の機構 がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと云っております。甚しいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤに なって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人はやはりこの原稿を読んでから自分の脳髄の作用に信用が措(お)けなくな ったから自殺すると云って鉄道往生をした者が一人居る位です」 「ヘエ。何だかモノスゴイ話ですね。正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。よっぽどキチガイじみた事が書いてあるんですね」 「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で、理路整然としている事は普通の論文や小説以上なのです。しかも、その見た事や聞いた事に対する、精神異 状者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、只今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠く及ぶところで は御座いませぬ。……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さが又、普通人の所謂(いわゆる)、推理とか想像とかを超越しておりまして 、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に捲き込まれそうになるのです。その意味で、斯様(かよう)な標題を附けた ものであろうと考えられるのですが……」 「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が附けたのですね」 「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」 「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」 「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれている ものとしか考えられませぬ。……と申します理由は外でも御座いませぬ。この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしや この標題の中に、この不思議な謎語(なぞ)を解決する鍵が隠されているのではないか。このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいか と考えましたからで御座います。……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまし て、不眠不休で書上げてしまいますと、流石(さすが)に疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ね る事が、当分の間、出来なくなってしまいました。……といって斯様(かよう)な不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろん ハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、計(はか)らず面白い事に気付きました。元来この九州地方には『ゲレン 』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧欧羅巴(ヨーロッパ)系統の訛(なまり)言葉が、方言として多数に残っ ているようですから、或(あるい)は、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、色々と 取調べてもらいますと、やっとわかりました。……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹伴天連(キリシタンバテレン)の使う幻魔術のこ とをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なん ぞは、まだ判明致しませぬが、強(し)いて訳しますれば今の幻魔術もしくは『堂廻目眩(どうめぐりめぐらみ)』『戸惑面喰(とまどいめんくらい)』とい う字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言 葉には相違御座いません。……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式 な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために 、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます」 「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」 「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に記述(し る)されております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の 科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。たとえば、 ……「精神病院はこの世の活(いき)地獄」という事実を痛切に唄いあらわした阿呆陀羅経(あほだらきょう)の文句…… ……「世界の人間は一人残らず精神病者」という事実を立証する精神科学者の談話筆記…… ……胎児を主人公とする万有進化の大悪夢に関する学術論文…… ……「脳髄は一種の電話交換局に過ぎない」と喝破した精神病患者の演説記録…… ……冗談半分に書いたような遺言書…… ……唐時代の名工が描いた死美人の腐敗画像…… ……その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事 件の調査書類……  ……そのようなものが、様々の不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気 が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした幻魔作用(ドグラ・マグラ)の印 象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へと逐(お)いかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞 いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立帰って参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くよう に、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当りませぬ。……と いうのは、それ等の出来事の一切合財が、とりも直さず、只一点の時計の音を、或る真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。しか も、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と、最終の二つの時計の音は、真実のところ 、同じ時計の、同じ唯一つの時鐘(じしょう)の音であり得る……という事が、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって 証明され得る……という……それ程左様(さよう)にこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるので御座います。……論より証拠……読ん で御覧になれば、すぐにおわかりになる事ですが……」  といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。  しかし私は慌てて押し止めた。 「イヤ。モウ結構です」  と云ううちに両手を烈しく左右に振った。若林博士の説明を聞いただけで、最早(もはや)私のアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がし たので……同時に…… ……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程 度のシロモノに過ぎないのであろう。……現在の私が直面しているドグラ・マグラだけでも沢山なのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この 上にヘンテコな気持にでもなっては大変だ。……こんな話は最早(もはや)、これっきり忘れてしまうに限る……。  ……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。そうして戸棚の出外(ではず)れの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べて在 る写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めて行った。それは…… ――精神病者の発病前後に於ける表情の比較写真―― ――同じく発病前後に於ける食物と排泄物の分析比較表――  といったような珍らしい研究に属するものから…… ――幻覚錯覚に基く絵画―― ――ヒステリー婦人の痙攣(けいれん)、発作が現わす怪姿態、写真各種―― ――各種の精神病に於ける患者の扮装、仮装写真、種類別――  なぞいう、痛々しい種類のもの等々であったが、そんなものが三方の壁から、戸棚の横腹まで、一面に、ゴチャゴチャと貼り交(ま)ぜてある光景は、一種 特別のグロテスクな展覧会を見るようであった。又その先に並んだ数層の硝子戸棚の中に陳列して在るものは…… ――並外れて巨大な脳髄と、小さな脳髄と、普通の脳髄との比較(巨大な方は普通の分の二倍、小さい方の三倍ぐらいの容積。いずれもフォルマリン漬)―― ――色情狂、殺人狂、中風患者、一寸法師等々々の精神異状者の脳髄のフォルマリン漬(いずれも肥大、萎縮、出血、又は黴毒(ばいどく)に犯された個所の 明瞭なもの)―― ――精神病で滅亡した家の宝物になっていた応挙(おうきょ)筆の幽霊画像―― ――磨(と)ぐとその家の主人が発狂するという村正(むらまさ)の短刀―― ――精神病者が人魚の骨と信じて売り歩いていた鯨骨の数片―― ――同じく精神病者が一家を毒殺する目的の下に煎(せん)じていた金銀瞳(め)の黒猫の頭―― ――同じく精神病者が自分で斬り棄てた左手の五指と、それに使用した藁切庖丁(わらきりほうちょう)―― ――寝台から逆様(さかさま)に飛降りて自殺した患者の亀裂した頭蓋骨―― ――女房に擬して愛撫した枕と毛布製の人形―― ――手品を使うと称して、嚥下(のみくだ)した真鍮煙管(しんちゅうきせる)―― ――素手(すで)で引裂いた錻力板(ブリキいた)―― ――女患者が捻じ曲げた檻房の鉄柵――  ……といったようなモノスゴイ品物が、やはり狂人の作った優美な、精巧な編物や、造花や、刺繍(ししゅう)なぞと一緒に押し合いへし合い並んでいるの であった。  私は、そんな物の中で、どれが自分に関係の在るものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いて行った。こんな飛んでもないものの中の、どれか 一つでも、私に関係の在るものだったらどうしようと、心配しいしい覗(のぞ)きまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つも無い ようであった。却(かえ)って、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシと私の神経に迫って来て、 一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。  私はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものに囚われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り 見てしまって、以前の大卓子(テーブル)の片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。又もニジミ出して来る額の生汗(なまあせ)をハンカチで拭 いた。そうして急に靴の踵(かかと)で半回転をして西の方に背中を向けた。  ……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子(テーブル)越しに、私の真 正面まで辷(すべ)って来てピッタリと停止した。さながらにその額面と向い合うべく、私が運命附けられていたかのように……。  私は前こごみになっていた身体(からだ)をグッと引き伸ばした。そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、 薄ぼやけた緑色の配合に見惚(みと)れた。  その図は、西洋の火焙(ひあぶ)りか何かの光景らしかった。  三本並んだ太い生木(なまき)の柱の中央に、白髪、白髯(はくぜん)の神々しい老人が、高々と括(くく)り付けられている。その右に、瘠(や)せこけ た蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに丸裸体(まるはだか)のまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から 燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。  その酷(むご)たらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の輿(こし)に乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた眷族(けんぞく)や、臣下らしい ものに取巻かれつつも如何(いか)にも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している 母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きな掌(てのひら)で小児の口を 押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。  又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の頭巾(ずきん)を冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、撞木杖(しゅもくづえ)を突 いて立ち佇(とど)まっているが、如何にも手柄顔に火刑柱(ひあぶりばしら)の三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、粗(まば)らな歯を一パイに剥き出し てニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。 「これは何の絵ですか」  私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。 「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者に憑(つ)かれたものとして、片端(かた っぱし)から焚(や)き殺している光景を描きあらわしたもので、中央に居(お)りまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼卜筮者( うらないしゃ)であった巫女婆(みこばばあ)です。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳河(やながわ)の骨董店( こっとうてん)から買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品 としても容易ならぬ貴重品でありますが……」 「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」 「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、寧(むし)ろ徹底した治療法というべきでしょう」  私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。  そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが籠(こも)っていたので…… 。私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。 「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」  すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。 「……いや……必ずしもそうでないのです。或は一(ひ)と思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」  私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくり なくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。  それは額の禿(は)げ上った、胡麻塩髯(ごましおひげ)を長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を 満面に湛(たた)えている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが 、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。 「この写真はどなたですか」  若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、著(いちじる)しく柔らいだように見えた。何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見 せつつ、ゆっくりと頭を下げた。 「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持ってお られましたお方で、私どもの恩師です」  そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な歎息(ためいき)をしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た 。 「……やっとお眼に止まりましたね」 「……エッ……」  と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近 すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。 「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結ん でいるものに相違ないので御座いますから……」  こう云われると同時に私はハッと気が付いた。この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。そうして、それ と同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。  けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような 気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち俛首(うなだ)れながら若林博士の言葉に耳を傾けた。 「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラ の原稿からこの狂人焚殺(ふんさつ)の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に 連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、彼(か)の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御 座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方 が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。 そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」 「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」  と私は独言(ひとりごと)のように呟(つぶや)いた。又も底知れぬ恐怖に囚(とら)われつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。 「……行われております。遺憾なく昔の通りに行われております。否。焚(や)き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので 御座います。今日只今でも……」 「……そ……それはあんまり……」  と云いさして私は言葉を嚥(の)み込んだ。あんまり非道(ひど)い云い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚 殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。 「あんまりではありませぬ。儼然(げんぜん)たる事実に相違ないのです。その事実は追々(おいおい)と、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そ うした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説を樹(た)てられる事になったので す。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑 近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御 自身の御提供によって、申分(もうしぶん)なく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまし て、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」  私は又も呆然となった。開(あ)いた口が塞(ふさ)がらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容の出来ない厳 粛な、恐ろしい因縁に囚(とら)われつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないよう に仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。 「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので 御座います。すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実 験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」 「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」 「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」 「……二十年……」  こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、咽喉(のど)の奥に引返した。その正木博士の二十年間の苦心 が、そのまま私の頸筋(くび)に捲き付いて来るような気がしたので……。  すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。 「そうです。正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」 「……まだ生れない僕のために……」 「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。正木先生はたし かに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されました後(のち )に……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよ ろしい。その上で前後の事実を照合(てらしあわ)されましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、御首肯(ごしゅこう)出来る事と 信じます。……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座い ますが……」  若林博士は、こう説明しつつ大卓子(テーブル)の前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。私はその命令に従って手術 を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰を卸(おろ)すには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。 余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、唾液(つば)を呑込み呑込みしているばかりであった。  その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向側の大きな廻転椅子の上に座った。最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだの であったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、露(あら)わに細長く折れ曲っている間へ、長い頸部(くび)と、細長い胴体とが グズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけが旧(もと)の通りの大きさで据(す)わっているので、全体の感じが何となく妖 怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大蜘蛛(ぐも)が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を餌食(えさ)にすべく、モーニン グコートを着て匐(は)い出して来たような感じに変ってしまったのであった。  私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に居住居(いずまい)を正した。するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子の 真中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッと塵(ごみ)を払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。 「……ところでその正木先生が、生涯を賭(と)して完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますに就(つい)ては、誠に恐縮で御座いますが、 かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で 御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に 、第一回の入学生として机を並べましたものです。そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だっ たので御座います。しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通って いるので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いま せんでした。取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あら ゆる苦心を致しましたものです。学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、頗(すこぶ) る呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく他人(ひと)に貸してやったりしておられたものでした。そう して御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べて廻(ま)わったりしておられたような 事でした。……尤(もっと)もこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。……『狂 人解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計劃的な仕事であった。……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りました ので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに驚目駭心(きょうもくがいしん)させられているような次第で御座います。いずれに致しても、そのよう な訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先 に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。  ……と申しますのは斯様(かよう)な次第で御座います。元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この 部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学な方で御座いましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残って いる位であります。嘗(かつ)て、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があ ります。 「近頃当大学の学生や、諸先生が、よく花柳(かりゅう)の巷(ちまた)に出入したり、賭博に耽(ふけ)ったりされる噂が、新聞でタタカレているようであ るが、これは決して問題にするには当らないと思う。そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札を弄(もてあそ)ぶこ とでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。これは日本の学界の一大弊害と思う」  と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を 送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端を窺(うかが)うのに十分で御座い ましょう。  ……しかし先生が当大学に奉職をされました当初の中(うち)は、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、唯一人の精神病の 専攻家として、助教授格で、僅かな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。いつもお気に 入りの正木先生と、その頃から御指導を仰いでおりました私との二人を捉(つか)まえては、現代の唯物科学万能主義を罵倒したり、国体の将来を憂えたりし ておられたものですが、そのような場合に私はどのような受け答えを致してよいのか解らなかったにも拘わらず、正木先生はいつも奇想天外式な逆襲をして、 斎藤先生を閉口させておられたもので……その中でも特に私の記憶に残っておりますのはかような言葉で御座いました。 「……ソ――ラ、又、先生一流の愚痴の紋切型が初まった。安月給取りの蓄音器じゃあるまいし、もうソロソロ蝋管(ろうかん)を取り換えちゃどうです。今 の人間は、みんな西洋崇拝で、一人残らず唯物科学の中毒に罹(かか)っているのですから、先生の愚痴を注射した位ではナカナカ癒りませんよ。……まあま あ、そんなにヤキモキなさらずに、今から二十年ほど待っていらっしゃい。二十年経つ中(うち)には、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者 が現われるかも知れないのです。……そうするとその患者は、自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録、発表して 全世界の学者を驚倒させると同時に、今日まで人類が総がかりで作り上げて来た宗教、道徳、芸術、法律、科学なぞいうものは勿論のこと、自然主義、虚無主 義、無政府主義、その他のアラユル唯物的な文化思想を粉微塵(こなみじん)に踏み潰して、その代りに人間の魂をドン底まで赤裸々に解放した、痛快この上 なしの精神文化をこの地上にタタキ出すべく、そのキチガイが騒ぎ初めるのです。……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功した暁(あかつき) には、先生のお望み通りに精神科学が、この地上に於ける最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を継子(ままこ)扱いにする学 校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして、精々(せいぜい)長生をして待っていらっしゃい。学者に停年はありま せんからね」  といったような事だったと記憶しておりますが、これには流石(さすが)の斎藤先生も呆(あき)れておられましたようで……一緒に聞いておりました私も 、少なからず驚かされた事でした。第一、こんな予言者めいた事を、正木先生が果して本気で云っておられるのか、どうかすら判然致しませんでしたので…… 正木先生がこの時、既に、自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚ろかそうと計劃しておられた……なぞいうような事が、その時代にどうし て想像出来ましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もない事を云って人を驚かされる事は、その頃から決して珍らしい事ではありませんでした ので、斎藤先生も私も、この事に就いては格別に不審を起した事もなく、深く突込んで質問した事なぞもありませんでした。  ……ところが間もなく、斯様(かよう)な斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と相俟(あいま)って、当時の大学部内に、異常な波瀾を捲き起す機 会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに、端(たん )を発したので御座いました」 「……胎児……胎児が夢を見るのですか」  と私は突然に頓狂な声を出した。それ程に胎児の夢という言葉が、異様な響きを私の耳に与えたのであった……が……しかし若林博士は矢張(やは)りチッ トモ驚かなかった。私が驚くのが如何にも当然という風にうなずいた。手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。 「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、追付(おっつ)けお眼に触れる事と存じますが、単にその標題を見ましただけでも尋常一様の 論文でない事がわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日までその正体が判然(わか)っておりませぬのに、況(ま)して今から二十年も昔に遡( さかのぼ)った……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様な標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常 でない事は、予(か)ねてから定評がありましたので、この論文の標題は忽ち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼を瞠(みは)らぬ者はな いくらいで御座いました。  ……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教 授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国 語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無 論、その頃まで学術用語と称せられていた独逸(ドイツ)語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていな かった言文一致体の、しかも、俗語や方言混(まじ)りで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまし て、その標題と同様に、人を愚弄(ぐろう)しているかの如く見えましたので、流石(さすが)に当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰 らわされてしまいました。その中でも八釜(やかま)し屋を以(もっ)て鳴る某教授の如きは憤激の余りに…… 「……こんな不真面目な論文を吾々に読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。 当大学第一回の卒業論文銓衡(せんこう)の神聖を穢(けが)す者は、この正木という青二才に外(ほか)ならない。こんな学生は将来の見せしめのために放 校してやるがいい」  と敦圉(いきま)いているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。  ……斯様(かよう)な事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、愈々(いよいよ)当日 となりますと果して各教授とも略々(ほぼ)、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になり ました。するとその時に、当時の最年少者として席末に控えておられました斎藤先生が、突然に立上られまして、今でも評判に残っておりますほどの有名な反 対意見を吐かれました。 「……暫く待って頂きたい。席末から甚だ僭越と思うけれども、学術のためには止むを得ないと思うから敢えて発言するのであるが、私は諸君と全然正反対の 意見を、この論文に対して持っている者である。その理由を次に述べる。  ……第一にこの論文を批難する諸君は、文章が体(たい)を成しておらぬ。規定に合っていない。……と主張されているようであるが、これは殆んど議論に ならない議論で、特に弁護の必要はないと思う。ただ学術論文というものは『どうぞ卒業させて下さい』とか『博士にして下さい』とかいって御役所に差出す 願書なぞとは全然、性質の違ったものである。規定された書式とか、文体とかいうものはどこにもない……という一言を添えておけば十分であると思う。  ……次にはこの論文の内容であるが、これも亦(また)、諸君が攻撃されるような不真面目なものでは絶対にないのである。この論文の価値が認められない のは、現代の医学者が、余りに唯物的な肉体の研究にのみ囚(とら)われて、人間の精神というものを科学的に観察する学術……すなわち精神科学に対する知 識が欠けているからである。この論文に発表されているような根本的な精神、もしくは生命、もしくは遺伝の研究方法を発見すべく、全世界の精神科学者が、 如何に焦慮し、苦心しているかという事実を諸君が御存じない。そのためにこの論文の真価値が理解されないものである事を、私は専門の名誉にかけて主張す る者である。  ……すなわちこの論文は、人間が、母の胎内に居る十箇月の間に一つの想像を超絶した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの『万 有進化の実況』とも題すべき数億年、乃至(ないし)数十億年の長時間に亘(わた)る連続活動写真のようなもので、既に化石となっている有史以前の異様奇 怪を極めた動植物や、又は、そんな動植物を惨死滅亡させた天変地妖の、形容を絶する偉観、壮観までも、一分(ぶ)一厘(り)違わぬ実感を以て、さながら に描きあらわすのみならず、引続いては、その天変地妖の中から生み出された原始人類、すなわち胎児自身の遠い先祖たちから、現在の両親に到る迄の代々の 人間が、その深刻な生存競争のためにどのような悪業を積み重ねて来たか。どんなに残忍非道な所業を繰返しつつ、他人の耳目を眩(くら)まして来たか…… そうしてそのような因果に因果を重ねた心理状態を、ドンナ風にして胎児自身に遺伝して来たかというような事実を、胎児自身の直接の主観として、詳細、明 白に描きあらわすところの、驚駭(きょうがい)と、戦慄とを極めた大悪夢である事が、人間の肉体、及(および)、精神の解剖的観察によって、直接、間接 に推定され得る……と主張している。但(ただし)、それは胎児自身が記録した事実でもなければ、大人の記録に残っている事でもないので、いわば一つの推 測に過ぎない。だから学術上の価値は認められない。卒業論文としての点数も零(ゼロ)である……という事に諸君の御意見は一致しているようである。  ……これは一応、御尤(ごもっと)も千万のように聞こえるが……しかし……私は失礼ながら、ここで一つ諸君にお尋ねしたい事がある。それは諸君が中学 時代に於て、必ず一度は眼を通されたであろう『世界歴史』というものを諸君はドウ思って読んで来られたかという事である。……そもそも世界歴史というも のは、人類生活の過去に属する部分の記録で、これを個人にとってみると、自分自身の過去の経歴に関する記憶と同様のものである……くらいの事は、今更、 諸君の前で説明するさえ失礼な位に、わかり切った事であろう。苟(いやしく)も過去を持たない人間でない限り、否定し得ないところであろう。  ……ところでもしそうとすれば、その歴史的の記録が残っていない、所謂(いわゆる)、有史以前の人類が、その宗教に、その芸術に、その社会組織に、如 何なる夢を描きあらわしておったか。如何なる夢を見つつ自分達の歴史を記録し得るまでに進化して来たかという事を、現在の世界に残っている各種の遺跡に 照し合わせて推測するところの学術……たとえば文化人類学、先史考古学、原始考古学なぞいう学問は学術上無価値のものといえようか。科学的の研究でない といえようか。……況(いわ)んや人類出現以前の地球の生活として記録されている地質の変遷や、古生物の盛衰興亡は、誰が見て来て、誰が記録しておいた ものであろうか。現在の地球表面上に残る各種の遺跡によって、そんな事実を推定して行く地質学者や、古生物学者は皆、想像のみを事とするお伽話(とぎば なし)の作者といえようか。科学者でないといえようか。  ……すなわち、この論文『胎児の夢』の一篇は、吾々の頭脳の記録に残っていない、みごもり時代の吾々の夢の内容を、吾々成人の肉体、及(および)、精 神の到る処に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も嶄新(ざんしん)な学術の芽生えでなければならぬ。最尖鋭、徹底した空前 の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明の如きは、実に破天荒なこころみで、全世 界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも、明け暮れ翹望(ぎょうぼう)し、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学な ぞというものを包含している事が明らかに認められるので、本篇の主題たる『胎児の夢』の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分科して来たならば、恐 らく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われる位である。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術 、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進むべき大道を切り開いているものである事を、私は特に、今一度、私の専門の立場か ら、強く裏書きしておく者である。  ……私は確信する、この『胎児の夢』の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、所謂、博士論文なぞ とは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な科学的価値を有する発表である。無論、今期、当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りと すべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術が如何にして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初に於て、如何に空想の産物 視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ」  ……云々といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。  ……ところで斎藤先生の斯様(かよう)な主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのは無論の事でありました。斎藤先生は忽(たちま)ちの中(うち)に 満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、該博(がいはく)深遠なる議論を以て、一々相手の攻撃を逆襲、粉 砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きませぬ。何をいうにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の 論争なのですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の銓衡(せんこう)を全部、翌日に廻わして、ラムプを点(つ)けて 議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、後(のち)に名総長と謳(うた)われました盛山学 部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてそ の翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推 さるる事になったのであります。  ……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜(おんし)の銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、 いつの間にか行衛(ゆくえ)不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」 「ホウ。卒業式の当日に行衛不明……どうしてでしょう」  私が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしらフッと口を噤(つぐ)んだ。恰(あたか)も何かしら重大な事を言い出す前のように、私の顔を凝 視していたが、やがて、又、今までよりも一層慎しやかに口を啓(ひら)いた。 「正木先生が何故(なにゆえ)に、かかる光栄ある機会を前にして、行衛不明になられたかという真個(ほんと)の原因に就ては今日まで、何人(なんぴと) も考え及んだ者が在るまいと思います。無論、私にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛不明事件と、今申上げました『 胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑を容(い)れないようであります。……換言致しますれば、正木 先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行衛を晦(くら)まされたものではないかと考えられるので御座います」 「……胎児の夢の主人公……胎児に魘(おび)やかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」 「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方が宜(よろ)しいと思いますが」  と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙攣(ひきつ)らせながら、依然として謹厳な口調で 言葉を続けた。 「……今のうちは、お解りにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれ貴方が、御自身の過去の記憶を、残りなく回復されました暁に は、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が何人(なんぴと)であるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになる事と存じますから、その時の 御参考のために、特にこの際御注意を促しておきます次第で御座います。……ところで、扨(さ)て、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のまま で終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許に、正木先生からの書信が参りましたが、その中には斯様(かよう)な意味の抱負が述べてありました そうです。  ――自分は胎児の夢の一篇を理解してくれる人間が、現代の科学界に存在していようとは思わなかった。恐らく、そんな人間は一人も居ないであろう事を確 信しつつ、落第を覚悟して提出したものであったが、意外千万にも、それが学部長閣下と、斎藤先生に推薦されたという事を聞いて、長嘆これを久しうした。 あの論文の価値が、こんなに易々(やすやす)と看破されるようでは、まだまだ私の研究が浅薄であったに違いない。こんな事では吾が福岡大学の名誉を不朽 に伝える事は出来ないと思った。 ――私は閣下と斎藤先生に合わせる面目がないから姿を隠す。恩賜の時計は御迷惑ながら、当分お手許に御保管願いたい。この次にはキット、何人(なんぴと )にも理解されないほどの大研究を遂げて、この御恩報じをするつもりであるから――  云々というのでした。盛山学部長はこの手紙を斎藤先生に見せて「どこまでも人を喰った男だ」と云って大笑いをされたという事ですが……。  ……ところで正木先生は、それから丸八年の間、欧洲各地を巡遊して、墺、独、仏、三箇国の名誉ある学位を取られたのですが、その中(うち)に大正四年 になって、コッソリと帰朝されますと、今度は宿所(やど)を定めずに漂浪生活を初められました。全国各地の精神病院を訪問したり、各地方の精神病者の血 統に関する伝記、伝説、記録、系図等を探って、研究材料を集められる傍ら『キチガイ地獄外道祭文(げどうさいもん)』と題する小冊子を、一般民衆に配布 して廻られたのです」 「……キチガイ地獄……外道祭文……それはドンナ事が書いてあるのですか」 「……その内容は只今お眼にかけますが、やはり前の胎児の夢と同様、未だ曾て発表された事のない恐ろしい事実が書いてあるので御座います。要約(つづ) めて申しますと、その祭文の中には、前にもちょっと申しました現代社会に於ける精神病者虐待の実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の内幕 (ないまく)が曝露してありますので……言葉を換えて申しますれば、現代文化の裏面に横たわる戦慄すべき『狂人の暗黒時代』の内容を俗謡化した一種の建 白書、もしくは宣言書とでも申しましょうか。正木先生はこれを政府当局、その他、各官衙(かんが)や学校へ洽(あま)ねく配布されたばかりでなく、自分 自身で木魚を敲(たた)いて、その祭文歌を唄いながら、その祭文歌を印刷したパンフレットを民衆に頒布(はんぷ)して廻(ま)わられたのです」 「……自分自身で……木魚をたたいて……」 「さようさよう……ずいぶん常軌を逸したお話ですが、しかし正木先生にとっては、それが極めて真剣なお仕事だったらしいのです……のみならず正木先生の そうした御事業に就いては、恩師の斎藤先生も、陰(かげ)に陽(ひなた)に正木先生と連絡を取って、御自分の地位と名誉を投げ出す覚悟で声援をしておら れた形跡があります。しかし、遺憾ながらその祭文歌の内容が、あまりに露骨な事実の摘発で、考えように依っては非常識なものに見えましたためか、真剣に なって共鳴する者が無かったらしく、とうとう世間から黙殺されてしまいましたのは返す返すもお気の毒な次第で御座いました。……もっとも、その祭文歌の 中に摘発してあります精神病院の精神病者に対する虐待の事実なぞが、一般社会に重大視される事になりますと、現代の精神病院は一つ残らず破毀(はき)さ れて、世界中に精神異状者の氾濫が起るかも知れない事実が想像され得るのでありますが、しかし正木先生は、左様な結果なぞは少しも問題にしてはおられな かったようで、唯、将来御自分の手で開設されるであろう『狂人解放治療』の実験に対する準備事業の一つとして、斯様(かよう)な宣伝をされたものと考え られるので御座います」 「それじゃ矢(や)っ張(ぱ)り……」  と云いさした私は、思わずドキンとして座り直さずにはおられなかった。そうして唾液(つば)を嚥(の)み込み嚥み込みつぶやいた。 「それじゃ……やっぱり……僕を実験にかける準備……」 「さようさよう……」  と若林博士は猶予もなく引取ってうなずいた。 「前にも申しました通り、正木先生の頭脳は、吾々の測り知り得る範囲を遥かに超越しているのでありますが、しかし、正木博士のそうした突飛(とっぴ)な 、大袈裟(おおげさ)な行動の中に、解放治療の開設に関する何等かの準備的な御苦心が含まれている事は、否(いな)まれない事実と考えられます。これか らお話致します正木先生の変幻出没的な御行動の一つ一つにも皆、そうした意味が含まれておりますようで、言葉を換えて申しますと、正木先生の後半の御生 涯は、その一挙手一投足までも、貴方を中心として動いておられたものとしか考えられないので御座います」  若林博士はコンナ風に云いまわしつつ、その青冷めたい、力ない視線をフッと私の顔に向けた。そうして私がモウ一度座り直さずにはおられなくなるまで、 私の顔を凝視していたが、そのうちに私が身動きは愚か、返事の言葉すら出なくなっている様子を見ると、又、気をかえるようにハンカチを取出して、小さな 咳払(せきばら)いをしつつ、スラスラと話を進めた。 「……然(しか)るに去る大正十三年の三月の末の事で御座います。忘れもしませぬ二十六日の午後一時頃の事でした。卒業されてから十八年の長い間、全く 消息を絶っておられた正木先生が、思いがけなく当大学、法医学部の私の居室(へや)をノックされましたのには、流石(さすが)の私もビックリ致しました 。まるで幽霊にでも出会ったような気持ちで、何はともあれ無事を祝し合った訳でしたが、それにしても、どうしてコンナに突然に帰って来られたのかとお尋 ねしますと、正木先生は昔にかわらぬ磊落(らいらく)な態度で、頭を掻き掻きこんなお話をされました。 「イヤ。その事だよ。実は面目ない話だがね。二三週間前(ぜん)に門司(もじ)駅の改札口で、今まで持っていた金側(きんがわ)時計を掏摸(すり)にし て遣(や)られてしまったのだ。モバド会社の特製で時価千円位のモノだったが惜しい事をしたよ。そこでヒョイッと思い出して、十八年前にお預けにしてお いた銀時計がもし在るならばと思って貰いに来た訳だがね。……ところでその序(ついで)に、何か一つ諸君をアッといわせるような手土産をと思ったが、格 別芳(かん)ばしいものも思い当らないので、そのまま門司の伊勢源(いせげん)旅館の二階に滞在して、詰らない論文みたようなものを全速力で書き上げて 来た。そこでまずこれを新総長にお眼にかけようと思って、斎藤先生に紹介してもらいに行ったら、それはこっちから紹介してもいいが、役目柄、学部長の若 林君の手を経て提出した方がよかろうと云われたから、こっちへ担ぎ込んで来た訳だ。面倒だろうがどうか一つ宜しく頼む」  というお話です。そこで……申すまでもなく保管してありました時計は、すぐに下附される事になりましたが、その時に正木博士が提出されました論文こそ 、ダーウィンの『種の起源』や、アインスタインの『相対性原理』と同様……否、それ以上に世界の学界を震駭(しんがい)させるであろうと斎藤先生が予言 されました『脳髄論』であったのです」 「……脳髄論……」 「さよう。脳髄論と名づくる三万字ばかりの論文でしたが、その内容は、最前お話いたしました『胎児の夢』とは正反対に、厳粛、荘重を極めたもので、意味 の取り違えを防ぐために、独逸(ドイツ)語と、羅甸(ラテン)語の二種類で書かれておりますが、これを文献も何も無い宿屋の二階で僅々(きんきん)二三 週間の間に書き上げられた正木先生の頭脳と、精力からして既に非凡以上と申さねばなりますまい。……しかも正木先生はこの論文によって、今日まで何人( なんぴと)も説明し得ず、立証も実験もし得なかった脳髄の不可思議な機能を鏡にかけて見るように明白にされたのです。そうして同時に今日まで、精神病学 界の疑問とされておった幾多の奇怪現象を、極めて簡明直截に説明してしまわれたのです。……ですから専門の関係上、この論文を一番最初に見られた斎藤先 生は、無論、非常に驚かれまして、それから約一年ばかりの間寝食を忘れてこの論文を研究されたのですが、やっと昨年……大正十四年の二月の末に、一(ひ )と通りの審査、考究を終られますと、その翌日の早朝に、現、松原総長を自宅に訪問されまして、 「……私は今日限り、九大精神病科の教授の椅子を引退しまして、後任に正木君を推薦致したいと思います。もし他の大学に同君を取られるようなことがあり ますと、この大学の恥辱になると思いますから……」  と暗涙を浮めて懇願されました。しかし正木先生はそれっきり宿所も告げずに、又も行衛(ゆくえ)を晦(くら)まして終(しま)われた折柄ですし、殊に 斎藤先生の御人格に今更に深く敬服しました現、松原総長は、急(せ)き込んでおられる斎藤先生を押しなだめて、留任を希望する一方に、この論文を学位論 文として、正木先生に学位を授くる事に内定した……という事が、やはり学界の美談として伝えられております。尤(もっと)もこの事は、誰かの口から洩れ たと見えまして、新聞に掲載されたそうですが……私はツイ、うっかりしてその記事を見ませんでしたけれども……」  若林博士はここまで物語って来ると、その時の思い出に打たれたらしく、いかにも感動したようにヒッソリと眼を閉じた。私も敬慕の念に満たされつつ斎藤 博士の肖像を仰いだが、そう思って見たせいか、神様のような気高い姿に見えたので、思わず軽いため息をさせられながらつぶやいた。 「それじゃこの斎藤先生は、正木先生に後を譲るために、お亡くなりになったようなものですね」  若林博士は、こういった私の質問が耳に這入ると一層深く感動したらしく、眼を閉じたままの眉の間の皺(しわ)が一層深くなった。そうして今にも咳が飛 出しそうな長い、太い溜息を吐(つ)いたが、やがて静かに眼を開くと、その青白い視線を、私の視線と意味あり気に合わせつつ、すこしばかり語気を強めた 。 「その通りです。あの斎藤先生は、正木先生が学位を受けられてから間もない、昨年……大正十四年の十月十九日に、突然に亡くなられたのです。しかも変死 をされたのです」 「……エ……変死……」  と私は空虚(うつろ)な声を出した。話の模様があんまり唐突(とっぴ)に変化したのに面喰いながら若林博士の蒼白い顔と、額縁の中の斎藤博士の微笑と を交(かわ)る交る見比べた。そんなにまで人格の高い立派な人が、何で変死なんかしたんだろうと疑いながら……。  しかし若林博士は、そうした私の疑いを押し付けるかのように静かに私の顔を見据えた。又もすこしばかり語気を強めた。 「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。斎藤先生は昨、大正十四年の十月十八日……すなわち変死される前の日の午後五時頃に、平生(いつも)の 通り仕事を片附けて、医局の連中に二三の用務を頼んで、この部屋を出られたのですが、それっきり筥崎(はこざき)、網屋町(あみやちょう)の自宅には帰 られませんでした。そうしてその翌(あく)る朝早く、筥崎水族館裏手の海岸に溺死体となって浮き上っておられたのです。発見者は水族館の掃除女でしたが 、急報によって警察当局や、私共が駈け付けまして調査致しました結果、多量に飲酒しておられた事が判明致しましたので、多分、自宅へお帰りになる途中で 、誰か極めて懇意な人に出会って、久方振りに脱線された結果、帰り道を間違えて、あすこの石垣の上から落ちられたものであろう……という事になっており ます。……もっともあの辺は、行って御覧になればわかりますが、街外れ特有の一面の塵芥捨場(ごみすてば)と、草原(くさはら)と、畠続きの大学裏で、 よほどの泥酔者でなければ迷い込む気づかいの無い処です。……ですから、むろん他殺の疑いも充分にかけて、所持品等も遺憾なく調査してみましたが、紛失 したものは一つも在りませんでした。……又、遺族の方々や、友人たちのお話を綜合してみますと、斎藤先生が外で酒杯(さかずき)を手にされるのは、学内 でも極めて懇意な、気心のわかった連中から誘われた場合に限っているので、そうした相手の顔は一人残らず判明している位である。それ以外にタッタ一人で お酒を飲まれるのは自宅の晩酌以外に絶対に無いと云ってもいい。……のみならず、そんな風に外で深酔いをされた場合には、いつでも誰か、お相手の中の一 人が、自宅まで送り付けて来るのが慣例のようになっているので、今度ばかりは全く不思議な例外としか考えられない……といったようなお話もありましたの で、その意味でも色々な場合を想像して、充分に研究を遂げてみましたが、何しろ先生が海に落ちておられた附近は千代町(ちよまち)方向から長く続いた防 波堤になっておりますので、どこからどんな風に歩いて来られて、どこで踏外(ふみはず)して海へ落ちられたものか、足跡一つ発見出来ませぬ。同伴者の在 る無しは勿論のこと、仮りに他殺としましても犯人の手がかりが全然掴めないのです……。  ……一方に、只今お話し致しましたような斎藤先生の御人格から考えましても、他人の怨(うら)みを受けられるような事は、まず無いとしか考えられませ ぬので、結局、やはり過失であろうという事になってしまいました。斎藤先生は滅多に酒を用いられぬ代りに、酔うと前後を忘れられるのが唯一つの欠点であ ったのですが、実に惜しい人を死なしたものです」 「……その一緒にお酒を飲んだ人は、まだ判明(わか)らないのですか」 「……左様……今だに判明致しませぬが、これは余程デリケートな良心を持った人でなければ、名乗って出られますまい」 「……でも……でも……名乗って出ないと一生涯、息苦しい思いをしなければならないでしょう」 「近頃の人達の常識から申しますと、そんなにまで良心的に物事を考える必要がないらしいのです。……たとい名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の 下から蘇生して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけの事に過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味 になる……といったような考え方をしているのじゃないでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」 「……でも卑怯じゃないですか。それは……」 「……申すまでもない事です」 「……第一、忘れられる事でしょうか……そんな事が……」 「……さあ……そのような問題は、故、正木先生の所謂(いわゆる)『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」 「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」 「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに呆気(あっけ)ないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、誠に大きな意味を含む事 になったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当、九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に座られる直接の因縁となり、更に、貴方と 、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここでは仮りに因縁と申しておきましょう。しかしこの因縁が、果 して人為のものか、それとも天意に出(い)でたものであるかは、やはり貴方が御自身の過去の御記憶を回復されました後(のち)でないと、確定的な推測が 出来ませぬので……」 「アッ……そ……そんな事まで、僕の記憶の中に……」 「そうです。貴方の過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な、大切な鍵までも含まれているのです」  私は次から次に落ちかかって来る疑問の氷塊(ひょうかい)に、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた 。けれどもそこからは、何等の記憶も湧き出して来なかった。ただ、それに連れて眼の前に惨酷(むご)たらしい『狂人焚殺(ふんさつ)』の絵額や、ニコニ コしている斎藤博士の肖像や、蒼白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大卓子(テーブル)や、その上に欠伸(あくび)をし続けている赤い達磨(だるま) の灰落しまでもが、一つ一つに私の過去と、深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに 取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。  私は一寸(ちょっと)の間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。 「ハア。ではその行衛不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」 「それは斯様(かよう)な仔細(わけ)です」  と云ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。 「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄然(ひょうぜん)と参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われ ますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後で捉(つか)まえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったので すが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が取次(とりつい)だのですから、誰一人として総長の斯様(かよう)な遣(や)り方を、異 様に思う者はありませんでした。却(かえ)って感激の拍手を以て迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、この間(かん)の消息が詳しく素 破抜(すっぱぬ)いてありますが、その時に正木先生は、見窶(みすぼ)らしい紋付(もんつき)、袴(はかま)の姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭 を抱えて、こんな不平を云われたものです。 「弱ったなあ。僕は飽(あ)く迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう 。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……」  と悄(しょ)げ返って云われましたが、これを聞いた松原総長が…… 「……今更、文句を云われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても 宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい」  と云われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。  ……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文(さいもん)の中で唄っておられた『狂人の解放 治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に喚起される事になったのです。同時にその実験を初められた事が機縁となりまして 正木先生御自身と、貴方と、あの六号室の令嬢との、最近の運命的な御関係を結ばれる事にもなりましたのです。これも矢張(やっぱ)り天意と申せば申され ましょうが、……しかしいずれに致しましても斯様(かよう)に偉大な正木先生を、当大学に迎えて、思う存分に仕事をさせられたのは、やはり故斎藤先生の 御遺徳に相違御座いません。正木先生もそのような意味からして、この肖像をここに掲げられたものに相違ないと考えられるのですが……」  私は又も深く歎息して斎藤博士の肖像を仰がずにはいられなかった。これ程の人格者、斎藤博士と、これ程の偉人正木博士と、眼の前の若林博士と、あの六 号室の美少女と、そうして白痴同様の私とを一つに繋ぎ合わせているという因縁の糸の不可思議さを考えずにはおられなかった。  或る感銘深い静寂が、少時(しばらく)の間、部屋の中を流れた。けれども、それは間もなく、私が何の気もなく発した質問で破られた。 「……あッ……大正十五年の十月十九日……あの斎藤先生の写真の下に懸かっているカレンダーの日附は、斎藤先生が亡くなられてから、ちょうど丸一年目の 日附ですね」  私がこう云って振り返った……その瞬間に変化した若林博士の表情の恐ろしかった事……それは、ほんの一瞬間ではあったが……大きな、白い唇をピッタリ と閉じて、顋(あご)をグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイに剥(む)き出して私を睨(にら)み付けた。しかも、それが余りに突然であったために 、私も思わず若林博士と同じ表情になって、睨み合ったような気がしたのであったが、そのうちに若林博士は次第に落付いて来たらしく、今度は如何にも満足 に堪(た)えないという風に額(ひたい)を輝やかして、幾度も幾度もうなずいた。 「……よくあれにお気が付かれましたね。あなたの過去の御記憶は、いよいよ鋭く眼ざめて参ります。もはや皮一重というところまで御回復になっております ようで……。実は只今の御質問が出ると同時に、今度こそ貴方の過去の御記憶が、一時に目醒めて来はしまいか……そうしたらドンナ風に御介抱申上げようか と、ちょっと心配致しました次第で……。何をお隠し申しましょう。あのカレンダーは、今から約一箇月前の日附を示しているので御座います。今日は大正十 五年の十一月二十日ですから……」 「それが……どうして、そのまんまになっているのですか」  若林博士はこの時に、又も荘重にうなずいた。最前、六号室の少女の前で示した、神に祈るような態度で、屈(かが)んだ胸をグッと伸ばしつつ、両手をシ ッカリと握り合わした。 「その御不審が又、あなたの過去に関する大きな謎を解く鍵の一つとなっているので御座います。つまり正木先生は、あのカレンダーをあそこまで破って来ら れますと、あとを破ることを止められたのです」 「……そ……それは又なぜ……」 「正木先生は、あの翌日亡くなられたのです……しかも、ちょうど一年前に、斎藤先生が溺死を遂げられた、筥崎水族館裏の同じ処で、投身自殺をされたので す」  ……青天の霹靂(へきれき)……とでも形容しようか。何とも云いようのない奇妙な驚きに打たれた私は、この時、何かしら一種の叫び声をあげたように思 う。そうして、やっと気を落付けた時には、譫言(うわごと)のように口を動かしていたように思う。 「……正木先生が……自殺……」  その声が自分の耳に這入ると私は又、自分の耳を疑った。正木先生のような偉大な、達人ともいうべき人が自殺する……そんな事が果して在り得ようか。  そればかりでない。この精神病科教室の主任教授となった人が二人とも、ちょうど一年おきに、しかも場所まで同じ海岸の潮水に陥って変死する……そんな 恐ろしい暗合が、果して在り得るものであろうか……と驚き迷い、呆れつつ若林博士の蒼白い顔を凝視した。  そうすると若林博士も今までになく、儼然(げんぜん)と姿勢を正して私を凝視し返した。又も、神様に祈るような敬虔な声を出した。 「……繰り返して申します。……正木先生は自殺されたのです。只今お話し致しましたような順序で二十年の長い間、準備に準備を重ねて、前代未聞の解放治 療の大実験を向うにまわして悪戦苦闘して来られた正木先生は、遂(つい)に、その刀を打ち折り、その箭種(やだね)を射尽(いつ)くされたとでも申しま しょうか……どうしても自殺されなければならぬ破目(はめ)に陥って来られたのです。……と申しましただけでは、まだおわかりになりますまいから、今す こし具体的に申しますと、正木先生の独創に係(かかわ)る曠古(こうこ)の精神科学の実験は、貴方とあの六号室の令嬢が、めいめいに御自分の過去の記憶 を回復されまして、この病院を御退院になって、楽しい結婚生活に入られる事になって完成される手筈になっていたので御座いますが、それが或る思いもかけ ぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、果して正木先生の過失に属するものであったか、どう かというような事は誰一人、知っている者は居なかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一週忌、正命日に 当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでも御座いましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を 去られたのです。その実験の中心材料となられた貴方と、あの六号室の令嬢と、それ等に関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」 「……そ……それでは……」  と云いさして私は口籠(くちご)もった。形容の出来ない昂奮に全身が青褪(あおざ)めたように感じつつ辛(かろ)うじて唇を動かした。 「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪ったのでは……」 「……イヤ。違います。その正反対です」  と若林博士は儼乎(げんこ)たる口調で云い切った。依然として私を凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。 「その反対です。正木先生は、当然あなたから御自分の運命を咀(のろ)われるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで 申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された曠古(こうこ )の大学理の実験と、貴方の御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計劃を立てて、その研究を進めて来られたのです」  それは私にとって一層の恐怖と、戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。 「……それは……ドンナ手順……」 「それはここに在ります書類を御覧になれば、お解かりになります」  と云ううちに若林博士は、今まで話片手(はなしかたて)に眼を通していた書類の綴込みをパタンと閉じて、恭(うやうや)しく私の前に押し進めた。  私も、それが何かしら重要な書類の集積に違いない事を察していたので、同じように鄭重(ていちょう)な態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラ と繰って内容を検(あらた)めてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判罫紙(けいし)や、新聞の切抜を貼り付け た羅紗紙(らしゃがみ)の綴じたものと一緒に、カンバス張りのボール紙に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、私は モウ一度パタリと表紙を閉じて、卓子(テーブル)の上に置き直した。  その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリと私の瞳の上に据えた。 「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類で御座います。すなわち、只今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究の中(うち )でも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前か ら手許に引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に、自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容を覗(うかが)うのに 必要な文献としましては、僅(わずか)にソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせ て行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が 、その研究を進めて行かれた順序通りに、容易(たやす)く、面白く理解されて行く仕掛になっているようで御座います。  ……すなわち、その一番初めに綴込んであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到る処の大道で、人を集めて配布 された『キチガイ地獄外道祭文(げどうさいもん)』と題しまする阿呆陀羅経(あほだらきょう)の歌で、現代に於ける精神病者虐待の実情を見て、これを救 済すべく、精神病の研究を初められた、そのそもそもの動機が歌ってあるので御座います。  ……それから次に羅紗紙(らしゃがみ)の台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜記 事で御座いますが、その中(うち)でも最初に『地球表面上は狂人の一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人救済の動機 から、精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、辛辣(しんらつ)な諧謔(かいぎゃく)交(まじ)りに、新聞記者へ説明されましたもので『こ の地球表面上に棲息している人間の一人として精神異状者でないものはない』という精神病理学の根本原理が、極めて痛快、卒直に論証してあります。……又 ……その次に『脳髄は物を考える処に非(あら)ず』云々と題してありますのは、そうした原理に立脚された正木先生が、今日まで研究不可能と目されていた 『脳髄』の真実の機能をドン底まで明らかにされると同時に、従来の科学が絶対に解決出来なかった精神病その他に関する心霊界の奇怪現象を一つ残らず、や すやすと解決して行かれた大論文『脳髄論』の内容を、面白おかしく新聞記者に説明されたもので御座います。  ……それからその下の方の日本罫紙の綴じたのに、毛筆で書いてありますのは、その『脳髄論』の逆定理とも見るべき『胎児の夢』の論文で御座います。つ まり自分を生んだ両親の心理生活を初めとして、先祖代々の様々の習慣とか、心理の集積とかいうものが、どうして胎児自身に伝わって来たかという『心理遺 伝』の内容が明示してありますので、当大学第一回の卒業論文の銓衡(せんこう)に一大センセーションを捲き起したのは実に、この一篇に外ならないので御 座います。……同時に正木先生が、あれ程の偉材を抱きながら、遂に自決さるるの止むなきに立到りました遠い原因も亦(また)、実にこの一篇の中に胚胎し ていると申しましょうか……その次に在ります西洋大判罫紙(フールスカップ)の走り書きは、その正木先生がそれ等の研究に、最後の結論を附けるべく書き 残されました『解放治療の実験の結果報告』とも見るべき正木先生の遺言書です……ですから貴方は、それ等の書類を、その順序に御覧になりさえすれば、正 木先生が精神科学の大道を開拓すべく、生涯を賭(と)して研究して行かれた痛快な事蹟が、たやすく、順序正しくおわかりになるで御座いましょう。同時に 、あなた御自身の御経歴を、裏面から支配して、今日の御運命に立ち到らせた、曠古(こうこ)の大学理の流動、旋転が、一々大光明を発して、万華鏡(まん げきょう)の如く華やかに、グルリグルリと廻転しつつ、あなたの眼の前に……」  私は若林博士の説明を、ここいらまでしか記憶していない。そんな説明を聞きながらも、何気なく一番初めの赤い表紙の小冊子を開いて、第一頁(ページ) の標題から眼を通して行くうちに、いつの間にか本文に釣り込まれて、無我夢中に読み続けていたので……    キチガイ地獄外道祭文 ――一名、狂人の暗黒時代―― 墺国理学博士          独国哲学博士 面黒楼万児(めんくろうまんじ) 作歌 仏国文学博士           ▼ああア――アア――あああ。右や左の御方様(おんかたさま)へ。旦那御新造(ごしんぞ)、紳士や淑女、お年寄がた、お若いお方。お立ち会い衆の皆さ ん諸君。トントその後は御無沙汰ばっかり。なぞと云うたらビックリなさる。なさる筈だよ三千世界が。出来ぬ前から御無沙汰続きじゃ。きょうが初めてこの 道傍(みちばた)に。まかり出(い)でたるキチガイ坊主……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ…… ……サアサ寄った寄った。寄ってみてくんなれ。聞いてもくんなれ。話の種だよ。お金は要らない。ホンマの無代償(ただ)だよ。こちらへ寄ったり。押して はいけない。チャカポコチャカポコ…… ……サッサ来た来た。来て見てビックリ……スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ……  ▼ア――あ――。まかり出でたるキチガイ坊主じゃ。背丈(せい)が五尺と一寸そこらで。年の頃なら三十五六の。それが頭がクルクル坊主じゃ。眼玉落ち 込み歯は総入歯で。痩(や)せた肋骨(あばら)が洗濯板なる。着ている布子(ぬのこ)が畑の案山子(かかし)よ。足に引きずる草履(ぞうり)と見たれば 。泥で固めたカチカチ山だよ。まるで狸の泥舟(どろぶね)まがいじゃ。乞食まがいのケッタイ坊主が。流れ渡って来た国々の。風に晒(さら)され天日(て んぴ)に焼かれて。きょうもおんなじ青天井(あおてんじょう)だよ。道のほとりに鞄(かばん)を拡げて。スカラカ、チャカポコ外聞晒す。曰(いわ)く因 縁、故事、来歴をば。たたく木魚に尋ねてみたら……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……  ▼ア――あ。曰く因縁、木魚に聞いたら。親子兄弟、親類眷族(けんぞく)、嬶(かかあ)も妾(めかけ)ももちろん持たない。タッタ一人のスカラカチャ ンだよ。氏(うじ)も素性(すじょう)もスカラカ、チャカポコ。鞄一つが身上(しんじょう)一つじゃ。親は木の股キラクな風の。吹くに任かせた暢気(の んき)な身の上。流れ渡った世界の旅行(たび)じゃ。北京(ペキン)、ハルピン、ペテルスブルグじゃ。赤いモスコー、四角い伯林(ベルリン)、酔うがミ ュンヘン、歌うが維納(ウインナ)、躍る巴里(パリー)や居眠る倫敦(ロンドン)、海を渡れば自由の亜米利加(アメリカ)。女の市場がアノ紐育(ニュー ヨーク)じゃ。桑港(シスコ)の賭博(ばくち)よ。市俄古(シカゴ)の酒よと。千鳥足まで米利堅(メリケン)気取りの。阿呆つくした十年がかりじゃ。見 たり聞いたりして来た中でも。タッタ一つの土産(みやげ)というのが。ナント恐ろし地獄の話じゃ……スカラカ、ポクポク。チャチャラカ、ポクポク……  ▼あ――ア。さても恐ろし地獄の話じゃ。しかも私の凹(へこ)んだこの眼で、チャンと見て来た事実の話じゃ。今日が封切、お金は要らない。要らぬばか りかその聞き賃には、こんな書物(かきもの)を一冊上げます。私が只今唄うております。歌の文句の活版刷りです。あとで何やらマヤカシ物をば。無理に買 わせる手段(てだて)じゃないかと。疑うお方があるかも知れぬが。ソンナ心配一切御無用。これは私の道楽仕事じゃ。人類文化の宣伝事業じゃ。何も参考、 話の種だよ。サアサ寄ったり、聞いたり見たり……外道――祭(さ)ア――エ――文(もん)。キチガ――ア――イ――地(じ)イ獄(ごく)ウ――……スカ ラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……        一  ▼あ――ア。外道祭文キチガイ地獄。さても地獄をどこぞと問えば。娑婆(しゃば)というのがここいらあたりじゃ。ここで作った吾が身の因果が。やがて 迎えに来るクル、クルリと。眼玉まわして乗る火の車じゃ。めぐり廻(めぐ)って落ち行く先だよ。修羅や畜生、餓鬼道越えて。ドンと落ちたが地獄の姿じゃ 。針の山から血の池地獄。大寒地獄に焦熱地獄。剣樹(けんじゅ)地獄や石斫(いしきり)地獄。火煩(かぼん)、熱湯、倒懸(さかづり)地獄と。数をつく した八万地獄じゃ。娑婆で作った因果の報(むく)いで。切られ、砕かれ、焙(あぶ)られ、煮られ。阿鼻(あび)や叫喚七転八倒。死ぬに死なれぬ無限の責 め苦じゃ。もしもその声、聞いたら最後じゃ。頭張り裂けクタバルなんぞと。高い処(とこ)から和尚(おしょう)の談義じゃ。……スカラカ、チャカポコチ ャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。高い処(とこ)から和尚のお談義。なれどコイツは当てにはならない。死なにゃ行かれぬ地獄の噂じゃ。生きた坊主の賽銭(さいせん)集めじ ゃ。釈迦(しゃか)も知らない嘘八百だよ。わしが見て来た地獄というのは。ソンナ地獄と品事(しなこと)かわって。鉦(かね)を叩かず、念仏唱えず。十 万億土の汽車賃使わず。そんじょそこらに幾らもあります。生きたながらのこの世の地獄じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。生きたながらのこの世の地獄じゃ。それも貧乏暇なし地獄や。浮いた浮いたの川竹(かわたけ)地獄。義理と人情(にんじょ)のカスガイ地獄 。又は犯した悪事のむくいで。御用、捕(と)ったぞ、キリキリ歩めと。タタキ込まれる有期や、無期の。地獄なんぞと大きな違いじゃ。そんな道理がミジン も通らぬ。息も吐(つ)かれず、日の目も見えぬ。広さ、深さもわからぬ地獄じゃ。そこの閻魔(えんま)は医学の博士で。学士連中が牛頭馬頭(ごずめず) どころじゃ。但し地獄で名物道具の。昔の罪科(つみとが)、見分けて嗅(か)ぎ出す。見る眼、嗅ぐ鼻、閻魔の帳面。人の心を裏から裏まで。透かし見通す 清浄玻璃(せいじょうはり)の。鏡なんぞは影さえ見えない。罪があろうが、又、無かろうが。本気、狂気の見分けも附けずに。滅多矢鱈(めったやたら)に 追い込み蹴込むと。聞いただけでも身の毛が逆立(よだ)つ。地獄というのがそこらに在ります。見かけは立派な精神病院。嘘というなら這入って見なされ。 責め苦の数々お望み次第じゃ。ナント恐ろしキチガイ地獄……チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。ナント恐ろしキチガイ地獄じゃ。サテモ恐ろし精神病院。なぞと云うても皆様方には。まだまだ合点(がてん)が行きかねましょうが。物は順 序じゃお聞きなされよ。聞いているうち如何(いか)にも、もっとも、そんな事とは知らずにいたわい。成る程そうかと合点が行きます。合点が行ったら八万 四千の。身内の毛穴がゾクゾク粟立(あわだ)つ。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ。さても斯様(かよう)な地獄の起りが。曰(いわ)く因縁イロハのイの字の。そもや初めと尋ねるならば。 文明開化のお蔭(かげ)と御座る。そこで世界の文明開化の。日進月歩の由来と申せば。科学知識の尊(たっ)とい賜物(たまもの)。中に尊といお医者の仕 事じゃ。人の病気を治癒(なお)すが役目じゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。人の病気を治癒(なお)すが役目じゃ。そこでお医者の仕事の中でも。人の身体(からだ)の狂いをなおす。外科や内科の治療の仕方と。人の 心の狂いをなおす。精神病院の手当ての仕方と。違うところを比べてみます。アッとビックリ、シャクリが止まるよ。トテも驚く進歩の違いじゃ……チャカポ コチャカポコ……  ▼あ――ア。トテモ驚く進歩の違いじゃ。違う筈だよ相手が違う。人の身体(からだ)は形が見えます。手足胴体触ればわかるよ。五臓六腑も解剖(ひら) けば見えます。打診、聴診、X(エッキス)光線。ピルケ反応、血液検査と。数をつくした診察道具じゃ。たとい何やら解らぬ病気や。薬ちがいや診察ちがい や。又は手当ての違いで死んでも。あとで屍体(したい)を解剖したなら。どこが悪いと、すぐ様(さま)わかるよ。そこで診察治療の仕方が。日進月歩で開 けて行きます。これに引き換え神様とても。人の心は診察出来ない……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。人の心は診察出来ない。たとい如何なる名医じゃとても。人の精神、心の狂いの。どこの脈見て、どの舌出させて。どこの苦労に注射をするや ら。どこの心配切解(せっかい)するやら。癇(かん)の虫見る眼鏡も無ければ。あなた恋しで上った熱度が。寒暖計にも上った事かや。贋(にせ)のキチガ イ真実(ほんと)のキチガイ。レントゲンでも透かして見えない。声も聞えず姿も見えない。屁(へ)より不思議な心の正体。これがどうして診察されよか。 馬鹿に附けよう薬は無いと。昔の譬(たと)えは今でも真実(ほんま)じゃ。つまるところが精神病は。診察治療が絶対不可能。科学知識で研究出来ない。わ けのわからぬ物じゃとわかる……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。わけのわからぬ物じゃと解かると。ここでも一つ理屈のわからぬ。奇妙不思議な事実に気が付く。そもやソモソモ一体全体。人の精神、心の狂 いは。診察、治療が出来ぬとなったら。現在世界のどこでもここでも。精神病院、神経治療じゃ。又は瘋癲(ふうてん)、脳病院じゃと。四角四面の看板ひろ げて。意匠凝(こ)らした玄関構えじゃ。高価(たか)い診察、治療の代(しろ)だよ。入院、看護の料金取り立て。肩で風切る精神病医は。どんな仕事をし ているものかや。あれは詐欺師(やまし)か掴ませものかと。どなたも御不審なさるであろうが。チョット待ったり話は順序じゃ。世にも馬鹿げた内幕話じゃ 。診察治療が出来ないお蔭で。お医者がステキに儲(もう)かる話じゃ。これがホンマの阿呆陀羅経(あほだらきょう)だよ……スカラカ、チャカポコチャカ ポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……        二 スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア――ああア。扨(さて)も昔のその又昔。むかし昔のその大昔。科学知識の進まぬ頃では。人の身体(からだ)の病気というても。人の心の病気 と同様。何が何やら解らぬために。診察治療が当てズッポーだよ。家相、方角、星占いだよ。何(な)んぞ彼(か)んぞの障(さわ)りというては。祈祷、禁 厭(まじない)、御神水(おみず)じゃ、お守札(ふだ)じゃ。御符(ごふう)なんぞを頂戴させて。どうぞ、こうぞで済まして来たが。それじゃ治療(なお )らぬ病気の数々。そこで薬が発見されます。服(の)めば病気がケロリとよくなる。それをたよりに調べた揚句(あげく)が。人の病気は身体の中の。ここ が斯様(かよう)に狂うが原因(もと)じゃと。わかった理屈が医学のはじまり。今では解剖、生理に病理。医化学、細菌、薬物そのほか。外科じゃ内科じゃ 、皮膚科じゃ、耳鼻科じゃ。眼科、整形、婦人や小児と。隅から隅まで手に品かえて。水も洩らさぬ器械やお薬。人の身体の狂いを治療(なお)す。科学知識 の大光明が。日々に明るく輝やき渡るよ……スカラカ、チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。日々に明るく輝やき渡るが。これに引き換え精神病だよ。人の心の狂いを治癒(なお)す。医者の診察、手当ての仕方は。ドンナ進歩をしたか と見ますと。ズント昔は精神病者を。神の心が移ったものと。畏(おそ)れ敬い礼拝したり。又は生き霊、死霊の所業(しわざ)と。物を供えて大切(だいじ )にかけたが。それはまだしも処によっては。こいつに悪魔が憑(つ)いたというので。その頃お医者と裁判官の。役目をしていた僧侶(ぼうず)や巫女(み こ)が。見付け次第の指さし次第に。槍(やり)や刀剣(かたな)や、投げ縄、弓矢。棍棒(こんぼう)担(かつ)いだ役人共が。片(かた)っ端(ぱし)か ら頭を砕いて。手足胴体チリチリバラバラ。焼いて棄てたり樹の根に埋めたり。ちょうどこの節お上(かみ)でなさる。狂犬退治とおんなじ仕置(しお)きじ ゃ。これが精神病者に対する。最初の診察最初の治療じゃ。キチガイ地獄のイロハのイの字じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。これがキチガイ地獄のはじまり。そこで斯様(かよう)に精神病の。原因(もと)が何やら解からぬとこから。出来た迷信邪法を使って。悪い 事する奴等が出て来た。しかも余っぽど怜悧(りこう)な奴等じゃ。物の怨(うら)みや嫉妬や毛嫌い。又は政敵、商売讐仇(がたき)と。道理外(はず)れ た憎しみ猜(そね)みで。彼奴(きゃつ)が邪魔じゃと思うた揚句が。何のおぼえもない人間をば。巫女や坊主や役人輩(ばら)に。賄賂(わいろ)使うて引 っ括(くく)らせます。有無(うむ)を言わさずキチガイ扱い。国の掟(おきて)の死刑にさせます。軽いところで牢屋の住居(すまい)じゃ……チャカポコ チャカポコ……  ▼あ――ア。軽いところで牢屋の住居じゃ。世界の歴史を調べてみますと。高い身分や爵位や名誉や。又は財産、領地の引継ぎ。女出入りや跡取り世取りの 。お家騒動、内輪(うちわ)の揉(も)めから。邪魔な相手を片付けたさに。こうした手段を使った実例(ためし)が。チラリチラリと残っております。なら ば今では、どうかと見ますと。おなじ事じゃと云いたいなれども。言えぬどころか、今少(もちっ)と非道(ひど)いよ……スカラカ、チャカポコ。スチャラ カ、チャカポコチャカポコチャカポコ……        三 ……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あアア――ああ……アアア。今は文明開化の御代(みよ)だよ。科学知識の万能時代じゃ。そうしたサナカに精神病だけ。昔のまんまの暗黒時代で。診察 治療が出来ないなんぞと。ウッカリ云うたら言い出し屁(へ)コキじゃ。そういう奴こそキチガイだろうと。仰言(おっしゃ)るお方が在るかも知れぬが。そ ういうお方が私は好きだよ。理智と常識、科学の知識を。いつも忘れぬ立派なお方じゃ。そんなお方にお頼みしまする。物は試しじゃお閑暇(ひま)の時分に 。ちょっとそこらの精神病院。又は学校、図書館あたりで。世界各地の博士や学士が。寄ってたかって研究し出した。キチガイ病気の書物を拡げて。ザット中 味を調べて御覧よ。サテモ並んだ病気の名前じゃ。丸い洋文字、四角い漢字と。押し合いヘシ合い何百何千。指を折るさえ難儀な位じゃ。さては今では精神病 者も。外科や内科の患者と同様。科学知識の光りに照され。底を見透す診察治療や。道理つくした介抱手当ての。数をつくしてもらっているかと。有難がるの は素人ばかりじゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。有難がるのは素人ばっかり。憎まれ口をばたたくじゃないが。お魂消(たまげ)なさるな西洋日本で。天の際涯(はて)から地のドン底まで。 調べ抜いたる科学者連中が。寄ってたかって研究しても。カンジンカナメの一番大切(だいじ)な。オノレが頭蓋(あたま)の空洞(うつろ)の中に。トグロ 巻いてる脳味噌ばかりは。ドンナ作用しているものやら。真実(ほんと)のところが全くわからぬ。それを嘘言(うそ)じゃと思うたお方は。古今東西あらゆ る学者が。人の脳髄調べた書物を。読んで御覧になったらわかるよ。これは物事聞いたり見たり。判断して行くところで御座るの。知識、経験、昔の記憶を。 保存しておく倉庫で御座るの。何が何して何じゃら彼(か)じゃら。浪花節(なにわぶし)なら前置きばっかり。エライ議論が出ておりますけれど。確かな事 実は一つもわからん……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。確かな事実は一つもわからぬ。わからぬ筈だよ不思議は御座らぬ。凡(およ)そ天下が広いというても。人の脳髄ホントに調べて。腹の立つほ ど簡単明瞭。奇妙キテレツ珍妙無類な。脳の作用を見貫(みぬ)いた者なら。問わず語りで烏滸(おこ)がましいが。ここに居ります私(わたくし)ばっかり 。……なぞと云うたら皆さん方は。そういうお前の脳味噌だけが。毎日天日(てんぴ)に焼かれたお蔭で。性(しょう)が変って来(きた)ものダンベイ。な ぞとお笑いなさるか知らぬが。真実(ほんと)にそうダンベイかも知れぬが。そこが私の道楽仕事じゃ。世界各地の博士や学者を。アッといわせる研究仕遂( しと)げて。二十億万人類社会の。アタマの入れ換えするのが楽しみ。いずれそのうちその論文なら。或る大学から発表されます。それを御覧になったらわか るよ。ほかのあらゆる世界の学者は。脳の研究しかたを知らない。見当違いの思惑ずくめで。多分だろうと思った位の。真実(まこと)めかした当筒砲(あて ずっぽう)だよ。一つの道理は説明出来ても。ほかの事実が解釈出来ない。あちらを立てればこちらが立たない。九尺二間に雨戸が二枚じゃ……スカラカ、チ ャカポコ。チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。九尺二間に雨戸が二枚じゃ。まして況(いわ)んや朝から晩まで。走馬燈籠(まわりどうろう)か百色眼鏡か。猫の眼玉じゃ、七面鳥じゃと。 泣いて笑いつクルクルチラチラ。千変万化の秘術をつくす。人の心のその正体が。どんな姿の形のものやら。それがどうして狂うたものやら。酒屋の半七さん ではないが。どこにどうして御座ろうものやら。ただの一つも解かっていませぬ。それが証拠は何より眼の前。今の精神病科の書物に。並び並んだ病気の名前 じゃ。そんな書物を作った学者が。何が何やらわからぬまんまに。ザッと患者の表面(うわつら)眺めて。身振り素振りを引当て目当てに。つけもつけたり素 人欺瞞(しろうとだま)しじゃ。色気狂(いろけぐる)いが色情狂だよ。人を殺せば殺人狂です。舞踏狂なら踊りを踊るの。放火狂なら放(つ)け火(び)を するのと。何の科学で調べた事かや。わかり切ったる名前の附け方。医者でなくとも誰でも附けます。怒(おこ)り上戸(じょうご)やアノ泣き上戸。笑い上 戸に後引き上戸。梯子(はしご)上戸と世間の人が。酔うた姿を見かけの通りに。名前つけるとおんなじ流儀じゃ。これで診察出来るが奇妙じゃ……チャカラ カ、チャカポコチャカポコチャカポコ。  ▼あ――ア。これで診察出来るが奇妙じゃ。サテモ精神病者を受け持つ。博士、学士の医者様たちは。人の心の狂うた処や。又は狂わぬ確かな証拠を。どこ で調べて見分けて行くかと。不思議がるのは又素人だよ。そこは商売、心配無用じゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。そこは商売、心配御無用。すべて精神病者と名付けて。遠方はるばるお医者の玄関(げんか)へ。連れて来られた人間ならば。誰が見たとて正 気に見えない。かなり嵩(こう)じた連中ばかりじゃ。又は見かけが普通と変らぬ。落付き払った病人とても。家族連中や掛りのお医者が。チャントお上(か み)へ手続き済まして。精神病者に相違が御座らぬ。不法監禁お構いなしじゃと。法律ずくめの許可証揃えて。正々堂々連れて来るから。お医者側では手数が かからぬ。家族連中の話の模様や。又は患者の態度(ようす)を眺めて。書物拡げて照し合わせて。似合相当の名前を付けたら。それで診察おわりというので 。赤い煉瓦(れんが)へ打(ぶ)ち込むだけだよ。中には診察違いの者なぞ。ポツリポツリと居るかも知れぬが。これもやっぱり心配御無用。ほかの種類の病 気と違うて。こいつばかりは誤診がわからぬ。一度「キの字」ときまるが最後じゃ。二度と出られぬ煉瓦の地獄じゃ。「違う違う」と云い訳したとて。それが 、そのまま「キの字」の証拠と。今も昔も変らぬ運命(さだめ)じゃ。放火狂じゃと診察(みこみ)をつけて。八百屋お七を解剖したらば。何ぞ計(はか)ら ん色情狂だよ。窃盗狂者(どろぼうマニア)の標本(みほん)と思って。石川五右衛門入院させたら。誇大妄想狂者とわかった。なぞとお尻がハジケル心配。 決してないから気楽なものだよ。テンカラ診察出来ない患者じゃ。何が何やらわからぬ病気じゃ。サテモ気楽なキチガイ医者だよ……スカラカ、チャカポコ。 チャチャラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。扨(さて)も気楽な精神病(キチガイ)医者だよ。ならば治療の仕方はどうかと。心配するだけ野暮天(やぼてん)、素人。これも、やっぱり 診察同様。盲目(めくら)探りの真っ暗闇だよ。すぐに脳天砕かぬところが。開け行く世のお蔭か知らぬが。患者側から云わせて見たなら。どうか解からぬ証 拠は眼の前。どこでも構わぬソンジョのそこらの。精神病院覗(のぞ)いて御覧よ。鉄の格子の牢屋はもちろん。今の未決監(みけつ)や監獄なぞには。影も 見せない道具の数々。鉄の鎖に袖無し襯衣(シャツ)だよ。手枷(てかせ)、足枷。磔刑(はりつけ)寝台じゃ。小窓開いた石箱なんぞが。ズラリズラット並 んだ光景(ありさま)。どんな極重悪人とても。五体震わす拷問道具じゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。五体震わす拷問道具じゃ。それに引換え入院患者の。心の狂いをホントに治癒(なお)す。薬器械のたぐいというたら。只の一つも見当りませ ぬ。眠らぬ患者に麻酔(まやく)の注射じゃ。騒ぐ者には鎮静剤だよ。物を喰わねば栄養物の。注射、浣腸(かんちょう)ぐらいのものです。下手な内科や外 科にも劣る。あとは治癒(なお)ればお医者の手柄で。死ねば運じゃと済ましたもんだよ。アハハのエヘヘの平気の平左(へいざ)じゃ。サテモ恐ろしキチガ イ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ。なれどここらはまだ小手調べじゃ。キチガイ地獄の三途(さんず)の川だよ。聞いたばかりで身の毛がザワ付 く。八万地獄は愚かな事だよ。阿呆メチャクチャ出鱈目(でたらめ)放題。あらん限りの虐待つづける。この世からなる精神病者の。地獄ゥ――めぐりィ―― はァ――サテこれェ――かァ――ら――じゃァ――い……スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカ ポコチャカポコ……        四  ▼スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア。なんと皆さん魂消(たまげ)なさるなよ。これは日本の話じゃ御座らぬ。唐(から)や天竺(て んじく)あちらの話じゃ。世界各地の精神病医が。こんな無慈悲な心で建てたる。外観(みかけ)立派な病院地獄は。こんな愚かな亡者の患者で。一つ残らず 満員している。それも道理かその第一には。そんな地獄の寝台(ねだい)の数をば。今の千倍、万倍したとて。人間世界のそこでもここでも。ヒョクリヒョク リとあらわれ飛び出す。精神病者の数には足りない。しかも一旦入院したなら。治癒(なお)る期間が長いはまだしも。一生出られぬ患者もあるので。否(い や)が応でも大入満員。そこでお医者が威張るわ威張るわ。どんな事でも患者に仕向けて。面倒臭いか納める金が。すこし渋るかするその時は。直ぐにドシド シ退院させます。自宅治療のお許し附きで。無事に出て来る患者もあれば。ほかの病気の診断書(おみたて)付きで。棺に這入って出るのも在るが。後の代り はアトカラアトカラ。押すな押すなの改札口だよ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。押すな押すなの改札口だよ。なれどソイツは話が怪訝(おか)しい。奇妙、不思議じゃ一体全体。そんな処へお金を出して。何がためなら入院 させるか。なぞと御不審なされるお方は。われと身内に精神病者が。出来た経験持たない方だよ。まずはゆっくりお聞きなされませ。モット驚く話がこれから 。チャカラカ、チャカポコ飛び出しまする。私ゃ知らんが木魚が知っとる。……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。わたしゃ知らんが木魚が知っとる。もっと驚く事実があります。しかもどこでも共通平等。精神病院関係者ならば。云わず語りで誰でも知っと る。極秘親展正直正銘。ここを限りの話というたら。ちょっと辻褄(つじつま)合わぬか知らぬが。チャント合うのが木魚の話じゃ。すべてキチガイ患者を連 れて。赤い煉瓦のお玄関先(げんかさき)へ。お辞儀しに来る連中の中でも。親や兄弟、妻子(つまこ)やなんぞは。どうか治癒(なお)して下さりませと。 涙流して溜息ついて。頼み入るのが少くないが。そんな骨肉(みうち)の連中の中でも。ホンニ心(しん)から真情(まごころ)籠(こ)めて。治療(なお) すつもりで介抱するのは。実のところが母親ばっかり。それも真実わが腹痛めた。息子か娘が患者の場合じゃ。ほかの骨肉(みうち)の連中と来たなら。同じ 血分けた父(おや)兄弟でも。実に冷淡無情なものだよ。殊(こと)にお若い妻君なんぞは。申訳(もうしわけ)だけ二三日位は。側で溜息吐(つ)くかと思 えば。里の方から迎えに来るのを。待っていたようにハイチャイ極(き)め込む。それもまだまだ最極上だよ。医者に患者を渡すと間もなく。部屋がどこやら 決定(きま)りもせぬうち。電話かけにか便所に行くのか。帯の間の鏡を覗いて。鼻のアタマをパタパタやるうち。スラリと姿を消したが別れじゃ。二度と姿 を見せないものだよ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。二度と姿を見せぬが普通じゃ。ドウセ治癒(なお)らぬ病気と決定(きま)れば。医師に見せるは体裁だけだよ。棄てに来るのが本当の腹だよ 。生きて生き甲斐ないこの病気。どうぞよろしく頼みますると。頼む挨拶ウラから聞くと。もしも治癒(なお)れば迷惑千万。なろう事なら殺して欲しいと。 云わぬ心がハッキリ見え透く。ここが患者の生死の境いで。医者が大いに儲かるところじゃ。……オットそんなに眼の色かえて。そんな事が……とお白眼(に ら)みなさるな。現にこの眼で見て来た事です。但し日本の事では御座らぬ。唐(から)や天竺(てんじく)、西洋(あちら)の事だよ。耳も無ければ眼玉も 持たない。物も云わない木魚の話じゃ。……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。物を云わない木魚の話じゃ。唐や天竺あちらの話じゃ。男、女の区別を問わない。一度発狂した人間なら。ドンナ平気な顔しておっても。思い がけなく乱暴したり。人を斬ったり放火(つけび)をしたり。嫌な気持やオカシナ所業(しわざ)を。あたり八方ひろげてサラゲル。人の姿の犬畜生だよ。人 間扱いするには及ばぬ。ドンナ手酷(てひど)い仕置きをするとも。石や瓦(かわら)の投げ撃ちしても。罪にゃならない相手も記憶(おぼ)えぬ。たとい立 派に治癒(なお)ったようでも。いつが何時(なんどき)、再発するやら。油断がならぬと今の世までも。昔ながらにいうその上に。あれは血統(ちすじ)じ ゃ扨(さて)おそろしやの。何の祟(たた)りじゃ応酬(むくい)じゃなんどと。眼指(めざ)し指さしするのが世間じゃ。そんなサナカに自分の身内に。思 いがけない精神病者が。ヒョイと出て来るサア一大事じゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。ヒョイと出て来るサア大変だよ。それも上流、金持ち社会で。ものに不自由せぬ家(うち)だったら。座敷牢でも作れば片付く。治癒(なお) る当てどもない病院へ。入れる必要あるまいなんぞと。アッサリ云うのは上流社会の。つらいところを知らない人だよ。すこし世間に知られた一家で。一度キ の字を出したら最後じゃ。万劫(まんごう)末代血統(ちすじ)に障(さわ)る。早い話が忰(せがれ)や娘の。縁があぶなくなるその上に。近所隣りの目下 の連中に。あれは非道(ひどう)なお金の祟りよ。無理な出世の報(むく)いよなんどと。白い眼をされ舌さし出され。うしろ指をば指(さ)さるる辛(つ) らさ。御門構えの估券(こけん)にかかわる。そこで情実、権柄(けんぺい)ずくだの。縁故辿(たど)った手数をつくして。赤い煉瓦へコッソリ入れます。 もしも満員している時は。もっと届いた手数をつくして。無理な都合を院長に頼む。とかくこの世はお金の沙汰だよ。況(ま)してキチガイ地獄の沙汰だよ。 閻魔面(えんまづら)した院長さんでも。すぐに地蔵の笑顔に変って。慈悲の御手(おんて)で迎える代りに。ほかの患者を極楽まわしじゃ。金があってもま ずこの通りじゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。金があってもまずこの通りじゃ。身分家柄、名誉や地位なぞ。あれば在るほど精神病者の。自宅治療はいよいよ困難。赤い煉瓦へ人目を忍んで 。封じておかねば安心出来ない。ところが中流社会となったら。きまり切ったる月給年俸。細い収入生命(いのち)の綱ぞと。頼む主人や家族の中で。だれか 一人が発狂しますと。借家だったら追い立て喰います。座敷牢なぞ思いも寄らない。すこし患者に手数がかかると。貯金、恩給、忽ち煙じゃ。しかもその上介 抱人が。主人だったら出勤(でかた)が叶(かな)わず。奥さんだったら仕事が出来ない。又は子供が学校に行けば。あれは「キの字」の卵よなんどと。寄っ て集(たか)って嘲弄されます。云うに云われぬ切なさ辛(つ)らさが。たった一度に皆落ちかかるよ。残る一つの頼みの綱なら。赤い煉瓦の院長様よと。出 来ぬ算段して来て見れば。どこへ行っても満員ばかりじゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。どこへ行っても満員ばっかり。しかもコイツが一段落ちて。その日暮しのシガナイ稼ぎじゃ。嬶(かかあ)は内職、娘は工場(こうば)。なぞ というような一家となったら。酷(むご)さ悲惨(みじめ)さ話にならない。介抱どころか、お薬どころか。すぐにそのまま一家が揃うて。顎(あご)を天井 に吊るさにゃならぬ。いっそ狂うて死んでもくれたら。まだも増しよと怨(うら)んでみても。当の本人キチガイ殿は。死ぬるどころか大飯喰ろうて。治癒( なお)る当(あ)て途(ど)もない顔つきだよ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。治癒(なお)る当てどもない顔付きだよ。こんな調子で人間世界に。麦の黒穂か菜種の馬か。花や野菜の狂いと同様。わけもわからず理屈も立 てずに。ヒョクリヒョクリと現われ飛び出す。数え切れない精神病者を。無料(ただ)で引受け入院させるは。広い世間に大学ばっかり。それも寝台が何百あ ろうか。しかも慈善でするのじゃ御座らぬ。学生教授の研究材料。生きた標本講義の参考に。都合よいのを選(よ)り取り見取りで。アトは要らぬと玄関払い じゃ。ならば私立はどうかと見ますと。これは何しろ商売本位じゃ。みんな金ずく権柄(けんぺい)ずくめの。オエライ患者で超満員だよ……チャカラカ、チ ャカポコ……  ▼あ――ア。エライ患者の大入満員。さても斯様(かよう)に持て余されたる。数も知れない狂人たちは。どこでどうして片付けられるか。さても不思議と 審(しら)べてみたれば。サアサこれから又聞き事だよ。耳も聞こえず眼玉も見えない。口も動かぬ片輪(かたわ)の木魚が。見たり聞いたりして来た話が。 腹は空(から)ッポ公平無私だよ。タタキ出します阿呆陀羅経(あほだらきょう)だよ。地獄めぐりのチョンガレ文句が。ドンと一段、深みへ落ちます。…… サアサ寄った寄った話の種だよ。お金は要らない。聞いたらビックリ……スカラカ、チャカポコチャカポコ。チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ チャカポコチャカポコ……        五  ▼スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア――あア――ア。エ――エ。さても皆さん斯様(かよう)な次第で。一人のキチガイ患 者が出ますと。ほかの病気と品事(しなこと)かわって。あとに残った正気の家族が。あるにあられぬ責め苦を受けます。トテモこうして自宅(うち)へは置 けない。どうかせねばと思案をしても。どうも仕様が見当りませぬ。とかくするうち無理算段した。金は無くなる、仕事は出来ない。やがて一家が干乾(ひぼ )しは眼の前。さても切なや、悲しや、辛(つ)らや……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。さても切なや、悲しや、辛らや、それも吾身は露いとわねど、お年寄られた親様はじめ。可愛い吾児(わがこ)の行末までも。生きて甲斐ない 一人のために。棄てて介抱するのが道理か。人に迷惑かけないうちに。患者もろとも首でも縊(くく)って。一家揃うて死ぬのが道かや。何の因果で斯様(か よう)な憂(う)き目と泣いて怨めど肝腎カナメの。当の患者はアラレヌ眼付きで。キョロリキョロリとしているばっかり……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。キョロリキョロリとしているばかりじゃ。もとの姿は残っていても。元の心は藻抜(もぬ)けの殻だよ。人の形をしているだけに。犬や猫より 始末が悪いよ。情ないとも何とも彼(か)とも。なろう事なら代ろうものをと。歎き悶(もだ)えた揚句(あげく)の果てが。切羽(せっぱ)、詰まった大罪 犯す……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……。  ▼あ――ア。切羽詰まった大罪犯す。どこか遠国(とおく)へ移転(ひっこ)すふりや。知らぬ処の病院さして。入れに行く振り人には見せて。又と帰らぬ 野山の涯へ。泣きの涙で患者を棄てます。なれどコイツは捨児(すてご)と違うて。拾い育てる仏は居ませぬ。居らぬどころか行く先々では。打たれたたかれ 追いこくられます。飢えて凍(こご)えてたおれた処の。木の根、草の根、肥やすか知れない。それを承知で見棄てる鬼をば。キョロリキョロリと探して見ま わす。憐れな患者の名残りの姿を。はるか離れた物蔭、木蔭で。両手合わせる千万無量……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。両手合わせる千万無量じゃ。古い伝えは延喜(えんぎ)の昔に。あのや蝉丸(せみまる)、逆髪(さかがみ)様が。何の因果か二人も揃うて。 盲人(めくら)と狂女のあられぬ姿じゃ。父の御門(みかど)に棄てられ給い。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に逢坂(おうさか)山の。お物語りは勿 体(もったい)ないが。斯様(かよう)な浮世のせつない慣(なら)わし。切羽詰まった秘密の処分(さばき)は。古今東西いずくを問わない。金の有る無し 身分の上下。是非と道理を問わないものだよ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。是非と道理がいえないものだよ。そんな事情で野山の涯に。迷う憐れな患者の中でも。すこし正気の残った者なら。他所の掃溜(はきだめ)あ さってみたり。物を貰うて又生き延びるよ。そのうち正気に帰るにしても。そこでこの世の悲しさ辛らさが。遣瀬(やるせ)ないほど身に沁(し)み渡る。又 は吾身の姿に恥じて。残る家族のためぞと思い。人を諦らめ世を諦らめて。流す涙が乞食の姿じゃ。三日続けば止められないと。聞いた気楽な世界に落ち込む 。それがそこらの名物乞食じゃ。又は野臥(のぶせ)り山窩(さんか)にまじって。寺の門前。鎮守の森蔭。橋の袂(たもと)の蒲鉾小舎(かまぼこごや)で 。虱(しらみ)取り取り暮しているのを。一人二人と集めてみたなら。迚(とて)も大した人数(にんず)になります。しかも左様なミジメな姿は。みんなこ うした地獄のあわれを。知らぬ顔する国家や社会が。いっそ死ねよといわないばかりの。冷めたい仕打ちに消え行く数の。千か万かの一人か二人じゃ……チャ カポコチャカポコ……  ▼あ――ア。千か万かの一人か二人じゃ。なんと皆さん如何(いかが)で御座る。これが普通の病気であったら。達者な者より大切(だいじ)にされて。医 者よ薬よ看護婦さんだよ。柔(やわ)い寝床じゃ、良い喰べ物じゃと。あるが上にもお見舞受けます。人間ばかりか犬畜生でも。小鳥、金魚も場合によっては 。後生大切(ごしょうだいじ)に介抱されます。それに引換え精神病者は。病気の正体わからぬお蔭で。赤い煉瓦か野山の涯か。いずれ免(のが)れぬ地獄の 責め苦じゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。いずれのがれぬ地獄の責め苦じゃ。なれど皆さんお聞きなされませ。私が今まで木魚をチャカポコ。たたき出したる地獄のお話。病院地獄と野 山の地獄は。正直正銘、金箔(きんぱく)付きの。精神病者が落ち行く地獄じゃ。尋常普通のキチガイ地獄じゃ。さてもこれから今一(ひ)と馬力(ばりき) と。親に不孝な馬鹿声張り上げ。弁じ上げます地獄の話は。それにも一つ ※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51) (しんにゅう)噛(か)ませた。スゴイ、ドエライ地獄の話じゃ。罪も報(むく)いも何にも知らない。正気狂わぬ普通の男女が。チャント物事弁(わきま) えながらに。不意に手足の自由を奪われ。声も出されぬ無理往生(おうじょう)だよ。無理や無体に引擦り込まれて。タタキ込まれるキチガイ地獄じゃ。しか もよくよく調べてみますと。唐(から)や天竺(てんじく)、西洋あたりに。ズラリ並んだ大建築だよ。チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。とても立派な大建築だよ。磨き立てたる金看板にも。新聞紙上の大広告にも、何々病院何々治療と。四角四面の能書(のうがき)ばっかり。別 に地獄と書いてはないが。警察新聞探偵社なぞが。チャント中味を知り抜き乍(なが)らに。知らぬ顔する不思議な商売。天下御免の扉の内側へ。ウカと片足 入れたが最後じゃ。泣けど叫べど狂えど藻掻(もが)けど。二度と出られぬ暗黒世界じゃ。そんな処が在るとも知らずに。二十世紀の文化の世界じゃ。科学知 識の万能時代じゃ。法律道徳礼儀の世界と。威張り腐って歩るけたものだよ。明日(あす)は自分が落ちるか知れない。キチガイ地獄のドン底地獄じゃ……ス カラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……        六  ▼チャカポコチャカポコ。チャカラカチャカポコ。あ――ア。よもや日本にゃ無いとは思うが。人を殺すにゃ短刀ピストル。麻酔薬(まやく)、毒薬、絹紐 (きぬひも)、ハンカチ。数を尽くした瓦落多(がらくた)道具が。あるが中にも文明国では。一と呼ばれるホントウ国だよ。そこの首都(みやこ)のタマゲ タ市(シチー)で。わしが見て来た新式手段が。意気で高尚(こうと)でハイカラ道具は。昼の日中に公々然と。巡査お医者を立会いさせて。血潮残さず指紋 も止めない。ドンナ検事や探偵連中が。不審抱いて調べて見たとて。指もさされぬステキナ手段じゃ。但しお金が少々かかるが。かかる代りに利益(もうけ) が大きい。とかくこの世はお金が讐敵(かたき)じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。とかくこの世はお金が讐敵じゃ。まずは財産相続事件じゃ。政治、外交、軍機の秘密と。何か素敵(すてき)な大金儲けで。彼奴(あいつ)が 邪魔じゃと思うた一念。狙(ねら)う相手が一人で歩るく。情婦(いろ)の棲家(すみか)か賭博(ばくち)の打場か。又は秘密の相談場所だの。ソッと入込 む息抜き場所に。近いあたりの道筋突き止め。かねて雇うた精神病医の。慾の深いを同伴させて。ソンジョそこらの巡査に頼む。実は私の親友ですが。すこし 精神異状を呈し。家に帰らず淋しい処を。ブラリブラリと歩くが病い。そこでお医者に見せたいなれど。俺は何ともないなぞいうて。得物(えもの)振り立て 暴れまするで。止むを得ませぬ非常の手段。いつもここらを通るとわかり。取って押えに張り込みまする。そこでお仲間両三人の。お手が拝借願えましょうか 。なぞと云ううちお金をいくらか。医師の口添え右から左と。思う通りに手順を運んで。ドンと落せばドンデン返し。狙う相手は千仞奈落(せんじんならく) 。生きて出られぬキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。出るに出られぬキチガイ地獄じゃ。これがお家の騒動なんかで。狙う相手がまだウラ若い。息子か娘と来ているならば。もっと気取った手段が あります。殊に近代思想にカブレた。頭の過敏の連中だったら。ズット手数が省ける訳だよ。すこし皮肉に取扱ったり。又は立場をコミ入らせると。すぐに神 経衰弱式だよ。頬が青褪め眼玉がキラキラ。挙動(そぶり)言語(ことば)が変って来まする。これをシコタマ掴んだお医者に。診(み)せてしまえばこっち のものだよ。静養させるは表面(うわべ)の口実。花の蕾(つぼみ)が開かぬまんまに。あわれ落ち行く無間(むげん)の地獄じゃ……チャカポコチャカポコ ……  ▼あ――ア。あわれ落ち行く無間の地獄じゃ。こんな患者を専門にして。やって行くのがホントウ国でも。音に名高いマッタク博士じゃ。それも初めは普通 のお医者で。やっていたのがこの種の患者は。貰う謝礼がステキに大きい。そこでだんだんそちらの専門。今じゃ大入(おおいり)大繁昌だよ。ナント吃驚( びっくり)タマゲタ市(シチー)に。善美つくした病院構えて。中に並ぶが現代文化の。粋(すい)を揃えた拷問道具に。息も洩らさぬ殺人設備じゃ。一眼見 たらば真夏の土用も。零下何度の大寒地獄じゃ。それに引換え表の通りは。光り輝やく玄関構えに。並ぶ自動車その数知れない。しかも富豪や名士の家庭の。 秘密握っているのが強味じゃ。強請(ゆすり)次第にお金が取れます。もしもその手が利かない時には。当の本人、秘密の正体。無理に作った正気の患者を。 誤診だったと発表するぞよ。すぐに全快退院させるぞ。又は患者の味方となって。そちらの秘密を世間へ発(あば)くぞ。なんぞかんぞと絞った揚句(あげく )に。ゆする相手が破産をしたり。こちらの不正が曝(ば)れると見込めば。当の秘密の入院患者に。注射一本、水薬ポッタリ。あとで解剖してみるとても。 そんな薬を使わにゃならぬ。ほどに暴れた患者かどうだか。今の医学の力じゃわからぬ。そこがマッタク博士の附け目じゃ。精神病医の手品の種(たね)だよ ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。精神病医の手品の種だよ。しかもまだまだ不思議の数々。流石(さすが)キチガイ地獄の本場じゃ。ホントウ国でもタマゲタ市(シチー)で。 マッタク博士が大胆不敵に。そんな商売しておりながら。同じ仲間の地道なお医者に。指を一本指されぬばかりか。文句云われず批難を受けない。政府、警察 、新聞記者まで。鳴りを静めて見ているばっかり……スチャラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。鳴りを静めて見ているばかりじゃ。つづく不思議がホントウ国の。機密費用の大弗箱(ドルばこ)だよ。そこを洩れ出す巨万のお金が。マッタ ク博士のポケットの中へ。ソロリソロリと音さえ立てない。それかばかりかマッタク博士の。広い肩幅大きな胸には。並ぶメタルや勲章の数々。それも国家に 偉大な功労。捧げた文官武官の連中が。滅多(めった)に貰えぬドエライ奴だよ。独逸(ドイツ)、仏蘭西(フランス)、英吉利(イギリス)、露西亜(ロシ ヤ)。日本なんぞは無かったようだが。それにつけてもマッタク博士が。そんな世界の強国相手に。ドンナ偉大な功労つくせば。コンナ勲章貰えたものかや。 これはドウジャと魂消(たまげ)るばっかり……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……        七  ▼スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ。あ――ア。さても皆さん退屈様とは。思いますれどここらで止めては。仏作って魂入れずじゃ。破れカブ レの封切序(ふうきりじゅん)に。並べ上げたる不思議の数々。眼にも止まらず耳にも聞こえぬ。科学文化の地獄の正体。底のドン底のドンドコドンまで。タ タキ破って曝(さ)らげて拡ろげて。これはホントにタマゲタ話じゃ。マッタク凄(すご)いよ成る程そうかと。お立会い衆(しゅ)が合点(がてん)の行く まで。ザット御機嫌伺いまする。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。世にも不思議な木魚の話じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。聾唖(おし)の木魚の阿呆陀羅経だよ。さても然(しか)るにスカラカ、チャカポコ。そもやホントウ民衆国 は。表向きでは世界の強国。世界一ならお国の自慢じゃ。自由正義の本場ときまった。民権本位の理想の国じゃと。呼ばれまするが日本と違うて。国の元首に 誰でもなれます。お金本位の勢力本位じゃ。忠義という字も言葉も無いから。一から十までお金が物言う。正義、法律、お金で買えます。良心、貞操、むろん の事だよ。自由民権手段を撰ばず。掴んで離さぬ熊鷹(くまたか)根性の。億万長者の一流どころが。国の利益は自分の利益と。盤石(ばんじゃく)動かぬ算 盤(そろばん)ずくめで。政治の実権握っているから。いくら政府が交代したとて。億万長者の威光は変らぬ。上は大臣、議員をはじめて。下は巡査や兵隊た ちまで。国の繁昌一手に握った。一流どころの億万長者の。お金儲けの番頭手先じゃ。法律正義の仮面を冠(かむ)って。弱い正しい人間たちの。自由、道徳 、義理人情をば。片(かた)っ端(ぱし)から踏み付けまわる。そこで斯様(かよう)な富豪たちの。非道な栄華を心(しん)から憎しむ。正義の味方の学者 や牧師が。言論自由の権利の下に。富豪いじめの演説はじめる。又は書物に書いたりしますと。エライエライと皆賞(ほ)め立てます。下層社会の人気が集ま る。資本家倒せの輿論(よろん)が高まる……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。富豪倒せの輿論が高まる。そこで富豪が厄鬼(やっき)となります。そんな主張や輿論を掲げた。雑誌新聞デスクに投げ出し。これをどうして くれるかなんどと。葉巻片手に政府を責めます。そこで政府は大いに困る。困る筈だよ政府の連中は。そんな富豪の番頭さんなら。御機嫌取らなきゃ立場があ ぶない。次の選挙の費用が貰えぬ。なれど個人の自由は自由じゃ。国の掟にちっとも触れない。筋道通った立派な人物。正義の味方の学者や牧師を。まさか追 立て喰わせもならず。況(ま)して牢屋へ入れたりしたらば。エライ輿論の反対受けます。そこで思案に詰まった揚句が。裏の裏行くキチガイ地獄じゃ。そん な学者や牧師の中でも。首領株だけ眼星をつけて。お手の物なら刑事を使って。狙うているとは夢露(ゆめつゆ)知らずに。タッタ一人で淋しい処を。歩く後 から足音忍ばせ。アットいう間に引ずり倒して。精神病者を押えた形式(かたち)で。大きな手錠と足錠かけます。顔に当てがう麻酔薬(まやく)のハンカチ 。蔭に待たせたマッタク博士の。病院自動車眼がけて投込む。あとは皆まで云わずとわかる……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。あとは皆まで云わずとわかるよ。これを感付く文明諸国じゃ。国家個人の区別を問わない。わるい思案に詰まった連中が。こんな便利な手段は 無いぞと。われもわれもと秘密(ないしょ)の頼みじゃ。這入る患者は政治家、学者。軍事探偵、大発明家。富豪、名家の跡取り世取り。又は名優スターの類 だよ。他人の野心や不正の利得や。又は秘密の計画事業の。邪魔をする程手腕があったか。エライ立場におったが因果じゃ。予審、公判、宣告無しの。無期や 有期の徒刑は勿論。電気椅子より手軽い死刑も。註文次第の何やら次第じゃ。ほんにこれこそ地獄の沙汰だよ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。ホンニこれこそ地獄の沙汰だよ。そこに落ち行く患者の中には。無論、狂人、瘋癲(ふうてん)病者も。申訳(もうしわけ)だけ居るには居る が。中に交(まじ)った優れた人物。英雄、豪傑、天才なんどを。白い服着た鹿爪(しかつめ)らしい。キチガイ地獄の牛頭馬頭(ごずめず)どもが。手取り 足取りして行くあとから。金や勲章の山築(やまつ)く上から。ニヤリ見送るマッタク博士じゃ……チャチャラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコチャ カポコチャカポコ……        八  ▼チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア。ナント皆さん紳士や淑女よ。お立ち会い衆(しゅ)の大勢さまよ。これが私の洋行土産(み やげ)じゃ。現代文化の影身(かげみ)に付添う。この世からなる地獄の話じゃ。鳥が囀(さえず)り木の葉が茂り。花に紅葉(もみじ)に極楽浄土の。中に さまよう精神病者じゃ。身寄りたよりに突きはなされて。罪も報いも泣こうに泣かれぬ。キチガイ乞食のあわれな姿じゃ。ここの村里、彼処(かしこ)の町で 。夜毎日毎(よごとひごと)に追いまくられては。石や瓦の投げ打ちされては。雨にたたかれ風に晒(さら)され。雪や氷に消え入るばっかり。そんな地獄を この世に作った。丸い明るい天道様まで。クルリクルリと顔をば背向(そむ)けて。俺は知らぬと云うたか云わぬか。ピカリピカリと笑って御座るよ……チャ カポコチャカポコ……  ▼あ――ア。ピカリピカリと笑って御座るが。それはまだしも気楽な地獄じゃ。昼夜不断の電燈瓦斯燈(ガスとう)。唯物科学の文化の光りが。明るく光れ ば光って来るだけ。暗くなるのが精神文化じゃ。金じゃ女じゃ。権利じゃ義務じゃと。手段撰ばぬ悪智慧比べじゃ。道理外れた生存競争。電車自動車ソラ飛行 機じゃと。縦横無尽に行き交(か)い飛び交う。人の運命一寸先だよ。暗に隠るる秘密の扉じゃ。連れて来られた老若男女は。狂気本気の区別を問わない。馬 鹿も怜悧(りこう)も一列平等。ドンと蹴込(けこ)んでピタリと閉じたら。タッタ一呑み文句を云わせぬ。音も香(か)もなく落ち行く先だよ。娑婆(しゃ ば)の道理や人情の光りが。影も映(さ)さない暗黒世界じゃ。鉄筋煉瓦やセメント造りの。科学知識のこの世の地獄じゃ。中に重なるキチガイ地獄の。上に 在るのが親切地獄で。次が軽蔑、冷笑地獄じゃ。下は虐待(ぎゃくたい)、暗殺地獄の。底は何やらわからぬ地獄じゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。あとは何やらわからぬ地獄の。次に並ぶはモ一(ひと)つスゴイよ。これは何でもわかった地獄じゃ。おのれ彼奴(あいつ)が正気の俺をば。 こんな処へ投げ込みおるかと。歯噛み、身もだえ、地団駄(じだんだ)、踏んでも。踏めば踏む程、親切地獄じゃ。それでも止(や)めねば虐待地獄じゃ。あ とは無念の白骨地獄で。化けても出られぬ奈落へ抜けます……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。化けて出られぬ奈落へ抜けるよ。そんな危い地獄の扉が。もしも本当(ほんと)にそこいら中に。あるとなったらさてどうなるか。お立会い衆 は無論の事だよ。政府当局、天下の学者。知識階級の誰かれ問わない。血あり涙のある方々が。知らぬ顔して捨ててはおけまい。古い川柳に座敷の牢屋で。薬 飲むにも油断がされぬと。(註に曰(いわ)く――座敷牢薬をのむに油断せず――柳樽(やなぎだる)――)御座りまするはお江戸の昔じゃ。況(ま)して況 (いわ)んや近代文化の。科学知識の進歩の中でも。人の脳髄、心の正体。何が何やらわからぬために。精神病学研究し方が。八方塞(ふさ)がり昔のままだ よ。贋(にせ)のキチガイ真実(ほんと)のキチガイ。ハッキリ区別も出来ない癖に。ほかの医学の体裁真似して。治療診察なんどというては。四角四面の病 院作って。器械標本、薬に書物と。並べ飾って威張っているなら。こんな地獄が出来るは当然。これを防ぐが目下の急務じゃ。そんな病院見当り次第に。タタ キ潰すが何より急務じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……        九  ▼チャチャラカ、ポコポコ。スカラカ、ポコポコ……扨(さて)も左様なイカサマ病院。キチガイ地獄が出来ないように。防ぐ工夫があるかというたら。タ ッタ一つの手段があります。しかもなかなか大きな仕事じゃ。どこか気候と景色のよろしい。交通便利な離れた島へ。ザット一千万円かけて。かくいう私が新 案工夫の。デッカイ精神病院建てます。そこへ研究試験所つけます。患者を無料で入院させます。地獄なんぞが出来ないように。解放治療というのをやります 。これも私の新案工夫じゃ。すなわち正しい精神科学の。正しいキチガイ病気の治療じゃ。薬使わず手術もしませぬ。鉄の鎖や、石箱、鉄箱。袖無襯衣(そで なしシャツ)なぞ一切使わず。ありとあらゆる精神病者を。広い処へ追い放しにして。一番自然な正しい治療を。しようというのが解放治療じゃ。いわば精神 病者の牧場(まきば)じゃ。キチガイ患者の極楽世界じゃ。奇妙キテレツ珍妙無類の。世界初めの精神病院。むろん誰でも参観随意じゃ。ドンナ素敵な観物( みもの)になるかは。蓋(ふた)を開けねば私もわからぬ。何から何まで新発明だよ。スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。何から何まで新発明だよ。いずれその中(うち)発表しますが。世界の学者が一人も知らない。キチガイ病気の出て来る原理じゃ。しかも頗( すこぶ)る簡単明瞭。ステキ滅法愉快な学理を。そこで実地の試験にかけます。診察予防が絶対不可能。薬も無ければ手術も出来ない。キチガイ病気の正体調 べて。診察治療が出来るとなったら。トテモ評判大したものだよ。世界に人種が数ある中で。日本人種は見上げたものだよ。正義人道尊(たっと)ぶ国だよ。 精神科学の先進国だと。云わせたいのが私の願いじゃ……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。云わせたいのが私の願いじゃ。なれど何しろ一千万の。金というたら大したもんだよ。私が親から引譲られた。田地田畑(でんちでんぱた)、 貯金や証文。古い褌(ふんどし)お金に換えても。やっと半分そこらのものだよ。あとは政府のお助け仰いで。それにも一つ皆様方の。清い尊(たっと)いお 志を。たより縋(すが)りに遣(や)りたい考え。五厘一銭、藁(わら)一筋でも。多寡(たか)は厭(いと)わぬ願人坊主じゃ。頭たたいて頂きまする…… チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。アタマたたいて頂戴しまする。なれど、そういう願人坊主が。やはり「キの字」の片割(かたわれ)らしいぞ。眼付き風付(ふうつ)き何やら おかしい。非人乞食に劣らぬ姿で。道のほとりに鞄(かばん)を投げ出し。駄声(だごえ)はり上げ木魚をチャカポコ。昼の日中(ひなか)に外聞晒(さら) す。しかも文句が常識外れた。世界文化の千万円じゃの。耳に聞こえず眼にさえ見せない。人の心の狂いを直すの。古今独歩の研究なんどと。途方途轍(とて つ)もない事並べて。寄附を集めるイカサマ坊主じゃ。そんな古手にかかると思うか。要らぬ処で道草喰うたぞ。早く行こうと仰言(おっしゃ)るならば。こ れは如何(いか)さま尤(もっと)も千万。道理至極じゃスカラカ、チャカポコ。頭たたいてお詫びをしまする……チャカポコチャカポコ……  ▼あ――ア。頭たたいてお詫びをしまする。そもやそもそも一体全体。こんなスカラカ、チャカポコ頭が。身の程知らない木魚をたたいて。頼み手も無い金 にもならない。要らぬ赤恥、天日(てんぴ)にさらげる。事の起りはキチガイ地獄じゃ。文明社会の裏面に拡がる。無茶と野蛮の底抜け地獄じゃ。筆も言葉も 木魚も及ばぬ。むごさ、せつなさ、悲しさ辛(つ)らさを。底の底まで見て来たお蔭で。こちらの頭が少々変テコ。これをこのまま棄ててはおけぬと。思い込 んだが因果のはじまり。これを助ける方法手段を。あれよこれよと思案のあげくが。精神病者を無料で預る。デカイ病院建てるが第一。それを建てるにゃ皆様 方の。輿論のお力借りねばならぬ。又は一厘一銭たりとも。無駄に使わぬ思案の果だよ。思い付いたる乞食の姿が。お眼に障わったお詫びの印じゃ。今のキチ ガイ地獄の歌をば。印刷(はん)に起した斯様(かよう)な書物を。お立ち会い衆へお頒(わか)ちしまする。お金は要らないお願いしまする。持って帰って お読みなされて。これはどうやら真実(ほんとう)らしいぞ。寄附をしようかと思うたお方や。扨(さて)は私の一生仕事の。狂人救済事業の中味を。もっと 詳しく調べてみたい。又は世界の漫遊みやげの。眼先変ったキチガイ話や。家の祟(たた)りや血統(ちすじ)の障(さわ)りや。生霊、死霊の怨みやなんぞ が。人の心を狂わせ惑わす。スゴイ因果の因縁話を。聞いてみようかそれとも又は。何か大勢集まる場所で。そんな話をやらせて見たらば。奇抜な余興になる かも知れぬと。思召(おぼしめ)したらお手数ながら。ここに挟んだ葉書が一枚。これにお名前お所番地。それとこれなる頁(ページ)の終りに。止めました る宛名を書いて。ぽんとポストにお願いしまする。願うところはこの世の中に。こんな事実があります事を。向う三軒両お隣りや。どなたこなたの噂の種に。 語り伝えて下さりませよ。すれば今云うキチガイ地獄や。人類文化の裏面の秘密が。否(いや)が応でも世間へ広まる。悪い事する精神病院。キチガイ地獄を 片端なぐりに。タタキ潰せと輿論が高まる……チャカポコチャカポコ……  ▼そこで政府も黙っておれない。棄てておけない重大問題。社会事業の急務というので。私が投げ出す財産全部の。五百余万のお金を基本に。精神病者を無 料で預かる。国立精神病院建てます。到る処の精神病者の。生産過剰の緩和を初める……チャカポコチャカポコ……  ▼人に忘られ世に忘られて。狂い藻掻(もが)いて生命(いのち)を終る。あわれな精神病者が助かる……ポコチャカポコチャカ……  ▼それかばかりかその病院で。研究し出したキチガイ病気の。治療のし方が世間に広まる。世界各地のキチガイ地獄が。一つ残らず引っくり返って。ありと あらゆる精神病者の。嬲(なぶ)り殺しが止みますならば。こんな本懐至極(しごく)は御座らぬ……ポコポコチャカチャカ……  ▼あ――ア。こんな本懐至極は御座らぬ。そこで成る程貴様の仕事は。実に道理(もっとも)千万至極じゃ。奇特、感心、立派な了簡(りょうけん)。俺が 付いてる心配するなよ。ウント踏張り勉強やらかせ。狂人地獄をスカラカ、チャンまで。タタキ潰せよフレ――やフレーと。お賞めなされて下さるならば。私 の喜び天井知らずじゃ……チャカチャカポコポコポコポコチャカチャカポコポコ……        十  ▼スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。あ――ア。さても皆さん相済みませぬ。御用、お急ぎ、散歩の足をば。変な姿や奇妙な文句で。お 引止めして気の毒千万。なれどつらつらおもんみまするに。三千世界を流るる時間が。何万、何億、何兆年とも。知れぬ無限の時間の中(うち)なら。五十、 七十、百まで生きても。アッという間の一生涯だよ。何が何やらわからぬまんまに。会うて別れて生まれて死に行く。数え切れない人数(にんず)の中だよ。 今日が只今この道傍(みちばた)で。お眼にかかるも何かの御縁じゃ。お許しなされて下さりませよ。よしやこのままお別れしても。残る名残りがスカラカチ ャカポコ。もしもこの後(のち)世間の噂や。雑誌新聞、小説なんぞで。キチガイ話を御覧になったり。又はホンマの精神病者を。通り縋(すが)りに御覧に なったら。思い出しても下されませよ。月の光りや太陽の輝やき。星の光りも掻き消すばかりに。眼(まなこ)眩(くら)めくモダーン文化や。又は博愛仁慈 の光明。正義道理のサーチライトも。昔ながらに照らさぬ世界じゃ。地獄以上のキチガイ地獄に。音も香(か)もなく消え行く先だよ。広さ深さも無限の暗( やみ)の。底に青ずみ漂う血の海。上にさまよう陰火(おにび)の焔は。罪も報いも無いまま死に行く。精神病者の無念の思いじゃ。聞いて聞こえぬ怨みの数 々。聞いた心がクドキの文句じゃ。念仏代りの阿呆陀羅経(あほだらきょう)だよ。無調法なる木魚に合わせて。チョット御機嫌伺いまする。げどう――さア ――えエ――もオ――んンン。キチガイ――イ――地獄ウ。 ――ヘイ。御退屈様――  ◆葉書は左記へお出し下さい。  九州帝国大学医学部精神病学教授   斎藤寿八氏自室気付   面黒楼万児宛 ┌───┐ │   │ └───┘   地球表面は    狂人の一大解放治療場 九州帝国大学               正木敬之氏談 精神病科教室        去る三月初旬以来、九州帝国大学精神病科本館裏手に起工されて、その附属病院の工事と共に着々進捗(しんちょく)しつつある「狂人解放治療場」は、過般 来(かはんらい)その内容が厳秘中であったが、右は同科新任教授正木博士が私費を投じて開設したものである事が判明した。右に就(つ)き正木博士は同教 授室に於て、往訪の記者に対しかく語った。  世間では今度、吾輩が九大で開始した「解放治療」を吾輩の独創だとか、嶄新(ざんしん)奇抜だとかいって騒いでいるようであるが、正直のところを云う と決して吾輩の独創でもなければ、嶄新奇抜な療法でもないのだ。すなわちこの地球表面上は、昔々の大昔の、歴史にも伝説にも残っていない以前から、狂人 の一大解放治療場になっているので、太陽はその院長、空気はその看護婦、土はその賄係(まかないがか)りに見立てられ得るのだ。  ……といっても吾輩は別に奇矯な言辞を弄(ろう)しているのではない。そうした事実を断言し得る相当の理由があるから云うので、何を隠そう吾輩の「精 神病研究」の第一歩はこの「地球表面上が狂人の一大解放治療場になっている」という事実に立脚していると云ってもいいのだ。  それは何故かというと、元来この地上に生み付けられている人間は、身分の高下、老若男女の区別を問わず、指一本でも自分の自由にならぬか、又はどこか 足りないか、多過ぎるかした人間を発見すると、すぐに「片輪(かたわ)」という名前を附けて軽蔑したり、気の毒がったり、特別扱いにしたりする事にきめ ている。同様に、頭のハタラキが本人の自由にならぬか、又は、頭の働きのどこか足りないか、多過ぎるかした人間を見付けると、早速、精神病患者、すなわ ちキチガイの烙印(やきいん)を押し付けて差別待遇を与える事にきめているようである。禽獣(きんじゅう)、虫ケラ以下の軽蔑、虐待を加えてもいいもの と考えているらしく考えられる……が……然(しか)らばその精神病者を侮蔑し、冷笑している所謂(いわゆる)、普通の人間様たちの精神は、果して、何も かも満足に備わっているであろうか。すべての人々の脳髄は、隅々までも本人の意志の命令通りに、自由自在に動いているであろうか。  吾輩は敢(あえ)て云う。公平、且(か)つ厳正な学問の眼から見ると、決してそうは思えない。それは手足の曲ったのや、眼鼻の欠け落ちたのと同様に、 外から肉眼で見わける事が出来ないだけで、実際のところをいうとこの地球表面上に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の片輪者(かたわもの)ばかり と断言して差支えないのである。曲ったり、くねったり、大き過ぎたり、小さ過ぎたり、又は智慧や情慾が多過ぎたり、足りなかったりする、所謂、精神的の 片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態を呈していると考えても、断然間違いはないのである。  早い話がなくて七癖、あって四十八癖というではないか。見っともない、下らない習慣が、いくら他人に笑われても止まない。又は出世の妨げになったり、 他人に迷惑をかけたりするので、是非とも止める決心をして、神や仏に願(がん)をかけたり、新聞に広告までして誓(ちかい)を立てても悪い癖が止められ ないのは取りも直さず、自分の頭が、自分の自由にならない事を実地に証明しているのではないか。自分の頭の間違っているところを、自分の意志で直す事の 出来ない、精神病的発作の根強いあらわれを見せているのではないか。又は泣くまいと思ってもツイ涙が出る。憤(おこ)る場合でないと思ってもついムカム カッと来て前後を忘却したりするのは、やはり一時的の精神の偏(かたよ)りを、自分で持ち直す事が出来ないという、アタマの弱点を曝露しているのではな いか。  そのほか凝(こ)り性(しょう)、厭(あ)き性、ムラ気、お日和(ひより)機嫌、胴忘(どうわす)れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、変 態心理なぞの数をつくして、出会う人毎(ごと)に、知るも知らぬも、多少のキチガイ的傾向を帯びていない者は無い。頭の働らきの不叶(ふかな)いなとこ ろを持っていない者は無い。すなわち精神病者と五十歩百歩の人間でない者は居ないのだ。  その証拠には、そんな連中のそうした弱点……すなわち頭の不叶いなところを指摘してやると、誰でもヒヤリとして赤面するか、青すじを立てて弁明するか 、腕まくりをして喰ってかかるかする。これはキチガイが自分自身をキチガイでないと主張するのと同じ心理で、まことに馬鹿馬鹿しい極みであるが又、人情 の止むを得ないところであろう。……しかもその人情の止むを得ないところを、そのままにして放(ほ)ったらかしておくと、そんな精神病的傾向が当り前の 事のように思えて来る。況(いわ)んや当世流行の紳士待遇でも与えようものならイヨイヨ病癖が増長して、イヨイヨ止むを得なくなって来る。そうしてトウ トウ絶対に取り止めが出来なくなったのが、家庭悲劇や、犯罪事件となって社会に曝露する。軽いので社会的制裁、重いのになると法律の手にかかる。それで も反省出来ない、ブレーキの利かなくなったガタガタ自動車みたいな奴が、何々狂と名付けられて、精神病院に担ぎ込まれる事になるのだ。  誤解しては困るが、何もそれが悪いと云うのじゃない。万物の霊長諸氏を侮辱する意味で云ったのでは毛頭ないが、しかし、そんな風に生れ付いたり、習慣 付けられたりしている所謂(いわゆる)、紳士淑女連中が、自分のアタマと五十歩百歩の精神病患者を見るとヤタラに軽蔑したり、恐れたりする。自分だけは 誰が何と云っても精神病的傾向をミジンも持たない、完全無欠なアタマの持主だと自惚(うぬぼ)れ切っているから、ツイ吾輩も冷やかしてみたくなるのだ。 ……そんな紳士淑女連中からアラユル残酷な差別待遇を受けている、罪も報(むく)いも無い精神病患者を弁護してみたくなるのだ。  すなわち、いずれにしても斯様(かよう)に観察して来ると、普通人と狂人の区別がつけられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている者との区 別が付けられないのと同じ事になって来るであろう。平ったく云えば赤い煉瓦に這入る程度にまで露骨でない悪党と、キチガイとを一緒にしたものが、所謂、 普通人……もしくは紳士淑女という事になるであろう。  もちろんこれは一種の暴言である。実に失礼とも無作法とも、何ともカンとも申上げようのない遺憾千万な云い草ではあるが、事実はどこまでも事実に相違 ないのだから仕方がない。こうした観察点に立脚しなければ、精神病に関する真個(ほんとう)の科学的研究がやって行けないのは恰(あたか)も、人間が一 個の動物に過ぎないという見地に立脚しなければ、すべての医学の研究が遂げられないのと同じ事なんだから止むを得ない。もし又、万が一にも「俺ばかりは キチガイじゃないんだぞ。絶対に完全無欠な精神を持っている人間なんだぞ」という自信を持っているお方があったら、イツ何時でも吾輩の処へお出(い)で 下さいだ。そのお方は当大学の研究患者として、官費で入院さして上げる。ちょうどその式の患者が、学生の講義に必要なところだからね……。  太陽は、これ等無限の精神病患者の大群を、地上一面に生み付けて、永久に無言の解放治療を続けている。そうするとその禽獣(きんじゅう)、虫ケラ以下 の半狂人である人類たちは、永い年月のうちに自然と自分たちがキチガイの大群集である事を自覚し初めて、宗教とか、道徳とか、法律とか、又は赤い主義と か青い主義とかいう御叮嚀なものを作って「お互いに無茶を止しましょう……変な真似をやめましょう」をやっている。だから吾輩もその小さな模型を作って 、僭越ながら太陽氏になり代って「無薬の解放治療」を試みている。「人類全部がキチガイ」という観察点に立脚した、ホントウの科学的な精神病の研究治療 を試みているのだ。  ……ナニ……その解放治療場にはドンナ種類の精神病患者を収容するのか……それはまだわからないよ。いずれ吾輩の学説……新しい精神科学の学理実験材 料として差支えない患者を選み出して収容する予定にはなっているんだがね……。  ……その学説はドンナ学説……吾輩が唱え出した精神科学の内容かね。それあトテモ大変な質問だ、なかなか一朝一夕に説明し切れる訳のものじゃないよ。 しかし要するに今日までの精神病の研究法を根本から引っくり返した行き方だという事は断言しておいてもいいね。まず人間の脳髄の作用から研究し直して「 脳髄は物を考える処」という従来の迷信的な学説をドン底から訂正する。それからその新しい「脳髄の作用」に反映して行く精神の遺伝作用を明らかにする。 そこで出来上った精神解剖学、精神生理学、精神病理学から観察診断した、最もわかり易い最も興味深い、精神病患者の標本ばかりを集めて、吾輩独特の精神 的な暗示と刺戟を応用した治療法を試みてみたいと思っているんだがね。ドンナ標本が集まるか……ドンナ騒動が初まるか、吾輩自身にも予断出来ないんだよ 。ハハハ……。  但し念のためにお断りしておくが、その実験をやっている吾輩ばかりが、精神に異状の無い、太平無事のデクノ坊だと誤診されては迷惑だよ。  あの太陽が、一旦、ギラギラと光り出して、地獄と名づくる精神病者の一大解放治療場の全面を焙(あぶ)りまわし初めたらナカナカ止めない。いい加減な ところで醤油でも附けたら……と思ってもソンナ余裕なんか持たないらしく、どこまでもどこまでもピカピカジリジリと焙り廻し続けている。それと同様に一 度狂人の研究を初めた吾輩は、それ以外の事が考えられなくなった。往来で小便をし初めたのと同様に、殿様がお通りになろうが、巡査がお見えになろうが、 お手討ちも罰金も覚悟の前で、根の切れるまでシャアシャアやり続けている。  だから地上のほかの狂人は治療(なお)るとも、吾輩の精神異状だけは永遠に全快しないだろうと思う。これだけは慥(たし)かに保証出来る。云々。   絶対探偵小説       脳髄は物を考える処に非ず         ===正木博士の学位論文内容=== 一記者  ナニ。吾輩の学位論文「脳髄論」の内容がナゼ学界に発表されないかッテ……アハハ。馬鹿にするな。物議を起すのを怖がって発表を差控えるような吾輩じ ゃないよ。実はチョット書き添えたい事があるから、手許に引取っている迄の事さ。  その内容を話せって云うのか。ウン。それあ話せない事はないさ。……しかし話したら直ぐに新聞に書くだろう。実はこの前(まい)に吾輩が話した「地球 表面上は狂人の一大解放治療場」云々の記事を、君の新聞に書かれたんで、少々弱らされたよ。自家広告の宣伝記事だというので、ダイブ方々で八釜(やかま )しかったらしいんだ。  ナアニ。吾輩は平気さ。何と云われたってビクともするんじゃないが、吾輩がすこし大きな事を云うと、事なかれ主義の総長や、臆病者の学部長が青くなっ て心配するのが気の毒でね。鶴川君の「万有還金」の研究や、赤井君の「若返り手術」以来、九大には山師ばかり居るように誤解されているからね。まして況 (いわ)んや今度の「脳髄論」の内容と来たら、前の解放治療の話に何層倍輪をかけた物騒なテーマを吹き立てているんだから……。  フン。書かないから話せというのか。新聞記者の書かない口上も久しいもんだが大丈夫かい。ウン……そんなら話そう。ところでドウダイ……葉巻を一本… …上等のハバナだ。吾輩の気焔の聞き賃、兼、新聞記事の差止め料だ。チット安いかね。ハハハハハハ。きょうは吾輩閑散(ひま)だからね。少々メートルを 上げるかも知れないよ。  ……時に君は探偵小説を読むかい。ナニ読まない。読まなくちゃいかんね。近代文学の神経中枢とも見るべき探偵小説を読まない奴はモダンたあ云えないぜ 。ナニ……読み飽きたんだ……ウハハハ。コイツは失敬失敬。さもなくとも君の商売は新聞記者だったっけね。アハハハハ。イヤ失敬失敬。  それじゃここに吾輩が秘蔵している、もっとも嶄新(ざんしん)奇抜な探偵事実談があるが一つ拝聴してみないか。実はどこかの科学雑誌にでも投稿してや ろうかと思って、腹案していたものなんだが、小手調べに君の批評を聞いてみてもいい。筋の複雑、微妙さと、解決の痛快皮肉さは恐らく前代未聞だろうと思 うがね。むろん他に類例があったら、二度とお眼にかからないという、頗(すこぶ)る非常的プレミヤム付きの……。  ナアニ。胡魔化(ごまか)すんじゃないよ。今云う吾輩の脳髄論と大関係があるんだ。探偵小説というものは要するに脳髄のスポーツだからね。犯人の脳髄 と、探偵の脳髄とが、秘術をつくして鬼ゴッコや鼬(いたち)ゴッコをやる。その間(かん)に生まれる色々な錯覚や、幻覚、倒錯観念の魅力でもって、読者 のアタマを引っぱって行くのが、探偵小説の身上じゃないか。ねッ。そうだろう。  ところがだ。吾輩の探偵小説というのはソンナ有り触れた種類の筋書とは断然ダンチガイのシロモノなんだ。すなわち「脳髄ソノモノ」が「脳髄ソノモノ」 を追っかけまわすという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説なんだ。しかもその絶対的科学探偵小説のドンドンのドンガラガンの種明かしをして、人類二十 億の脳髄をアッといわせるトリックそのものが、ソックリそのまま吾輩の「脳髄論」のテーマになっているんだからスゴイだろう。  ナニ。わからない。ハハハハハ。わからない筈だ。まだ何も話していないんだからね。ハッハッ。  ああいいともいいとも。速記に取ったって構わないよ。吾輩が「脳髄論」を学位論文として正式に発表する時まで、新聞に掲載するのを待っていてくれさえ すればいいのだ。何ならアトで吾輩が筆を入れてやってもいい。談話として発表するよりも吾輩の創作として発表する方が都合がよくはないか……。  もっとも前以て断っておくが、この探偵事実談を聞いても、わかるか解からないかは保証の限りでないよ。何しろ脳髄が脳髄を追っかけまわすという、絶対 、最高度の探偵小説なんだからね。解決が最初から立派についていながら、読者には絶対にわからない。ただ無暗矢鱈(むやみやたら)に奇抜突飛な、幻覚、 錯覚、倒錯観念の渦巻きのゴチャゴチャだけしか感じられない……かも知れないというのが、トップのトップを切った脳髄小説のミソなんだからね。ハハハハ ハハハ。  ところでだ……まず劈頭(へきとう)第一に一つの難解を極めた謎々をタタキ付けて、読者のアタマをガアンと一つ面喰らわせてしまうのが、探偵小説の紋 切型だろう。しかもその「人間の脳髄」を極度に面喰らわせ得る謎というのは、取りも直さず「脳髄」そのものに関するソレでなくてはならぬ事が必然的に考 えられて来るだろう。  果然と ※(感嘆符二つ、1-8-75)  ……一つ脅(おど)かしておくかね。ハハハハハハ。何を隠そうその「脳髄」こそは現代の科学界に於ける最大、最高の残虐、横道(おうどう)を極めた「 謎の御本尊」なんだ。人体の各器官の中でもタッタ一つ正体のわからない、巨大な蛋白質製のスフィンクスなんだ。地上二十億の頭蓋骨を朝から晩までガンガ ンいわせ続けている怪物そのものに外(ほか)ならないのだ。  人間の脳髄と称する怪物は、身体の中でも一番高い処に鎮座して、人間全身の各器官を奴僕(ぬぼく)の如く追い使いつつ、最上等の血液と、最高等の営養 分をフンダンに搾取している。脳髄の命ずるところ行われざるなく、脳髄の欲するところ求められざるなし。何の事はない、脳髄のために人間が存在している のか、人間のために脳髄が設けられているのか、イクラ考えても見当が付かないという……それ程左様に徹底した専制ぶりを発揮している人体各器官の御本尊 、人類文化の独裁君主がこの脳髄様々に外ならないのだ。  ところが、それはそれとしてここに一つ不思議な事があるのだ。  それは他事(ほか)でもない、その脳髄と自称する蛋白質の固形物(かたまり)自身が、古往今来、人体の中でドンナ役割をつとめているのか、何の役に立 っているものか……という事実を、厳正なる科学的の研究にかけて調べてみると、トドのつまり「わからない」という一点に帰着する事だ。逆にいうとこの脳 髄と名付くる怪物は、古今東西の学者たちの脳髄自身に、脳髄ソレ自身のホントウの機能をミジンも感付かせていない事だ。……のみならず……その脳髄自身 は、ソレ自身がトテモ一キロや二キロの物質の一塊(いっかい)とは思えないほどの超科学的な怪能力、神秘力、魔力を上下八方に放射して、そうした科学者 たちの脳髄ソノモノに対する科学的の推理研究を、片端からメチャメチャに引掻きまわしている。モット手短かにいうと「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳 髄ソレ自身に解からせないように解からせないように努力している」とでも形容しようか。従ってその脳髄は、脳髄ソレ自身によって作り出された現代の人類 文化の中心を、次第次第にノンセンス化させ、各方面に亘って末梢神経化させ、頽廃(たいはい)させ、堕落させ、迷乱化(めいらんか)させ、悶絶化させつ つ、何喰わぬ顔をして頭蓋骨の空洞の中にトグロを巻いているという、悪魔中の悪魔ソレ自身が脳髄ソレ自身になって来るという一事だ。  むろんこれは吾輩一流の法螺(ほら)やヨタじゃない。吾輩の専門の名誉にかけて断言するのだから……。  エッ……脳髄は物を考える処だ……と云うのかい。  そうだよ。みんなそう思っているんだよ。現代一流の科学者は勿論のこと、全世界のありとあらゆる種類、階級の人々は、プロとブルとを押しなべて皆、脳 髄で物を考えているつもりで生きているんだ。ラジオも、飛行機も、相対性原理も、ジャズも、安全剃刀(かみそり)も、赤い理論も、毒瓦斯(ガス)も何も かも、この一二〇〇瓦(グラム)以上、一九〇〇瓦(グラム)以下の蛋白質のカタマリから生み出されたものと確信し切っているのだ。  成る程、人間の屍体を解剖して、脳髄なるものを覗いてみると、そうした考え方は万々間違いないように見える。大脳、小脳、延髄、松果腺(しょうかせん )なんどと、無量無辺に重なり合っている、奇妙キテレツな恰好をした細胞が、やはり、奇想天外式に変形した神経細胞の突起によって、全身三十兆の細胞の 隅から隅までつながり合っている。その連絡系統を研究して行くと結局、人体各部を綜合する細胞の全体が、脳髄を中心にして周到、緻密(ちみつ)、且つ整 然たる糸を引合った形になっているのだ。だから人間一切の行動を支配する精神もしくは、生命意識なるものは、脳髄の中に立て籠(こ)もっているのじゃな いかしらんと考えられる。少くとも「脳髄は物を考える処」と考えて差支えないように考えられるのだ。  こうした考え方は現在ではもう人類全般の動かすべからざる信念……もしくは常識となってしまっているのだ。この「脳髄が物を考える処」という事実につ いて今更めかしく疑いを起すものは、ドコを探しても一人も居ない事になっているのだ。現代の燦然(さんぜん)たる文化文物は針一本、紙一枚に到るまでも 、一つ残らずこうした「物を考える脳髄」によって考え出されたものである……と演説しても「ノーノー」を叫ぶ者は一人も居ない位にアタマ万能主義の世の 中になってしまっているのだ。  ……然(しか)るにだ……ここで吾輩の脳髄探偵小説は、こうした世界的の大勢を横眼に白眼(にら)んだ一人の青年名探偵、兼、古今未曾有式超特急の脳 髄学大博士を飛び出させているのだ。脳髄に関する従来の汎世界的迷信を一挙に根柢から覆滅(ふくめつ)させて、この大悪魔「脳髄」の怪作用……ノンセン スの行き止まり……アンポンタンの底抜けとも形容すべき簡単、明瞭な錯覚作用の真相を、煌々(こうこう)たる科学の光明下に曝(さ)らけ出し、読者の頭 をグワ――ンと一撃……ホームランにまで戞飛(かっと)ばさせている……という筋書なんだがドウダイ……読者に受けるか受けないか……。  ナニ。まだわからない……もう些(すこ)し聞いてみなければ……。  何だって……空想小説じゃないかって……。怪(け)しからん……。だから一番最初に「科学探偵事実小説」と断っているじゃないか。空想なんてものをコ レンバカリも取入れたら、全篇の興味がゼロになってしまうじゃないか。むろんそうだとも……初めから一分一厘ノンセンスものじゃないんだから安心して聞 き給え。そんな甘物じゃない事が、その中(うち)にわかって来るんだよ。いいかい……。  ところでその青年名探偵、兼、脳髄学の大博士は、吾輩が仮りにアンポンタン・ポカン君と名付けている二十歳ばかりの美青年なんだ。いいかい……むろん 実在の人物なんだよ。しかもその美青年は古今無双のいい頭を持っているにも拘わらず、非常に危険な遺伝的、精神病の発作にかかったので、この大学に入学 すると間もなく、この教室の附属病院に収容する事になった。  ……ナアニ……ヨタじゃないったら……恐ろしく疑い深い読者だね君は……虚構(うそ)だと思うならイツ何時(なんどき)でも本人に紹介してやるよ。ス グこの向うの七号室に居るのだから訳はない。「オイ。ポカン君……」と呼ぶと、ビックリしたように振り返る横顔がタマラなく可愛いよ。  ところでこのシークボーイ……アンポンタン・ポカン君は、その遺伝発作を起して人事不省に陥ったあとで、ヤット正気を取返すと間もなく、自分の生れ故 郷や、両親の名前は勿論のこと、自分自身の名前までもキレイに忘れてしまっている事を、自分自身に気が付いた。そこで取りあえず吾輩からアンポンタン・ ポカン博士の名誉ある称号を頂戴している訳だが、ポカン博士自身も元来のアタマが良(い)いだけに、この事が非常に気になるらしく、毎日毎日夜も昼もブ ッ通しに、病室の中の人造石の床を歩るき廻って、自分の脳髄の事ばかり考えているらしいのだ。……「わからないわからない。いったい僕の脳髄は今まで何 をしていたのだろう……何を考えていたのだろう」とか又は「僕の脳髄が僕の全身を支配しているのか……それとも僕の全身が僕の脳髄を支配しているのか… …解らない解らない」……といったような事を口走っては、蓬々(ぼうぼう)と伸びた自分の頭の毛を掻きまわしたり、拳固(げんこ)でコツンコツンと後頭 部をなぐり付けたりしいしい、一分間も休まずに、部屋の中をグルグルと歩きまわっているのだ。  ところが、そのうちに、ソンナ発作がダンダンと高潮して来るとポカン博士は、やがて部屋のマン中の人造石の床の上に立止まって不思議そうにキョロキョ ロとそこいらを見廻わし初める。そうして自分の蓬々たる頭の毛の中から、何かしら眼に見えないものを掴み出して、床の上に力一パイ叩きつける真似をする 。それからその床の上にタタキ付けたものを指して、脳髄に関する演説を滔々(とうとう)と、身振(ゼスチュア)まじりに初めるのであるが、そのうちに自 分の演説に感激して、興奮の絶頂(クライマクス)に達して来ると、ツイ今しがた自分の頭の中から掴み出して床の上にタタキ付けた眼に見えない或るものを 、片足を揚げて一気に踏み潰す真似をすると同時に、ウーンと眼を眩(ま)わして床の上に引っくり返ってしまう。そうして約三四十時間も前後不覚の状態に 陥って、昏々(こんこん)と眠り続けると、又もや、アンポンタン・ポカン然として眼球(めだま)をコスリコスリ起上るのだ。そうして前の通りに「わから ないわからない」を繰返しながら部屋の中をグルグルと歩るきまわる。その中(うち)に又も、頭の中から眼に見えないものを取り出して足下の床の上にタタ キ付ける。前後左右を見まわして、拳固を振り上げながら脳髄の演説を開始する。そうして何だか解からないものを床の上で踏み潰しては、ウーンと云って引 っくり返る……というのが、この青年名探偵アンポンタン氏の日課になっているのだ。  ……ところで面白いのはこのポカン博士の演説なんだ。  ポカン博士が演説をする時は、何でもどこかの往来の烈しい、電車の交叉点か何かで、繁華な人ゴミの中に立ち止まっているつもりらしい。交通巡査みたい に大手を拡げて、前後左右の群集を睨みまわす恰好をすると、イキナリ拳固を空中に舞わしながら、金切声を振り絞り初めるのだ。 「……止まれッ……。  ……止まれッ……。  電車も、自動車も、自転車も、オートバイも、バスも、トラックも、人力車も皆止まれッ……。紳士も、淑女も、モガも、モボも、サラリマンも職業婦人も 、ブルもプロも、掏摸(すり)も、巡査も動いてはいけない。  ……諸君はタッタ今、非常な危険と直面しているのだ。  ……諸君は現在タッタ今、脳髄で物を考えつつ歩いているだろう。……その脳髄の判断力でもって交通巡査のゴー・ストップを聞き分け、旗振りの青と赤を 見分け、飾窓(ショーウインド)の最新流行を批判し、ポスターに新人の出現を知り、夕刊記事の貼出しに話題(トピック)を発見し、掏摸を警戒し、債権者 を避け、イットの芳香を追跡しつつ……イヤが上にもその脳髄の感触を高潮させつつ、文化人のプライドをステップしている……つもりでいるだろう。  ……それが危険だと云うのだ。それが非常だと警告するのだ。……脳髄の非常時……。  ……見よ。聞け。驚け。呆(あき)れよ……  ……現代二十億の人類は悉(ことごと)く、諸君と同様の阿呆である。郵便局に自分の引越し先を尋ねに行く頓馬(とんま)である。電話口でこちらの番号 を怒鳴る慌て者である。『脳髄』を『物を考えるところ』と錯覚している低能児である。  そうして、そんなトンチンカンな幻覚錯覚を得意然と肩の上に乗っけて、その錯覚のタッタ一つを唯一無上のタヨリにしつつ『アタマは最上の、最後の資本 』『現代はアタマのスピード時代』という倒錯観念の競争場裡に、かくも夥(おびただ)しい電車、自動車、オートバイを飛ばせて、夜を日に継いで人類文化 を、ゴチャゴチャの悶絶界に追い込みつつある、諸君自身の脳髄である。  とてもケンノンで見ていられないではないか。  ……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。  アンポンタン・ポカンのスローガンだ。  人類文化の罵倒だ。  脳髄文明の覆滅だ。  唯物的科学思想の建てかえ建て直しだ。  ポカンは宣言する。  ……『物を考える脳髄』はにんげんの最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。……天地開闢(かいびゃく)の始め、イーブに智慧 の果(このみ)を喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……そ れが『物を考える脳髄』の前身である……と……。  ……眼を開け……。  ……この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。  ……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄信を清算せよ。  人間の脳髄は自ら誇称している。 『脳髄は物を考える処である』 『脳髄は科学文明の造物主である』 『脳髄は現実世界に於ける全智全能の神である』  ……と……。  脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭称しつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を奴僕(ぬぼく)の如く駆使している。最上等の血液と、最 高等の営養物を全身から搾取しつつ王者の傲(おご)りを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでもどこまでも高めて行く一方に、その脳髄の権威 を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落の淵に沈淪(ちんりん)させている。  その『脳髄の罪悪史』のモノスゴサを見よ。  吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左の如き断定を下すことを得た。  曰(いわ)く……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。  『人間を神様以上のものと自惚(うぬぼ)れさせた』  これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。  『人間を大自然界に反抗させた』  これが、その第二ページであった。  『人類を禽獣(きんじゅう)の世界に逐(お)い返した』  というのがその第三ページであった。  『人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた』  というのがその第四ページであった。  『人類を自滅の斜面(スロープ)へ逐い落した』  それでおしまいであった。  事実は何よりも雄弁である。  医学の歴史を繙(ひもど)けばわかる……。  人間の脳髄というものを、初めて人間の屍体の中に発見したのは西洋医学中興の祖と呼ばれている大科学者ヘポメニアス氏であった。  ところがその近代科学の泰斗(たいと)ヘポメニアス氏の偉大なる脳髄は、頗(すこぶ)る大胆巧妙を極めたトリックを使って、自分が発見した死人の脳髄 の機能を、絶対の秘密裡に封じてしまったものである。  すなわちヘポメニアス氏の脳髄は『俺の正体がわかるものか』といわむばかりに、灰白色(はいいろ)の渦巻きをヌタクラせている『死人の脳髄』と、ヘポ メニアス氏自身の毛髪蓬々(ぼうぼう)たる頭蓋骨の中の『生きた脳髄』とを睨み合わせて、あらゆる推理の真剣勝負を開始させたのだ。  ……ハテ。これは一体、何の役に立つものであろう。造化の神は何のために、コンナ灰白色の蛇のトグロ巻きみたようなものを、頭蓋骨の屋根裏に納めて御 座るのだろう……。  という難問に引っかけて、ヘポメニアス氏の頭を幾日幾夜となく悩まし苦しめたのだ。  ……ハアテ……この蛋白質の団塊(かたまり)は、泪(なみだ)と鼻汁の製造場のようにも見えるし、所謂(いわゆる)、章魚(たこ)の糞(くそ)に類似 した物のようにも思える。人間と名付くる建築物(たてもの)の屋根裏に在るところを見ると、貴重な滋養分の貯蔵タンクではないかとも思えるし、小腸とお んなじような曲線でヌタクッているところから想像すると、何かの消化器官のようにも考えられる。……ハテ。何だろう……わからないわからない……。  といった風に散々に首をひねらせ、苦心惨憺させ、昏迷疲労させた。そうしてトウトウ何が何だか解らなくしてしまったあげく、ヘポメニアス氏の頭蓋骨の 内側を、シンシンと痛み出させたのであった。  偉大なる天才科学者ヘポメニアス氏はここに於て、トウトウ物の美事に、自分の脳髄のトリックに引っかかってしまったのであった。そうして机を叩いて躍 り上がったのであった。 「……わかったッ……脳髄は物を考える処だッ。その脳髄を使い過ぎたためにコンナに頭が痛み出して来たんだッ……」  ……と……。  そこでその科学者は直ちにメスを執(と)って、その脳髄を取出した屍体の全部を十万分の一ミリメートルの薄さに切り刻(きざ)んだ。そうして人体の各 器官を形成する三十兆の細胞群が、隅から隅まで一粒残らず、脳髄を中心とした神経細胞の糸を引き合っている事実を確かめるや否や、死人の脳髄を両手に捧 げて、一気に往来へ飛び出した。 「……わかったぞッ。わかったぞッ。何もかもわかったぞッ……。  生命の本源を神様の摂理だなぞというのは嘘だ。神様は人間の脳髄が考え出したものに過ぎないのだ。  ……この脳髄を見よ……。  生命の本源はこの千二百瓦(グラム)、乃至(ないし)、千九百瓦の蛋白質の塊(かた)まりの中に宿っているのだ。吾々の精神意識というものは、この蛋 白質の分解作用によって生み出された、一種の化学的エネルギーの刺戟に外ならないのだ。  ……すべては脳髄の思召(おぼしめ)しなのだ……。  科学の発見した脳髄こそ、現実世界に於ける全知全能の神様なのだ」  ……と……。  当時の基督(キリスト)教の迷信と僧侶の堕落腐敗に飽き果てていた尖端人種は、これを聞くや否や大喝采裡に共鳴した。吾(わ)れも吾れもとヘポメニア ス氏の迷説を丸呑みにした。『脳髄は物を考えるところ』という錯覚を、プレミヤム付きで迷信してしまった。 「そうだそうだ。この世界には神様なんか存在しないんだ。すべては物質の作用に外ならないんだ。吾々は吾々の頭蓋骨の中に在る蛋白質の化学作用でもって 、新しい唯物文化を創造して行(ゆく)んだぞッ……」  ……と……。  かくして物の美事に人間世界から神様を抹消(ノックアウト)した『物を考える脳髄』は、引続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯 物文化を創造し初めた。  脳髄はまず人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。  あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人を殖(ふや)し、産児制限を自由自在にしてやった。  あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。  あらゆる光りを工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。  そうして自然の児(こ)である人間を片(かた)っ端(ぱし)から、鉄と石の理詰めの家に潜り込ませた。瓦斯(ガス)と電気の中に呼吸させて動脈を硬化 させた。鉛と土で化粧させて器械人形(ロボット)と遊戯させた。  そうしてアルコールと、ニコチンと、阿片(アヘン)と、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚薬と、貞操消毒剤と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴ チャゴチャが生み出す不自然の倒錯美をホントウの人類文化と思い込ませた。……不自然なしには一日も生存出来ないように、人類を習慣づけてしまった。  ……そればかりでない……。  人間世界から『神様』をタタキ出し、次いで『自然』を駆逐し去った『物を考える脳髄』は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切 の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合財を『 唯物科学的に見て不合理である。だから不自然である』という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類 文化を日に日に無中心化させ、自涜(じとく)化させ、神経衰弱化させ、精神異状化させて、遂に全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に 、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷(さまよ)わせるようになってしまった。 『物を考える脳髄』は、かくして知らず識(し)らずの裡(うち)に、人類を滅亡させようとしているのだ。  その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ。  これが放任しておかれようか。  そればかりじゃない……。 『物を考える脳髄』は、かくして人間の一人一人を、錯覚の虚無世界に葬り去るべく害悪を逞(たくま)しくする一方に、人類全体のアタマを特別念入りの手 品にかけて、木(こ)ッ葉(ぱ)ミジンに飜弄しつくしているのだ。  そうして同時に吾輩……アンポンタン・ポカンの探偵眼を徹底的に眩(くら)ますべく試みているのだ。  ……見よ……。  ……『脳髄のトリック』に飜弄されつつある『脳髄の悲喜劇』が、いかに夥しく諸君の鼻の先に転がりまわっているかを見よ。『脳髄のノンセンス劇』が如 何に真剣に、全世界を舞台として展開されつつあるかを看取せよ。  ……看(み)よ……。 『物を考える脳髄』はこの通り人類世界の文化に君臨している。……宇宙万有の秘奥に到るまで、考え得ざるものなし……と誇称しつつ、科学文化のドン底ま でも支配し指導しつつある。  ……ところがドウダ……。  その『アラユル物を考え得る脳髄』が、自分自身に考え出した学理学説と、その学理学説によって生み出した唯物文化の産物を、地球表面上、眼も遥かに、 気も遠くなる程ギラギラピカピカと積上げ、並べ立てているそのマッタダ中に、タッタ一ツ、カンジン、カナメの『脳髄自身』に関する科学的の研究ばっかり を、疑問の真暗(まっくら)がりの中にホッタラかしているのはドウシタ事か。宇宙万有の神秘をドン底までも考えつくして来ている脳髄が、脳髄自身の事だ けをタッタ一つ考え残しているのはドウシタ訳か。……今日までの科学者の学説、論文の中に、脳髄の作用を的確に説明し得た文献が只の一篇も無いのは何と いう不思議な現象であろう。  のみならず諸君……もしくは諸君の脳髄の代表者たる全世界の科学者たちの脳髄が、きょうが今日までこの矛盾、不可思議に気付かないでいたのは、何とい う迂濶(うかつ)さであろう。  ……見よ……人間の脳髄は、人間の肉体に関する研究をドコドコ迄も行き届かせている。解剖、生理、病理、遺伝と、あらゆる方面に手を分けて、微に入り 、細に亘らせているではないか。病気の治療も同様に、内科、外科、耳鼻科、皮膚科、眼科、歯科と数を悉(つ)くして研究を競わせているではないか。  しかもそのマッタダ中に、そんな研究を編み出した脳髄と、その脳髄に関する病気の研究ばかりを大昔のマンマの『盲目探(めくらさぐ)りの状態』に放置 しているのは、何という間の抜けた片手落ちか……精神病の研究のために是非とも必要な精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞいう研究科目 を、世界中のドコの大学にも分科させないで、所謂(いわゆる)、脳病とか、精神病とかの治療に、あらゆる医者の匙(さじ)を投げさせてしまっているのは 、何という脳髄の不行届(ふゆきとどき)であろう。……『人間の生命、もしくは生命意識はドコにドウして宿っているのか』『幻覚はドウして見えるのか』 『早発性痴呆とはドコがドウなった事をいうのか』……といったような、誰でも不思議がる『脳髄』関係の重要問題を、これ程に賢明な人間の脳髄が、片(か た)っ端(ぱし)から不得要領の大欠伸(おおあくび)の中に葬り去っているのはソモソモ何という大きな無調法であろう。  占筮者(うらないしゃ)が自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなくなってしまっている。  これが脳髄の悲喜劇でなくて何であろう。  脳髄に飜弄されつつある脳髄たちの大ノンセンス劇でなくて何であろう。  モット手近い、痛切なところでは俗に所謂(いわゆる)『泣き中気(ちゅうき)』とか『笑い中気』とかいうのがある。これは腹が立とうが、ビックリしよ うが、何でもカンでも感情が動きさえすればおなじ事……泣くか、笑うかの一本槍で、ほかの感情の一切を外へあらわし得ない病気であるが、この病気の説明 を脳髄はヤハリ『脳髄が物を考える』式で押し通して行くべく、全世界の科学者に厳命している。だからこの厳命を奉戴した世界中の科学者たちは、こうした 中風の症状を「これは脳髄の全体が、出血のために痺(しび)れてしまっているのだ。そうしてその中で『泣く』とか『笑う』とかいうタッタ一つの感情を動 かす部分だけが生き残って活動しているのだ。だからその人間に起るすべての感情はその『泣く』か『笑う』かの一箇所の神経細胞の活動によって、表現され るよりほかに行き道がなくなっているのだ。……脳髄は物を考える処……という前提を前提とする以上、ドウしてもそれ以外に説明の仕様がないのだ」としか 説明が出来なくなっているではないか。  ところが生憎(あいにく)な事に、そうした中風患者の脳髄を病理解剖に附した結果を見ると、いつも豈計(あにはか)らんやの正反対になっている。脳出 血でやられているのは、脳髄の全体ではない。僅かに脳髄の中の或る小さな、狭い、一箇所だけに限られている場合が極めて多いのだから皮肉ではないか。泣 きも笑いも出来ない脳髄のイタズラ劇にしかなり得ないから悲惨ではないか。  モット皮肉で奇抜な例には夢中遊行(むちゅうゆうこう)というのがある。この病気は無論アタマ万能宗の科学者達には寄っても附けない不可解病として諦 らめられ、敬遠されているのであるが、しかもその上に、そのフラフラの夢中遊行患者は、そんな科学者たちのアタマをイヨイヨ馬鹿にすべく、色々な奇蹟を 演出する事があるのだ……たとえばこの種の患者は、その夢中遊行の発作に罹(かか)っている最中に限って、トテモその人間のアタマとは思えない素晴らし い智慧や技巧をあらわして、人間業(わざ)では出来そうにないスゴイ仕事をやって退(の)けたりする。……のみならずその人間が翌(あく)る朝眼を醒ま すと、いつの間にやら元の木阿弥(もくあみ)のケロリン漢に立ち帰って、そんな素敵な記憶の数々を、ミジンも脳髄に残していないというような摩訶(まか )不思議をあらわす。そうして『脳髄は物を考える処』とか『感ずる処』とか『記憶する処』とかいう迷信を迷信しているその方面の専門家連中の脳髄の判断 力を一つ残さず、絶対、永久のフン詰まり状態にフン詰まらせている。 「トテモ人間の脳髄では考えられない」  なぞと悲鳴を揚(あ)げさせているからモノスゴイではないか。  ヤリキレナイ脳髄の恐怖劇ではないか。  しかも唯物宗の牧師、科学万能教の宣教師をもって自ら任じている科学者のすべては、それでもまだ懲(こ)りないで、脳髄の絶対礼讃を高唱している。 「脳髄の大きさはその持ち主の進化程度をあらわし、その渦紋の多寡(たか)はその文化程度を示している。すなわち人類は、その大きな、発達した脳髄のた めに存在しているので、その脳髄は又、物を考えるために存在しているのだ。だから脳髄は文化の神、科学世界の造物主、唯物宗の守り本尊である」  とか何とかいう迷説を聖書以上に尊重して、一所懸命に自己の脳髄の権威を擁護しているが、しかも、そんな科学者たちの顕微鏡の下で、脳髄どころか、頭 も尻も無い下等動物の連中が、暑い寒いを正確に判断したり、喰い物の選(え)り好みをするのはまだしも、人間の脳髄なんぞが寄っても附けない鋭敏な天気 予報までも、ハッキリと現わして見せるから痛快ではないか。おまけにソンナ下等動物は、口にこそ云わねメイメイに身ぶり素振りで、 「脳髄が無くとも物は考えられますよ」 「私たちは全身が脳髄なのですよ」 「私たちは脳髄の全体をソックリそのまま変形して、手足にしたり、胴体にしたり、又は耳、眼、口、鼻、消化排泄、生殖器官なんどの色々に使い分けている のですよ」 「あなた方は、そんな作用を分業にして、別々の器官に受持たせておられるだけの事ですよ」 「あなた方の手足だってチャント物を考えているのですよ」 「お尻でも見たり聞いたりしているのですよ」 「股を抓(つ)ねれば股だけが痛いのですよ」 「蚤(のみ)が喰えばそこだけが痒(かゆ)いのですよ」 「脳髄は痛くも痒ゆくも何ともないのですよ」 「まだお解りになりませんか」 「アハハハハハハハハ」 「オホホホホホホホホホ」 「イヒヒヒヒヒヒヒ」  と笑い転げているからベラボーではないか。  これが脳髄の諷刺劇でなくて何であろう。  これが脳髄のトリック芝居でなくて何であろう。  それかあらぬか一方には、この唯物文化のまっただ中に、精神や霊魂関係の、怪奇劇や神秘劇が大昔のまんまに現われて来る。しかも、モウ沢山というくら いに、後から後から現われて来て、一々人間のアタマを冷笑して行くから愉快ではないか。  唯物資本主義の黄金時代、科学文化で打ち固めた大都会のマッタダ中で、死んだ人間が電話をかけたり、知らない人間が一緒に写真に映ったりする。又は宝 石が美人の寿命を吸い減らしたり、魔の踏切が汽車を脅(おび)やかしたりするはまだしも、大奈翁(だいなおう)の幽霊がアメロンゲン城の壁を撫でて、老 カイゼルに嘆息して聞かせたり、ツタンカーメン王の木乃伊(みいら)が埃及(エジプト)探検家に祟(たた)ったりする。現に科学的推理の天才的巨人、指 紋、足跡、煙草の灰式、唯物的探偵法の創始者シャーロック・ホルムズさえも、晩年に到ってはトウトウこの種の怪現象に引きずり込まれて、心霊学の研究に 夢中になったまま息を引取った……のみならず、あの世からイーサーの波動を用いない音波をもって、生き残った妻子に話しかけた……という位である。みん な不思議だ不思議だというが、そんな事実が在り得るとか、在り得ないとか断言し得る者は一人も居ない。あっても終(しま)いには水掛論(みずかけろん) になってしまうので、結局、お互いの脳髄を怪しみ合いつつ物別れになる事が、最初から解り切っている。そうして、あーでもない。コウでも駄目だと、あら ゆる推理や想像を捏(こ)ねくりまわしたあげく、トウトウ悲鳴をあげ初めて『脳髄が、脳髄の事を考えるとはコレ如何(いか)に』なぞと、場末の寄席みた ようなコンニャク問答の鉢合せを繰り返している現状ではないか。  ドウダ諸君……ザットしたところがコンナ調子である。 『人間の脳髄』が何よりも先に研究を遂げておかねばならぬ『人間の脳髄の病理』……精神病学の基礎、中心となるべき重要な諸問題は、御覧の通り『物を考 える脳髄』のために、片(かた)っ端(ぱし)からフン詰まりの状態を現出させられているではないか。地上、一切の精神病学者と、一切の精神病院の診断、 治療を、無能、無意義の嘲笑の中に立往生させているではないか。そうして地上、無数の精神病者を、永久、絶対に救われ得ない侮蔑、虐待の世界に放置させ ているではないか。この世からなるキチガイ地獄を、全地球表面上に現出させているではないか。  これが偉大なる『脳髄のイタズラ劇』でなくて何であろう。『物を考える脳髄』が『物を考える脳髄』に自作自演さした一大恐怖ノンセンス劇のドン詰めで なくて何であろう。  拍手するものは拍手せよ。  喝采するものは喝采せよ。  泣くものは泣け。笑う者は笑え。  吾輩……アンポンタン・ポカンはこの脳髄文化の現状に気が付くと同時に、歯の根が合わなくなったのだ。この恐怖戦慄に価する脳髄社会の光景を、人知れ ず嘲笑しているポカン自身の脳髄の冷めたさを自覚すると同時に、左右の膝頭(ひざがしら)の骨がガタガタと外(はず)れそうになったのだ。この脳髄のト リックをタタキ破って、脳髄に対する汎世界的の唯物科学的迷信をドン底から引っくり返して、かくも残忍、悽愴を極めた大恐怖ノンセンス劇の興行を停止さ せずにはおられなくなったのだ。  吾輩……アンポンタン・ポカンはここに於て立ち上った。奮然として腕に綟(より)をかけた。猛然、畢生(ひっせい)の心血を傾注した最高等の探偵術を 応用しつつ、無限の時空に亘って捜索の歩を進めた結果、遂にこの脳髄と称する大悪魔の正体……『呪われたる唯物文化の偶像』の正体を徹底的に看破する事 が出来たのだ。全人類界の大悪夢……『物を考える脳髄』に関する迷信、妄執を喚(よ)び醒ますべく『絶対無上の大真理』に逢着(ほうちゃく)する事が出 来たのだ。  ……しかも……その大真理なるものは、それが余りに簡単で、平凡であり過ぎるために、却(かえ)って誰にも気付かれなかった程の驚異的な大真理であっ た。初めて脳髄が発見されて以来、ベーコン、ロック、ダーウィン、スペンサー、ベルグソンなんどに到るまでのアラユル非凡な脳髄たちが、彼等自身に認識 し得なかったところの『脳髄の真活躍』そのものでなければならなかった。地上二十億の生霊を弄殺(ろうさつ)しつつある『脳髄の大悪呪文』を焼き棄てる 一本の燐寸棒(マッチぼう)に外ならなかったのだ。  諸君よ。欣喜雀躍(きんきじゃくやく)せよ。勇敢に飛び上り、逆立ち、宙返りせよ。フォックストロット、ジダンダ、ステップせよ。  交通巡査も安全地帯も蹴飛(けと)ばしてしまえ。  古来今に亘る脳髄の専制横暴……人類最後の迷信から解放された凱歌を歌え。  吾輩……アンポンタン・ポカンは遂に此(かく)の如くにして、地上の大悪魔を諸君の眼前にまで追究して来たのだ。神出鬼没、変幻自在の怪犯人、残忍非 道のイタズラ者のトリックの真相をドン底まで突き止めて来たのだ。そうしてタッタ今、その大悪魔の正体……ポカン自身の脳髄を、諸君の眼の前にタタキ付 けて、絶叫する光栄を有するのだ。……曰(いわ)く……  ……脳髄は物を考える処に非ず……  ……と……」        ×          ×          ×  アッハッハッハッハッハッ。どうだい。痛快だろう。超特急だろう。絶対的ブラボーだろう。全世界二十億の脳髄をダアとなすに足る、超特急探偵小説だろ う。  ……ナニイ。まだ解らない……?……。  アハアハアハ。それは脳髄で考える癖がまだ抜け切れないからだよ。「精神は物質也」式の唯物科学的迷信が、まだ頭の隅のドコかにコビリ付いているせい だよ。  聞き給え。吾が青年名探偵アンポンタン・ポカン博士は、タッタ今地上にタタキ付けたばかりの泥ダラケの脳髄を指して、コンナ論証を続けているのだ。        ×          ×          × 「……見よ……聞け……驚け……呆れよ。  この脳髄のトリックの真相を……悪魔以上の悪魔の横道(おうどう)ぶりを……。  吾々人類は、脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス以来、この『物を考える脳髄』のために飜弄され続けて来たのだ。明けても暮れてもこの脳髄の前に 、自分のアタマを拝脆(はいき)させられるべく……自分の肉体と、精神の全部を挙げて奉仕させられるべく、錯覚させられ続けて来たのだ。そうして斯(か )く云うアンポンタン・ポカン自身の頭も、そうした頭の中の一個であったのだ。  ……しかし……今やその錯覚は打ち破られなければならぬ時が来たのだ。脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス氏の錯覚が清算されねばならぬ機会が来 たのだ。ポカンの足下に横たわるポカンの脳髄と同様に、泥塗(どろま)みれになって終(しま)わねばならぬ時機が来たのだ。  ……ポカンはこの十字街頭に於て、地上最初の宣言を高唱する。すなわち最尖端の学術……最末期の科学的宗教……アンポンタン・ポカン式『脳髄論』を公 表する光栄を有するのだ。  吾輩ポカンは断言する。『物を考える脳髄が、物を考える脳髄の事を考え得ない』という事は『二つの物体が、同時に、同所に存在し得ない』という物理学 上の原則と同様に、万古不易の公理でなければならぬ。だから『物を考える脳髄』の事を考える『物を考える脳髄』は、一番最初に脳髄を発見した科学者ヘポ メニアスが、自分の脳髄の作用を錯覚した『脳髄の幽霊』に悩まされ続けて来たのである。そうして今や将(まさ)に、自分の脳髄の幽霊に取り殺されようと している現状である。  だから吾輩……アンポンタン・ポカンはこれに対して堂々と挑戦したのである。  ……物を考える処は脳髄ではない……。  ……物を感ずる処も脳髄ではない……。  ……脳髄は無神経、無感覚の蛋白質の固形体(かたまり)に過ぎない……。  ……と……。  ……これあ怪(け)しからん。諸君は何が可笑(おか)しくて、そんなに笑い転げるのだ。  ……何でソンナに往来を転がりまわるのだ。  何だって交番に這い込むのだ。……電柱に抱き付くのだ。……赤いポストに接吻するのだ。……諸君は精神に異状を来(きた)したのではないか。  ……ナニナニ……?????……。  ……『脳髄で考えなくてドコで考える』と云うのか……。  ……『脳髄で感じなくてどこで感ずるのだ』と云うのか……。  ……『吾々の精神意識はどこに在る』……『吾々はドウして生きている』というのか……。  ……ナアンダ……。  チットモ可笑しい問題ではないではないか。不思議でもなければ奇抜でもない。極めて平々凡々の問題ではないか。  ……パンツの泥を払え。  ……シャッポを冠り直せ。  ……クラバアツを正して聞け……。  吾々の精神……もしくは生命意識はドコにも無い。吾々の全身の到る処に満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジ事なんだ。  お尻を抓(つ)ねればお尻が痛いのだ。お腹が空(す)くとお腹が空くのだ。  頗(すこぶ)る簡単明瞭なんだ。  しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり難(にく)いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、吾々が常住不断に意識しているところ のアラユル慾望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、吾々の全身三十兆の細胞の一粒一粒毎(ごと)に、絶対の平等さで、おんなじよ うに籠(こ)もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒毎(ごと)に洩れなく反射交感する仲介の 機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ。  赤い主義者は、その党員の一人一人を細胞と呼んでいる。それと同様に細胞の一粒一粒を人間の一人一人と見て、人間の全身を一つの大都会になぞらえると 、脳髄はその中心に在る電話交換局に相当する事になる。そうしてソレ以外の何物でもあり得ない事がわかるのだ。  ……それでもまだ合点(がてん)が行かなければ吾輩、ポカンと一緒にこっちへ来るがいい。時間と空間のあらん限りを馳けめぐって、脳髄の正体を突止め て行ったポカンの苦心惨憺の蹤跡(あと)をモウ一度くり返して辿(たど)ってみるがいい。  まず第一に脳髄が如何なる処から、如何なる理由の下に、如何にして生まれて来たかを探るべく、アタマ航空会社専用の超スピード機『推理号』の銀翼の間 に、吾輩アンポンタン・ポカンと相並んで同乗するのだ。そうして爆音勇ましくアタマ飛行場を離陸すると、無限の時空を一気に翔破(しょうは)しつつ、諸 君の眼下に横たわる雄大、荘厳を極めた万有進化の大長流を六億年ほど逆航するのだ。  見たまえ。……現在の人類全盛の世界は一瞬間に未来の夢となって、マンモス、エレファス、ステゴドンなぞいう巨獣が、時(とき)を得顔(えがお)にノ サバリ廻っている百万年前の象の世界が、脚下に展開して来るであろう。  それから更に、その百万年前の竜の世界、その又以前の鳥の世界、その又ズット以前の魚の世界、貝類の世界、スポンジの世界と、次第に進化の度の低い、 小さな生物ばかりの世界へ超スピードで引返して、遂に六億万年前の古世代までやって来ると……ドウダ……天地を覆(くつがえ)す大噴火、大雷雨、大海嘯 (おおつなみ)、大地震の火煙(ひけむり)、水けむり、土煙(つちけむり)が、あとからあとから日月を蔽(おお)いながら渦巻きのぼっているこの世界の 若々しさはドウダ。地球の元気さはドウダ。  そこでこの地表に泡立ち漂っている塩分の薄い、摂氏四十度内外の温度を保っている海水の一滴を採取して、顕微鏡にかけて覗いてみたまえ。諸君は眼の前 に、無量無数に浮游している単細胞生物の拡大像を発見するであろう。将来一切の生命の共同の祖先となるべき元始細胞の大群集を、さながらに見渡し得るで あろう。……しかもこの元始細胞こそは地球の表面が、御覧の通りの天変地妖を起しながら、少し宛(ずつ)少し宛冷却して来るうちに、あとからあとから作 り出して来た色々な化合物の中でも、一番最後に出来た最高等複雑なものであった。諸原素の活力を最も円満、敏活に発揮し得るように化合させた微妙精英の 有機体……あめ、の、みなかぬしの正統、エホバの愛(いと)し児(ご)、日の神の王子ホルスとも称(たた)うべき、地上最初の生命の群れに外ならなかっ たのだ。  だからこの元始細胞の一粒一粒は、その環境の変化に応じてアラユル意識だの、感情だの、判断力だのを現わし得る、無限の霊能を持っていたものである。 自分以外の無機物、有機物を同化して、自己を増大し分裂すると同時に、その分裂した近所合壁(きんじょがっぺき)の細胞同志に、お互いの感覚や意識を反 射交感させ合う霊能までも一緒に持っていたのだ。  その証拠に見たまえ……諸君の眼の前で、今の元始細胞が盛んに自己を分裂増大して、その形態と能力をグングン進化させ初めたではないか。その霊能でも って見る見るうちに成長し、分裂し、結合し、反射交感して、一心同体となって共鳴、活躍しつつ、自分達の共産的霊能を飽くまでも地上に発揮すべく、次第 に高等複雑な姿に進化し初めたではないか。そうして…… 「最早(もう)、ここまで進化したら天下無敵だろう。オレサマ以上に進化した奴は他にいないであろう」  と安心して、自惚(うぬぼ)れ切った奴が、そうした得意時代の姿をソックリそのまま、スポンジ、貝類、魚、鳥、獣(けもの)という風に、それぞれの子 孫に伝えて来るうちに……ドウダ……いつの間にか今日の通りの複雑多様、千変万化のありとあらゆる生物界を、諸君の眼の前に展開させて来たではないか。  ……ところで見たまえ。  コンナに色々と千差万別している動物たちの中でも、進化の度合いの極めて低い、海月(くらげ)以下の動物連中は、御覧の通り脳髄とか、神経粒(りゅう )とかいうハイカラなものを持っていないだろう。大昔の通りに全身の細胞同志の反射交感作用でもって、あらゆる感覚を全身同時に意識し合いつつ、考えて 、動いて、喰って、寝て、生きているだろう。  ところが吾々みたように高等複雑な進化を遂げた動物になって来ると、御承知の通り、意識の内容が非常に立て込んで来る。細胞同志の距離間隔(へだたり )もだんだんと遠くなって『あんな処まで俺の身体(からだ)かしら』なぞと、湯槽(ゆぶね)の中で趾(あしゆび)を動かしてみる位にまで長大な姿になっ ている。だから、手足や、眼鼻が専門専門で分業になっているように、意識の方でも『脳髄』と名付くる自動式、複式、反射交感局を作って、全身三十兆の細 胞同志の感覚や、意識を縦横ムジンに反射交感させつつ、全身一斉に……俺は俺だぞ……俺はこうして生きているんだぞ……という気持になっているのだ。  吾々の全身三十兆の細胞は、かようにして、流れまわっている赤血球、白血球から、固い骨や、毛髪の尖端に到るまでも、吾々が感じている意識の内容をソ ックリそのままの意識内容を、その一粒一粒毎(ごと)に、同時に感じ合って、意識し合っているのだ。  眼の球(たま)ばかりで物を見る事は出来ない。耳ばかりで音は聞えない。その背後(うしろ)には必ずや、全身の細胞の判断感覚がなければならぬ。  同様に脳髄が、脳髄ばかりで物を考えたり、感じたりする事は不可能である。その背後(うしろ)には必ずや全身の細胞相互の主観、客観がなければならぬ 。さもなければ人間の脳髄は、銀幕と観衆を喪失(なく)した活動写真機と同様の無意義なものになってしまうのだ。  しかも、その脳髄によって仲介された全身の意識の、反射交感作用の敏活な事というものは、真に驚くばかりである。トテモ電信電話、ラジオぐらいで繋が り合っている人間の社会組織なぞの追付くところでない。……背筋がヒヤリとすると同時に全身がゾ――ッと粟立(あわだ)つ……お尻がチクリとするかしな いかに『アッ』と飛び上る……という、それ程左様に迅速敏活を極めているのだ。  吾々の全身の各器官を形成する三十兆の細胞の一団は、こうしてメイメイに各自専門の仕事を分担しつつ、脳髄の反射交感機能を使って、一斉に、直接に物 を見て、聞いて、嗅(か)いで、味わっているのだ。脳髄を中心として一斉に意識し、感激し、闘い、歌い、舞い、喚(わ)めき、叫んでいるのだ。  ……嬉しいと食慾が進む。胃袋も一緒にハシャイでいるからだ。  ……飯を喰うと、まだ消化もしないうちに元気が付く。全身の細胞が同時に満腹するからだ。  だから吾々が自分の生命、もしくは精神として意識しているものの正体は、全身無数の細胞の一粒一粒が描きあらわすところの主観客観が、脳髄の反射交感 作用仲介で、タッタ一つにマン丸く重なり合ったのを、透かして覗いているだけのものだ……という事が、もはや文句なしにわかるだろう。同時に吾々が今日 まで迷信させられて来た脳髄の偉大な内容は、実は全身の細胞の一粒一粒に含まれている無限の霊知霊能が、そこで反射交感されているのを錯覚していたもの だ……ちょうど電話交換局が、都会を支配していると考えるように……という事実が、何のタワイもなく点頭(うなず)かれるだろう。  ……ナント諸君……簡単明瞭ではないか。  ……開(あ)いた口が閉(ふさ)がらぬではないか。  ……現代の科学者たちが、最大、最高級の不可思議とし、驚異としている生命意識の根本問題は、こうして『脳髄が物を考える』という考えを引っくり返し て考えると同時に、何の苦もなく氷解して終(しま)うではないか。脳髄の受持っている役割が、手足のソレと同様にハッキリして来るではないか。  ……それでも、まだわからなければモウ一度、こちらへ来てみたまえ。ポカンの足の下に横たわっているこの脳髄と名づくるアンポンタン・ポカン式、自動 式、反射交換局の内部を覗いてみたまえ。この交換局の中に詰めかけている親切明敏を極めた交換嬢……神経細胞たちの仕事振りを参観して見給え……。  彼女たち……神経細胞の大集団は、御覧の通り自分自身に電線となり、スイッチとなり、コードとなり、交換台、中継台となり、又はアンテナ、真空管、ダ イヤル、コイル等に変形すると同時に、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係り、笑い係り、見係り、聞係り、記憶係 り、惚れ係りなぞいう、あらん限りの細かい専門に別れながら、アノ通り夜となく昼となく、浮世を離れた気持になって、全身三十兆の市民の気持を隅から隅 まで、反射交感させられているのだ。  ……諸君は彼女たちに話しかけてはいけない。  彼女たちは全身の細胞群の中から選み出された反射交感術の専門技手なのだ。だから彼女たちは、普通の交換局の彼女たちと同様に、自分がドンナ事を反射 交感しているか……なぞいう事は全然知らないまま、一分一秒の休みもなく呼び出され、呼び出し、切り換え、継ぎ直させられているのだ。……内閣が代ろう が戦争が初まろうが、大地震が初まろうが、大火事になろうが、又は、暑かろうが寒かろうが、頭に蜂が螫(さ)そうが、尻に火が付こうが、頓着している隙 (ひま)は無いのだ。彼女たちはタダそうした意識や、判断や、感覚を、全身に反射交感するアンポンタン・ポカン式電池、コード、交感台、コイル、ダイヤ ル、真空管、等々々に過ぎないのだから……。  だから諸君は彼女たちに話しかけてはいけないのだ。彼女たちに物を考えさせてはいけないのだ。彼女たちにソンナ受持以外の仕事をさせて、彼女たちを二 重に疲れさしてはいけないのだ。  そうして彼女たちが、ほかの事を考えなければ考えないほど……単純な反射交感の仕事だけに一心不乱になればなる程、全身の反射交感機能が敏活、迅速を 極めて行く。アタマが疲れない。チラチラしなくなる。頭脳明晰……シーク……ホガラカという事になって行くのだ。  ナント簡単明瞭ではないか。アタマが、アンポンタン・ポカンとなるではないか。  吾輩……アンポンタン・ポカン局長はここに於て明言する事が出来る。  この簡単明瞭なる脳髄局のアンポンタン・ポカン式、反射交感組織にシャッポを脱いで、頭脳明晰……意識ホガラカとなったアンポンタン諸君のアタマなら ば、最早(もはや)、二度と再び脳髄のトリックに引っかからないであろう。脳髄で物を考えないであろう。……そうして最尖端式脳髄学のトップのトップを 切った大博士となって、アラユル脳髄関係の不可思議現象を、一挙にアンポンタン・ポカン化し得ると同時に、この人類文化の死命を掌握する大怪魔『脳髄』 の正体をここまで、的確に探偵し、曝露して来た吾輩……かくいうアンポンタン・ポカンの名脳髄振りに、今一度シャッポを脱がずにはいられなくなるであろ う……と……。  しかしながら諸君の中には、まだシャッポを脱がない人が居るかも知れない。  これだけではまだ十分な説明が出来ないであろうところの精神病関係、もしくは心霊に関する各種の怪奇、不可思議現象に就(つい)て、首をひねっている 篤学の士が居るかも知れない。  ……宜(よろ)しい……大いによろしい。  そういう人々こそ共に怪奇を語るに足る人々である。この地上、最大の怪奇的神秘の正体……一切のエロ、グロ、ノンセンスの主人公たる脳髄を、徹底的に アンポンタン・ポカン化しなければ止まない最新、最鋭、最高級の尖端人種でなければならぬ。  ……宜しい……大いに宜しい。  そのような人々は済ないがモウ一度シャッポを冠(かむ)り直して、脳髄局の大玄関に引返してくれ給え。そうしてここだここだ……ここに掲示してある『 脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約』なるものを読んでみたまえ。  ドウダイ諸君……この規約箇条はこの通り僅かに三箇条しかない。普通の電話交換局加入規約の何十分の一にも足りない。頗(すこぶ)るアッサリしたもの である。しかもこの三箇条の加入規約は、人間の全身三十兆の細胞が、祖先伝来の不文律として、非常識なほど極端に遵奉しているものであるが、しかもこの 簡単な三箇条が呑み込めさえすれば、諸君はモウ立派な一人前の、押しも押されもせぬ脳髄学大博士になれるのだ。現在、地球の全表面に亘って演出されつつ ある脳髄関係のあらゆる不可解劇、皮肉劇、侮辱虐待劇、ノンセンス劇、恐怖劇、等々々の楽屋裏が、如何にタワイもないものであるかを何のタワイもなく看 破する事が出来るのだ。 ◇第一条 脳髄局ヨリ反射交感シ来(きた)ル諸般ノ報道ハ、仮令(たとい)、事実ニ非(あら)ズトモ、事実ト信ジテ記憶スベシ。  ……泥棒が這入った夢を見て、大声を揚げて家(うち)中を呼び起す連中は、この第一箇条に支配されている連中に外(ほか)ならないのだ。 ◇第二条 脳髄局ヨリ反射交感シ来ラザル事ハ、仮令自身ニ行イタル事ト雖(いえど)モ、事実ト認ムベカラズ。記憶ニモ止(とど)ムベカラズ。  ……『昨夜(ゆうべ)、君の蒲団(ふとん)を引ったくった覚えはない』なぞと頑張る連中は、この第二箇条を厳守している正直者に相違ない。  ところで右の二箇条は、現在の精神病学界で二重圏点付きの重大疑問となっている『ねぼけ状態』を引き起す規約である。むろん普通のアタマの人間にも、 よくある事だし、文句も簡潔だから記憶し易いが、第三条となると御覧の通り、文句が少々ヤヤコシイようである。しかし意味は前の二箇条と同様すこぶる簡 明である。すなわち…… 『脳髄の反射交感機能に異状が起った場合には、脳髄の無い下等動物と同様に、脳髄以外の全身の細胞の反射交感作用を脳髄の代りに活躍させよ』  という意味の規約で、いわば脳髄の非常時に対する応急手段とでもいおうか。……しかも彼(か)の『物を考える脳髄』が今日まで、幽霊、妖怪、幻覚錯覚 、精神異状、泣き中気(ちゅうき)、笑い中気、夢中遊行、朦朧(もうろう)状態なぞいうあらゆる超科学的、もしくは超説明的な怪現象を演出して、全世界 の科学者の脳髄をドン底まで飜弄して来たモノスゴイ手品の種シカケは、実にこの簡単明瞭な第三条の規約の逆用そのものに外ならなかったのである。曰(い わ)く、 ◇第三条 脳髄局ノ反射交感機能ニ故障ヲ生ジタル場合、ソノ故障ヲ生ジタル一個所ニ於テ反射交感サレツツアリシ或ル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ絶チ、全 身ノ細胞各個ガ元始以来保有セル反射交感作用ヲ直接ニ元始下等動物ト同様ノ状態ニ於テ(脳髄ノ反射交感作用ト無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ感覚 シ、判断シ、考慮シ、又ハ全身ヲ支配シテ運動活躍セシムルヲ得ベシ。 【附則】 (イ)脳髄局ガ反射交感スル暇(いとま)ナキ急迫ノ場合……例エバ無意識ニ眼ヲ閉ジ又ハ飛ビ退(の)ク場合等。(ロ)麻酔セル場合……例エバ 麻酔剤ニテ脳髄ノ全体ガ反射交感機能ヲ停止シイル場合ニ、全身ノ細胞ノ感覚、意識記憶等ニヨリテ行ウ無意識ノ挙動言語等。(ハ)脳髄ガ異状ノ深度ニ熟睡 セル場合……例エバ夢中遊行、寝言、歯ギシリ等。以上ノ三種類ノ場合モコレニ準ズ。  忘れないうちにノートか何かに書き止めておき給え。学生諸君には特におすすめする。この第三条が脳髄衛生学の初め終りで、諸君の持病といってもいい神 経衰弱は、要するにこの規約から生まれた病気に外ならない……否……人類の中でも文化民族と自称する者の大部分は現在、この第三条の規約に引っかかって 、精神的の破産、滅亡状態に陥りつつあるのだから……。  と……いうのは他の理由でもない。今まで説明して来たところでもアラカタ想像が付くであろう通りに脳髄局のポカン式反射交感機は、構造が非常にデリケ ートに出来ているのだから色んな故障を起し易いばかりでなく、その故障箇所の取換えが、なかなか急に行かない。だから止むを得ずコンナ応急手段的な規約 が設けられているのだ。  しかも、こうした脳髄局に於ける反射交感の応急規約、第三条の存在を最も有力に、簡単明瞭に証拠立てて、脳髄が作り出した地上一切の怪奇現象のカラク リの種明しをするのに持って来いの第一例というのが、ツイ今しがた引合いに出した『泣き中気』『笑い中気』だから愉快ではないか。  すなわち脳髄の中の或る一個所……たとえば『笑い係り』の交感台が、脳出血のために麻痺して、反射交感が不能になると、そこで反射交感されていた『笑 いの電流』だけが第三条の規約通り、ほかの意識との連絡を失って遊離してしまう。そうして脳髄以外の全身の細胞が元始以来遺伝して来ている反射交感の機 能を先廻りに使用しながら、何でもカンでも無暗矢鱈(むやみやたら)に笑わせるのだ。ほかの『怒り』や『悲しみ』の電流が動きかけても、その電流が中央 の反射交感台を遠まわりして来るうちに、遊離している『笑いの電流』の方が、直接に全身の細胞を馳けまわって、先へ先へと笑い散らかして行くのでほかの 感情が外へあらわれる隙(すき)が無いのだ。これが俗に『笑い中気』という奴で『怒り中気』でも『泣き中気』でも、みんな、おなじ理屈で起るのだ。  いうまでもなく、これは脳出血から来た故障だから、病理解剖をして頭の蓋(ふた)を取ってみればすぐにわかる。……『ハハア。ここが笑いの電流を交感 する処だな』……という事実が一目瞭然する訳であるが、しかし、実をいうとコンナ風に、肉眼で見える脳髄の故障というものはドチラかといえば例外に近い 方で、まだこのほかに眼に見えない脳髄の故障が演出する怪奇現象の種類がドレ位あるか、わからない。所謂(いわゆる)エロ、グロ、ノンセンスのモノスゴ イところを取交(とりま)ぜて科学文明の屋根裏から地下室……アタマ文化の電車通りから横路地に到るまで、昼夜不断にウヨウヨヒョロヒョロと、さまよい 廻っているのだ。……のみならず、その怪奇現象ソレ自身の一つ一つが又、ソックリそのままに、聴診器にも這入(はい)らず、レントゲンにも感じないデリ ケートな脳髄の故障を、一つ一つにハッキリと証拠立てているから面白いではないか。  まず第一に、何よりも憤懣に堪えないのは、現代の所謂『物を考える脳髄』諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が 存在している事実を、夢にも気付かないでいることだ。……だから『脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない』とか何とか云って、ヤタラに頭を抱えた り、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。……脳髄が物を考える処でない……単純な反射交感専 門のアンポンタン・ポカン局……という事実にミジンも気付かないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力して いる事だ。……電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。  そのために脳髄局の交換手たちがドレ位、事務の過重負担に悩まされているか……そのためにドレくらい思い切った反射交感事務の間違い……幻覚、錯覚、 倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、殆ど想像も及ばないであろう。  論より証拠……事実は眼の前だ。  アンマリ脳髄で物を考え過ぎると、電流を通じ過ぎたコイルと同様に、脳髄の組織の全体が熱を持って来て、その反射交感の機能が弱り初める。そうすると 全身の細胞に含まれている色んな意識が、お互い同志に連絡を喪(うしな)って、めいめい勝手な自由行動を執(と)りはじめる事になる。ソイツが軽い、半 自覚的な、意識の夢中遊行となって、全身の細胞が作り出している意識の空間を無辺際に馳けまわるのだ。……諸君が何か知ら考え詰めてアタマの疲れた時分 にウットリと凝視している、アノ取止めのない空想とか、妄想とかいうものがソレで、そのうちに脳髄がイヨイヨ疲れて眠り込んで来ると、そんな意識同志の 連絡もイヨイヨ絶え絶えになって来る。そうして次第次第に辻褄の合わない夢になって行く状態は、諸君が小説を読みさして眠りかける時だの、教室や電車の 中で舟を漕(こ)いだりする際にマザマザと体験しているところであろう。  昔の人は迷信が深かったから、暗闇の中なぞを行く時には、恐怖のために脳髄を疲らして色々な幻覚や倒錯観念に陥ったものだ。そんな幻視や幻感が、幽霊 になったり、妖怪変化(へんげ)になったりして、物の話に伝わり残っているのであるが、しかも、そんな事実を笑う連中はお気の毒ながら現代式のハイカラ な神経の持主とはいえないのだ。神経衰弱とヒステリーと、制限剤と睡眠薬を持ちまわる紳士淑女の仲間に這入れないのだ。  諸君みたような近代人の中(うち)でも、特に目まぐるしい都会生活をやっている人間たちは、真昼さ中でも脳髄の機能を疲らしているから、色んな意識作 用や、判断感覚なぞいうものが遊離して、全身の神経末梢……細胞相互間の反射交感機能を這いまわりつつ、フラフラチラチラとした夢中遊行状態になりかけ ているのだ。……だから、大きな煙突の傍を通ると、今にも頭の上に倒れかかって来るような気がして、思わず急ぎ足になるのだ。……眠っている枕元に、往 来の電車の音が走りかかって来るような気がして、ツイ電燈を灯(つ)けてみたくなるのだ。そのほか、ストーブが欠伸(あくび)をしたの、卵の黄味が皿の 中から白眼(にら)んだの、昨夜帰りがけに、向うの辻の赤いポストの位置が違っていたの、パン焼竈(やきがま)が深夜に溜息をしたの、画像が汗を流した の、机の抽出(ひきだ)しから白い手があらわれてオイデオイデをしたの、ピストルが自分の方を向いてズドンといったの……というような奇怪現象が、科学 文化のマン中に引っ切りなしに起って来るのは、みんな脳髄の疲労から起る、反射交感事務の間違い……すなわち意識の夢中遊行に外ならないのだ。  ところで前にも断った通り、この程度の精神異常だったら諸君の中にもザラに在るのだ。しかもこの程度の連中は、自分でもウスウス自分の精神異常を自覚 しているので、ウッカリ気違い扱いにすると、益々病状を昂進させる虞(おそ)れがあるから、わざと精神病者の数に入れてないのであるが、コイツが今一歩 進んで来るとトテも放ったらかしておけなくなる。金箔(きんぱく)付の発狂となって、赤煉瓦のアパート生活に、護衛付の資格が出来て来るのだ。  吾輩……アンポンタン・ポカンが今日まで御厄介になっている九州帝国大学の精神病科教室には、ソンナ連中がウジャウジャ居たもんだ。しかも、ソンナ連 中を代る代る教壇へ引っぱり出して、そこの主任の正木キチガイ博士が生徒に講義をするのを聞いてみると、チョウドこの吾輩、アンポンタン・ポカンが考え ている通りの事を饒舌(しゃべ)っているから面白い。 「……エヘン……人間の脳髄というものは、今も説明した通り、全身の細胞の意識の内容を細大洩さず反射交感して、一つの焦点を作って行くところの複合式 球体反射鏡みたようなものである。人間の脳髄が全身三十兆の細胞の一粒一粒の中を動きまわる意識感覚の森羅万象(しんらばんしょう)を同時に照しあらわ している有様は、蜻蛉(とんぼ)の眼玉が大千世界の上下八方を一眼で見渡しているのと同じ事である。……ところでその人間の脳髄によって、時々刻々に反 射交感されて、時々刻々に一つの焦点を作って行くところの精神……すなわちその人間の全身の細胞の一粒一粒の中に平等に含まれている、その人間の個性と か、特徴とかいうものは、吾輩の実験によると一つ残らず、その人間が先祖代々から遺伝して来た、心理作用の集積に外ならないのだ……すなわち、その先祖 代々が体験して来た、千万無量の心理的習慣性のあらわれが、脳髄の反射交感作用によって統一されてお互いに調和を保ち合いつつ、焦点を作って行くのを所 謂(いわゆる)、普通人と名付けているのであるが、しかし……人間の心理作用というものは一人一人ごとに、それぞれ違った癖があるもので、その癖を先祖 が矯正しないまま子孫に伝えて来ると、代を重ねるうちにダンダン非道(ひど)くなる事がある。たとえば或る一つの事をどこまでも思い詰める癖を遺伝した 女が、どうかした拍子に或る一人の男を見初(みそ)めたとする……寝ても醒めても会いたい、見たい……一緒になりたいといったような事ばかりを繰返し繰 返し考え続けて行く事になると、そうした『恋しい意識』を反射交感する脳髄の一部分がトウトウくたびれて動けなくなる。そこでその一部分で反射交感され ていた恋しい意識が、次第次第に遊離して、空想、妄想と凝(こ)り固まった挙句(あげく)、執念の蛇式の夢中遊行を初める。夜も昼もさまのお姿を空中に 描きあらわして、その事ばかりを口走らせるようになる。そうなると又、その恋しい係りの交感台の交感嬢がイヨイヨやり切れなくなってヘタバリ込む。恋し い意識がイヨイヨ完全に遊離して活躍空転する。ますます発狂の度合が深くなる。……往来へ馳け出す……取押えられる。鉄の格子をゆすぶって狂いまわる… …又は何々狂乱と名付けられて花四天の下に振付けられ、百載(ひゃくさい)の後(のち)までも大衆の喝釆を浴びる……という順序になる。  もっとも、これは普通の人間が普通に発狂して行く順序で、こうした傾向をチットばかり持っている人間が普通人で、多分に持っている人間を所謂(いわゆ る)、精神病系統(キチガイスジ)の人間と呼んでいるに過ぎない。だから発明狂、研究狂、蒐集狂、そのほか何々狂、何々キチガイと呼ばれている人間は程 度の相違こそあれ皆、このお仲間に相違ない。手当が早ければ救われ得る場合が無きにしもあらずであるが、サテコイツがモウ一段開き直って、本格の夢中遊 行病となるとガラリと趣が違って来る。……無論、精神病の一種に相違ないし、その活躍ぶりも普通の狂人以上にモノスゴイものがあるのだが、しかしその当 の本人は普通人とチットモ変らない。否、寧(むし)ろ、鼻の病気か何かで少々ボンヤリしていたり、頭が素敵にデリケートで学問が出来過ぎたり、気が弱過 ぎて虫も殺せなかったりするような、特別誂(あつら)えの善人の中に往々にして発見される珍病で、キチガイなぞいう名前はドウしてもつけられないのであ るが、それでいてその人間が真夜中になると、ムクムクと起上って、キチガイ以上の奇抜滑稽や、残忍無道をヤッツケルのだから、イヨイヨモノスゴくて面白 い事になるのだ。  すなわちその人間が眼を醒している間の意識状態は普通の人間とチットモ変らない。その全身の細胞の意識は、脳髄の反射交感作用によって万遍なく統一、 調和されて行くのであるが、サテ日が暮れて夜が更けて、その人間の脳髄が、全部休止の熟睡状態に陥ることになると、その熟睡状態なるものが普通人のソレ と違って来る……つまり普通の熟睡の程度をズット通り越して、死の世界の方へ近付いて行くので、当り前のユスブリ方や怒鳴り声では絶対に眼を醒まさない 所謂(いわゆる)、死人同様の状態にまで落ち込んでしまう……というのがこの夢中遊行病患者の特徴になっているのだ。  ところでソンナ風に睡眠の度が深くなって来ると、その必然的な結果として、全身の細胞の意識の中に、そこまで深く睡り切れない奴が一つか二つ出来る事 になる。しかもその眠り後(おく)れた意識は、背景が黒くなればなる程、前景が光り出して来るように、睡眠が深くなればなる程ハッキリと眼を醒して、色 々な活躍を初める事になるのだ。  たとえば或る人間が、或る感情とか、意志とかの一つだけを、極度に昂奮させたまま眠りに落ちたとする……『あのダイヤが欲しいナア』とか……『憎いア ンチキショウを殺してやりたい』とか思って昂奮しいしい眼をつむっていると、やがて、その脳髄が熟睡のドン底に落ちた時に、その脳髄と一所に睡っている 細胞の中でも、その意識だけがタッタ一つ睡り後(おく)れて眼を醒している。そうしてその意識は、良心とか、常識とか、理智とかいうものと連絡を失った 、片チンバの姿のままで起き上って、全身の細胞が持っている反射交感作用を脳髄の代りに使いながら動き出す。そうして全身の細胞の中から、必要に応じて 勝手気儘に呼び起した判断、感覚なぞいうものと連絡を取りつつ、見たり聞いたり、考えたりして、望み通りの仕事をする。欲しいダイヤを失敬したり、憎い アンチキショウを殺したりするのであるが、しかし、そんな仕事をしている途中の出来事は、脳髄を通過した印象でないからチットモ記憶していない。あとで 眼を醒してもケロリとして、平生とチットモ変らないアンポンタン・ポカン人種に立ち帰っている。たとい盗んだダイヤモンドや殺した相手の死骸を突付けら れても、知らない事は白状出来ないので、いよいよアンポンタン・ポカンとなるばかりだ。  その代り、そうした夢中遊行の最中は、全身の細胞が、脳髄の役目と、自分たちの専門専門の役目と両方を、同時に引受けて活躍している訳だから、眼が醒 たあとで一種異様な疲労を自覚するのが通例になっている。この道理は薬を使って、脳髄だけを麻酔させた場合と全然同一であるのを見ても、容易に首肯出来 るのであるが、しかし又、この麻酔後の疲労と、夢中遊行後の疲労とは、そんな風に全然同じ性質の疲労でナカナカ鑑別が出来にくいものだから、非常に面白 い法医学上の研究問題となる事がある。  その好適例として持て来いの標本は、現在、ここに突立って、吾輩の講義を傾聴しているこの青年である。この青年は諸君の中に見知っている人が居るかも 知れない。住所姓名は例によって公表を差控えるが、まだやっと二十歳(はたち)になった今年の春に、この大学の入学試験を受けて、最高級の成績でパスす ると間もなく、可哀相に先祖から遺伝して来た夢中遊行病の発作にかかって、結婚式の前夜に、自分の花嫁を絞殺してしまった。しかもこの青年はそればかり でなく、その前に十六の年にも同じ発作にかかって、実の母親を絞め殺したという、この方面でも稀に見る英雄児であるが、しかもその後、この教室にやって 来て、吾輩独特の解放治療にかかっているうちに、次第に正気を回復して来たらしく、この頃は自分の頭髪(あたま)を掻きまわしたり、耳の上を挙固でコツ ンコツンとなぐったりしてここがドウかなっているに違いない違いないと云い出しはじめた。そうして時々部屋の中で立止って、脳髄の演説を初める事がある が、その演説が又、一から十まで、この教室で聞いた吾輩の受け売(うり)だから痛快で、吾輩も時々参考のために拝聴に行く位だ。この種類の人間の記憶力 のスバラシサというものはトテモ想像を超越したモノスゴイものがあるのだからね……何故かというとこの青年は強烈な夢遊病の発作に罹(かか)った結果、 過去の記憶から完全に切離されているので、現在の出来事に対する記憶作用は、何ものにも邪魔されない絶対の自由世界に浮いて遊んでいる。だから一旦注意 力を集中するとなるとドンナ細かい事でも超人的の正確さをもって記憶する事が出来るのだ。しかし平生はこの通り、初めて卵から這い出した生物のように、 ビックリした表情を続けているから、とりあえずアンポンタン・ポカン博士という尊称を奉っている訳であるが……」  正木教授がここまで講義して来ると、学生連中が一度にこっちを見てゲラゲラ笑い出したものである。だから吾輩は、そのままポカンと精神病院を飛び出し てしまった。そうして今日只今、この十字街頭に立って、諸君の脳髄の異状振りを観察しているうちに、断然、棄てておけなくなったからこんな警告を発した のだ。時空を超越したポカン式脳髄論を、思い切って公表したのだ。  ……ナント諸君感心したか。見たか。聞いたか。驚いたか。  吾輩アンポンタン・ポカンが一たび『脳髄は物を考える処に非ず』と喝破するや、樹々はその緑を失い、花はその紅(くれない)を消(けし)たではないか 。一切の唯物文化は根柢から覆(くつが)えされ、アラユル精神病学は悉(ことごと)く机上の空論となってしまったではないか。  ……繰返して云う。  人類は物を考える脳髄によって神を否定した。大自然に反逆して唯物文化を創造した。自然の心理から生れた人情、道徳を排斥して個人主義の唯物宗を迷信 した。そうしてその唯物文化を日に日に虚無化し、無中心化し、動物化し、自涜(じとく)化し、神経衰弱化し、発狂化し、自殺化した。  これは悉く『物を考える脳髄』のイタズラであった。『脳髄の幽霊』を迷信する唯物宗の害毒であった。  けれども今や、この迷信は清算されねばならぬ時が来た。神に対する迷信を否定した人類は、今や『物を考える脳髄』を否定しなければならぬドタン場に追 い詰められて来た。唯物科学の不自然から唯心科学の自然に立帰らなければならぬスバラシイ時節が到来したのだ。  だからそのスローガンの実行の皮切(かわきり)に、吾輩アンポンタン・ポカンはこの通り、自分自身の『物を考える脳髄』を地上にタタキ付けて見せたの だ。  そうしてこの通り踏み潰してしまうのだ。  ……エイッ……ウ――ン……」        ×          ×          ×  ……と……。  アハハハハハ……ドウダイ驚いたか。……見たか。聞いたか。感心したか。  これが吾輩の所謂(いわゆる)、絶対科学探偵の事実小説なんだ。超脳髄式の青年名探偵アンポンタン・ポカン博士が、博士自身の脳髄を追(おっ)かけま わして、物の美事に引っ捕えて、地ビタにタタキ付けて、引導を渡すまでの経過報告だ。世界最高級の科学ロマンス「脳髄−(マイナス)脳髄」の高次方程式 の分解公式なんだ。  だからこの小説のトリックの面白さが、ホントウにわかる頭ならば……ホラ……この間君に貸してやったろう。あの「胎児の夢」と名付くる論文の正体の恐 ろしさがわかる。その胎児が、母の胎内で見ているスバラシイ大悪夢を支配する原理原則がわかる。そのモノスゴイ原理原則を実験している解放治療の内容だ の、そこに収容されているアンポンタン・ポカン博士の正体や、その戦慄すべき経歴なぞが、手に取るごとく理解されて来るのだ。  しかもその上に、モウ一つオマケのお慰みとしては……「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考える処に 非ず」という結論が生れて来る……という事実はモウわかったとして、その「考える処に非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「 物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……この 儀お眼止まりましたならばよろしくお手拍子(てびょうし)……。  ……ナニイ。眼が眩(まわ)って来たア……。  アハハハハハ……それあ眩るだろう。吾輩の気焔を聞かされたら、大抵の奴がフラフラフラと……。  ……ナ……なんだ。そうじゃない。葉巻に酔ったんだと?……  アッハッハッハッ……コイツは大笑いだ。  ワッハッハッハッハッハッハッ。 (文責在記者)   胎児の夢 ――人間の胎児によって、他の動植物の胚胎の全部を代表させる。 ――宗教、科学、芸術、その他、無限の広汎に亘るべき考証、引例、及(および)、文献に関する註記、説明は、省略、もしくは極めて大要に止める。  人間の胎児は、母の胎内に居る十箇月の間に一つの夢を見ている。  その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、乃至(ないし)、数百億年に亘るであろう恐るべき長尺( ちょうじゃく)の連続映画のようなものである。すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状態から初まってい て、引き続いてその主人公たる単細胞が、次第次第に人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像も及ばぬ長い長い年月に亘る間に、悩ま されて来た驚心(きょうしん)、駭目(がいもく)すべき天変地妖(てんぺんちよう)、又は自然淘汰(とうた)、生存競争から受けて来た息も吐(つ)かれ ぬ災難、迫害、辛苦、艱難(かんなん)に関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現わして来るところの、一つの素晴しい、想像 を超越した怪奇映画である。……その中には、既に化石となっている有史以前の怪動植物や、又は、そんな動植物を惨死、絶滅せしめた天変地異の、形容を絶 する偉観、壮観が、そのままの実感を以て映写し出される事はいう迄もない。引続いては、その天変地妖の中に、生き残って進化して来た元始人類から、現在 の胎児の直接の両親に到るまでの代々の先祖たちが、その深刻、痛烈な生存競争や、種々雑多の欲望に駆られつつ犯して来た、無量無辺の罪業の数々までも、 一々、胎児自身の現実の所業として描き現わして来るところの、驚駭と戦慄とを極めた大悪夢でなければならぬ事が、次に述べる通りの「胎生学」と「夢」に 関する二つの大きな不可思議現象を解決する事によって、直接、間接に立証されて来るのである。  まず第一に、人間の胎児が母の胎内に宿った時、その一番最初にあらわしている形は、すべての生物の共同の祖先である元始動物と同様に、タッタ一つのマ ン丸い細胞である。  そのマン丸い細胞の一粒は、母胎に宿ると間もなく、左右の二粒に分裂増殖する。そうしてそのまま密着し合って、やはり一個の生物となっている。  その左右の二個はやがて又、各々(おのおの)上下の二個ずつに分裂、増殖する。そうして矢張(やは)り、その四個とも一つに密着し合って、母胎から栄 養を摂(と)りつつ、一個の生物の機能を営んでいる。  かようにして四個、八個、十六個、三十二個、六十四個……以上無数……という風に、倍数宛(ずつ)に分裂しては密着し合って、次第次第に大きくなりつ つ、人類の最初の祖先である単細胞の微生物から、人間にまで進化して来た先祖代々の姿を、その進化して来た順序通りに、間違いなく母胎内で繰返して来る 。  まず魚の形になる。  次にはその魚の前後の鰭(ひれ)を四足に変化さして匐(は)いまわる水陸両棲類の姿にかわる。  次には、その四足を強大にして駈けまわる獣(けもの)の形態をあらわす。  そうして遂には、その尻尾(しっぽ)を引っこめて、前足を持上げて手の形にして、後足で直立して歩きまわる人間の形……普通の胎児の姿にまで進化して からオギャアと生まれる……という段取りになるので、そうした順序から、これに要する時間までも、万人が万人、殆ど大差ないのが通例になっている。  これは胎生学上、既にわかり切っている事実で、誰一人、否定し得ない現象であるが、扨(さて)、それならば、あらゆる胎児は何故(なにゆえ)に、その ような手数のかかる胎生の順序を母胎内で繰返すのであろうか。何故に、直ぐさま小さな人間の形になって、そのままに大きくなって、生まれて来ないのであ ろうか。又は、最初のタッタ一粒の細胞が何故に、そんなに万人が万人申合せたように、寸分違(たが)わぬ胎生の順序を繰返して来るのであろうか。すなわ ち…… 「何が胎児をそうさせたか」  という問題になると、誰一人として適当の解釈を下し得るものが居ない。現代の科学書類の隅から隅まで探しまわってもこの解釈だけは発見されない。唯、 不思議というよりほかに説明の仕様がない事になっている。  次に、一切の胎児は斯様(かよう)にして、自分の先祖代々が進化して来た姿を、その順序通りに寸分の間違いなく母の胎内で繰返して来るのであるが、し かしその経過時間は非常に短かめられているので、人間の先祖代々の動物が、何百万年かもしくは何千万年がかりで鰭(ひれ)を手足に、鱗(うろこ)を毛髪 に……といった順序に、少しずつ少しずつ進化させて来た各時代時代の姿を、僅かに分とか、秒とかで数え得る短時間のうちに繰返して、経過して来る事さえ ある。これは既に一つの説明の出来ない不思議として数えられ得るのであるが、更に今一歩進んだ不思議な事には、その縮められている時間と、実際の進化に 要した時間の割合が、決して出鱈目(でたらめ)の割合になっていないらしい事である。  すなわち人間の胎児は凡(およ)そ十箇月間で、元始以来の先祖代々の進化の道程を繰返す事になっているのであるが、その他の動物は概して、進化の度合 が低ければ低いだけ、その胎生に要する時間が短かくなっているので、進化の度の最も低い……すなわち元始時代の姿のままの、細菌、その他の単細胞動物は 大部分、胎生の時間を全然持たない。そのままの姿で分裂して二つの新しい生物になって行く……というのが事実上の事実になっているのであるが、これは一 体、どうした理由であろうか。進化の度の最も高い人間の胎児は何故(なにゆえ)に、最も長い胎生の時間を要するのであろうか。換言すれば、 「何が胎児をそうさせるか」  という問題に就いて適当の解釈を加えようとすると、現代の科学知識では絶対に不可能である事が発見される。やはり唯、不思議というよりほかに説明の仕 様がない事になっているのである。  以上は胎児に関する不可思議現象の実例であるが、次に、こうして出来上った人間の「肉体」を、解剖学方面から研究、観察してみると又、同じような不可 思議現象が数限りなく現われて来る。  すなわち人間の肉体なるものを表面から観察してみると、その進化の度が高いだけに……換言すればその胎生に念が入っているだけに、他の動物よりも遥か に高尚優美に出来上っている事が、とりあえず首肯(うなず)かれるであろう。その柔和な、威厳を含んだ眼鼻立から、綺麗な皮膚、美的に均整した骨格や肉 付きまで、如何にも万物の霊長らしく見受けられるのであるが、しかし一度(ひとたび)その肉体の表皮を剥(め)くって、肉を引き離し、内臓を検査し、脳 髄や五官の内容を解剖して細かに観察してみると、その各部分部分の構成は一つ一つに、下等動物から進化して来た吾々の先祖代々、魚、爬虫(はちゅう)、 猿等の生活器官の「お譲り」である事が、判明して来る。すなわち一本の歯の形にも、一筋の毛髪の組織にまでも、それをそこまで洗練し、進化させて来た、 驚くべき長年月に亘る自然淘汰の大迫害、もしくは生存競争の辛苦艱難の歴史がアリアリと記録されているので、そんな歴史を一々刻明に記念して、その通り に胎児の姿を繰返して進化させて、人間の姿にまで仕上げて来たあるものの偉大、深刻なる記憶作用が、完成した人間の細胞の隅々までも、明瞭に刻み付けら れているのである。  いう迄もなく斯様(かよう)な現象は進化論、遺伝学、又は解剖学等々で如実に証明されている事柄だから、ここには詳細な説明は加えないが、しかし、そ れは何者が記憶していて、そのような歴史を繰返させたか。 「何が胎児をそうさせたか」  という事に就いては、まだ、何一つ説明が与えられていない。やはり唯、一つの不思議というよりほかに説明出来ない事になっている。  しかも、そればかりではない。  更に今一歩突込んで、人間の精神なるものの内容を観察すると、斯様な事実が、更に一層、深刻痛切に立証されて来る。  すなわち人間の精神も亦(また)、これを表面から観察すると、他の動物とはトテモ比較出来ない程、段違いの美しさを現わしている。「人間は万物の霊長 である」という自覚、もしくは「文化的プライド」と名付くる、所謂(いわゆる)「人間の皮」一枚を以て、自己の精神生活の内容を蔽(おお)い包んで、常 識とか、人格とか名付くるお化粧を施して、超然と澄まし返っているのであるが、しかし一旦、その表皮、すなわち人間の皮なるものを一枚剥ぎ取ってみると 、その下から現われて来るものは、やはりその人間の遠い遠い祖先である微生物が、現在の人間にまで鍛い上げられて来た、驚くべき長年月に亘る自然淘汰、 生存競争の大迫害に対する警戒心理、もしくは生存競争心理が、その時代時代の動物心理の姿で、ソックリそのままに遺伝されたものばかりである事実が、余 りにも露骨に発見されて来るのである。  まず所謂、文化人の表皮……博愛仁慈、正義人道、礼儀作法なぞで粉飾してある人間の皮を一枚剥(め)くると、その下からは野蛮人、もしくは原始人の生 活心理があらわれて来る。  この事実を最もよく立証している者は無邪気な小児である。まだ文化の皮の被(かぶ)り方を知らない小児は、同じように文化の皮の被り方を知らない古代 民族の性格を到るところに発揮して行くので、棒切れを拾うと戦争ゴッコをしたくなるのは、部落と部落、種族と種族の間の戦争行為によって生存競争を続け て来た、所謂、好戦的な原始人の性質の遺伝、すなわち細胞の中に潜在して伝わって来た野蛮人時代の本能的な記憶が、棒切れという武器に似た恰好のものの 暗示によって刺戟され、眼醒めさせられたものである。虫ケラを見付けると、何の意味もなしに追い廻してみるのは、動くものを見れば、何でも追いかけてみ るという狩猟時代の心理の遺跡を、虫ケラの暗示によって刺戟誘発されたもので、そうして捕え得た虫ケラの手足を ※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80) (も)ぎ取り、羽翼を奪い、腹を裂き、火に焙(あぶ)りなぞして、喜び戯(たわむ)れるのは、そうした方法に依って獲物や、俘虜を処分し、飜弄し、侮辱 して、勝利感、優越感を徹底的に満足させようとした古代民族の残忍性の記憶を、そのままに再現しているものに外ならないのである。又、赤ん坊を暗い処に 置くと泣き出すのは、やはり火を持たぬ時代の原始人が、猛獣毒蛇に満ち満ちた暗黒に対する恐怖の復活で、どこへでも大小便を洩らすのが大昔、樹の根や、 草の中に寝ていた時代の習慣の再現である事は、現代の進歩した心理学の研究によって説明されている通りである。  次にこの野蛮人もしくは、原始人の皮を今一度剥(め)くってみると、その下には畜生……すなわち禽獣(きんじゅう)の性格が一パイに横溢している事が 発見される。  たとえば同性……すなわち知らない男同志か、女同志が初対面をすると、一応は人間らしい挨拶をするが、腹の中では妙に眼の球(たま)を白くし合って、 ウソウソと相手の周囲を嗅ぎまわる心理状態をあらわす。油断をすると相手の尻のあたりまで気を廻して、微細な処から不愉快な点を発見して、お互いに鼻に 皺(しわ)を寄せ合ったり、歯を剥き出し合ったりする気持をほのめかす。ウッカリすると吠え立てる。噛み付く……町の辻で出会った犬猫の心理と全然同一 である。そのほか自分より弱いものを見付けると、ちょっと苛(いじ)めてみたくなる。すこし邪魔になる奴は殺してくれようかと思う。誰も居なければ盗ん でやろうか。他(ひと)の小便を嗅(かい)でおこうか。自分の遺物は埋めておこうか……なぞいった畜生のままの心理の表現を、吾人は日常生活の到る処に 発揮しているので、誰でも口にする「コン畜生」とか「この獣(けだもの)め」とかいう罵倒詞に当て嵌(はま)る心理のあらわれは皆、これに他ならぬので ある。  次に、この禽獣性の下に在る隔膜(かくまく)を、今一つ切開くと今度は、その下から虫の心理がウジャウジャと現われて来る。  たとえば、仲間を押し落しても高い処へ匐(は)い上ろうとする。誰にも見えない処を這い廻って美味(うま)い事をしようとする。うまい事をすると、す ぐに安全第一の穴へ潜り込もうとする。栄養のいい奴を見付けるとコッソリ近付いて寄生しようと試みる。あたり構わぬ不愉快な姿や動作をして一身を保護し ようとする。固い殻に隠れて寄せ付けまいとする。敵と見ると、ほかの者を犠牲にしても自分だけ助かろうとする。いよいよとなると毒針を振廻す。墨汁(す み)を吹く。小便を放射し、悪臭を放散する。又はそこいらの地物(じぶつ)や、自分より強い者の姿に化ける……なぞ、低級、卑怯な人間のする事は皆、か ような虫の本能の丸出しで、俗諺(ぞくげん)にいう弱虫、蛆虫(うじむし)、米喰(こめくい)虫、泣虫、血吸(ちすい)虫、雪隠(せっちん)虫、屁放( へっぴり)虫、ゲジゲジ野郎、ボーフラ野郎なぞいう言葉は、こうした虫ケラ時代の心理の遺伝したもののあらわれを指した軽蔑詞に外ならない。  次に……最後に、この虫の心理の核心……すなわち人間の本能の最も奥深いところに在る、一切の動物心理の核心を切開いてみると、黴菌(ばいきん)、そ の他の微生物と共通した原生動物の心理があらわれて来る。それは無意味に生きて、無意味に動きまわっているとしか思えない動き方で、所謂群集心理、流行 心理もしくは、弥次馬心理というものによって、あらわされている場合が多い。その動きまわっている行動の一つ一つを引離してみると、全然無意味なものの ように見えるが、それが多数に集まると、色々な黴菌と同様の恐るべき作用を起す事になる。すなわち光るもの、立派なもの、声の高いもの、理屈の簡単なも の、刺戟のハッキリしているもの、なぞいう新しい、わかり易いものの方へ方へと群がり寄って行くのであるが、無論判断力もなければ、理解力もない。顕微 鏡下に置かれた微生物と同様の無自覚、無定見のまま恍惚として、大勢に引かれながら大勢が行く。そこに無意味な感激があり、誇りと安心があるのであるが 、しまいには何という事なしに感激のあまり夢中になって、惜し気もなく生命(いのち)を捨てて行く……暴動……革命等に陥って行く有様は、さながらに林 檎酸(りんごさん)の一滴に集中する精虫の観がある。  人間の心理はここに到って初めて物理や、化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気 取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている黴菌性の流露に外ならないのである。  斯様(かよう)な心理の中で、最単純、低級なものを中心にして、外へ外へと高級、複雑な動物心理で包み上げて、その上を所謂、人間の皮なるもので包装 して、社交、体裁、身分家柄、面目人格なぞいうリボンやレッテルを以て飾り立て、お化粧を塗って、香水を振かけて大道を闊歩して行くのが、吾々人類の精 神生活であるが、その内容を解剖してみると大部分は右の通りに、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が、再現したものに他ならない事が 発見されるのである。しかしこれとても前に述べた肉体の解剖的観察と同様、胎児が如何にしてそんな千万無量の複雑多様の心理の記憶を、その細胞の潜在意 識、もしくは本能の中に包み込んで来ているのか、 「何が胎児をそうさせたか」  というような事柄は全く説明されていない。否、一個の人間の精神の内容が、そんなような過去数億年間に於ける、万有進化の遺跡そのものであるという事 実すらも「人間は万物の霊長」とか「俺は人間様だぞ」とかいう浅薄(あさはか)な自惚(うぬぼ)れに蔽(おお)い隠されて、全然、注意されていない状態 である。  以上は胎児の胎生と、その胎生によって完成された成人の肉体と、精神上に現われている、万有進化の遺跡に関する不可思議現象を列挙したものであるが、 次にはその人間が見る「夢」の不可思議現象に就いて観察する。  夢というものは昔から不思議の代表と認められているので、少しでも意外な事に出会うと、直ぐに「これは夢ではないか」と考えられる位である。実物とす こしも違わぬ森羅万象(しんらばんしょう)が見えるかと思うと、想像も及ばぬ奇抜、不自然な風景や、品物がゴチャゴチャと現われたり、その現われた風物 に、現実世界に於ける心理や、物理の法則が、その通りに行われて行くかと思うと、神話、伝説にもないような突飛(とっぴ)な法則によって、その風物が行 きなり放題に千変万化したりするので、その夢の正体と、そうした夢の中の心理、景象の変化の法則については古来、幾多の学者が、頭を悩まして来たもので あるが、ここにはそのような夢の特徴の中でも、夢の本質、正体を明らかにする手がかりとして最も重要な、左の三項を挙げる。  (一)夢の中の出来事は、その進行して行く移り変りの間に非常に突飛な、辻褄(つじつま)の合ないところが屡々(しばしば)出て来る。否。そのような 場合の方がズッと多いので、そんな超自然な景象、物体の不合理極まる活躍、転変が、すなわち夢であると考えた方が早い。にも拘わらず、その夢を見ている うちには、そうした超自然、不合理を怪しむ気が殆ど起らないばかりでなく、その出来事から受ける感じがいつでも真剣、真面目(しんめんもく)で、現実も しくは現実以上に深刻痛切なものがあること。  (二)未だ曾て、見た事も聞いた事もない風景や、ステキもない天変地妖が、実際と同様の感じをもって現われて来ること。  (三)夢の中に現われて来る出来事は、それが何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間は僅に分、もしくは秒を以 て数え得る程に短かいものである事が近代の科学によって証明されていること。  以上列挙して来たところの「胎児」と「夢」とに関する各種の不可思議現象は、何人(なんぴと)も否定し得ない科学界の大疑問となっているのであるが、 しかも、そうした不可思議現象が、何故(なにゆえ)に今日まで解決されていないか。これらの不思議を解決する鍵が、どうして今日まで、誰にも見当らなか ったかという疑問について考えてみると、これには二つの原因がある。  その一つは人間を胎生させ、且(か)つ、その胎生によって完成した成人に夢を見せるところの人体細胞に関する従来の学者の考え方が、全然間違っている こと、それから今一つは、この宇宙を流れている「時間」というものに対する人類一般の観念が、根本的に間違っていること……とこの二つである。  言葉を換えて云えば、人体を組織している細胞の一粒一粒の内容は、その主人公である一個の人間の内容よりも偉大なものである。否。全宇宙と比較される ほどのスバラシク偉大複雑な内容、性能を持っているものである。だからその細胞の一粒の内容を外観から顕微鏡で覗き、その成分を化学的に分析し、その分 裂、繁殖の状況をその形態や、色彩の変化によって研究する従来の唯物科学式の行き方では到底、細胞の内容、性能の偉大さは解るものでない。それは英雄、 偉人の生前の業績を無視して、単にその屍体の外貌を観察し、内部を解剖する事のみによって、その偉大な性格や、性能を確かめようとするのと同様の無理な 註文である。……又、時間というものに就ても同様の事がいえる。……中央気象台や、吾々の持っている時計の針や、地球、太陽の自転、公転なぞによって示 されて行く時間というものは真実の時間ではない。唯物科学が勝手に製作し出した人工の時間である。錯覚の時間、インチキの時間である。……真実の時間と いうものは、そんな窮屈な、寸法で計られるような固苦しいものではない。モットモット変通自在な、玄怪不可思議なものである……という事実が実際に首肯 出来れば、同時に「胎児の夢」の実在が、首肯出来る筈である。生命の神秘、宇宙の謎を解く鍵を握ったも同然である。  元来細胞なるものは、人間の身体の何十兆分の一という小さい粒々(つぶつぶ)で、度の弱い顕微鏡にはかからない位の微粒子である。だからその内容の複 雑さや、そのあらわし得る能力の程度なぞも、やはり人間全体の能力の何十兆分の一ぐらいのものであろう……いずれにしても極度に単純な、無力なものであ ろう……というのが今日までの科学者の頭の大部分を支配して来た考えであった。だからその後その細胞の不可思議な生活、繁殖、遺伝等の能力が、次から次 に発見されて科学者を驚異させて来たけれども、その研究は依然として顕微鏡で覗かれ、化学で分析され得る範囲……すなわち唯物科学で説明され得る範囲の 研究に限られて来たもので、大体の考え方は、やはり人体の何十兆分の一という程度の単純な、無力なもの……という概念を一歩も踏出していない。そうして ソレ以上の研究をするのは唯物科学を冒涜するものである。学者として一つの罪悪を犯すものであるとさえ考えられて来た。  しかしこれは現代の所謂(いわゆる)、唯物科学的な論法に囚(とら)われて来た学者連中が、細胞の内容や能力を、その形や大きさから考えて「多分これ 位のものだろう」という風に見当をつけた、極めて不合理な一つの当て推量が、先入主となったところから起った量見違いである。生命の神秘、夢の不可思議 なぞいう科学界の大きな謎が、いつまで経っても不可解のままに取残されているのは、そうした「葭(よし)の髄から天井覗く」式の囚われた、唯物論的に不 自由、不合理な……モウ一つ換言すれば科学に囚われ過ぎた非科学的な研究方法によって、広大無辺な生命の主体である細胞を研究するからである事が、ここ に於て首肯されなければならぬ。そんな旧式の学問常識や、囚われたコジツケ論に対する従来の迷信を一掃して、もっと自由な、囚われない態度で、宇宙万有 を観察すると同時に、この問題を、もっと適切明瞭な、実際的な現象に照し合せて考えてみると、その一粒の細胞の内容には、顕微鏡や、化学実験室で観測、 計量し得るよりも遥かに偉大、深刻な、実に宇宙全体と比較しても等差を認められない程の内容が含まれている事実が、現代を超越した真実の科学知識によっ て気付かれなければならぬ。所謂、唯物科学的な研究、考察方法を、生命(いのち)の綱と迷信している人々が、如何に否定しようとしても否定出来ない事実 に直面しなければならぬ。  その第一に挙げなければならぬのは細胞が、人間を造り上げる能力である。すなわち生命(いのち)の種子(たね)として母胎に宿った唯一粒の細胞は、前 に述べた通りの順序で、分裂して生長しながら、先祖代々の進化の跡を次から次へと逐(お)うて成長して来る。あそこはああであった。ここはこうであった と思い出し思い出し、魚、蜥蜴(とかげ)、猿、人間という順序に寸分間違いなく自分自身を造り上げて来る。しかも一概には云えないが、なるべく両親の美 点や長所を綜合して、すこしでも進歩したものにしようとするので、耳、目、鼻、口の位置は万人が万人同様でありながら……これは妾(あたし)の児(こ) だ。誰にも似ている。彼にも肖(に)ている。癇癪(かんしゃく)の起し具合はお父さんに生き写しだ。物覚えのいいところは妾にソックリだ……なぞと極め て細かいところまで微妙に取合せて行く。その細胞一粒一粒の記憶力の凄まじさ。相互間の共鳴力、判断力、推理力、向上心、良心、もしくは霊的芸術の批判 力等の深刻さはどうであろう。更にその細胞の大集団である人間が、宇宙間の森羅万象に接してこれを理解し、又はこれに共鳴感激して、国家とか社会とかい う大集団を作って共同一致、人類文化を形成して行く。その創造力の深遠広大さはどうであろう。そのような、殆ど全智全能ともいうべき大作用のすべては、 帰納するところ、結局、最初のタッタ一粒の細胞の霊能の顕現(あらわれ)でなければならぬ。換言すれば現代人類の、かくも広大無辺な文化と雖(いえど) も、その根元を考えてみると、こうした顕微鏡的な存在に過ぎない細胞の一粒の中に含まれている霊能が全地球表面上に反映したものに外ならぬのである。  ◇備考 斯様(かよう)に偉大な内容を持つ細胞の大集団が、脳髄の仲介によって、その霊能を唯一つ、即ち各細胞共通、共同の意識下に統一したものが人 間である。だからその人間があらわす知識、感情、意志なぞいうものは、細胞一粒一粒のソレよりも遥かに素晴しいものでなければならない筈であるが、事実 はその正反対になっているので、世界初まって以来、如何なる賢人、又は偉人と雖(いえど)も、細胞の偉大な霊能の前には無力同然……太陽の前の星の如く 拝跪(はいき)しなければならない。すなわち人間の形に統一された細胞の大集団の能力は、その何十兆分の一に当る細胞の能力の、その又何十兆分の一にも 相当しないという奇現象を呈している。これは人間の身体各部に於ける細胞の霊能の統一機関……すなわち脳髄の作用が、まだ十分の進化を遂げていないため に、細胞の霊能の全分的な活躍が妨げられているものと考えられる。同時に、地上最初に出現した生命(いのち)の種子(たね)である単細胞が、地上に最初 に出現した時の初一念? とその無限の霊能が、その霊能を地上に具体的に反映さすべく種々の過程を経て、最有利、有能な人間にまで進化して来て、まだま だ有利、有能な生物に進化して行きつつある。その過渡期の未完成の生物が現在の人間であるがために、斯様(かよう)な矛盾、不都合な奇現象があらわれて 来るものとも考えられる次第である。しかしこの事は極めて重大な研究事項で、一朝一夕に説(と)き尽し得べき限りでないからここには唯参考として一言し ておくに止める。  而(しか)して人間の肉体、及び精神と、細胞の霊能との関係が、斯様に明白となった以上「夢」なるものの本質に関する説明も亦(また)、極めて容易と なって来るのである。  すべての細胞はその一個一個が、吾々一個人の生命と同等、もしくはそれ以上の意識内容と、霊能を持っている一個の生命である。だから、すべての細胞は 、それが何か仕事をしている限り、その労作に伴うて養分を吸収し、発育し、分裂、増殖し、疲労し、老死し、分解、消滅して行きつつある事は近代医学の証 明しているところである。しかもその細胞の一粒一粒自身が、その労作し、発育し、分裂し、増殖し、疲労し、分解し、消滅して行く間に、その仕事に対する 苦しみや、楽しみを吾々個人と同等に、否それ以上に意識している……と同時に、そうした楽しみや苦しみに対して、吾々個人が感ずると同等、もしくはそれ 以上の聯想、想像、空想等の奇怪、変幻を極めた感想を無辺際に逞(たくま)しくして行く事は、恰(あたか)も一個の国家が興って亡びて行くまでの間に千 万無量の芸術作品を残して行くのと同じ事である。  この事実を端的に立証しているものが、即ち吾々の見る夢である。  そもそも夢というものは、人間の全身が眠っている間に、その体内の或る一部分の細胞の霊能が、何かの刺戟で眼を覚まして活躍している。その眼覚めてい る細胞自身の意識状態が、脳髄に反映して、記憶に残っているものを吾々は「夢」と名付けているのである。  たとえば人間が、不消化物を嚥(の)み込んだまま眠っていると、その間に、胃袋の細胞だけが眼を醒ましてウンウンと労働している。……ああ苦しい。や り切れない。これは一体どうなる事か。どうして俺達ばっかりコンナに非道(ひど)い眼に逢わされるのか……なぞと不平満々でいると、その胃袋の細胞の涯 (はて)しもない苦しい、不満な気持が、一つの聯想となって脳髄に反映されて行く。すなわちその苦しい思いの主人公が、罪の無いのに刑務所に入れられて 、重たい鎖に繋(つな)がれて、自分の力以上の石を担(かつ)がせられてウンウン唸(うな)りながら働いているところ………不可抗的な大きな地震で、家 の下敷になって、藻掻(もが)きまわって、悲鳴を上げているところなぞ……そのうちにその苦しい消化の仕事が楽になって来るとヤレヤレという気持になる 。……そうすると夢の中の気持……脳髄に反映されて行く聯想や空想の内容も楽になって、山の絶頂で日の出を拝んでいるところだの、スキーに乗って素晴し いスロープを一気に辷(すべ)り下る気持だのに変る。  或(あるい)は又、寝がけに「彼女に会いたいな」と思って眼を閉じていると、その一念の官能的な刺戟だけが眠り残っていて、彼女の処へ行きたくてたま らないのに、どうしても行けない自烈度(じれった)い気持を、夢として描きあらわす。彼女の姿は美しい花とか、鳥とか、風景とかいうものによって象徴さ れつつ彼の前に笑(え)み輝いているが、それを手に入れようとすると、色々な邪魔が出て来てなかなか近附けない。その細胞の記憶に残っている太古時代の 天変地妖が、突然、眼の前に現われて来るかと思うと、祖先の原人が住んでいた地方の物凄い高山、断崖が見えて来る。その中を祖父が落(おち)ぶれて乞食 していた時の気持になったり、親父(おやじ)が泳ぎ渡った大川の光景を、同じ思いをして泳ぎ渡ったりする。又は猿になって山を越えたり、魚になって海に 潜ったりしつつ、千辛万苦してヤット彼女を……花、もしくは鳥を手に入れる事が出来た……と思うと、最初の自烈度(じれった)い気持がなくなるために、 その夢もお終(しま)いになって目を醒ます。  そのほか寝小便のお蔭で、太古の大洪水の夢を見る。鼻が詰まったお蔭で、溺れ死にかかった少年時代の苦しみを今一度、夢に描かせられる。なぞ……斯様 (かよう)にして手でも足でも、内臓でも、皮膚の一部でも、どこでも構わない。全身が眠っている間に、何等かの刺戟を受けて目を醒ましている細胞は、き っとその刺戟に相応(ふさわ)しい対象を聯想し、空想し、妄想している……何かの夢を見ている。すなわちその時その時の細胞の気持に相応した、又は似通 った場面や、光景を、その細胞自身が先祖代々から稟(う)け伝えて来た記憶や、その細胞の主人公自身の過去の記憶の中から、手当り次第に喚び起して、勝 手気儘に重ね合せたり、繋ぎ合せたりしつつ、そうした気持を最も深刻、痛切に描きあらわしている。もしそうした気分が非常識、もしくは変態的なもので、 それに相応した感じをあらわす聯想の材料が見当らない場合には、すぐに想像の品物や、風景で間に合せ、埋め合せて行く。人体内に於ける細胞独特の恐怖、 不安をあらわすために、蚯蚓(みみず)や蛇のようにのたくりまわる台所道具を聯想したり、苦痛をあらわすために、鮮血の滴(したた)る大木や、火焔の中 に咲く花を描きあらわしたりする事は、恰(あたか)も神秘の正体を知らない人間が、羽根の生えた天使を考えるのと同様である。  これは吾々の眼が醒めている間の気分が、周囲の状況によって支配されつつ変化して行くのとは正反対で、夢の中では気分の方が先に立って移り変って行く 。そうしてその気分にシックリする光景、風物、場面を、その気分の変って行く通りに、あとから追いかけ追いかけ千変万化させて行くのであるから、その千 変万化が如何に突飛(とっぴ)な、辻褄(つじつま)の合ないものであろうとも、その間(かん)に何等の矛盾も、不自然も感じない。のみならず現実式の印 象よりも却(かえ)って自然な、深刻、痛切な感じを受けるように思うのは当然の事である。  換言すれば夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、聯想の群れを、理屈も筋も なしに組み合せて、そうした気分の移り変りを、極度にハッキリと描きあらわすところの、細胞独特の芸術という事が出来るであろう。  ◇備考 欧米各国に於ける各種の芸術運動の近代的傾向は、無意味なもしくは断片的な色彩音響、又は突飛な景象物体の組合せ等によって、従来の写実的、 もしくは常識的の表現法以上の痛切、深刻な気分を表現しようとする事によって、漸次、夢の表現法と接近しつつある。  夢の正体が、細胞の発育、分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識内容の脳髄に対する反映である事は以上説明する通りであるが、次に夢の内容に於て感ずる時 間と、実際の時間とが一致しない理由を明かにする。すなわち一般の人々が、時計とか、太陽とかに依(よ)って示される時間を、真実の時間と信じているた めに、如何に大きな錯覚を起して、厳正な科学的の判断に錯覚を来(きた)し、驚愕し、面喰いつつあるかを説明すれば、この疑問は立所(たちどころ)に氷 解する筈である。  現代医学に依ると普通人の平静な呼吸の約十八、もしくは脈搏の七十幾つを経過する時間を標準として一分間と定めている。その六十倍が一時間、その二十 四倍が一日、その又三百六十幾倍が一年と規定してある。同時にその一年は又、地球が太陽を一周する時間に相当する事になっているので、信用ある会社で出 来る時計が示す時間は、万人一様に同じ一時間という事になっているのであるが、しかしこれは要するに人工の時間で、真実の時間の正体というものは、そん なものではない。その証拠には、その同じ長さの人工の時間を各個人が別々に使ってみると、そこに非常な相違が現われて来るから不思議である。  手近い例を挙ぐれば、同じ時計で計った一時間でも、面白い小説を読んでいる一時間と、停車場でボンヤリ汽車を待っている一時間との間には驚くべき長さ の相違がある。尺竹(しゃくだけ)で計った品物の一尺の長さが、万人一様に一尺に見えるような訳には行かないのである。又は水に潜って息を詰めている一 分間と、雑談をしている一分間とを比較しても思い半ばに過ぐる事で、前者はたまらない程長く感ずるのに反して、後者は一瞬間ほどにも感じない……という のが偽らざる事実でなければならぬ。  更に今一歩進んでここに死人があるとする。その死人は、その死んだ後(のち)に於ても、その無感覚の感覚によって、時間の流れを感じているとすれば、 一秒時間も、一億年も同じ長さに感じている筈である。又そう感ずるのが死後の真実の感覚でなければならぬので、すなわち一秒の中(うち)に一億年が含ま れていると同時に、宇宙の寿命の長さと雖(いえど)も一秒の中(うち)に感ずる事が出来る訳である。この無限の宇宙を流れている無限の時間の正体は、そ んなような極端な錯覚、すなわち無限の真実の裡(うち)に、矢の如く静止し、石の如く疾走しているものに外ならないのである。  真実の時間というものは、普通に考えられている人工の時間とは全く別物である。むしろ太陽、地球、その他の天体の運行、又は時計の針の廻転なぞとは全 然無関係のままに、ありとあらゆる無量無辺の生命の、個々別々の感覚に対して、同時に個々別々に、無限の伸縮自在さを以て静止し、同時に流れているもの ……という事が、ここに於て理解されるのである。  次に、地上に存在している生命の長さを比較してみると、何百年の間、茂り栄える植物や、百年以上生きる大動物から、何分、何秒の間に生れかわり死にか わる微生物まであるが、大体に於て、形の小さい者ほど寿命が短かいようである。細胞も亦同様で、人体各別の細胞の中で寿命の長いものと短かいものとの平 均を取って、人間全体の生命の長さに比較してみると、国家の生命と個人の生命ほどの相違があるものと考え得る。しかし、それ等の長い、又は短かい色々の 細胞の生命が、主観的に感ずる一生涯の長さは同じ事で、その生れて死ぬまでの間が、人工の時間で計って一分間であろうが百年であろうが、そんな事には関 係しない。生まれて、成長して、生殖し老衰して、死滅して行きつつ感ずる実際の時間の長さは、どれも、これも同じ一生涯の長さに相違ないのである。この 道理を知らないで、朝生まれて夕方死ぬ嬰児(あかんぼ)の哀れさを、同じく朝生まれて日暮れ方に老死する虫の生命と比較して諦めようとするのは馬鹿馬鹿 しく不自然、且(かつ)、不合理な話で、畢竟(ひっきょう)するところ、融通の利かない人工の時間と、無限に伸縮自在な天然の時間とを混同して考えると ころから起る悲喜劇に過ぎない。  一切の自然……一切の生物は、かように無限に伸縮自在な天然の時間を、各自、勝手な長さに占領して、その長さを一生の長さとして呼吸し、生長し、繁殖 し、老死している。同様に人体を作る細胞の寿命が、人工の時間で計って如何に短かくとも、その領有している天然の時間は無限でなければならぬ。だからそ の細胞が、その無限の記憶の内容と、無限の時間とを使って、大車輪で「夢」を描くとすれば、五十年や、百年の間の出来事を一瞬、一秒の間に描き出すのは 何の造作もない事である。支那の古伝説として日本に伝わっている「邯鄲夢枕物語(かんたんゆめまくらものがたり)」に……盧生(ろせい)が夢の五十年。 実は粟飯一炊(あわめしいっすい)の間……とあるのは事実、何の不思議もない事である。  以上述ぶるところによって、タッタ一粒の細胞の霊能が、如何に絶大無限なものであるか、その中でも特に、そのタッタ一粒の「細胞の記憶力」なるものが 、如何に深刻、無量なものがあるかという事実の大要が理解されるであろう。人間の精神と肉体とを同時に胎生し、作り上げて行く「細胞の記憶力」の大作用 を如実に首肯されると同時に……何が胎児をそうさせたか……という「胎児の夢」の存在に関する疑問の数々も、大部分氷解されたであろうと信ずる。  胎児は母の胎内に在って、外界に対する感覚から完全に絶縁されているために、深い深い睡眠と同様の状態に在る。その間に於て、胎児の全身の細胞は盛ん に分裂し、繁殖し、進化して、一斉に「人間へ人間へ」と志しつつ……先祖代々が進化して来た当時の記憶を繰返しつつ、その当時の情景を次から次へと胎児 の意識に反映させつつある。しかもその胎児は、前述の通り、母胎によって完全に外界の刺戟から遮断されていると同時に、極めて平静、順調に保育されて行 くために、ほかの事は全く考えなくてよろしい。ただ一心に「人間へ人間へ」という夢一つを守って行けば宜しいので、その夢の内容も亦(また)、極めて順 調、正確に、精細をきわめつつ移りかわって行く。この点が、勝手気儘な、奔放自在な成人の夢と違っているところである。  これを逆に説明すれば、胎児を創造するものは、胎児の夢である。そうして胎児の夢を支配するものは「細胞の記憶力」という事になる。すべての胎児が母 胎内で繰返す進化の道程と、これに要する時間が共通一定しているのはこのためで、現在の人類が、或る共同の祖先から進化して来たために、細胞の記憶、即 ち「胎児の夢」の長さが共通一定しているからである。又その無慮数億、もしくは数十億年に亘るべき「胎児の夢」が、僅に十個月の間に見てしまわれるのも 、前述の細胞の霊能を参考すれば、決して怪しむべき事ではないので、進化の程度の低い動物の胎生の時間が、割合に短かいのは、そんな動物の進化の思い出 が比較的簡単だからである。……だから元始以来、何等の進化も遂げていない下等微生物になると全然「胎児の夢」を有(も)たない。祖先そのままの姿で一 瞬の間に分裂、繁殖して行くという理由も、ここに於て容易(たやす)く首肯される筈である。 ◇備考 如上の事実、すなわち「細胞の記憶力」その他の細胞の霊能が、如何に深刻、微妙なものがあるか。そうしてそれが一切の生物の子々孫々の輪廻転生 (りんねてんしょう)に、如何に深遠微妙な影響を及ぼしつつ万有の運命を支配して行くものであるかという事に就ては、既に数千年以前から、埃及(エジプ ト)の一神教を本源とする、各種の経典に説かれているので、現在、世界各地に余喘(よぜん)を保っている所謂(いわゆる)、宗教なるものは、こうした科 学的の考察を粉飾して、未開の人民に教示した儀礼、方便等の迷信化された残骸である。だからこの胎児の夢の存在も、決して新しい学説でない事を特にここ に附記しておく。  然(しか)らば、その吾々の記憶に残っていない「胎児の夢」の内容を、具体的に説明すると、大要どのようなものであろうか。  これはここまで述べて来た各項に照し合せて考えれば、最早(もはや)、充分に推測され得る事と思うが、尚参考のために、筆者自身の推測を説明してみる と大要、次のようなものでなければならぬと思う。  人間の胎児が、母の胎内で見て来る先祖代々の進化の夢の中で、一番よけいに見るのは悪夢でなければならぬ。  何故かというと、人間という動物は、今日の程度まで進化して来る間に、牛のような頭角も持たず、虎のような爪牙(そうが)もなく、鳥の翼、魚の保護色 、虫の毒、貝の殻なぞいう天然の護身、攻撃の道具を一つも自身に備付(そなえつ)けなかった。ほかの動物と比較して、はるかに弱々しい、無害、無毒、無 特徴の肉体でありながら、それをそのまま、あらゆる激烈な生存競争場裡に曝露して、あらゆる恐ろしい天変地妖と闘いつつ、遂に今日の如き最高等の動物に まで進化し、成上(なりあが)って来た。その間には、殆ど他の動物と比較にならない程の生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害等を体験して来た筈で、その艱 難辛苦の思い出は実に無量無辺、息も吐(つ)かれぬ位であったろうと思われる。その中でも自分の過去に属する、自分と同性の先祖代々の、何億、何千万年 に亘る深刻な思い出を、一々ハッキリと夢に見つつ……それを事実と同じ長さに感じつつ……ジリジリと大きくなって行く、胎児の苦労というものは、とても その親達がこの世で受けている、短かい、浅墓(あさはか)な苦労なぞの及ぶところではないであろう。  まず人間のタネである一粒の細胞が、すべての生物の共同の祖先である微生物の姿となって、子宮の内壁の或る一点に附着すると間もなく、自分がそうした 姿をしていた何億年前の無生代に、同じ仲間の無数の微生物と一緒に、生暖かい水の中を浮游(ふゆう)している夢を見初める。その無数とも、無限とも数え 切れない微生物の大群の一粒一粒には、その透明な身体に、大空の激しい光りを吸収したり反射したりして、或は七色の虹を放ち、又は金銀色の光芒(こうぼ う)を散らしつつ、地上最初の生命の自由を享楽しつつ、どこを当ともなく浮游し、旋回し、揺曳しつつ、その瞬間瞬間に分裂し、生滅して行く、その果敢( はか)なさ。その楽しさ。その美しさ……と思う間もなく自分達の住む水に起った僅かな変化が、形容に絶した大苦痛になって襲いかかって来る。仲間の大群 が見る見る中(うち)に死滅して行く。自分もどこかへ逃げて行こうとするが、全身を包む苦痛に縛られて動く事が出来ない。その苦しさ、堪まらなさ……こ うした苛責が、やっと通り過ぎたと思うと、忽(たちま)ち元始の太陽が烈火の如く追い迫り、蒼白い月の光が氷の如く透過する。或は風のために無辺際の虚 空に吹き散らされ、又は雨のために無間(むげん)の奈落(ならく)に打落される。こうして想像も及ばぬ恐怖と苦悩の世界に生死も知らず飜弄されながら… …ああどうかしてモット頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも堪えられる身体(からだ)になりたい……と身も世もあられず悶(もだ)え戦(おのの)いて いるうちに、その細胞は次第に分裂増大して、やがてその次の人間の先祖である魚の形になる。即ち暑さ寒さを凌(しの)ぎ得る皮肌、鱗(うろこ)、泳ぎ廻 る鰭(ひれ)や尻尾(しっぽ)、口や眼の玉、物を判断する神経なぞが残らず備わった、驚くべき進歩した姿になる。……ああ有難い、これなら申分(もうし ぶん)はない。俺みたような気の利いた生物はいまい……と大得意になって波打際を散歩していると、コワ如何に、自分の身体の何千倍もある章魚(たこ)入 道が、天を蔽(おお)うばかりの巨大な手を拡げて追い迫って来る。……ワッ――助けてくれ……と海藻の森に逃込んで、息を殺しているうちにヤット助かる 。そこでホッと安心してソロソロ頭を持上げようとすると、今度は、思いもかけぬ鼻の先に、前の章魚よりも何十層倍大きな海蠍(うみさそり)の鋏(はさみ )が詰め寄って来る。スワ又一大事と身を飜えして逃げようとすると背中から雲かと思われる三葉虫が蔽いかかる。横の方からイソギンチャクが毒槍を閃(ひ ら)めかす。その間を生命(いのち)からがら逃出して、小石の下に潜り込むと……ブルブル。ああ驚いた。情ない事だ。コンナ調子では未だ安心して生きて おられない。一緒に進化して来た生物仲間は物騒だというので、自分の身体を固い殻で包んだり、岩の間から手足だけ出したりしているが、自分はあんな事ま でしてこの暗い、重苦しい水の中に辛棒しているのは厭(いや)だ。それよりも早く陸(おか)に上りたい。あの軽い、明るい空気の中で自由に、伸び伸びと 跳廻(はねまわ)られる身体になりたい……と一所懸命に祈っているとその御蔭で、小さな三つ眼の蜥蜴(とかげ)みたようなものになってチョロチョロと陸 (おか)の上に匍(は)い上る事が出来た。  ……ヤレ嬉しや。ありがたや……とキョロキョロチョロチョロと駈けまわる間もなく、今度は世界が消え失せるばかりの大地震、大噴火、大海嘯(おおつな み)が四方八方から渦巻き起る。海は湯のように沸き返って逃込む処もない。焼けた砂の上で息も絶え絶えに跳ねまわっているその息苦しさ。セツナサ……そ の苦しみをヤッと通り越したと思うと今度は、山のような歩竜(イグアノドン)の趾(あし)の下になる。飛竜(プラテノドン)[#ルビの「プラテノドン」 はママ]の翼に跳ね飛ばされる。始祖鳥(アルケオフェリクス)の妖怪然たる嘴(くちばし)にかけられそうになる。……アアたまらない。やり切れない。一 緒に進化して来た連中は、身体中に刺(とげ)を生やしたり、近まわりの者に色や形を似通わせたり、甲羅(こうら)を被(かぶ)ったり毒を吹いたりしてい るが、あんな片輪(かたわ)じみた、卑怯な、意久地(いくじ)のない真似をしなくとも、もっと正しい、囚(とら)われない、温柔(おとな)しい姿のまん まで、この地獄の中に落付いていられる工夫はないか知らんと……石の間に潜んで、息を殺して念じ詰ていると、頭の上の顱頂孔(ヒクメキ)の処に在る眼玉 が一つ消え失せて、二つ眼の猿の形に出世して、樹から樹へ飛び渡れるようになった。  ……サア占(し)めたぞ。モウ大丈夫だぞ。俺ぐらい自由自在な、進歩した姿の生物はいまいと、木の空から小手を翳(かざ)していると、思いもかけぬ背 後(うしろ)から蟒蛇(うわばみ)が呑みに来ている。ビックリ仰天して逃出すと、頭の上から大鷲が蹴落しに来る。枝の間を伝(つたわ)って逃げ了(おお )せたと思うと、今度は身体(からだ)中に蝨(だに)がウジャウジャとタカリ初める。山蛭(やまひる)が吸付きに来る。寝ても醒ても油断が出来ない中( うち)に、やがて天地も覆(くつがえ)る大雷雨、大颶風(ぐふう)、大氷雪が落(おち)かかって、樹も草もメチャメチャになった地上を、死ぬ程、狂いま わらせられる。……ああ……セツナイ。堪(たま)らない。自分は何も悪い事はしないのに、どうしてコンナに非道(ひど)い目にばかり遭うのであろう。ど うかしてモット豪(えら)い者になって、コンナ災難を平気で見ておられる身体になりますように……と木の空洞(うつろ)に頭を突込んで、胸をドキドキさ せながら祈っていると、ようようの事で尻尾(しっぽ)が落ちて、人間の姿になる事が出来た。  ……ヤレ嬉しや。有難や。これから愈々(いよいよ)極楽生活が出来るのかと思っていると、どうしてどうして、夢はまだお終(しま)いになっていない。 人間の姿になると直ぐに又、人間としての悪夢を見初めるのである。  胎児の先祖代々に当る人間たちは、お互い同志の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍卑怯な獣畜心理、そのほか色々勝手な私利私慾を遂げたいために、 直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現 されて来るのである。……主君を弑(しい)して城を乗取るところ……忠臣に詰腹(つめばら)を切らして酒の肴(さかな)に眺めているところ……奥方や若 君を毒害して、自分の孫に跡目を取らせるところ……病気の夫を乾(ほ)し殺して、仇(あだ)し男と戯れるところ……生んだばかりの私生児を圧殺するたま らなさ……嫁女(よめじょ)に濡衣(ぬれぎぬ)を着せて、首を縊(くく)らせる気持よさ……憎い継子(ままこ)を井戸に突落す痛快さなぞ……そのほか大 勢で生娘(きむすめ)を苛(いじ)める、その面白さ……妻子ある男を失恋自殺させる、その誇らしさ……美少年、美少女を集めて虐待する、その気味のよさ ……大事な金を遣い棄てる、その愉快さ……同性愛の深刻さ……人肉の美味(うま)さ……毒薬実験……裏切行為……試斬(ためしぎ)り……弱い者苛(いじ )め……なぞ種々様々のタマラナイ光景が、眼の前の夢となって、クラリクラリと移り変って行く。又は自分の先祖たち……過去の胎児自身が、隠し了(おお )せた犯罪や、人に云い得ずに死んだ秘密の数々が、血塗(ちまみ)れの顔や、首無しの胴体や、井戸の中の髪毛(かみのけ)、天井裏の短刀、沼の底の白骨 なぞいうものになって、次から次に夢の中へ現われて来るので、そのたんびに胎児は驚いて、魘(おび)えて、苦しがって、母の胎内でビクリビクリと手足を 動かしている。  こうして胎児は自分の親の代までの夢を見て来て、いよいよ見るべき夢がなくなると、やがて静かな眠りに落ちる。そのうちに母体に陣痛が初まって子宮の 外へ押し出される。胎児の肺臓の中にサッと空気が這入る。その拍子に今迄の夢は、胎児の潜在意識のドン底に逃げ込んで、今までと丸で違った表面的な、強 烈、痛切な現実の意識が全身に滲(し)み渡る。ビックリして、魘えて、メチャクチャに泣き出す。かようにしてその胎児……赤ん坊はヤットのこと限りない 父母の慈愛に接して、人間らしい平和な夢を結び初める。そうしてやがて「胎児の夢」の続きを自分自身に創作すべく現実に眼醒め初めるのである。  何の記憶もない筈の赤ん坊が、眠っているうちに突然に魘えて泣き出したり、又は何か思い出したようにニッコリ笑ったりするのは、母胎内で見残した「胎 児の夢」の名残を見ているのである。生れながらの片輪(かたわ)であったり、精神の欠陥が在ったりするのに対しても、それぞれに相当の原因を説明する夢 が、その胎生の時代に在った筈である。又は胎児の骨ばかりが母胎内に残っていたり、或は固まり合った毛髪と、歯だけしか残っていないような所謂(いわゆ る)、鬼胎(きたい)なるものが、時々発見されるのは、その胎児の夢が、何かの原因で停頓するか、又は急劇に発展したために、やり切なくなって断絶した 残骸でなければならぬ。 ――以上――   空前絶後の遺言書       ――大正十五年十月十九日夜 ――キチガイ博士手記  ヤアヤア。遠からむ者は望遠鏡にて見当をつけい。近くむば寄って顕微鏡で覗いて見よ。吾(われ)こそは九州帝国大学精神病科教室に、キチガイ博士とし てその名を得たる正木敬之とは吾が事也。今日しも満天下の常識屋どもの胆(きも)っ玉をデングリ返してくれんがために、突然の自殺を思い立(たっ)たる その序(ついで)に、古今無類の遺言書を発表して、これを読む奴と、書いた奴のドチラが馬鹿か、気違いか、真剣の勝負を決すべく、一筆見参仕るもの…… 吾と思わむ常識屋は、眉に唾(つばき)して出(い)で会い候え候え……。  ……と書き出すには書き出してみたがサテ、一向に張合がない。  ……ない筈だ。吾輩は今、九大精神病学教室、本館階上教授室の、自分の卓子(テーブル)の前の、自分の廻転椅子に腰をかけて、ウイスキーの角瓶を手近 に侍(はべ)らして、万年筆を斜(ななめ)に構えながら西洋大判罫紙(フールスカップ)の数帖と睨(にら)めっくらをしている。頭の上の電気時計はタッ タ今午後の十時をまわったばかり……横啣(よこくわ)えをした葉巻からは、紫色の煙がユラリユラリ……何の事はない、糞勉強のヘッポコ教授が、居残りで 研究をしている恰好だ。トテモ明日(あす)の今頃には、お陀仏(だぶつ)になっている人間とは思えないだろう。……アハハハ……。  吾輩は、いつもコンナ風に、常識を超越していないと虫が納まらない性分でね。兎(と)にも角(かく)にも吾輩を一種の狂人と認めている満天下の常識屋 諸君に同情するよ。  そこでだ……そこで何から書き初めていいかトント見当が付かないが……何しろ遺言書なぞを書くのは後にも先にも今度が初めてだからね。  併(しか)し、ここいらでチョイト普通人の真似をして、常識的の順序を立てて書く事にすると……まず第一に明かにしなければならぬのは吾輩の自殺の動 機であろう。  ソモソモ吾輩の自殺の動機というものは一人の可憐な少女に関聯している……という事が断言出来る……エヘン。笑っちゃいけない。  そもそもその少女の美しい事といったら迚(とて)も迚も迚も迚もと二三十行書いて止めておいた方が早わかりする位だ。世界中のハンケチの上箱(うわば こ)、化粧品のレッテル、婦人雑誌の表紙、衣裳屋の広告人形、ビール店、百貨店のポスターなんどの在らん限りを引っぱり出して来ても……欧米のキネマ撮 影所を全部引っくり返して来ても、こんなに勿体(もったい)ないほど清らかな、痛々しいほど匂やかな、気味の悪いほどウイウイしい……アハハハハハ。こ れ位にしておこう。年甲斐もなくソンナ別嬪(べっぴん)に肱(ひじ)鉄砲を喰って、この世をダアと観じたな……なぞと感違いされては困るから……。そん な御心配はコッチから願い下げで御座る。何を隠そう、その少女は今から半年ばかり前に、人間の戸籍から削(けず)られているのだから……。  そんならその少女が死んだためにこの世を果敢(はか)なんで……なぞと又、早飲込みをする常識屋が出て来るかも知れないが一寸(ちょっと)待ったり… …慌ててはいけない。現在、死人の戸籍に這入っているその少女は、近いうちに自分のシャン振りと負けず劣らずの、ステキ滅法界(めっぽうかい)もない玉 の如き美少年と、偕老同穴(かいろうどうけつ)の契(ちぎり)を結ぶ事になっているのだ。そこで吾輩のこの世に於ける用事もハイチャイを告る事になるの だ……と云ったら又、頭のいい痴呆患者が出て来て……そんならイヨイヨ発狂自殺だ。おおかた死んだ美少女と、生(いき)た美少年のラブシーンを夢に見る か何かして、気が変になったのだろう……何かと考えるかも知れない。  ……どうも驚いたな。遺言書なんてものはコンナ書きにくい、自烈度(じれった)いものとは知らなかった。しかしそれでも折角(せっかく)自殺するのだ から、何とか書いておかないと、アトで張合がないだろうと思って、お負(まけ)のつもりで書く訳だが、何を隠そう、その鬼籍に入った美少女とピンピン生 きている美少年とが、現実に接吻、抱擁する事に依て、吾輩が畢生(ひっせい)の研究事業である精神科学の根本原理……即ち心理遺伝と名づくる研究発表の 結論となるべき実験が、芽出度(めでた)し芽出度しになる手筈になっているのだ。  どうだい。コンナ面白い、痛快な学術実験が、又とほかに在りますかい。アハハハ……。  イヤ。恐らく無い筈だ。……というのは第一に、この実験の基礎となっている精神科学という学問が、吾輩独特の新規新発明に属するものなんだから……の みならずその中でも亦、吾輩専売の精神病学の実験というのが、普通の医学や何かのソレと違って、鳥や獣(けもの)や、人間の屍体なぞを相手に研究は出来 ない。何故かというと鳥や獣は、或る種の精神病患者と同様、最初から動物性の丸出しで研究材料に不適当だし、死んだ人間には肝腎の実験材料になる魂が無 い。必ずやピンピン溌溂たる人間の、正しい、健康な精神を材料に使わねばならぬ。そんな立派な精神が、突然に発狂して、やがて又、次第次第に回復して行 く……その前後の移り変りをコクメイに研究して、記録して行かなければならないのだから大変である。ことに吾輩が研究の主題(テーマ)として選んだ材料 を、今の学者の流儀で名付けると、遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾とも名付くべき、世にもややこしい代物(しろもの)と来ているんだから 厄介この上もない。  そんな実験の材料として選まれる人物はトテモ生やさしい御方ではない。ウッカリするとこっちがギューとやられるかも知れないのだから、吾輩は冒頭(の っけ)から生命(いのち)がけで、この実験に取りかかったものだが、とうとうその実験の煽(あお)りを喰って、自分自身が、自殺にまで追い詰められる事 になって……イヤ。まだ自殺までには大分時間があるから、充分、十二分に落ち付いて、紫の煙と、琥珀(こはく)色の液体を相手に悠々と万年筆を揮(ふる )う事にする。  諸君もユックリ読んでくれ給え。遺言とか何とかいったって気楽なもんだ。ナマンダ式やアーメン式、又は無念残念式とはネタが違う。キチガイ博士のキチ ガイ実験の余興みたいなもんだ。残る煙がお笑いの種明しだ。……吾輩の研究の中心となっている稀代の美少年と、絶世の美少女との変態性慾に関する破天荒 の怪実験が、ドンナ学理の原則に支配されて、ドンナ風に緊張し、白熱化しつつ、実験者たる吾輩の全生涯を粉砕すべく爆発しかけて来たかという、その自然 発火の裏面のカラクリが、次第次第に手に取る如く判明して来るんだから……。  話はすこし以前(まえ)にさかのぼる。  今年の十月の何日であったかに、福岡の某新聞の学術欄で、吾輩の「脳髄は物を考える処に非(あら)ず」という意味の談話が連載された時の、世論の反響 のドエラサには正直のところタジタジと来たね。「人間という動物は自惚(うぬぼ)れと迷信で固まっているものだ」ぐらいの事はウスウス知っていないでは なかったが、それにしてもコンナまで篦棒(べらぼう)なものであろうとは、この時がこの時まで気が付かなかった。彼等、すなわち常識屋は、新聞に、雑誌 に、念入りなのは書信に、もっと御念入りなのは吾輩に直接面会などいう、ありとあらゆる手段を以て、吾輩の放言をタタキ潰すべく試みた。殊に肝(きも) を潰すべきは、研究の自由をモットーとしているこの大学の中で、お上品な顔をして、アゴを撫でたり、ヒゲを捻(ひね)ったりしている教授連中までが、一 斉に奮起して、「あの非常識にして暴慢、不謹慎な、狂人学者(ヒポマニー)をタタキ出せ。然(しか)らずむば赤煉瓦の中へタタキ込んでしまえ」というの で、机を叩いて総長に迫ったという。  これを聞いた時には流石(さすが)に海千山千の吾輩も、尻に帆を上げかけたね。大学の中だけは学術研究の安全地帯だと思っていたのが、豈計(あにはか )らんやのビックリ箱と来たもんだからね。幸いにして総長が、行政官じみた事なかれ主義の男で、体(てい)よくマアマア式に切り抜けたお蔭で、吾輩も今 日までマアマアに有り付いて来た訳だが、それにしても考えて見れば阿呆(あほ)らしい話じゃないか。ドウセ博士とか、大学教授とかになる人物なら、一番 上等のところで名誉狂か、研究狂程度の連中にきまっている。それを恥かしいとも思わないで、今一枚上(う)わ手(て)の名誉狂、兼、研究狂である吾輩を 捉まえて、キチガイ呼ばわりをするんだから、片腹痛からざるを得ないではないか。この時に吾輩が、如何に片腹痛かったかは、吾輩の親友若林学部長が知っ ている。 「コンナ塩梅(あんばい)式では吾輩の精神解剖学や精神生理、精神病理、心理遺伝なぞいうものは、とても剣呑(ケンノン)で発表出来ないね。普通の人間 よりも、精神病者の方が、気が慥(たし)かだという学説なんだからね。ハハハハ……」 「そうですねえ。科学ぐらい人類を侮辱しているものはないという事を、大抵の人間は知らずにいるのですからね」 「そうだとも、しかし『人間は猿の子孫也』と聞いてソレ見ろと得意になっている連中が……お前達はみんなキチガイだと云われると、慌てて憤(おこ)り出 すところは奇観じゃないか。猿の進化したものが人間で、人間の進化したものがキチガイだという事実を知らないばかりじゃない。全然反対の順序に考えてい るらしいんだからね。ワッハッハッハッハ……」  なぞと笑い合った位だから……。  だから吾輩は訂正追加のために、手許に取り寄せていた「脳髄論」の公表までも差し控えてしまった。そうして約半年後の今日只今、そんな著述の原稿を一 緒に、みんな引っくるめて焼き棄ててしまった。  ナニ。別に理由は無い。つまらないからサ。  人類の文化は、吾輩の研究を受け入れるべく、余りにアホラシク幼稚だからサ。……しかも、そんな大きな事実に二十年もの永い間、気付かないで、コンナ 桁外(けたはず)れの研究に黒煙(くろけむり)を立て続けて来た吾輩のアホラシサが、今更にシミジミとわかって来たからサ。或は吾輩の精神異状が、こう して静まりかけているのかも知れないが……呵々(かか)……。  ……但し……そんな著述の中でも一番美味(おい)しいロースのクラシタどころだけは、この遺言書の中に留めておいて、適当の時代に、こうした研究を想 い立つであろうキチガイ学者の参考に供する事にした。その中でも吾輩の「脳髄論」の内容は、ここに挟んだ切抜きの通り、既に新聞に素(す)ッ破抜(ぱぬ )かれているので、これ以上の内容がある訳でもないから、惜(くや)しい事はちっともない。又、精神解剖学以下、精神病理学に到る研究のヒレどころも、 既に、二十年前に吾輩が、卒業論文として九大に提出したこの「胎児の夢」の論文の中に含まれているのだから大略するとして、ここには只、吾輩大得意の「 狂人の解放治療」と「心理遺伝」の関係に就(つい)て略記しておきたいと思う。  これを前の新聞記事や、胎児の夢の論文と一緒に読めば、前述の美少年と美少女を材料とする怪実験が、大正十五年の十月十九日……すなわち今日の正午を 期して、空前の成功を告げると同時に、絶後の失敗に終ったという、奇々怪々な精神科学の学理原則の活躍が、明々、歴々と判明して来る。同時に現代文化の 粋を極めた常識とか、学識とかいうものが、一挙に木(こ)ッ葉微塵(ぱみじん)となって、あとには空(から)っぽの頭蓋骨だけが、累々(るいるい)とし て残る事になる……という訳なんだが……。  ……ところで……エート。ここいらでチョット失敬して、消えた葉巻に火をつけるかな。……実は大好物でね。どんなに貧乏生活をしている時でも、コイツ とアルコール分だけは座右に欠かさなかったものだが……もはや死ぬまでに何本というところまで漕ぎ付けたんだから、一つ勘弁して頂きたい。ハハハハ…… 。  お待ち遠さま……サテ然るにだ……吾輩の極楽行きの直接原因を生んだ彼(か)の「狂人解放治療場」を見た人々は、誰でも狂人の散歩場ぐらいにしか思っ ていないようである。中には新聞の記事なぞを読んで「ハハア成る程」なぞと首肯(うなず)く者が居るかと思うと、すぐにあとから「いかにもねえ。こうし ておけば狂人も昂奮しませんね」とか「ハハア。一種の光線治療ですね」なぞと、知ったか振りを云うくらいの事で、誰一人としてこの実験の正体を看破した 者は居ないから面白い。否。この実験の秘密はこの教室で仕事をしている副手や助手にさえも洩した事はないのだから、彼等は唯、何か非常に高遠な実験らし い……ぐらいにしか心得ていないのであるが、実は他愛ない……しかもステキに面白い実験なのだ。「解放治療」なぞいう鹿爪(しかつめ)らしい名前は、世 を忍ぶ仮の名に過ぎないのだ。  何を隠そうこの「解放治療」の実験は、吾輩が嘗て、当大学の前身であった福岡医科大学を卒業する時に書いた「胎児の夢」と名付くる一篇の論文の実地試 験に外ならないのだ。  但し吾輩が「胎児の夢」の中に並べ立てた引例は皆、人類各個お互い同志に共通した、喰いたい、寝たい、遊びたい、喧嘩したい、勝ちたいといった程度の 心理の遺伝で、極く極く有り触れた種類のものばかりであるが、ここで研究しているのは、それよりもモットモット突込んだ、個人個人特有の極端、奇抜な心 理遺伝の発作なんだ。近頃流行の猟奇趣味とか、探偵趣味なぞいうものが、足元にも寄り付けないくらい神秘的な、尖端的な、グロテスクな、怪奇、毒悪(が いどく)を極めた……ナニ、まだ見た事がないから見せてくれ。お易い御用だ。タッタ今お眼にかけよう……。  ……サアサア入(い)らっしゃい入らっしゃい。世界中、どこを探しても見られぬ生きた魂の因果者の標本、日中の幽霊、真昼の化け物、ヒュ――ドロドロ の科学実験はこれじゃこれじゃ……見料(けんりょう)は大人が十銭、小供なら半額、盲人(めくら)は無料(ただ)……アッ……そんなに押してはいけない 。狂人(きちがい)連中に笑われますぞ。お静かにお静かに……。  ……エヘン……。  ここに御紹介致しまするは、九州帝国大学、医学部、精神病科本館の裏手に当って、同科教授、正木先生が開設されましたる、狂人解放治療場の「天然色、 浮出し、発声映画」と御座います。映写致しまする器械は、最近、九大、医学部に於きまして、眼科の田西博士と、耳鼻科の金壺(かなつぼ)教授とが、正木 博士と協力致しまして、医学研究上の目的に使用すべく製作されましたもので、実に精巧無比……目下米国で研究中の発声映画なぞはトーキー及ばない……画 面と実物とに寸分の相違もないところにお眼止(めと)めあらむ事を希望致します。  まず……開巻第一に九州帝国大学、医学部の全景をスクリーンに現わして御覧に入れます。  御覧の通り九大の構内と構外とは一面に、一(ひ)と続きの松原の緑に埋められておりますが、その西端に二本並んだ大煙突の下(もと)に見えます見すぼ らしい青ペンキ塗り、二階建の西洋館が、天下に有名なるキチガイ博士、正木先生の居(お)られる精神病学教室の本館で、そのすぐ南側に見えます二百坪ほ どの四角い平地が、これから御紹介申上げます「狂人の解放治療場」で御座います。……撮影機と技師とを搭載致しました飛行機はだんだんと下降致しまして 、精神病科本館階上、教授室の南側の窓の縁に着陸致します。……まるで蜻蛉(とんぼ)か蠅(はえ)なんぞのようで……時に大正十五年十月十九日……の午 前正九時と致しておきましょうか。  この解放治療場を取巻いておりまする赤煉瓦の塀は、高さが一丈五尺。これに囲まれました四角い平地は全部この地方特有の真白い、石英質の砂で御座いま すから、清浄この上もありませぬ。真中に桐の木が五本ほど、黄色い枯れ葉を一パイにつけて立っております。この桐の木はズット以前からここに立っており まして、本館の中庭の風情となっておったもので御座いますが、この解放治療場開設のため周囲を地均(じなら)し致しまして以来、斯様(かよう)に著しい 衰弱の色を見せて参りましたのは、何かの凶(わる)い前兆と申せば申されぬ事もないようであります。或(あるい)はこの桐の木が、斯様な思いがけないと ころに封じ込られたために精神に異状を呈したものではないかとも考えられるのでありますが、しかしその辺の診断は、当教室でもまだ気が付きかねておりま す。……無駄を申上げまして恐れ入りました。  治療場の入口は、東側の病室に近い処に只一つ開いておりまして、便所への通路を兼ておりますが、その入口板戸の横に切り明(あけ)られた小さな、横長 い穴から、黒い制服制帽の、人相の悪い巨漢が、御覧の通り朝から晩まで、冷たい眼付で場内を覗いているところを御覧になりますると、この四角い解放治療 場の全体が、さながらに緑の波の中に据えられた巨大な魔術の箱みたように感じられましょう。  この魔術の箱の底に敷かれました白い砂が、一面に真青な空の光りを受て、キラキラと輝いております上を、黒い人影が、立ったり、座ったりして動いてお ります。一人……二人……三人……四人……五人……六人……都合十人居ります。  これが正木博士の所謂「脳髄論」から割出された「胎児の夢」の続きである「心理遺伝」の原則に支配されて動いている狂人たちであります。……しかも、 これから三時間後……大正十五年十月十九日の正午となりまして、海向うのお台場から、轟然(ごうぜん)たる一発の午砲(ごほう)が響き渡りますと、それ を合図にこの十人の狂人たちの中から、思いもかけぬスバラシイ心理遺伝の大惨劇が爆発致しまして、天下の耳目を聳動させると同時に、正木先生を自殺の決 心にまで逐(お)い詰める事に相成るのでありますが、その大惨劇の前兆とも申すべき現象は、既に只今から、この解放治療場内にアリアリと顕(あら)われ ているので御座いますから、よくお眼を止められまして、狂人たちの一挙一動を精細に御観察あらむ事を希望いたします。  そこでその精細な御観察の便宜と致しまして、この十人の狂人たちの一人一人の姿を大写しにして御覧に入れます。  まず、最初に現わしまするは、西側の煉瓦塀(れんがべい)の横で、双肌脱(もろはだぬ)ぎになって、セッセと働いている白髪の老人で御座います。この 老人は御覧の通り、両手に一挺の鍬(くわ)を掴んで打振(うちふり)ながら、煉瓦塀に並行した長い畑を二畝(せ)半ほど耕しておりますが、しかしその体 躯(からだ)を見ますと御覧の通り、腕も、脛(すね)も生白くて、ホッソリ致しておりまするのみならず、老齢の労働者に特有の、首筋をめぐる深い皺も見 えませぬので、いずれに致しましても、こんな百姓の仕事に経験のある者とは思われませぬ。ことにミジメなのはその掌(てのひら)で、鍬を握っております から、よくは見えませぬが、その鍬の柄(え)の処々に、黒い汚染(しみ)がボツボツとコビリ付て見えましょう。あれは、その掌の破れた処からニジミ出し ている血の痕跡(あと)で御座います。しかも……老人は、それでも屈せず、撓(たゆ)まず、セッセと鍬を打ち振て行くところを見ますと、正木博士の発見 にかかる、心理遺伝の実験が、如何に残忍、冷厳なものであるかという事が、あらかた、お解りになるで御座いましょう。  次にあらわしまするはその横に突立(つったっ)て、老人の畠打(はたうち)を見物致しております一人の青年で御座います。お見かけの通り黒っぽい木綿 着物に白木綿の古兵児帯(へこおび)を締(しめ)て、頭髪(あたま)を蓬々(ぼうぼう)とさしておりますから、多少老(ふ)けて見えるかも知れませぬが 、よく御覧になりましたならば、二十歳前後のういういしい若者であることが、おわかりになりましょう。久し振りに日陽(ひなた)に出て来ましたせいか、 肌が女のように白く、ホンノリした紅い頬に、何かしらニコニコと微笑を含みながら、鍬を振り廻す白髪の老人の手許を一心に見守っております。その表情だ けを見ますと、ちょっと普通人かと思われますが、なおよくお眼を止めて御覧下さい。その眼眸(まなざし)と、瞳の光りの清らかなこと……まるで深窓に育 った姫君のように静かに澄み切って見えましょう。これは或る種類の精神病者が、正気に帰る前か、又は発作を起す少し前に、あらわしまする特徴で、正木博 士が始終手にかけておられました、真狂(しんきょう)と、偽狂(ぎきょう)の鑑定の中でも特に鑑別し難い眼付なので御座います。  次には今の老人と青年の、遥か背後(うしろ)の方に跼(かが)まっている一人の少女にレンズを近付てみます。お見かけの通り、幽霊みたように青白く瘠 せこけたソバカスだらけの顔で、赤茶気た髪を括(くく)り下げに致しておりますが、老人が作りました畠の縁(へり)に跼みまして、繊細(かぼそ)い手で 色んなものを植え付ております。桐の落葉、松の枯枝、竹片(たけぎれ)、瓦の破片なぞ……中にはどこで見付たものか、青い草なぞもあります。しかし何し ろ相手の畠が、サラサラした白砂の畝(うね)で御座いますから、竹の棒なぞはウッカリすると倒れそうになるのを、御覧の通り色々と世話を焼いて真直に立 てております。あんな面倒臭い事をせずとも、グッと砂の中に突込んだら良さそうなもの……と思われる方があるかも知れませぬが、それは失礼ながら素人考 えで……この少女は瓦片(かわらぎれ)や竹の棒なぞを、やはり普通の草花か何かの苗だと信じ切っておりますので、決してそんな乱暴な扱いを致しませぬ。 さも大切そうに根方(ねもと)に砂を被せておりまするところがねうちで……しかし、それでも折角、世話してやった竹の棒が二三度も倒れますと……アレ、 あの通り癇癪(かんしゃく)を起しまして、柔かい草の苗と同じように、竹の棒を何の苦もなく引千切(ひっちぎ)って棄ててしまいます。あの繊細(かよわ )い、細い腕から、どうしてあんな恐ろしい、男も及ばぬ力量(ちから)が出るかと、怪しまるるばかりで御座いますが、実は人間というものは、どんな優し い御婦人でも、大抵あれ位の力は持ておられますので……ただ……人間は、ほかの動物に比べて上品な、弱いもの……殊に女は……といったような暗示が、先 祖代々から積み重なって来た結果、それだけの力を出し得ずにおりますので、それが精神に異状を来すか、地震、火事といったような一大事にぶつかるか致し ますと、その暗示が一時的に破れまするために、本来の腕力に立帰りまする事が、現在、只今、この少女によって証拠立られているので御座います。毎度説明 が脱線致しまして申訳(もうしわけ)ありませぬが、これは正木博士の「心理遺伝」を逆に証明する実例で御座いますから、特に申添えました次第で御座いま す。  その次にあらわしまするは、破れたモーニング・コートを着た毬栗(いがぐり)頭の小男で、今の老人と、青年と、少女の一群(ひとむれ)が居る処とは正 反対側の、東側の赤煉瓦塀に向って演説をしているところで御座います。 「……達摩(だるま)は面壁九年にして、少林の熊耳(ゆうじ)と云われました。故に吾人は九年間面壁して弁論を練り、糊塗縦横(ことじゅうおう)の政界 を打破りまして、あらゆる不平等を平面にすべく……来(きた)るべき普選の時代に於て……即ち、その……吾人が……」  と大声をあげるかと思うと、思い出したように右手を高くあげて左右に動かしております。  その背後を一人の奇妙な姿をした女が通って行きます。御覧の通り、まことに下品な、シャクレた顔をした中年増(ちゅうどしま)で、顔一面に塗り附(つ け)ております泥は、厚化粧のつもりだそうで御座います。着物の裾も露(あら)わな素跣足(すあし)で、ボロボロの丸帯を長々と引ずっておりますが、誰 がこしらえてやりましたものか、ボール紙に赤インキを塗った王冠の形の物を、ザンバラの頭の上に載せて、落ちないようにあおのきつつジロリジロリと左右 を睨(ね)めまわしながら女王気取りで、行きつ戻りつ致しておりますところはナカナカの奇観で御座います。  その女が前を横切る度毎(たびごと)に、桐の木の根方(ねもと)に土下座をして、あまたたび礼拝を捧げておりまする髯(ひげ)だらけの大男は、長崎の 某小学校の校長で御座います。親代々の耶蘇(やそ)教信心が、この男に到って最高潮に達しました結果、この病院へ収容されますと、煉瓦や屋根瓦の破片に 聖像を彫って、同室の患者たちに拝ませたり致しておりましたが、只今は又、彼(か)の女王気取の狂女を、マリヤ様の再来と信じまして、随喜、渇仰(かつ ごう)の涙を流しているところで御座います。  それから又、あの土下座している髯男の周囲(まわり)を跳まわっておりますお垂髪(さげ)の少女は、高等女学校の二年生で、元来、内気な、憂鬱な性格 で御座いましたが、芸術方面に非常な才能をあらわしておりまするうちに、所謂(いわゆる)、早発性痴呆となったもので御座います。……ところが、その発 病と同時に、今までの性格がガラリと一変致しましたもので、ここへ入院致しました当時、正木院長から名前を尋ねられた時にも「妾(あたし)は舞踏狂よ… …アンナ・パブロワよ」と答えたという病院切っての愛嬌者で、いつも御覧の通り、自作の歌を唄いながら、踊りまわっているので御座います。 「青(あ)アオい空(そ)オラを見イたら  白(し)イロい雲(く)ウモが高(た)アかく  黒(く)ウロい雲(く)ウモが低(ひ)イクく  仲(な)アカア良オくウ並(な)アらんで  フウラリフウラリ飛んで行(く)よ      フウララフウララフゥ――ララ……  あたいも一緒に並(な)アラんでエ  フウラリフウラリ歩(あ)るいたらア  赤(あ)アカい壁(か)アべにぶつかったア      フウララフウララフゥ――ララ……      フウララフウララフゥ――ララ……」  又、こちらの方では四十位の職人風の男が二人、親密そうに肩を組んで、最前の年増女(としまおんな)と直角の方向に、行きつ戻りつしております。もっ とも右側の男は東京見物、左側の一人は南極探検の意味で、斯様(かよう)に意気が投合して、大旅行を続けているのだそうですから、まことに世話が焼けま せん。それからこちらの入口の処に座っております肥ったお婆さんは、相当な身分の人らしい事が、その上品な着物の柄で推量出来ますが、しかし御本人は、 そんなつもりではないらしく、いつもあのように貧民窟に住んでいるような恰好で、居りもせぬ虱(しらみ)を一所懸命に取っては潰し、抓(つま)んでは棄 てております……かと思うとアレ……あの通り帯を解いて丸裸体(まるはだか)になりまして、大きな音を立てながら着物をハタキ初めますので、そのたんび に演説屋も、二人の職人も、女学生も、心理遺伝の発作を中止して、指さし、眼さし、腹を抱えております。  さて……以上、映写致しましたところの狂人たちの一挙一動を御覧になりました方々の中には、必ずや意外に思われた方が、おありになるに相違ないと存じ ます。 「……ナアンダイ……これあ。当り前の狂人じゃないか。何もこの解放治療場に限った事はない。どこの精神病院の散歩場に行っても、こんな光景が見られる じゃないか。狂人の解放治療場という位だから、眼もはるかな広(ひろ)っ場(ぱ)に、何百か何千かわからぬ狂人の群れが、ウジャウジャして、あらん限り の狂態を演じている光景が見られるのかと思っていたが、これじゃあチットモ張合がない。第一心理遺伝なんて、どこが心理遺伝なのかサッパリ解らないじゃ ないか」  ……と……失望、落胆、軽蔑、冷笑される方がキットお在りになる事と存じますが、まあ、そう急がずにお待ち下さい。実を申しますと正木先生の御研究に 係(かかわ)る、心理遺伝の実験に使う人物はこれだけで沢山なので、この中の二三人の狂態が、如何なる心理遺伝によって演出されつつあるものであるかを 、映画に就て簡単に説明致しましただけでも、世界中のありとあらゆる精神異状の原因は残らずおわかりになろうという……申さばこの十人の精神病患者は地 上千万無数の狂人の中から選み出された精神異状の代表的チャムピオン……もしくは正木博士の過去二十年間の御研究に係る心理遺伝の原理を、身を以て直接 に証明すべく現われた、世界的の標本とも見られるので御座います。  その先頭第一に御紹介致しまするは、最前から赤煉瓦塀の横で畠を打っております、あの白髪頭(しらがあたま)の老人で御座います。  この老人は、名前を鉢巻儀作(はちまきぎさく)と申しますが、その五代前の祖先、すなわちこの儀作の曾々祖父に当ります者は、福岡の御城下、鳥飼(と りかい)村に居りました名高い豪農で、同名儀十(ぎじゅう)と申す者で御座いました。その儀十という男は、生れ付き左利きで御座いましたが、仲々の体力 と精力の持主で、自分一代のうちに鍬一本で、大身代(しんだい)を作り上げて、御領主黒田の殿様から鉢巻という苗字と、帯刀を許されたという立志伝中の 人物だそうで御座います。  ところで又、何が故にそのような奇妙な苗字を頂戴に及んだかと尋ねますると、この鉢巻と申しまするのは元来、この男の若い時分の綽名(あだな)で御座 いました。つまり汗を拭う時間が惜しいというので、田畠の仕事を致します時には、いつも眉の上の処に、手拭(てぬぐい)で後鉢巻(うしろはちまき)を致 しておりましたところから来た綽名だというので御座いますから、如何にその働らき振りが猛烈であったかが、おわかりになるでしょう。夜が明けてから暮れ る迄の間に休むのはタッタ一度だけ……福岡、舞鶴城の天守の櫓(やぐら)で、午(うま)の刻……只今の正午のお太鼓がド――ンと聞えますと、すぐに鍬を 放り出して、近くの堤(どて)か草原(くさばら)の木蔭か軒下(のきした)に行って弁当を使う。それから約半刻(はんとき)……と申しますと只今の一時 間で御座いますな。その間、午睡(ひるね)をしてから、ムックリ眼を醒ましますと又、日が落ちて、手元が見えなくなるまで休まないというのですから豪気 なもので……多分この男も一種の偏執性性格といったような素質を持った人間で御座いましたろうか。その赤黒い額に残った白い、横一文字の鉢巻の痕跡(あ と)が、息を引き取った後迄(のちまで)も消えなかった。殿様の前に出た時も同様で御座いましたので、お側に居った慌て者が「コレコレ鉢巻を取れ」と申 しましたところから、殿様が大層、興がらせられて、斯様(かよう)な苗字を賜わったという、世にも名誉ある鉢巻で御座いました。  ところが、それから物変り星移りまして、その鉢巻儀右衛門から五代目に当るこの儀作爺さんになりますと、その名誉ある鉢巻も左利きも、それから惜しい 事にその大身代も、どこかへなくしてしまいまして、博多名物の筆屋の職人に成り下りました。そうして斯様に老年に及びまして、眼が霞んで細かい筆毛が扱 えないようになりましたために、余儀なく失職する事に相成りますと、それを苦に致しました結果、精神に異状を来しまして、一週間ばかり前に、当大学に連 れ込まれるという、憐れな身の上と相成ったので御座います。  ところが不思議で御座います。正木先生がこの爺さんの発狂の動機、すなわち心理遺伝の内容を探るべく、解放治療場に解放されましてから間もなくの事で 御座いました。場内の片隅に、小使が蛇を殺したまま置き忘れて行った鍬を見付けますと、早速先祖の真似を初めました。もっとも鉢巻は致しませぬが、御覧 の通り最前から一度も汗を拭いませぬ。又、鍬を持っている手附きも、発狂前と正反対の左利きになっておりまして、十二時の午砲(ドン)を聞きますと同時 に、鍬を投げ出して病室に帰って、サッサと食事を済まして、ゴロリと寝台の上に横になるところまで、五代前の儀十の生れ代りとしか思えませぬ。但し一度 寝てしまいますと、疲労が甚しいせいか、あくる朝までブッ通しに白河夜舟(しらかわよふね)で、晩飯も何も喰いませぬ。おおかた夢の中で、曾々祖父の儀 十になって、大身代でも作っているので御座いましょう。  ……これが心理遺伝の第一例……御質問がありましたら御遠慮なくお手をお上げ下さい。  次に御紹介致しまするは最前から、赤煉瓦の壁に向って演説を致しております破れモーニングの小男で御座います。これは、あの空中で振り動かしておりま す右の手附と、物を支え持ったような恰好にしている左の手と、それからあの、演説の中(うち)に使っている言葉が、有力な参考になるので御座います。 「……これは帝国の前途に横たわる一大障壁であります。今日の如く上塗(うわぬ)りの思想が横行し、糊塗縦横の政治が永続しているならば、吾々日本民族 の団結は、あの切藁(すさ)を交えぬ土塀の如く、外来思想の風雨のために、遠からず土崩瓦解の運命に……」  いかがです。最前からお聞きの通り、この毬栗(いがぐり)のフロック先生の演説の中には、壁という文句や、又は壁に関係した言葉が、度々出て参ります 。すなわちこの小男の母方の祖父は、黒田藩御用の左官職であった……お笑いになっては困ります。落語では御座いません……でありまして、その祖父の左官 職人が、或る時、福岡城の天守櫓(やぐら)の上で仕事を致しておりますうちに、過って足を辷(すべ)らして墜落惨死を致したので御座いますが、しかも、 その祖父というのは元来、何事につけても身の軽いのが自慢だったそうで……天守台の屋根に漆喰(しっくい)のかけ直しをする時なぞは、殿様が遠眼鏡(と おめがね)で、その離れ業(わざ)を御上覧になった位だそうで御座います。そのほか平生の時にも足場を極めて簡略にして仕事をする癖がありましたために 、出来上りは早う御座いましたが、何度も足がかりを誤ったり、途中に引っかかったりして生命(いのち)を喪(うしな)いかけましたのを、いつも奇蹟的に 助かって来たので御座いました。  然るに、それが幾歳の時で御座いましたか、やはり天守の御屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働らいておりまする中(うち)に、ウッカリ殿様の方 へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係りの役人が、止せばいいのに大音を揚げまして「心せいや――い。御本丸から御上覧ぞ―― う」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったもので御座いましょう。忽(たちま)ち足を踏み辷(すべ)らしまして、数丈の石垣から転がり落ち つつ、粉微塵(こなみじん)となって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたので御座いますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモ ーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいもので御座います。この男は中学時代までも時々、夜中に寝呆けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか云って 叫び出す癖がありました。その都度(つど)に家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち付かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたような 処から、真逆様(まっさかさま)に落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙では御座いませんか。斯様(かよう)に普通人の眼か ら見れば何でもない、軽い、夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした刹那(せつな)の、徹底した恐怖の記憶が再現していると ころなぞは、何という不思議な心理遺伝の実例で御座いましょう。……否、豈(あに)、独(ひと)りこの演説男のみに限らんやであります。一般に吾々が睡 眠中に、どこか高い処から落ちたような気がして、ハッと眼を醒ますことがありますのもこの例に照してみますと、格別、不思議では御座いませぬ。吾々の両 親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「俺は死ぬんだッ」とか思う瞬間の、悽愴、悲痛を極めた観念の記憶が、一つ の心理遺伝となって、吾々子孫に伝わったものの再現であろう事は、誰しも疑い得なくなるで御座いましょう。  御質問は御座いませんか……。  序(ついで)に今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に戴いて、行きつ戻りつしている年増女で御座います。これはあの衣紋(えもん)のク リコミ加減でもお解りになります通り、或る町家(ちょうか)の娘で、芸妓(げいしゃ)に売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて、間 もなく或る若い銀行家に落籍(ひか)される事になりました。ところがその銀行家の両親が昔気質(むかしかたぎ)の頑固者揃いで「身分違い」という理由の 下に、彼女を正妻に迎える事を許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、或る宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ… …妾(わたし)に盃(さかずき)指すなんて生意気バイ」と啖呵(たんか)を切りますと、イキナリその盃を相手にタタキ付けて、三味線を踏み折ってしまっ た……そのまま当病室(こちら)へ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主で御座います。しかし、思案の外(ほか)とは申しながら、昔と違いまし た新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上で御座いますから、それくらいの事で取り乱すのはチト気が狭過(せます)ぎるように思われるかも知れませぬが 、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろう事が、彼女の発病後の態 度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばったお上品ずくめで、腰附きから眼づかい、足どりまでも上(うえ)つ方(がた)のお上 ※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26) (じょうろう)ソックリで御座います。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の鍋取公卿(なべとりくげ)……貧乏華族の成り損(そこ)ねであった事 を、彼女はその精神異状によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない清河原(きよかわら)という苗字で御座います。つまり彼女は、発病 致しませぬ前までは、環境(まわり)の風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたで御座いましょうが、一旦、精神に異状を呈してしまいますと、最近、一 二代の間に出来た町家風(まちやふう)の習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方の気風を、そのままにあらわしているので御座います。  ……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。  ……ナナ……ナル……ナルホド……如何にも御尤(ごもっと)も千万……よくわかりました。つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか…… タッタそれんばかりの研究のために、正木博士は生命(いのち)がけの騒ぎをやっているのか……と仰言(おっしゃ)るのですね。  ……恐れ入りました。多分その御質問が出る頃と存じましたから、このフィルムの編輯者の方でも気を利かしまして、次には心理遺伝の発見者である当の正 木博士を、正面のスクリーンに映写致しますと同時に、只今の御質問について一場の講演をさせる順序に取計(とりはか)らっております。……九大の狂人( きちがい)博士として、アインスタイン、スタインナハ以上に有名な正木博士がスクリーンに現われましたならば、何卒、割(われ)むばかりの拍手を以て、 お迎えあらむ事を希望致します。何故かと申しますと当の御本人が非常な拍手好きで、講義中でも学生に拍手させるのを何よりの楽(たのし)みに致しておっ た位で御座いますから……ナニ……何ですか……スクリーンの中からじゃ、手を叩いても聞えまい……?……。アハハ。これは御尤も千万……ところが聞える から不思議で御座います。論より証拠……たたいて御覧になればわかる事で……どこに種仕掛(たねしかけ)があるかは、眉に唾(つば)をつけて御覧になれ ば、すぐに、おわかりになる事と存じますが……エヘンエヘン…………。  ……エエ……これが天下に有名な九州帝国大学、医学部、精神病科教授、医学博士、正木敬之(けいし)氏で御座います。背景は九州帝国大学、精神病科本 館、講堂のボールドで、白い診察服を着ておりますのは、平生の講義姿をそのままに画面にあらわしたもので御座います。  お眼止(めどま)りました通り、身長は五尺一寸キッカリしかない、色の浅黒い小男で御座いますが、丸い胡麻塩(ごましお)頭を光る程短かく刈込んだと ころから、高い鼻の左右にピカピカ光る大きな鼻眼鏡と、その下に深く落凹(おちくぼ)んだ鋭い眼付き、横一文字にピッタリと結んだ大きな口元、又は鼻眼 鏡をかけた骸骨ソックリの表情で、テーブルの前に立ちはだかって、諸君を一渡り見まわしてから、総入れ歯をカッと剥(む)き出して笑うところまで、満身 これ精力、全身これ胆(たん)、渾身(こんしん)これ智……。  ……どうも……そうお笑いになっては困ります。……ナニ。質問……ハイハイ何ですか。ハハア。説明している私と、画面の中の正木博士と同一人か別人か ……。  アハハハハハ。これは失敗……早速退散致しまして画面の中の私……否。正木博士に説明させる事に致します。【説明者消失】 【映写幕上の正木博士、身振りに従って発声】  ……エヘン……オホン……。  ……吾輩は満天下の新人諸君と、この銀幕上に於て相見(あいまみ)ゆる事を生涯の光栄とし、且(かつ)、無上の満足とする者である。  諸君は常識の世界に住んでいながら、非常識の世界に憧憬(あこが)れている人々である。現在、地上の到る処……汽車、汽船の行き尽すきわみ、自動車、 飛行機の飛びつくす隈々(くまぐま)に儼然(げんぜん)とコビリ付き、冷え固まっている社交上の因襲、科学に対する迷信、外国の模倣、死んだ道徳観念… …なぞいう現代社会の所謂(いわゆる)常識なるものに飽き果(はて)て、変化溌溂、奔放自在なる生命の真実性そのものの表現を渇望する心……すなわち溢 るるばかりの好奇心に輝く眼(まなこ)を以て、吾輩の畢生(ひっせい)の研究事業たる「心理遺伝」の実験を見られると、立所(たちどころ)にこれを理解 された。一般の精神病者なるものが、如何なる力に支配されて、何事を行っている者であるかという事実を何の苦もなく首肯された。……のみならず諸君の好 奇心は、それだけに満足しないで、更に、百尺竿頭(かんとう)一歩を進めた質問を発せしめた。曰(いわ)く……「心理遺伝はタッタそれだけのものか」… …と……。すなわち諸君の頭脳は、吾輩の二十年分の研究と相伯仲(はくちゅう)する……否……正木キチガイ博士の頭のスピード以上の明快なるスピードを 以て……イヤ……有難う。まだ拍手するには早いよ……この点に就て吾輩は特に、満腔の敬意と、感謝とを表明する次第である。  ……何を隠そう。吾輩の所謂「極端な心理遺伝」が、ただ、そんな風にして精神病者にだけ現われるものならば、大して驚く事も、心配する事もないのだ。 尤も今まで説明して来た程度の研究でも、そこいらにウジャウジャしているオタマジャクシ学者なんかにとっては眼の玉がデングリ返る程の大発見かも知れな いが、しかし、斯(か)く申す吾輩、キチガイ博士にとっては、躄(いざり)の乞食が駈け出した位にしか感じない程度の新発見に過ぎないのだ。  吾輩が「心理遺伝」の恐しい事を、大声疾呼(たいせいしっこ)して主唱する所以(ゆえん)の第一は、それが斯様(かよう)にして精神病者に現われるば かりでない。普通人……すなわち諸君や吾輩にも精神病者と同様に、フンダンに現われている事が、明かに証明出来るからなのだ。  ……ナニ。質問……イヤ。ちょっと待ってくれ給え。質問の意味はアラカタ解っている……それでは精神病者と、普通人との区別が、わからなくなるではな いか。そんな篦棒(べらぼう)な話があるものか……と云うんだろう。  ……ところが純正な科学者の立場からいうと、そんなベラボーな話が「ある」という以外に返事の仕様がないから困るのだ。しかも精神病者とおんなし程度 どころの騒ぎではない。吾々……むろん諸君も含んでいるんだよ……の精神生活の中には、精神病者と寸分違わない……もしくはソレ以上のモノスゴイ「心理 遺伝」が、朝から晩まで、一分、一秒の隙間(すきま)もなく活躍している……眠っている間も夢となって立現(たちあら)われて、執念深く吾々の心理を支 配しているから困るのだ。そのために自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多いから困るのだ。おかげで新聞、雑誌の社会記事が、無限に提供され て行く事になるのだから、問題にしない訳に行かなくなって来るのだ。  ……これはズット以前、新聞記者にチョット話した事がある、心理遺伝の中でも極く極く手軽い実例ではあるが、無くて七癖、あって四十八癖という奴は、 精神病者と同様に、自分の気持が、自分で自由にならない好適例である。しかも、それを他人からドンナに笑われても、又は自分自身で是非とも改めなければ ならぬ必要を感じていても、どうしても止める事が出来ないのは、ソレが今いう心理遺伝のあらわれだからである。……泣くまいと思ってもツイ涙が出る。憤 (おこ)る場合でないと思っても、思わずムラムラッと来て、前後を忘却してしまうのも、やはり一時的の精神の偏(かたよ)りを、自分で持ち直す事が出来 ない……という性格を、先祖の誰からか遺伝して来ているので、取りも直さず心理遺伝のあらわれに外(ほか)ならないから困るのだ。  そのほか、凝(こ)り性、厭(あ)き性、ムラ気、お日和(ひより)機嫌、胴忘(どうわす)れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、男あさり、 女たらし、変態心理なぞの数を尽して百人が百人、千人が千人とも多少の精神異状的傾向を持たない者はない。心理遺伝に支配されていない者はないから大変 なのだ。  この道理は吾輩がズット前に書いた「胎児の夢」という論文を読めば一層よくわかるが、人間の精神とか霊魂とかいうヤツは要するに、その先祖代々の動物 や人間から遺伝して来た、色々な動物心理や民衆心理なぞの無量無辺の集まりに過ぎないのだ。その表面を「コンナ事をしたら笑われる」とか「もし見付かっ たら大変だ」とかいう所謂(いわゆる)人間の皮一枚で包んで、その上から又、倫理、道徳、法律、習慣なぞいうテープで縛って、社交、礼節、身分、人格な ぞいう様々なリボンやレッテルで飾り立てて、更にその上からもう一つ、お化粧や油で塗りこくって、パラソルやステッキを振り廻しながら「貴殿が紳士なら 拙者もゼントルマンで御座る」「あなたがレデーなら妾(あたし)も淑女だわ」「ウヌが人間なら俺様も人間だ」といった風に、肩で風を切って白昼の大道を 濶歩するのが所謂普通人……もしくは文化人に外ならないのだ。  ところが、こうしたアイタイずくめの文化人の包装は、その低級深刻にして、奔放無頼なる心理遺伝の内容を洩らすまいとして、いつも一パイに緊張してい る。その苦し紛(まぎ)れに、ソッと少し宛(ずつ)、息を抜きながら、人前だけを繕(つくろ)って知らぬ顔をしているのが普通人であるが、それがトテも 我慢し切れなくなって、どうかした拍子に大きく破れる事がある。それが個人では癇癪(かんしゃく)、脱線、喧嘩、殺傷、詐欺、泥棒、姦通その他の背徳行 為となり、破れて復旧しないものは精神異状者となり、大勢の間では暴動となり、戦争となり、悪思想となり、頽廃的風潮となる。こうした心理遺伝の曝露の 実例は、毎日の新聞でウンザリするほど見せ付けられているであろう。  吾輩は敢(あえ)て断言する……諸君も吾輩も共々に、精神病者と五十歩百歩の心理状態で生きているのだ。普通人と精神病者との区別が付けられないのは 、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている人間との善悪の区別が付けられないのと同じ事である。即ち地球表面上は古往今来ソックリそのまま「狂人の一大 解放治療場」となっているので、九大の解放治療場は、その小さな模型に過ぎないのだ。その証拠には、その中に居る患者たちも、やはり諸君や吾々と同様に 「俺はキチガイではないぞ」と確信しつつ、盛んに心理遺伝を発揮しているではないか……と……。  ハハハハハ……どうだい諸君。少々腹が立ちはしないか。ナニ。……立たない……エライエライ。成る程諸君は立派な常識屋だ。現代文化を代表するに足る 紳士淑女たちだ……エッ。何だって……? そうじゃない。相手がキチガイ博士だから、初めから本当にして聞いていない……?……ウハッ。こいつは恐れ入 った。そこまで常識が発達していちゃ敵(かな)わない。  よろしい。その儀ならばこっちにも覚悟がある。由来、科学の研究は厚顔無恥、無礼無作法を以て本領とする。御免を蒙(こうむ)り序(ついで)にモット 手近いところで人間諸君の赤恥を突(つっ)つき出して、是非とも一つ腹を立てさせて進ぜる事にしよう。  これはドナタでも御経験の事と思うが、すこし頭がボンヤリして来ると、色々な空想や幻覚が、次から次に浮き出して来るものである。  ところでこの空想とか、幻覚とかいう奴が、取りも直さず心理遺伝の幽霊に他ならないので、学問的に説明すると、脳髄の反射交感機能が疲労、凝帯(ぎょ うたい)したために、理智や、常識との連絡を失った色々な心理遺伝のアラレもない連中が、全身の反射交感機能の中で我勝ちに、勝手気儘な夢中遊行を初め たものに相違ないのである。……とりあえず女ならば、障子の蔭で、洗濯物か何かをツヅクリ廻しながら、来(こ)し方、行く末の事を考えまわしているうち に、いつの間にか取止めもない事を考え初める……あのデパートのあの指輪を万引して、もし見付からないものだったらナアとか……今の亭主が、今のうちに 財産を残して死んだら、あんな好(い)い人とコンナ面白い生活が出来るんだけどナアとか……憎いアン畜生を、こんな風に嬲(なぶ)り殺しにしたらナアと か……お義母(っか)さんに猫イラズを服(の)ませたらドンナにか清々(せいせい)するだろうにナアとか……あんな役者と心中したらとか……いっその事 ヴァンパイヤになってやろうか知らん……なぞと……。又、男は男で、電車の窓から外を見て、長々と欠伸(あくび)でもしながら……あの紳士の横ッ面(つ ら)を引(ひ)っ叩(ぱた)いたらドンナ顔をするだろう……この町に風上から火を放(つ)けて、火の海にして終(しま)ったらドンナに綺麗だろう。あの 群集を撫で斬りにしたらドンナに痛快だろう。あの瀬戸物屋にダイナマイトをブチ込んだら……あの巡査の向(むこ)う脛(ずね)をタタキ折ったら……あの 金魚屋の金魚を電車通りにブチ撒(ま)けたら……あんなお嬢さんを妾(めかけ)にしたら……あの銀行の金庫をポケットに入れたら……なぞいう、飛んでも ない光景を、その人間の鼻の鼻の先で描いている。そうしてハッと気が付いては、独(ひと)りで赤面したりしている。  これはみんな、自分の先祖代々の連中が、やってみたくて堪(た)まらないままに、ジッと我慢して来た残忍性、争闘性、野獣性、又は変態心理なんどの面 々が、入れ代り立ち代り現代式の姿で、吾々の意識の中に立ち現われているので、そんな事はないなぞいうのは、内省力のない石頭か、あっても忘れている低 能連中に過ぎない。その証拠には、そんな夢遊心理のドレカ一つが昂進し過ぎて、精神異状にまで出世したのを見ると解る。ちょうど小説の濃厚な場面に読み 入って、そうした光景を意識の中(うち)に描きながら、思わず涎(よだれ)を垂らす時のように、精神病者の病み疲れた反射交感機能の中では、そんな遺伝 心理が、現実の気持ちや感じ以上に強烈、深刻に夢遊しあらわれている……と同時に、それ以外の意識は殆ど打ち消されてしまっているから、本人はシラ真剣 になってその夢遊意識をその通りに実行する。だからそのする事、なす事が、一々先祖から伝わって来た気持の通りになって行くのだ。ソックリそのまま吾輩 の学説とピッタリ一致して来る事になるのだ。  今を去る事三千余年。ここを距(さ)る事三千里。  天竺(てんじく)は仏陀迦耶(ぶっだがや)なる菩提樹(ぼだいじゅ)下に於て、過去、現在、未来、三世(さんぜ)の実相を明(あき)らめられて、無上 正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)に入(い)らせられた大聖釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)様が「因果応報」と宣(のたも)うたのはここの事じゃ 。親の因果が子に報(むく)いじゃア……エエカナア……。アハハハハハハハ。白骨の御文章(もんしょう)ではない。投げ銭(ぜに)も放り銭も要(い)ら ぬ。現代科学の中(うち)でも最新、最鋭の精神科学の講義だ。諸君が日常フンダンに経験している恐ろしい精神生活の説明だ。  しかし諸君。まだ驚いては早過ぎるよ。精神科学の原理原則は、もっともっと恐ろしい、驚目、駭心(がいしん)に価(あたい)する事実を提供しているん だよ。  今まで説明して来たところによって既に、アラカタ理解されているであろう。人間の代が変るのは、吾々が眠って又、醒めるようなものである。一夜眠った ら昨日(きのう)の事なぞ、キレイに忘れていそうなものだが、サテ起き上ってみると、殆ど無意識に、大工は昨日建てかけた家の続きを建てに行き、左官も 同様に昨日の壁の続きを塗りに行く。そうすると又、昨日の事を思い出して……ハテ昨日、ここで十銭玉をオッコトシタが……とか、きのうの丁度今時分に、 向うを別嬪(べっぴん)が通ったっけが……とかいうので、昨日のその時分に、そこでそうした通りに、キョロキョロしたり、ポカンとなったりする。  精神の遺伝もその通り……親は昨日の自分で、子は明日(あした)の自分じゃ。夜は昨日の自分から、今日の自分が生まれて来る、暗い、無自覚のみごもり の姿になる時間じゃ。  されば男女を問わず人間は、自分の先祖が嘗(かつ)て、そんな気分、精神状態になった場面、品物、時候、天候なぞいう、所謂(いわゆる)、暗示にブツ カルと、今の大工や左官と同様に、ありし昔の心理状態に立ち帰る……しかも、そんな風にして先祖代々から遺伝して来た心理は、一つや二つじゃないぞよ。 又、そうした心理の暗示となるべき場面、品物、天候なぞいうものも、そこいら中にベタ一面に充満していて、夜となく、昼となく吾々の心理遺伝を刺戟し続 けていて、眼の見える限り、耳の聞える限り、一刻一刹那(せつな)も休んでいないのだから恐ろしいぞよ。吾々の一生を支配している「艮(うしとら)の金 神(こんじん)」というのは、実にこの「心理遺伝」の原則であるぞよ。今にドエライ証拠を出すぞよ……。  アハハハハハ。大本(おおもと)教のお筆先と間違えてはいけない。吾々が日常に経験している極めて平凡な事実だ。吾々の気持が朝から晩までフンダンに クラリクラリと変化し、入れ換って行く……活動見に出かけるつもりが、途中でフイッと縁日の夜店に引っかかったり……旅支度で家を飛び出した奴が、図書 館にモグリ込んだり……好(す)いた同志が結婚間際でイヤになったり……鉄(かね)の草鞋(わらじ)で探し当てたタッタ一つの就職口をハガキ一本で断っ たりするような、重大な心理の変化が引っきりなしに起るのは、そうした種々雑多な、無量辺の暗示が、引っきりなしに吾々の心理遺伝を支配しているからで 、それを自分自身に気付かないでいるのは、そうした暗示と心理遺伝の関係の千変万化が、あまりに刹那的で、微妙、深刻を極めているからだ。  ……ところで……どうだい諸君。こうした暗示と心理遺伝の関係をモット深く、学理的に研究したら、イロンナ面白いイタズラが出来そうには思えないかね 。ちょうど物理や化学の実験を見るように他人の精神に対して、思い通りの変化が与えられそうには思わないかね。  手近い例を挙(あげ)ると、人間の犯罪心理というものは、実に詰(つま)らない……又は全然、何の関係もないと思われる暗示のお蔭で、意想外に大きな 刺戟を与えられている場合が、非常に多いものである。……たとえば赤インキを附けたペン先をジッと見詰めているうちに何故ともなく横に在る女優の写真の 眼玉に、突き刺してみたくなったり……青い空や、白い壁を見つめているうちに、フイッと残忍な気持になったり……窓の外の霧を見ると、ピストルの手入( ていれ)をしてみたくなったり……大風の音を聞(きい)ているうちに、短刀を懐(ふところ)にして歩いてみたくなったり……よく切れる剃刀(かみそり) を見ると、鏡の中の自分の顔と見比べてニヤニヤと笑ってみたり……寝床の中で女が冗談に「殺してもいいわよ」と云った笑顔を見てホントウに殺す気になっ たり……応接間に聞えて来る小鳥の啼(な)き声が、今の今まで真面目であった男女の間に、不倫な情緒を起させるキッカケになったり……なぞする。そんな 気持の変化を見ると、別段に、何故という理屈の附けようのないところが、心理遺伝のあらわれに相違ないので、しかもそのいずれもが、スバラシク大きな犯 罪心理の最初の芽生えである事は云う迄もない。  又は、古い講談、随筆、伝説、記録なぞいうものを読んでいると先祖が見てはいけないと云い残した幽霊の掛軸を見てから、妙な事を口走るようになったの 、抜いてはならぬと禁(いま)しめられている伝家の宝刀を抜いて見ているうちに、血相が変って来たの……というような話が、いくらでも出て来るのは、そ うした恐しい心理遺伝の暗示の力を、誰にでもよくわかる品物であらわしてあるので、吾輩が調査記録した書類の中にも、そんな例が山を積む程ある。  ところで、こんな暗示の怖るべき作用を、学理的に研究して、ドシドシ実際に応用する事が出来るとなったら、ドンナ事になるだろう。犬山道節(どうせつ )、石川五右衛門、天竺(てんじく)徳兵衛、自来也(じらいや)以上の幻魔術が現代に行われ得る事になりはしまいか。  それ程でなくとも、この種類の暗示を巧みに利用すると、出会い頭に他人を発狂させる事が出来る。無調法な現代の科学応用の兇器みたように、音を立てた り血を流したりしないから、白昼の往来で傍(そば)を通っている者でも怪しまない。当代の如何なる名探偵が駈け付けて来ても全然目星(めぼし)の付けよ うのない犯罪が行える……否、現在そこいらでドシドシ行われているとしたらどうだね。  フフフフ……そんなに固くなって座り直さなくともいい。イクラ吾輩が精神科学の大家でも、このスクリーンの中から暗示を与えて、満場の諸君を一斉に発 狂させる術は、まだ発見していないからね。尤(もっと)も、そんな事が出来たら面白いだろう……とは思っているんだが……ハッハッハッ……。  イヤ、これは冗談だが、こうした犯罪手段は既に、空想や、推測の範囲を通り越して、眼の前の問題となって来ている。事実は常に研究に先立って存在する ものである……と云ったらチョット眉に唾液(つばき)を付けてみたくなるであろう。  ところが驚く勿(なか)れだ。現に吾輩の畏友(いゆう)、九州帝国大学医学部長、若林鏡太郎(わかばやしきょうたろう)君の名著『精神科学応用の犯罪 とその証跡』と題する草稿の中に、緒論として、コンナ愚痴(ぐち)が並べてある。ちょうどその緒論だけが、吾輩の処へ校閲を頼んで来ているから、ちょい と失敬して抜き読みをしてみると、コンナあんばいだ。……曰(いわ)く……  ――余ノ調査研究セルトコロニ依(よ)レバ、既ニ往昔(おうせき)ヨリコノ種ノ犯罪ガ行ワレツツアリシ事実ヲ認ムルヲ得ベシ。例エバ役行者(えんのぎ ょうじゃ)、阿部晴明(あべのせいめい)、弘法大師等ノ密教、陰陽術ノ流(ながれ)ヲ伝ウル者、真言秘密ノ行者、修験者(よげんじゃ)、祈祷師、代人、 巫女(みこ)、ソノ他、何々教、何々様ト称スル神仏類似ノモノニ奉仕スル輩ノ中ニハ、積年ノ経験ヨリ得タル一種ノ精神科学的ノ暗示法ヲ口伝(くでん)心 伝シオリ、コレヲ理智、理性ノ発達不充分ナル女子、小児、モシクハ無智、蒙昧(もうまい)ナル男子等ニ応用シテ、ソノ精神作用ニ何等カノ変化、傷害ヲ与 エツツ、利得ヲ恣(ほしいまま)ニセシ形跡アリ、即チ、古来伝ウルトコロノ「狐ヲ使ウ」「真言秘密ノ呪法(じゅほう)ニカケル」又ハ「生霊、死霊ヲ憑( つ)ケル」「神罰、仏罰ヲ当テル」等ノ霊験、神業(かみわざ)、行力(ぎょうりき)等ニ類似シタル所業ハ、精神科学ノ立場ヨリ見ルモ絶対不可能ノ事ニ非 (あら)ザレバナリ、ソノ高等ナルモノニ到リテハ、催眠術、心霊術、降神術等ノ技術者ガ、文明社会ノ裏面ニ於テ異常ナル勢力ヲ保有シオリ、玄怪ニシテ捕 捉シ難キ犯罪事件ノ裏面ニ往々ニシテコノ種ノ技術ノ活躍セル証拠ヲ見ルトキハ、ソノ全部ガ理智的詐術ナリトハ断ジ難(かた)キモノアリ――  ――現今、我国内ニ於テモ、到ル処ノ精神病院、行路病者収容所、又ハ街頭ヲ彷徨(ほうこう)スル精神異常者ノ中ニ、カカル犯罪行為ノ犠牲者ガ存在シオ ラズトハ断言シ難シ、唯(ただ)、コレヲ合理的ニ探査追求シテ、犯人ヲ検挙スル事ガ、目下ノトコロ、殆ンド不可能ナルガタメニ、実例トシテ列挙シ難キノ ミ。何トナレバ、此(かく)ノ如キ手段ヲ用イテ、精神的ニ人ヲ殺傷スル場合ニハ、他ノ犯罪手段ニ於ケルガ如キ物的証拠ヲ厘毫(りんごう)モ留メズ、一滴 ノ血、一刹那(せつな)ノ音響、一片ノ煙ダモ認ムル能(あた)ワザルノミナラズ、当該被害者モ亦(また)、直チニ一切ノ証言ヲ為シ得ベキ資格ヲ喪失スル ト同時ニ、ソノ精神ノ異状ヲ回復セムガタメニハカナリノ長日月ヲ要シ、又ハ永久ニ回復セズ、万一コレヲ回復スルモ、ソノ被害当時ノ回想、又ハ犯罪手段ニ 対スル記憶ノ残留セルモノアリヤ否ヤ、甚(はなは)ダ疑問トスベキモノアリ、調査上甚シキ困難ニ遭遇スベキ事、予想ニ難カラザレバナリ――  ――思ウニ現代ノ文化ハ所謂(いわゆる)、唯物科学ノ文化ナリ。故ニ、随(したが)ッテソノ間(かん)ニ行ワルル犯罪ノ種類モ亦(また)、唯物科学ノ 原理ヲ応用セルモノ多カルベキハ自然ノ理ナリ。然(しか)レバ将来、精神科学ノ諸般ノ学理ガ、一般ノ常識トシテ普及スルニ到ラムカ、同様ニコレヲ応用セ ル犯罪ガ、旺盛ナル流行ヲ示スベキハ論ヲ俟(ま)タザルベク、而(しか)シテソノ犯行ノ恐怖、戦慄ニ値スベキ事、現代ノ所謂、唯物科学応用ノ犯罪ノ比ニ 非(あら)ザルベキモ亦自明ノ理ナルベシ。而シテ此(かく)ノ如キ犯罪ニ対シテ、吾人法医学者ハ、如何ニシテ犯罪ヲ調査シ、兇器ヲ研究スベキヤ。如何ナ ル基礎知識ニ照シテ、犯行ノ径路、手段ノ内容ヲ明カニスベキヤ――云々――  ……どうです諸君。吾が畏敬すべき法医学者、若林鏡太郎君は、遠からず全世界に大流行を来(きた)すべき「精神科学応用の犯罪」を研究して、その流行 を未然に喰い止めるべく、その実例を蚤取眼(のみとりまなこ)で探している。その犯罪の被害者らしい精神病者や自殺者が、地上到る処にウヨウヨしている に拘わらず、その犯行の手がかりとなるべき暗示材料、その他の証拠が見当らないために、本当の研究が発表出来ないという悲惨事に直面して、あらゆる苦心 惨憺を続けている。そうして、あらゆる人間の身振り、素振り、眼付き、手付き、口つき、言葉つきの端々(はしばし)に到るまでも、精神科学応用の犯罪で はないかと疑い続けているのだ。  ……然(しか)るにだ……。  ……諸君どうです……。  ここに一つドエライ研究材料が、吾輩の処へ転がり込んで来たものだ。……もっともコイツを最初に発見したのは、今の若林鏡太郎君で、同君はこれを空前 の「精神科学応用の犯罪」に相違ないと睨んで、調査を遂(と)げて来たものなんだが、一方に、吾輩の所謂「心理遺伝」の参考材料としても、その価値は形 容の出来ない程に素晴らしいものがある。しかも、そいつに釣り込まれて、ウッカリ手を出したのが運の尽きで、流石(さすが)の吾輩も十万億土行きの片道 切符を買って、裸一貫で逃げ出さなければならない破目に立到ったほど、それほど左様に恐しい研究材料だったのだ。……その発狂の動機となっているモノス ゴイ暗示材料の正体は勿論の事、その心理遺伝に支配された夢中遊行開始前後の怪奇、悽愴(せいそう)を極めた状況。もしくは心臓がトロトロと溶解して、 流れて行くくらい気持のいい、心理遺伝の内容の詳細まで、何一つ遺憾なく完備した、途方もない調査記録が手に這入(はい)ったのだ。実に、国宝とも世界 宝とも何とも言いようのない……極度に科学的で、徹底的にローマンチックな、エロ、グロ、ノンセンス共に百二十パーセント以上の含有量をもった……空前 絶後の超々特作的スケールの雄大さと、ストーリーの深刻さをあらわした……実にソノ何とも彼(かん)とも……。  アハアハアハ。イヤ失敬失敬。わかったわかった……拍手は止してくれ給え。形容詞ばかり並べて済まなかった。どうもアルコールが欠乏して来ると、アタ マの反射交感機能が遅鈍になるのでね。チョット失敬してキング・オブ・キングスの喇叭(らっぱ)を吹(ふか)してもらおう。序(ついで)にハバナの方も 一つ輪に吹(ふか)して……オットット……これはしたり。吾輩はまだ教壇の前に居るんだっけね。早速スクリーンの中から引退して、代りに今云った怪事件 の内容を映写しながら弁士の役を引受ける事にする。そうして諸君の常識を一撃の下にコッパ・ミジンに……。  ……ナニ……吾輩がスクリーンの外へ出たって、おんなじ事じゃないかって……?……。ウワア。コイツは又一本参られた。ソウ頭がよくちゃ始末が悪いね 。……実はモウ暫くすると今一人、別の吾輩が銀幕の中に現われて、その怪奇を極めた心理遺伝事件の内容を「解放治療」の実験にかけて行く実況を演出する 事になるのだ。だからその時にそのモウ一人の吾輩である吾輩は、是非とも映写幕の外に出て、説明役にまわらないとドウモ具合が悪いのだ。未来派の芝居と は違うからね……。  ……勿体(もったい)なくもK(ケー)・C(シー)・MASARKEY(マサーキー)会社の超々特作と題しまして『狂人の解放治療』という、勿論、今 回が封切の天然色、浮出し、発声映画と御座いまして、出演俳優は皆、関係者本人の実演に係る実物応用ばかり……稀代の美少年と、絶世の美少女を中心とし て、渦巻き起る不可解に続く不可思議、戦慄に続く驚異の裡(うち)に、二十余名の男女の血と、肉と、霊魂とがいつからともなく、どこからともなく卍巴( まんじともえ)と入り乱れて参りまして、遂にはこの「狂人解放治療場」に於て、悽惨、無残、眼も当られぬ結末を告げるか、告げぬかの際どいクライマック スに到達しようという……よろしく満腔の御期待をもって……【溶暗】……  【字幕】 実母と許嫁(いいなずけ)と、二人の婦人を絞殺した怪事件の嫌疑者、呉一郎(くれいちろう)(明治四十年十一月二十日生)大正十五年十月十 九日、九州帝国大学、精神病科教室附属、狂人解放治療場に於て撮影――  【説明】 まず最初に御紹介致しまする、この事件の若い主人公……すなわち最前、小手調としてお眼にかけました十名の狂人の中でも、老人の畠打(はた うち)を見物致しておりました青年の、正面向きの大写しで御座います。字幕にあらわしました通り、名前を呉一郎と申しまして、当年取て二十歳で御座いま すが、御覧の通り、男が見ましても吸付いてみたいほどのういういしい美少年で御座います。  ところでこの事件の内容に立入りまするに先立って、何故(なにゆえ)に事件の主人公の顔を、斯様(かよう)に大写しにして御覧に入れたかと申しますと 、ほかの理由でも御座いませぬ。この少年の骨相が、この事件の根本を支配致しております心理遺伝と、重大な関係を持っているからで御座います。  御承知の通り骨相学と申しますのは、目下のところ、まだ純正な科学とは申しかねるのでありますが、しかし、その中の或る部分部分は、確かに実際と一致 することが判明致しておりますので、正木先生はかようにして、新しい精神病患者の顔を見る毎(ごと)に、その骨相を詳細に亘って研究されまして、その血 液の中に、如何なる人種の特徴が混入しているかを、怠(おこた)らず調査しておられるので御座います。換言致しますれば、一切の人間の心理遺伝は、その 近い先祖たちの各個人個人の特徴をあらわすと同時に、ずっと大昔の野蛮未開時代に、各方面から入れ混(まじ)って来た、各人種の心理的特徴をも、併せて 現わしておりますので、一口に日本と申しましても、その骨相と性格の中には、蒙古(もうこ)、印度(インド)、馬来(マレイ)、猶太(ユダヤ)、拉甸( ラテン)、アイヌ、スラブ等の各民族の風采と性格が、切っても切れない因果関係をもって結ばり合つつその人間の特徴を作り出しているので御座います。… …すなわち人間の骨相というものは、その先祖代々の血統の縮図……又、或る一人の性格というものは、その人間の先祖代々の精神生活の凝(こ)り固まりと も考えらるべきもので御座いますから、そのような点を考慮致しまして、その人間の表面的の性格は勿論のこと、本人自身にも気付れずにいる、隠れた性格を 探し出して、その人間の発狂の状態と照し合せるという事は、研究上、誠に必要な事で御座います。……彼(か)の愛犬家や愛馬家が、市場に並んでいる動物 の顔付き、毛並み、骨格なぞを、ただ一眼見廻しただけで、その血統や性質、習慣、又は隠れたる性癖までも、星を指す如く云い当てるのは、この原理を動物 に応用したものに過ぎませぬので、将来の探偵術や、法医学者の研究は、是非ともここまで突込んで来なければ嘘であるという確信を、正木先生はズット以前 から持っておられるので御座います。  そこでその正木先生の診断メモによって、この少年の骨相を解剖的に説明致しまして、引続き曝露致して参ります物凄い事件の特徴と、対照して頂く事に致 しますと、どなたでも、第一に気付かれます事は、この少年の血色が、日本人としては白すぎる事で御座います。御覧の通り、頬にポーッと紅味(あかみ)が さしておりますのは、まだ童貞でいる証拠で御座いますから、除外するとしましても、その皮膚にあらわれた日本人独特の健康色の下(もと)を流るる透明な 乳白色は、明らかに白皙(はくせき)人種の血が、この少年の血統に交(まじ)っている事を推定させますので……しかも……そうとしますれば余程以前に、 少なくとも一千数百年以前に、天山(テンシャン)山脈を越えて支那地方に入り込んで来たもので、所謂(いわゆる)、胡人(こじん)と称せられているもの の血が加わっていたものが、現代に於てこの少年の骨相上に復活したものではあるまいか……という事が、後(のち)に出て参りますこの少年の祖先に関する 記録によって推測されるので御座います。  次に、この少年の骨相の中(うち)で、純粋に蒙古人種系統を代表致しておりますのは、素直な、黒い髪毛の生え際と、鼻の中の内部の形だけであります。 この少年の鼻の穴は、曲りが少のう御座いますので、器械で覗きますと一直線に奥までわかる……お笑いになってはいけません。これは遺伝学上から申しまし ても大切な調査なので、もし白人の系統を引いた鼻の穴だと、恐ろしく曲りくねっているので御座います。  さて……以上の蒙古人系統の特徴を除外した、この少年の骨相をよくよく観察致しますと、そこにあらゆる異人種系統の寄り合所帯が発見されるので御座い ます。  まず……大体の顔の形は拉甸(ラテン)系統のふくらみを持った卵型でありますが、眉と、睫毛(まつげ)が、絵筆で描いたように濃く長くて、眼の縁の隈 がドコとなく青ずんで見えまするところは、何といってもアイヌ式であります。又、鼻の外見的な恰好は純然たる希臘(ギリシヤ)型で、頬から腮(あご)へ かけての抛物線(パラボラ)と、小さな薄い唇が、ハッキリと波打っている恰好を見ますると、我国の古い仏像などに残っているアリアン系統の手法を聯想さ せますが……よく御覧下さい。こころもち薄い腮の中央(まんなか)に、北欧人種式の凹(くぼ)みがありますから……「頬の笑凹(えくぼ)がルビーなら腮 の笑凹はダイヤモンド」と申しますアレで、男にはあまり必要のない美的要素で御座いますが……御覧の通り微笑を含みますと一層よく解るので御座いますが ……。  ところで斯様(かよう)に、一人一人の人間の骨相を調べましてから、その人間の特徴と照し合せてみますとまことによく一致いたします。その中でも一番 よく一致いたしますのは性癖、その次は趣味、その次が才能という順序になっておりますようで……すなわちこの少年は、日本人式の順良さと、アイヌ式の尊 崇心と、拉甸(ラテン)人種式の頭の良さとを同時に持っているので御座いますが、それが又……あの通りウットリとした瞬(まばたき)のし方でもお察し出 来ます通りに、どことなく北欧人種式の隠遁的な、高雅な気風によって包まれておりますために、表面にパッと現われていないのであります。……つまり一口 に申しますとこの少年は、どちらかといえば年齢の割合に落付(おちつい)た、物静かな性格と見るべきで御座いましょう。  然るに、そのような表面的に冷静な性格が、一朝にして心理遺伝の暗示によって、撃破、顛覆(てんぷく)されてしまいますと、今まで内部に潜み流れてお りました大陸民族式の、想像も及ばない執拗深刻、且(かつ)、兇暴残忍な血が、驀然(まっしぐら)に表面へ躍り出して、摩訶(まか)不思議な大活躍を演 ずる事に相成ましたので、つまり只今から御紹介致します空前絶後的な怪事件の真相と申しますのは、要するにこの少年の鼻の穴の中に隠れておりました蒙古 人種(モンゴリア)系統の心理遺伝が、一時に暴れ出したものと、お考え下されば宜しいので御座います。  なお又、このほかに、この少年の骨相の中には、見逃してはならぬ大切なものが残っております。それは一面に極めて楽天的な、呑気なところがありながら 、チョットした刺戟や、僅かな環境の変化にもすぐに感激昂奮して、あたり構わず笑ったり、泣いたり、怒ったりする……一口に申せば極めて気の変り易い、 仏蘭西(フランス)人みたいな性格を象徴している、純拉甸(ラテン)型の薄い腮を持っている事でありますが、しかし、この特徴も、この少年の平生の性格 には、あまり現われていないようであります。やはり前に述べました極めて明晰な頭脳と、厭人(えんじん)的にハニカミ勝(がち)な性格に押え付けられて いるらしく思われるのであります。……とは申せ、随分と著しい特徴でありますから、この少年が解放治療場に参りましてから後(のち)の、長い長い心理遺 伝の発作の途中、もしくはその回復期に於て、いつかはそうしたこの少年の腮の性格……感傷的な、もしくは激情的な気質が、あらわれるに違いないであろう 事を、正木博士は楽しみにして待っておられた次第で御座います。  ……以上述べましたところで、この呉一郎と申す少年の骨相は、あらかた、おわかりになった事と存じます。斯様(かよう)に色々な人種系統の特徴を、造 化の神は如何にして、これ程まで端麗明朗に、且つ、純真美妙に取り合わせたかという事を考えますと、誠に気味が悪くなります位で……科学の権威とか、人 智の進歩とかを一枚看板にしてオマンマを頂いております私共も、こうした生きた芸術の傑作に接しましては、唯、気を呑み、声を呑んで、頭を下るよりほか に致方(いたしかた)がないのであります。  次にはこの少年の心理遺伝を中心とする事件の推移が、如何に奇々怪々なるプロットを以て正木博士の眼界に……オット違った。同博士が自分の頭蓋骨と名 付くる「天然色、浮出し、発声映画撮影機の暗箱」に取付けている二つの眼球のレンズと、左右の耳朶(じだ)のマイクロフォンに、如何なる順序で、そうし た事件の推移が印画されて来たかという事を、その順序通りに廻転して行くフィルムに就て説明して参ります。……【溶暗】  【字幕】 九州帝国大学、法医学教室、屍体(したい)解剖室内の奇怪事……大正十五年四月二十六日夜撮影――  【説明】 あらわれましたる映画は御覧の通り隅から隅まで、どこがドコやら、何が何やらわかりませぬ。漆(うるし)のような闇黒(あんこく)な場面で 御座います。従って説明の致しようもない訳で御座いますが、しかしよく御覧下さい。繻子(しゅす)か天鵞絨(びろうど)か、暗夜(やみよ)の鴉(からす )模様かと思われるほど真黒いスクリーンの左上の隅に、殆ど見えるか見えない位の仄青(ほのあお)い、蛍のような光りの群れが、不規則な環の形になって 漂うているのが、お眼に止まりましょう。……あれは最近大流行を致しておりまする猫イラズで自殺を遂げた芸妓(げいしゃ)の胃袋の中のものが、硝子(ガ ラス)の皿の中から燐光を放っているので御座います。  あれをお認めになりましたならば、賢明なる諸君は、もはやこの闇黒が、尋常一様の闇黒でない事を充分に御推察になった事と信じます。……すなわちこの 闇黒は九州帝国大学、法医学教室の一隅に在る、屍体解剖室内の暗夜の状態を、すぐ横の階段下の物置から、天井裏へ潜り込んだ処に在る、板の隙間から窺( のぞ)いている光景で御座います。  この天井裏の覗(のぞ)き穴は、よく出歯亀(でばかめ)心理に囚(とら)われた小使や、又は好奇心に駆られた新聞記者なぞがコッソリと屍体解剖を覗く 処で御座いますが、よほど古くから在るものと見えまして、穴の内側の処が、爪やナイフでY字形に削(けず)り拡げられておりまして、すこし顔の向きを換 えさえすれば、部屋の下半部の隅々までも手に取る如く見廻されます……のみならず、少々窮屈では御座いますが、物置の棚の上に足を伸ばしますると、三等 列車に乗ったのよりもズット楽な気分で寝ている事が出来ますからまことに重宝で……件(くだん)の燐光を放っておる不浄な皿は、実は向側の隅の机の上に 置いてあるので御座いますが、真上から見下して撮影致しておりますために、あのようにフィルムの上方に見えておるので御座います。  なおこの室内に在りますものが、あの皿一つでない事は申すまでもありませぬ。しかも両側の窓の鎧戸(よろいど)や、入口の扉が、固く鎖(とざ)されて おりまするために、この部屋の闇黒の度合は極めて深くなっておりますので、あの汚物の燐光が辛うじて認められます以外には、何一つ発見出来ませぬ。どこ かでシイ――インと湯が湧いているような、死んだような静寂の裡に、正木博士撮影の「天然色、浮出し、発声映画」のフィルムはただ、漆のように黒く、時 の流れのように秘(ひめ)やかに流れて行くばかり……五十尺……百尺……二百尺……三百尺…………。  ……そもそも正木博士は、何の必要があってか、御苦労千万にも、その双耳、双眼式、天然色、浮出し、発声映画の撮影暗箱(カメラ)を、この解剖室の天 井裏まで担(かつ)ぎ上げたものであろう……如何なる目的の下に、斯様(かよう)な詰らない闇黒の場面を、いつまでもいつまでも辛棒強く凝視した……否 、撮影し続けたものであろう……堂々たる大学教授の身分でありながら、斯様な鼠と同様の所業に憂身(うきみ)をやつすとは、何という醜体(しゅうたい) であろう……と諸君は定めし不審に思われるで御座いましょうが、この説明は後(のち)になってから自然とおわかりになる事と存じますから、ここには略さ して頂きます。  ……時は大正十五年四月二十六日の午後十時前後……呉一郎の心理遺伝を中心とする怪事件が勃発致しましてから約二十時間後の光景……フィルムは依然と して真黒なまま、秘やかに辷(すべ)っております。五百尺……八百尺……一千尺……一千五百尺……画面の静けさと闇黒さとは以前の通りで、ただあの汚物 の燐光が、次第に青白く、明瞭の度を加えて来るばかりであります。折りしもあれ、この教室を包む一棟の中(うち)の、遥かに遠くの小使室で打ち出す時計 の音が、陰(いん)に籠(こも)って……一ツ……二ツ……三ツ……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ンボ――ンボ――ンボ――ン …………ボオ――オオ――ンン……。  ……十一時を打ち終りますと同時に、眼の前の闇黒の中で、何かしら分厚い、大きな木の箱を閉したような音がバッタリと致しますと、間もなくパアッと大 光明がさして、眼も眩(くら)むほどギラギラと輝やくものが、そこいら中一面にユラメキ現われました。それは御覧の通り、部屋の中央に近く、四ツほど吊 されております二百燭光(しょっこう)の電球のスイッチが、最前からこの部屋の中に息を殺していたらしい人間の手で、次から次に捻(ひね)られたからで 御座います……が、よく眼を止めて見ますと……。  ……おお……その室内の光景の如何に物々しい事よ……。  まず第一に視神経を吸い寄せられまするのは、部屋の中央を楕円形に区切って、気味の悪い野白色(のはくしょく)の光りを放っている解剖台で御座います 。この解剖台は元来、美事な白大理石で出来ているので御座いますが、今日までにこの上で数知れず処分されました死人の血とか、脂肪とか、垢(あか)とか いうものが少しずつ少しずつ大理石の肌目(きめ)に浸み込んで、斯様な陰気な色に変化してしまったもので御座います。  その解剖台上に投げ出された、黒い、凹字(おうじ)型の木枕に近く、映画面の左手に当ってギラギラと眼も眩(くら)むほど輝いておりますのは背の高い 円筒形、ニッケル鍍金(メッキ)の湯沸器(シンメルブッシュ)で御座います。これは特別註文の品でも御座いましょうか、欧洲中世紀の巨大な寺院、もしく は牢獄の模型とも見える円筒型の塔の無数の窓から、糸のような水蒸気がシミジミと洩れ出している光景は、何かしらこの世ならぬ場面を聯想させるに充分で 御座います。それから今一つ……初めの中(うち)はチョットお気が付きかねるかも知れませぬが、やがて何となく異様に眼に映って来るであろうと思われま する品物は、右手の窓の下に、壁に接して横たえられております長方型の大きな箱で御座います。その上に白い布が蔽(おお)われているところを見ますと、 いか様これは死人を納めた寝棺に相違御座いますまい。……もっとも死体解剖室に寝棺といえば、必然過ぎるくらい必然的な取り合わせでは御座いますが、そ れが何となく異様に眼を惹きますのは、その上に掛かっております白い蔽いが、高価な絹地らしい、上品な光りを放っているせいでも御座いましょうか……。 これは余談かも知れませぬが、このような立派な寝棺が、法医の解剖室に運び込まれるような事は、まずないと申しても宜しい位で、大抵の場合、松か何かの 薄い荒板製に、白墨(チョーク)で番号を書き放した程度のものが多いのですが……。  そうした解剖台と、湯沸器(シンメルブッシュ)と、白い寝棺と、三通りの異様な物体の光りの反射を、四方八方から取り巻く試験管、レトルト、ビーカー 、フラスコ、大瓶、小瓶、刃物等の夥(おびただ)しい陰影の行列……その間に散在する金色、銀色、白、黒の機械、器具のとりどり様々の恰好や身構え…… 床の上から机の端、棚の上まで犇(ひし)めき並んでいる紫、茶、乳白、無色の硝子(ガラス)鉢、又は暗褐色の陶器の壺。その中に盛られている人肉の灰色 、骨のコバルト色、血のセピア色……それらのすべてが放つ眩(まぶ)しい……冷たい……刺すような、斬るような、抉(えぐ)るような光芒と、その異形な 投影の交響楽が作る、身に滲(し)み渡るような静寂さ……。  しかも……見よ……その光景の中心に近く、白絹に包まれた寝棺と、白大理石の解剖台の間から、スックリと突立ち上った真黒な怪人物の姿……頭も、顔も 、胴体も悉(ことごと)く、灰黒色の護謨(ゴム)布で包んで、手にはやはり護謨と、絹の二重の黒手袋を、又、両脚にも寒海の漁夫が穿(は)くような巨大 なゴムの長靴を穿(うが)っておりますが、その中に、ただ眼の処だけが黄色く縁取(ふちど)られた、透明なセルロイドになっております姿は、さながらに 死人の心臓を取って喰うという魔性の者のような物々しさ……又は籔(やぶ)の中に潜んでいる黒蝶の仔虫(さなぎ)を何万倍かに拡大したような無気味さ… …のみならず、あんなに高い処に在る電球のスイッチを、楽々と手を伸して捻(ねじ)って行った、その素晴しい背丈(せい)の高さ……。こう申しましたな らば諸君はお察しになりましたでしょう。この怪人物こそは、彼(か)の有名な「血液に依る親子の鑑別法」の世界最初の発見者であると同時に、現在『精神 科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまする、空前の名著を起草しつつある現代法医学界の第一人者、若林鏡太郎氏その人であります。  その名法医学者、若林鏡太郎氏は、只今申しました呉一郎少年の心理遺伝を中心とする精神科学界空前の大犯罪事件が勃発後、約二十時間を経過致しました この深更(しんこう)になりますと、何等かの仕事をすべく、コッソリとこの解剖室に這入りまして、斯様(かよう)に物々しい準備を整えたまま、時計の針 が十一時……宿直の医員や、当番の小使が寝静まる時刻を指すのを、今や遅しと待っていた者である事が、現在の状況に依って、お察し出来る事と思いますが ……サテ斯様に電燈を点(つ)けてみますと……ナント諸君。ここに又一つ奇妙な事実があらわれているのに、お気付きになりませんか。  この部屋の内部の状況は、御覧になりまする通り初めてのお方にとっては、何一つとして奇怪でないものはない。無気味でないものはない……と思われるの で御座いますが、それでも今まで御覧になりましたところによって、「若林博士は何かしら解剖台に向って仕事を始めようとしているのだナ」とか「その仕事 の材料になる屍体は、多分あの寝棺の中に納まっているのだナ」というぐらいの事は、もはや十分に御推察になっている事と思います。  しかし……もし左様(さよう)と致しますれば、その若林博士の助手となるべき人間が、この部屋の中に一人も見当らないのは、どうした事で御座いましょ うか。斯様(かよう)な屍体の解剖には、大抵の場合何等かの意味で、一人か二人の人間が立会っている事は、殆ど原則ともいうべき通例となっているのであ りますが……にも拘わらず、御覧の通り若林博士は、そのような人間を一人も室内に近づけていないところを見ますると、何故(なにゆえ)か判明(わか)り ませぬが若林博士は、今夜に限ってタッタ一人で、或る重大な、極めて秘密の仕事を決行せねばならぬ必要に迫られているのではありますまいか……否……解 剖台の前後に在る二つの扉の双方ともに、鍵を挿し放しにしている事実に照しますと無論そうでなければならぬ。普通の事件で持ち込まれた屍体の解剖や検案 なぞとは違った、非常的な秘密事項が今夜の仕事に含まれているに相違ない……という事が、明らかに推測されるで御座いましょう。  ……と思ううちに、部屋の隅の洗面器の処へ行って、手袋を穿(は)めたままの両手を念入りに洗って参りました若林博士は、やおら身を屈(かが)めまし て、寝棺の白い覆布(おおい)を取り除(の)けて、これとてもこのような室には滅多に見受けられぬ、分厚い白木の棺の蓋を開きますと、中から一個の盛装 した少女の屍体を取り出しました。  前からの説明を御記憶の諸君には、最早(もはや)、この少女が何者であるかという、あらかたの御推察が付いている事と存じます。  この少女こそは、前回に御紹介致しました本事件の主人公、呉一郎の花嫁となって、華燭(かしょく)の典(てん)を挙げるばかりに相成っておりましたそ の少女で、名前を呉(くれ)モヨ子と申します。当年取って十七歳に相成りまする絶世の美少女で御座います。その許嫁(いいなずけ)になっておりまする呉 一郎……K(ケー)・C(シー)・MASARKEY(マサーキー)会社の超特作は、超時代的、超常識的、精神科学映画『狂人解放治療』の主人公たる無双 の美少年俳優の相手役となりまして、互いに、あらゆる精神科学的の妖美と、戦慄とを描き出すべきそのエース花形女優は、かくして取りあえず、寝棺の中の 屍体の姿となって、諸君にお目見得をする次第で御座います。  当年流行の新月色に、眼も眩(まば)ゆい春霞と、五葉の松の刺繍を浮き出させた裲襠(うちかけ)。紫地、羽二重(はぶたえ)の千羽鶴、裾模様の振袖三 枚襲(がさ)ねの、まだシツケの掛かっているのを逆さに着せて、金銀の地紙を織出した糸錦の、これも仕立卸(したておろ)しと見える丸帯でグルグルグル と棒巻にしたまま、白木の寝棺に納めてある……その異様な美しさ、痛々しさ。この事件の並々ならぬ内容が窺われますばかりでなく、そうした死骸を、こう して棺に納めた人々の思いまでも察せられまして、そぞろに胸が塞(ふさ)がるばかりで御座います。  しかし最早すでに、学術の権化ともいうべき心理状態になっているらしい若林博士は、そんな事を気にかけるような態度を微塵(みじん)も見せませぬ。衣 裳なんぞには用はないという風に、極めて無造作に、裲襠と、帯と、振袖の三枚襲(がさね)を掴みのけて、棺の傍(かたわら)に押し込みますと、その下か ら現われましたのは素絹(しらきぬ)に蔽われました顔、合掌した手首を白木綿で縛られている清らかな二の腕、紅友禅(べにゆうぜん)の長襦袢(ながじゅ ばん)、緋鹿子絞(ひかのこしぼ)りの扱帯(しごき)、燃え立つような緋縮緬(ひぢりめん)の湯もじ、白足袋(たび)を穿かされた白い足首……そのよう なものがこうした屍体解剖室の冷酷、残忍の表現そのものともいうべき器械、器具類の物々しい排列と相対照して、一種形容の出来ないムゴタラシサと、なま めかしさとを引きはえつつ、黒装束の腕に抱えられて、煌々(こうこう)たる電燈の下に引き出されて参ります。中にも一際(ひときわ)もの凄くも亦(また )、憐れに見えますのは、丈(たけ)なす黒髪を水々しく引きはえて、グッタリと瞑目している少女の顔に乱れ残った、厚化粧と口紅で御座います。そうして ……おお……あれを御覧なさい。  あの襟化粧をした頸部(くび)の周囲(まわり)に、生々しい斑点となって群がり残っている絞殺の痕跡……紫や赤のダンダラを畳んでいる索溝(ストラン グマルク)を……。  ……それを静かに、大理石の解剖台上に横たえました黒怪人物の若林博士は、やはり何の容赦もなく、合掌した手首の白木綿の緊縛を引きほどき、緋鹿子絞 りの扱帯を解き放って、長襦袢の胸をグイグイと引きはだけました。そうして流石(さすが)は斯界(しかい)の権威と首肯(うなず)かれる手練さと周到さ をもって、一点の曇りもない、玲瓏(れいろう)玉のような少女の全身を、残る隈(くま)なく検査して終(しま)いましたが、やがてホッとしたように肩で 息をつきますと、両腕を高やかに組んで、少女の屍体をジッと見下したまま、真黒い鉄像のように動かなくなりました。  ……この深夜に、斯様(かよう)な場所に於て、世にも稀な美少女の屍体と、こうしてタッタ一人で向い合っている黒装束の若林博士は、果して何事を考え ているので御座いましょうか……この少女の死に絡(から)まる残酷と奇怪を極めた事情を、屍体を前にしつつ今一度考え直して、そこに博士独特の透徹、鋭 利なる観察の焦点を発見すべく、苦心惨憺しているので御座いましょうか……それともこの屍体が、この教室に於て未(いま)だ曾(かつ)て発見された事の ない程に、無残な美くしさと、深刻なあでやかさとをあらわしておりますために、生涯を学術のために捧げている独身の同博士も、思わず凝然、恍惚として、 何等かの感慨無量に及んでいるので御座いましょうか……否々。そのような想像は、厳正周密なる同博士の平生の人格に対して、敬意を失する所以(ゆえん) で御座いますから、これ以上に深く立入らぬ事に致します。  ……と……やがて突然、吾(われ)に帰ったようにハッとして、誰も居ない筈の部屋の中をグルリと見廻しました若林博士は、黒装束の右のポケットに手を 突込んで、何やら探し索(もと)めているようで御座いましたが、そのうちにフト又、思い出したように寝棺の箱に近付いて、美しく堆積した着物の下から、 子供の玩具ほどの大きさをした黒い、喇叭(らっぱ)型の筒を一本取り出しました。これはこの節の医者は余り用いませぬ旧式の聴診器で、人体内の極く微細 な音響まで聴き取ろうと致します場合には、現今のゴム管式のものよりもこちらの方が有利なので御座います。若林博士は、その喇叭型の小さい方の一端を、 少女の屍体の左の乳房の下に当てがいまして、他の一端を覆面の下から、自分の耳に押当てて、一心に聴神経を集中しているようで御座います。  屍体の心音を聴く。……おお……何という奇怪な若林博士の所業で御座いましょう。見ている者の胸の方が、却(かえ)ってオドロオドロしくなりますくら いで……。  ……けれども御覧なさい。若林博士は依然として旧式聴診器(ステトスコープ)に耳朶(みみたぶ)を押当てたまま、片手で解剖着の下から、銀色の大きな 懐中時計を取り出して、一心に凝視しております……確かに心臓の鼓動音が聞えているので御座います。すなわち、この解剖台上の少女の肉体は、まだ生きて いるに違いないのであります。……そういえば最前、若林博士がこの少女の全身を検査した時に、死後相当の時間を経過した屍体の特徴として、どこかに、是 非とも現われていなければならぬ薄青い死斑が、どこにも影を見せなかった……又、強直した模様もなかったところを見ますると、多分、この少女はあの寝棺 に納まっているうちから……否。あの棺箱に納められる以前から、死んではいなかったに違いないという事が考えられるのであります。頸部(くび)の周囲( まわり)には歴然たる索溝(ストラングマルク)――絞殺の痕跡を止めたまま……。  ……何という不可思議な出来事で御座いましょうか……。  しかし若林博士は格別、驚いた様子も見せませぬ。間もなくステトスコープを耳から離して、時計と一緒にチョッキのポケットに突込みましたが、如何にも 満足そうに二ツ三ツ大きくうなずきながら、改めて少女の姿を見下しているので御座います。  こうした態度から察しますると若林博士は、一番最初に、この少女の屍体を検案致しました時から、この少女が医学上、稀有とされている仮死状態に陥った ものである事を、早くも看破していたものと見えます。勿論それは、その以前に馳付けたであろう附近の医師や、警察医が、充分に診察を遂げた後(のち)の 事でなければなりませぬが、それにも拘わらず、仮死である事を確認致しましたのは、如何なる点に着眼したもので御座いましょうか。しかも、その上に、そ の仮死体を、如何なる名目の下に斯様(かよう)な棺桶に詰(つめ)て、この部屋へ運び込ませたものか……のみならずその奇怪な少女の仮死体を、こうして タッタ一人で極秘密裡にいじくりまわしているというのは、如何なる理由と目的があっての事で御座いましょうか。尋ねるよすがもありませぬが、何に致せ一 代の名法医学者、若林鏡太郎氏の事で御座いますから、古今東西に於ける仮死の例証を、既に充分に研究し尽しているので御座いましょう。そうしてこの少女 の屍体が、仮死体であるという事実を、単に自分一個限りの絶対秘密にしておくという事が、この空前の怪事件の解決のために必要、止むを得ないであろう何 等かの重大な理由を、彼自身に確認しているからの事で御座いましょう。  そればかりでは御座いませぬ。……その若林博士が扮装しました、この黒怪人物は、先刻から闇黒(くらやみ)の中に潜んでおりました際に、彼(か)の寝 棺の蓋をソッと開きまして、この少女を仮死状態から覚醒せしむべく、同博士独特の何等かの刺戟手段を施しつつ、時々ステトスコープでもって少女の心音を 窺っていた事が、疑いなく察せられるのであります。……というのはツイ今しがた、その若林博士の黒怪人物が、十一時の時計の音を聞いて電燈を点(つ)け ます前に、何やらパタリと音を立てましたのは、同博士が棺の蓋を閉じた音に違い御座いませんので、ステトスコープもその時に、着物の下へ置き忘れて来た ものと考えられるからであります。……が、それと同時に、極めて些細な事ではありますけれども、斯様な大切な商売道具を置き忘れるという事は、平生の同 博士の極度に冷静周密な性格から推して考えますと、真に意外と思われる出来事で、今夜の若林博士は、確かに平常と違った心理状態にある。少くとも同博士 が如何に夢中になって、この少女をこの世に呼び活(い)かすべく闇黒の中で苦心、熱中していたかという事は、この一事を以てしても、十二分に察せられる 訳では御座いますまいか。  しかし若林博士の手腕が、如何に卓抜恐るべきものがあるかという事は、まだまだこれから追々(おいおい)とお解りになりますので、今迄のところはホン の皮切(かわきり)に過ぎないので御座います。  若林博士は、解剖台上の少女が、その仮死状態から時々刻々に眼醒つつある事を知りますと、御覧の通り極めて緊張した態度で、左右の手袋を脱ぎました。 解剖着の下にまん丸く膨れております洋袴(ズボン)のポケットにその手を突込んで、色々な品物を取出しながら、一つ一つ傍(かたわら)の木机の上に並べ ました。白髪染(しらがぞめ)の薬瓶と竹の歯ブラシ。三四本の新しい筆。小さな墨汁(すみ)の鑵(かん)。頬紅と口紅を容れたコンパクト。化粧水。香油 。クリーム。練白粉(ねりおしろい)の色々……等々々。いずれも、斯様(かよう)な部屋に似合しからぬ品物ばかりで……。それから入口に近い棚の奥に隠 してありました茶色の紙包を開きますと、中から白木綿と白ネルの筒袖の着物、安っぽい博多織(はかたおり)の腰帯、都腰巻(みやここしまき)、白い看護 婦服と帽子、バンドの一揃い、スリッパ、看護婦帽、ヘヤピンなぞの、いずれも新しいものばかりを取出しまして、やはり傍の木机の上に置き並べました。斯 様な品物は皆、昼間から準備していたもので、多分、解剖台上の少女に着せるつもりではないかとも思われますけれども、何のために、そんな事をするのかと いう事はまだ判明致しませぬ。  次に若林博士は、今一度ステトスコープを取り出して、少女の心音を念入りに聴き直した上で、向うの薬棚から小さな茶色の瓶を取って参りまして、その中 の無色透明な液体を、心持ち顔を反(そむ)けながら、脱脂綿の一片の上にポトポトと滴(たら)しました。それをまだお白粉の残っている少女の鼻の処へ、 ソロソロと近付けつつ、左手で静(しずか)に脈を取っているので御座います。申すまでもなく、これは麻酔剤を嗅(かが)しているので……あまり早く少女 が覚醒しては困る事があると見えます。しかしこの少女を麻酔さしておいて、どうするつもりか……というような事は、やはり只今のところでは判明致しませ ぬので、そうした若林博士の行動ばかりが、愈々(いよいよ)出(い)でて、いよいよ奇怪に見えて来るばかり……。  ……と思う中(うち)に、麻酔剤を嗅(か)がせ終りました若林博士は、はだけたままの少女の胸を掻き合せますと、今度はツカツカと正面の薬棚に近づい てその片隅に突込んである美濃型、日本綴(つづり)の帳面を一冊取り出しました。その表紙には「屍体台帳……九大医学部」と大字で楷書してありまして、 その表紙を開くと、各頁(ページ)ごとに「屍体番号」「受取年月日」「引取人住所氏名」「引渡年月日」なぞいうものが、一面に行列を立てて書込んである 上と下に、一々若林という検印が捺(お)してあります。……ところでその帳面の半分に近い、書込みの残っている頁まで、バラバラと繰って参りました若林 博士は、やがて最終から二番目の屍体番号「四一四」、容器番号「七」と書いたのを指で押えますと、そのまま帳面を傍の机の上に投げ出しまして、長々とし た手をさし伸しながら、頭の上の二百燭光のスイッチを四個とも切ってしまいました。  室内は、もとの通りの闇黒状態に立ち帰ったので御座います。  しかも、このフィルムの闇黒状態は、ソックリこのまま、他の部屋の闇黒状態に入れ変って行くので御座いますが、果して、どのような意味の闇黒がフィル ムの前途に待ち構えているで御座いましょうか……【暗転】  ……闇黒のフィルムが依然として諸君の眼の前に連続して行きます……十尺……十五尺……三十尺……五十尺……諸君の眼の前に凝(こ)り固まって行く闇 黒の核心に、やがて黄色い、小さい、薄汚れた電球が灯(とも)りました。御覧の通り、どこかの鍵穴から覗いた陰気な室内の光景が現われました。  ……ナント諸君……このような部屋を御覧になった事がありますか。  右手に見えております混凝土(コンクリート)の暗い階段は、この部屋が地下室である事を示しておりますので、正面に並んだ白ペンキ塗の十数個の大きな 抽斗(ひきだし)は、皆、屍体の容器なので御座います。すなわちこの部屋は、九大医学部長の責任管理の下にある屍体冷蔵室で、真夏の日中と雖(いえど) も、肌膚(はだえ)が粟立つばかりの低温を保っているのでありますが、殊に只今は深夜の事とて、その気味の悪い静けさは、死人の呼吸も聞えるかと疑われ るくらい……。  ここに姿を現わしました当の責任者、医学部長、若林博士が扮しました黒怪人物は、室内の冷気に打たれたものと見えまして、暫くの間、絶え入るばかりに 苦しい咳(せき)を続けておりますが、そのうちにようようの事で、それを押し鎮(しず)めますと、ポケットから合鍵を取出して「七」と番号を打った屍体 容器に取付けてある堅固な南京錠を取除きました。それから車仕掛になった頑丈な容器をゴロゴロと、有り合う台の上に引出しましたが、一息吐く間(ま)も なく、やおら上半身を傾けまして、全身を繃帯で棒のように巻き立てられた少女の強直屍体を、ズルズルと床の上に抱え下しました。見るとその強直屍体は、 最前の仮死体の少女とは似ても似つかぬ色の黒い、醜い顔立ちではありますけれども、年恰好や背丈け、肉付き、又は生え際の具合なぞは、どうやら似通って いるようで御座います。  若林博士は前からこの屍体に眼星をつけていたものらしく、よく検(あらた)めもせず、又は、少しの躊躇も見せずに、容器をピッタリと元に復(かえ)し て、南京錠を引っかけますと、その屍体を材木か何ぞのように担ぎ上げて、一歩一歩とコンクリートの階段を昇り詰めながら、片手で壁際のスイッチを切って 、地下室の電燈を消してしまいました。【暗転】  ここで又、暫くの間、闇黒の場面が続くので御座いますが、しかし……お聞き下さい。あの夥しい犬の吠え声を……。  あれは今の屍体冷蔵室と、法医学教室の裏手に連なる松原の闇黒(くらやみ)伝いに、人眼を避けつつ屍体を担いで行く、若林博士の異様な姿を、その松原 の附近に設けられている実験用の動物の檻の中から、野犬の群が発見して、吠え立てているところであります。それに魘(おび)えて狂いまわる猿輩(さるど も)の裂帛(れっぱく)の叫び……呑気な羊や、鶏(とり)の類までも眼を醒して、声を限りに啼き立て、喚(わ)めき立てている。その闇黒の騒がしさ…… モノスゴサ……。けれども斯様な動物どもが騒ぎまわる事は、殆ど毎晩といっても宜しいので、誰一人として怪しむ者はありませぬ。況(ま)して堂々たる大 学の医学部長が、自分の責任管理に属する屍体をコッソリ盗んで行く……という前代未聞の怪事実を吠え立てていようなぞと、誰が思い及びましょう。九州帝 国大学構内を包む春の夜の闇は、すさまじい動物どもの絶叫、悲鳴の裡(うち)に、いよいよ闃寂(げきじゃく)として更(ふ)け渡って行くばかりで御座い ます。  やがてその声が次第に遠ざかって、ピッタリと静まったと思う間もなく、又もパッパッと四個の二百燭光の電燈が点(つ)きますと、場面は以前の法医学の 解剖台の処に立ち帰ります。  みると四百十四号の少女の強直屍体は、もうコンクリートの床の上に横たわっておりますが、一方に入口の扉を以前(もと)の通りに厳重に鎖(とざ)し終 った若林博士は、解剖台の前に突立ったまま、黒い覆面の上から汗を押え押え息を切らしております。  大正十五年四月二十七日夜の、九大法医学部、解剖室には、かくして二個の少女の肉体が並べられた事になります。美しく蘇(よみがえ)りかけている少女 と、醜くく強直している少女と……中にも解剖台上に紅友禅(べにゆうぜん)を引きはえました少女の肉体は、ほんの暫くの間に著しく血色を回復しておりま して、麻酔をかけられたままに細々と呼吸しはじめている、そのふくよかな胸の高低が見える位になっております。その異常な平和さ、なまめかしさ……台の 下の醜い少女の顔と相対照しておりますせいか、その美しさは一層美しく、ほとんど気味の悪いくらい、あでやかに感じられるようであります。  その脈搏を取り上げた若林博士は、時計のセコンドと睨み合せつつ、麻酔の効果を検診し初めました。その真黒い博士の姿が、心持ち頭を傾けたまま、石像 のように動かなくなりますと、それに連れてこの室内の空虚が、ソックリこのまま、地下千尺の処に在る墓穴のような、云い知れぬ静寂に満たされてまいりま す。  そのうちに脈を取っていた少女の手を投げ出して、時計をポケットに納めました若林博士は、その少女の身体(からだ)をそっと抱え上げて、部屋の隅に横 たえてある寝棺の蓋の上に寝かしました。そうしてその代りに四一四号の少女の強直屍体を解剖台の上に抱え上げて、凹字(おうじ)型の古びた木枕を頭部に 当てがいますと、大きな銀色の鋏(はさみ)を取上げて、全身を巻立てている繃帯をブツブツと截(き)り開く片端(かたはし)から、取除いて行きましたが ……御覧なさい……その蒼黒い少女の皮膚の背中から胸へ、胸から股へと、縦横にタタキ付けられている大小長短色々の疵痕(きずあと)を……殴打、烙傷( らくしょう)、擦傷(さっしょう)の痕跡を……それらの褐色、黒色、暗紫色の直線、曲線は腰部にあらわれている著明な死斑と共に、煌々(こうこう)たる 白光下に照し出されると同時に、そのままの色と形の蛇や、蜥蜴(とかげ)や、蟇(がま)となって、今にも彼女の皮肌の上を匐(は)いまわり初めるかと疑 われるくらい……。  御承知の御方も御座いましょうが、全国の各大学や、専門学校の研究用の解剖屍体には、こうした種類の屍体がよく持込まれるので御座います。殊に、この 九大に収容されるのは、同地方に多い炭鉱や紡績、その他の工場、又は魔窟なぞへ誘拐虐待されたもの、又は自殺者、行路病者なぞの各種類に亘っておりまし て、中には引取人のないのも珍しくありませぬが、九大側では、そんなのを片(かた)っ端(ぱし)から研究材料にして切り散らしたあげく、大学附属の火葬 場で焼いて骨(こつ)にして、五円の香典を添えて遺族に引渡す。又、引取人のないものは共同墓地へ埋めて、年に一度の供養法会(くようほうえ)を執行( とりおこな)う事になっておりますので、この屍体も、そうした種類の一つと考えられるのであります。  こう申しますうちに、屍体の全身を手早く検査し終りました若林博士は、今一度ホーッとばかり、喘(あえ)ぐように溜息しつつ、覆面ごしに顔の汗を押え ておりましたが、やがて部屋の隅の洗面器の処に近付いて、水道栓から直接にゴクゴクと水を飲んでは噎(む)せかえり、呼吸を落付けては水を飲んで、暫く の間は息も絶え絶えに咳入(せきい)っております。永年の肺病に囚(とら)われて、衰弱に衰弱を重ねております同博士にとりまして、これだけの労作(は たらき)は、如何ばかりか辛(つら)く、骨身にこたえた事でしょう。  けれども同博士の怪(かい)より出でて怪に入る仕事は、まだ半分も進行していないので御座います。  程もなく洗面器の処から引返しました若林博士は、まず屍体の足の処にボール鉢を置いて、そこに取付けてあります水道栓のホースを突込んで、屍体の脚部 から背中へかけた解剖台面に水を放流し初めました。次いで今一つのボール鉢に湯を取りまして、スポンジと石鹸を使いながら、解剖台上の少女の虐殺屍体を 、隅から隅まで叮嚀に洗い浄(きよ)めましたが、次いでその皮膚の全面を、ガーゼと脱脂綿とでスッカリ拭い乾かしますと、その貧しい赤茶色の髪の毛を真 二つに引分けて、傍(かたわら)に光り並んでいるメスの一つを取上ると見る間に、屍体の眉間(みけん)の処をブスリと一突き……それから次第に後頭部に 到る頭の皮を、一直線にキリキリと截(き)り開いて行きました。  ところで多少共にこの方面に関する知識を持っていられる方は、定めしここで「オヤ」と思われる事と存じます。若林博士のこうしたやり方は、普通の場合 に於ける屍体解剖の手順になっております胸部、腹部から頭部、次に背部という順序を無視して、頭部から初めている事になりますから……。  そもそも古今の名法医学者若林博士は、何の目的の下に、このような勝手気儘な順序を以てメスを揮(ふる)いはじめたのか……と疑う間もなく四一四号の 少女の頭の皮は巧(たくみ)にクルリと裏返しにされまして、髪毛(かみのけ)と一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました。次に、その下から現 われました白い坊主頭を、鋸(のこぎり)で鉢巻形に引切りました若林博士は、その下から現われた脳髄を、器用な手附で鋏を使いながら硝子(ガラス)の皿 の上に取出しますと、そこで同博士一流の念入りな調査をこころみるか、それとも標本にして取っておくのか……と思われましたが、これが又案に相違して、 まるでビフテキかオムレツでも取扱うような無関心さで、皿の中の脳髄をクルリと宙返りさせますと、そのまま旧(もと)の空洞に納めまして、頭蓋骨を冠せ て、皮と髪毛をクルリと蔽(おお)うて、針と糸を迅速に捌(さば)き働かせつつ、粗(あら)っぽく縫い合せてしまいました。  ……これは意外である。一種の狼藉(ろうぜき)とも見るべき所業である。厳格方正を以て聞えた若林博士は、何故(なにゆえ)に今夜に限って、斯様(か よう)な不誠意を極めた屍体解剖を試みるのであろうか……と疑いの眼を瞠(みは)っているうちに、屍体は間もなく……ゴロリと俯向けに引っくり返されま した……と見ると、疵(きず)だらけの背筋の中央、脊椎の左右の筋肉が円刃刀(メス)でもってゴリゴリと切り開かれました。そこから二股(ふたまた)の 鋸を突込んで、左右の肋骨(ろっこつ)を切り除(の)けた若林博士は、取出した背骨を縦に真二つに切り開いただけで、ロクに検査もせずに、もとの処に当 てがいまして、太い針でブスブスと縫い合せてしまいました。その一気呵成(いっきかせい)的なゾンザイサというものは、やはり前とおんなじ事なので…… 。  次に若林博士は今一度、屍体をあお向けにして、汚れた処をザッと洗い浄めてから、腹部の皮の厚さを押えこころみている……と思ううちに、新しいメスを キラリと取上げて、咽頭(いんとう)の処をブスリと一突き……乳の間から鳩尾(みぞおち)腹部へと截り進んで、臍(へそ)の処を左へ半廻転……恥骨(ち こつ)の処まで一息に截り下げて参りますと、まず胸の軟骨を離して胸骨を取除(とりの)け、両手を敏活に働らかせつつ、胸壁から下へ腹壁まで開いて参り ましたが、只一刀で腹壁、腹膜が同時に、切開かれておりまして、内臓には一点の疵(きず)も附いていない。……五臓六腑の配置が歴々整然として、蒼白い 光りに輝き濡れている光景は、気味悪いと申しましょうか、物凄いと形容致しましょうか……その肺臓の一面にあらわれている黒い汚染(しみ)は、この少女 が炭坑労働に従事しておった事をあらわし、その致死の直接原因と見られる肝臓の破裂と内出血は、この少女に加えられた虐待、もしくは迫害が、如何に激烈 であったかを証明しているのでありますが、しかし若林博士は相も変らず、そんな事には眼もくれませぬ。ただ、それ等の内臓の一つ一つを手当り次第に廻転 さしたり、掻き乱したりしただけで、その最後に胃袋と、大小腸と、膀胱(ぼうこう)とを、ほんの形式だけ截り破るなぞ、あらゆる検査の真似型だけを終り ますと、普通の解剖のように、各臓器の一部宛(ずつ)を標本に取るような事もせずに、又も、太い針と麻糸を取り上げまして、下腹部から順次に咽頭部まで 縫い上げて行きました……が……その間に於ける刀(メス)の揮(ふる)い方の思い切って残忍痛烈なこと……その針と、糸の使い方の驚くべき巧妙迅速を極 めていること……そうしてその手付きや態度にあらわれて来る、たまらないほど辛辣な満足のわななき……それはこうした仕事によって、或る深刻痛烈な慾望 を満足させつつある、精神異常者そのままの表現ではないかと疑われるくらい……。  先刻から、かような一挙一動を、詳しく見ておいでになりました諸君は、もはやハッキリとお気付きになっているで御座いましょう。今や若林博士の態度は 、その平生の冷静、荘重な物腰を全然喪(うしな)ってしまって、殆ど別人かと思われる残忍、酷烈な、且つ一種異様な興味に駆られた、元気溌溂たる人間に 変って来ておりますことを……。  しかし、これは決して怪しむべき現象ではありませぬ。昔から或る仕事の大家とか、又は或る技術の名人とか天才とか呼ばれる人間が、自分の仕事に熱中し て参りますと、その疲労から来る異常な興奮と、超自然的な神経の冴えが生み出す妄覚等によって、平生とはまるで違った心理状態になって、一見極めて非常 識に見える事に深刻な興味を持ったり、又は変態怪奇を極めた所業(しわざ)を平気で演じて行く例(たとえ)は、随分沢山に伝わっておりますので……況( いわ)んや若林博士のような特殊な体質と頭脳を持った人間が、斯様(かよう)な古今に類のないであろう事業……闇黒の中に絶世の美少女の仮死体を蘇生さ せるという、玄怪微妙な仕事が済むと間もなく、今度は世にも珍らしく、酷(むご)たらしい少女の虐殺屍体を、無二無三に斬りさいなむという、異常を超越 した異常な作業にかかっているのですから、その神経が、どんな程度にまで昂進して、その心理が如何なる方向に変形して来ているかは到底常人の想像し得る ところではありますまい。  そうした不可解な心理を包んだ黒怪人物……若林博士は、かくして間もなく、少女の胸腹部を、咽頭の処まで縫合せ終りますと、最後に一際(ひときわ)鋭 い小型のメスを取上げて、四一四号の少女の顔面に立向いました。  まず、右の眼の縁へズクリとメスを突立てますと、恰(あたか)も同博士独特の毒物の反応検査を試みるかのように、両眼をグルリグルリと抉(えぐ)り出 してしまいましたが、例によって、別に眼底を検(あらた)めるでもなく、そのまま直ぐに元の眼窩(がんか)に押込んでしまいました。次には、その中間の 鼻梁(びりょう)を、奥の方の粘膜が見える処までガリガリと截(た)ち割りました。それから唇の両端を耳の近くまで切り裂いて、咽頭が露われるまでガッ クリと下顎を引卸しました。  屍体の顔はかようにしてトテモ人間とは思われぬまでに変形してしまいましたが、これを又モトの通りに一個所毎(ごと)に縫い合せました黒衣の巨人は、 ホッと一息する間もなく、ガーゼと海綿を取上げてアルコールをタップリと含ませながら、汚れた処を一々叮嚀に拭上げますと、やがて今までとはまるで相好 の変った、誰が誰やらわからぬ奇妙な恰好の屍体が一個出来上ってしまいました。  黒衣の博士はここでヤット一息入れますと、解剖台の上と下とに横たわる二人の少女の肉体を繰返し繰返し見較べておりましたが、そのうちに、二重の手袋 を左右とも脱ぎ棄てまして、傍(かたわら)の机の上に在る固練白粉(かたねりおしろい)を掌(てのひら)で溶きながら、一滴も澪(こぼ)さないように注 意しいしい、四一四号の少女の顔、両肩、両腕と、腰から下の全部にお化粧を施し初めました。  ……ところでその手附を御覧下さい。いかがです。粗(あら)い縫目や、又は毛髪の生際(はえぎわ)なぞに白粉が停滞しないように注意しつつ、デリケー トに指を働らかせて行くところは、如何にも斯様な化粧品を扱い慣れている手附では御座いませんか。  これは恐らくこの博士が、自身に何回となく変相をした経験があるせいでは御座いますまいか。それともこの博士の裏面的性格から来た、飽く事を知らぬ変 態的趣味と、法医学的研究趣味とが相俟(あいま)って、伝え聞く数千年前の「木乃伊(ミイラ)の化粧」式な怪奇趣味にまで、ズット以前(まえ)から高潮 しておりましたのが、斯様な機会に曝露したもので御座いましょうか。いずれに致しましてもあのように青黒い、又は茶色に変色した虐待致死の瘢痕(はんこ ん)を砥(といし)の粉で蔽(おお)うて、皮膚の皺や、繃帯の痕(あと)を押し伸ばし押し伸ばしお白粉(しろい)を施して行く手際なぞは、実に驚くべき もので、多分遊廓の遣手婆(やりてばば)が、娼妓の病毒を隠蔽する手段なぞから学んだもので御座いましょうか……とうとう色の黒い、傷だらけの少女の肌 を、色の白い少女の皮膚の色と変らない程度にまで綺麗に塗上げてしまいました。それから口紅、頬紅、黛(まゆずみ)、粉白粉なぞを代る代る取上げて、身 体各部の極く細かい色の変化を似せて、大小の黒子(ほくろ)までを一つ残らずモデルの通りに染め付けた上に、全身の局部局部の毛を床の上の少女と比較し つつ、理髪師も及ばぬくらい巧みに染め上げて、一々香油を施しました。  ……と思うと今度は、手近い机の抽斗(ひきだし)を開いて赤、青、紫、その他の検鏡用のアニリン染料を、梅鉢型のパレットに取って、新しい筆でチョイ チョイチョイと配合しながら、首のまわりの絞殺の斑痕を、実物と対照して寸分違わぬ色と形に染付け始めましたが、これとても実に巧妙、精緻を極めたもの で、浮上ったような蚯蚓腫(みみずば)れや、蜥蜴(とかげ)のような血斑が、見ているうちに頸のまわりを取巻いてしまいました。  しかし黒怪人物の黒怪事業はまだまだ進行する模様で御座います。  黒怪人物は、それから大急ぎで二重の手袋を穿(は)め直しまして机の下から一包みの繃帯を取出しました。その繃帯でもって化粧済みの屍体の顔から頭へ かけて真白に巻き潰してしまいましたが、続いて頸、肩、上膊部、胸、腹部、両脚という順序に、全身をグルグルグルグルグルと巻上げますと、御覧の通り木 乃伊(ミイラ)の出来損(そこ)ねか又は、子供の作るテルテル坊主の裸体(はだか)ん坊(ぼう)を見るような姿にしてしまいました。それから今度は、寝 棺の蓋の上に寝ている美少女の派手な下着を剥ぎ取って、白坊主に着せまして、その上から緋鹿子絞(ひがのこしぼ)りの扱帯(しごき)をキリキリと巻付け てやりましたが、その姿の奇妙さ、滑稽さ……そうして、それと向い合って見下している黒怪人物の、今更に眼に立つ物々しい妖異さ……。  しかしまだテルテル坊主の屍体には、節(ふし)の高いカサカサに荒れた両手が、ニューと突出されたまま残っております。これをどうして胡麻化(ごまか )すかと見ておりますと、流石(さすが)は絶代の怪人物黒衣博士です。何の造作もないこと……その両腕の肘の関節をポキンポキンと押曲げてチャンと合掌 させて、白木綿でシッカリと縛り包んでしまいました。成る程。これなら大丈夫と思ううちに、これも同じく隠しようのないままに残されていた皸(ひび)だ らけの足の踵(かかと)も、美少女の小さな足袋(たび)の中に無理やりに押込んでヒシヒシとコハゼをかけてしまいました。そうして愈々(いよいよ)強直 してしまった、艶(なま)めかしい姿の白坊主をヤットコサと抱き上げて、寝棺の中にソッと落し込んで、三枚襲(がさ)ねの振袖と裲襠(うちかけ)を逆さ に着せて、糸錦(いとにしき)の帯で巻立ててやりますと、今度は多量のスポンジと湯と、水と、石鹸と、アルコールとで解剖台面を残る隈(くま)なく洗い 浄(きよ)めました。その上に意識を恢復しかけている美少女の裸身をソロッと抱え上げまして、その下敷になっていた分厚い棺の蓋を、テルテル坊主の上か らシックリと当てがって、その上を白絹の蔽いでスッポリと蔽い包んでしまいました。  しかし黒怪人物の怪事業は、まだ残っておりました。しかも今度こそは、その黒怪手腕中の黒怪手腕を現わすホントの怪事業とでも申しましょうか。  ここで寝棺と解剖台との間に突立って、又もホッとばかり肩を戦(おのの)かして一息しました黒衣の巨人はやがて又大急ぎで手袋を脱ぎ棄てますと、まず 鋏を取上げて、解剖台上の少女の長やかに房々とした頭髪を掻分(かきわ)けながら、まん中あたりの髪毛(かみのけ)を一抓(ひとつま)み程プッツリと切 取りました。それを机の抽斗(ひきだし)から取出した半紙でクルクルと包みまして、同じ抽出(ひきだし)から出した屍体検案書の刷物(すりもの)や二三 の文房具と一緒に先刻の屍体台帳の横に置並べましたが、やがて鉄製の円型腰掛を引寄せながら、新しい筆を取上げて墨汁を含ませますと、今の半紙の包みの 上に恭(うやうや)しく「遺髪」「呉モヨ子殿」と書きました。それから、ちょっと時計を出して見ながらジッと考えている様子でしたが、屍体検案書の書込 みの方は後廻しにする決心をしたらしくソッと横の方へ押遣(おしや)って、屍体台帳の方を繰拡げますと、その中央に近い処にある「四百十四号……七」と 書いた一枚をほかの書込みの行列と一緒に叮嚀に破って、抜取ってしまいました。  それから別の皿へ墨汁を溶かして、色々の墨色を作りながら、破った頁(ページ)文字とソックリの筆跡で十数個の屍体に関する名前、年月日、番号等を書 入れて参りました……が……その中でも今の「四百十四号……七」に関する書込みは全部飛ばして、次の「四百二十三号……四」の分を記入して、一々「若林 」という認印(みとめいん)を捺(お)してしまいました。……すなわち、今しがた寝棺の中に納められたばかりの少女の変装屍体に関する記入は、かくして この屍体台帳から完全に追出されてしまった訳で御座います。  ……諸君はここに於てか、今迄の若林博士の苦心惨憺の怪所業の一々が、何を意味しておったか……という事を、悉(ことごと)く明白に理解されたで御座 いましょう。  美少女、呉モヨ子の身代りとなって、棺の中に納められておりますのは、もともと身よりたよりの無い、行衛(ゆくえ)も知らぬ少女の虐殺屍体で、こちら から通知を出さない限り、遺骨を受取りに来る気づかいのない種類のものである事が、容易に察せられるのであります。  一方に当大学内に於て、屍体解剖を行われました人間の身寄(みより)の者は、大抵、その翌日のうちに遺骨を受取りに来るように通知が出されるのであり ますが、実は、解剖が済みますと直ぐに、裏手の松原に在る当大学専用の火葬場の人夫が受取って行って、立会人も何も無いままに荼毘(だび)に附して、灰 のようになった骨と、保存してあった遺髪だけを受取りに来た者に引渡す……という、一般の火葬の場合とは全然違った、信用一点張りの制度になっておりま すので、屍体の替玉に気付かれる心配は万に一つもないといってよろしい。尤(もっと)も、その火葬以前にやって来て、今一度、死人の顔を見せてくれと要 求するような、取乱した親達がないという断言は出来ないのでありますが、仮令(たとい)そのような場合があるにしても、彼(か)のメチャメチャに縫い潰 した顔を見せたら、二(ふ)タ目と見得る肉親の者はまずありますまい。  但、唯一つここに懸念されるのは、その筋の係官や、関係医師なぞが、今一度、念のために検分に来る場合でありますが、これ程に二重三重の念を入れて、 巧妙、精緻な手を入れた換玉(かえだま)である事を、どうして見破り得ましょう。いずれに致しましてもその人格に於て、又はその名声に於て、天下に嘖々 (さくさく)たる若林博士が、九大医学部長の職権を利用しつつ、念を入れ過ぎる位に念を入れて仕上げた仕事ですから誰が疑点を挿(はさ)み得ましょう。 どこに手ぬかりがありましょう……九大、屍体冷蔵室の屍体紛失事件が、若林博士以外にはタッタ一人しか居ない係りの医員に、不審の頭を傾けさしたまま、 永久の闇から闇に葬られて行く時分には、行衛不明になった少女の虐殺屍体は既に、一片の白骨となって、立派な墓の下に葬られて、香華(こうげ)を手向( たむ)けられている訳であります。  同時に現在、気息を恢復しつつある解剖台上の少女……呉モヨ子と名付くる美少女は、戸籍面から抹殺された、生きた亡者となって、あの蒼白長大な若林博 士の手中に握り込まれつつ、呼吸する事になるので御座いますが、しかし、それが後(のち)になって何の役に立つのか、若林博士は何の目的でこの少女を、 生きた亡者にして終(しま)ったのか。……その説明は後(のち)のお楽しみ……と申上げたいのですが、実はこの時までは天井裏から覗いておりました正木 博士にもサッパリ見当が附(つい)ておりませんでしたので……恐らく諸君とても御同様であろうと思います……が……。  ……しかし同時に、新聞紙上で、迷宮破りとまで称讃されている絶代のモノスゴイ頭脳の持主、若林鏡太郎博士が、かほどの惨憺たる苦心と、超常識的なト リックを用いて挑戦しつつある事件の内容……もしくはその犯人の頭脳が、如何に怪奇と不可解を極めた、凄絶なものであろうか……という事実に就いては最 早(もはや)、十分十二分の御期待が出来ている事と存じます。しかも、この御期待に背(そむ)かない事件の驚くべき内容と、その過程の具体的なものが、 順序を逐(お)うて諸君の眼前に展開して参りますのは、最早、程もない事と思われますので……。  すなわち御覧の通り、事件は最早、既に、九大法医学部、解剖室内の黒怪人物、若林博士の手に落ちているので御座います。そうして同博士は今や、一代の 智脳と精力を傾注しつつ、その怪事件を捲起した裏面の怪人物に対する、戦闘準備を整えているところですから……。  却説(さて)……斯様にして屍体台帳の書換えを終りました若林博士は、その台帳を無記入(ブランク)の屍体検案書と一緒に、無雑作に机の上に投出しま した。疲れ切った身体(からだ)を起して室内に散らばっているガーゼ、スポンジ、脱脂綿なぞを一つ残らず拾い集めて、文房具、化粧品等と一緒に新しい晒 布(さらし)に包み込んで、繃帯で厳重に括(くく)り上げてしまいました。多分、どこかへ人知れず投棄して、出来る限り今夜の仕事を秘密にする計劃で御 座いましょう。四一四号の屍体の各局部の標本を取らなかったのも、そうした考えからではなかったかと考えられます。  こうした仕事を終りまして今一度そこいらを念入りに見廻しました若林博士は、やがて傍(かたわら)の机の上に置いた新しい看護婦服と白木綿の着物を取 上げて、まだ麻酔から醒ずにいる少女に着せるべく、解剖台に近づきました……が……若林博士は思わず立止まりました。手に持っている物を取落して背後( うしろ)によろめきそうになりました。  今更に眼を瞠(みは)らせる少女の全身の美しさ……否、最前の仮死体でいた時とは全然(まるで)違った清らかな生命(いのち)の光りが、その一呼吸毎 (ごと)に全身に輝き満ちて来るかと思われるくらい……その頬は……唇は……かぐわしい花弁(はなびら)の如く……又は甘やかなジェリーのように、あた たかい血の色に蘇(よみがえ)っております。中にもその愛(め)ずらかな恰好の乳房は、神秘の国に生れた大きな貝の剥(む)き肉(み)かなぞのように活 (い)き活きとした薔薇色に盛り上って、煌々(こうこう)たる光明の下に、夢うつつの心を仄(ほの)めかしております。  ……冷たい……物々しい、九大法医学部屍体解剖室の大理石盤の上に、又と再び見出されないであろう絶世の美少女の麻酔姿……地上の何者をも平伏(ひれ ふ)さしてしまうであろう、その清らかな胸に波打つふくよかな呼吸……。  その呼吸の香(か)に酔わされたかのように若林博士はヒョロヒョロと立直りました。そうして少女の呼吸に共鳴するような弱々しい喘(あえ)ぎを、黒い 肩の上で波打たせ初めたと思うと、上半身をソロソロと前に傾けつつ、力無くわななく指先で、その顔の黒い蔽(おお)いを額の上にマクリ上げました。  ……おお……その表情の物凄さ……。  白熱光下に現われたその長大な顔面は、解剖台上の少女とは正反対に、死人のように疲れ弛(ゆる)んだまま青白い汗に濡れクタレております。その眼には 極度の衰弱と、極度の興奮とが、熱病患者のソレの如く血走り輝やいております。その唇には普通人に見る事の出来ない緋色(ひいろ)が、病的に干乾(ひか ら)び付いております。そうした表情が黒い髪毛(かみのけ)を額に粘り付かせたまま、コメカミをヒクヒクと波打たせつつ、黒装束の中から見下している… …。  彼はこうして暫くの間、動きませんでした。何を考えているのか……何をしようとしているのか解らないまま……。  ……と見る中(うち)に突然に、彼の右の眼の下が、深い皺を刻んで痙攣(ひっつ)り始めました……と思う間もなく顔面全体に、その痙攣(けいれん)の 波動がヒクヒクと拡大して行きました。泣いているのか、笑っているのか判然(わか)らないまま……洋紙のように蒼褪(あおざ)めた顔色の中で、左右の赤 い眼が代る代る開いたり閉じたりし初めました。何事かを喜ぶように……緋色に乾いた唇が狼のようにガックリと開いて、白茶気た舌がその中からダラリと垂 れました。何者かを嘲(あざ)けるように……それは平生の謹厳な、紳士的な若林博士を知っている者が、夢にだも想像し得ないであろう別人の顔……否…… 彼がタッタ一人で居る時に限って現われる悪魔の形相……。  けれどもその中(うち)に彼はソロソロと顔を上げて参りました。いつの間にか乾いている額の乱髪を、両手で押上げつつ、青白い瞳をあげて、頭の上に輝 く四個の電球を睨み詰ました。  その呼吸が又も次第次第に高く喘ぎ初めました。その頬に一種異様の赤味がホノボノとさし初めました。空中の或者と物語っているかのように眼を細くして 、腹の底から低い気味の悪い音を立てつつ切れ切れに、 「……アハ……アハ……アハアハ……」  と笑っておりましたが、やがてその唇を凝(じっ)と噛んで、美少女の寝顔を見下しますと、ワナワナと震える指をさし上げて、頭の上の電燈のスイッチを 一ツ……二ツ……三ツ……と切って、最後に四ツ目をパッと消してしまいました。  しかし室内はモトの闇黒(あんこく)には帰りませんでした。閉じられた窓の鎧扉(ブラインド)の僅かの隙間(すきま)から暁の色が白々と流れ込んで、 室(へや)の中のすべての物を、海底のように青々と透きとおらせております。  ……茫然と、その光りを見つめておりました彼は、やがてその両手の指をわななかせつつ、ピッタリと顔に押当てました。ヨロヨロと背後(うしろ)によろ めいて壁に行き当りました。そのままズルズルと床の上に座り込みますと、失神したように両手を床の上に落して、両脚を投出して、グッタリと項垂(うなだ )れてしまいました。  その時に解剖台上の少女の唇が、微かにムズムズと動き出しました。ほのかな……夢のような声を洩らしました。 「……お兄さま……どこに……」……【溶暗】……  【字幕】 正木若林両博士の会見。  【説明】 次に映写し出されましたるは、九州帝国大学精神病学教室本館階上、教授室に於ける正木博士の居睡(いねむ)り姿で御座います。時は大正十五 年の五月二日……すなわち前回の映画にあらわしました若林博士の屍体スリ換えの場面が、正木博士の天然色浮出発声映画カメラのフィルムに収められまして から丁度一週間目の、お天気のいい午後の事で御座います。教授室の三方の窓には強い日光を受けた松の緑が眩(まぶ)しく波打っておりまして、早くも暑苦 しい松蝉(まつぜみ)の声さえ聞えて来るのでありますが、南側に並んだ窓の一つ一つには、胡粉絵(ごふんえ)の色をした五月晴(さつきば)れの空が横た わって、その下を吹く明るい風が、目下工事中の解放治療場の作業の音を、次から次に吹込んで参ります。  正面の大卓子(テーブル)と、大暖炉との中間に在る、巨大(おおき)な肘掛回転椅子に乗っかった正木博士は、白い診察服の右手の指に葉巻の消えたのを 挟み、左には当日の新聞紙を掴みながら鼻眼鏡をかけたままコクリコクリと居睡りをしております。トント外国の漫画に出てまいります屁(へ)っぽこドクト ルそのままで……読みさしの新聞の裏面に「花嫁殺し迷宮に入る」という標題が、初号三段抜きで掲げてありますところを特に大うつしにして御覧に入れてお きます。そのうちに大暖炉の上の電気時計の針が、カチリと音を立てて三時三分を指しますと、大学のお仕着せを着た四十恰好の頭を分けた小使が、一葉の名 刺を持って這入って来て、恭(うやうや)しく正木博士の前に捧げました。  扉の閉(しま)った音で眼を醒ました正木博士は、その名刺を受取ってチョット見ますと如何にも不機嫌らしく両眼を凹(へこ)ませました。 「ナアーンだ。何遍云って聞かせてもわからない唐変木(とうへんぼく)だ。馬鹿叮嚀にも程がある。これから、こんなものを一々持って来なくとも、黙って 勝手に這入って来いと、そう云え」  と云いながら、その名刺を大卓子の上に投げ出しました。ナカナカ威張ったもので……そのまま眼を閉じて、又もウトウトと睡りこけております。  ところへ、青いメリンスの風呂敷を一個、大切そうに抱えた若林博士が、長大なフロック姿を音もなく運んで這入って来まして、正木博士と向い合った小さ な回転椅子に腰をかけました。矮小な正木博士が、大きな椅子の中一パイにハダカッているのに対して、巨大(おおき)な若林博士が、小さな椅子の中に恭し く畏(かしこま)っている光景は、いよいよ絶好の漫画材料で御座います。……と、やがて若林博士は例によって持病の咳に引っかかりまして、白いハンカチ を口に当てたまま、ゴホンゴホンと苦しみ始めました。  正木博士はその騒ぎでやっと眼を醒ましたものと見えまして、新聞と葉巻を空中にヤーッとさし上げて、眼の前の若林博士は勿論のこと、この室も、九州大 学も、しまいには自分自身までも一呑みにしてしまいそうな、素敵もない大欠伸(あくび)を一つしました。  斯(か)くして事件勃発以後に於ける二人の博士の最初の会見は、この大欠伸によって皮切られたのでありますが、続いて始まる二人の会話が、表面から見 ますと何等の隔意もないように思われまするにも拘らず、その裏面には何かしら互いに痛烈な皮肉を含ませて、出来るだけ深刻に相手を脅威すべく火花を散ら している……らしい事にお気が付かれましたならば、この事件の裡面に横たわっている暗流が如何に大きく、且つ、深いものがあるかを御推察になるのに充分 であろうと信じまする次第で……。 「アーッ……アーッと。イヤア。とうとうやって来たね。ハハハハハハ多分もうやって来る時分だと思っていたが」 「ハア……ではもう、事件の内容は御存じなので……」 「知っているぐらいじゃない……これだろう……花嫁殺し迷宮に入る……という……無論記事の内容にはヨタが多いだろうが……」 「さようで……併(しか)し私がこの事件に関係致しておりますことは、どうして御存じで……」 「……ナアニ……この間一寸(ちょっと)用事があって君に電話をかけたら、午後の講義をブッ潰して、自動車でどこかへフッ飛んで行ったというから、扨( さて)は何か初まったナ……と思っていると、その日の夕刊に……結婚式の前夜に花嫁を絞殺す……とか何とかいう特号四段抜きか何かの記事が出たから、扨 (さて)はこの事件に引っかかったナ……と察していた訳なんだがね」 「ナルホド。しかし今日私がこちらに伺いますことは、どうして御存じで……」 「ウン……それあ今日かいつか知らないがキッと来るには間違いないと思っていた。……というのはこの事件は……ホラ……例の心理遺伝に違いないと最初か ら睨んでいたからね。君が調べ上げて吾輩の処へ持込んで来るのを実は待っていた訳だ。ハハハハハ」 「恐れ入ります。お察しの通りで……実は私は二年前からこの事件に関係致しておりましたので……」 「エッ。二年以前から……」 「さようで……」 「……フ――ン。二年前にも、こんな事件があったんかい」 「ハイ、それも同じ少年が、実母を絞殺致しました事件で……」 「ウーム。おんなじ奴が、おんなじ手段で……しかも実母を……ウーム……」 「実はその時に、こちらから進んで事件に関係致しました私は……この事件の犯人は別にいる。この少年が殺したのではない……と主張致しておったので御座 いますが、その犯人がその後どうしても見つかりませぬ」 「君の炯眼(けいがん)を以てしてかい」 「……お恥かしい次第ですが、このような難解な事件に接しました事は、私も生れて初めてで……何と説明致したら宜しう御座いましょうか……犯跡が歴然と 致しておりながら、犯人が居た形跡がないとでも……」 「……フ――ン。面白いナ……」 「……で御座いますから、その少年が前回の実母絞殺事件で無罪と相成りました後(のち)も私は決して安心致しませんで、何とかして犯人の目星(めぼし) をつけたいと考えました結果、被害者の実の姉で、少年の伯母(おば)に当る八代子(やよこ)という者や、警察方面とも連絡を取りまして、もしこの後(の ち)に、この少年の起居動作、又は一身上の出来事なぞにすこしでも変った事があったら、直(すぐ)に知らせてくれるように頼んだりなぞ致して、絶えず注 意を払っていたので御座いますが、とかくする中(うち)に二年後の今日と相成りますと、果して又も同じ少年が、今度は自分の伯母に当る八代子の娘でしか も自分の花嫁となるべき呉モヨ子という少女をその結婚式の前夜に絞殺致しましたので、二年前の実母殺しも、やはりこの少年が、同じような精神病的発作に 駆られてやったものに違いない……というような事になりました。お蔭で二年前に……この少年の母を殺した犯人は別にいる……と申しました私の言葉は、目 下のところスッカリ信用を失っておりますような訳で……」 「アハハハハハ痛快痛快……。そう来なくっちゃ面白くない。君の腕試しには持って来いの事件らしいね」 「イヤどうも……腕試しどころでは御座いませんので……。実は私もこの事件を、兼(か)ねてから御指導によって研究致しております精神科学的犯罪の好研 究材料と信じまして、一ツの事を三ツも四ツもの各方面から調査致しまして、スッカリ書類にしておいたので御座いますが……この風呂敷包みの中のがそれで ……」 「……ウワッ……オッソロシイ大部なモンじゃないかそれあ……事件が始まってから、まだ一週間しか経たないのによく、それだけの書類が……」 「イヤ、この中には、二年前の事件に関する調査書類も一緒になっておりますので……又今度の事件の分も、いつ何時(なんどき)私が重態に陥りましても差 支えないように、調べる片端(かたっぱし)から不眠不休でノートに致して参りましたのですが……おかげで持病の喘息(ぜんそく)が急に悪化しまして、幾 何(いくばく)もない私の余命が、一層たよりなくなったような気が致します」 「ウ――ム。そういえば近来急に影が薄くなったようだ。気をつけなくちゃいけないぜ。木乃伊(ミイラ)取が木乃伊式に、自分自身が精神科学の幽霊になっ たんじゃ鳧(けり)のつけようがないからね。アハハハハ、イヤ御苦労御苦労……ところで、その包の上にツン張り返っている四角い箱は何だいソレア……」 「ハイ。これが今回の心理遺伝事件の暗示に使われました一巻の絵巻物で、箱は私が指物屋(さしものや)に命じて作らせたもので御座います。……その呉一 郎と申す青年は、誰かにこの絵巻物を見せられた結果、精神異常を来(きた)したものに相違ないと考えられるので御座いますが、今も申します通り、当局者 と私の見込が全く違ってしまいまして、呉一郎の精神異状は自然的の発病か、もしくは精神病者を装っているものと認められておりますために、この絵巻物を 当局者に参考材料として見せましても、頭から一笑に附しているので御座います。併し又、一方から申しますと、そのお蔭で、斯様(かよう)な貴重な参考材 料が、都合よくこちらの手に這入りましたような訳で……」 「アハハハハ。そいつはよかったね。君がその風采で、警察や裁判所の奴等の前にそんな巻物を持出して、ソモソモこれが恐れ多くも勿体(もったい)なくも 正木博士独特の御研究にかかる前代未聞の新学理、心理遺伝の暗示材料で御座る……なぞ云い出したら、大抵面喰(めんくら)ってしまったろう。よく香具師 (やし)と間違えられなかったね、アハハハハハハ」 「ハハハハハ。イヤ実は例の隠蔽になりませぬように形式だけ見せたので御座いますが、実はこちらの物にしたくてたまりませんでしたので……」 「如何にも……そこに抜かりはない男だからね……」 「イヤ……どうも……」 「……ところで今日の用事というのは、その書類と事件とを吾輩に押しつけに来たんかい」 「ハイ。それも御座いますが今一つ……現在、花嫁殺しの犯人と目されて、福岡土手町(どてまち)の未決監に入れられております少年呉一郎の精神鑑定がお 願い致したいので……」 「ウン。あの少年かい。あの少年の精神状態なら新聞記事だけで大抵様子は判っているよ。所謂(いわゆる)発作後の健忘状態という奴だ。つまりその絵巻物 の暗示か何かで精神異状を来した結果、或る夢中遊行を起して、花嫁を殺したりしている奴を、無理矢理に取押えて夢中遊行を中絶させようとしたために大暴 れに暴れ出した。そうして、そんな興奮から来た神経細胞の極度の疲労のために、発作以前にもさかのぼったアラユル過去の記憶がタタキ付けられて活躍不能 になってしまった。すなわち『逆行性健忘症』に陥った……というぐらいの事は新聞記事を読んだだけでチャント見当がついている。そこいらによくある奴で 、何も別に吾輩を呼出さなくとも君が説明してやれば、それで沢山だと思うがね」 「ハイ。それがその……今度の事件では私の信用が覆(くつが)えりまして、私の鑑定だけでは当(あて)にならなくなりましたために、裁判所の方でも弱っ ておりますようで……事に依ると呉一郎少年は殺人狂ではないか……なぞと申しておるようで御座いますが……」 「フーム。そいつは怪(け)しからんナ。素人とは云い条、司法官の癖に無智にも程がある。第一殺人狂なぞいう精神病がこの世の中に存在すると思っている からして人を馬鹿にしているじゃないか。人を殺したからといって、すぐに殺人狂だなぞいうのは故殺と謀殺とを一緒にするよりも非道(ひど)い間違いだぜ 」 「それはそうで……」 「そうだとも……君なぞは疾(と)っくに気が付いているだろうが、精神病鑑定の参考材料としてその発病前後の言動が如何に有力なものであるかという事は 、ちょうど犯罪検挙に於ける嫌疑者の犯行前後に於ける言動と同様だという事を、今の学者は一人も知らんから困るのだ。精神病者というものは、いくらキチ ガイだからといって、決して無茶苦茶な乱暴の仕方をするものでない。その発病のキッカケとなった刺戟、心理遺伝の内容、精神異常状態の深さ等によって、 キッチリとした筋道を立てて、いろんな脱線をして行くもので、その間(かん)に些(すこ)しの誤魔化(ごまか)しもないから、普通人の犯罪の跡なんぞよ りもずっと合理的で順序が立っている。ことに人でも殺したとなると、その兇行の前後の様子は、普通の犯罪以上に有力な参考として見なければならぬ」 「御尤(ごもっと)もで……初めて伺いました」 「この理屈を知らないもんだから、人を殺すと、イキナリ殺人狂なぞいう名前をつける。二人も殺すと尚更(なおさら)間違いないことになるんだ。……成程 (なるほど)人を殺したという結果から考えると、殺人狂とでも云えるかも知れないが、その殺人狂が寒暖計の代りに人間の頭をタタキ割ったものとしたらど うだい。ハハハハハハ。それでも殺人狂と名づけ得る学者があったらお眼にかかるよ。……精神病者から見ると自分以外の存在は、人間でも、動物でも、風景 でも、天地万象の一切合財がみんな影法師か、又は動く絵ぐらいにしか見えない場合がある。たとえば赤い絵具が欲しいという慾望が起れば、その精神病者は 他人の頭をタタキ割るのも、赤いアルコール入りの寒暖計をブチ壊すのも同じ事に心得ているのだからね。その真実の目的が、赤い液体を手に入れて赤い花の 絵を描きたいためであったと解れば、決して殺人狂なぞいう名前はつけられないであろう。だから吾輩の眼で見ればこの少年の兇行も、目的はほかにあると思 う。換言すれば、この少年を支配している心理遺伝の内容次第だ」 「御尤もで……実は私も、そんな事ではないかと思いましたので、これは全然私の畠ではない、先生の御領分と存じまして、かように御参考用として、関係書 類を全部持参致しました訳で御座いますが……それに尚、今一つ……この事件に関する疑問の最後の一点だけが、当然私の受持になっておりますので、その点 に就て特に御援助を仰ぎたいために、今日実はお伺い致しました次第で……」 「フーム。何だか話が恐しく緊張して来たね。何だいその最後の一点というのは……」 「ハイ……それはこの絵巻物を使って呉一郎に暗示を与えた人間……」 「アッ……ナルホドね。そんな人間がもし居るとすれば、其奴(そいつ)はトテモ素晴しい新式の犯罪者だよ。たしかに君の受持だね。そいつを探り出すのは ……」 「さようで……けれども、この一点が今のところではカイモク判りませぬために、事件の全体が隅から隅まで、神秘の雲に奥深く包み込まれた形になっており ますので……」 「それあそうだろうさ。心理遺伝に支配された事件は大抵神秘の雲に包まれたっきり、わからず仕舞(じまい)になるのが、昔からの吉例になっているんだか らね。新聞に出た奴だけでも、どれ位あるか判らん」 「しかし……私が考えますと、今度の事件に限っては、その神秘の雲を破り得る可能性がありますようで……と申しますのは外でも御座いませぬ。その最後の 疑問の一点というのは、必ずやその少年の記憶の底に……」 「ヤッ……わかったわかった。重々相判(あいわか)った……つまりその少年の精神状態を回復さしたら、その絵巻物を見せてくれた人の顔や姿を思い出すだ ろう……だからその記憶を探し出す目的で、とりあえず精神鑑定をやってくれというのだろう」 「さようで……まことに恐入りますが、こればかりは、どうしても私の力に及びませぬので……」 「イヤ。わかったわかった。重々相わかった。流石(さすが)は一代の名法医学者だ。よいところへお気が付かれました……かね。ハハハハ。イヤ引受けた。 たしかに引受けた」 「ドウモ……まことに……」 「ウンウン。心得た心得た。万事心得た。最早(もう)この事件をスッカリ頭から取り去て悠々自適の裡(うち)にビタミンを摂取したまえ……イヤ、ビタミ ンといえば、どうだい一ツ今から吉塚へ鰻(うなぎ)を喰いに行かないか。久振りに一杯……といっても、飲むのは吾輩だけだが……まあいいや。この事件に 対する君の慰労の意味で……」 「ハイ、それはどうも……しかし、その少年の精神鑑定にはいつ頃御出張願えましょうか。私から裁判所へ通告致しておきますが……」 「ウン。それあいつでもいいよ。何も面倒な事じゃない。その少年の面(つら)をたった一目見ただけで、コレは殺人狂でも偽狂でも御座らぬ。しかし、なお 細かい鑑定のために入院させる必要が御座るというので、この精神科へ連れてくる手筈が、今からチャンときまっているから他愛(たあい)ないね。若林博士 の評判地に落ちるに反して、正木の名声隆々たりかネ……ハハハハハハ」 「恐れ入ります……ではこの書類はどう致しましょうか」 「……ア……そいつは吾輩が預かるんだっけね。ハテ、どうしようか……ウン。いい事がある。こちらへよこし給え……このストーブの中へ投(ほう)り込ん で、こうして蓋をしておこう。今年の冬までは火を焚(た)く気遣いないからね。お釈迦(しゃか)ア様アでも気が付くめえ……と来やがった……」 「ハア……それは何の声色(こわいろ)ですか」 「声色じゃない。謡曲勧進帳の一節だ。法医学者の癖に何も知らないんだナア君は。アハ……」――【溶暗】――  オーヤオーヤ……ナアーンのコッタイ……。天然色浮出(うきだし)発声活動写真が、とうとう会話ばかりになってしまった。これじゃ下手なラジオか蓄音 機と一緒だ。活弁もやって見るとナカナカ楽じゃないね。一々「御座います」とくっ付けるだけでも大変なお手数だ。ツイ面倒臭くなって「御座います」を抜 きにしようとするもんだから、こんな事になるんだが……。おかげで少々くたびれたから今度は一ツ「御座います」抜きの「説明要(い)らず」という映画を 御覧に入れる。否……「説明要らず」どころではない。「スクリーン要らず」の「映写機要らず」の「フィルム要らず」の……これを要するに「何も彼(か) も要らずの映画」と云っても差支ないという……とても独逸(ドイツ)製の無字幕映画なぞいう時代遅れな代物(しろもの)が追付く話ではない。……という のはどんなシロモノかと云うと、種を明かせば何でもない。すなわち今の若林君が、吾輩に引渡して、吾輩が空(から)ストーブの中に抛(ほう)り込んでお いた一件の調査書を、吾輩が後から読んで要点だけを抜書きにして、自分一個の意見を書き加えた所謂(いわゆる)抜萃の各頁(ページ)を、一枚毎(ごと) に順序を逐(お)うて、映画として御覧に入れるのだ……というと又、ドエライ手数がかかるようだが、実は何でもない。ただ、その抜萃の原本を、この遺言 書のココントコへ挿入しておくだけの手数で……エヘン……諸君もただ、それを読むだけで訳がわかるという……吾輩最近の発明にかかるトリック映画だ。今 にこの式の映画が大流行を来(きた)すと思うから、何ならパテントをお譲りしても宜敷(よろし)い。御賛成の諸君がありましたら……ハイ只今……一寸( ちょっと)お待ち下さい。  実はこの抜萃記録は吾輩の「心理遺伝論」の中に挿入しようと思っていたものであるが、そんな論文の原稿は最前すっかり焼棄てたけれども、特にこの一部 だけは残しておいたものだ。諸君は今迄吾輩が説明したところによって、現在天晴(あっぱ)れの精神科学者を兼ねた名探偵となって御座るわけだから、その 力でこの記録を読んで行かれたならば、徹底的にこの事件の真相を看破して、ギャフンとまいる位の事は、何の雑作もあるまいと思う。  ……この事件は如何なる心理遺伝の爆発に依(よっ)て生じたものか? その心理遺伝を故意に爆発させた者が居るか居ないか。又、居るとすればどこに居 るか。そうしてこの事件に対する若林と吾輩の態度はこの事件の解決に対して、如何なる暗示を投げかけているか……という風にね。併し、よっぽど緊(しっ か)りと褌(ふんどし)を締めてかからないと駄目だよ……なぞと脅かしておいて、その間に吾輩は悠々とスコッチを呷(あお)り、ハバナを燻(くゆら)そ うという寸法だ……ハハン…………。  ◆心理遺伝論附録◆…………各種実例      その一 呉一郎の発作顛末            ――W氏の手記に拠る――      第一回の発作 ◆第一参考 呉一郎の談話 ▼聴取時日 大正十三年四月二日午后零時半頃。同人母にして、左記女塾の主人たる被害者千世子(ちよこ)(三十六歳)の初七日仏事終了後―― ▼聴取場所 福岡県鞍手(くらて)郡直方(のうがた)町日吉町二〇番地ノ二、つくし女塾の二階八畳、呉一郎の自習室兼寝室に於て―― ▼同席者 呉一郎(十八歳)被害者千世子の実子、伯母八代子(三十七歳)福岡県早良(さわら)郡姪(めい)の浜町(はままち)一五八六番地居住、農業― ―余(よ)(W氏)――以上三人――  ――ありがとう御座いました。先生があの時「どんな夢を見ていた?」と尋ねて下さるまでは、僕はどうしてもあの夢の事を思い出さなかったのです。先生 (W氏)のおかげで、僕は親殺しにならずに済みました。  ――母を殺した者が僕でない事が皆さんにわかれば、僕はもうそれで沢山です。何も云う事はありません。けれども、その犯人をお探しになる参考になりま すのなら、何でも尋ねて下さい。ずっと昔の事は母が話さずに死にましたから、僕が大きくなって後(のち)の事しか知らないんですけど、お話して悪いよう な事は一つも無いと思います。  ――僕は明治四十年の末に、東京の近くの駒沢村で生れたのだそうです。父のことは何も知りません。(註に曰く……呉一郎の生所は事実と相違せる疑あり 。然れども研究上には別に差支えなきを以てここには訂正せず。)  ――母は生れた時からこの伯母と二人で姪の浜に住んでいたそうですが、十七の年に、絵と刺繍を勉強するといってこの伯母の家を出たのだそうで、その後 (のち)、僕の父を尋ねながら東京へ行って、方々を探している中(うち)に僕が生れたのだそうです。「男ってものは、偉ければ偉いほど嘘を吐(つ)く」 って母はよくそう云っておりましたが、大方、父の事を怨(うら)んでそう云ったのでしょう(赤面)。ですけど父の事を尋ねますと母はすぐに泣きそうな顔 になりますので、大きくなってからは、あまり尋ねませんでした。  ――けれども母が一所懸命で、父の行衛(ゆくえ)を探しているらしい事は、僕にもよく判りました。僕が四ツか五ツの時だったと思いますが、母と一緒に 東京のどこかの大きな停車場から汽車に乗って長い事行くと、今度は馬車に乗って、田圃(たんぼ)の中や、山の間の広い道を、どこまでもどこまでも行った 事がありました。一度眠ってから眼を醒ましたら、まだ馬車に乗っていた事を記憶(おぼ)えています。そうして夕方、真暗(まっくら)になってから或町の 宿屋へ着きました。それから母は僕を背負って、毎日毎日方々の家(うち)を訪ねていたようですが、どっちを向いても山ばかりだったので、毎日毎日帰ろう 帰ろうと言って泣いては叱られていたようです。それから又、馬車と汽車に乗って東京へ帰りましてから、山の中で馬車屋が吹いていたのと、おんなじ音(ね )のする喇叭(らっぱ)を買ってもらった事を記憶しています。  ――それから、ずっと後(のち)になって、これは母が、父の故郷に尋ねて行ったものに違いないと気が付きましたから「あの時汽車に乗った停車場(ステ ーション)はどこだったの」と尋ねましたら母は又、涙を流しまして「そんな事を聞いたって何にもならない。お母さんは、あの時までに三度も、あそこへ行 ったんだけど、今ではスッカリ諦めているから、お前も諦めておしまい。お前が大学を出る時まで、お母さんが無事に生きていたら、お前のお父さんの事を、 みんな話してあげる」と云いましたから、それっきり尋ねませんでした。もうその時に見た山の形や町の様子なぞもボンヤリしてしまって、只、ガタ馬車の喇 叭の音(ね)が耳に残っている切りです。しかし、それから後(のち)、いろんな地図を買って来まして、あの時に乗った汽車や、馬車の走った時間の長さを 計ったりして調べて見ますと、どうしても千葉県か、栃木県の山の中に違いないと思うんです。エエ。線路の近くに海は見えなかったようです。けども汽車の 窓の反対側ばかり見ていたかも知れませんから、ホントの事はわかりません。  ――東京で住んでいた処ですか。それは方々に居りましたようです。僕が記憶(おぼ)えているだけでも駒沢や、金杉や、小梅、三本木という順に引越して 行きまして、一番おしまいに居た麻布の笄町(こうがいちょう)からこっちへ来たのです。いつでも二階だの、土蔵(くら)の中だの、離座敷(はなれ)みた ような処だのを二人で間借りをして、そこで母はいろんな刺繍をした細工物を作るのでしたが、それが幾つか出来上りますと、僕を背負(おぶ)って、日本橋 伝馬町の近江屋(おうみや)という家(うち)に持って行きました。そうするとその家の綺麗にお化粧をしたお神(かみ)さんが、キット僕にお菓子を呉(く )れました。今でもその家と、お神さんの顔をおぼえております。  ――母がその時に作っていた細工物の種類ですか? サアそれはハッキリおぼえませんけども、神様の垂れ幕だの、半襟だの、袱紗(ふくさ)だの、着物の 裾模様だの、羽織の縫紋(ぬいもん)だのいろんなものがあったように思います。それをどんなにして縫っていましたか……どれ位のお金で売れていたか、そ の時はまだチッチャかったものですから、一つもわかりませんでしたけれども……たった一つ、今でもハッキリ記憶(おぼ)えておりますのは、東京から直方 (こちら)へ来る時に、母が近江屋のお神さんに遣りました小さな袱紗の模様です。それは薄い薄い、向うが透かして見えるような絹一面に、いろんな色と形 の菊の花を刺繍した、とてもとても綺麗なもので、毎日指の頭ぐらい宛(ずつ)しか出来ませんでしたが、それが出来上ったのを持って行って僕の手からお神 さんに遣りますと、お神さんはビックリして、大きな声で家中(うちじゅう)の人を呼びましたが、みんな眼を丸くして感心しながら見ておりました。あとか ら聞きましたら、それは真物(ほんもの)の「縫い潰(つぶ)し」といって、今の人が誰も作り方を知らない昔の刺繍だったのだそうです。それからそのお神 さんの御主人が母にお金を呉(く)れたようでしたが、お辞儀をして返して、お菓子だけ貰って帰りました。母とお神さんがいつまでも門口に立って泣いてい るので、僕は困ってしまいました。  ――東京から直方(こちら)へ来たわけは、母が卜筮(うらない)を立てたんだそうです。「狸穴(まみあな)の先生はよく適中(あた)る」って云ってい ましたから大方、その先生が云ったのでしょう。「お前達親子は東京に居るといつまでも不運だ。きっと何かに呪われているのだから、その厄(やく)を落す ためには故郷へ帰ったがいい。今年の旅立ちは西の方がいいとこの通り易のオモテに出ている。お前は三碧木星(さんぺきもくせい)で、菅原道真や市川左団 次なぞと同じ星廻(ほしまわ)りだから、三十四から四十までの間が一番災難の多い大切な時だ。尋ね人は七赤金星(しちせききんせい)で、三碧木星とは相 剋だから早く諦めないと大変な事になる。双方の所持品(もちもの)同志でも近くに置くとお互いに傷つけ合おうとする位で、相剋の中でも一番恐ろしい相剋 なのだから、忘れても相手の遺品(かたみ)なぞを傍近くに置いてはいけない。そうして四十を越せば平運になって、四十五を越せば人並はずれたいい運が開 けて来る」と云ったんだそうです。それで僕が八ツの年に、こっちへ来たのだそうですが、「ホントにその通りだ。私は天神様や何かとおんなじ星廻りだから 、文学や芸術事が好きなのだろう」って母は何遍も塾生に話して笑っていましたので、僕はそんな云い草をスッカリ空(そら)でおぼえてしまったのです。… …でも七赤金星の話は僕ばかりにしかしなかったそうで、誰にも話してはいけないと口止めされていたのですけども……。  ――母は直方(こちら)へ来ると間もなく、この家(うち)を借りて塾を開きました。生徒はいつも二十人位なのを、夜と昼の二組にわけて下の表の八畳で 教えていましたが、大変にいい処のお嬢さん方が見えると云って母は喜んでいました。けれども母は気が短かいので、よく生徒を叱りました。又よく無頼漢( ならずもの)や不良少年見たような者が生徒をからかいに来たり、母を脅迫(おどか)してお金を強請(ゆす)ったりしましたが、そんな時も母は一人で叱り 付けて追い払いました。……ですから、この家(うち)の中に這入って来た男の人は家主のお爺さんと、中学時代の僕の受持の鴨打(かまち)先生と、電燈工 夫ぐらいしかありません。そのほかには、母へ手紙が来た事もなければ、こっちから出した模様もありません。あんなに懇意だった近江屋のお神さんにも便り をしなかったようで、何でもかんでも自分の居所を人に知られるのを怖がっていたようです。その理由(わけ)は何故だか、僕にも話しませんでしたけれども 、大方狸穴の占者(せんせい)の云った事を本当にし過ぎて、誰かが自分を狙っているように思ったのじゃないかと思います。母は迷信家ではありませんでし たが、狸穴の先生だけは真剣に信じていたようですから……。  ――けれども僕は本当の事を云いますと、この直方(のうがた)を好きませんでした。それは東京からこっちへ来ます途中で、身体(からだ)の具合がわる かったせいか、汽車にヒドク酔いまして、あの石炭の煙のにおいが大嫌いになってしまいましたのに、こっちへ来ますと、そこら中が炭坑だらけで、朝から晩 までそんな臭いばかりするからだろうと思います。けれども、母が折角いい処だと云って喜んでおりましたから、仕方なしに我慢しておりました。そうすると そのうちに慣れてしまって、汽車にも酔わなくなりましたけれども、空気の悪いのと、石炭の臭いだけはシンから嫌でした。それから学校に這入りますと、生 徒の言葉が色々になっていて乱暴でわからないので困りました。日本中から集まった人の子供がいるんですから……。  ――それに又、僕は小さい時から方々を引越していたせいか、友達が些(すくな)いのです。こっちへ来ましても学校友達はあまり出来ませんでしたが、そ の中(うち)に中学の四年になりますと、すぐに一所懸命の思いをして、福岡の六本松の高等学校へ這入りましたら、空気がトテモ綺麗で見晴しが素敵なので 嬉しくて嬉しくて堪(たま)りませんでした……エエ……そんなに早く試験を受けましたのは直方(のうがた)が嫌いだったからでもありますけど、ホントの 事を云いますと、早く大学が卒業したかったんです。そうして母と約束していた父の話を出来るだけ早く聞いてみたいような気持がして仕様がなかったのです ……母にはそんな事は云いませんでしたけれども……中学へ入る時もそうだったのです。何故っていうわけはありませんでしたけども……そうしてやっと文科 の二年になったばかしのところです(赤面、暗涙)。  ――ですけど不思議なことに、母は試験が出来ても、あまり嬉しそうな顔をしませんでした。これはずっと前からそうでしたけど、母は僕が勉強をして成績 がよくなるのは何とも云いませんでしたが、成績が貼出されたり、僕の名前が新聞や雑誌に載ったりするのは心(しん)から嫌(きらい)だったらしいのです 。僕もそんな事は好きませんでしたので、学校の規則で成績品を出さなければならない時には、母がわざわざ僕を連れて「なるたけ隅っこの人眼につかない処 へ出して下さい」と先生の処へ頼みに行った事もある位です。先生の方では「なかなか奥床(おくゆか)しい方だ」なぞ云って母を賞めていましたけれども、 母の方は奥床しいどころでなく真剣に嫌がっていたようでした。高等学校へ這入る時も、僕の名前が福岡の新聞に出るのを無暗(むやみ)に心配しているよう でしたので「そんなら東北かどこか遠方のつまらない私立の専門学校か何かを受ける事にして、そこへ僕と一緒に、引越したらどうです。そうすれば福岡の新 聞には出ないかも知れませんよ」と云いましたら、暫く考えてから「お前はどうしても大学へ入れなければならないし、これだけの塾生を見捨てるのも惜しい から」と云って、とうとう福岡を受ける事に決めました。けども、それでも「福岡には不良少年や不良少女がタントいるから、無暗に寄宿舎から出てはいけな い」とか「途中で知らない人から話かけられても無暗に口を利いてはいけない」なぞと云って聞かせておりましたが、今から考えますと、やはりあの狸穴(ま みあな)の先生が云った事は適中(あた)っていたので、母は何か人に、つけ狙われるような憶えがありましたために、自分達の居所をできるだけ隠そうとし て、いろいろと気を揉(も)んでいたのだろうと思います。  ――学校に居る間は寄宿舎に這入っていましたが、土曜の晩から日曜へかけてはキット直方へ帰って来ました。休暇の間もずっと家(うち)に居て毎朝すこ し早く起きて母の手伝(てつだい)をしたり何かしましたが、その代り夜は九時か十時頃に寝るのでした。母はずいぶん気の強い女で、人気(にんき)の悪い 直方に住んでいながら、僕の居ない時はたった一人でこの室(へや)に寝るのでしたが「朝は八時半頃からボツボツ生徒が来るし、夜は十一時頃まで休む間も ないから、ちっとも淋しいとは思わない。勉強の忙(せわ)しい時なぞは無理に帰って来なくてもいいよ」なぞとよく云っておりました。  ――ついこの頃になっても別にかわった事はありませんでした。ただ、去年の夏でしたか、母が刺繍材料の包み紙になって来た亜米利加(アメリカ)の新聞 を持って来て「これは何という人か」と尋ねますので、そこの処の記事を読んで見ましたら、ロンチェニーという活動俳優が扮した道化役(ピエロ)だとわか りましたので、母はつまらなさそうに「フン。そうかい」と云って降りて行きました。その時に僕の父は、あんな顔をした人間で外国に居るのだなと思いまし たから、その写真は細かい処までよく記憶(おぼ)えています。チョット見ると大きなお蚕様(かいこさま)みたような顔でしたから、私はソッと下へ降りて 、六畳に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗いて見ましたが、ちっとも似ていませんでした(赤面)。  ――あの晩も別に変った事はありませんでした。僕はいつもの通り九時頃に寝てしまいましたが、母がやすんだのは何時頃だったかおぼえません。いつもの 通りなら十一時頃に寝たのでしょう。  ――それから、これは警察では云いませんでしたが、あの晩僕は夜中に目を醒しました。こんな事は今まで滅多になかったのですから、話して疑われると詰 (つま)らないと思いましたから……何だかわかりませんけれども、ゴトーンと大きな音がしたように思いましたから、フイと目を醒しましたが、真暗でわか りませんので、寝しなに枕許に近づけておきましたこの電気を捻(ひね)って、読みさしたままの書物の下になっている腕時計を見ますと、一時に五分過てい ました。……それからお小用(こよう)に行こうと思って起上りがけに、こっちを向いてスヤスヤ眠っている母の顔を何の気もなく見ますと、口を少し開(あ )いて、頬が真赤で、額が瀬戸物のように真白く透きとおっていて、不思議なくらい若く見えました。恰度(ちょうど)、家に来る大きい生徒位にしか見えま せんでした。それから下に降りて用を足して、六畳と八畳の電燈をつけて見ましたが、何も変った事はありません。最前(さっき)、ゴトーンといったのは何 だったのか知らんと考えて見ましたが、もしかしたら僕の思違いかも知れないと思いましたから又、二階に上って来て母の顔を見ますと、もう向うを向いて布 団に潜っていて、櫛巻(くしま)きの頭だけしか見えませんでした。僕はそれから、すぐに電燈を消して寝ましたが、母の顔はそれっきり見ません。  ――それから警察署で先生(W氏)にお話しましたように変な夢ばかり見ていたのです。僕は夢なんか滅多に見た事はないのに、あの晩はホントに不思議で した。イイエ。人を殺すような夢は見なかったようですけど、汽車が線路から外(そ)れてウンウン唸りながら僕を追っかけて来たり、巨大(おおき)な黒い 牛が紫色の長い長い舌を出してギョロギョロと僕を睨(にら)んだり、青い青い空のまん中で太陽が真黒な煤煙(すす)をドンドン噴き出して転げまわったり 、富士山の絶頂が二つに裂けて、真赤な血が洪水のように流れ出して僕の方へ大浪を打って来たりして、とても恐しくて恐しくてたまりませんけど、何故だか 足が動かなくなって、いくら逃げようとしても逃げられないのです。その中(うち)に家主(おおや)さんの養鶏所から鶏(とり)の啼(な)き声が二三度き こえたように思いましたが、それでも、そんな恐しい夢が、あとからあとからハッキリと見えて来ますので、どうしても醒める事ができません。ですから一所 懸命になって苦しがって藻掻(もが)いておりますと、そのうちにやっとの思いで眼を開ける事が出来ました。  ――その時にはもう、この窓の格子が明るくなっておりましたから、僕はホッと安心しまして、起上ろうとしますと、頭が急にズキンズキンと痛みました。 それと一緒に口の中が変に臭いようで、胸がムカムカして来ましたので、これはきっと病気になったんだと思って又寝てしまいました。その時はちょっとのつ もりでしたが、今度は夢も何も見ずに、汗をビッショリ掻いて、グーグー睡っていたようでした。  ――すると又そのうちに、誰だかわかりませんが不意に僕を引きずり起して、右の手をシッカリと押えつけて、どこかへ連れて行こうとする者がいます。僕 は寝ぼけたまま、やはり夢を見ているのかと思って、振り放して逃げようとしますと、又一人誰か来て、僕の左手を押えてズンズン梯子段(はしごだん)の方 へ引っぱって行きました。その時にやっと気がついて振り返って見ますと、背広を着た人と、サアベルを引きずった巡査とが母の枕元に跼(かが)まって、何 か調べているようでした。  ――それを見ると僕は、キット母が虎烈剌(コレラ)か何かに罹(かか)ったのに違いない。そうして僕も同じ病気になっているから、こんな身体(からだ )の具合が変なのだろうと半分夢うつつのように思い思い、二人の男に引っぱられて行きましたが、その時の苦しかった事は未(いま)だに忘れません。何だ か身体中が溶けるように倦(だ)るくって、骨がみんな抜け落ちそうで、段々を一つ降りる毎(ごと)に眼の前が真暗になって、頭の中が水か何ぞのようにユ ラユラして痛みます。それを立止まって我慢しようとしますと、下から急に片手を引っぱられましたので、思い切って転がるように段々を降りて行ったのです が、その途中でヒョイと顔を上げますと、階子段(はしごだん)に向い合った頭の上の手摺(てすり)から、私の母の色の褪めた扱帯(しごき)が輪の形にな ってブラ下がっているのが眼に這入りました。  ――けれどもその時は、それが何故そうしてあるのか考える力もありませんでしたし、そのうちに又附いている男からヒドク小突かれて眼が眩(くら)みそ うになりましたので、そのまま勝手口に来て、母が平生穿(ふだんば)きにしておりました赤い鼻緒(はなお)の下駄(げた)を穿いて横路次に出ました。そ の時に、もしや母はもう死んでいるのじゃないか知らんと思いましたから、ハッとして立止って左右を見ましたら、両手を押えている男というのは、顔だけよ く知っている直方署の刑事と巡査で、怖い顔をして僕を睨みつけながら、グングン両手を引張って行きましたから、何も尋ねる事はできませんでした。  ――往来は眩(まぶ)しい程日が照っていましたが、家の前には大勢の人が集(たか)っていて、僕が出て行きますと一斉にこっちを見ました。近くにいる 人は逃げ退(の)いたりしましたが、僕はそんな人達の黄色く光っている顔を見ますと、又、眼がまわって倒れそうになりました。それと一緒に、頭の中がシ インと痛くなって嘔(は)きそうになりましたので、額(ひたい)を押えようとしましたが、両手を押えられているので何も出来ません。その時に母は病気じ ゃない。殺されるかどうかしていて自分に疑(うたがい)をかけられているのだなと思いましたから、そのまま温柔(おとな)しく引かれて行きました。  ――僕はその時にキット頭がどうかなっていたのでしょう。ちっとも悲しくも恐ろしくもありませんでした。けれども身体中が汗だらけで、背中や腰のまわ りがビショビショになった白い浴衣の寝巻き一枚しか着ていませんでしたので、たまらない程ゾクゾクしました。その上に、頭の上から照りかかる太陽の光り が、変に黄臭(きなくさ)いような、息苦しいような感じがして気が遠くなりかけたり、口の中が腥(なまぐさ)くて嘔きそうになったりしましたので、時々 眼をあけて、キラキラ光る地面(じべた)を見ながら、唾を吐き吐き歩きました。そうしたら、やっぱりお医者の処へ行くのじゃなくて警察の方へ曲って行き ましたので、急に胸がドキドキしましたが、警察の入口の段々を上ると又、スッカリ落付いてしまいました。そうして何だか自分の事を書いた探偵小説を読ん でいるような、夢見ているような気持になって、汚ならしい床板を見つめておりますと、不意に僕の背後(うしろ)で大きな声が聞えましたから、ビックリし て振向きますと、それは僕を連れて来た刑事が怒鳴(どな)ったので、あとから跟(つ)いて来た大勢の人が警察の中へ這入ろうとするのを叱っているのでし た。その中には知っている顔もあったように思いますが、誰だったかはっきり記憶(おぼ)えません。  ――僕はそれから、奥の方にある狭い室(へや)で、木製のバンコ(九州地方の方言。腰掛の事)に腰かけさせられて、巡査部長や刑事から色々な事を訊( き)かれました。けれども、頭が割れるように痛んでいましたのでどんな返事をしたかスッカリ忘れてしまいました。「嘘だろう嘘だろう」って何遍も云われ ましたから「嘘じゃない嘘じゃない」と云い張った事だけは記憶(おぼえ)ていますけれど…………。  ――そうすると間もなく、この直方の町中で知らない人はない「鰐(わに)警部」と綽名(あだな)のついている谷警部が這入って来まして、ダシヌケに「 お前の母親(おふくろ)は殺されたんだぞ」と云いました。その時に僕は急に胸が一パイになって、どんなに我慢しても、声を立てて泣かずにはいられないよ うな気持になりましたのを、一所懸命に我慢をして涙を拭いておりますと、暫らく黙っていた谷警部は「お前が知らない筈はない」と云って僕の前にある汚い 木机の上に何か投げ出しました。それは母がいつも寝床の上に置いて寝る平生着(ふだんぎ)の帯締めで、紫色の打紐(うちひも)に、鉄の茄子(なす)が附 いているのでした。何でもよっぽど古いもので、母が故郷を出る時から締めていたのだそうですが、しかし、それがどうしたのか、よく解りませんでしたから 俯向(うつむ)いていますと「お前はこれで母親を締め殺したんだろう」と谷警部が雷(かみなり)のような声で怒鳴りました。アンマリ非道(ひど)いので 僕はカッとなって、思わず立上って谷警部を睨みつけましたが、その時に又、頭が割れるように痛んで嘔き気がつきましたので、机の上に両手をついて、身体 (からだ)をブルブル震わして我慢していました。けれども口惜(くや)しくて口惜しくて涙がポロポロ出て来るのを、どうしても止める事が出来ませんでし た。  ――谷警部はそれから又、いろんな事を云って僕を責めました。この警部はここいらの炭坑中の悪党が「鬼」とか「鰐」とか云って怖がっているのだそうで すが、僕は何ともありませんでしたから、黙って聞いておりますと……今朝八時半頃、いつもの通り塾生が二三人お稽古に来たが、いつになく裏表の戸が閉( し)まっているのを見て、裏の家主(おおや)さんに知らせた。それで家主のお爺さんが勝手口の戸の隙間(すきま)から大きな声で呼んでみたが、どうして も起きない。そのうちに勝手口の方へ降りて来る階段の昇り口の処に白い足が二本ブラ下がっているのが薄明(ほのあか)るく見えたので、お爺さんは真青に なって警察へ駆込んで来た。……それから警察の人が行って見ると、勝手口の突かい棒が落ちているのが一番先に解った。それから二階に上ろうとすると、母 が寝巻一つのまま階段の上の手摺に細帯を結んで、それに首を引っかけて手足を垂らしているのが発見されたが、お前はそんな事は知らないような風に、床か ら半分脱け出して大の字になったままグーグー寝ていた。しかし母親の屍体を調べて見ると、首の周囲(まわり)の疵痕(きずあと)は細帯と一致しないし、 寝床も取り乱してあるしするのだから、たしかに絞殺した後で首を縊(くく)ったように見せかけたものに違いない。又家(うち)の中には何も盗まれたよう な跡が無いようだし、外から人が這入って来た様子もないから、お前より外(ほか)に怪しい者はいない事になる………。  ――それからまだある。お前の母は寝床の中で絞殺(しめころ)されがけに随分苦しんでいるらしく、その絞めた疵痕が二重にも三重にもなっている位だか ら、横に寝ているお前が眼を醒さない筈はない。第一お前は平常(いつも)と違って三時間以上余計に朝寝をしていたのはどういう訳か。絞め殺しておいて胡 魔化(ごまか)すつもりで寝ていたのが、つい寝過したのじゃないか。お前はほかに、お前を好いている女がいるのじゃないか。それとも塾生の中にお前が好 いている娘がいて、その事に就(つ)いて母親と喧嘩したのじゃないか。母親にお金を強請(せび)ったのじゃないか。毎月小遣(こづかい)を幾ら貰ってい るか。一体あれはお前の本当の母親なのかどうか。情婦を親に見せかけていたのじゃないか。スッカリ白状し給え……なんて飛んでもない事を色々と云いかけ るのです。……ですけれども、僕はそんな事を聞いている中(うち)に、頭が痺(しび)れたようになりまして、それじゃ人間てものは自分でも知らない間に 、人を殺すような事がホントウにあるのか知らん。僕は夢うつつのうちに母親を殺して忘れているのじゃないかしら……なぞとボンヤリ考えたりしながら、俯 向(うつむ)いておりますと「そんならここで考えていろ」と留置場に入れられました。  ――それからその日と、その晩の一夜は何も喰べずに眠ったり醒めたりして、あくる朝の御飯も頭が痛むのでそのままにしていましたが、あんまりお腹が空 (す)いて来ましたので、お昼のを頂きますと大変にお美味(いし)くて頭の痛いのがすっかり癒(なお)りました。それから夕方になりますと、僕の母ソッ クリの女の人が面会に来ましたのでビックリしましたが、それはこの伯母でしたので、僕は生れて初めて会った訳なのです。その時にこの伯母も先生(W氏) と同じ事を云いました。「何か夢を見ていやしなかったか」って……。けれどもその時はどうしても思い出せなかったものですから、何も知らないと答えまし た。……でも麻酔剤を嗅(か)がされていた事なんか、ちっとも知らなかったものですから……。  ――あくる日になると先生(W氏)がお出(い)でになるし、中学にいた時の僕の受持ちの鴨打(かまち)先生も会いに来て下さいました。その又あくる日 になったら裁判所からも人が来て親切にいろんな事を聞いたりして何だか赦(ゆる)されそうなので、僕は母がどんなになっているか、見に行きたくて堪(た ま)りませんでしたが、一昨日(おととい)帰って見ますと、母の遺骸(からだ)はもう火葬にしてありましたのでガッカリしました。僕の家(うち)には写 真が一枚もないので母の顔はもう見られないのです。けれども明日(あした)はこの伯母が、僕を姪(めい)の浜(はま)の自宅(うち)に連れて行ってくれ ると云いますし、モヨ子っていう従妹(いとこ)もいるそうですから、そんなに淋しくはないだろうと思います。  ――僕が一番好きなのは語学ですが、その中(うち)でも一番面白いのは外国の小説を読むことで、特にその中(うち)でもポーと、スチブンソンと、ホー ソンが好きです。みんな古いって云いますけど……今に大学に這入ったら精神病を研究してみようかとも思っている位です。ホントウは文科に入って各国の言 葉を研究して、母と一緒に父の行衛(ゆくえ)を探しに行きたいと考えていましたが、父の事に就いては母が極く少しばかりしか話さずに死んでしまいました のでガッカリしています。その外に、今のところでは、どんな者になろうとも思っておりません。国語や漢文も嫌いではありませんが、中学を出た後(のち) にはわざわざ勉強しようとは思いませんでした。その次に好きなのは歴史と博物で、つまらないと思ったのは地理と物理と数学でした。一番できないのは唱歌 ですが、それでも聴くのは大好きです。いい西洋音楽のレコードを聴いたりしますと、名画を見ているような気持になります。民謡なぞも母が機嫌がいいと、 よく塾生と一緒に謡(うた)いましたから、好(い)いなあと思って聞いていました(赤面)。  ――僕は今迄に病気した事は一度もありません。母も寝たことはないようです。  ――僕はこれから、警察へ訪ねて来て下すった鴨打先生の処へお礼に行きます。 ◆第二参考 呉一郎伯母八代子の談話  ▼同所同時刻に於て、呉一郎が外出後――  ――まったく何もかも夢のようで御座います。一郎(あれ)は私の妹の子に相違(ちがい)御座いません。眼鼻立ちが母親に生きうつしで、声までが私共の 父親にそっくりで御座います。  ――ずっと古い昔の事は存じませぬが、私の家は代々姪(めい)の浜(はま)で農業を致しておりました。私共姉妹(きょうだい)は母に早く別れましたが 、父も私が十九の年の正月に亡くなりましたので、家の血統(ちすじ)は私と、この妹(位牌(いはい)をかえり見て)の千世子と二人切りになってしまいま した。それで、その年の暮に私は、亡くなりました夫の源吉を迎えますと間もなく妹は「東京へ行って絵と刺繍(ぬいとり)の稽古をして、生涯独身で暮すか ら構わないでくれ」という置手紙をして家を出ました。それが明治四十年の新の正月頃の事で御座いましたが、その後、福岡で妹を見かけたという人もありま したけれどもハッキリした事はわかりません。やはり全く絵と刺繍(ししゅう)が好きなためで御座いましたろうと思います。一郎が申しますように、人並は ずれて勝気な娘で、十七年の年に県立の女学校を一番で出た位で御座いますが、何か始めますと夢中になる性質(たち)で、夜通し寝ないで小説を読んだり、 絵を描(か)いたりする事がよく御座いました。ことに刺繍(ぬいとり)は小学校にいました時から好きで、夕方暗くなりましても縁側に出て、図画用紙にお 寺の襖(ふすま)の絵を写して来たのを木綿の糸屑で縫っている位で御座いましたから、私が夫を迎えたのを見澄(みすま)してその方の稽古を念(ねん)が けて行ったものと存じます。今から思いますとその時が今生(こんじょう)のお別れで御座いました。もっとも、田圃(たんぼ)や畑の荒仕事を嫌いますので 、よく留守番をさせましたが、私の家は門の処から町並では御座いますし、出入りもかなりに多い方で御座いましたから、別に可怪気(おかしげ)ない事を仕 出かして出て行ったものとも思われませぬ。  ――それから後(のち)の妹のたよりは、明治四十年の暮に、東京の近くの駒沢村という処で、一郎という男の子が生れましたといって、村役場から知らせ て参りましただけで御座います。その時もすぐに警察にお頼みして捜して頂きましたが、届出てあった所番地の家は、ずっと前から貸家になっておりましたも のだそうで、なお、念のために私が出しておりました手紙も戻って参りましたので力を落しました。一郎が小学校へ入学致しました時の戸籍の書類(かきつけ )なぞはどうして取りましたものかわからないままに全くの音沙汰なしになっておりました。そうして私が二十三になりました年の正月に夫と別れますと間も なく、今居りますモヨ子と申します娘を一人生みましたから、それから後は娘と二人切りで暮しておりました。  ――今度の事を新聞で見ました時は夢心地で馳付けて参りました。いろいろお調べを受けましたが、只今の通りお答を申上げておきました。  ――初めて一郎を見ました時は思わず涙が出ました。その時に夢の事を尋ねましたのは、私の処に居ります若い者が読んでおりました活動の話に、夢遊病の 事が書いて御座いましたからです。何か西洋(あちら)の事で、私どもにはよく解りませぬけれども、夢遊病に罹(かか)ってした事なら罪にならぬから、こ れから夢遊病の真似をして悪い事をしようか……なぞ若い者が申して笑っておりましたから、その事を思出しまして、もしやと思って尋ねて見たので御座いま すが、女の癖に差出がましいとは存じましたけれども助けたいが一心で御座いましたから(赤面)。おかげ様で一郎が元の潔白な身体(からだ)になります許 (ばか)りでなく、妹にも久しく不品行(ふしだら)な事が御座いません事が、亡骸(なきがら)をお調べ下さいましてから、お判りになりましたとの事で、 これがせめてもの心遣(こころや)りで御座います。……で御座いますから私はここで立派に法事を営みましてから、お世話になりました皆様へも、世間並の 御挨拶をして立ちたいと思います。  ――昨日(きのう)、東京の近江屋(おうみや)の御主人からお香奠(こうでん)に添えてこのようなお手紙(略)が参りました。「宮内省のお役人から、 お装束の修繕(つくろい)がさせたいからと頼まれて、妹の行衛(ゆくえ)を探しているところへ、警察から人が来られたので、初めて知ってビックリした」 と申して参りましたが、その手紙の様子で見ますと妹が色々と身の上話をお聞かせしたその奥様は、もう亡くなっておられるようで御座います。妹もせめて今 少し生きておりましたならば、よい目に逢ったかも知れませんが……何の怨(うらみ)か存じませぬが、このような酷(ひど)い事を致しました者が捕えられ ましたならば、八(や)ツ裂(ざき)にしてやりたい位に思います(落涙)。  ――私の家は只今のところでは遠い親類しか居りませぬので、只今では親身の者と申しましては娘と私と二人切りで御座います。一郎はこれから私の子供分 に致しまして、私の力一パイ立派な人間に育て上げて行きたいと存じますが……父無子(ててなしご)と位牌子(いはいご)をたよりに、暮すことを思います と……(涕泣(すすりなき))。 ◆第三参考 松村マツ子女史(福岡市外水茶屋(みずぢゃや)、翠糸女塾(すいしじょじゅく)主)談  ▼同年同月四日 玄洋新報社朝刊切抜抜萃再録  ――その刺繍の上手なお嬢さんが、この翠糸女塾に通っていたのは、もう二昔前の日露戦争頃の事で、私が三十代の時ですから、詳しい事は判りませんねえ 。エエ、通っていた事はたしかですよ。その頃が十七か八位でしたろうかねえ。ちょっと眼立たぬ風をしておられましたが、小柄なキリリとした別嬪(べっぴ ん)さんで、名前は虹野(にじの)ミギワさんと云いました。イイエ、間違いはありません。珍しい名前ですからよく憶えております。又今お話しになりまし た「縫い潰し」なぞいう刺繍のできる人は虹野さんより外に見た事がありません。  ――虹野さんの作品は私の処には一つも残っておりません。その頃はまだ、そんな贅沢なものの値打ちが判りませんでしたので手間損だったのです。たった 一度、二月(ふたつき)ばかりかかってこしらえた五寸四方ばかりの小袱紗(こぶくさ)を、私の塾の展覧会に出した事がありましたが二十円という値段付け だったので売れ残ってしまいました。今あったら大変なものでしょう。私も習っておけば良かったと思います。虹野さんはそんな風に技術(しごと)が良かっ た上に、小野鵞堂(がどう)さんの字をお手本よりもズッと綺麗に書きましたので、私の弟子の刺繍に使う字をよく書いてもらいました。絵も却々(なかなか )上手で、私の処にある下絵の中でも良いのは大抵写して行かれました。けれどもかれこれ半年余りかよって来たと思うとパッタリ見えなくなりました。エ… …その時姙娠の模様は見えなかったかって……いいえ、小柄な方でしたから直ぐに判る筈ですが……その色男が虹野さんを棄てて逃げたのですって? ヘエー 左様ですか。ヘエー……。  ――その頃住んでいた家ですか。サア、それは存じておればですが……その頃いた生徒はみんなもう四十近くのお婆さんになっているんですからネエ。ヘヘ ヘヘヘ。マア、その男が虹野さんを殺したらしいんですって。……おお怖(こ)わ! あんな別嬪さんを、まあ惜(おし)いこと……そういえば思い当る事が あります。誰にも仰言(おっしゃ)っては困りますがね。虹野さんは大変な男喰いで、大学生の中でも失恋させられた人が二三人あったそうですよ。尤(もっ と)もこれは噂だけですがね。その頃の虹野さんの家(うち)もどこか判らず、東から来たり西から来たり、帰りがけもその通りで、誰も本当の家(うち)を 知っているものはありませんでしたよ。私の塾には品行の悪い人は一切入れませんでしたが、そんな風でどこが悪いといって取り止めた事は一つもなかった上 に、本人がシッカリした風で仕事が上手だったもんですからね。いいえ写真なぞもありません。けれどもその頃の怨みにしちゃ、チット古過ぎますわねえ。ホ ホ……。  ――ヘエッ、それがあの有名な迷宮事件の呉さんですって?……マアどうしましょう。どうして虹野さんが、呉さんという事が判ったんですか。ヘエ、東京 の袋物屋のお神さんに身の上を話していた。只、男の名前だけが判らない……ヘエ、そうですか。どうぞこの事は内証にして下さい。云々。 ▲附記 呉一郎の第一回の発作に関する事件記録の要点は前掲三項の断片に残らず包含されおるを以て詳細は省略す。但、第三参考「松村女史の断片」は、余 の所謂(いわゆる)「呉一郎の第一回発作」の参考としては全然不必要の範囲に属するも、この記録を作製したるW氏の主張を尊重する意味に於て、且又(か つまた)、該(がい)事件に関する司法当局の探査方針、及び当時の各新聞の記事が暗黙の裡(うち)にW氏の意見に影響されつつありし証左としてここに掲 ぐるものなり。  ◆右に関するW氏の意見摘要  余(W氏)は初め、この事件に関する報道を新聞紙上に発見するや、極めて稀に存在する夢遊病の好適例に非(あら)ずやと思惟(しい)して出張したると ころ、この直方(のうがた)地方は元来筑豊炭田の中心地に位置し、日本屈指の殺傷事件の本場たり。従って警察方面の捜索方針も単純且(かつ)粗放にして 、現場の証拠等は事件発生の翌日に於て、完膚(かんぷ)なき迄に攪乱蹂躙(かくらんじゅうりん)されおり、充分なる調査を遂(と)ぐるを得ず、然(しか )れ共尚(なお)、現場の形況及び前記各項の談話、警察当事者の記憶、近隣の噂等を綜合したる結果、この事件の特徴として左の諸項を認め得たり。  (甲)犯行の現場たる女塾内には、呉一郎母子(おやこ)と塾生に関する事跡及び勝手口の唯一の締りとされおりたる径約一寸(すん)、長さ四尺一寸余( あまり)の竹の支棒(つっかいぼう)が、不明の原因にて土間に脱落しおりたる以外に、犯人の指紋、足跡等の一切を認め居ず、拭い消したるものなるや否や も不明なり。尚(なお)、右支棒は外より板戸を強く押せば、指をさし入れて外(はず)し得る位置に在りたるものなる事を推定し得たり。而して右板戸の縁 辺(ふちへん)の支棒に接触する部分は、磨滅を防ぐためと支棒の作用の堅確を期するため、新しく亜鉛(あえん)板を以て蔽(おお)いありたるも、這(こ )は却(かえ)って軽微の力を以て、支棒を脱落せしめ得る原因となりたるものの如し。  (乙)被害者千世子は同夜午前二時――三時の間に、背面より絹製の帯締(おびじめ)を以て絞殺され、寝具を蹴散(けち)らし、畳の上を輾転(てんてん )して藻掻(もが)き苦しむなど、甚しき苦悶の跡を残したるまま絶命せるものを、更に階段の処に持行きて手摺(てすり)より細帯にて吊し下げ、階段の降 り口に正面させて縊死(いし)と見せかけたる事明らかなり。しかも、その絞首の跡を示す斑痕が、二重もしくは三重となりおる状況は、犯行当時に於ても明 瞭に認められし事を察し得るに拘わらず、更にこれに縊死を装(よそ)わしめたるは、一見、浅薄なる犯行隠蔽の手段なるが如きも、実は左(さ)に非(あら )ず、他の指紋等を消去りたる犯人の行動と比較考慮する時は、その矛盾せる行為の相互間に生ずる一種の錯覚を以て、犯人に対する目星(めぼし)を誤らし めんがために執(と)りたる極めて巧妙なる手段なりと思惟(しい)し得べし。  尚、被害者の手中その他には何物も止(とど)めず。或は軽き麻酔を施されたるものに非ずやとも疑わる。  尚又、当時犯行用と認められし帯締めは、その後、数名の警官の手に転々したる後(のち)なりしを以て、何等犯人に関する証跡を検出するを得ず。  (丙)呉一郎は、麻酔を施されたるものなる事を、同人の談話に現われたる予後の諸徴候に依りて推測し得べし。  (丁)屍体は死後約四十時間目に、同女塾の裏庭に於て、舟木医学士立会、余(W氏)執刀の下に解剖の結果、最近に於ける性交の形跡なく、子宮には、嘗 (かつ)て一児を孕(はら)みたる痕跡を止(とど)むるのみなる事を確かめ得たり。  如上(じょじょう)の事実に依(よ)り犯人及び犯行の目的等に関する推定は殆んど困難なり。然れども、犯人は相当の学識あり、麻酔剤の使用に慣れ、思 慮深く、且つ腕力逞(たく)ましからざる者なる事、及び犯行が呉一郎に及ぶ事を好まざりし者なる事を推測し得(う)べし。(中略)。その筋の捜索方針は 、初め如上の推定に基(もとづ)きて進行し、呉一郎を釈放したるも結局、再びこの方針を放棄し、純然たる見込捜索に移りたるため、遂(つい)に何等得( う)るところなく、事件は所謂(いわゆる)迷宮裡に遺棄さるるに到りたり。(下略)  ▼右に関する精神科学的観察  この事件は著者(正木)自身が直接に調査したるものに非(あら)ざるを以て、専門の精神科学的の考察と説明には多少の不便を感ずるものなり。然れども W氏が、同氏独特の法医学的の見地に立ちて調査記録したる、この事件の各種の特徴に依て観察する時は、この事件の真相が現代の所謂、科学知識及び、これ に伴う所謂常識の発達範囲に於ては、到底判断し且(かつ)、説明し得べからざる「心理遺伝の発作」にあること疑(うたがい)を容れず。筆者の所謂「犯人 無き犯罪」の最も顕著なる好適例なり。すなわちW氏の最初の直覚が適中しおりたる事を、一切の事象が指しいる事を一々摘出、明示し得べし。W氏が事件後 も尚(なお)、この点に関する疑念を捨てず、前掲の如き貴重なる談話を記録せる、その用意の周到なるに、劈頭(へきとう)の敬意を表せざるを得ざるもの なり。  乃(すなわ)ち前記W氏の観察と、三項の談話とを通じて、この事件の真相を究(きわ)むべき、観察要項を列挙すれば左の如し。   【一】 呉一郎の性格と性的生活  呉一郎は当時満十六年四ヶ月の少年なるが、此(かく)の如き母性愛を主とせる家庭に人となり、且つ平生若き女性に接する機会を有する文弱明敏、且つ発 育円満なる少年に有り勝ちの特徴として事件発生前より、既に十分の性的充実を来(きた)しおりたるも、その母性愛の純美さと、自己の頭脳の明晰さとに品 性を浄化されて、これを肉体的に発露し得るが如き心理の欠陥を有せず、無垢(むく)の童貞を保ちおりたるものと認めらる。異性の唱歌を傾聴したる旨を告 白し且つ赤面せるが如きは、かかる性格を有する斯(かか)る時代の少年の特徴と認むるを得べく、又、談話中の到る処に発見さるる可憐なる率直さ、及び自 身が犯人として眼指(めざ)さるるべき理由の動かすべからざるものあるを自覚しつつも、自己の立場に対する何等の恐怖を感ぜざりし事実等より推して、そ の心理に微小の暗影をも止(とど)めざる、清浄純真の童貞生活を送り来(きた)りし者なる事を察知し得べし。而(しか)して右年齢と性的生活の推定は、 この事件に関する精神科学的観察の全部に影響する、重要なる断定の基礎となるべきものなるを以て、特に冒頭に掲げて、注意を促す所以(ゆえん)なり。   【二】 夢遊状態を誘発せし暗示  事件発生の当夜、午前一時前後に覚醒して、母の寝顔を見たる時、異常の美しさを感じたりという呉一郎の告白は、前記の観察の妥当なる事を裏書せると同 時に、同夜に於ける呉一郎の心理遺伝の発作、即ち夢遊状態発生の暗示が如何なる性質のものなりしかを説明しおるものと認め得べし。即ち、夜半の覚醒が、 性的の衝動の高潮と切実なる関係を有せる事実に徴(ちょう)する時は、当時の呉一郎の精神状態は、或る危機の最高潮に瀕(ひん)しおりたるものなる事、 前記の告白によって明かなるべし。而(しか)してその危機は、同人が一度階下に降りて用便し、再び二階に昇り来(きた)りたる間に著しく緩和されたる筈 なり。且つ、その刺戟の対象たる母親千世子が、後(うしろ)向きになりたる姿を見たるがために、些(すく)なからず幻滅されて、平生の埋智に帰りて就寝 したるものなる事も亦(また)察するに難(かた)からず。然れども此(かく)の如くにして一時抑圧されたる性的の衝動は、呉一郎が熟睡に陥るや、その無 意識界に潜在せる、或る恐るべき心理遺伝を刺戟して、夢中遊行状態を誘発し(後出第二回の発作の項参照)、遂(つい)に斯(か)かる兇行を演ぜしめたる ものなる事を、以下縷述(るじゅつ)するところの各項の理由に照して、逐次了解するを得(う)べし。   【三】 呉一郎の第一回覚醒と夢中遊行との関係  呉一郎が、同夜に限りて夜半の覚醒を見たるは、同人が従来あまり経験したる事なき異状なる出来事なる旨陳述せるが、右は又、適々(たまたま)以て、そ の後の睡眠間に於ける夢遊状態の存在を指示しおれる一徴候と認め得べき理由あり。然れども、この理由を明かにする以前に於て、必然的に考慮せられざるべ からざる一事は、勝手口の支棒(つっかいぼう)の落ちたる音が、呉一郎の第一回の覚醒の原因となりおれる如く思惟されおることなり。右は呉一郎本人も、 然(し)かく信じおれるが如くなるも、這(こ)は睡眠中の感覚作用と、覚醒時の知覚作用とを同一視せるより出でたる誤解にして、甚だ軽率なる判断なりと 認むるに躊躇(ちゅうちょ)せず。何となれば睡眠中に或る音響を耳にして、直ちに覚醒したりと信じたるものが、覚醒後の正確なる判断力に依ってこれを検 する時は、その間(かん)に数分、甚だしきに到っては一二時間の睡眠を経過せる事を発見する例、些(すく)なからず。その最極端なる一例は、所謂(いわ ゆる)、朝寝坊が起さるる時にして、数回に亘る呼び声に応答しつつ、又も熟睡に陥り、日三竿(さんかん)に及びて蹶起(けっき)して、今日は唯一回の呼 声にて覚醒したりなぞ主張する事珍らしからざるは、世人の周知せる事例なり。睡眠中に感じたる音響と、これに依って刺戟されたる覚醒との間に於ける、経 過時間に対する錯誤の如何に甚だしきかは、この一事を以てしても充分に立証し得べし。況(いわ)んや、夢中に於て、明かに物音を知覚して覚醒したるにも 拘らず、その後の冷静なる検査に依りて何事もなかりしを知る場合極めて多きに於てをや。これに依ってこれを観(み)れば、支棒(つっかいぼう)の落ちた る音と、呉一郎の覚醒との間に必然的の因果関係を認むるは、正確なる推理の進行上頗(すこぶ)る危険なる所業にして、寧(むし)ろ、右二ツの現象を全然 無関係のものとして、この事件を観察する方、自然に近きものと言うを得べし。況(いわ)んや更に、これを呉一郎の覚醒後の異常なる気持ちと直接に結び付 けて、外より何者かが入り来りて、麻酔剤を施しつつ、この兇行を演じたりと速断するが如きは、非常なる冒険、且つ、不合理と評するも敢(あえ)て過言に 非(あら)ざるべし。  而(しか)して、右の支棒の脱落と思い誤られたる夢中の音響の正体に就(つい)ては、別に発表し得べき重要なる研究資料を有すれども、右は頗(すこぶ )る広汎なる実例と、極めて精密詳細なる心理学的の説明を要するを以て、ここには大略し、唯(ただ)「夢中に於て実在せざる音響を感ずる場合」のうち、 睡眠自体を破る程に著しき実例の二三を挙げて参考とするに止(とど)むべし。  (a) 夢中に感ぜられつつある幻象の進行が、急に或る行詰まりを生じたる場合……たとえば、或る一種の感情(喜怒哀楽等)が急速に高潮して極点に達 すると同時に、何物かの爆発、散乱、又は落下の光景を幻視せし瞬間……等……。  (b) 夢の進行が突然、或る無限の深さを有する空虚に陥りたる場合……たとえば、世界の涯(はて)より踏み外(はず)し、又は、闇黒の谷に墜落した る刹那(せつな)……等……。  (c) 夢中に進行しつつありし或る二つの心理現象が、突然に交叉し、又は衝突したる場合……たとえば、或る者を恐れつつ行いおりし秘密の仕事が、そ の恐れおりし或る者に発見されし刹那、又は、衝突を憂慮しつつありし汽船、又は自動車等が、果して急激に進路を曲げ来りて、眼前に衝突したる瞬間……等 ……。  (d) 夢の中に進行しつつありし事象が、全然予期せざる、正反対の心理の対象たるべく急変したる場合……たとえば、親友が兇漢なる事を発見し、又は 、同伴者が急に恐ろしき者に変じ、或は又、快適なる室内の諸器物、楽しき花園の花等が、自己の最も恐怖嫌忌(けんお)する形象物体等に変化したる刹那… …等……。  右に依って観察する時は、夢の中に感ぜられる、非実際的の音響の正体なるものは他に非(あら)ず。すなわち夢の進行中に於て、突然、不可抗的に受けた る驚愕、恐怖、歓喜、その他の心境の急変化と、覚醒時に於て不意に大音響に打たれたる心理の急変化とが酷似せるがために、逆に錯覚されて一ツの音響と感 ぜられたるものなる事を知るを得べし。  更に右の事例に照して、この事件を考察する時は、呉一郎の第一回の覚醒なるものは、その直前に於て、同人の心理に高潮充満しおりたる、性的の衝動に依 って描かれつつありし或る種の夢の進行が、これに依って刺戟喚起されたる良心的の衝動を象徴する或る幻像の出現と不可抗的に交叉衝突したる刹那の恐怖的 心理状態が、音響的の錯覚を与えたるものに非ずやとも考えらる。而(しか)して、この仮定を認むる時は、その性的衝動の危機の裡(うち)に眼覚めたる呉 一郎が、その母の寝顔を見て、異常の美を感じたりという事実は、極めて自然なる心理の帰趨(きすう)にして、特に、春季に於ける年少の童貞に有り勝ちの 秘密的、心的経験に関する、純潔、偽らざる告白というを得べく、同時にその後の熟睡中に於て、同じ衝動によって刺戟誘発されたる夢中遊行の存在し得べき 可能性は、一層、底強く裏書きせられ得るものと云うべし。  尚又、支棒(つっかいぼう)が落ちたる事実は、本人が夢中遊行中の無意識的理智の発動に依って行いたる犯罪の隠蔽手段に非ざるなき乎(か)。兇行その 他の不正行為を敢てする事多き夢中遊行者が、かかる行為を併せ行う例は、甚だ珍らしからず。しかも、その大部分は、この事例に於けるが如く、常に笑うべ き浅薄なる手段なるに照しても、這般(しゃはん)の疑問が不自然に非ざるを知り得べし。又、或(あるい)は、外より何者かが入り来らむとしたる際、誤っ て支棒を落し、様子を覗いおるうち、呉一郎が降り来りたるを以て逃亡したる等の、偶然の事跡の暗合せるものに非ずやとも考え得べし。然れども這般の疑点 に就(つ)[#ルビの「つ」は底本では「つい」]いては調査が欠如しおるが如くなるを以て姑(しばら)く疑問として保留しおくべし。   【四】 夢遊状態発作当初の行動……絞殺……  この事件の根本的説明となるべき兇行の目的が、今日に到るまで茫乎(ぼうこ)として、推理の範囲外にある事実と同時に「つくし女塾内には呉一郎母子( おやこ)と、女塾生に関する以外の事跡を認めず」云々というW氏の調査諸項を併せ考うる時は、この事件の真相が呉一郎のその母に対する夢中遊行の発作な る事を、最も簡単、且つ適切に首肯し得ると同時に、その他の犯人に関する推断が、強いて第三者を仮想せむと試みたるより生じたる一種の錯覚なる事をも、 遺憾なく説明し得べし。すなわち呉一郎は前記の性的衝動を心理に包みて熟睡後、これに依りて刺戟誘発されたる心理遺伝の発作のために夢中遊行状態となり て起き上り、その意識裡に現われたる夢幻(その内容はこの時まで不明)の欲求に従って、眼に当りたる被害者の帯締めを拾い取りて、その夢幻の対象たる一 女性……実は母親……に対する兇行を遂げ、尚(なお)後(のち)に述ぶるが如く学術上の珍とすべき奇怪なる夢中遊行の若干を続行したる後(のち)、就寝 したるものと推測さる。而して右の兇行は、同人の脳髄の作用、即ち意識的精神作用が熟睡に依(よっ)て休止しおる間に於て、全身の細胞相互間の反射交感 作用が、脳髄の代用となりて(主として交感、迷走神経と連絡せる内臓の諸機関がこの役をつとめ、筋肉、結締組織、脂肪、血液等もこれに参加して、事後に 於ける異常の疲労状態を呈す――拙著『精神病理学』参照)五官と直接に連絡し、見、聞き、判断し、且つ実行せるものなるを以て、覚醒後の有我的意識には 、殆ど何等の記憶の痕跡を留めず、この点を混同して、一切の判断力を要する行動を、有我的意識(脳髄の覚醒時に於ける意識作用)に依ってのみ行われ得る ものと妄信せられたるがために、前記の如く、仮想の犯人を拈出(せんしゅつ)するが如き、推断上の錯誤を生じたるものにして、現代に於ける科学知識の発 達程度に於ては、誠に止むを得ざるに出でたる帰結と云うを得べし。  因(ちな)みに、この事件に依って研究さるべき呉一郎の夢中遊行状態中、第二回の発作(後段参照)に依て演出さるべき、この事件の眼目たる心理遺伝の 内容と直接の連絡関係を有せる発作は、この……絞首……の一事のみにして、爾後(じご)の夢中遊行は寧ろ脱線的のものと云うを得べし。然れども、その爾 後の脱線的夢中遊行なるものの正体は、実に学界の珍とも称すべきものにして、精神科学上の研究価値甚だ高く、且つ此(かく)の如く親近なる参考事例を他 に発見し得ざるを以て、聊(いささ)か脱線を共にするの嫌(きらい)あれども特にここに記述し、併せてこの事件の真相が、呉一郎の夢中遊行発作によって 一貫せられおる事実を、徹底的に明白ならしめんと欲する所以(ゆえん)なり。   【五】 絞首に引続く第二段の夢中遊行……屍体飜弄……  被害者が、床上その他を輾転(てんてん)して苦悶したる痕跡及び絞殺の跡(あと)顕著なるにも拘(かかわ)らず、更にこれを縊死と見せかけたるは浅薄 なる犯罪隠蔽行為なるが如くにして実は然らず……云々として、犯人たる仮想の第三者の智力の尋常ならざるを疑われたるは、一面の理由ある判断なるが如く なるも、これ亦、余りに穿(うが)ち過ぎたる不自然の観察なりと信ずるに躊躇せず。何となれば右の事象は又、偶々(たまたま)以て夢中遊行状態特有の怪 異なる行動が当夜、同所に於て行われたる事跡を物語るものにして、著者の所謂(いわゆる)……屍体飜弄……が当夜の呉一郎に依って演ぜられたるものと認 めて些(いささか)の不自然を感ぜざるのみならず、却(かえ)って右の事象に対する説明の簡単適切、疑うべからざるものあるを以てなり。  但し夢中遊行中の屍体飜弄なる現象に関しては古来、明確なる記録の憑拠(ひょうきょ)するに足るべきもの殆ど存在せず。唯、かかる超唯物科学的なる現 象に対して深き興味を有する拉甸(ラテン)人種間に伝われる記録及び迷信深き東洋諸民族間に残存せる伝説等に散見するあるのみ。而してその記録なるもの も所謂、実見記等の類に非(あら)ず。或る特異の頭脳を有する僧侶、医師等が他人より聞知し、又は探聞し得たる事を記載せる随筆程度のものに過ぎざるの みならず、その記事の十中八九は屍体を使用して人を脅威し、電力を与えて死者を動かし試み、死人を装(よそお)うて悪事を働らく等、その他、迷信的の薬 物たる臓器の獲得、埋葬品の奪掠(だつりゃく)、屍姦(しかん)等の事跡の誤認、誤伝せられたるものなるを以て、容易に真相を捕捉し難き憾(うら)みあ り。  然れども斯(か)かる屍体飜弄の事実の古来より存在せる事は疑(うたがい)を容れず。即ち支那、印度(インド)、日本等に於て屍神(ししん)、屍鬼( しき)、もしくは火車(かしゃ)等と称する妖異譚(ものがたり)の内容を検する時は、この種の夢遊行為……すなわち屍体飜弄が誤伝せられたるものなる事 を、自然科学、精神科学等の各方面より推知するを得べし。  而して斯(かか)る事実の詳細に関しては他日「妖怪篇」なる一篇に集積して研究論証すべく、目下材料の整理中に属すれども、その一班を摘要すれば、元 来この屍神、屍鬼、もしくは火車等と称する妖異現象は、狐猫(こびょう)の類族、又は鴉(からす)、梟(ふくろう)等の怪禽妖獣の族の所業なるが如く信 ぜられおる傾向あり。然れども事実は左(さ)に非(あら)ず。すなわちそれ等の伝説記録等に拠って、屍体飜弄の状況を按見(あんけん)するに、まず劈頭 (へきとう)に、棺柩(かんきゅう)中、もしくは床上に静臥安居しおりたる屍体が忽然(こつぜん)として立上り、虚空を走るという形容あり。続いて眼を 閉じ、毛髪と両手とを力無く垂下したる亡者が、或は逆立(さかだち)し、或は飜筋斗返(とんぼがえ)りし、斜立(しゃりつ)したるまま静止し、又は行歩 (こうほ)し、丸太転び、尺蠖歩(しゃくとりあゆ)み、宙釣り、逆釣(さかづ)り、錐揉(きりも)み、文廻(ぶんまわ)し廻転、逆反(さかぞ)り、仏倒 (ほとけだお)し、うしろ返り、又は跳ね上り、飜落(ほんらく)するなぞ、恰(あたか)も何者かが手を加えて操縦せるが如くなる、あらゆる奇抜なる形状 と運動とを描き現わすものとなせるが、尚よく冷静、仔細にこの形容を観察する時は、此(かく)の如き形状と運動とは、恰も彼(か)の無邪気なる小児が、 人形、生物体、もしくは人像に類せる物体を飜弄して、あらゆる残忍なる姿勢動作を演ぜしめつつ、嬉戯(きぎ)満悦せる情態に酷似せるを看取し得べし。し かも当該小児は此の如き遊戯に際し、自ら手を加えて飜弄しつつある事実を殆ど忘れおり、さながらに人形が自己の意志を直感して、好むがままに変化躍動し つつあるかの如く錯覚しつつ、一種の残忍性を満足せしめおる心理は、吾人の日常随所に発見し得るところなり。而(しか)して此(かく)の如き生物、もし くは擬生物体飜弄の心理は、吾々人類の祖先が、その野蛮蒙昧時代に於て獲物、もしくは敵手を征服捕獲し、又は斃(たお)し得たる際の満悦と勝利感の高潮 によって、恰(あたか)も現在の食肉禽獣、虫類間に遺伝残存しおるが如き獲物飜弄の高等なるものを行いたる習性が変形遺伝せしもの(敵手の首級を投げ上 げ投げ上げ歓喜したる史実厳存す。且つ、かかる擬生物体飜弄の習性が主として男児に現われ易き事実に注意すべし――拙著、心理遺伝本論中、変型遺伝の部 参照)なる事実と照合する時は、かかる心理遺伝が、斯(かく)の如き屍体飜弄の夢中遊行を誘起し得べき事、疑(うたがい)を容れざるべし。  次に、如上の考察を事実と照合して具体的に説明すれば、まず、或る瀕死の病人に最後迄附添いおりたる者、又は、屍体の始末をなしたる人間が睡眠後…… 特に介抱その他に依る身神(しんしん)の疲労又は一種の安心等のために平常よりも深き熟睡に陥りたる場合に於て、その屍体より受けたる深刻なる暗示のた めに、前記の如き残忍性を帯びたる夢遊心理を誘起され、未葬もしくは既葬の屍体を取り出して飜弄したりとせむか。自身は殆どその自ら手を下したる事実を 記憶せざるべきは当然と見るを得べし。或は、半ば朦朧(もうろう)状態に於て意識せるものとするも、彼(か)の小児の人形飜弄の如く、自己が手を下した るものとは思惟(しい)せずして、屍体そのものの活躍なりと錯覚し、一種の悪夢の如きものと信じつつ屍体を飜弄して、どこへか遺棄し去り、又は棺桶等に 投入返還したるまま、床に帰りて就寝したる者が、翌朝に到りて屍体の変位、紛失等を発見するや大いに驚き、妖異の所業(しわざ)と解釈して斯(か)かる 伝説の由縁(ゆうえん)を作るべき事は疑を容れず、すなわちかかる伝説、口碑の殆ど全部が、屍体に側近する者の些(すく)なき貧家の不幸事、もしくは屍 体一個、側近者一個を題材として伝えられおるを見ても、その妖異の主人公が屍体そのもの、もしくは他の獣鬼等に非(あら)ず、傍(かたわら)に眠りおり たる者の夢中遊行に依るものなる事を察するに足るべく、現今、行われおる多人数の通夜の習慣は、この種の妖異の防遏(ぼうあつ)に最も有効なる事が古来 幾多(いくた)の人々の経験に依って知、不知の間に確認せられおりし事を今日に立証しおるものと見るを得べし。又、死者の枕頭(ちんとう)に刃物を置く 習慣は、その刃物の光鋩(こうぼう)、もしくは、その形状の凄味(すごみ)より来る視覚上の刺戟暗示を以て、この種の夢遊病者の幻覚を破るに有効なるも のありしより起りし習慣に非ざるなき乎(か)。いずれにしても斯(かく)の如く観察し来る時は、この屍体飜弄なる夢遊状態の存在は疑う余地なきところに して、特に通夜の習慣及び火葬の流行以前には、屍体の側近者によりてかなり多数にこの種の夢遊状態が実現されおりし事は自明の理なるべし。  次に如上の研究考察をこの事件と照合するに、当夜に於ける呉一郎の女性絞殺行為後の夢中遊行症は殆ど右と同様のものなるべけれども、更に、ここに変態 性慾的内容を有する夢中遊行を添加したる形跡の明らかなるものあるは特に珍重頑味すべきところなり。即ち呉一郎は、自己の血統に伝われる、独特固有の、 変態性慾的「心理遺伝」の夢中遊行発作(後段第二回の発作参照)に依って、まずその夢幻の相手たる異性を絞殺して第一段の満足を得、然る後(のち)、そ の屍体の暗示により、前述の如き一般的なる夢遊状態……屍体飜弄に移りたるものなる事を、察するに難(かた)からざるべく……屍体の甚だしく煩悶輾転( てんてん)せる痕跡、云々と認められしは、その飜弄の痕跡と混同しおる疑あり、或は被害者の苦悶に属するものは、その中の極めて小なる一部分なりしやも 計り難し。同時に、その屍体飜弄が一種の変態性慾的の快適を求むる特殊の深刻味を含めるものなりし事は、その飜弄が転々飽くところを知らず、窮極すると ころついに、変態性慾中に於ても最高度の変態(次項参照)に到達したるを見て察知すべし。   【六】 屍体飜弄に引続く第三段の夢中遊行……            自己虐殺の幻覚と自己の屍体幻視…… 「自己虐殺の幻覚」及(および)「自己の屍体幻視」と称する変態心理は、夢中遊行に非ざる一般の場合に於ても、特異中の特異例に属すべきものなるを以て 、その斯(かく)の如き変態にまで陥り来りたる心理経過を一々説述し来るは容易の業(わざ)に非ず。然れども当座の参考のためにこれを要約して説明すれ ば、元来性慾もしくは恋愛なるものは、自己以外の異性に恋着する心理を指すものなれども、これをその本源に溯(さかのぼ)りて考察する時は、如何に没我 的なる恋愛、もしくは性慾の発露なりと雖(いえど)も、畢竟(ひっきょう)するところ、自己の生ける霊肉の要求を愛惜し尊重する本能的主義的、もしくは 利己的心理の表現に外ならず、故に、その性慾もしくは恋愛が、体質、性格及び境遇等に影響されて常住不断に飽く能(あた)わず……又は飽く方法を知らず ……又は飽く事を知らざる(これと正反対なる性慾耄衰(ぼうすい)の場合にも略(ほぼ)同一の結果に達すれどもここには省略す)場合は、その欲求が極度 に高潮尖鋭化し、深刻痛烈化し来る結果、遂(つい)に尋常の手段にては満足を得る能(あた)わず、窮極するところ遂(つい)に変態性慾の境界に脱線し去 りて尚(なお)飽き足らず、更に窮極の極、その心理の本源に逆転し来りて、自己を恋着、愛惜する心理に陥り来るべきは必然の帰結なり。  すなわちまず、これを積極方面より例示せむか。飽く事なき異性の愛撫慾が極度に高潮辛辣化すれば平凡なる性交の満足に倦(う)みて、異性の虐待、乃至 (ないし)、虐殺の快適味愛好(サジスムス)又は屍好(ネクロヒリ)となり、更に進んで異性の肉体覗見、異性の形状愛好(ビクマリオニスムス)、異性の 附属物歎美(フェチシスムス)等の順序を以て漸次、異性より直接に受くる刺戟、もしくは感覚より背(そむ)き遠ざかりつつ、却って深刻味ある快美感を受 け得るに到るべく、而(しか)も尚、それ以上の異端、もしくは猟奇的深刻味を求めて止まざる結果は、遂(つい)に人間本来の自己愛惜の本能に吸引せられ て自己恋着に陥り来るに到るべし。  又、これを消極方面より観察する時は、被愛撫的満足の飽く事なき願望が超自然的に高潮すれば被虐待の要望(マゾヒスムス)となり、一転して異性の汚物 愛好(コプロラグニー)に進み、異性よりの侮蔑冷視、嘲笑嫌忌の甘受慾(エキシビステンその他)等の経過を見て結局、前者と同様の結末に陥り来るべきは 自然の帰趨(きすう)なり。所謂(いわゆる)NARZISSMUS(ナルジスムス)(自己恋着)はこれにして、筆者の所謂積極消極両様の変態恋愛の交叉 帰一点そのものの発露と見るを得べし。  しかもこの「自己恋着」と名づくるものの中にも亦、積極消極、両極端の合一せる変態あり。すなわち自己に対する極度の愛撫、粉飾等は進んで自己の虐待 、自己の一部露出、もしくは覗見(しけん)等の変態趣味に移り、一転して自己の軽視、冷遇、嘲笑、嫌忌もしくは自己恐怖等の心理を感ずるに到り、更に進 んで自己虐殺の快適、もしくは自己の屍体幻視の快美感耽溺者となり来るものなり。事実、この種の心理の実例は極めて広汎多端(たたん)、且つ普遍的の性 質を有しおるものにして、往昔の切腹、義死、憤死等の心理又は、普通の自殺者の遺書等の中に発見さるる夢の如き「自己歎美」又は、甘美なる涙を含む「自 己陶酔」の心理の裏面にはこの種の変態心理の多少を認め得ざる事なく、殊に失恋自殺者の心理にして、この種の変態的欲求に最後の、且つ、唯一最高の満足 を求めおらざるもの一人も無しと断言するも敢(あえ)て過言に非(あら)ず。その他、この種の心理の発露の特異なるものに到っては、自己の名前、肖像等 の抹殺破棄……鏡面の理由なき破壊……模擬戦、又は劇等に於ける傷者、死者等の役廻り志願……各種の芸術作品中、自己に擬(ぎ)せる人物に対する作者の 残忍なる描写……等の軽度なるものより、遺書なき自殺……他人もしくは公衆の面前に於ける自殺……自己及び環境を美化粉飾したる自殺……同情の情死…… 同性同胞の情死……自殺倶楽部(クラブ)の存在……等、その欲求の変幻、その発露の怪奇、殆ど端倪(たんげい)すべからざるものあり。その他、人類生活 の日常到るところの起臥(きが)談笑の間に於ても、本来自然の自己愛着心と不即不離の関係を保ちつつ、知不知、不言不語の裡(うち)にこの種の変態心理 が流露反映しつつあるものなるを以て一々枚挙に遑(いとま)あらず、故に、ここには唯、斯の如き極端なる変態心理がその研究価値の頗(すこぶ)る高度、 非常なるものあるにも拘らず、その発露する事例は決して稀有珍奇なるものに非ず、他の中間的なる変態性慾よりも却って普遍的なる傾向を有しおるものにし て、相当の自省力を有する人士は常に、自己の心理生活の到るところにこの種の変態心理を発見し得べき事を証するに止むべし。  以上述ぶるところに依って、この事件の示す特徴を研究考察するに、呉一郎は、その夢中遊行の第一段たる絞首行為の前後に於て、その被害者の風貌が自己 に酷似せる事を認めたるべきは推測に難(かた)からざるべし。而(しか)して同時にその夢中遊行の本源たる深刻痛切なる性慾の衝動が、その夢遊行動に依 て解除さるるを得ざるがために、飽く事なき飜弄を続行中にも、幾回となく、その屍体の風貌の自己に彷彿(ほうふつ)たるものあるを認めしに相違なかるべ く、その結果、おのずから自己虐殺の錯覚、幻覚に誘致され、屍体を自己に擬(ぎ)し、数回に亘りてこれを絞首したるものと認むるは、決して不自然なる推 測に非(あら)ざるべし。かくして最後に、自己の屍体幻視の夢遊に移り、自己に擬したる被害者の屍体を階上の手摺(てすり)より吊り下し、相対(あいた い)する階段附近よりこれを正視して歓興したるものと察するを得(う)べく、此(かく)の如く観察し来る時は、被害者が二重三重に絞首されし後(のち) 、縊死に擬せられたる等の、本事件の最重要なる各種の特徴は極めて自然に、且つ明白に説明され得るを見るべし。本事件の検案調査が、かかる諸点に留意さ れず、尋常一般の犯罪と同一視されたる結果、この方面に関する指紋、足跡等の事跡が大略看過されたる傾向あり。ために、かかる珍奇なる夢中遊行特有の怪 奇なる行動の詳細に亘りて推測する能(あた)わざるものあるは復(また)やむを得ざる遺憾事と言うべし。  因(ちな)みに、呉一郎の夢中遊行の発作をここまで支持し来りし性慾衝動の最高潮状態は、この自己の屍体幻視を終極的として、解除されたるものと推測 し得べき理由あり。爾後(じご)の呉一郎の行動は、この夢中遊行症の余波ともいうべき夢中遊行にして、筆者の所謂(いわゆる)、蹌踉状態に陥りたるもの と認むるを得べし。然れども、その蹌踉(そうろう)状態の下に行われたる夢遊行動中にも亦(また)、本事件の表面上に現われたる、重要なる疑問的特徴を 作りしものあるを推測され得るを以て、特に項を改めて記述すべし。   【七】 呉一郎の悪夢、口臭、その他が表わす夢中遊行症の特徴  呉一郎が悪夢を見たりという事実と、覚醒後の頭痛、眩暈(げんうん)、悪寒、口臭、嘔気(おうき)等を感じたる事実等を綜合して、麻酔剤の使用を疑わ れたる事は一面の理由あるものの如し。然れども、これを精神科学的の見地より観察する時は、これ亦(また)、現代の科学知識の発達程度に照して、誠に止 むを得ざるに出でたる錯誤と評するを得べし。すなわち、畢竟(ひっきょう)するところ右は、夢、及(および)、夢中遊行なるものの真相の学理的に闡明( せんめい)され、且つ、常識的に理解されおる程度が、甚だ浅薄低級なる結果にして、下記二段の説明を以てこれを判断する時は、右の諸現象が麻酔剤の使用 に依って起りしものに非(あら)ず、却って夢遊病の併発症状ともいうべき諸特徴を最も顕著に示しおる事を認め得べし。  (イ)口臭、その他と轆轤首の怪談 呉一郎が覚醒後に感じたりという頭痛、嘔気、疲労等は前述の如く、皆夢遊病の特徴として起り易き併発症状なれども 、就中(なかんずく)、特に興味ある観察材料としてここに掲げむと欲するものは……口中に不快なる臭気を感じたり……という当該本人の陳述なり。而(し か)して此(かく)の如き夢遊病者の口臭その他に関しては他日稿を改めて「妖怪論」中に詳論すべきも、その腹案の一部をここに披瀝すれば、一般に或る夢 遊病者が、或る発作を遂行し終るまでは、その夢中遊行の本源たる各種の内的衝動に駆られて、何等の疲労をも自覚せざるのみならず普通人の想像を超越した る精力と忍耐力を続行し得たる事例、亦、尠(すくな)しとせず。然れども、その発作の最高潮時、もしくは発作の主要部分を経過したる後(のち)は、精神 の弛緩(しかん)と共に異常なる疲労を感じ、且つ、甚しき渇(かつ)を覚ゆるは生理上当然の帰結なり。(苦悶、呻吟等の軽き夢中遊行を伴いたる悪夢等の 覚醒後に於ても亦然り)而してこの道理を根拠としてこの事件と比較研究さるべき絶好の参考材料は、日本の巷間(こうかん)に伝うる轆轤首(ロクロクビ) もしくは抜け首と称せらるる怪談なり。  ロクロ首の怪談、又は絵画が、人間の夢、又は夢中遊行の心理を象徴せるものなる事は、ここに更(あらた)めて呶々(どど)するを要せざるべし。而して 同時に、このロクロ首が、油、又は下水その他の不浄の水を舐(な)める習癖あるがため、翌朝に到りて口中に悪臭を感ずるものなる事は、この種の怪談、又 は絵画等に依って説明され来りたるところにして、一見、荒唐無稽の空説なるが如く見ゆるも決して左(さ)に非ず。すなわち、この怪談に於て、単にその首 だけが脱出蜿蜒(えんえん)して、何ものかを舐めたるが如く推断されたるは、夢、もしくは、夢中遊行の真相を識(し)らざるがために附会(ふかい)した る一個の想像にして、実は本人が夢中遊行中、生理上当然の欲求に駆られて、何等かの液体を渇望しつつ探し廻り、且つ、これを口にしたる結果に外ならず。 しかも右は、必ずや、発作の最高潮を経過したる後(のち)に起るべき欲求にして、単に甚しき渇(かつ)の刺戟に依って辛(かろ)うじて夢中遊行を続行し おるが如き状態なるべきを以て、意識の明瞭度は著しく減退しおり、且つ捜索探求の能力等も著しく薄弱となりおれる筈なり。従ってその液体の何たるかを問 わず、単に水に似たるもの、もしくは、それが何等かの液体なる事を認めたるのみにて直ちにこれを嚥(の)み下すことは、あり得べき道理なり。夢中遊行中 に、油、又は下水溝の汚水の如きものを口にして自らこれを知らず、翌朝に到りて異状の口臭を感じ、又は嚥下物(えんかぶつ)の不消化等に依る頭痛、嘔気 等を訴えて家人に怪しまれ、仏壇、又は行燈(あんどん)の油の減少せる等の事実と、想像とが結び付けられたる結果、当該本人の首のみが脱出したるが如き 疑いを受くることは、人智未開の往昔に於て、当然あり得べき事なりと考えらる。尚(なお)、このロクロ首、即ち夢中遊行の主人公が、平生あらゆる本能的 自我的心理の発動を抑圧し、又は抑圧され勝(がち)なる妙齢の美人と人間の祖先たる下等動物中STEGOCEPHALIAを象徴したる三ツ眼の怪物との 二種類によって代表されおり、且つ、長き舌を出して液体を舐むるという動物的の挙動が、これに結び付けられおる諸点は心理遺伝学中、動物心理の遺伝発露 に就て研究すべき好参考材料なれども、ここには煩(はん)を避けて冗説せざるべし。以上述ぶるところによって見る時は、呉一郎の覚醒後の口臭は、吸入、 又は注射に用いられたる麻酔薬の影響によって起りたる嗅神経の異状、又は、使用せられたる薬剤の口中粘膜よりの再分泌等によって来(きた)れるものに非 ず。同夜、何等かの水に非ざる液体(例えば香水、化粧水、又はクリーニング用の揮発油の如きもの)等を口にしたる証左にして、その他の病的現象の大部分 も、該液体の作用と認むるを自然に近きものと思惟さる。然れども、この点に関する諸般の調査が、全然閑却されあるは、止むを得ざる事とはいえ、千秋の遺 憾と云うべし。  (ロ)悪夢 又呉一郎が、事件当夜一時五分前後に覚醒し、次いで就寝したる以後に連続して見たりと信じおれる悪夢は、実は第二回の覚醒以前の僅少時間 に見たるものが記憶に止まりたるものなる事、普通の夢と同様にして、夢中遊行の内容とは直接の関係を有せず。却って夢中遊行中に口にせし、何者かの影響 なるべき事は前段の説明によって明かなるべし。   【八】 夢中遊行の行われたる時間、その他  如上述べ来れる理由に依り、この事件を考察する時は、呉一郎の当夜の発作は、第一回と、第二回の覚醒の間に於て行われたるものと推定するを得べく、被 害者の絶命時間が、二時――三時の間とすれば、呉一郎は第二次の就寝後三十分乃至一時間の後(のち)に、かかる夢中遊行状態の起り得べき、最深度の熟睡 に陥りたるものなる事を察し得べし。而して、第二回の払暁時(ふつぎょうじ)の覚醒は、平生の覚醒時に於ける習慣的の潜在意識の発露と見るを得べく、そ の後の睡眠に於て、呉一郎は初めて夢中遊行の余波、もしくは夢中遊行中の嚥下物(えんかぶつ)に依って刺戟せられたる悪夢より離脱し、真の熟睡、休養に 入りたる事を、その発汗現象によりても察知するを得べし。   【九】 夢中遊行に関する覚醒後の自覚、及び二重人格に関する考察  次に呉一郎が覚醒後、警察に於て、母殺しの嫌疑の下に訊問を受けし際、茫然自失しながらも「そんなら、自分が殺しておいて忘れているのじゃないかしら 」というが如き、極めて軽微なる疑問が動きおりし事を告白せるは、一見、同人が自己の夢中遊行の幾分を記憶に止(とど)めおれる重大なる証左なるが如く 思惟さるべし。すなわち第四項に略説せし通り、同人の当夜に於ける夢中遊行の事実は、同人の有意識的の記憶には存在せざる筈なれども、脳髄以外の細胞が 作りし無意識的記憶の中(うち)の或るもの……たとえば当時の甚しき疲労感等が、警部の訊問の暗示力によって意識裡に浮み出でしものに非(あら)ざるな きやも疑い得べし。然れども、これを他の一面より見る時は、気質の純真と、良心の澄明とが反映したる、極めて明敏なる頭脳の所有者にして且つ、小説類の 愛好者たる呉一郎が、かかる局面に立ちたる結果起したる、この種の頭脳特有の錯覚に非ざるなきやを保し難し。随(したが)って、這般(しゃはん)の疑問 は、呉一郎の夢中遊行の存在を的確に立証し得るものに非ず。唯、一箇の補遺的参考としてここに掲ぐるを得るのみ。  尚(なお)、以上述ぶるところに依って、古来、夢中遊行病者が一種の二重人格の所有者なるが如く思惟せられおる事が、真に近き理由をも理解するを得べ し。すなわち、祖先代々より遺伝し来りたる無量の記憶と、その血統中に包含されたる各人種、各家系、各個性等の無数の性能の統一体たる一個の人間の性格 のうち、その一部が覚醒中に分離してあらわれたるものが所謂二重人格にして、同じく睡眠中に発露されたるものが夢中遊行症なり。而(しか)してかかる夢 遊病者の素質が、遺伝性を帯びおるものなるは無論なるを以て、夢遊病者が夢中遊行中に行いし犯罪に対する責任は、夢遊病者本人が負うべき場合甚だ些(す く)なく、これを遺伝せしめたる祖先及びその時代の社会等が、負うべき場合多き事を、この事件に対する法律的考察の参考として附記しおくべし。   【十】 呉家の血統に関する謎語  劈頭(へきとう)に掲げし四項の談話中、右に摘出したる以外にも亦(また)、呉一郎の心理に、かかる夢中遊行を発作し得べき遺伝的の或るものが存在せ る事を暗示せる個所尠(すくな)からざるが如し。即ち左の如し。 =呉一郎の談話中= 同人母千世子は、女性にしては珍らしき明晰なる頭脳を有し、且つ、気強き性格の持ち主なる事が説明されおり、且つ、迷信家に非(あ ら)ざる旨を弁護しあるにも拘らず、母子二人の宿命、もしくは運命に関しては、極めて平凡、且つ愚昧に属する迷信を極度に固執しおれる事実より推して、 同女の心理に何等か不可抗的の憂悶不安の、不断に存在せるに非ざるなきやを疑い得る事。 =同= 狸穴の先生と呼ばるる占断者(うらないしゃ)の言に「お前達は、何者かに咀(のろ)われている」とあるは、同占断者が、同女との対話中に、同女 の言葉の中に含まれたる或る事実を推測して、斯(か)く云いたるに非ずやと疑わるる事。 =八代子の談話中= 直方(のうがた)署の留置場に於て、初めて呉一郎に面会したる際「お前は何か夢を見ていやしなかったか」と尋ねしは「嘗(かつ)て 夢遊病の事を耳にせしためなり」云々と弁明せるが、一婦人、特に農家の一主婦としての教養以外に、何等の高等なる学識を有せざるべき筈の八代子が、此( かく)の如き非常事件に際し、かかる超常識的に高等なる、精神科学的現象の存在の、可能なる事を考え得るさえも、不可思議というべきに、更にこれを実地 に当て嵌(は)めて、直ちに事件の裡面の真相を穿(うが)たんと試みたるが如きは、真に驚くべき事実にして、仮令(たとい)同婦人が如何に慧敏(けいび ん)、且つ果敢なる判断力を有するものと見るも、尚且つ、不自然の感を免れず。但し、同婦人が常に、何等かの痛切なる事情に迫られて、かかる問題を念頭 にかけおり、此(かく)の如き事実に関する風説又は説明等に就て、鋭き注意を傾注しおりたるものとすれば、かかる際、かかる質問を発するは強(あなが) ちに不自然と云い得べからざること。 =同= 同婦人は、姪(めい)の浜(はま)なる実家に、近き親戚の尠(すくな)き旨を洩らせるが、田舎の富家には往々にして此の如く血縁的に孤立せる家 系あり。而して、その孤立の原因は多くの場合、その家柄もしくはその血統に絡まる伝統的の悪風評もしくは、或る忌(い)むべき遺伝的の素質あるがために 、附近の者が姻戚関係を結ぶを好まざる結果なるを以て、呉家も、或はその種の家柄に非ずやと疑わるる事。 =同= 妹千世子が家出の原因は刺繍と絵画の修業を目的とせるものに外(ほか)ならざる旨、繰返して弁明せるも、前項の疑点と照合する時は、尚、別の意 味をも含まれいるものの如し。すなわち千世子は、姉と共に同家に居りては、到底結婚の不可能なるべきを予感し、又は他国に於て、呉家の血統を繋(つな) ぎ残すべく、姉との黙契の下に家出したるものにして、これあるがために、その行衛(ゆくえ)捜索に対する姉の態度は、稍々(やや)不熱心の嫌(きらい) なきに非ざりしやの疑を存する余地あり。且つ、同姉妹が二人共、女性としては珍らしき気嵩(きがさ)なる性格の所有者なる事実よりこれを推せば、両人の 間にかかる黙契の成立し得べき事は想像に難(かた)からざる事。 =松村マツ子女史の談話中= 「千世子が有名なる男喰いなりとの噂」云々の事実と、前記の疑問とを綜合する時は、此(かく)の如き事情を負うて家出せる 同女の、その後の行動の一斑を窺(うかが)うに足るべき事。  如上の各項の疑点を通じて、姪の浜の呉家に伝統的の、しかも、極めて恐怖すべき或るものが存在せる事、及び同家の最後の血統を有せる八代子と千世子の 姉妹が、この事を熟知しおるらしき事は、この事件の当初より既に、充分に暗示しありたるものと見るを得べし。 【十一】 残るところは、この事件に於ける呉一郎の夢中遊行の発作が「如何なる種類の心理遺伝の、如何なる程度の発露に依りて行われたるものなりや」と いう問題なり  即ち這般(しゃはん)の第一回の発作は、その夢中遊行の直接誘因とも見るべき有形的の暗示が「一女性の寝顔の美」という簡単なるものに過ぎず、且つそ の刺戟が、異性的魅惑力の最も薄弱なる母親によって与えられたるものなりしため、呉家の固有に属する驚異的の心理遺伝に対する暗示の度も亦(また)、甚 だ浅かりしものと察せらる。従って、その夢中遊行の内容も、同家固有の心理遺伝の内容(後段参照)と合致せるは唯「絞首」の一事あるのみ。爾余(じよ) はその屍体、及びその容貌の暗示より来れる脱線的の夢中遊行に移りて、それ以上の心理遺伝の内容を示さざりしものと思惟(しい)し得べし。  而(しか)して、前記諸項に関する一切の根本的の疑問に対する解決と説明は、この直方事件の発生後、約二箇年目に現われたる左記、第二回の発作に現わ れたる諸般の事情に依って、徹底的に明らかにするを得べし。      第二回の発作 ◆第一参考 戸倉仙五郎の談話 ▼聴取日時 大正十五年四月二十六日(所謂(いわゆる)、姪之浜(めいのはま)の花嫁殺し事件発生当日)午後一時頃―― ▼聴取場所 福岡県早良郡姪之浜町二四二七番地、同人自宅に於て―― ▼同席者 戸倉仙五郎(呉八代子方常雇(じょうやとい)農夫、当時五十五歳)――同人妻子数名――余(よ)(W氏)――以上――    【注意】 甚しき方言なるを以て標準語に近づけて記載す。  ――ええもう、このような恐ろしい事は御座いませなんだ。その時に梯子(はしご)のテッペンから落ちて打ちました腰が、この通り痛みまして、小用(こ よう)にも這(は)うて参ります位で、すんでの事に生命喪(いのちうしな)いをするところで御座いました。しかし、今朝(けさ)程から茄子(なすび)の 黒焼を酒で飲みまして、御覧の通り、妙薬の鮒(ふな)を潰して貼っておりますけに、おかげで余程痛みが寛(くつろ)いだようで御座います。  ――呉様のお家は、千俵余米と申しまして、この界隈でも一といわれる名うての大百姓で御座います。そのほか、養蚕(かいこ)から、養鶏(にわとり)か ら何から何まで、今の後家さんのお八代さんが、たった一人で算盤(そろばん)を弾(はじ)かっしゃるので、身代(しんだい)は太るばかり……何十万か、 何百万かわからぬと申しますが、豪(えら)いもので御座います。学校も自分で建てた学校なら、お寺も御先祖が建てさっしゃったお寺で、跡目相続人(あと とり)の若旦那(呉一郎)は大幸福者(おおしあわせもの)で御座いますのに、思いがけない事が出来ましたもので……。  ――若旦那様は、温柔(おとな)しい、口数の尠(すくな)い御仁(おひと)で御座いました。直方(のうがた)からこちらへ御座って後(のち)というも の、いつも奥座敷で勉強ばっかりして御座ったようですが、雇人(やといにん)や近所の者にも権式を取らしゃらず、まことに評判がよろしゅう御座いました 。それに今までは呉家の人と申しましても後家のお八代さんと十七になる娘のオモヨさんと二人切りで、家(うち)の中が何となく陰気で御座いましたが、一 昨年(おととし)の春から若旦那が御座らっしゃるようになると、妙なもので、家内がどことなく陽気になりまして、私共も働らき甲斐があるような気持が致 して参りましたような訳で……ヘイ……。そのうちに、今年の春になりましてからは又、若旦那様が福岡の高等学校を一番の成績で卒業して、福岡の大学に又 やはり一番で這入らっしゃると、そのお祝を兼ねて、若旦那とオモヨさんの祝言(おめでた)があるというような事で、呉さんのお家はもう、何とのう浮き上 るようなあんばいで……ヘイ……。  ――ところが恰度(ちょうど)昨日(きのう)(四月二十五日)の事で御座います。福岡因幡町(いなばちょう)の記念館という大きな西洋館の中で、高等 学校の生徒さんの英語の演説会がありましたそうですが、若旦那様はその時に、卒業生の総代になって、一番初めの演説を受持って御座るとかで、高等学校の 服を着て行こうとなさるのをお八代さんが引止めて、大学校生徒の新しい服を着せてやろうとしました。その時に若旦那は苦笑いをしながら、どうしても着て 行かぬ。まだ早いと云うて逃げようとされますのを、お八代さんが無理矢理に着せて、あとを見送りながら、さも嬉しそうにして涙を拭いておりました態度( ようす)が、今でも眼に縋(すが)っております。今から思えばあの時が、若旦那の大学服の着納めで御座いましたろう。  ――ところで又、そのあくる日のきょうは今も申します通り、若旦那様とオモヨさんの、お芽出度(めでた)い日取りになっておりましたので、私共も一昨 日(おととい)から泊り込みで手伝いに参っておりました。オモヨさんも高島田に結(ゆ)うて、草色の振袖に赤襷(あかだすき)がけで働いておりましたが 、何に致せ容色(きりょう)はあの通り、御先祖の六美(むつみ)様の画像も及ばぬという、もっぱらの評判で御座いますし、それに気質(きだて)がまこと に柔和(すなお)で、「綺倆(きりょう)千両、気質が千両、あとの千両は婿次第」と子守女が唄うている位で御座いました。又、若旦那様はと申しますと年 は二十歳(はたち)という事で御座いますが、分別といい、物ごしといい、三十近い者でも追い付かぬ位シッカリして御座って、ことに男ぶりが又御覧でも御 座いましつろうが、お公卿(くげ)様にも無かろうと思われる位、品行がよろしゅう御座いましたので、これ位の夫婦は博多にもあるまいという噂で御座いま した。……それにお支度が又金に飽(あ)かしたもので、若旦那の方から婿入りの形にするために、地境(じざかい)の畠を潰しまして、見事な離家(はなれ )が一軒建ちました位で、そのほか着物は、福岡一の京屋呉服店から仕立てて来る。お料理の方も昨日(きのう)から、やはり福岡一の魚吉(うおきち)とい う仕出し屋が持ち込んで騒いでいるという勢いで、後家さんの気張りようというたなら大したもので御座いました。  ――ところが昨日(きのう)の演説会での若旦那様のお役目というのはホンのチョットで、どんなに遅うなっても二時までには間違わずに帰ると云いおいて 行かれたので御座いますが、とやかく致しておりますうちに三時が過ぎましても、お帰りの姿が見えませぬ。若旦那はこのような事は決して御間違いにならぬ 性分で御座いましたので、私は年寄役に、チョットこの事を不審を打ちますと皆の者は「おおかた演説の初まりが遅うなったとじゃろう」なんぞと申しまして 格別気にかけませなんだ。しかし今までにこのような事は一度も無いので、折柄が折柄では御座いますし、私も心配せぬでは御座いませんでしたが、ツイ忙( せわ)しいのに紛(まぎ)れておりますと、そのうちに日和癖(ひよりぐせ)で、空が一面に曇って参りまして、長い春の日が俄(にわ)かに夕方のように暗 くなりました。すると、それで気がついたものと見えまして、明日(あす)からは母親のお八代さんが、濡れ手を拭き拭き私を物蔭に呼びまして「二十歳(は たち)にもなっとるけん間違いはなかろうが、まだ帰らぬ模様(ごと)ある故(けん)、そこいらまで見に行ってくれまいか」という頼みで御座います。私も ちょうどそう思うているところで御座いましたけに、やりかけておりました蒸籠(せいろ)の修繕(つくろい)を片づけまして、煙草を一服吸うてから草鞋穿 (わらじば)きのまま出かけましたのが、かれこれ四時頃で御座いましつろうか。軽便鉄道(けいべん)で西新町(にしじんまち)まで行きまして、今川橋の 電車の行き詰りの処に、煮売屋(にうりや)を開いております私の弟の処へ立ち寄りまして「うちの若旦那を見かけなんだか」と問(たず)ねますと「おお… …その若旦那なら、今から二時間ばかり前にここを通って、軌道には乗らずに歩いて西の方へ行かっしゃった。初めて大学の服をば着て御座るのを見た故(け ん)、二人が表に出て、しばアらく見送っておった。良(え)え婿どんじゃなア」と夫婦で申します。  ――若旦那は平生(ふだん)からこの軌道の煙のにおいがお嫌いだそうで、高等学校に行かっしゃる時も運動になるからちうて、毎日毎日姪の浜から田圃( たんぼ)伝いに歩かっしゃった位で御座います。しかし、それにしても今川橋から姪の浜までは一里そこらで御座いますから、二時間もかかる筈はないが…… と心配しいしい帰りかけましたのが四時半頃で御座いましつろうか。国道沿いの軌道伝いに帰って参りましたところが、ちょうど姪浜(ここ)から程近い道傍 (みちばた)の海岸側に在る山の裾に石切場が御座います。切っております石は姪浜石(めいのはまいし)と申しまして黒い柔かい石で、お帰りに御覧になれ ばお解りになりますが、福岡の方から参りますにも、又、こっちから福岡の方角に出ますにも、是非とも通らなければならぬ処で御座います。……あの石切場 の石が屏風のように突立って、西日を赤々と受けております奥の方の薄暗い処へ、四角い帽子を冠った洋服の姿がチラリと動いて見えたように思いました。  ――私は眼が悪う御座いますが、これこそと思って近寄って見ますと、案(あん)の定(じょう)若旦那様で、高岩の蔭に腰をかけて、何か巻物のようなも のを見ておいでになります。私は、そこいらに積み重ねてある切石の上を伝うて、ちょうど若旦那の頭の上に出ましたので、ソロ――ッと首を伸ばして覗いて 見ますと、それは長い長い巻物の途中と思われる処で御座いましたが、不思議なことには、それは只の白い紙ばかりで、何一つ書いて無いもののように見えま した。しかし若旦那の眼には、何か見えておりましたらしく、その白い処を一心になって見て御座る様子で御座います。  ――私は呉様のお家に祟(たた)る絵巻物があるという事をかねてから噂には聞いておりました。けれどもそれはもう余程大昔の事で、今の世の中に、その ような事があろう筈はない。あっても話ばかりと思うておりましたけに、真逆(まさか)その巻物がソレであろうとは夢にも思いつきません。やはり眼が悪い のだろうと思いまして、若旦那に気取(けど)られぬように、出来るだけ顔を近付けて見ましたけれども、白い紙はやはり白い紙で、いくら眼をこすりまして も、物が書いてある模様は見えません。  ――サア私は不思議でならなくなりました。若旦那が何を見て御座るのか、一つ聞いて見ようと思いますと、急いで岩角を降りました。そうしてワザと遠廻 りをして、若旦那の前に出てヒョッコリ顔を合わせますと、若旦那は私が近寄りましたのに気もつかれぬ様子で、半開きの巻物を両手に持ったまま、西の方の 真赤になった空を見て何かボンヤリと考えて御座るようで御座います。そこで私が咳払いを一つ致しまして「モシ若旦那」と声をかけますと、ビックリさっし ゃった様子で、私の顔をツクヅク見ておいでになりましたが「おお、仙五郎か。どうしてここへ来た」と初めて気が附いたようにニッコリ笑われますと、裏向 きにして持って御座った巻物を捲き納めながら、グルグルと紐(ひも)で巻いてしまわれました。私はその時若旦那が、何か余程大切な事を考え御座ったもの とばかり思っておりましたから、何の気もつかずに、お八代さんが心配して御座る事を話しまして「一体それは何の巻物で御座いますか」と手に持って御座る のを指して尋ねました。そうすると、又いつの間にか背振山(せぶりやま)の方をふり返って、何か考えて御座った若旦那様は、又、ハッとしたように私の顔 と、巻物とを見比べておられましたが「これかね。これは僕がこれから仕上げねばならぬ巻物で、出来上ったら天子様に差し上げねばならぬ大切な品物だ。誰 にも見せる訳に行かん」と云い云い外套の下の洋服のポケットにお入れになりました。  ――私はいよいよ訳がわからぬようになりましたが「しかし、その中には何が書いて御座いますので……」と申しますと、若旦那は心持ち赤くなられまして 、苦笑いをしながら「それは今にわかる。とても面白いお話と、恐ろしい絵が描(か)いてある。僕達が式を挙げる前に是非とも見ておかねばならぬものだと その人が云われた……今にわかる……今にわかる……」と云われました。私は何だか訳がわかったような、わからぬような妙な気持ちになりましたが、しかし 、その若旦那のものの仰言(おっしゃ)りようが、何とのう上(うわ)の空(そら)で、平生(いつも)とは余程違うて御座る事に気が附いて参りましたので 、執拗(しつこい)ようでは御座いましたが今一度念のために「ヘエー。そのようなものを誰が差し上げました」と尋ねますと、又も穴のあく程、私の顔を凝 視(みつめ)ておられました若旦那様は、やがて又、ハッと正気づかれたように眼を丸くして、二三度パチパチと瞬(またたき)をされました。そうして何を 考えられましたものか、すこし涙ぐんで口籠(くちごも)りながら「これを僕に呉(く)れた人かね……それは死んだお母さんの知り合いの人で、お母さんか ら秘密に預かった巻物を私に返しに来たのだ。その人は又そのうちにキット私にめぐり会おう。名前はその時に云って聞かせよう……と云ったきりで、どこか へ消え失せてしまったが、私はその人が誰だかチャンと知っている。しかし……まだ何も云われん云われん。お前もこの事を他人に云う事はならん。よいか… …サア行こう行こう」と云われるうちに若旦那は俄(にわか)にソワソワとなられて、石の上を飛び飛びに往来に出て、私の先に立ってズンズンお歩きになり ましたが、そのおみ足の早かった事……まるで物に取り憑(つ)かれたようで、平生(いつも)とまるで違うておりました。今から思いますと、あの時からも う、いくらか妙な萌(きざ)しがありましたようで……。  ――若旦那が家へお着きになりますと、すぐにお八代さんに「只今……遅うなりました」と云われましたが、お八代さんが「仙五郎に会いなすったか」と尋 ねますと「ハイ。石切場の所で会いました。今そこに帰って来ております」と云うて、うしろから這入って来た私を指示(ゆびさ)されまして、サッサと離家 (はなれ)の方へ行かれました。お八代さんは、それで安心したらしく、私には別に何にも尋ねずに、唯「御苦労」を云うただけで、横の板張に親椀(おやわ ん)を並べて拭いていたオモヨさんに眼顔で、差図(さしず)をしますと、オモヨさんは大勢に見られながら、恥かしそうに立上って、若旦那の後から鉄瓶を 提(さ)げて、離家の方へ行きました。  ――それからもう一つ、これは後から訳が判ったように思うので御座いますが、日が暮れるまえにチョット妙な事が御座いました。……私はそれから裏口の 梔子(くちなし)の蔭に莚(むしろ)を敷きまして、煙管(きせる)を啣(くわ)えながら先刻(さいぜん)の蒸籠(せいろ)の繕(つくろ)い残りを綴(つ づ)くっておりましたが、そこから梔子の枝越しに、離家の座敷の内部(ようす)が真正面(まむき)に見えますので、見るともなく見ておりますと、若旦那 は離家のお座敷の机の前で着物を着換えさっしゃってから、オモヨさんが入れたお茶を飲みながら、何かしらオモヨさんに云い聞かせて御座るようで……硝子 (ガラス)雨戸の中ですから声はわかりませぬが、お顔の色が平生(いつも)になく青ざめて、眉がヒクヒクと動いているあんばいは、まるで何か叱って御座 るようにも見えましたが、しかしよく気をつけて見ますと、そうでも御座いません。当の相手のオモヨさんはその前で洋服を畳みながら、赤い顔をして笑い笑 い「イヤイヤ」と頭を横に振っているようで、まことに変なアンバイで御座いました。  ――ところがそれを見ると若旦那はいよいよ青い顔になられまして、オモヨさんにピッタリとニジリ寄って行かれました。そうしてここから見えます、あの 三ツ並んだ土蔵(おくら)の方角を指さして見せながら、片手をオモヨさんの肩にかけて、二三度ゆすぶられますと、最前から火のように赤うなって身体(か らだ)をすぼめていたオモヨさんが、やっとのこと顔をあげて、若旦那と一緒に土蔵(おくら)の方を見ましたが、やがて嬉しいのか悲しいのか解らぬような 風付(ふうつ)きで、水々しい島田の頭をチョットばかり竪(たて)に振ったと思うと、首のつけ根まで紅くなりながら、ガックリとうなだれてしまいました ……まるで新派の芝居でも見ておりますようなアンバイで……ヘイ……。  ――するとその態度(ようす)をジット見て御座った若旦那は、オモヨさんの肩に手をかけたまま中腰になって硝子(ガラス)雨戸越しにそこいらをジロジ ロと見まわして御座るようでしたが、やがて軒先(のきさき)の夕空を見上げながら、思い出したように白い歯を出して、ニッタリと笑われました。そうして 赤い舌を出してペロペロと舌なめずりをさっしゃったようでしたが、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いました事というものは、思わずゾッと致しました位 で……ヘイ……けれども真逆(まさか)、それがあのような事の起る前兆(まえおき)とは夢にも思い寄りませなんだ。ただ学問のある人はあのような奇妙な 素振りをするものか……と思い思い忙(せわ)しさに紛(まぎ)れて忘れておりましたような事で……ヘイ……。  ――それから昨晩、家中(うちじゅう)の者が一人残らず寝静まってしまいましたのが午前の二時頃の事で御座いましたろうか。花嫁御のオモヨさんと、母 親のお八代さんとは母屋(おもや)の奥座敷に……それから花婿どんの若旦那と、親代りの附添役になりました私は、離家(はなれ)に床を取って寝(やす) みました。尤(もっと)も私は若旦那よりもズット遅れまして、十二時過ぎに湯に這入りまして、離家の戸締りを致しますと、若旦那のお次の間の、茶の間に なっている処へ床を取って寝みましたが、年寄りの癖で、今朝(けさ)ほど、まだ薄暗いうちに眼が醒めましたので、便所へ行こうと思いまして、二方硝子( ガラス)雨戸の薄ら明りを便(たよ)りに若旦那のお室(へや)の前の縁側まで来ますと、そこの新しい障子が一枚開いて、その前の硝子雨戸が又一枚開いて あります。それからお室の中を覗きますと、寝床の中に若旦那のお姿が見えません。……ハテ妙な事……と思いますとチョット胸騒ぎが致しましたが、外は小 雨が降っておりましたので、新しい台所の上り口から自分の下駄を持って参りまして、飛び石伝いに母屋の方へ参りますと、奥座敷の戸袋の処が一枚開いて、 そこにすこしばかり砂のついた下駄の跡が薄明りなりに見えるようで御座います。私はそこで又チョット考えましたが、間もなく思い切って下駄を脱いで、抜 き足さし足で廊下を伝って行って、奥座敷の硝子障子を覗き込みますと、暗い電燈の下に、お八代さんは片手を投げ出して寝ておりますが、その横に敷いてあ るオモヨさんの寝床は藻抜(もぬ)けの殻で、夜具が裾の方に畳み寄せてありまして、緋(ひ)ぐくしの高枕が床のまん中に置いてある切りで御座います。  ――私はその時にようやっと最前日暮れ方に見た事を思い出しまして……ナアンダ、そんな事だったか。それなら別段心配せんでもよかったに……と、どう やら胸を撫で卸(おろ)しました。……が……しかし又考えてみますと、この道ばかりは別とはいえ、あの若旦那のなさる事にしてはチョット様子が可怪(お か)しいと気がつきましたので、又、何とのう胸騒ぎがし初めました。やっぱり虫が知らせるというもので御座いましつろうか……とにかく自分の手落ちにな ってはならぬ。皆が起きぬうちに……と思いましたから、お八代さんを起したので御座いますが、私がオモヨさんの寝床を指さしまして、コレコレと申します と、眼をこすっておりましたお八代さんはハッとした様子で……「この頃一郎が、何か巻物のようなものをば持っとるのを見かけはせんじゃったか」……と不 意に妙な事を尋ねながら、寝床の上にピタリと座り直しました。私は、しかし、その時までは何も心付きませんので「……ヘエ……昨日(きのう)、石切場で 会いました時に、何か存じませんが白い紙ばかりの、長い巻物を読んで御座ったようで……」と申しましたが、その時のお八代さんの血相の変りようばっかり は今でも忘れません……「又出て来たか――ッ」とカスレたような声で申しますと、唇をギリギリと噛んで、両手を握り固めてブルブルと慄(ふる)わして、 眼を逆様(さかさま)に釣り上げて、チョット取り詰めた(逆上喪神の意)ようになりました。私は何事か判らぬままに胆(きも)を潰(つぶ)しまして、尻 餅(しりもち)をついたまま見ておりますと、やがてお八代さんは気を取り直した様子で、涙をハラハラと流したのを袂(たもと)で拭い上げまして、泣き笑 いのような顔をしながら「イヤイヤ。私の思い違いかも知れぬ。お前の見違いかも知れぬ。とにかくどこに居るか探しておくれ」と云うて立ち上りました。そ の時はもう平生(いつも)とかわらぬ風付(ふうつ)きで、先に立って縁側から降りて行きましたが、実はよほど周章(うろた)えて御座ったと見えまして、 跣足(はだし)で表口の方へ行かっしゃる後から、私が下駄を穿(は)いて蹤(つ)いて行きました。  ――小雨はもうその時には降りやんでおりましたようですが、間もなく離家(はなれ)の前の……ここから見えますあの一番右側の三番土蔵(ぐら)の前ま で来ました時に、私は土蔵(くら)の北向きになっている銅張(あかがねば)りの扉(と)が、開いたままになっているのに気が付きまして、先へ行くお八代 さんを引止めて指をさして見せました。あとから考えますとこの三番土蔵は、麦秋(むぎ)頃まで空倉(あきぐら)で、色々な農具が投げ込んでありまして出 入りが烈(はげ)しゅう御座いますので、若い者がウッカリして窓を明け放しにしておく事がチョイチョイ御座いました。この時なぞもそうだったかも知れま せぬので、別に不思議がる事はなかった筈で御座いますが、昼間の事を思い出しましたせいか、思わずハッとして立ち止りましたので……するとお八代さんも うなずきまして、土蔵(くら)の戸前の処へまわって行きましたが、内側からどうかしてあると見えまして、土戸(つちど)は微塵(みじん)も動きません。 すると、お八代さんは又うなずいて、すぐ横の母屋の腰板に引っかけてある一間半の梯子(はしご)を自分で持って来て、土蔵の窓の下にソッと立てかけて、 私に登って見よと手真似で云いつけましたが、その顔付きが又、尋常で御座いません。その上に、その窓を仰いで見ておりますと、何かチラチラ灯火(あかり )がさしている模様で御座います。  ――私は御承知の通り大の臆病者で御座いますから、どうも快(よ)い心地が致しませんでしたが、お八代さんの顔付きが、生やさしい顔付では御座いませ んので、余儀なく下駄を脱ぎまして、尻を端折(から)げまして、梯子を登り詰めますと、その窓の縁に両手をかけながら、ソロッと中の様子を覗いたので御 座いますが……覗いている中(うち)に足の力が抜けてしもうて、梯子が降りられぬようになりました。それと一緒に窓の所にかけておりました両手の力が無 くなりましたようで、スッテンコロリと転げ落ちますと、腰をしたたかに打ちまして、立ち上る事も逃げ出す事も出来なくなりました。  ――ヘイ。その時に見ました窓の中の光景(ありさま)は、一生涯忘れようとして忘れられません。そのもようを申しますと、土蔵(くら)の二階の片隅に 積んでありました空叺(あきがます)で、板張りの真中に四角い寝床のようなものが作ってありまして、その上にオモヨさんの派手な寝巻きや、赤いゆもじが 一パイに拡げて引っかぶせてあります。その上に、水の滴(したた)るような高島田に結(ゆ)うたオモヨさんの死骸が、丸裸体(まるはだか)にして仰向け に寝かしてありまして、その前に、母屋(おもや)の座敷に据えてありました古い経机(きょうづくえ)が置いてあります。その左側には、お持仏(じぶつ) 様の真鍮(しんちゅう)の燭台が立って百匁蝋燭(めろうそく)が一本ともれておりまして、右手には学校道具の絵の具や、筆みたようなものが並んでいるよ うに思いましたが、細かい事はよく記憶(おぼ)えませぬ。そうしてそのまん中の若旦那様の前には、昨日(きのう)石切場で見ました巻物が行儀よく長々と 拡げてありました……ヘイ……それは間違い御座いませぬ。たしかに昨日見ました巻物で、端(はじ)の金襴(きんらん)の模様や心棒(軸)の色に見覚えが 御座います。何も書いてない、真白い紙ばかりで御座いましたようで……ヘイ……若旦那様はその巻物の前に向うむきに真直に座って、白絣(しろがすり)の 寝巻をキチンと着ておられたようで御座いますが、私が覗きますと、どうして気(け)どられたものか静かにこちらをふり向いてニッコリと笑いながら「見て はいかん」という風に手を左右に振られました。尤も、斯様(かよう)にお話は致しますものの、みんな後から思い出した事なので、その時は電気にかかった ように鯱張(しゃちば)ってしまって、どんな声を出しましたやら、一切夢中で御座いました。  ――お八代さんはその時に私を抱え起しながら何か尋ねたようで御座いますが、返事を致しましたかどうか、よく覚えませぬ。土蔵の窓を指(ゆびさ)して 何か云うておったようにも思いますが……そうするとお八代さんは何か合点(がてん)をしたようで、倒れかかった梯子を掛け直して自分で登って行きました 。私は止めようとしましたが腰が立たぬ上に歯の根が合わず、声も出ませぬので、冷い土の上に、うしろ手を突いたまま見上げておりますと、お八代さんは前 褄(まえづま)をからげたままサッサと梯子を登って、窓のふちに手をかけながら、矢張(やっぱ)り私と同じようにソロッと覗き込みました。……が……そ の時のお八代さんの胆玉(きもたま)の据(す)わりようばっかりは、今思い出しても身の毛が竦立(よだ)ちます。  ――お八代さんは窓から、中の様子をジッと見まわしておりましたが「お前はそこで何事(なんごと)しおるとな」と落付いた声で尋ねました。そうすると 中から若旦那様が、いつもの通りの平気な声で「お母さん……ちょっと待って下さい。もうすこしすると腐り初めますから……」と返事なさるのがよく聞えま す。四囲(あたり)がシンとしておりますけに……そうするとお八代さんは、チョット考えておるようで御座いましたが「まあだナカナカ腐るもんじゃない。 それよりも最早(もう)夜が明けとる故(けん)、御飯をば喰べに降りて来なさい」と云いますと、中から「ハイ」と云う返事がきこえまして、若旦那が立上 られた様子で、窓際に映っている火影(ほかげ)がフッと暗くなりました……が……これが現在の娘の死骸を眼の前に置いた母親の言えた事で御座いましょう か……それから、お八代さんは急いで梯子から降りて来て、私に「お医者お医者」と云いながら、土蔵(くら)の戸前の処に走って行きましたが……お恥しい 事ながら、その時は何の事やら解りませんでしたので、又、解ったにしたところが、腰が抜けておりますから行かれもしません。只、恐ろしさの余り、立って も居てもいられずに慄(ふる)えておりましたようで御座います。  ――土蔵の戸前が開きますと、中から若旦那が片手に鍵を持って、庭下駄を穿(は)いて出て来られて、私共を見てニッコリ笑われましたが、その眼付きは もう、平常(いつも)と全く違うておりました。待ちかねていたお八代さんは、その手からソッと鍵を取り上げて、何か欺(だま)し賺(すか)すような風付 (ふうつ)きで、耳に口を当てて二言三言云いながら、サッサと若旦那の手を引いて、離家(はなれ)に連れ込んで寝かして御座るのが、私の処からよく見え ました。  ――それからお八代さんは引返して、土蔵(くら)の二階へ上って、何かコソコソやっているようで御座いましたが、私はその間、たった一人になりますと 、生きた空もない位恐ろしゅうなりましたので、這うようにして土蔵のうしろの裏木戸まで来まして、そこに立っている朱欒(じゃがたら)の樹に縋(すが) り付いて、やっとこさと抜けた腰を伸ばして立ち上りました。すると頭の上の葉の蔭で、土蔵の窓の銅張(あかがねば)りの扉がパタンと閉(し)まる音が致 しましたから、又ギックリして振り返りますと、今度は土蔵の戸前にガッキリと鍵をかけた音が致しまして、間もなく左手に、巻物をシッカリと掴んだお八代 さんが裸足(はだし)のまま髪を振り乱して離家の方へ走って行きました。そうして泥足のまま縁側から馳け上りまして、たった今寝たばかりの若旦那を引き 起して巻物をさしつけながら恐ろしい顔になって、何か二言三言責め問うているのが、もう明るくなった硝子(ガラス)戸越しによく見えました。  ――若旦那はその時に、昨日(きのう)の石切場の方を指して、頭を振ったり、奇妙な手真似や身ぶりを交(ま)ぜたりして、何かしら一所懸命に話して御 座るように見えました。そのお話はよく聞いてもおりませんでしたし、六ヶ敷(むずかし)い言葉ばかりで、私共にはよく判りませんでしたが「天子様のため 」とか「人民のため」とかいう言葉が何遍も何遍も出て来たようで御座いました。お八代さんも眼をまん丸くしてうなずきながら聞いているようで御座いまし たが、そのうちに若旦那はフイと口を噤(つぐ)んで、お八代さんが突きつけている巻物をジイッと見ていられたと思うとイキナリそれを引ったくって、懐中 (ふところ)へ深く押込んでしまわれました。するとそれを又お八代さんは無理矢理に引ったくり返したので御座いましたが、あとから考えますと、これが又 よくなかったようで……若旦那様は巻物を奪(と)られると気抜けしたようになって、パックリと口を開いたまま、お八代さんの顔をギョロギョロと見ておら れましたが、その顔付きの気味のわるかった事……流石(さすが)のお八代さんも怖ろしさに、身を退いて、ソロソロと立ち上って出て行こうとしました。す るとその袖(たもと)を素早く掴んだ若旦那様は、お八代さんを又、ドッカリと畳の上に引据えまして、やはりギョロギョロと顔を見ておられたと思うと、さ も嬉しそうに眼を細くしてニタニタと笑われました。  ――その顔を見ますと、私は思わず水を浴びせられたようにゾッとしました。お八代さんも慄え上ったらしく、無理に振り切って行こうとしますと、若旦那 はスックリと立ち上って、縁側を降りかけていたお八代さんの襟髪(えりがみ)を、うしろから引っ捉えましたが、そのまま仰向けに曳(ひ)き倒して、お縁 側から庭の上にズルズルと曳(ひ)きずり卸(おろ)すと、やはりニコニコと笑いながら、有り合う下駄を取り上げて、お八代さんの頭をサモ気持快(よ)さ そうに打って打って打ち据えられました。お八代さんは見る見る土のように血の気(け)がなくなって、頭髪がザンバラになって、顔中にダラダラと血を流し て土の上に這いまわりながら死に声をあげましたが……それを見ますと私は生きた心が無くなって、ガクガクする膝頭を踏み締め踏み締め腰を抱えて此家(こ こ)へ帰りまして「お医者お医者」と妻(かない)に云いながら夜具を冠(かぶ)って慄えておりました。そうしたらそのお医者の宗近(むねちか)どんが、 戸惑(とまど)いをして私の家へ参りましたので「呉さんの処(とこ)だ呉さんの処(とこ)だ」と追い遣りました。  ――私が見ました事はこれだけで御座います……ヘイ……皆正真正銘で、掛け値なしのところで御座います。あとから聞きますと、お八代さんの叫声(さけ びごえ)を聞きつけた若い者が二三人起きて参りまして、若旦那を押えつけて、細引で縛ったそうで御座いますが、その時の若旦那の暴れ力というものは、迚 (とて)も三人力や五人力ではなかったそうで、細引が二度も引っ切れた位だそうで御座います。それをやっとの事で動けないようにして、離家(はなれ)の 床柱の根方(ねもと)へ括(くく)り付けますと、若旦那は疲れが出たらしく、そのままグウグウ眠って御座ったそうですが、やがてその中(うち)に又眼が 醒めますと不思議にも、若旦那の様子がガラリと違いまして、警察の人が物を尋ねられても、ただ何という事なしにキョロキョロして御座るばかり、返事も何 もなさらなかったそうで御座います。……この前、直方(のうがた)でも、あの病気が出たそうで御座いますが、その時はやはり大学の先生のお調べで、麻痺 薬(まやく)をかけられていた事が判りましたそうで、その後も何とも御座いませんので連れて来たと、お八代さんは云うておりましたが、血統(ちすじ)と いうものは恐ろしいもので今度の模様を見て見ますと、やはりあの巻物の祟りに違いないようで御座います。  ――もっともこの巻物の祟りと申しますのも久しい事出ませんので、私共も、どんな事か存じません位で御座いますが……何でもあの巻物は、向うに屋根だ け見えております……あの如月寺(にょげつじ)というお寺様の、御本尊の腹の中に納っておりましたものだそうで、それを見ますと、呉家の血統の男に生れ たものならば、きっと正気を取り失いまして、親でも姉妹(きょうだい)でも、又は赤の他人でも、女でさえあれば殺すような事を致しますのだそうで、その 由来(ことわけ)を書いたものが、あのお寺にあるとか……ないとか云うておるようで御座いますが……その巻物が、どうして若旦那様のお手に這入りました ものか不思議と申すほか御座いません。……ヘイ……あの如月寺の只今の御住持様は、法倫(ほうりん)様と申しまして、博多の聖福寺(しょうふくじ)様と 並んだ名高いお方だそうで御座いますから、こんな因縁事なら何でもおわかりの事と思いますが……ヘイ……もう余程のお年寄りで、鶴のように瘠(や)せた お身体(からだ)に、眉と髯(ひげ)が、雪のように白く垂れ下がった、それはそれは、有り難いお姿の、和尚(おしょう)様で御座います。何ならお会いに なりまして、お話をお聞きになって御覧なされませ。嬶(かかあ)に御案内を致させますから……。  ――ヘイ……お八代さんは今では半狂乱(きちがい)のようになったまま足を挫(くじ)いて床に就いているそうで御座います。頭の怪我(けが)は大した 事はないとの事で御座いますが、云う事は辻褄(つじつま)が合うたり合わなんだりするそうで、道理(もっとも)とも何とも申しようが御座いません。腰が 抜けておりますので、お見舞いにも行かれませんで……。  ――私が宗近(医師の姓)へ走らなかったので万事が手遅れになったように申した者もあったそうで御座いますが、これは無理で御座います。オモヨさんが 絞め殺されたのは今朝の三時から四時の間だと、宗近さんが私の腰を診(み)に来た時に云うておりました。蝋燭の減り加減がやっぱりそれ位の見当で御座い ましたそうで。……ヘエ……あとは只今お話し申し上げた通りで御座います。お八代さんがたしかにしておれば何もかもわかる筈で御座いますが、今も申上げ ました通り、若旦那を怨(うら)んだような事を云うかと思えば……早う気を取り直してくれよ。お前一人が杖柱(つえはしら)……なぞと夢うつつに申して おりますそうで、トント当てになりませぬ。  ――まだ警察の方は一人も私の処へ尋ねてお出でになりませぬ。……と申しますのは、この騒動に一番先に気が付きました者は、お八代さんの金切声をきい て馳け付けた、泊り込みの若い者しか居りませぬ。警察の方はそれから後(のち)の話を詳しく調べてお帰りになりましたそうで……私はもうその前から用心 を致しまして、もし自分が疑われてはならぬと思いましたから、宗近先生に口止めを頼みましたが僥倖(しあわせ)と大騒動に紛(まぎ)れて、誰が宗近先生 を招(よ)びに行ったやら、わからずにおりましたところへ、思いがけない先生のお尋ねでもうもう恐れ入りました。ヘイ。何一つ隠し立ては致しません。な ろう事なら先生のお力でこの上警察に呼ばれぬようにお願い出来ますまいか。この通り腰が抜けておりますし、警察と聞いただけでも私は身ぶるいが出る性分 で御座いますから……ヘイ……。 ◆第二参考 青黛山如月寺縁起(せいたいざんにょげつじえんぎ)        (開山一行上人(いちぎょうしょうにん)手記)        ――註――同寺は姪浜(めいのはま)町二十四番地に在り。呉家四十九代の祖虹汀(こうてい)氏の建立に係る――  晨(あした)に金光を鏤(ちりば)めし満目(まんもく)の雪、夕(ゆうべ)には濁水(じょくすい)と化(け)して河海(かかい)に落滅す。今宵(こん しょう)銀燭を列(つら)ねし栄耀(えいよう)の花、暁には塵芥(じんかい)となつて泥土に委(い)す。三界は波上の紋(もん)、一生は空裡(くうり) の虹とかや。況(いわ)んや一旦の悪因縁を結んで念々に解きやらず。生きては地獄の転変に堕在し、叫喚鬼畜の相を現(げん)し、死しては悪果を子孫に伝 へて業報(ごっぽう)永劫の苛責に狂はしむ。その懼怖(くふ)、その苦患(くげん)、何にたとへ、何にたくらべむ。  こゝに此(この)因果を観じて如是(にょぜ)本末の理趣(ことわり)を究竟(くきょう)し、根元(こんげん)を断証して菩提心に転じ、一宇の伽藍(が らん)を起して仏智慧(ぶつちえ)を荘儼(しょうごん)し奉(たてまつ)り、一念称名(しょうみょう)、人天咸供敬(にんてんげんくぎょう)の浄道場と なせる事あり。その縁起を源(たず)ぬるに、慶安の頃ほひ、山城国、京洛、祇園の精舎(しょうじゃ)に近く、貴賤群集の巷(ちまた)に年経て住める茶舗 美登利屋(みどりや)といふがあり。毎年宇治の銘(めい)を選んで雲上(うんじょう)に献(たてまつ)り、「玉露」と名付けて芳(ほう)を全国に伝ふ。 当主を坪右衛門(つぼえもん)と云ひ一男三女を持つ。男(なん)を坪太郎(つぼたろう)と名づけ、鍾愛(しょうあい)此上無かりしが、此男子(なんし) 、生得商売(あきない)の道を好まず、稚(いとけな)き時より宇治黄檗(おうばく)の道人、隠元(いんげん)禅師に参じて学才人に超えたり。かたはら柳 生の剣法に達し、又画流を土佐派に酌(く)み、俳体を蕉風(しょうふう)に受けて別に一風格を成す。長じて空坪(くうへい)と号し、ひたすら山水を慕ひ て復(また)、家を嗣(つ)ぐの志無し。然(しか)れども年長ずるに随(したが)ひ他に男子無きの故を以て妻帯を強ひらるゝ事一次ならず、学業未到の故 を以て固辞すと雖(いえども)、間(かん)葛藤を避くるに遑(いとま)あらず。遂(つい)に、父坪右衛門の請(こい)により隠元老師の諭示を受くるに到 るや、心機一転する処あり、 「二十五の今日まで聞かず不如帰(ほととぎす)」  といふ一句を吾家の門扉に付して家を出で法体(ほったい)となりて一笠一杖(いちりゅういちじょう)に身を托し、名勝旧跡を探りつゝ西を志す事一年に 近く、長崎路より肥前唐津(からつ)に入り来る。時に延宝二年春四月の末つかた、空坪年二十六歳なり。  空坪此地の景勝を巡りて賞翫する事一方ならず。虹の松原に因(ちな)んで名を虹汀(こうてい)と改め、八景を選んで筆紙を展(の)べ、自ら版に起して 洽(あま)ねく江湖(こうこ)に頒(わか)たん事を念(おも)へり。かくて滞留すること半載(はんさい)あまり、折ふし晩秋の月円(まど)かなるに誘は れて旅宿を出で、虹の松原に上る。銀波、銀砂に列(つら)なる千古の名松は、清光の裡(うち)に風姿を悉(つ)くして、宛然(えんぜん)、名工の墨技( ぼくぎ)の天籟(てんらい)を帯びたるが如し。行く事一里、漁村浜崎(はまさき)を過ぎて興尚(なお)尽きず。更に流霜(りゅうそう)を逐(お)ふ事半 里にして夷(えびす)の岬(はな)に到り、巌角に倚(よ)つて遥かに湾内の風光を望み、雁影を数へつゝ半宵(はんしょう)に到りぬ。  折しもあれ一人の女性(にょしょう)あり。年の頃二八には過ぎじと思はるゝが、華やかなる袖を飜(ひるがえ)し、白く小さき足もと痛ましげに、荒磯の 岩畳を渡りて虹汀の傍(かたわら)に近づき来り、見る人ありとも知らず西方に向ひて手を合はせ、良久(しばし)祈念を凝(こ)らすよと見えしが、涙を払 ひて両袖をかき抱き、あはや海中に身を投ぜむ気色(きしょく)なり。虹汀駭(おどろ)き馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴ひ、事の仔 細を問ひ訊すに、かの乙女、はじめはひたぶるに打ち泣くのみなりしが、やう/\にして語り出づるやう。妾(わらわ)は此の浜崎といふ処に、呉(くれ)の 某(なにがし)といふ家の一人娘にて六美女(むつみじょ)と申す者に侍(はべ)り。吾家(わがいえ)、代々此処の長をつとめて富み栄え候ひしが、満つれ ば欠くる世の習ひとかや。さるにても亦(また)、世に恐ろしき因縁とこそ申しつれ。昔より吾家に乱心の血脈尽きず。只今に及び候ては、妾唯一人、悲しく も生きて残り居る有様にてさむらふ。  その最初(はじめ)を如何にと申すに、吾家に祖先より伝はれる一軸の絵巻物のはべり。中に美婦人の裸像を描き止(とど)めたり。承(うけたまわ)り及 びたる処によれば、呉家の祖先なにがしと申せし人、最愛の夫人に死別せしを悲しみ、その屍(しかばね)の姿を丹青(たんせい)に写し止(とど)め、電光 朝露の世の形見にせむと、心を尽して描き初(そ)めしが、如何なる故にかありけむ、その亡骸(なきがら)みる/\うちに壊乱(えらん)して、いまだその 絵の半(なかば)にも及ばざるに、早くも一片の白骨と成り果て候ひぬ。あるじの歎き一方(ひとかた)ならず、遂に狂ほしき心地と相成り候ひしを、亡き夫 人の妹くれがし氏(うじ)、いろ/\に介抱し侍りしが力及ばず、遂に夫人と同じ道に入り候ひぬ。その時妹のくれがし氏は、その狂へる人の胤(たね)を宿 し、既に生み月に近き身に候ひしが、同じ歎きを悲しびて、やがて又、命(めい)を終らむばかりなりしを、やう/\に取り止め候ひしとか承り及びて候。  去る程にその折ふし、筑前太宰府、観世音寺(かんぜおんじ)の仏体奉修の為め、京師(けいし)より罷下(まかりくだ)り候ひし、勝空(しょうくう)と なん呼ばるゝ客僧(かくそう)あり。奉修の事終(お)へて帰るさ、行脚(あんぎゃ)の次(ついで)に此のあたりに立ちまはり給ひしが、此の仔細を聞き及 ばれて不憫(ふびん)の事とや思(おぼ)されけむ。吾家に錫(しゃく)を止(とど)め給ひてその巻物を披見(ひけん)せられ、仏前に引摂結縁(いんじょ うけちえん)し給ひて懇(ねんごろ)に読経供養(どきょうくよう)を賜はりし後(のち)、裏庭に在りし大栴檀樹(だいせんだんじゅ)を伐(き)つて其の 赤肉(せきにく)を選み、手づから弥勒菩薩(みろくぼさつ)の座像を刻(きざ)みて其の胎内に彼(か)の絵巻物を納め、吾家の仏壇の本尊に安置し、向後 (こうご)この仏壇の奉仕と、此の巻物の披見は、此の家の女人のみを以て仕(つかまつ)る可し。そのほか一切の男子の者を構へて近づくる事勿(なか)れ と固く禁(いまし)めて立ち去り給ひぬ。  その後、かの狂へる人の胤(たね)、玉の如き男子なりしが、事無く此世に生まれ出で、長じて妻を迎へ、吾家の名跡(みょうせき)を継ぎ候ひしが、勝空 上人の戒めに依り、仏壇には余人を近づけしめず。閼伽(あか)、香華(こうげ)の供養をば、その妻女一人に司(つかさど)らしめつゝ、ひたすらに現世( げんぜ)の安穏、後生の善所を祈願し侍り。されども狂人の血を稟(う)け侍りし故にかありけむ。この男子壮年に及びて子宝(こだから)幾人(いくたり) を設けし後(のち)、又も妻女の早世に遭(あ)ふとひとしく乱心仕りて相果(あいは)て候。その後代々の男子の中に、折にふれ、事に障(さわ)りて狂気 仕るもの、一人二人と有之(これあり)。その病態(さま)世の常ならず。或(あるい)は女人を殺(あや)めむと致し、又は女人の新墓(にいはか)に鋤鍬 (すきくわ)を当つるなぞ、安からぬ事のみ致し、人々之(これ)を止むる時は、その人をも撃ち殺し、傷つけ候のみならず、吾身も或は舌を噛み、又は縊( くび)れて死するなぞ、代々かはる事なく、誠に恐ろしき極みに侍り。  かやうの仕儀に候へば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ。あるひは男子の身にて彼(か)の絵巻物を窺ひたる祟(たた)りと申し聞え、又は 不浄の女人の、彼(か)の仏像に近づける障(さわ)りかと怪しむなぞ、遠きも近きも相伝へて血縁を結ぶことを忌(い)み嫌ひ候為め、吾家の血統(ちすじ )の絶えなむとする事度々に及び候。さ候へば、あるひは金銀に明かし、又は人を遠き国々に求めて辛(から)くも名跡を相立て候ひしが、近年に及び候ては 下賤乞食(こつじき)に到るまでも、吾家の縁辺と申せば舌をふるはし身をわなゝかす様に侍り。只今にては血縁の者残らず絶え果て、妾(わらわ)、唯一人 と相成りて候。わけても妾の兄御前(ごぜん)二人は、此程引続きて悩乱の態(てい)となり、長兄は介隈(かいわい)の墓所を発(あば)き、次兄は妾を石 にて打たむと仕るなぞ、恐ろしき事のみ致したる果(はて)、相次ぎて生命(いのち)を早め侍りしばかりにて、さる噂、一際(ひときわ)高まりたる折節に 候へば大抵(およそ)の家の者は暇(いとま)を請ひ去り、永年召し使ひたる者も、妾を見候てため息を仕るのみ。はか/″\しく物云ふ者すらなく、わびし くも情なき極みと相成り果て候。  さる程に、かゝる折柄、此の唐津藩の御家老職、雲井なにがしと申す人、此事を聞き及ばれ候ひて、御三男の喜三郎となん云へる御仁(ごじん)をば、妾が 婿がねに賜はり、名跡を嗣(つ)がせらる可き御沙汰あり。召し使ひたる男女(なんにょ)共、あたゞに立ち騒ぎ打ち喜びて、かほどの首尾(しあわせ)はよ もあらじと、今までに引き換へてさゞめき合ひ候ひしが、そが中に唯一人、妾を守(も)り育て候乳母(めのと)の者、さまで嬉しからぬ面(おも)もちにて 打ち沈み居り候故、その仔細を尋ね候ひしに、ため息して申し侍るやう。這(こ)はゆめ/\喜ばしき御沙汰には候はず、妾の夫にて御屋敷奉公致せる者より 卒度(そと)洩(も)らし参りしやうには、彼(か)の喜三郎と云へる御仁は、雲井様の妾腹の御子にて剣術の達者、藩内随一の聞え高き御方なるが、若き時 より御行跡穏やかならず、長崎御番(ごばん)の御伴(おとも)して彼(か)の地に行かれしより丸山の遊び女(め)に浮かれ、遂(つい)にはよからぬ輩( ともがら)と交(まじわ)りを結びて彼処此処(かしこここ)の道場を破りまはり、茶屋小屋の押し借りするなぞ、狼籍(ろうぜき)の限りを尽して身の置き 処無きまゝに、此程窃(ひそ)かに御帰国ありし趣に候。さりながら御家中の誰あつて、嫁婿の御望みを承るものなきのみならず、蛇、毛虫の如く忌(い)み 恐れ居り候ひし処、当家の事を聞き及ばれ、かく御沙汰ありしものに侍り。のみならず、其のまことの下心は、御事済(おんことず)みの後(のち)、御家老 の御威光をもちて、呉家の物なりを家倉(いえくら)ともに押領せられむ結構とこそ承り候へ。御運とは申せ、力無き事とは申せ、御行末(おんゆくすえ)の 痛はしさを思へば、眼も眩(く)れ、心も消えなむ計(ばか)りと、涙を流して申し候。妾もいかゞはせむと打ち惑ひ侍りしが、かよわき身の詮方(せんかた )もなく、案じ佗(わ)び候ひし折柄、此程の秋の取り入れごと相済み候ひて、稍(やや)落ち付き侍りし今宵(こよい)の事、彼(か)の雲井喜三郎といふ 御仁、御供人(おんともびと)も召し連れ給はず、御羽織袴(おはおりはかま)も召されぬ儘(まま)、唯お一人にて、思ひもかけず吾家へお見えなされ候。  這(こ)は如何にとて皆々走(は)せまどひ、御酒肴(ごしゅこう)取りあへず奥座敷に請(しょう)じ参らするうち、妾も化粧をあらためて御席にまかり 出で侍りしが、彼(か)の御仁体を見奉(みたてまつ)るに、半面は焼け爛(ただ)れて偏(ひと)へに土くれの如く、又残る片側(かたつら)は、眉千切( ちぎ)れ絶え、眥(まなじり)白く出で、唇斜(ななめ)に偏(かたよ)りて、まことに鬼の形(すがた)とや云はむ。剰(あまつさ)へ何方(いずかた)に て召されしものか、御酒気あたりを薫(くん)じ払ひて、そのおそろしさ、身うちわなゝくばかりに侍り。そをやう/\に堪(た)へ忍びて、心も危ふく御酌 (おしゃく)に立ち候ひしに、御盃の数いく程も無きうちに、無手(むず)と妾の手を執(と)り給ひつ。その時、妾、思はず手を引き候ひしに、御盃の中の もの、御膝に打ちこぼれしより、忽(たちま)ち御酒乱の体(てい)とならせ給ひ、押し止(とど)むる乳母を抜く手を見せず討ち放され候。妾は其の間に逃 れ出で、やう/\に此処まで参り侍りしが、かばかり打ち続く吾家の不祥、又は、此身の不倖(ふしあわせ)のがれ方なく、たゞ死なむとのみ思ひ入り侍りし を、かく止(とど)められまゐらせ候。この上は唯(ただ)尼とやならむ。巡礼とやならむ。何国(いずく)の御方か存じ参らせねど、此の上の御慈悲(おん なさけ)に、そのすべ教へて賜はれかしと、砂にひれ伏して声を忍ぶ体(てい)なり。  虹汀聞き果てゝ打ち案ずる事稍久(ややしばし)、やがて乙女を扶(たす)け起して云ひけるやう。よし/\吾に為(せ)ん術(すべ)あり。今はさばかり 歎かせ給ふな。先(ま)づ其の絵巻物を披見して、御身(おんみ)の因果を明らめ参らせむと、六美女の手を曳(ひ)きて立ち去らむとする折しもあれ、松の 陰より現はれ出でし半面鬼相の荒くれ武士、物をも云はず虹汀に斬りかゝる。虹汀、修禅の機鋒(きほう)を以て、身を転じて虚(くう)を斬らせ、咄嵯(と っさ)に大喝一下するに、彼(か)の武士白刃と共に空を泳いで走る事数歩、懸崖の突端より踏み外(はず)し、月光漫々たる海中に陥つて、水烟(すいえん )と共に消え失せぬ。  かくて虹汀は六美女を伴ひて呉家に到り、家人と共に彼(か)の乳母の亡骸(なきがら)を取り収め、自ら法事読経(どきょう)して固く他言を戒(いまし )めつ。さて仏間に入りて人を遠ざけ、本尊弥勒仏(みろくぶつ)の体中より彼(か)の絵巻物を取り出(いだ)し、畏敬(いきょう)礼拝を遂(と)げつゝ 披見するに、美人の五体の壊乱(えらん)、膿滌(のうでき)せる様、只管(ひたすら)に寒毛樹立(かんもうじゅりつ)するばかりなり。すなはち仏前に座 定(ざじょう)して精魂を鎮(しず)め、三昧(さんまい)に入る事十日余り、延宝二年十一月晦日(みそか)の暁の一点といふに、忽然(こつぜん)として 眼(まなこ)を開きて曰(いわ)く、 凡夫の妄執を晴らすは念仏に若(し)くは無し 南無阿弥陀(なむあみだ) 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏/\  と声高らかに詠誦(えいじゅ)する事三遍(べん)にして、件(くだん)の絵巻物を傍(かたわら)の火炉中に投じ、一片の煙と化し了(おわ)んぬ。  かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めて演(の)べけるやうは「吾(われ)、法力によつて、呉家の悪因縁を断つ事を得たり。すなはち此灰を 仏像に納めて三界の万霊と共に供養(くよう)し、自身は俗体となつて、此家に婿となり、勝果(しょうか)を万代に胎(のこ)さむと欲す。家人の思はるゝ 処あらば差し置かず承らまほし」とありけるが、一人も所存を申し出づるもの無く、ひたぶるに国老雲井家の咎(とが)めを懼(おそ)るゝ体(てい)也。虹 汀其心を察し、その日の裡(うち)に厚く労(ねぎら)ひて家人に暇(いとま)を与へ、家屋倉廩(そうりん)を封じて「公儀に返還す。呉坪太(くれつぼた )」と大書したる木札を打ち、唯、金銀、書画の類のみを四駄に負はせて高荷(たかに)に作り、屈竟(くっきょう)の壮夫(わかもの)に口を取らせ、其身 は弥勒の仏像を負ひて呉家の系図を懐(ふところ)にし、六美女の手を引きて、あくる日の昧爽(まだき)に浜崎を立ち出で、東(あずま)の方を志す。折ふ し延宝二年臘月(ろうげつ)朔日(ついたち)の雪、繽紛(ひんぷん)として六美女の名に因(ちな)むが如く、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)五里に亘る 行路の絶勝は、須臾(たちまち)にして長聯(ちょうれん)の銀屏(ぎんぺい)と化して、虹汀が彩管(さいかん)に擬(まが)ふかと疑はる。  かくて稍(やや)一里を出でし頃ほひ、東天漸(ようや)く紅(くれない)ならむとする折しもあれ、後(うしろ)の方に当つて人音(ひとおと)夥(おび ただ)しく近づき来るものあり。虹汀、何事ぞと振り返るに、その数二三十と思しき捕吏(とりて)の面々、手に/\獲物を携(たずさ)へたる中に、彼(か )の海中に陥りし半面鬼相の雲井喜三郎、如何にしてか蘇(よみがえ)りけむ、白鉢巻、小具足、陣羽織、野袴(のばかま)の扮装(いでたち)物々しく、長 刀を横たへて目前に追ひ迫り来り、大音揚(あ)げて罵(ののし)るやう、やをれ悪僧其処(そこ)動くな。此間は汝(なんじ)を大公儀の隠目付(かくしめ つけ)と思ひあやまり、一旦の遠慮に惜しき刃(やいば)を収めしが、其後(そののち)藩命を蒙(こうむ)りて、あまねく汝の素性行跡を探りしに、画工と 佯(いつわ)つて当城下の地形(ちぎょう)を窺(うかが)ふのみならず、法体(ほったい)と装ひて諸国を渡り、有徳(うとく)の家を騙(たばか)つて金 品を掠(かす)め、児女を誘(いざな)ひて行衛を晦(くら)ます、不敵無頼の白徒(しれもの)なる事、天地に照して明らかなり、汝空を翹(かけ)り土に 潜(ひそ)むとも今は遁(のが)るゝに道あるまじ、いでや者輩(ものども)、当藩の物を奪ひ去る無法狼藉(ろうぜき)の坪太はそれよ。女人を誘拐(かど わか)す卑怯未練の賊僧はそれよ。容赦なく踏み込んで召捕れやつと大喝すれば、声を合せて配下の同心、雪を蹴立てゝ勢(きお)ひかゝる。一方は峨々(が が)たる絶壁半天に懸(かか)れり。一面は断崖海に臨みて足もたまらず。背後には繊弱(かよわ)き女人と人馬を控へたり。遁(のが)れつべうもこそあら じと見えつるが、虹汀少しも騒ぐ気色(けしき)なく、負(お)ひ奉りし仏像を馬士(まご)に渡し、網代笠(あじろがさ)の雪を払ひて六美女に持たせつ、 手に慣れし竹杖を突き、衣紋(えもん)を繕(つくろ)ひ珠数(じゅず)を爪繰(つまぐ)りつゝ、しづ/\と引返し進み出でければ、案に違(たが)ひし捕 手の面々、気先を呑まれてぞ見えたりける。  その時虹汀、大勢に打ち向ひて慇懃(いんぎん)に一礼を施しつゝ、咳一咳(がいいちがい)して陳(の)べけるやう、這(こ)は御遠路のところ、まこと に御苦労千万也。かゝる不届(ふとどき)の狼藉者を、かほどの大勢にて御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、まことに感服に堪(た)へたりと云 ふ可し。さは云へ折角の御芳志ならば、今些(すこ)しばかり彼方(かなた)の筑前領まで御見送り賜はりてむや。さすれば御役目滞(とどこ)り無く相済み て、無益(むやく)の殺生(せっしょう)も御座なかる可く、御藩の恥辱とも相成るまじ。此儀如何や。御返答承り度(た)しと言葉爽(さわ)やかに笑(え み)を含めば、一同呆(あき)るゝ事稍久(ややしばし)焉。忽(たちま)ちにして雲井喜三郎は満面に朱を注ぎつ。おのれ口の横さまに裂けたる雑言哉(ぞ うごんかな)。此間こそ酔ひ痴(し)れて不覚をも取りたれ、今日は吾が刀の錆(さび)までもあるまじ。かゝれや物共、相手は一人ぞ。女のほかは斬り棄つ るとも苦しからず。かゝれ/\と刀柄(つか)をたゝけば、応と意気込む覚えの面々、人甲斐(ひとがい)も無き旅僧(たびそう)一人。何程の事やあらむと 侮(あなど)りつゝ、雪影うつらふ氷の刃(やいば)を、抜き連(つ)れ抜き連れ競(きそ)ひかゝる。虹汀さらば詮方(せんかた)なしと、竹の杖を左手( ゆんで)に取り、空拳を舞はして真先(まっさき)かけし一人の刃(やいば)を奪ひ、続いてかゝる白刃を払ひ落し、群がり落つる毬棒(いがぼう)、刺叉( さすまた)を戞矢(かっし)/\と斬落して、道幅一杯に立働らきつゝ人馬の傍(かたわら)に寄せ付けず、其のほか峯打ち当て身の数々に、或は気絶し又は 悶絶して、雪中を転び、海中に陥るなど早くも十数人に及びける。  思ひもかけぬ旅僧の手練(てなみ)に、さしもの大勢あしらひ兼ね、白(しら)み渡つて見えたりければ、雲井喜三郎今は得堪(えた)へず、小癪(こしゃ く)なる坊主の腕立て哉(かな)。いでや新身(あらみ)の切れ味見せて、逆縁の引導(いんどう)渡し呉(く)れむと陣太刀(じんだち)長(なが)やかに 抜き放ち、青眼に構へて足法(そくほう)乱さず、切尖(きっさき)するどく詰め寄り来る。虹汀何とか思ひけむ。奪ひ持ちたる刀を投げ棄て、竹杖軽(かろ )げに右手(めて)に取り直し、血に渇(かっ)したる喜三郎の兇刃に接して一糸一髪(いっしいっぱつ)を緩(ゆる)めず放たず、冷々(れいれい)水の如 く機先を制し去り、切々(せつせつ)氷霜(ひょうそう)の如く機後(きご)を圧し来るに、音に聞えし喜三郎の業物(わざもの)も、大盤石(だいばんじゃ く)に挟まれたるが如く、ひたすらに気息を張つて唖唖(ああ)切歯(せっし)するのみ。虹汀之(これ)を見て莞爾(にっこり)と打ち笑みつ。如何に喜三 郎ぬし。早や悟(さと)り給ひしか。弥陀(みだ)の利剣とは此の竹杖(ちくじょう)の心ぞ。不動の繋縛(けばく)とは此の親切の呼吸ぞや。たとひ百練千 練の精妙なりとも、虚実生死(しょうじ)の境を出でざる剣(つるぎ)は悟道一片の竹杖にも劣る。眼前の不可思議此(かく)の如し、疑はしくは其刀を棄て 、悪心を飜(ひるがえ)して仏道に入り、念々に疑はず、刻々に迷はざる濶達(かったつ)自在の境界に入り給へ。然らずは一殺多生(いっせつたしょう)の 理に任せ、御身(おんみ)を斬つて両段となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死(しょうじ)断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那(せつな )ぞ。如何に/\と詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪(あおざ)め眼(まなこ)血走り、白汗(はっかん)を流して喘(あえ)ぐばかりな りしが、流石(さすが)に積年の業力(ごうりき)尽きずやありけむ。又は一点の機微に転身をやしたりけむ、忽然(こつぜん)衝天(しょうてん)の勇を奮 (ふる)ひ起して大刀を上段真向(まっこう)に振り冠(かむ)り、精鋭一呵(いっか)、電光の如く斬り込み来るを飜(ひら)りと避けつゝ礑(はた)と打 つ。竹杖の冴(さ)え過(あや)またず。喜三郎の眉間(みけん)に当れば、眼(まなこ)くるめき飛び退(の)き様、横に払ひし虚につけ入りたる虹汀、喜 三郎の腰に帯びたる小刀の柄(つか)に手をかくるとひとしく、さらば望みに任せするぞと、云ひも終らず一間余り走り退(の)くよと見えけるが、再び大刀 を振り上げし喜三郎は、そのまま虚空にのけぞりて、仏だふれに仰(あお)のきたふれつ。大袈裟(おおげさ)がけに斬り放されし右の肩より湧き出づる血に 、雪を染めつゝ息絶えける。  此の勢ひに怖れをなしけむ。残りし者は遠く逃れて、逐(お)はむとする者も見えざりければ、虹汀今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸(なきがら)に返し、 掌(たなごころ)を合はせ珠数(じゅず)を揉(も)みつゝ、念仏両三遍唱(とな)へけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像を負(お) ひ取り、人心(ひとごころ)も無き六美女をいたわり慰めつ、笠を傾け、人馬を急がして行く程もなく筑前領に入り、深江(ふかえ)といふに一泊し、翌暁ま だ熄(や)まぬ雪を履(ふ)んで東する事又五里、此の姪の浜に来りて足をとゞめぬ。  虹汀此の所の形相(けいそう)を見て思ふやう。此地、北に愛宕(あたご)の霊山半空に聳(そび)えつゝ、南方背振(せぶり)、雷山(らいさん)、浮岳 (うきだけ)の諸名山と雲烟(うんえん)を連ねたり。万頃(ばんけい)の豊田眼路(めじ)はるかにして児孫万代を養ふに足る可く、室見川(むろみがわ) の清流又杯を泛(うか)ぶるに堪(た)へたり。衵浜(あこめはま)、小戸(おど)の旧蹟、芥屋(けや)、生(いく)の松原の名勝を按配して、しかも黒田 五十五万石の城下に遠からず。正(まさ)に山海地形の粋(すい)を集めたるものと。すなはち従ひ来れる馬士(まご)を養ひて家人となし、田野を求めて家 屋倉廩(そうりん)を建て、故郷京師(けいし)に音信(いんしん)を開きて万代の謀(はかりごと)をなす傍(かたわら)、一地を相して雷山背振の巨木を 集め、自ら縄墨(じょうぼく)を司(つかさど)つて一宇の大伽藍(がらん)を建立(こんりゅう)し、負ひ来りたる弥勒菩薩の座像を本尊として、末代迄の 菩提寺、永世の祈願所たらしめむと欲す。山門高く聳(そび)えては真如実相(しんにょじっそう)の月を迎へ、殿堂甍(いらか)を聯(つら)ねては仏土金 色(こんじき)の日相観(じっそうかん)を送る。林泉奥深うして水碧(あお)く砂白きほとり、鳥啼(な)き、魚躍(おど)つて、念仏、念法、念僧するあ りさま、真(まこと)に末世(まっせ)の奇特(きどく)、稀代(きたい)の浄地とおぼえたり。  かくて  人皇(にんのう)百十一代霊元天皇の延宝五年丁巳(ひのとみ)霜月(しもつき)初旬に及んで其業了(おわ)るや、京師の本山より貧道(ひんどう)を招 き開山住持(じゅうじ)の事を附属せむとす。貧道、寡聞(かもん)浅学の故を以て固辞再三に及べども不聴(ゆるさず)。遂に其の奇特に感じ、荷笈下向( かきゅうげこう)して住職となり、寺号を青黛山如月寺(せいたいざんにょげつじ)と名付く。すなはち翌延宝六年戊午(つちのえうま)二月二十一日の吉辰 (きっしん)を卜(ぼく)して往生講式七門の説法を講じ、浄土三部経を読誦(どくじゅ)して七日に亘る大供養大施餓鬼(だいせがき)を執行(しゅぎょう )す。当日虹汀は自ら座に上り、略して上来の因縁を述べて聴衆に懺悔(ざんげ)し、二首の和歌を口吟(くちずさ)む。 唱  六っの道今は迷はじ六(む)っの文字        み仏の世にくれ竹の杖      坪太郎 和  くれ竹のよゝを重ねてみほとけの        すぐに空(むな)しき道に帰らむ     六美女  続いて貧道座に上り、委(くわ)しく縁起の因果を弁証し、六道(りくどう)の流転(るてん)、輪廻転生(りんねてんしょう)の理(ことわり)を明らめ て、一念弥陀仏(みだぶつ)、即滅無量罪障(そくめつむりょうざいしょう)の真諦(しんたい)を授け、終つて一句の偈(げ)を連らぬ。   一念称名声(いちねんしょうみょうのこえ) 功徳万世伝(くどくばんせいにつたう) 青黛山寺鐘(せいたいさんじのかね) 迎得真如月(むかええた りしんにょのつき)  なほ六美女は当時十八歳なりしが、かねてより六字の名号(みょうごう)を紙に写すこと三万葉に及びしを、当来の参集に頒(わか)ちしに、三日に足らず して悉(つ)くせりといふ。  かくの如きの物語、六道(りくどう)の巷(ちまた)を娑婆(しゃば)にあらはし、業報(ごっぽう)の理趣(ことわり)を眼前に転ず。聞く煩悩即菩提( ぼんのうそくぼだい)、六塵即浄土(ろくじんそくじょうど)と、呉家祖先の冥福、末代正等正覚(まつだいしょうとうしょうがく)の結縁(けちえん)まこ とに涯(かぎり)あるべからず。呉家の後(のち)に生るゝ男女(なんにょ)にして此の鴻恩(こうおん)を報ぜむと欲せば、深く此旨を心に収め、法事念仏 を怠る事なかれ。事他聞(たもん)を許さず、過(あやま)つて洩るゝ時は、或(あるい)は他藩の怨(うらみ)を求めむ事を恐る。当寺当時の住職、及(お よび)、呉家の当主夫妻にのみ止(とど)む可し。穴賢(あなかしこ)。  延宝七年七月七日 一行しるす ◆第三参考 野見山法倫(のみやまほうりん)氏談話  ▼聴取日時 前同日午後三時頃  ▼聴取場所 如月寺方丈(ほうじょう)に於て  ▼同席者 野見山法倫氏(同寺の住職にして当時七十七歳。同年八月歿)        余(よ)(W氏)=以上二人=  ――その御不審は誠に御尤(ごもっと)もで御座います。この縁起の本文にも書いて御座いまする通り、今より百余年の昔に、呉家の中興の祖とも申すべき 虹汀(こうてい)様が、残らず焼いて灰にして、弥勒(みろく)の世までもと封じておかれました絵巻物が、如何ようなる仔細で旧(もと)の絵巻物の形に立 ち帰って、今の世に現われまして、呉一郎殿のお手に渡って、あられもない御乱心の種と相成りましたか……という事に就きましては、実は、お尋ねがなくと も申し上げて貴方様(あなたさま)(W氏)の御分別を仰ぎたいと思うておったところで御座いました。  ――元来この縁起の書付(かきつけ)と申しますのは、呉家の名跡(みょうせき)を嗣(つ)がるる御主人夫婦が初めての御墓参の時に人を払って御覧に入 れる事に相成っております。そのほか呉家の御血統に関係致しました事は、尋常在(あ)り来(きた)りの事のほか、一切他人に洩らしませぬのが、開山一行 上人以来(このかた)、当寺の住職たるものの本分の秘密と定められておるので御座いますが、余儀ない御方の御尋ねで御座いますし、殊更(ことさら)には 、呉一郎殿が真(まこと)の狂気か佯(いつわ)りかが相判(あいわか)りますることが、罪人となられるか、なられぬかの境い目と承(うけたまわ)ります れば、何をお隠し申しましょう……。  ――と申しまする仔細はほかでも御座いませぬ。この寺の御本尊様の御胎内に、灰となって納まっている筈のあの絵巻物が、実は、旧(もと)の形のままで おります事を、ずっと以前から探り出しておった人が在ったので御座います。のみならず、その絵巻物を御本尊の胎内から取り出して、呉一郎殿の御病気を誘 い出す原因(もと)を作られたのも、やはり、そのお方に違いないと思われる人物を、私はよう存じているので御座います。それは申す迄もなく私の心当りだ けで申上げるので御座いますから、どなたでも意外に思召(おぼしめ)すか存じませぬが、外ならぬ呉一郎殿の実の母御(ははご)で、先年直方(のうがた) で不思議の横死(おうし)を遂(と)げられた千世子殿の事で御座います……さよう……これは誠に怪(け)しからぬお話で、何よりも第一に、そんな恐ろし い申伝(もうしつた)えのある品物を、かけ換えのない吾児(わがこ)に渡すような無慈悲な母親が、この世に在ろうとは思われぬので御座いますが、これに は何か深い仔細がありそうに思われますので、いずれに致しましても、これから申述べまするお話をお聴き取り下されますれば、やがて何事もお解りになるで あろうと存じます。  ――思いますればもう二(ふ)た昔……イヤ……もう三十年ほどにもなりましょうか。まことに古い事で御座います。もはや御承知か存じませぬが彼(か) の千世子という御婦人は、幼ない時から何事に依らず怜悧(りこう)発明な上に、手先の仕事に冴えたお方で、中にも絵を描(か)く事と、刺繍(ぬいとり) をする事が取分けてお上手だったそうで、まだお合羽(かっぱ)さんに振袖のイタイケ盛りの頃から、この寺の本堂の片隅なぞにタッタ一人でチョコナンと座 って、襖(ふすま)に描いてある四季の花模様や、欄間(らんま)の天人の彫刻(ほりもの)なぞを写して御座る姿を、よく見受けたもので御座います。その 頃からもうそれはそれは可愛らしい、人形のような眼鼻立ちで御座いましてナ……。  ――ところが軈(やが)て十四か五になられた頃であったかと思います。学校の帰りと見えまして、海老茶(えびちゃ)の袴(はかま)を穿(は)かれた千 世子殿が、風呂敷包みを抱えたままこの方丈(ほうじょう)に這入って来られまして、唯一人で茶を飲んでおりました私に向って……和尚(おしょう)様…… あの御本尊の真黒い仏様の中には美しい絵巻物が這入っておるとの事じゃげなが、ソッと私に見せて下さらぬか……という御話で御座います。この絵巻物の事 はこの寺の開山当時の大法要以来、この界隈の名高い話と相成っておりまして、この村でも心得ている者がいくらも居る筈で御座いますから、そんな者からで も聞かれたので御座いましょうか……その時に私は笑いまして……それはもうズットの昔に灰にして終(しま)ってある故(ゆえ)、今は見せとうても見せら れぬ……と申しますと……それでも、たった今、あの仏様を私がゆすぶって見たら腹の中でコトコトと音がした。何かキット這入っているに違いない……とお 千世殿が云われます。私はビックリ致しまして……そんな事をする者で勿(な)い。仏罰(ぶつばち)が当りますぞ……と叱って返しました……が……お千世 殿が帰られてからタッタ一人になりますと扨(さて)、何とのう心配になって参りましたので、コッソリと本堂に参りまして、勿体(もったい)のうは御座い ましたが、御本尊の弥勒(みろく)様をゆすぶり立てて見ますると、成る程コトコトと音が致します。ちょうど巻物のような形のものが、内部(なか)に納ま っているに違いない、と思われる手応えで……。  ――私は余りの不思議に胸が轟(とどろ)くほど驚き入りました。御本尊様の胎内は、この縁起の本文に書いてありまする通りに、絵巻物を焼いた灰ばかり と思い入っておりましたので……なれども、その時に私は又思案を致しまして、これは昔虹汀(こうてい)様が、その絵巻物を焼いたと佯(いつわ)って実は 、旧(もと)の形のままにして仏像へ納めておかれたものではあるまいか。その周囲(まわり)の詰め物が、年代に連れて乾き寛(ゆる)んで、このように音 を立てるのではあるまいか。絵の好きな人に、ありそうな事で、絵巻物を惜しむの余りにそんな事にして、年月を重ねて供養していたならば、次第次第に因縁 も薄らぎ、祟(たた)りも熄(や)むであろうと思うて、一存で計(はか)らわれた事ではあるまいか。それならば改めて取り出して焼き棄てるべきものであ ろうか。どうしたものであろうか……なぞと、様々に思わぬでは御座いませんでしたが、それにしても、ちっと腑(ふ)に落ちかねるところもあるようで、空 恐ろしい気持ちも致しましたので、真逆(まさか)に御本尊の仏体を破って内部(なか)を見るような者もあるまいと思い思い、そのままに致しておりました 。  ――ところがその中(うち)に、月日の経つのはお早い事で、昨年の秋に相成りますと、ちょうどお彼岸の前の日の夕方の事、お八代殿と、一郎殿と、オモ ヨさんの三人が連れ立ってお墓掃除に見えました。その時にお八代さんは唯一人でお霊屋(たまや)の掃除をされる序(ついで)に、この方丈に立ち寄られて 、茶を飲まれましたが、四方八方(よもやま)のお話の序に……まだちっと早いようじゃけれど、来年の春、一郎が六本松の学校(福岡高等学校)を卒業した ならば、すぐに、モヨ子と祝言をさせようと思うが、どうであろうか……という相談で御座いました。お八代さんは、いつもこんな事を披露される前には、必 ず私に話をされましたので、私は、まことに結構な事と御返事を致した事で御座いましたが、それから二人で立って本堂の縁側へ出てみますと、彼(か)の山 門の横の墓所(はかしょ)の前に、お掃除を仕舞われた学校服姿の一郎殿と赤い帯を締めたオモヨさんとが、仲よさそうに並んで跼(かが)みながら、両手を 合わせて御座るところが見えました。それを見るとお八代さんは何やら胸が塞(ふさ)がりましたらしく、急いで顔を押えながらお霊屋(たまや)の方へ行か れましたが、私はあとに残りまして、まことにお似つかわしいお二人の姿を見守りながら、呉様のお家の行く末の事なぞを考えるともなく考えておりますと、 そのうちに、ゆくりなくも二(ふ)た昔以前のお千世殿のお話を思い出しましたので、思わずハッと致した事で御座いました。……尤もその折に、これは年寄 の要らざる気苦労ではないかと考えぬでも御座いませなんだが、それでも気に懸(かか)っておりましたものと見えて、その夜になりますとどうしても寝つか れなくなったので御座います。  ――そこで私はソロソロと起き上りましてナ……窓からさし込む月のあかりと、お燈明(とうみょう)の光を便(たよ)りに、唯一人で本堂に参りまして、 御本尊様を勿体(もったい)のうは御座いましたが両手をかけて、ゆすぶり動かしてみますと、この前の時には慥(たし)かに聞えておりました物音が、すこ しも致しませぬ。……のみならず何とのう中味が空虚(から)になっているような手応えでは御座いませぬか。  ――その時にも虫が知らせたとでも申しましょうか、私は何やら空恐ろしい気持ちが致した事で御座いました。なれども思い切って御本尊様を厨子(ずし) の中から抱え卸して、この方丈に持って参りまして、眼鏡をかけてよくよく検(あらた)めて見ますと、一面の塵埃(ちりほこり)でチョット解り難(にく) うは御座いますが、お像の首が襟の処で切り嵌(は)めになっておりまして、力を入れて揺すぶりますと抜けるようになっております。私はその時に成る程と 思いました。そうして轟く胸を押し鎮(しず)めながら廊下伝いに土間に持ち出して音を立てぬように塵を払うて参りまして、この電燈(あかり)の下に毛氈 (もうせん)を敷いて、その切嵌(きりは)めの処から御像の首を抜いて見ますと、ちょうどお経筒(きょうづつ)の形に刳(く)り抜いてあります底の方に 、古い唐紙(とうし)に包んだ灰があるにはありますが、その灰包みのまん中は、チャント巻物の軸の形に凹(くぼ)んでおります。それを見ますと虹汀様は 絵巻物を焼いたと云うてはおかれましたが、別に何か深いお考えがあった事で御座いましょう。真実は焼かずに、旧(もと)の形のままにして納めておかれま したもので、それを又、誰かが盗んで行ったもの……という事は、もはや疑いもない事と相成りました。ハイ……その外には、周囲(まわり)に詰めてありま したらしい古綿のほか、紙屑(かみくず)一つ見当りませぬ……こちらへお出で下さい。御本尊をお眼にかけましょうから。=後段備考参照=  ――御覧の通りで御座います……これは私の不念(ぶねん)と申しましょうか、何と申しましょうか……ああ……何か事が起らねばよいがと、胸を痛めまし た事は一通りでは御座いませなんだ。しかし又、一方から考えますと、もしお千世殿が持って行かれたものとすれば、何の必要があっての事であろうか。又、 直方であのような最後を遂(と)げられた後(のち)、今日までの間、誰が隠し持っていたものであろうか。お千世殿の亡き跡を片付けられたお八代さんが、 見付け出しておらるれば一言なりとも私に話されぬ筈はないが……なぞと、とつおいつ思案に暮れておりましたところへ、この度(たび)の事が起りましたの で、最早(もはや)心も言葉も及ばぬ不思議と申すよりほかに致し方が御座いませぬ。……承(うけたまわ)りますればその絵巻物は、一郎殿の御乱心の後( のち)、行衛(ゆくえ)が知れませぬとの事で、これも亦(また)、不思議の一つで御座います。村の者の中には、一郎殿の乱心の前と後とに、絵巻物が蛇の ように波を打って虚空を渡るのを見た……なぞと申している者があるそうで御座いますが如何なもので御座いましょうか。これと申すも私の不念より起りまし た事で、亡くなられましたオモヨ殿と、狂気された一郎殿の御痛わしさ。老い先の短かい生命(いのち)に代られるものならばと思うて、涙にかき暮れまする ばかり……云々。 ◆第四参考 呉八代子の談話概要  ▼聴取時刻 前同日午後五時頃  ▼聴取場所 同人宅奥座敷に於て  ▼同席者 呉八代子、余(W氏)――以上二人――  ――ああ先生……ようお出でで下さいました。どのように待っておりました事か……イエイエ。私の傷は構いませぬ。生命(いのち)も何も要りませぬ。ど うぞどうぞお願いで御座いますからこの絵巻物を(……と固く秘めたる懐中より取り出して渡しつつ)お寺から盗み出して、あの石切場で待ち伏せして一郎に 渡して、この家中の者を取り殺そうとたくらんだ奴を、ゼヒゼヒ探し出して下さいませ。そうして其奴(そやつ)が見付かりましたならば、タッタ一言でよろ しう御座いますから、何の怨(うら)みでこのようなムゴイ事をしたかと(涕泣(すすりなき))タッタ一言でよろしう御座いますからキットお尋ね下さいま せ(涕泣)……一郎が正気でおりますうちにその人間の事を尋ね出し得ませなんだのが残念で残念で……わかったら骨を噛み砕いても飽き足らぬと(涕泣)… …イエイエ。直方(のうがた)を引き上げる時には、そんな物は御座いませなんだ。一郎の身のまわりは、私が残らず調べております。……警察の奴が何が解 りましょう。一郎をあんな非道(ひど)い眼に会わせたりして……私は尋ねられても返事もしてやりませなんだ。……私はもう諦らめました。一郎が正気にな ろうがなるまいが、娘が生き返ろうがかえるまいが、私の生命がどうなろうが知りません。ただ妹の千世と、一郎と、娘の讐敵(かたき)は同じ奴……この絵 巻物の事情(わけ)を知りながら、あの一郎に見せた奴が……(昂奮、錯乱して問答を継続し得ず。爾後(ややのち)、約一週間の後(のち)に到り、漸次平 静に帰すると共に、放神状態になり行く傾向を認められつつあり) ◆備考 (イ)事件発生当日午前十時半、出入を禁じありたる呉家の土蔵(くら)(三番倉と呼ばれおるもの)の内部を検するに、階下の板の間の入口に敷か れたる古新聞の上に、呉一郎の朴歯(ほおば)の下駄(げた)の跡と、モヨ子の外出穿(ば)きの赤きコルク草履(ぞうり)が正しく並びおり、その傍(かた わら)より蝋燭(ろうそく)の滴下(したたり)起り、急なる階段の上まで点々として連(つら)なれり。  階上の状況、及、被害者の屍体には格闘、抵抗、苦悶等の形跡を認めず。  屍体(したい)頸部には絞縛(こうばく)したる褶痕(しゅうこん)と鬱血(うっけつ)、その他の索溝(さっこう)相交(あいまじ)って纏繞(てんじょ う)せり、然(しか)れども気管喉頭部、及、頸動脈等も外部より損傷を認むる能(あた)わず。尚(なお)脂粉の香(におい)ある新しき西洋手拭(タオル )一本、屍体の前に置かれたる机の下に落在(らくざい)せるが、右は加害者の所持品にして、右兇行に使用したるものと認めらる。  机上中央には鼻紙と覚(おぼ)しく、婦人の体臭ある四ツ折の半紙十数枚を重ねて拡げあり。その向って左端に同家の仏具の一たる真鍮の燭台を置き、百匁 (め)蝋燭一本を立てて点火したる跡あるが、後日検査の結果、点火後約二時間四十分を経て、消されたるものと推定されたり。  尚(なお)、この他に新しき三本の百匁蝋燭が燐寸(マッチ)の箱と共に机の下に置きありたるが、以上四本の蝋燭の上部、及、中央部附近に印せられおる 数多の指紋は、悉(ことごと)く、被害者モヨ子の左右手各指の指紋のみにして、加害者呉一郎のものは一個も存在せず。且(か)つ、燐寸(マッチ)の箱よ りも被害者の指紋のみが検出されたる事実より見れば、前記四本の蝋燭は、被害者自身が持ち来りたるものにして、手ずから燐寸(マッチ)を擦(す)りてそ の中の一本に点火し、机の左端に置きたる事疑う余地なし。(その他八代子の足跡等に関する記述略)  (ロ)同夜九時、被害者の屍体、九州帝国大学医学部法医学教室に到着、直ちに余(W氏)執刀、舟木医学士立会の下に解剖、同十一時終了の結果、死因は 頸部の圧迫、絞扼死(こうやくし)と判明す。且つ、被害者が何等かの原因にて意識喪失後、絞首したるものと推定さる。尚(なお)処女膜には異常を認めず 。(その他略) ◆備考 (A)如月寺の本尊弥勒(みろく)菩薩の座像を調査するに、頭大にして身小さく、形相怪異にして、後光も無く偏袒(へんたん)もせず。普通の法 衣の如く輪袈裟(わげさ)をかけ、結跏趺座(けっかふざ)して弥勒の印(いん)を結びたるが、作者の自像かと思わるる節(ふし)あり。全体の刀法頗(す こぶ)る簡勁(かんけい)、雄渾(ゆうこん)にして、鋸歯状(きょしじょう)、波状の鑿痕(さっこん)到る処に存す。底面中央に、極めて謹厳なる刀法を 以て「勝空(しょうくう)」の二字を一寸角大に陰刻しあり。  (B)中央の空虚は縦深一尺、横径三寸三分余の円筒型にして、上部、及、底部に詰めたる綿と、灰の厚さを差引く時は、高さ一尺六分強となり、絵巻物( 別参考品)の体積と相違なく適合せり。尚、その蓋に当る首の根の方形部には糊付けの痕(あと)残存せるを見る。  (C)灰を包みたる唐紙、及上下左右に詰めたるものと思しき綿を検するに、古色等、記録の時代と略(やや)相当するを認む。灰は検鏡分析の結果、普通 の和紙と、絹布とを焼きたる形跡を認むるのみ。表装用の金糸、又は軸に用いられたるべき木材、その他の痕跡絶無也(その他略) ◆備考 (一)姪浜(めいのはま)入口の国道沿い、海岸側に在る山裾の石切場附近を調査の結果、前日呉一郎が絵巻物を披見しつつ腰かけいたりという石は 、切り残されたる粗石(あらいし)の蔭に位置しおりて、街道を通過する者の注意を惹(ひ)き難き個所に在り。  (二)石切場内には大小無数の石片石塊と、石工(いしく)の作業の跡、及、街道より散入したる藁(わら)、紙、草鞋(わらじ)、蹄鉄片、その他凡百の 塵芥(じんかい)類似の物のほか、特に注意すべき遺物を認めず。尚(なお)、小雨に洗われたるがためか、呉一郎その他一切の人物の足跡類似のものを認む る能(あた)わず。  (三)平生、同所にて作業せる石工にして、姪浜町七五番地ノ一に居住せる脇野軍平は、前々日来、その妻女ミツ、及、養子格市と共に腹痛下痢を発し、流 行病の疑(うたがい)を受けて交通を遮断されおりしが、日ならずして本服後、二人に問い試みしところを綜合するに、頃日来(けいじつらい)、作業中、疑 わしき人物の石切場に立ち入り、又は附近を徘徊(はいかい)せしようの記憶無し。又同人等の疫病に関しては同所の魚類等は常に新鮮なるを以て、食物中毒 等の原因は考慮し得ず。結局病原不明に帰せりと。        ――――――――――――――――――――  ◇ 絵巻物写真版挿入の事  ◇ 右絵巻物由来記記入の事  ◇ 右第二回の発作全般に亘る、観察研究事項記入の事        ×          ×          ×  ハッハッハッハッ……。  ……どうです諸君。面喰いましたかね。  これが吾輩の遺言書の中の最重要なる一部分なぞいうことは、もういい加減忘れて読んでいたでしょう。悲劇あり。喜劇あり。チャンバラあり。デカモノあ り。これに加うるに有難屋(ありがたや)の宣伝もありという塩梅(あんばい)で、ずいぶん共にオカカの感心、オビビのビックリに価する、奇妙奇天烈(き てれつ)な記録の内容でげしょう。殊にその心理遺伝のあらわれ方の奇抜なことは、真に、お負けなしの古今無類で、現代の所謂(いわゆる)常識や科学知識 の如何なる虎の巻を引(ひっ)くり返して来ても到底歯が立ちそうにない。流石(さすが)の名法医学者若林鏡太郎博士も、この事件には少々手古摺(てこず )ったと見えて、その調査書類の中に、こんな歎息を洩している。曰(いわ)く……  余はこの事件の犯人を敢えて仮想の犯人と呼ばむと欲す。何となれば、当該事件の犯人は、現代に於ける一切の学術は勿論、あらゆる道徳、習慣、義理、人 情を超越せる、恐るべき神変不可思議なる性格の所有者と想像する以外に、想像の余地なければなり。即ち、此(かく)の如く、僅々(きんきん)二箇年の間 に、三名の婦人と一人の青年とを或(あるい)は殺し、或は発狂せしめて、その一家の血統を再び起つ能わざる迄に破滅せしむるが如き残虐を敢えてせるにも 拘わらず、その残虐の遂行手段は、いずれも偶然の出来事か、もしくは、或る超科学的なる神秘作用を装いて、それ以外の推測を許さず。犯人の存在は固(も と)より、此の如き犯行を一貫したる目的の存在さえも疑わしきものあり……云々。  ……と……。ところでどうです。前に御覧に入れた記録と、この文句を照し合わせて御覧になった諸君は、最早疾(とっ)くにお気付きになっているであろ う。法医学専門の立場にいる若林君の主張と、精神病学者としての吾輩の、該事件に対する主張の中心は、事件の勃発当初からハッキリと正反対になっていて 、今日に到るまでも一致せずにいることを……。すなわち若林君はその法医学者特有の眼光に照して、この事件には是非とも別に、隠れたる犯人が居るに相違 ない。その犯人がどこからか糸を操(あやつ)って、この事件に関するあらゆる不思議な現象を自由自在に弄(もてあそ)びつつ衆目(しゅうもく)を晦(く ら)ましているに違いない……と初めからきめてかかっているのに対して、吾輩の方はドッコイそうは行かぬ。精神科学の立場から見ると、これは所謂(いわ ゆる)「犯人無き犯罪事件」だ。外形内容共に奇抜な精神病の発作のあらわれに過ぎないので、被害者も犯人も共に、或る錯覚の下に同一の人間となって行っ た兇行に外ならぬのだ。それでも是非に犯人が必要だというのなら、呉一郎にこんな心理を遺伝せしめた先祖を捕えて牢屋へブチ込めと主張している。ここに この事件の中心的興味が繋(つな)がっている訳だが……。  エッ……ナナ何だって……ブルブル……もうこの事件の真犯人がわかったというのかね……。  ……イヤ……これあドウモ驚いた。いくら名探偵だってそう敏活に頭が働らいちゃ困る。第一吾輩と若林が飯の喰い上げになる。  まあまあ急(せ)き込まずと待ってくれ給え。たとい諸君の目指す人間が、正真正銘間違いなしのこの事件の真っ黒星で、若林君の所謂仮想の怪魔人である にしても、要するにそれは一つの推測で、確乎(かっこ)たる証跡があるわけではなかろう。又、たとい確乎動かすべからざる証跡があって、犯人は現在どこ に居って、どんな事をしているという事まで、諸君の方で知って御座るにしても、その犯人を取って押えてタタキ上げて御覧になった揚げ句に、アッとビック リ二の句が告げない新事実を、事件の裏面に発見されたならば、如何遊ばすおつもりかね。フフフフフ……。  だからいわない事じゃない。こんな深刻不可思議な事件を、一寸(ちょっと)した証拠や、概念的な推理で判断するのは絶対危険の大禁物である。すくなく ともこの事件が、前記の通りの状態で勃発して後(のち)、如何なる径路を履(ふ)んで吾輩の手にズルズルベッタリに辷(すべ)り込んで来たか。それに対 して吾輩が如何なる観察を下し、如何なる方法に依って研究の歩武(ほぶ)を進めて来たか、且つ又、その研究によって摘発されたる第二回の発作の内容の説 明が、如何に悽惨、痛烈、絢爛(けんらん)、奇怪にして、且つ、ノンセンスを極めたものがあるか。しかも、そうした研究の道程が、何故(なにゆえ)に吾 輩の自殺の原因にまで急変し、進展して来たか……というような事を徹底的に観察した後(のち)でなければ、犯人の有無は決定されぬ筈だ。「サテはそんな 事だったか……ウ――ン」と眼を眩(まわ)される筈だ……とまず一本凹(へこ)ましておいて……サテ、この事件に対する吾輩の研究が、その後どんな風に 進展して行ったかという実況を、引き続き天然色浮出し映画について「御座います」抜きで説明する段取りとなる。  ところで吾輩みたいな田舎活弁の、しかも新米の映画説明の口上から「御座います」を抜いてしまったら、何の事はない素人の書いたシナリオの朗読みたい なものになるだろう。吾輩不幸にしてシナリオだの支那料理だのいうものを製造した事がないから様子がよくわからないが、まだ夜が明ける迄には、だいぶ時 間が余っているから、今生(こんじょう)のふざけ序(ついで)にそのシナリオなるものを一つやっつけてみよう。但(ただし)、ここで改めて断っておくが 、こんな風に事件の核心である心理遺伝の内容を一番あとまわしにして、外側の事実から順々に中味へ中味へと支那料理……オット、シナリオにして行くのは 筋がチャンポンという洒落(しゃれ)ではない。この事件に関する吾輩の記録は、悉(ことごと)く、事件そのものが、吾輩の眼界に這入って来た当時のプロ ットによって並列されているので、この順序を研究しただけでもこの事件の真相はあらかたわかるという……この点に就ては憚(はばか)りながら、極めて科 学的な、絶対に誤魔化(ごまか)しの無い俯仰(ふぎょう)天地に恥じざる真実の記録と信ずる次第で……御座います……かね……ヤレヤレ。  【字幕】 呉一郎の精神鑑定=大正十五年五月三日午前九時、福岡地方裁判所応接室に於ける。  【映画】 正木博士は羊羹(ようかん)色の紋付羽織、セルの単衣(ひとえ)にセル袴(ばかま)、洗い晒(ざら)しの白足袋という村長然たる扮装(いで たち)で、入口と正反対の窓に近い椅子の上に、悠然と葉巻を吹かしつつ踏ん反(ぞ)りかえっている。  中央の丸卓子(テーブル)の上には正木博士所持のものらしい古洋傘(コウモリ)と、古山高(やまたか)が投(ほう)り出してある。その傍に、フロック 姿の若林博士が突立っていて、厳(いか)めしい制服姿の警部と、セルずくめの優形(やさがた)の紳士を、正木博士に紹介している。 「大塚警部……鈴木予審判事……いずれもこの事件に最初から関係しておられる方々で……」  正木博士は立ち上って二人の名刺を受取ると、如何にも気軽そうにペコペコと頭を下げた。 「私が、お召しに依って罷出(まかりい)でました正木で……生憎(あいにく)名刺を持ちませんが……」  警部と予審判事は一層威儀を正して礼を返した。  ところへ紺飛白(こんがすり)の袷(あわせ)一枚を、素肌に纏うた呉一郎が、二人の廷丁(ていてい)に腰縄を引かれて這入って来ると、三人の紳士は左 右に道を開いて正木博士に侍立(じりつ)した形になった。  呉一郎はその前に立ち止まったまま、黒ずんだ憂鬱な眼付きで室の中をマジリマジリと見まわした。その白い腕や首の周囲(まわり)には大暴れに暴れなが ら無理に取押えられた時の擦(かす)り傷や、痣(あざ)が幾個(いくつ)となく残っていて、世にも稀な端麗な姿を一際(ひときわ)異様に引っ立てている かのように見える。その背後(うしろ)から二人の廷丁が揃って挙手の礼をした。  正木博士は目礼を返しつつ、葉巻の煙を長々と吹かし終ると、手錠のかかった呉一郎の両手を無雑作に取って引き寄せながら、顔と顔を一尺位に近寄せて瞳 と瞳とをピッタリと合わせた。その瞳の底を覗き込みつつ何事かを暗示するかのように……又は呉一郎の眼の光りを、自分の眼の光りで押し返して、その瞳孔 の底に押し込むかのように……。こうして二人は眼と眼を合わせたまま暫くの間動かなかった。  そのうちに正木博士の表情が、どことなく緊張して来た。……立ち会っている紳士たちの表情も、それにつれて緊張して来た。  しかしその中で若林博士だけは眉一つ動かさずに、青白い瞳を冷やかに伏せて、正木博士の横顔を凝視していた。正木博士の表情の中から、人知れず何もの かを探し求めるかのように……。  けれども呉一郎は平気であった。正気を失った人間特有の澄み切った眼付きで、何の苦労もなげに正木博士の顔から視線を外(そ)らすと、すぐ横に突立っ ている若林博士の長大なフロック姿を下から上の方へソロソロと見上げて行った。  正木博士の表情が、みるみる柔らいで行った。呉一郎の横頬を見ながらニッコリとして、消えかかった葉巻を吸立てつつ、気軽い調子で口を開いた。 「そのオジサンを知っているかね君は……」  呉一郎は、若林博士の蒼い、長い顔を見上げたまま、こころもちうなずいた。夢を見るような眼つきになりつつ……。それを見ると正木博士の微笑が一層深 くなった。その時に呉一郎の唇がムズムズと動いた。 「……知っています。僕のお父さんです」  ……と……。けれどもこの言葉が終るか終らぬかに変った若林博士の表情の物凄さ……只さえ青い顔が見る間に血の気(け)を喪(うしな)って白堊(はく あ)のように光りを失った額のまん中に青筋が二本モリモリと這い出した。憤怒とも驚愕とも形容の出来ない形相(ぎょうそう)になったと思うとヒクヒクと 顳 ※(「需+頁」、第3水準1-94-6) (こめかみ)を震わしつつ正木博士を振り返った。今にも噛み付きそうな凄まじい眼色をして……。  併(しか)し正木博士はそんな事には気が附かぬかのように、四方(あたり)構わぬ大声をあげて笑い出した。 「ハッハッハッハッ。お父さんはよかったね。……それじゃこのオジサンは誰だか知っているかね」  と云い云い自分の鼻を指した。  呉一郎はそのまま、矢張りマジマジとした眼付きで正木博士の顔を見ていたが、間もなく唇をムズムズと動かした。 「……お父さん……です……」 「アッハッハッハッハッハッハッハッ」  と正木博士は一層愉快そうに……しまいには呉一郎の手を離してトテモ堪(たま)らなさそうに笑いこけた。 「アーッハッハッハッハッ。どうも驚いたな。それじゃ君のお父さんは二人いる訳だね」  呉一郎は考えるともなく躊躇したが、間もなく黙ってうなずいた。正木博士はいよいよ腹を抱えた。 「ワッハッハッハッ。トテモ素敵だ。珍無類だ。……それじゃ君は、その二人のお父さんの名前を記憶(おぼ)えているかね」  正木博士が冗談半分見たようにこう云い出すと、今まで煙(けむ)に捲かれて面喰い気味の一座の人々の顔が一時にサッと緊張味を示した。  しかし、呉一郎はこう尋ねられるとフッと暗い顔になった。静かに眼を外(そ)らして、窓の外一パイに輝いている五月晴(さつきば)れの空を飽かず飽か ず眺めているようであったが、やがて何事かを思い出したらしく、その大きな眼に涙を一パイに浮き出させた。その様子を見ていた正木博士は又も呉一郎の手 を執(と)りながら、葉巻の煙を一服ユッタリと吐き出した。 「イヤ。もういいもういい。無理に君のお父さんの名前を思い出さなくともいいよ。どちらを先に思い出しても、エライ不公平なことになるわけだからね。ハ ハハハハハ」  今まで異様な緊張味に囚(とら)われていた人々が一時に笑い出した。やっとの事で、もとの表情を回復していた若林博士も、変に泣きそうな、剛(こわ) ばった笑い方をした。  その笑い顔の一つ一つを、如何にも注意深い眼付きで見まわしていた呉一郎は、やがて何やら失望したように、溜め息をしたまま伏し目になると、涙をハラ ハラと落した。その涙の珠(たま)は、手錠の上から、汚れた床の上に落ち散って行った。  その手を取ったまま正木博士は、無雑作に人々の顔を見まわした。 「とにかくこの患者は私がお預りしたいと思いますが如何でしょうか。この患者の頭の中には、事件の真相に関する何等かの記憶がキット残っていると思いま す。只今御聞きの通り、誰の顔でも、父の顔に見えるという事は、或(あるい)はこの事件の裏面の真相を暗示している、或る重要な心理のあらわれかも知れ ませんからね……出来れば私の力で、この少年の頭を回復させて、事件の真相に関する記憶を取出してみたいと思うのですが、如何でしょうか……」  【字幕】 解放治療場に呉一郎が現われた最初の日(大正十五年七月七日撮影)  【映画】 解放治療場のまん中に立った五六本の桐の木の真青な葉が、真夏の光りにヒラヒラと輝いている。  その東側の入口から八名の狂人が行列を立てて順々に這入って来る。中には不思議そうに、そこいらを見まわしている者もあるが、やがてめいめいに取りど り様々の狂態を初める。  その一番最後に呉一郎が這入って来る。  如何にも憂鬱な淋しい顔で、暫くの間呆然と、四方の煉瓦塀や、足元の砂を見まわしていたが、そのうちにフト自分の足の下の砂の中から何やら発見したら しく、急に眼をキラキラと光らして拾い上げると、両手の間に挟んでクルクルと揉(も)んでから、眩(まぶ)しい太陽に透かしてみた。  それは青い、美しいラムネの玉であった。  呉一郎は真正面(まとも)に太陽に向けた顔をニッコリとさせながら、その玉を黒い兵児帯(へこおび)の中にクルクルと捲き込んだが、大急ぎで裾をから げて前に屈(かが)みながら、両手でザクザクと焼けた砂を掘返し初めた。  最前から入口の処に突立って、その様子を見ていた正木博士は、小使に命じて鍬(くわ)一挺(ちょう)持って来さして呉一郎に与えた。  呉一郎はさも嬉しそうにお辞儀しいしい鍬を受け取って、前よりも数倍の熱心さでギラギラ光る砂を掘り返し初めた。それにつれて濡れた砂が日光に曝(さ ら)されると片端(かたっぱし)から白く乾いて行った。  その態度を熱心に見守っていた、正木博士はやがてニヤリと笑ってうなずきつつ、サッサと入口の方へ立ち去った。  【字幕】 それから約二個月後の解放治療場に於ける呉一郎(同年九月十日撮影)  【映画】 解放治療場中央の桐の葉にチョイチョイ枯れた処が見える。その周囲の場内の平地の処々に真黒く、墓穴のように砂を掘り返したところが、重な り合って散在している。  その穴と穴の間の砂の平地の一角に突立った呉一郎は、鍬を杖にしつつ腰を伸ばして、苦しそうにホッと一息した。その顔は真黒く秋日に焦(や)けている 上に、連日の労働に疲れ切っているらしく、見違えるほど窶(やつ)れてしまって、眼ばかりがギョロギョロと光っている。流るる汗は止め度もなく、喘(あ え)ぐ呼吸は火焔のよう……殊に、その手に杖ついている鍬の刃先(はさき)が、この数十日の砂掘り作業の如何に熱狂的に猛烈であったかを物語るべく、波 形に薄く磨(す)り減って、銀のようにギラギラと輝いている物凄さ……生きながらの焦熱地獄に堕(お)ちた、亡者の姿とはこの事であろう。  その呉一郎はやがて又、何者かに追いかけられるように、真黒な腕で鍬を取り直した。新しい石英質の砂の平地に、ザックとばかり打ち込んで別の穴を掘り 初めたが、そのうちに大きな魚の脊椎骨を一個(ひとつ)掘り出すと、又急に元気付いて、前に倍した勢いで鍬を揮(ふる)い続けるのであった。  舞踏狂の女学生が、呉一郎の背後に在る大きな穴の一つに落ち込んで、両足を空中に振りまわしながら悲鳴をあげた。ほかの患者たちが手を拍(う)って喝 采した。  しかし呉一郎は、ふり向きもせずに、なおも一心不乱に掘って掘って掘り続けて行くと、やがて今度は何か眼に見えぬものを掘り出したらしく、両手の指で しきりに捻(ひ)ねくっていたが、すぐに鍬を取り直して、眼を火のように光らし、白い歯を砕けるほど噛み締めつつ、死に物狂いの体で足の下を掘り返しは じめた。  そのうしろから正木博士が悠々と這入って来た。鼻眼鏡をキラキラと光らせつつ、暫く呉一郎の作業振りを見守っていた。がやがて傍近く歩み寄って来て、 鍬を振り上げた右の肩をポンとたたいた。  呉一郎は驚いて鍬を下し、呆然となって正木博士を振り返りつつ、流るる汗を拭い上げた。  その隙(すき)を見た正木博士は、眼にも止らぬ早さで、片手を呉一郎の懐(ふところ)に突込んで、汚いハンカチで包んだ丸いものと、最前掘り出した魚 の脊椎骨を掴(つか)み出すと、素早く背後(うしろ)に隠してしまった。しかし呉一郎はチットモ気付かぬらしく、なおも流るる汗を拭い上げ拭い上げして 眼をしばたたきつつ、穴の中から見上げた。その顔を穴のふちから見下して正木博士はニッコリした。 「今掘り出したのは何だね」  呉一郎は気まり悪る気に顔を赤くしつつ、左手の食指を博士の鼻の先に突き出して見せた。博士が鼻眼鏡を近づけてみると、その指の頭には、女の髪の毛が 一本グルグルと捲きつけてあった。  正木博士は、それが何を意味するかを知っているらしく、真面目な顔でうなずいたが、今度はうしろ手に隠していた汚れたハンカチの包みを解いて、中味を 左の掌(てのひら)に取ると、呉一郎の鼻の先に突き出した。その掌の中には、二個月前(ぜん)にこの解放治療場に這入ると直ぐに拾ったラムネの玉と、き ょう掘り出した魚の骨との外に、赤いゴム櫛(くし)の破片と、小指ほどの硝子(ガラス)管の折れたのが光っていた。 「これは、お前が土の中から掘り出したのだろう」  呉一郎は喘(あえ)ぎ喘ぎうなずいた。博士の顔と四ツの品物とを見比べつつ……。 「ウム……ところでこれは何だね。何の役に立つのかね、これは……」 「それは青琅 ※(「王+干」、第3水準1-87-83) (せいろうかん)の玉と、水晶の管(くだ)と、人間の骨と、珊瑚(さんご)の櫛です」  呉一郎は別段考えるでもなく、無雑作にそう答えると間もなく、博士の手から四個のガラクタとハンカチを受け取って、石のように固く結び固めると、如何 にも大切(だいじ)そうに懐中(ふところ)の奥深く押し込んだ。 「フーム。……ではお前は何のためにそんなに一所懸命になって、土を掘り返しているのだね」  呉一郎は又も土に打ち込みかけた鍬の左手に杖ついて、右手で足の下を指した。 「ここいらに女の屍体が埋まっているのです」 「ウーム。ナルホド。ウーム」  と正木博士は唸った。そのまま鼻眼鏡ごしに呉一郎の両眼を穴のあく程深く覗き込みつつ、厳格なハッキリした言葉付きで、一句一句、相手の耳に押し込む ように問うた。 「……フーム……ナルホド……。しかし……その女の屍骸が、土の下に埋められたのは……イッタイいつの事だね……」  呉一郎は両手に鍬を支えたまま、ビックリしたように博士の顔を見上げた。その頬の赤い色がスーと消え失せて、唇をムズムズと動かした。 「……イツ……イツ……イツ……いつの事……」  と魘(おび)えたような口調で繰り返し初めた。そうしてやや暫くの間、茫然として、そこいらを見まわしていたが、やがて何ともいえない淋し気な、途方 に暮れた表情にかわった。……パタリと鍬を取り落して、力なく眼を伏せると、ガックリとうなだれて穴を這い上りながら、ソロソロと入口の方へ歩み去った 。  そのあとを見送った正木博士は、腕を組んで会心の笑(えみ)を洩らした。 「果せる哉(かな)だ。心理遺伝が寸分の狂いもなく現われて来るわい。……しかし、もう一辛棒(ひとしんぼう)しなくちゃなるまい。これからが本当の見 物だからな……」  【字幕】 再び同年十月十九日(前の場面から約一箇月後)の解放治療場内の光景。  【映画】 一番最初に映写した通りの、平らな砂地になった場内の煉瓦塀の前に、畠を打っている老人の鉢巻儀作(はちまきぎさく)があらわれる。但(た だし)、儀作は、最初の場面に現われた時よりも一畝(ひとうね)ほど余計に畠を作っているが、傍(かたわら)に居る痩(や)せた少女も、その半分の処ま で、枯れ枝や瓦の破片(かけら)を植えつけている。  その前に突立っている呉一郎も、最初の場面の通りに微笑を含んで、両手をうしろに廻したまま、老人の打ち振る鍬の上げ下しを一心に見守っているが、僅 か一箇月ほど経過した間にスッカリ色が白くなって、肉が丸々と付いているのは、その間じゅう穴掘りの労働を中止して、自分の室……第七号室に閉じ籠って いたからであろう。  その背後(うしろ)から正木博士がニコニコしながら近付いて来て、やおら肩の上に手を置くと、呉一郎はハッとしたように振り返った。 「……どうだい……久し振りに出て来たじゃないか。スッカリ色が白くなって……おまけに肥って」 「……ハイ……」  と呉一郎も相変らずニコニコしながら、又も鍬の上り下りを見守り初める。 「何をしているんだね。ここで……」  と正木博士はその顔を覗き込むようにして尋ねた。……と、呉一郎は鍬に眼を注いだまま静かに答えた。 「……あの人の畠打(はたう)ちを見ているのです」 「フーム。だいぶ意識がハッキリして来たな」  と正木博士は独言(ひとりごと)のように云いつつ、その横顔を見上げ見下していたが、やがて心持ち語勢を強めて云った。 「……そうじゃあるまい。あの鍬が借りたいのだろう」  この言葉が終らぬうちに一郎の頬がサッと白くなった。眼を丸くして正木博士の顔を見たが、間もなく又、鍬の方を振り返りつつ独言(ひとりごと)のよう につぶやいた。 「……そうです……あれは僕の鍬なのです」 「ウン。それは解っているよ」  と正木博士はうなずいて見せた。 「……あの鍬は君のものなんだ。しかし折角(せっかく)ああやって熱心に稼いでいるんだから、もうすこし待っていてくれないか。そのうちに十二時のドン が鳴れば、あの爺さんはキットあの鍬を放り出して、飯を喰いに行くにきまっているんだから……そうして午後はもう日が暮れるまで決して出て来ないのだか ら」 「キットですか」  こう云って正木博士をふり返った呉一郎の眼は何となく不安そうに光った。正木博士は安心せよという風に深くうなずいて見せた。 「キットだよ。……そのうちに今一挺、新しいのを買ってやるよ」  呉一郎は、それでも何かしら不安そうに鍬の上げ下げを凝視していたが、間もなく独言(ひとりごと)のように口籠(くちごも)りつつつぶやいた。 「僕は今欲しいんです……」 「フーム。何故だね……それは……」  しかし呉一郎は答えなかった。ピッタリと口を閉じて、又も、鍬の上下を見守り初めた。  正木博士はその横顔を、緊張した表情でジッと睨みつけた。その表情の中から、何かを探り出そうと思っているらしい。  大きな鳶(とび)の影が、二人の前の砂地をスーッと辷(すべ)って行く。        ――――――――――――――――――――  エート……ここまで御覧に入れましたところによって、呉一郎の心理遺伝のソモソモが青琅 ※(「王+干」、第3水準1-87-83) (せいろうかん)の玉、水晶の管、珊瑚(さんご)の櫛なぞいうものを身に着ける、古代の高貴な婦人と関係があるらしい事と、その婦人をモデルと致しまし た或る絵巻物を完成さすべく、呉一郎が斯様(かよう)に熱心に、女の死骸を求めているらしい事が、やっと判明して来たようであります。  しかし、その死骸が土中に埋められたのはいつかという正木博士の質問に対して呉一郎が茫然、答うるところを知らず、そのまま自分の室に帰って考え込ん でしまったのは何故か……。  それが又、一箇月後のきょう……大正十五年の十月十九日に到って、フラリとこの解放治療場に出て参りまして、老人の鍬が空(あ)くのを一心に待ち構え ているのは何故か……。  ……こういう間(ま)にもこの狂人解放治療場の危機は、現在如何なるところから、如何にして迫りつつあるのか……。  この疑問を明らかにし得るものは、只今のところ、この事件を調査した若林博士と、その相談相手となっている私だけ……否、スクリーンの中の正木博士… …ではない……イヤそうでもない……エエ面倒臭い、吾輩にしちまえ……序(ついで)に活動写真も止めちまえ。もう一つ序に九大精神病科の教授室の深夜に 、たった一人でこの遺言書を書いている、正木キチガイ博士に帰っちまえだ。  少々ヨタが強過ぎるかも知れないが、どうせ死ぬ前の暇潰(ひまつぶ)しに書く遺言書だ。ウイスキーがいくら利いたって構うこたあない。あとは野となれ 山となれだ……ここいらで又、一服さしてもらうかね。  ……ああ愉快だ。こうやって自殺の前夜に、宇宙万有をオヒャラかした気持ちで遺言書を書いて行く。書きくたびれるとスリッパのまま、廻転椅子の上に座 り込んで、膝を抱えながらプカリプカリと、ウルトラマリンや、ガムボージ色の煙を吐き出す。……そうするとその煙が、朝雲、夕雲の棚引(たなび)くよう に、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるものの 如く結ぼれつ解けつ、悲しそうに、又は嬉しそうに、とりどり様々の非幾何学的な曲線を描きあらわしつつ薄れ薄れて消えて行く。それを大きな廻転椅子の中 からボンヤリと見上げている、小さな骸骨みたような吾輩の姿は、さながらにアラビアンナイトに出て来る魔法使いをそのままだろう…………ああ睡(ねむ) い。ウイスキーが利いたそうな。ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……窓の外は星だらけだ。……エ――ト……何だったけな……ウンウン 。星一つか……「星一つ、見付けて博士世を終り」か……ハハン……あまり有り難くないナ……ムニャムニャムニャムニャムニャ………………ムニャムニャム ニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……………………………………………………………………… …ムニャムニャ ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ …………………………………………………………………………………………………………… ……………………………………………………………………………………………。        ×          ×          × 「どうだ……読んでしまったか」  という声が、不意に私の耳元で起った……と思ううちに室の中を……ア――ン……と反響して消え失せた。  その瞬間に私は、若林博士の声かと思ったが、すぐに丸で違った口調で、快濶な、若々しい余韻を持っている事に気が付いたので、ビックリして背後(うし ろ)を振り向いた。けれども室の中は隅々までガランとして、鼠一匹見えなかった。  ……不思議だ……。  明るい秋の朝の光線が、三方の窓から洪水のように流れ込んで、数行に並んだ標本棚の硝子(ガラス)や、塗料のニスや、リノリウムの床に眩(まぶ)しく 反射しつつ静まり返っている。  ……チチチチチチチ……クリクリクリクリクリクリ……チチ……  という小鳥の群が、松の間を渡る声が聞えるばかり……。  ……おかしいな……と思って、読んでしまった遺言書をパタリと伏せながら、自分の眼の前を見るともなしに見ると……ギョッとして立ち上りそうになった 。  私のツイ鼻の先に奇妙な人間が居る……最前から、若林博士が腰かけているものとばかり思い込んでいた、大卓子(テーブル)の向うの肘掛廻転椅子の上に 、若林博士の姿は影も形もなく消え失せてしまって、その代りに、白い診察服を着た、小さな骸骨じみた男が、私と向い合いになって、チョコナンと座ってい る。  それは頭をクルクル坊主に刈った……眉毛をツルツルに剃り落した……全体に赤黒く日に焦(や)けた五十恰好の紳士であるが、本当はモット若いようにも 思える……高い鼻の上に大きな縁無しの鼻眼鏡をかけて……大きなへの字型の唇に、火を点(つ)けたばかりの葉巻をギュッと啣(くわ)え込んで、両腕を高 々と胸の上に組んで反(そ)りかえっている……骸骨ソックリの小男……それが私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真白な歯を一パイに 剥(む)き出してクワッと笑った。  私は飛び上った。 「ワッ……正木先生……」 「アハハハハハ……驚いたか……ハハハハハハハ。イヤ豪(えら)い豪い。吾輩の名前をチャンと記憶していたのは豪い。おまけに幽霊と間違えて逃げ出さな いところはイヨイヨ感心だ。ハッハッハッハッハッ。アッハッハッハッ」  私はその笑い声の反響に取り捲かれているうちに全身が、おのずと痺(しび)れて行くように感じた。右手に掴んでいた正木博士の遺言書をパタリと大卓子 (テーブル)の上に取り落した……と同時に、それを書いた正木博士の出現によって、今朝(けさ)からの出来事の一切合財がキレイに否定されてしまったよ うな気がして、急に全身の力が抜けて来て、又も、元の廻転椅子の中へ、ドタンと尻餅を突いてしまった。幾度も幾度も唾液(つば)を呑みながら……。  そうした私の態度を見ると、正木博士はいよいよ愉快そうに、椅子の上に反(そ)りかえって哄笑した。 「アッハッハッハッハッ。ヒドク吃驚(びっくり)しているじゃないか。アハハハハハ。何もそう魂消(たまげ)る事はないんだよ。君は今、飛んでもない錯 覚に陥っているんだよ」 「……飛んでもない……錯覚……」 「……まだわからないかね。フフフフフ。それじゃ考えてみたまえ。君は先程……八時前だったと思うが……若林に連れられてこの室(へや)に来てから色ん な話を聞かされたろう。吾輩が死んでから一箇月目だとか何とか……ウンウン……あのカレンダーの日附けがドウとかコウとか……ハハハハハ驚いたか、何で も知っているんだからな……吾輩は……。それから君がその『キチガイ地獄の祭文』だの『胎児の夢』だの新聞記事だの、遺言書だのを読まされているうちに 、吾輩はもう夙(と)っくの昔の一箇月前に死んでいるものと、本当に思い込んでしまったろう……そうだろう」 「……………」 「アハハハハハ。ところがソイツは折角だが若林のヨタなんだ。君は若林のペテンにマンマと首尾よく引っかかってしまっているんだ。その証拠に見たまえ。 その遺言書の一番おしまいの処を見ればわかる。ちょうどそこの処が開(あ)いているだろう。……どうだい……昨夜から吾輩が夜通しがかりで書いていた証 拠に、まだ青々としたインキの匂いがしているだろう。ハハハハハ。どんなもんだい。遺言書というものは、是非とも本人が死んだ後から現われて来なければ ならぬものと、きまってやしないぜ。吾輩がまだ生きていたって、何も不思議はなかろうじゃないか。アッハッハッハッハッ」 「……………」  私は開(あ)いた口が閉(ふさ)がらなかった。正木、若林の両博士が、何のためにコンナ奇妙なイタズラをするのかと思い迷った。悪戯(いたずら)にし ても余りに奇妙な、不合理な事ばかり……一体今朝(けさ)から見た色んな出来事や、様々の書類の内容は、みんな真剣な事実なのか知らん。それとも二人の 博士が馴れ合いで、私を戯弄(からか)うために仕組んだ、芝居に過ぎないのじゃないかしらん……と……そんな風に考えまわして来るうちに、今の今まで私 の頭の中に一パイになっていた感激や、驚きや、好奇心なぞの山積が、同時にユラユラグラグラと崩れ初めて、自分の身体(からだ)と一緒にスウーとどこか へ消え失せて行くように感じたのであった。  それをジッと踏みこたえて、大卓子(テーブル)の端に両手をシッカリと突いた私は、鼻の先にニヤニヤしている正木博士の顔を、夢のようにボンヤリと眺 めていた。 「ウッフッフッフッフッ」  と正木博士は噴飯(ふきだ)した。その拍子に嚥(の)み込みかけていた葉巻の煙に咽(む)せて、苦しさと可笑(おか)しさをゴッチャにした表情をしな がら、慌てて鼻眼鏡を押え付けた。 「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ是非とも吾輩が死んでいないと具合がわるいと……ゲッヘンゲ ッヘン……云うのかね。ゲヘゲヘ弱ったなドウモ……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室のまん中に大の 字形(なり)に寝ていた。そうして眼を醒ますと、イキナリ自分の名前を忘れているのに驚いて、タッタ一人で騒ぎ廻ったろう」 「……エッ……どうしてそれを御存じ……」 「御存じにも何も大きな声を出して怒鳴(どな)り散らしたじゃないか。他の奴はみんな寝ていたが、この室(へや)でこの遺言書を書いていた吾輩が聞き付 けて行ってみると、君はあの七号室で、一所懸命に自分の名前を探しまわっている様子だ。……扨(さて)はヤット今までの夢遊状態から醒めかけているんだ ナ……と思って、なおも大急ぎで遺言書を書き上げるべく、二階へ引返して来た訳だが、そのうちに夜が明けてから、やっと居睡(いねむ)りから眼を醒まし た吾輩が、少々気抜けの体(てい)でボンヤリしていると、間もなく若林が例の新式サイレンの自動車で馳け付けて来る様子だ。……こいつは面黒(おもくろ )い。君が夢中遊行の状態から醒めかけている事を、早くも誰かが発見して若林に報告したと見える。ナカナカ機敏なものだが、扨(さて)馳け付けて来てド ウするつもりか……となおも物蔭から様子を見ていると、若林は君の頭を散髪さして湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立て上げてから、君の室(へや)と 隣り合わせの六号室に入院している一人の美少女に引き合わせたろう。……しかも、それは君の許嫁(いいなずけ)だというのでスッカリ君を面喰(めんく) らわせたろう」 「エッ……それじゃあの娘は、やっぱり精神病患者……」 「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異状さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの花婿さんから、思いもかけぬ『変態性慾の心理遺伝』な ぞいう途方(とほう)トテツもない夢遊発作を見せられたために、吾れ知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その花婿さんと同じ系統の心理遺伝 の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ玄宗 皇帝や楊貴妃を慕ったり、居もしない姉さんに済まないと云い出したり、又は赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと云ったりしていた……尤 (もっと)も今では、よほど正気付いてはいるがね……」 「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」 「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。音に聞えた姪の浜小町さ……呉モヨ子さ……」 「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉一郎……」  私が、こう云いかけた時、正木博士はその大きなへの字口をピッタリと噤(つぐ)んだ。葉巻の煙に顔をしかめたまま、黒い瞳の焦点をピッタリと私の顔に 静止さした。  私は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタと滴(したた)り落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、又 もフラフラとなりかけたように思った。大卓子(テーブル)に両手を支えて立っている自分の身体(からだ)が空気と一緒に散り薄れて、あとにはただ眼の球 (たま)だけが消え残ってシッカリと正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中に私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で駈けめ ぐっていた……呉一郎としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れ戦きつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠い処から、大浪を打たせ て責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルと戦きふるえていた。  けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、喘(あえ)ぎまわっても、私の魂はどうしても、呉一郎としての過去の思い出を喚び起し得なかった。そ のあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない、「呉一郎」という名前に対して「これが自分の名前だ」というような懐(なつ)かし味や親しみが微塵(みじ ん)ほども感ぜられなかった。私の過去の記憶はイクラ考え直しても、今朝(けさ)暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまで溯(さかのぼ)って来 ると、ソレッキリ行き詰まりになって終(しま)うのであった。……私は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎と 認める事が出来ないのであった。  ……私はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識が次第次第に私のまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり初めた。やがてド タリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋の下からタラタラと冷汗が滴(した)たった。  すると、それと同時に私の鼻の先で、澄まし返った顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。 「どうだい。自分の過去を思い出したかい」  私は無言のまま頭を左右に振った。そうしてポケットから新しいハンカチを引き出して顔の汗を拭いているうちに、よほど気が落ち付いて来たように思った 。……しかし、それにしても訳のわからない事があんまり多過ぎるようで、身動きするのさえ恐ろしくなりつつ、椅子の中へヒッソリと居(い)ずくまった。 ……と……間もなく正木博士が大きな咳払いを一つしたので私は又ビックリして飛び上りそうになった。 「……エヘン……思い出さなければモウ一度云って聞かせるが、いいかい……気を落ち付けてよく聞きたまえよ。君は現在、一つのトリックに引っかけられて いるのだよ。つまり……吾輩の同輩若林鏡太郎博士は、君自身を呉一郎と認めさせて、充分に間違いのない事を確信させた上で、吾輩に面会させようとしてい るのだ。そうして吾輩をこの世に二人といない、極悪無道の人非人(にんぴにん)として君に指摘させようとしているのだよ」 「エッ。あなたを……」 「ウン。まあ聞け。君がよく気を落ちつけて、今朝(けさ)から起った出来事を今一度ハッキリと頭の中で考え合わせて来さえすれば、万事が何の苦もなく解 決するのだ。……いいかい」  正木博士は改めて真面目に帰ったように、落ち付いた調子で咳一咳(がいいちがい)した。椅子の上に反(そ)り返って濃い煙をあとからあとから吹き上げ ると、悠然として大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。 「いいかい。改めて云っておくが、今日は大正十五年の十月二十日だよ。いいかい。もう一度、繰り返して云っておく。きょうは大正十五年の十月二十日…… この遺言書に書いてある通り、呉一郎が一個月振でこの解放治療場にヒョックリと出て来て、鉢巻儀作爺の畠打ちを見物していた、十月十九日のその翌日なん だよ。……その証拠にあのカレンダーを見たまえ。……OCTOBER……19……すなわち昨日(きのう)の日付になっている。これは吾輩が昨日からあま り忙がしかったので、あの一枚を破るのを忘れていたからで、同時に吾輩が昨日から徹夜してここに居た事を証明しているのだ……いいかい。解ったね。…… それから、序(ついで)に吾輩の頭の上の電気時計を見たまえ。今は十時十三分だろう。ウン。吾輩のとピッタリ合っている。つまり吾輩が今朝になって、そ の遺言書を書きさしたまま、居睡(いねむ)りを初めてから、まだ五時間しか経過していない理窟になるんだ。……こうした事実と、その遺言書のおしまいの 処のインキがまだ青々としている事実とを綜合したら、吾輩がこうしてケロリとしていたって別に不思議がる事はなかろうじゃないか。いいかい、……この点 をまずシッカリ頭に入れとかないと、あとで又大変な錯覚に陥るかも知れない虞(おそれ)があるんだよ」 「……しかし……若林先生が先刻(さっき)……」 「いけない……」  と一際(ひときわ)大きな声で云ううちに、正木博士の右手の拳骨(げんこつ)が高く揚がると、私の頭の中の迷いを一気にたたき除(の)けるように空間 で躍った。……活溌な……万事を打ち消すような元気を横溢(おういつ)さして……。 「いけない。吾輩の云う事を信じ給え。若林の云う事を本当にしてはいけない。若林はサッキからこの一点でタッタ一つの大失敗を演じているんだ。彼奴(き ゃつ)は先刻(さっき)、この室に這入ると間もなく、吾輩がこの大暖炉の中で焼き棄てた著述の原稿の、焦(こ)げ臭いにおいを嗅ぎ付けたに違いないのだ 。それからこの遺言書をこの卓子(テーブル)の上で見付けると直ぐに一つのトリックを思い付て、その通りに君へ説明をしたんだ」 「……でも……けれども……今日は先生がお亡くなりになってから一箇月後の十一月二十日だと……」 「チェッ……仕様(しよう)がないな。ドウモそういう風にどこまでも先入主になって来られちゃ敵(かな)わない……いいかい。聞き給え……こうなんだよ 」  と噛んで含めるように云いつつ正木博士はさも忌々(いまいま)し気に、舌に粘り付いた葉巻の屑を床の上に吐き棄てた。それから机の上にのしかかって両 肱(りょうひじ)を立てると、呆然となっている私の鼻の先に、煙草の脂(やに)で黄色くなった右手の指を突きつけて一句一句私の頭の中へ押し込むように して説明した。 「いいかね。よく聞き給えよ。間違わないようにね……今日は吾輩の死後一箇月目だなんて、あられもないヨタを若林が飛ばしたのは、君を騒がせないための 小細工に過ぎないんだよ。いいかね……もし吾輩がこの遺言書をこんな風に書きさしたまま、どこかへ消え失せてから、まだ幾時間も経っていないという事が 君にわかれば、君はキット吾輩が自殺に出かけたものと思ってハラハラするだろう。又実際そうとなったら彼奴(きゃつ)だってジッとしてはおられまい。友 人の義務としても、又は、学部長の責任としても否応(いやおう)なしに万事を打ち棄てて、吾輩の行衛(ゆくえ)を突き止めて、自殺を喰い止めなくちゃな らない事になるだろう。……ところで又そうなると若林は、自分の手一つで君の過去の記憶を呼び返させ得る唯一無二の機会を失う事になるかも知れないだろ う……ね……そうだろう……君が過去の記憶を思い出すか出さないかは、若林の身にとってみると生涯の一大事になる訳があるんだからね。しかも今朝(けさ )が絶好の機会と来ているんだから……」 「……………」 「……だから若林は、吾輩がどこからか耳を澄ましているのをチャント知り抜いていながら、今日はこの遺言書が書かれてから一箇月後の十一月二十日だなぞ と、法医学者にも似合わない尻の割れた出鱈目(でたらめ)を云って、とにも角にも君を落ち付かせようとしたんだ。そうしてゆっくりとこの実験を遂(と) げて、呉一郎としての君の記憶を回復させさえすれば、モウ何もかもこっちのものだと考え付いたんだ。……君が若林の見込み通りに、呉一郎としての過去の 記憶を回復しさえすれば、その次に、かく云う吾輩を君の不倶戴天(ふぐたいてん)の親の仇、兼、女房の仇と認めさせる位の事は、説明の仕様で何の雑作も ない事になるんだからね。……又、実際吾輩は有難い事に精神科学者なんだから、何も知らない呉一郎に催眠術でもかけて、親や女房を絞め殺させて、これだ けの実験材料を拵(こしら)え上げる位の仕事はいつでも出来る自信があるんだからね。この事件の嫌疑者には持って来いの人物なんだ。ね。そうだろう」 「……………」 「そうして、もし又、万が一にもその実験がうまく行かなかったらだね。……つまりそんな書類を君に読ませても、君自身が何にも思い出さなかったら、最後 の手段を用いてくれよう……今度は君に気付かれないようにソット姿を隠して、あとからキットここに出て来るに違いないであろう吾輩と君を突き合わせて、 吾輩の顔を君が思い出すか出さないか……そうして思い出したら、その印象によって君自身の過去の記憶が回復されるかどうかを試験してやろう……そうして 万が一にもその試験がうまく行ったら、窮極するところ、吾輩の力で吾輩を恐れ入らしてやろうという、実に巧妙辛辣(しんらつ)を極めた計略を謀(たく) らんだ訳だ。その辺の呼吸の鋭どい事というものは、実に彼奴(きゃつ)一流の専売特許なんだよ。いいかい」 「……………」 「元来彼奴(きゃつ)はコンナ策略にかけては独特のスゴ腕を持っているんだ。ドンナに身に覚えのない嫌疑者でも、彼奴の手に引っかかって責め立てられて 来ると、頭がゴチャゴチャになって、考え切れないような心理状態に陥ってしまうんだ。とうとうしまいには何が何だかわからなくなったり、到底逃れられぬ と観念したり、そうかと思うと慌てた奴は、成程御尤(ごもっと)も千万と感心してしまったりして、知りもしない罪を引き受けたりする位だからね。近頃亜 米利加(アメリカ)で八釜(やかま)しい第三等の訊問法なんかは屁(へ)の河童(かっぱ)だ。彼奴(きゃつ)の使う手は第一等から第百等まで、ありとあ らゆる裏表を使い別けて来るんだから堪(たま)らない。……現に今だってそうだ。仮りに吾輩が彼奴の見込み通りに斎藤先生を殺して、その後釜(あとがま )に座って、コンナ実験をこころみて失敗をして自殺を思い立った人間とするかね。その吾輩がどこからか耳を澄ましている前で、だんだんと吾輩がそんな大 悪人と認められて来るように……そうして君自身が、その吾輩の当の怨敵である呉一郎自身と認められて来るように、合理的に話が進められて行く。同時に、 その吾輩の生涯を賭(と)した事業の功績が、スウーッと奪い去られて行くのを、手も足も出ないまま見たり聞いたりしていなければならない状態に陥って行 くとしたら、吾輩にとってコレ以上の拷問があり得るかドウか考えてみるがいい。そのまま黙って自殺するか、飛び出して来て白状するか、二つに一つの道し かないだろうじゃないか……彼奴、若林の遣り口は早い話がザットこんな塩梅(あんばい)式だから堪らないのだ。ドンナ難事件でも一旦彼奴の手にかけると なると、キットどこからか犯人をヒネリ出して来る。そのために彼奴が『迷宮破り』なぞと新聞に唄われている事実の裏面には、こうした消息が潜(ひそ)ん でいるんだよ」 「……………」 「ところがだ。ところが今度という今度ばかりはそう行かないらしいんだ。今朝から連続的にこころみて来た彼奴の実験が、一々見込み外れになってしまって 、君自身に何等の反応を現わさなかったばかりでなく、彼奴お得意の訊問法のトリックが、コンナ風にテッペンから尻を割っているところを見ると、そんなに 恐怖(おっかな)がる程の事もないようだね。……流石(さすが)の古今無双の法医学者先生も、相手が吾輩というので緊張し過ぎたせいか、今朝から少々慌 てて御座るようだ。或はこれこそ先生の『空前絶後の失敗』かも知れないがね。ハッハッ……」 「でも……でも……でも……」 「まだ『でも』が残っているのかい……何だい……その『でも』は……」 「……でも……その実験は先生がなさるのが当り前……」 「そうさ。無論、君の過去を思い出させる実験は吾輩がやるのが当然さ。だから彼奴(きゃつ)はこんなトリックを用いて、この実験の結果を独り占めにしよ うとしたんだ……彼奴は出来る限り吾輩を見殺しにしようとしたんだよ」 「エッ……ソ……そんな無茶な事が……」 「チャント実行されているから面白いだろう。第一吾輩が、その手を喰わずに、こうやって生き長らえて、ここへ出て来て喋舌(しゃべ)っているのが何より の証拠じゃないか」  こう云い終ると正木博士は、如何にも憎々しい、皮肉を極めた冷笑を浮めた。回転椅子の上に反(そ)りかえって傲然(ごうぜん)と腕を組んだ。葉巻の煙 を高々と吹き上げつつ嘯(うそぶ)いた。恰(あたか)も若林博士が、どこからか耳を澄まして聞いているのをチャント予期しているかのように……。  それを見ると私の心臓は又も、新しい恐怖に打たれて、一たまりもなく縮み上がってしまったのであった。……何という物凄い両博士の闘いであろう。何と いう深刻執拗な智慧比べであろう。今の今まで、そんな恐ろしい闘争の間に自分自身が挟まれている事を夢にも知らなかった私は……今の今まで見て来た苦し さや、せつなさ、恐ろしさや物狂おしさなぞが、みんなこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いに引っかけられて、引きずりまわされて来たせ いである事を、初めて気が付いた私は……もう悲鳴をあげて逃げ出したいような衝動に満ち充(み)たされてしまったのであった。今にも立ち上りそうに腰を 浮かしかけたのであった。……が……。  ……しかしこの時の私は、どうしたわけか一寸も椅子から離れる事が出来なかった。額にニジミ出る汗をハンカチで拭いつつ、又も腰を落ちつけてため息し た。そうして、正木博士の顔を一心に凝視しつつ、その黒ずんだ、気味のわるい唇が動き出すのを、生命(いのち)がけの気持ちで待っていなければならぬよ うな心理状態に陥ってしまったのであった。……それは恐らく、この二人の博士が、全力というよりも寧(むし)ろ死力を竭(つく)して奪い合っているほど の怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力のために私の魂がもう、スッカリ吸い付けられてしまっていたせいかも知れない……その話の底を流るる形容の 出来ない不可思議な真実性が、グッと私の心臓を引っ掴んで、云い知れぬ好奇心の血を波打たせているせいかも知れない。……なぞと……そんな事を考えつつ 茫然として、眼の前の空間を凝視している私の耳元に、又も咳一咳(がいいちがい)した正木博士の声が、新しく、活(い)き活きと響いて来た。 「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……併(しか)しまだ少々解らないところが在るだろう。ウン。在る… …なかなか頭がいいね。……第一そこに居る君自身が、どこの何という青年で、如何なる因果因縁でもってこの事件に捲込まれるに到ったか……という事が君 にはテンキリ解っていない筈だからね。ハッハッハッ……しかし心配し給うな。吾輩がこれから話すことを聞いておれば、一切の疑問が櫛の歯で梳(す)くよ うにパラリと解けて来る。その話というのは、少々重複するかも知れないが、その吾輩の遺言書の続きになる話で、この実験に関する吾輩と若林の過去の秘密 から、だんだんと呉一郎の心理遺伝の内容に立ち入って行って、一番おしまいに君自身が何者であるかという事が、やっとわかる段取りになるのだ。尤(もっ と)もその途中で君自身が自分の身の上を感付くとすれば止むを得ない。話はそれ切りの芽出度(めでた)し芽出度しになる訳だが、その時はその時として、 まずそれまでのお楽しみとして聞いていたまえ。……しかし、もう一度念を押しておくが、もうこの上に尚(なお)、錯覚を起したりしちゃいけないよ。吾輩 が幽霊だとか、吾輩が死んでから一箇月目だとかいうような飛んでもない気もちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いて そんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心し て話を進めるが……」  と云い云い正木博士は消えかけた葉巻に火をつけた。それからポケットに両手を突込んでサモ美味(うま)そうにスパスパと吸立てたが、軈(やが)て葉巻 を啣(くわ)え直すと、濛々(もうもう)たる煙の中にヤッコラサと座り直した。 「……ところでだ。……ところで、こいつはいずれ社会に曝露される事と思うから、その時に新聞で見ればわかるが……否(いや)。もう昨日(きのう)の夕 刊か、今朝あたりの新聞に出ているかも知れないが……実は、昨日、あの狂人の解放治療場に一大事変が勃発したのだ。つまり吾輩がこの事件を中心とする心 理遺伝の実験の結論をつけるために、あの解放治療場の精神病者の群れの中に仕掛けておいた精神科学応用の爆弾の導火線が、この間からジリジリと燃え詰( つま)って来たのが、昨日の正午――すなわち大正十五年の十月の十九日の午砲(ドン)が鳴ると殆ど同時に物の美事に爆発したのだ……ナアニ。種を明かせ ば何でもない。その導火線というのは一挺の鍬に仕かけてあったに過ぎないのだが、何といっても精神科学を応用した導火線で煙も立てず、火も見えないのだ から普通人の眼には、そんな種仕掛けがあるものとは思えない。どこまでも普通の鍬としか見えていなかったのだ。……しかも、その結果は、正直のところ爆 発し過ぎたと云ってもいい位で、吾輩も一時面喰った位の意外な惨劇になってしまったので、その責任を負うた吾輩は、即刻、総長室に出頭して辞職を申し出 たんだが……なおよく考えてみると……何でもここいらが吾輩の実験の切り上げ時らしい。吾輩の今日までの研究に関する一切の発表はあとに若林が控えてい るから……実は吾輩もその時までは若林を、それほど腹の黒い奴と思っていなかったもんだからね……若林が、どうにかしてくれるだろう。序(ついで)に面 倒臭いから人間の方も辞職しちまえ……というので吾輩は一旦、下宿へ帰って、あとを片付けて、それから東中洲(ひがしなかす)の賑やかな処で一杯引っか けてスッカリいい心持ちになりながら、書類を整理すべくここへ引返して見ると……又驚いたね。つい今先刻(さっき)、吾輩がここを出かける時まで空室( あきべや)であった、あの六号の病室にアカアカと電燈が灯(つ)いている。おかしいなと思って帰りかけている小使に様子を聞いてみると、若林先生がどこ からか一人のお嬢さんを連れて来て、当直の医員に頼んで、たった今入院おさせになったところだと云う。おまけにそのお嬢さんというのは、今までに見た事 もない、何ともかんとも云えない美しい綺倆(きりょう)だと云うんだ。  ……その時には流石(さすが)の吾輩も、思わずアッと感歎の膝を打ったね。コイツは面黒(おもくろ)い事になった。この様子でみると彼奴(きゃつ)若 林鏡太郎はどうして一筋縄にも二筋縄にもかかる奴じゃない。彼奴の法医学者としての価値に相当する……否、それ以上かも知れない大悪党だ。第一、吾輩の 前ではスッカリ猫を冠(かぶ)っているが、ウッカリすると吾輩に敗けない位の精神病学者で、おまけに人情の弱点を利用する事に頗(すこぶ)る妙を得てい るという事が一ペンにわかってしまったのだ。……というのはほかでもない。この遺言書にも書いておいた通り、彼(か)れ若林鏡太郎が、この事件の勃発当 時に、学長の権威を利用して彼(か)の少女を生きた亡者にしてしまって、自分の手中に握り込んだ目的がどこにあるかという事は、その当時から今日までど うしてもわからなかったのであるが、今となってみると何の事はない。彼奴は、君が或る程度まで本性を回復した時を見澄まして、コッソリとあの娘に引き会 わせて、色と、慾と、理詰めの三方から、君自身に君自身を無理にも呉一郎と認めさせよう。そうして今も云ったように、吾輩を君の不倶戴天(ふぐたいてん )の仇敵(かたき)と思い込ませて、その事実を公式に言明させよう……彼の思い通りに引き歪(ゆが)めた事件の真相を社会に曝露させてやろう。……のみ ならず、その君の言明を、自分の畢生(ひっせい)の事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようと巧(たく)らんでいるスジミチ が手に取る如くわかって来たのだ。  ……そこで吾輩も考えた。……よろしい。そっちがそんな考えなら、こっちにも了簡(りょうけん)がある。もともと若林の精神科学的犯罪の研究は、吾輩 独創の心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているんだから、まぜっ返しをしようと思えば訳はない。ここで思い切って吾輩の精神科学の研究発表の 原稿を全部焼き棄ててしまって、あとにその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残しておけば、彼奴、若林は嫌でも応でもその著述の中に、この遺言 書を組み込まなければ研究発表の筋が立たなくなる訳だ。しかし、果して彼奴(きゃつ)が吾輩の遺言書を公表し得るかどうか……公表するとすれば、どんな 風に手品を使って公表するかは、ずいぶん面白い見物だぞ……事に依ると吾輩の遺言書は恐らく空前絶後のタチのわるい置き土産になるかも知れないぞ……。  ……と……こう考えると吾輩、急に嬉しくなったね。大急ぎでこの室(へや)へ来て書類をスッカリ焼き棄てて、この遺言書を書き初めたんだが、そのうち に夜が明けてみると、君が覚醒しかけたというので、兼ねてから待ちかねて準備していた若林が時を移さず馳けつけて、早速彼(か)の美少女に引き合わせた 。……が……こいつはまんまと首尾よく失敗した。尤も先方は君を恋しい恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功した訳だが、御本尊の君自身が、 あの美少女にズドンと肘鉄砲(ひじでっぽう)を喰わせた……自分の従妹(いとこ)とも許嫁(いいなずけ)とも、何とも認めなかったので、今度は手段をか えて、君をこの室に連れて来る様子だ。  ……ところで、実を云うとこの時には吾輩も聊(いささ)か狼狽(ろうばい)したね。恐るべきは彼奴、若林鏡太郎だ。彼奴は吾輩のこうした心事を、もう 疾(と)っくに見抜いていたんだ。彼奴は吾輩が遅かれ早かれこの危険千万な放れ業式の解放治療の実験を切り上げて、その内容を学界に発表すると同時に、 行衛を晦(くら)ますであろう事を、ずっと前から察していたんだね。しかも、それと同時に、この姪(めい)の浜(はま)の花嫁殺し事件も、吾輩一人の実 験材料に使い棄てて、あとから誰が見ても犯罪事件と見えないようにして、学界に報告するであろう事までもチャンと看破していたんだね。そこで彼奴は全力 を挙げて電光石火式に事を運んだ。そうして吾輩がまだ行衛を晦(くら)まさないうちに吾輩を押え付けてギャフンと参らせようと、巧(たく)らんだ訳だ。  ……彼奴は吾輩が昨夜からここに居据(いず)わりで居る事を、今朝(けさ)本館の玄関を這入ると同時に見貫(みぬ)いていたに違いない。そうして何等 かの策略で吾輩を凹(へこ)ませるために、君をここへ連れて来るんだな……と気が付いたから、ドッコイその手は桑名(くわな)の何とかだ。一つ驚かして やれと思って、その遺言書や、焼き残りの書類をそこに置きっ放しにしたまま、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消してしまったのだ。無論窓から飛び出したので もなければ、向うの扉から抜け出した訳でもない。一歩もこの室から出ないまま誰にも気付かれないように消え失せた……というと何だか又精神科学応用の手 品じみて来るが、そんな事じゃない。種というのはこの大暖炉(ストーブ)だ。  この大暖炉は、万一この実験が失敗するか、又は吾輩の研究の内容を他人に盗まれそうになった時に、そんな著述の原稿を全部、この中で焼き棄ててくれよ う。事に依ったら吾輩自身もこの大暖炉を利用して天下を煙(けむ)に巻きながら、ヒュードロドロドロと行衛を晦ましてくれようと思って、最初から瓦斯( ガス)と電気併用の自動点火式に設計したものだが……見給え……この鉄の蓋を取ると、内部(なか)はこんなに広々して、底一面の電熱装置の間から瓦斯が 噴き出すようになっている。何の事はないブンゼンラムプの大きなヤツを二百ばかり併列した形だ。この上に生きた物でも戴せて、瓦斯のコックを開いて電気 のスイッチを捻(ね)じると、取りあえず瓦斯が飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱して来て、ドカンと瓦斯に点火したら一時間経たぬうち に骨までボロボロになって終(しま)うだろう。その上に石でも瓦でも積み重ねておくと全部白熱して強烈な輻射熱を出すのだからね。見給え、肉よりも焼け 難(にく)いという西洋紙の原稿ばかり、本箱に四杯近くもあったのが、どうだい。たったこれんばかりの白い灰になってしまっているだろう。これで吾輩が 又煙(けむ)になれば、折角の大学理が、又、もとの空中に還元されて終(しま)うわけだ。ハッハッハッ。……吾輩は、君と若林が、あの階段を上って来る 音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込んで、この灰の上にこうして新聞紙を敷いて楽々と胡座(あぐら)を掻(か)いたまま、いつ 何時でも煙になる覚悟で、葉巻を吹かし吹かし耳を澄ましていた訳だ。  ……ところが流石(さすが)は彼奴(きゃつ)だ。天下の名法医学者だ。吾輩の姿が見えなくても平気の平左でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君 を錯覚に陥れ初めた。……彼奴のアタマは聖徳太子と同様二重三重に働くんだからね。だから吾輩や斎藤先生の事を色々と君に話して行く片手間に、この遺言 書の内容を大急ぎで検査してみると、少々都合のわるい処もあるが、結論まで書いてないのだからまず安全である。のみならず、こいつを君に読ませれば、自 分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉一郎と思い込ませ得るという見込みが付いたので、わざと君に押し付けておいて、君が夢中になって読んでい るうちにコッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して吾輩がドンナ処置を執(と)るかを試験しているらしい様子だ。  ……そこで吾輩いよいよ面白くなったね。……よし……その儀ならばこっちも一つその計略の裏を行って、あべこべに彼奴の挑戦に逆襲してやれと思って、 暖炉(ストーブ)の中からソーッとここへ出て来て、この椅子に腰を卸しながら、君がその遺言書を読み終るのを待っていた訳なんだが……。ハッハッ……ど うだい。今君と吾輩とは天下の名法医学者、若林鏡太郎氏の計劃の下に対決しているんだよ。そうして君がどこの何という名前の青年であるか……この事件と 如何なる因果関係によって結び付けられて、現在その椅子に座らせられているのかという事は、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。  ……だから彼奴、若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉一郎として覚醒して、吾輩をその事件の裏面に活躍している怪魔人……血 も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は吾輩の負けになる。しかし、これに反して、君がドウシテモ呉一郎としての過去の記 憶を思い出さなければ、早い話が吾輩の勝になる……君は『自我忘失症』と名づくる一種の自家意識障害を起して、九大の精神科に収容されている、第三者の 立場から若林の手にかかって突然にこの事件に捲き込まれて来た無名の一青年という事実が公表され得る事になって、若林の計劃がオジャンになるという、そ の際どい土俵際に立っているんだよ君は……。ドウダイ面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた智慧比べだ。し かも、その勝負を決すべき呉一郎が、君自身だかどうだかは、今も云う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ残った残ったというところだね。ハッハッハ ッ……」  正木博士の高笑いは、室(へや)の中の色々なものにケタタマシク反響しつつ、私の耳に飛び込んで来た。そうして二人の博士の云う事の、どちらが本当か 嘘か解らないままボンヤリとなっている私の頭の中を、メチャメチャに引っかき廻すとそのまま、どこかへシインと消え失せて行った。  しかし正木博士は私のそうした気持ちに頓着なく、又も片眼をシッカリとつぶって、さも美味(うま)そうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから廻転椅子の肘 掛けに両手を突張って、ソロソロと立ち上りかけた。 「……や……ドッコイショ……と……そこでいよいよ本勝負に取りかからなければ、ならないのだ。まず是非とも吾輩の手で君の過去の記憶を回復さして、君 が誰であるかを君自身に確かめさせなくちゃ、若林の手前、卑怯に当るからね。……とりあえずこっちに来てみたまえ。今度は吾輩自身が、君の過去を思い出 させる第一回の実験をやってみるんだから……」  私はもう半分夢遊病にかかっている気持ちでフワフワと椅子から離れた。どこからか若林博士の青白い瞳が覗いているような気味わるさの中を、正木博士に 導かれるままに南側の窓に近づいた……が……正木博士の白い診察服の肩ごしに窓の外を一眼見ると、私はハッとして立ち止まった。  眼の下に狂人解放治療場の全景が展開されているのであった。……そうしてその一隅に紛(まぎ)れもない呉一郎が突立っているのであった。……老人の畠 打(はたう)ちを見守りながら、背中をこっちに向けている……髪毛(かみのけ)を蓬々(ぼうぼう)とさした……色の白い……頬ぺたの赤い……黒い着物を ダラシなく纏うた青年の姿……。  その悽惨(みじめ)な姿をアリアリと現実に見た一瞬間、私は思わず眼を閉じた。その上から両手でピッタリと顔を蔽(おお)うた。……とても正視出来な いほどの驚きと……恐れと……云い知れぬ神経の緊張に打たれて……。 ……呉一郎はあそこに居るじゃないか。あれは彼(か)の遺言書の中に書いてあった呉一郎の姿に違いないじゃないか。そうしてあれが呉一郎に間違いないと すれば……ここに立っている私は一体、何者であろう……。 ……たった今窓の外を覗いた一瞬間に、私自身が、私自身から脱け出して行って、姿をかえてあそこに突立っているような……それを、あとに残った魂魄(た ましい)だけが眺めているような……そんなような陰惨な、悽愴とした感じ……。 ……もしや今見たのは私の幻覚ではなかったろうか。白昼の夢というものではなかったろうか……。  頭の中で電光のように、こう考えまわしつつ……何ともいえず息苦しい、不可思議な昂奮に囚(とら)われつつ、私は又も、徐(しず)かに眼を開いてみた 。  しかし解放治療場内の光景は、どう見直しても夢とは思えなかった。……青い青い空……赤い煉瓦塀……白く眩(まぶ)しく光る砂……その上を逍遥(さま よ)う黒い人影……。  その時に、私の前に立って、何かしら考え込んでいた正木博士は、やおら私をふり返って、何気なく窓の外を指(ゆびさ)した。 「……どうだい……ここがどこだか知っているかね君は……」  けれども私は返事が出来なかった。只微(かす)かに首肯(うなず)いて見せたばかりであった。それほど左様(さよう)に私は眼を開いた次の瞬間から、 何ともいえぬ異様な場内の光景に魅せられてしまったのであった。  青空の光りと照し合っている場内一面の白砂の上を、ウロウロと動きまわっている患者たちの黒い影は、殆ど全部が、最前の遺言書に描きあらわしてあった 通りの仕事を、そのままに繰返していた。恰(あたか)も、その一人一人の一挙一動が、正木博士の心理遺伝の原則を、実地に証明する芝居ででもあるかのよ うに……儀作老人は依然として鍬(くわ)を揮(ふる)いつつ、今一本の新らしい砂の畝(うね)を作り……青年呉一郎はやはり、こっちに背中を向けながら 、老人の前に突立って、鍬を動かす手許を一心に見守っている。……年増女(としまおんな)は、ボール紙の王冠を落したのを気付かぬまま、威張ってあるき まわり……それを拝んでいた髯面(ひげづら)の大男は、拝みくたびれたかして、砂の中に額(ひたい)を突込んで眠り……小男の演説家は煉瓦塀に拳固を押 し当てて祈り……痩せた青黒い少女は、老人の作った新しい畝に植えるものを探すらしく、キョロキョロと場内を物色してまわっている。そのほかの連中も、 その位置が違っているように思えるだけで、やっている仕事の意味は、最前読んだ遺言書の説明とすこしも違わない。唯……最前から歌を唄って踊りまわって いた筈の、舞踏狂らしいお垂髪(さげ)の女学生が、私たちの立っている窓のすぐ下に、肩まで手が這入るような砂の穴を掘って、ボール紙の王冠と、松の枯 れ枝を利用しながら、小さな陥穽(おとしあな)を作りかけているのが、少々脱線しているように思われるだけである。しかし、いずれにしても正木博士がた った今話した、昨日(きのう)の正午の大惨事というのは、いつ、どこで、どの狂人が起したものか、そんな形跡さえ見えないのが、私には不思議に思われて 仕様がなかった。舞踏狂の少女が歌をやめたせいか、それとも硝子(ガラス)窓越しに眺めているせいか、すべてが影のようにヒッソリと静り返っている。そ の薄気味わるさ……こころみに人数を数えてみると、やはり遺言書に書いてある通りの十人で、殖(ふ)えても減ってもいないのはどうした事であろう。  しかも、更に不思議な事には、その何も変った事のない、静かにハッキリした光景を見下しているうちに、この十人の狂人の心理遺伝を利用して、正木博士 が仕掛けておいたという精神科学的の大爆発……正木博士の辞職の原因となった大惨事が、もうじきに初まろうとしている……それは昨日の事でもなければ一 昨日(おととい)の事でもない。たった今、眼の前に起りかけている事実なのだ……という予感がして、しようがないのであった。否……場内に居る狂人ばか りではない。向うの屋根の上に二本並んで、藍色の大空を支えている赤煉瓦の大煙突……その上から、たった今吐き出され初めた黒い黒い煤煙のうねり……そ の上にまん丸くピカピカ光っている太陽までもが、何等かの神秘的な精神科学の原則に支配されつつ、時々刻々にその空前絶後の大事変の方へ切迫して行きつ つあるのではないか……というような底知れぬ冷やかな、厳粛な感じが、頻(しき)りに首すじの処へ襲いかかって、全身がゾクゾクして来るのを我慢する事 が出来なかった。そんな馬鹿な事が……と思えば思う程そう思えて仕様がなくなって来るのであった。私はそうした神秘的な……息苦しい気持を押え付けよう 押え付けようと焦燥(あせ)りつつ、なおも、解放治療場内の光景に眼を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉一郎のうしろ姿を、異様な胸の轟きのうちに凝視 した……。  その時であった。私の耳の傍で突然に、低い、囁(ささ)やくような声がしたのは……。 「何を見ているのだね……君は……」  その声の調子は、今までの正木博士のソレとは丸で違っていたので、私は又もドキンとして振り返った。  見ると正木博士は、いつの間にか私のすぐ傍に来て、細い煙の立つ葉巻を手にして突立っていたが、その顔からは今までの微笑が、あとかたもなく消え失せ ていて、鼻眼鏡の下に真黒い瞳を据えたまま穴のあく程私の横顔を睨みつけているのであった。  ……私は深い溜息を一つした。そうして出来るだけ気を落ち付けて返事をした。 「解放治療場を見ているのです」 「フ――ウ――ム」  と腹の底で唸(うな)った正木博士は、やはり瞬き一つせずに私の瞳を見据えた。 「フ――ム。……そうして何か見えているかね……解放治療場の中に……」  私は正木博士の尋ね方が何となく異様なので、静かにその瞳を見返した。 「ハイ……狂人が十人居るようです」 「……ナニ……狂人が十人……」  と慌てた声で云いさした正木博士は、何かしら余程驚いたらしく、今一度グッと私を睨み付けた。  その視線を横頬に感じながら、私は又も解放治療場内をふり返って、呉一郎のうしろ姿を凝視しはじめた。……今にもこっちを振り向いて、私と顔を合わせ そうな気がして……そうしたら、何かしら大変な事が起りそうに思えて……身体(からだ)じゅうが自然(おのず)と固くなるように感じつつ……。 「ウーム……」  と正木博士は私の横で気味のわるい程ハッキリと唸った。 「あの中で狂人が遊んでいるのが、アリアリと見えるかね君には……」  私は無言のままうなずいた。いよいよ奇妙な質問の仕方だとは思いながら、別段気にも止めないで……。 「フ――ム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね」  私は又、うなずきつつ振り返った。 「ハイ。キッチリ十人おります」 「……ウ――ム……」  と正木博士は唸った。真黒い眼の球(たま)を奥の方へ凹(へこ)ませながら……。 「フーム。こいつは妙だ。……トテモ面白い現象だぞこれは……」  と独言(ひとりごと)のように云いつつ、徐(おもむ)ろに私の顔から視線を外(そ)らして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジッと考え 込んでいるようであった。がやがて以前の通りに元気のいい顔色に返ると、ニッコリと白い歯を見せつつ私を振り返った。窓の外を指しつつ快濶(かいかつ) な口調で問うた。 「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」 「ハイ。おります」 「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」  私は正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。 「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」 「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は ……」  正木博士がこう云いさした時、私の全身は何故(なにゆえ)か知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。  その時に正木博士に指(ゆびざ)されていた青年……呉一郎のうしろ姿は、あたかも、何等かの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。私 達の覗いている硝子(ガラス)窓越しに、私とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……今朝(け さ)程、あの湯殿の鏡の中で見た私の顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。……顔の丸い、眼の大きい、腮(あご)の薄い……と思う間も なく、又も、ニコニコと微笑を含みながら、しずかに老人の畠打ちの方に向き直ってしまった……ように思う……。  ……私はいつの間にか両手で顔を蔽(おお)うていた。 「……呉一郎は……私だ……私は……」  と叫びつつヨロヨロとうしろに、よろめいた……ように思う……。  それを正木博士が抱き止めてくれた。そうして噎(む)せかえるほど芳烈な、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれた……ように思 うが、何が何であったかハッキリとは記憶しない。唯、その時に正木博士が、私の耳の傍で怒鳴(どな)っていた言葉だけが、切れ切れに記憶に残っているだ けであった。 「……しっかりしろ。確(しっか)りしろ。そうして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……サアサア……そんなに震えてはいけない。そんなに驚くん じゃない。ちっとも不思議な事はないんだ。……確りしろシッカリ……あの青年が君にソックリなのは当り前の事なんだ。学理上にも理屈上にも在り得る事な んだ。……気を落ちつけて気を、サアサア……」  私はこの時、よく気絶して終(しま)わなかったものと思う。おおかたこの時までに、いろんな不思議な出来事に慣らされていたせいかも知れないが、それ でも、どこか遠い処へ散り薄れかけている自分の魂を、一所懸命の思いで、すこしずつすこしずつ呼び返して、もとの硝子(ガラス)窓の前にシッカリと立た せる迄には何遍眼を閉じたり開(あ)いたりして、ハンカチで顔をコスリまわしたか知れない。しかも、それでも私には今一度窓の外を見直す勇気がどうして も出なかった。頭(こうべ)を低(た)れて床のリノリウムを凝視(みつめ)たまま、何回も何回もふるえた溜め息をして、舌一面に燃え上る強烈なウイスキ ーの芳香(におい)を吹き散らし吹き散らししていたのであった。  正木博士は、その間に手に持っていたウイスキーの平べったい瓶を診察着のポケットに落し込んだ。そうして自分自身もやっと落ち付いたように咳払いをし た。 「イヤ。驚くのも無理はない。あの青年は君と同年の、しかも同月同日の同時刻に、同じ女の腹から生れたのだからね」 「……エッ……」  と叫んで私は正木博士の顔を睨んだ。同時に一切がわかりかけたような気がして、やっと窓の外の呉一郎をふり返るだけの勇気が出た。 「……ソ……それじゃ僕と、あの呉一郎とは双生児(ふたご)……」 「イイヤ違う……」  と正木博士は厳格な態度で首を振った。 「双生児(ふたご)よりもモット密接な関係を持っているのだ。……無論他人の空似でもない」 「……ソ……そんな事が……」  と云い終らぬうちに私の頭は又、何が何やら解らなくなってしまった。一種の皮肉な微笑を含みかけた正木博士の顔の、鼻眼鏡の下の、黒い瞳を凝視した。 冷かしているのか、それとも真面目なのか……と疑いつつ……。  正木博士の顔には見る見る私を憫(あわ)れむような微笑が浮かみあらわれた。幾度も幾度もうなずきつつ、葉巻の煙を吸い込んでは、又吐き出した。 「ウンウン。迷う筈だよ。……君は昔から物の本に載っている、有名な離魂病というのに罹(かか)っているのだからね……」 「……エ……離魂病……」 「……そうだよ。離魂病というのは、今一人別の自分があらわれて、自分と違った事をするので、昔から色んな書物に怪談として記録されているが、精神科学 専門の吾輩に云わせると、学理上実際にあり得る事なんだ。しかし、そいつを現実に、眼の前に見ると、何ともいえない不思議な気持ちがするだろう」  私は慌てて、今一度眼をコスリ直した。恐る恐る窓の外を見たが……青年はもとのまま、もとの位置に突立っている。今度はすこしばかり横顔を見せて…… 。 「……あれが僕……呉一郎と……僕と……どっちが呉一郎……」 「ハハハハハハハ、どうしても思い出さないと見えるね。まだ夢から醒め得ないのだね」 「エッ夢……僕が夢……」  私は眼を真ン丸にして振り返った。得意そうに反(そ)り身になっている正木博士を見上げ見下した。 「そうだよ。君は今夢を見ているんだよ。夢の証拠には、吾輩の眼で見ると、あの解放治療場内には先刻(さっき)から人ッ子一人いないんだよ。ただ、枯れ 葉をつけた桐の木が五六本立っているきりだ……解放治療場は、昨日の大事変勃発以来、厳重に閉鎖されているんだからね……」 「……………」 「……こうなんだ……いいかい。これは、すこし専門的な説明だがね。君の意識の中で、現在眼を醒まして活躍しているのは現実に対する感覚機能が大部分な んだ。すなわち現在の事実を見る、聞く、嗅ぐ、味(あじわ)う、感ずる。そいつを考える。記憶する……といったような作用だけで、過去に関する記憶を、 ああだった、こうだったと呼び返す部分は、まだ夢を見得る程度にしか眼を醒していないのだ。……そこで君がこの窓から、あの場内の光景を覗くと、その一 刹那(せつな)に、昨日まであそこに、あんな風をして突立っていた君の記憶が、夢の程度にまで甦(よみがえ)って、今見ている通りのハッキリした幻影と なって君の意識に浮き出している。そうしてそこに突立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、君の 記憶の中から夢となって現われて来た、君自身の過去の客観的映像で、硝子(ガラス)窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実とを一緒に見 ているのだよ君は……今……」  私はもう一度シッカリと眼をこすった。大きく瞬きをしいしい正木博士の妙な笑い顔を睨んだ。 「……そんなら……僕は……やはり呉一郎……」 「……そうだよ。理論上から云っても、実際上から見ても、君はどうしても呉一郎と名乗る青年でなくては、ならなくなるんだよ。不思議に思うのは無理もな いが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度でない、ハッキリした現実にまでスッカリ回復して終(しま)っ たとなれば、残念ながらこの実験は若林の大勝利で吾輩の敗北だ……かどうだかは、まだ結果を見ないと解らないがね。フフフフ」 「……………」 「……とにかく奇妙奇態だろう。変妙不可思議だろう。しかし、これを学理的に説明すると、何でもない事なんだよ。普通人でも頭が疲れている時とか、神経 衰弱にかかっている時なぞには、よくこんな事があるんだよ。尤も程度は浅いがね……白昼(まひる)の往来を歩きながら、昨夜(ゆうべ)自分が女にチヤホ ヤされて、大持てに持てていた光景を眼の前に思い浮かめてニヤリニヤリと笑ったり、淋しい通りを辿(たど)ってゆくうちにこの間、電車に轢(ひ)かれ損 (そこ)なった刹那の光景を幻視して、ハッと立ち止まったりする。女は又女で、古くなった嫁入道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してポーッとなったり、 女学生時代の自分の思い出の後影(うしろかげ)を逐(お)うて、ウッカリ用もない学校の門の前まで来たり……まだ色々とあるだろう。ちょうど夢の中で、 自分の未来の姿である葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的の記憶が生んだ虚像と、現在の主観的意識に映ずる実像とを、二枚 重ねて覗いているのだ。しかも君のは、その夢を見ている部分の脳髄の昏睡が、普通の睡眠よりもズット程度が深いのだから、その解放治療場内の幻覚も、今 、君が見ている通り、極めてハッキリとしている。熟睡している時の夢と同様に、現実とかわらない程の……否、それ以上の深い魅力をもって君に迫っている ので、現実の意識との区別がなかなかつけにくいのだ」 「……………」 「……おまけに今も云う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能の或る一部分が、ごく最近の事に関する記憶から初めて、少しずつ少しず つ甦(よみがえ)らせながら見せている夢だと思われるから、事によると、まだなかなか醒めないかも知れない。……醒める時はいずれ、窓の外の君と、現在 そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこの室( へや)も、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が 失神しかけた時に、サテは最早(もう)覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」 「……………」  いつの間にか又眼を閉じていた私は、唯、正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから昏迷させられ つつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼を開(あ)いたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌 を動かしていた。  その時であった。殆ど無意識に頭を押えていた私の右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際の処まで撫で卸して来ると、突然、背骨に滲(し)み渡るほ どの痛みを感じたのは……。  私は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少 し膨(ふくら)んでいるようであるが、しかし腫(は)れ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、又は打たれるかした痕跡(あと)である… …今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうして又、今朝(けさ)から今までの間に、そんなに非道(ひど)く頭を打ったおぼえは一つもないのだが ……。  夢に夢見る心地とは、こんな場合をいうのであろう。私はその痛みの上にソッと手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁か ら飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったとこ ろはなかった。ただ最前から解放治療場の附近を舞いまわっているらしい、一匹の大きな鳶(とび)の投影が、又も場内の砂地の上を、スーッと横切っただけ であった。  それを見た時に私は、どうしても一切が現実としか思えない事を自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、又は、恐ろしい精神科学的 現象の重なり合(あい)であるにせよ、私自身にとっては決して、夢でもなければうつつでもない。たしかに実在の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴い ている事を確信しない訳に行かなかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。私は、今一人の自分自身としか思えないほど私によく肖通(に かよ)っている窓の外の青年、呉一郎の立っている姿を、何等の恐怖も感じないままに、今一度冷然と睨み付ける事が出来た。それから徐(おもむ)ろに正木 博士をふり返ると、博士は忽(たちま)ち眼を細くして、義歯(いれば)を奥の方までアングリと露(あら)わした。 「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えても解らないかい。君自身を呉一郎とは思えないかい」  私は無言のまま、キッパリと首肯(うなず)いた。 「ハッハッハッ。イヤ豪(えら)い豪い。実は今云ったのは……みんな嘘だよ……」 「エッ……嘘……」  と云いさして私は思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま正木博士と向き合って、大きな 眼を剥(む)き出していたように思う、恐らく「呆(あっ)」という文字をそのままの恰好で……。  その私の眼の前で正木博士は、さも堪(たま)らなさそうに腹を抱えた。小さな身体(からだ)から、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑い痴(こ)け 初めた。葉巻の煙に噎(む)せて、ネクタイを引き弛(ゆる)めて、チョッキの釦(ぼたん)を外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声毎(ごと)に、室中( へやじゅう)の空気が消えたり現われたりするかと思う程徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。 「ワッハッハッハッ。トテモ痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。アッハッハッハッハッハッ。ああ可笑(おか)し……ああたまらない……憤(おこ) ってはいけないよ君……今まで云ったのは嘘にも何にも、真赤な真赤な金箔(きんぱく)付のヨタなんだよ……アハ……アハ……併し決して悪気で云ったんじ ゃないんだよ。本当はあの青年……呉一郎と君とが、瓜二つに肖通(にかよ)っているのを利用してチョット君の頭を試験して見たんだよ」 「……ボ……僕の頭を試験……」 「そうだよ。実を云うと吾輩はこれから、あの呉一郎の心理遺伝のドン詰まりの正体を君に話して聞かせようと思っているんだが、それにはもっともっと解ら ない事がブッ続けに出て来るんだからね。よほど頭をシッカリしていないと飛んでもない感違いに陥る虞(おそれ)があるんだ。現に今でも君の方から先にあ の青年を『自分と双生児(ふたご)に違いない』なぞと信じて来られると、吾輩の話の筋道がスッカリこんがらがって滅茶(めちゃ)になって終(しま)うか ら一寸(ちょっと)予防注射をこころみた訳さ。アハハハハ」  私は本当に夢から醒めたように深呼吸をした。今更に正木博士の弁力に身ぶるいさせられつつ、今一度、頭の痛い処に手を遣(や)った。 「……しかし、僕のここん処(とこ)が、今急に……疼(うず)き出したのは……」  と云いさして私は口を噤(つぐ)んだ。又笑われはしまいかと思って、恐る恐る眼をパチつかせた。  しかし正木博士は笑わなかった。恰(あたか)もそうした痛い処が私の頭の上に在るのを、ズット以前(まえ)からチャンと知っていたかのように、事もな げな口調で、 「ウン……その痛みかい」  と云ってのけたので、笑われるよりも一層気味がわるくなった。 「それはね……それは今急に痛み出したのではない。今朝(けさ)、君が眼を醒ました前から在ったのを、今まで気が付かずにいたんだよ」 「……でも……でも……」  と私はまだふるえている指を一本ずつ正木博士の前で折り屈(かが)めた。 「……今朝から理髪師(とこや)が一ペン……と、看護婦が一度と……その前に自分で何遍も何遍も……すくなくとも十遍以上ここん処(とこ)を掻きまわし ているんですけど……ちっとも痛くはなかったんですが……」 「何遍引っ掻きまわしていたって、おんなじ事だよ。自分が呉一郎と全然無関係な、赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉一郎の姿 と、自分の姿が生き写しだという事がわかると、その痛みを突然に思い出す。……そこに精神科学の不可思議な合理作用が現われて来る……宇宙万有は悉(こ とごと)く『精神』を対象とする精神科学的の存在に過ぎないので、所謂唯物科学では、絶対、永久に説明出来ない現象が存在する事を如実に証拠立て得る事 になるという、トテモ八釜(やかま)しい瘤(こぶ)なんだよ、それは……すなわち君の頭の痛みは、あの呉一郎の心理遺伝の終極の発作と密接な関係がある のだ。というのは呉一郎は昨夜(ゆうべ)、その心理遺伝の終極点まで発揮しつくして、壁に頭を打ち付けて自殺を企てたのだからね。その痛みが現在、君の 頭に残っているのだ」 「……エッ……エッ……それじゃ……僕は……やはり呉一郎……」 「ママ……まあソンナに慌てるなってこと……虻(あぶ)の心は蜂(はち)知らず。豚の心は犬知らず。張三が頭を打たれても李四は痛くも何ともないという のが普通の道理だ。すなわち唯物科学式の考え方なんだが」  正木博士は突然に、こんな謎のような言葉を、葉巻の煙と一緒にパクパク吐き出した。そうして私がその意味を飲み込めずに面喰(めんくら)っているうち に、片眼をつぶって顰(しか)めながらニヤニヤと笑い出した。 「然るにだ……現在、君自身には赤の他人としか思えない呉一郎の頭の痛みが、如何なる精神科学の作用で、君自身の顱頂骨(ろちょうこつ)の上に残ってい るか……」  私は今一度窓の外を振り向いて、解放治療場の一隅にニコニコ笑いながら突立っている呉一郎の姿を凝視しない訳には行かなかった。しかも、それと同時に 私の頭の痛みが、何となく神秘的な脈動をこめて、新(あらた)に活(い)き活(い)きと疼(うず)き出したように思えてならなかった。  その眼の前に正木博士は、又も一ぷく巨大な烟(けむり)の一団を吹き出した。 「……どうだい。この疑問が君自身で解決出来そうかい」 「出来ません」  と私はキッパリ返事をした。頭を押えたまま……今朝(けさ)眼が醒めた時と同じような情ない気もちになって……。 「出来なければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰やらわからない、風来坊でいる迄の事さ」  私は急に胸が一パイになって来た。それは親に手を引かれて知らない処を歩いていた小児が、急に親から手を放されて、逃げられてしまったような悲しさで あった。思わず頭から手を放して両手を握り合わせた。拝むように云った。 「教えて下さい……先生。どうぞ、お願いですから……僕はもう、これ以上不思議な事に出会(でっくわ)したら死んでしまいます」 「意気地(いくじ)のない事を云うな。ハハハハハ。そんなに眼の色を変えないでも教えてやるよ」 「どうぞ……誰ですか……僕は……」 「まあ待て……それを解らせる前に一ツ約束しておかなくちゃならん事がある」 「……ど……どんな約束でも守ります」  正木博士の顔から微笑が消え失せた。吐き出しかけた煙を口の中へ引っこめて、私の顔をピッタリと見据えた。 「……キット守るか……」 「キット守ります……どんな約束です……」  正木博士の顔には又、博士独特の皮肉な冷笑が浮んだ。 「ナニ。君が今の通りのたしかな気持ちで『俺はどんなに間違っても呉一郎じゃないぞ』という確信を以て聞けば、別に大した骨の折れる約束ではないと思う が……つまり吾輩はこれから呉一郎の心理遺伝事件について、ドンドコドンのドン詰まで突込んだ、ステキな話を進めるつもりだが、その話の内容が、どんな に怖ろしい……又は……あり得べからざる事であろうとも我慢してお終(しま)いまで聞くか」 「聞きます」 「ウン……そうしてその吾輩の話が済んでから、その話の全部が一点の虚偽を交(まじ)えない事実である事を君が認め得ると同時に、その事実を記録して、 あの吾輩の遺言書と一緒に社会に公表するのが君の一生涯の義務である……人類に対する君の大責任である……という事がわかったならば、仮令(たとい)、 それが如何に君自身にとって迷惑な、且つ、戦慄に価する仕事であろうとも必ずその通りに実行するか」 「誓って致します」 「ウム……それから今一つ……もしそうなった暁には、君は当然、あの六号室の少女と結婚して、あの少女の現在の精神異状の原因を取り除いてやる責任があ ることも同時に判明するだろうと思うが、そうした責任も君はその通りに果せるか」 「……そんな責任が本当に……僕にあるんでしょうか」 「それはその場になって、君自身が考えてみればいい……とにかく、そんな責任があるかないか……言葉を換えて云えば、呉一郎の頭の痛みが、どうして君の オデコの上に引っ越したかという理由を明らかにする方法は、頗(すこぶ)る簡単明瞭なんだからね。物の五分間とかからないだろう」 「……そんな……そんな容易(やさ)しい方法なんですか」 「ああ、雑作ない事なんだ。しかも理窟は小学生にでもわかる位で、吾輩の説明なぞ一言も加えないでいい。唯、君が或る処へ行って、或る人間とピッタリ握 手するだけでいいのだ。そうするとそこに吾輩が予期している、或る素晴しい精神科学の作用が電光の如く閃(きら)めき起って……オヤッ……そうだったか ッ……俺はこんな人間だったのかッ……と思うと同時に、今度こそホントウに気絶するかも知れぬ。もしかすると、まだ握手しないうちに、その作用が起るか も知れないがね」 「……それを今やってはいけないんですか……」 「いけない。断じていけない。今君が誰だという事がわかると、今云った通り飛んでもない錯覚に陥って、吾輩の実験をメチャメチャに打ち壊す虞(おそ)れ があるんだ。だから君がスッカリ前後の事実を飲み込んで、それを一つの記録にして社会に公表すべく、吾輩の指図通りの手段を取るのをチャント吾輩の眼で 見届けた上でなくちゃ、その実験をやる訳に行かないと云うのだ。……どうだ。出来るかい……その約束が……」 「……出来……ます……」 「よろしい……それじゃ話そう……イヤ。話が篦棒(べらぼう)に固苦しくなった。こっちへ来たまえ……」  と云ううちに正木博士は、私の手をグングンと引っぱって、大卓子(テーブル)の処へ連れて来て座らせた。自分も旧(もと)の肘掛回転椅子に私と差し向 いに座ると、白い服のポケットからマッチを出して新しい葉巻に火をつけた。吸い残りの短いのは達磨(だるま)の灰落しの口へタタキ込んだ。  私は窓の外が見えなくなったので、ホット重荷を卸したような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問の数々が、益々深刻に交錯して来るのを、頭 の中心にハッキリと感じながら…………。 「イヤ。馬鹿に話が固苦しくなった」  と今一度わざとらしく繰り返した正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になって机の上に両肱をついた。その上に顎を載せて、長い葉巻を横啣(よこ くわ)えにしながら、ニヤニヤと私の顔をのぞき込んだ。 「ところでどうだい。君自身が何者かというような問題はとりあえず別にしておくとして、君は今朝(けさ)見たあの少女をどう思うね」  私は質問の意味が解りかねて眼をパチパチさせた。 「どう思う……とは……」 「美しいとは思わなかったかね」  不意打ちにこうした方角違いの質問を浴びせられた私は狼狽(ろうばい)せずにはおられなかった。頭の中を羽虫のように飛びめぐっていた大小無数の「? (インタロゲーションマーク)」が一時に消えうせて、その代りに黒く潤(うる)んだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月眉……ポーッと薄毛に包まれた 耳……なぞが交(かわ)るがわる眼の前に浮かんで来たと思うと、私の首すじのあたりがポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しか けた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと身体(からだ)中をめぐり初めたように思って、われ知らずハンカチで顔を拭いた。顔中から一面に湯気 が湧き出すような気がして……。  正木博士はニヤニヤしたまま顎でうなずいた。 「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかと訊(き)かれて平気で返事の出来る青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、又は八犬伝 や水滸伝(すいこでん)に出て来る性的不能患者の後裔(こうえい)だからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね」  私は本当を云うと、この時の私の心持ちをここに記録したくない。……が併(しか)し、事実を偽ることは出来ない。私は正木博士からこう尋ねられたお蔭 で、あの少女に対する私の気持ちが、今朝(けさ)初めて会った時以上に一歩も進み出ていないことを、この時初めて気が付いたのであった。ただ、その気味 のわるいほどの初々(ういうい)しさと、眼も当てられぬイジラシイ美しさに打たれただけであった。どうかして正気に返してやりたい……この病院から救い 出してやりたい……そうして思っている青年に会わしてやりたいと思い思いして来ただけであった。そうしてそれが果して彼女に対する私の「恋の表現」の「 変形」であったかどうか……なぞいう事を考えてみる暇(いとま)がなかったのであった。否……それ以上に深く自分の心を解剖するのを彼女に対する冒涜と さえ考えて、心の奥の奥で警戒していた……その図星を正木博士に指されたような気がしたので、私は何のタワイもなく赤面させられてしまったのであった。 石のように固くなって、切口上で返事をしたのであった。 「え……可哀想とは……思いました」  正木博士はこう聞くとサモ満足気に幾度(いくたび)も幾度もうなずいた。その態度を見ると正木博士はこの時に私があの少女を恋しているものと思い込ん でしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕も私は持たなかった。何とかして誤解をさせぬようにとヤキモキ考えているうちに正木博士は、なお も悠々と念入りに点頭(うなず)き直してしまった。 「そうだろうともそうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋した事だからね。そうでないという奴は似非(えせ)道徳屋……」 「……ソ……そんな乱暴な……セ……先生……誤解です……」  と私は周章(あわ)てて半布(ハンケチ)を持った手をあげつつ叫んだ。 「……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情慾とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する冒涜です……精神科 学者にも似合わない乱暴な云い草です……無茶苦茶です。それは……」  というような反駁の言葉を一時に頭の中で閃(ひら)めかしながら……。しかし正木博士はビクともしないでニヤニヤを続けた。 「わかってるわかってる。弁解しなくともいい。君の方ではあの少女に恋なぞされるのは迷惑かも知れないが、まあ任せ給え。君があの少女を恋しているいな いに拘わらず運命に任せ給え。そうしてその運命の結論をつけるべく、あらわれて来た君の頭の痛みと、あの少女とがドンナ関係に於て結ばれているかという 話を聞き給え……少々取り合せが変テコだが。……そいつを聞いて行くうちには、法律と道徳のドッチから見ても、君とあの少女とは、或る運命の一直線上に 向い合って立っていることがわかるからね。この病院を出ると同時に結婚しなければならぬ事が、一切の矛盾や不可思議が解けるにつれて、逐一判明して来る からね」  こうした正木博士の言葉を聞いているうちに、私は又も、ガックリとうなだれさせられてしまった……しかし、それは赤面してうつむいたのではなかった。 その時の私の気持ちは赤面どころではなかった。正木博士の言葉の中に含まれている、あらゆる不可思議な事実の中から、私の現在の立場を解決すべき焦点を 、どうして発見しようかと、又も一所懸命に眼を閉じ、唇を噛み締めたのであった。今朝(けさ)からの出来事を順々に、思い浮めては考え合せ、考え合せて は分解してみたのであった。 ……正木、若林の両博士は、表面上無二の親友のように見せかけているが、内実は互いに深刻な敵意を抱き合っている仇讐(かたき)同志である。 ……その仲違(なかたが)いの原因は、私と呉一郎を実験材料とした精神科学に関する研究から端を発しているらしく、今はその闘いが、白昼公々然とこの教 室で行われる位にまで高潮して来ている。 ……しかし、私とあの六号室の少女とを無理にも結婚させようとする意志だけは二人とも奇妙に一致しているようである。 ……しかも、万に一つ私が、あの呉一郎と同一人か、もしくは呉一郎と同名、同年の、同じ姿の青年であって、あの少女が又、呉モヨ子に相違ないとすれば、 実に変テコな事になるのだ。すなわち私達二人をその結婚の前夜に、或る精神科学的の犯罪手段に引っかけて、このような浅ましい運命に陥れたものは、この 二人の博士以外に在り得ないように思われるではないか。……コンナ矛盾した事が又とほかに在り得ようか。 ……尤(もっと)も強いて解釈をつけようとすれば付かぬ事もない。二人の博士は何等かの学理研究の目的で一人の少女と、双生児(ふたご)の片ッ方か何か とを、見ず知らずの赤の他人同志のまま、わざわざ精神病患者にして、或る念の入った錯覚に陥れて、二人が本気でクッ付き合うように仕向けている……と考 えられぬ事もないが、併(しか)し、いくら何でもソンナ残忍不倫を極めた、奇怪千万な学理実験が、人間の心と、人間の手で行われ得るとは考えられない。 ……そもそもこうした矛盾と不可解は、どこの行き違いから来たものであろう。 ……二人の博士はドウシテこんなに私を中心にして騒ぎまわるのであろう……。  ……と……。  けれども、それは詰るところ無用の努力であった。そんな風に考えれば考えるほど一切がこんがらがって来て、推測すればする程不可解に縺(もつ)れ乱れ て来るばかりであった。しまいには考える事も推測する事も出来なくなって、唯、眉をしかめて、唇を噛んでいる石像のような自分の姿を頭の中で想像しつつ 、凝然と眼を閉じているばかりとなった……。  ……コツコツ……コツコツ……扉をたたく音……。  私はギクンとして眼を見開いた、魘(おび)えたようになって入口の扉を見た。もしや若林博士ではないかと思って……けれども正木博士は見向きもしない で頬杖を突いたまま、ビックリする程大きな声を出した。 「オーイ……這入れエーッ……」  その声が室中(へやじゅう)に響き渡ると間もなく鍵穴をガチャガチャいわせて、扉を半分ばかり開きながら這入って来た者を見ると、それは九州帝国大学 の紺のお仕着せを着たテカテカ頭の小使いであった。もう余程の老人らしく、腰を真二つに折り屈(かが)めていたが、右手に支えた塗盆(ぬりぼん)の上に 煤(すす)けた土瓶と粗末な茶碗二個(ふたつ)とを載せて、左手にはカステラを山盛りにした菓子器を捧げながら、ヨチヨチと大卓子(テーブル)に近づい て、不思議そうな顔をして見ている正木博士の前に置いた。そうして何かに魘(おび)えているかのようにオドオドと禿頭(はげあたま)を下げたが、揉(も )み手をしいしい首を擡(もた)げて、正木博士と私の顔を霞んだ眼で等分にキョロキョロと見比べると、又一つ、床に手が届くくらい馬鹿叮嚀なお辞儀をし た。 「ヘイヘイ、今日はまことによいお天気様で……ヘイヘイ……これはあの、学部長様からのお使いで、お二方(ふたかた)様のお茶受けに差し上げてくれいと の、お申し付けで御座いましたが……ヘヘイ……」 「アハハハハハハ。そうかい。若林がよこしたのかい。フーム……イヤ御苦労御苦労。若林が自分で持って来たんかい」 「イエ……あの、学部長様が先刻(さきほど)からお電話で御座いまして、正木先生がまだおいでになるかとお尋ねで御座いましたから、私はビックリ致しま して、如何か存じませぬがチョット見て参りましょうと申しまして、お室(へや)の外まで参りますと、お二人様のお声が聞えました。それで学部長様に左様 (さよう)申し上げましたれば、それならば後から物を持たしてやるから、お茶受けに差し上げてくれいとのことで……ヘイ」 「ウン。そうかそうか。たしかに受け取った。暇なら話しに来いと電話で云っとけ。イヤ御苦労御苦労……入口の鍵は掛けなくともいいぞ」 「ヘヘヘイ。先生方がおいでになりますことはチョットも存じませんで……きょうは私一人で御座いますもんじゃけん、まだお掃除も致しませんで……まこと に不行届きで……申訳御座いませんで……ヘイヘイ……」  小使の爺(じじい)は二人の前に、危(あぶな)っかしい手附きで茶を注(つ)いで出すと、何遍もお辞儀しいしい禿頭を光らせて出て行った。  そのあとを見送って、扉の閉まるのを見届けた正木博士はイキナリ前屈(まえこご)みになってカステーラの一片を手掴みにすると、たった一口に頬張り込 んで熱い茶をグイグイと呑んだ。そうして私にも喰えという風に眼くばせをした。  しかし私は動かなかった。両手を膝の上に束ねて眼を瞠(みは)ったまま、正木博士のする事を見ていた。何かは知らず私には解らない別の意味で、互いに 火花を散らしているらしい二人の博士の緊張ぶりに心を惹(ひ)かれながら……。 「アハハハハハ。何もそんなに気味わるがる事はないよ。これだから吾輩は悪党が好きなんだ。彼奴(きゃつ)め吾輩が昨夜から徹夜をして、何も喰っていな い事を知っていやがるんだ。そこで吾輩の大好物の長崎のカステラを遣(よこ)して上杉謙信を気取りやがったんだ。病院の前で患者の見舞用に売っているシ ロモノだから何も心配する事はない。猫イラズも何も這入ってやしないよ。ハハハハハハハ」  と云ううちに又二片(きれ)三片(きれ)口の中へ押し込んで茶を立て続けに飲んだ。 「ああ美味(うま)い。時にどうだい。これからもっと話を進めるんだが、その前に、今さっき読んだ呉一郎の前後二回の発作については、もう何も疑問の点 は残っていないかい」 「あります」  と私は鸚鵡(おうむ)返しに返事をした。ところがその返事は、私の思いもかけないハッキリした声で飛び出して室中に大きな反響を起したので、私は吾( わ)れながらハッとした。思わず座り直して下腹へ力を入れた。  それはたった今眼の前で起った小さな波瀾……カステーラ事件のために、今まで行き詰まっていた私の気持ちがクルリと転換させられたのかも知れない。そ れともツイ今しがた失神しかけた時に飲まされたウイスキーが、この時やっと、本当の利き目を現わして来たのであったかも知れないが、いずれにしてもこの 時に、私の返事が室(へや)の中で「ウワ――ン」と反響して消え失せたのを耳にすると急に勇気付けられたような気持ちになりつつ、熱い茶を一杯グッと飲 み込んだ……が、その又お茶の美味(おい)しかった事……舌から食道へと煮え伝わって行く芳(かん)ばしい薫(かお)りを、クリ返しクリ返し味わって行 くうちに、全身の関節がフンワリと弛(ゆる)んで、血の循環がズンズンとよくなって来るのがわかった。気持ちがユッタリとなって、頭がポッカリと軽くな って、吾れにもあらず濡れた唇を嘗(な)めまわしながら、正木博士の顔を見据えたのであった。ウイスキー臭い、熱い鼻息をフ――ッと吹きながら……。 「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉一郎と思う事は絶対に出来ない……」  と大きな声で宣言したいような気持ちになりつつ……。すると又、不思議にも、それにつれて今の今まで私の身の上に起って来た色々の出来事が、まるで赤 の他人の事のように考えられて何ともいえず面白くなって来たのであった。今朝から見たり聞いたりした色々様々な事が、さながら百色眼鏡でも覗いているか のように、云い知れぬ興味と色彩とを帯びつつ、クルリクルリと眼の前で回転し初めると同時に、たった今まで、とてもオッカナイ、物騒な相手に見えていた 二人の博士が、チットモ怖くなくなった許(ばか)りでなく、ステキに面白いオモチャ見たような存在に見えて来たのであった。 ……二人の博士はキット何かしら飛んでもない大きな感違いをしているのだ。 ……事によるとこの事件の真相は、思いもかけぬ阿呆(あほ)らしい喜劇かも知れないぞ。 「……私と瓜二つの青年がいて、二人共奇想天外式の精神病に罹(かか)っている。そのためにその二人が混線してしまって、ドッチがドッチだか解らなくな ったのを、二人の博士が競争で見分けようとしてウンウン云っているが、どうしても解らない。とうとう苦し紛(まぎ)れに、そのドッチかの許嫁(いいなず け)であった少女をそのドッチかにくっつけて結論にして、その手柄を自分のものにすべく、あらゆるペテンを尽して鎬(しのぎ)を削っている……というよ うな、途方もなく愉快奇抜な筋書とも見れば見られるではないか。……面白いな……いよいよソンナ事に違いないと決定(きま)れば二人の博士が私の敵(か たき)だろうが味方だろうが、その二人が私にかけているダマシの手段が、如何に巧妙な恐ろしいものであろうが、チットモ恟々(びくびく)する事はない。 是非とも私自身にこの事件の正体がわかるところまで突込んで行かなければ嘘だ。そうして事件の真相をトコトンまで抉(えぐ)り付けて、あの少女をこのキ チガイ地獄から救い出して、二人の博士の鼻を明したら、どんなにか痛快至極だろう……」  ……というような、無暗(むやみ)に大胆な、浮き浮きした気分にかわってしまったのであった。……室(へや)の中の爽快な明るさ……窓一パイの松の青 さ……その中に満ち満ちている白昼の静けさなぞが、今更に気持ちよく、身に沁(し)みて来たのであった。  しかし、こんな風に私の頭の中が変化してしまったのはほんの数秒の間の事であったように思う。間もなく吾に帰ってみると、正木博士は、そうした私の顔 を鼻眼鏡越(ごし)にニヤリと眺めながら頭のうしろに両手をまわして反(そ)りかえっていた。私の質問を待っているかのように……。  私はちょっと間誤付(まごつ)いた。どっちにしても質問したい事があんまり多過ぎるので……しかし、どこからでも構わない気で、眼の前の遺言書を取り 上げてバラバラと繰って行くうちに、やがて事件記録抜萃の一番おしまいの処まで来ると、そこを指して正木博士に見せた。 「この……絵巻物の写真版と、その由来記を挿入のこと……と書いてあります。その本物は、どうなっているのですか」 「アッ。そいつは……」  と云い終らぬうちに正木博士は両手を卸して、大卓子(テーブル)の端をドシンと叩いた。 「……そいつはうっかりしていたよ。ハッハッハッ。君の記憶を回復させようというので夢中になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見せるのを忘 れていた。そいつを見なくっちゃ呉一郎の心理遺伝の正体はわからない。吾輩の遺言書も、仏作って魂入れずだ。ハハハハハハ……イヤ失敗失敗。睡眠不足で 頭が少々御座ったかナ……イヤ。早速お眼にかけよう。コレ……ここにあるがね」  正木博士はこう云って頭を掻きつつ、片手を伸ばして横に在るメリンスの風呂敷包みを引き寄せた。手早く結び目を解いて、中から長方形の新聞包みと、厚 さ二寸位の西洋大判罫紙(フールスカップ)の綴込(つづりこ)みを抱え出すと、わざわざ北側の窓の処まで持って行って風呂敷をハタイた。 「……プッ……プップッ……どうもヒドイホコリだ。長い事ストーブの穴に放り込みっ放しだったもんだからね。……ところで見給え。この綴込みが姪の浜事 件に関する若林の調査書で、君が読んだその抜萃の原本だ。あの肺病患者特有の冴え返った神経で、二重にも三重にも、透きとおるほど綿密に調べ抜いてある んだからトテモ遣り切れたものじゃない。だから読むにしてもいずれ後(あと)からユックリの事にしてもらって、今日は取り敢えずこの絵巻物と、その由来 記を見てもらう事にしよう……ところでまず由来記の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た方が面白いだろうからナ……」  こうした言葉の中(うち)に新聞の包みが開かれると、その中の白木の箱の上に置いてある日本紙一帖位の綴込みが、無雑作に私の前に投げ出された。 「それはこの絵巻物の奥付になっている由来記の写しだ。つまりこの如月寺(にょげつじ)の縁起譚(ものがたり)の前に起った出来事で、今から凡(およ) そ一千百年前の大昔から初まった呉一郎の心理遺伝のソモソモが書いてあるんだが、君がそれを読んでいるうちに……ハテナ……これはズット以前にコンナ処 でこうして読んだ事があるぞ……という事実をハッキリと思い出すか出さないかが、矢張(やは)り若林と吾輩の生死の別れ目になるんだ。ね。そうだろう。 それを読んだ記憶が一分一厘でも君のアタマに残っておれば、君は呉一郎に相違ないのだからね……ハハハハ……とにかく読んでみたまえ。遠慮する事はない 。素敵に面白い話だから……」  私はそれが如何に貴重な内容の書類であるかを百も承知していながら……しかもその書類によって正木博士が、私に試みつつある精神科学の実験が、如何に 重大深刻な意味を持っているかを、察し過ぎる位察していながら、些(すこ)しもそんな緊張した気持ちになれなかったのは不思議であった。或(あるい)は 飲んだばかりのウイスキーが、いくらか利いていたせいでもあったろうが、却(かえ)って正木博士の真似でもするかのように無雑作に、その綴込みを取り上 げて、矢張り無雑作にその第一頁(ページ)を飜(ひるがえ)したが、見ると中には四角い漢字が真黒に押し固まって、隙間もなく並んでいるのであった。 「ワー。これあ漢文……しかも白文じゃありませんか。句読(くぎり)も送仮名(おくりがな)も何も付いてない……トテモ僕には読めません。これは……」 「フーン。そうかい。フーン、それじゃ仕方がないから、取りあえずその内容の概要(あらまし)を、吾輩が記憶している範囲で話しておくかね」 「ドウカそうして下さい」 「……ウーイ……」  と正木博士は曖気(おくび)をしながら反(そ)り返った。スリッパを穿(は)いたまま椅子の上に乗って、両膝を抱えるとクルリと南側を向いて、頭の中 を整理するように眼を半開(はんびらき)にして窓の光りを透かしながら、ホッカリと青い煙を吐いた。  私もウイスキーがまわったせいか、何となく倦(だる)いような、睡たいような気持ちになりつつ、机の上に両肱を立てて顎(あご)を載せた。 「……ゲップ……ウ――イイ……と、そこでだ。そこで大唐の玄宗皇帝というと今からちょうど一千一百年ばかり前の話だがね。その玄宗皇帝の御代(みよ) も終りに近い、天宝十四年に、安禄山(あんろくさん)という奴が謀反(むほん)を起したんだが、その翌年の正月に安禄山は僭号(せんごう)をして、六月 、賊、関(かん)に入(い)る、帝(みかど)出奔(しゅっぽん)して馬嵬(ばかい)に薨(こう)ず。楊国忠(ようこくちゅう)、楊貴妃(ようきひ)、誅 (ちゅう)に伏す……と年代記に在る」 「……ハア……よく記憶(おぼ)えておられるんですねえ先生は……」 「歴史の面白くない処は、暗記しとくもんだよ。……ところでその玄宗皇帝が薨じたのは年代記の示す通り天宝十五年に相違ないらしいが、それより七年以前 (まえ)の天宝八年に、范陽(はんよう)の進士(しんし)で呉青秀(ごせいしゅう)という十七八歳の青年が、玄宗皇帝の命を奉じ、彩管(さいかん)を笈 (お)うて蜀(しょく)の国に入(い)り、嘉陵江水(かりょうこうすい)を写し、転じて巫山巫峡(ふざんふきょう)を越え、揚子江を逆航(ぎゃっこう) して奇勝名勝を探り得て帰り、蒐(あつ)むるところの山水百余景を五巻に表装して献上した。帝これを嘉賞(かしょう)し、故翰林(かんりん)学士、芳( ほう)九連(れん)の遺子黛女(たいじょ)を賜う。黛は即ち芬(ふん)の姉にして互いに双生児(ふたご)たり。相並んで貴妃(きひ)の侍女となる。時人 (じじん)これを呼んで花清宮裡(かせいきゅうり)の双 ※(「虫+夾」、第3水準1-91-54) (そうきょう)と称す。時に天宝十四年三月。呉青秀二十有五歳。芳黛十有七歳とある」 「これあ驚いた。トテモ記憶(おぼ)え切れない。それもヤッパリ年代記ですか」 「イヤ。これは違う。『黛女を賜う』という一件の前後までは『牡丹亭秘史(ぼたんていひし)』という小説に出ている。その小説には玄宗皇帝と楊貴妃が、 牡丹亭で喋々喃々(ちょうちょうなんなん)の光景を、詩人の李太白(りたいはく)が涎(よだれ)を垂らして牡丹の葉蔭から見ている絵なぞがあって、支那 一流の大甘物(あまもの)だが、その中でも、呉青秀に関する記述の冒頭だけは、この由来記の内容と一字一句違わないから面白いよ。そのうち文科の奴に研 究させてやろうと思うが、第一非常な名文で、思わず識(し)らず暗記させられる位だ」 「そうですかねえ。でも何だか、漢文口調のお話は、耳で聞いただけでは解らないようですね。その使ってある字を一々見て行かないと……」 「ウン。それじゃモット柔かく行くかナ」 「ドウゾ……助かります」 「ハハハハハハ。要するにこの玄宗皇帝というおやじは、楊貴妃と一緒にお祭りの行燈絵(あんどんえ)に描かれる位で、古今のデレリック大帝だ。四夷(し い)を平らげ、天下を治め、兵農を分ち、悪銭を禁じ……と来たまではよかったが、楊貴妃に鼻毛を読まれて何でもオーライで、兄貴の楊国忠(ようこくちゅ う)を初め、その一味の碌(ろく)でなし連中をドンドン要職に引き上げた。つまり忠臣を逐(お)い出して奸臣(かんしん)を取り巻きにして、太平楽を歌 った訳だね。あげくの果は驪山宮(りさんきゅう)という宏大もない宮殿の中に、金銀珠玉を鏤(ちりば)めた浴場(バス)を作って、玉のような温泉を引い て、貴妃ヤンと一緒に飛び込んで……お前とオーナラバ、ドコマデモオ……と来たね」 「ウワア。やわらか過ぎます。……それじゃア」 「イヤ。真面目に聞いてくれなくちゃ困る。チャン公一流のヨタなんかコレンバカリも混っていないんだぜ。これがあの四五年前に流行した『ドコマデモ』と いう俗謡の本家本元なんだ。チャント記録に残っているんだ」 「……ヘエ。そんなもんですかね」 「そうだとも。第一お前さんと一緒ならサハラだのナイヤガラ見たような野暮(やぼ)な処へは行かない。一緒に天に昇って並んだ星になって、下界の人間を トコトンまで羨やましがらせましょうというんだから遣り切れないよ。覗いて聞いていた奴もタイシタ奴に違いないが……」 「しかし、それが絵巻物とドンナ関係があるんですか」 「大ありだ。まあ急(せ)かないで聞き給え。大陸の話だからナカナカ焦点が纏まらないんだよ。いいかい……こんな文化式の天子だから玄宗皇帝は芸術ごと が大好きで、李太白なぞいう、呑んだくれの禿頭(とくとう)詩人を贔屓(ひいき)にして可愛がる一方に、当時、十九か十八位の青年進士呉青秀に命じて、 遍(あま)ねく天下の名勝をスケッチして廻らせた。すなわち居ながらにして天下を巡狩(じゅんしゅ)しようという、有難い思召(おぼしめし)だ……ドウ ヤラ貴妃様の御注文らしいがね」 「絵の天才だったのですねその青年は……」 「無論さ。十八九の青年の癖に、古今に名高い禿頭の大詩人、李太白の詩と並ぶ絵を描く奴だから、生優しい腕前じゃないよ。もっとも運が悪くて夭死(わか じ)にしたために、名前も描いたものも余り残っていない。前にも云った通りその頃の記録には勿論の事、近頃の年代記類にも記載してあるにはあるが、書物 によって年代や名前が少し宛(ずつ)違っていて、確実なところはわからないようになっている。しかし、何しろここに詳しい事を記載した実物の証拠がある んだから、将来の史学家はイヤでもこの方を本当にしなければなるまいて」 「そうするとその絵巻物はトテモ貴重な参考史料なんですね」 「貴重などころの騒ぎじゃない……ところで話はすこし前に帰るが、その青年進士呉青秀は、天子の命を奉じてスケッチ旅行を続けている間がチョウド六年で 、久し振りの天宝十四年に長安の都に帰って来ると、そのお土産の風景絵巻が、頗(すこぶ)る天子の御意(ぎょい)に召して、御機嫌斜(ななめ)ならず、 芸術家としての無上の面目を施した上に、黛子(たいこ)さんという別嬪(べっぴん)の妻君を貰った。おまけにチョウド水入らずで暮せるような、美しいお 庭付きの小ヂンマリした邸宅を拝領したりして、トテモ有り難い事ずくめだったので、暫くは夢うつつのように暮していた訳だね。ところがその中(うち)に 、だんだんと落ち付いて来ると、時恰(あた)かも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴、妖 ※(「(屮/(師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90) (ようげつ)、頻々(ひんぴん)として起り、天下大乱の兆が到る処に横溢しているのに気が付いた。しかも天子様はイクラお側の者が諫(いまし)めても糠 (ぬか)に釘どころか、ウッカリ御機嫌に触れたために、冤罪(えんざい)で殺される忠臣が続々という有様だ。……これを見た呉青秀は喟然(きぜん)とし て決するところあり、一番自分の彩筆の力で天子の迷夢を醒まして、国家を泰山の安きに置いてやろうというので、新婚匆々(そうそう)の黛夫人に心底を打 ち明けて、ここで一つ天下のために、お前の生命(いのち)を棄ててくれないか。いずれ自分も、あとから死んで行くつもりだが……と云ったところが……あ なたのおためなら……という嬉しそうな返事だ……」 「トテモ素敵ですね」 「純然たる支那式だよ。それから呉青秀は大秘密で大工や左官を雇って、帝都の長安を距(さ)る数十里の山中に一ツの画房を建てた。つまりアトリエだね。 しかしその構造は大分風変りで、窓を高く取って外から覗かれないようにして、真ン中に白布を蔽(おお)うた寝台を据え、薪炭菜肉(しんたんさいにく)、 防寒防蠅(ぼうよう)の用意残るところなく、籠城(ろうじょう)の準備が完全に整うと、黛夫人と一緒にコッソリ引き移った。そうしてその年の十一月の何 日であったかに、夫婦は更に幽界でめぐり会う約束を固め、別離の盃、哀傷の涙よろしくあって、やがて斎戒沐浴(さいかいもくよく)して新(あらた)に化 粧を凝(こ)らした黛夫人が、香煙縷々(るる)たる裡(うち)に、白衣を纏うて寝台の上に横たわったのを、呉青秀が乗りかかって絞め殺す。それからその 死骸を丸裸体(はだか)にして肢体を整え、香華(こうげ)を撒(さん)じ神符(しんぷ)を焼き、屍鬼(しき)を祓(はら)い去った呉青秀は、やがて紙を 展(の)べ、丹青(たんせい)を按配しつつ、畢生(ひっせい)の心血を注いで極彩色の写生を始めた」 「……ワア……凄い事になったんですね。さっきの縁起書とは大違いだ」 「……呉青秀は、こうして十日目毎(ごと)にかわって行く夫人の姿を、白骨になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写し止(とど)めて、玄宗皇帝に献上し、 その真に迫った筆の力で、人間の肉体の果敢(はか)なさ、人生の無常さを目の前に見せてゾッとさせる計劃であったという。ところが何しろ防腐剤なぞいう ものが無い頃なので、冬分(ふゆぶん)ではあったが、腐るのがだんだん早くなって、一つの絵の写し初めと写し終りとは丸で姿が違うようになった。とうと う予定の半分も描(か)き上げないうちに屍体は白骨と毛髪ばかりになってしまった……というのだ。……或は科学的の知識が幼稚なために、土葬した屍体の 腐り加減を標準にして計劃したのかも知れないが……何にしても恐ろしい忍耐力だね」 「あんまり寒いから火を焚(た)いて室(へや)を暖めたせいじゃないでしょうか」 「……ア……ナルホド。暖房装置か、そいつはウッカリして気が付かずにいた。零下何度じゃ絵筆が凍るからね……とにかく忠義一遍に凝(こ)り固まって、 そんな誤算がある事を全く予期していなかった呉青秀の狼狽(ろうばい)と驚愕は察するに余(あまり)ありだね。新品卸し立ての妻君を犠牲にして計劃した 必死の事業が、ミスミス駄目になって行くのだから……号哭(ごうこく)、起(た)つ能(あた)わずとあるが道理(もっとも)千万……遂(つい)に思えら く、吾、一度天下のために倫常(りんじょう)を超ゆ。復(また)、何をか顧(かえりみ)んという破れかぶれの死に物狂いだ。そこいら界隈の村里へ出て、 美しい女を探し出すと、馴(な)れ馴れしく側へ寄って、あなたの絵姿を描いて差上げるからと佯(いつわ)って、山の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルに しようと企てたが……」 「ウワア……トテモ物騒な忠君愛国ですね」 「ウン。こんな執念深さは日本人にはないよ。けれども何をいうにも、ソウいう呉青秀の風釆が大変だ。頬が落ちこけて、鼻が突(と)んがって、眼光竜鬼( りゅうき)の如しとある。おまけに蓬髪垢衣(ほうはつこうい)、骨立悽愴(こつりゅうせいそう)と来ていたんだから堪(たま)らない。袖を引かれた女は みんな仰天して逃げ散ってしまう。これを繰り返す事累月(るいげつ)。足跡遠近に及んだので、評判が次第に高くなって、どの村でもこの村でも見付け次第 に追い散らしたが、幸いにして山の中の隠れ家を誰も知らなかったので、生命(いのち)だけは辛(かろ)うじて助かっていた。然れ共呉青秀の忠志は遂(つ い)に退かず、至難に触れて益々凝(こ)る。遂(つい)に淫仙(いんせん)の名を得たりとある。淫仙というのはつまり西洋の青髯(ブルーベヤード)とい う意味らしいね」 「ヘエ……しかし淫仙は可哀相ですね」 「ところがこの淫仙先生はチットモ驚かない。今度は方針を変えて婦女子の新葬を求め、夜陰に乗じて墓を発(あば)き、屍体を引きずり出して山の中に持っ て行こうとした。ところが俗にも死人担(かつ)ぎは三人力という位で、強直の取れたグタグタの屍体は、重量の中心がないから、ナカナカ担ぎ上げ難(にく )いものだそうな。それを一所懸命とはいいながら、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、出来るだけ傷をつけないように、山の中まで担いで行こうとい うのだから、並大抵の苦労ではない。あっちに取り落し、こっちへ担ぎ直して、喘(あえ)ぎ喘ぎ抱きかかえて行くうちに、早くも夜が明けて百姓たちの眼に 触れた。かねてから淫仙先生の噂を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまい事か、テッキリ屍姦だ。極重悪人だというので、ワイワイ追いかけて来たか ら淫仙先生も止むを得ず屍体を抛棄(ほうき)して、山の中に姿を隠したが、もう時候は春先になっていたのに、二三日は、その背中に担いだ屍体の冷たさが 忘れられなくていくら火を焚(た)いても歯の根が合わなかったという」 「よく病気にならなかったものですね」 「ウン。風邪ぐらい引いていたかも知れないがね。思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力をあらわすもんだよ。況(いわ)んや呉青秀の忠志は氷雪より も励(はげ)しとある。四五日も画房の中にジッとして、気分を取り直した呉青秀は、又も第二回の冒険をこころみるべく、コッソリと山を降って、前とは全 然方角を違えた村里に下り、一挺(ちょう)の鍬(くわ)を盗み、唯(と)ある森蔭の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光りに照らされた一基 の土饅頭の前に、花を手向(たむ)けているのが見える。この夜更けに不思議な事と思って、窃(ひそ)かに近づいてみると、件(くだん)の女性は、遠い処 の妓楼(ぎろう)から脱け出して来た妓女(おんな)らしく、春装を取り乱したまま土盛りの上にヒレ伏して『あなたは何故(なにゆえ)に妾(わたし)を振 り棄てて死んだのですか』と掻(か)き口説(くど)く様子を見ると、いか様(さま)、相思の男の死を怨(うら)む風情である。忠義に凝った呉青秀は、こ の切々の情を見聞して流石(さすが)に惻※(そくいん)[#「隱」の「こざとへん」に代えて「りっしんべん」、U+61DA、487-14]の情に動か されたが、強いて心を鬼にして、その女の背後(うしろ)に忍び寄り、持っていた鍬で一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意して来た縄で手足を縛って背中に背 負い上げ、鍬を棄てて逃げ去ろうとした。すると忽(たちま)ち背後(うしろ)の森の中に人音が聞えて、女の追手と覚(おぼ)しき荒くれ男の数名が口々に 『素破(すわ)こそ淫仙よ』『殺人魔よ』『奪屍鬼(だっしき)よ』と罵(のの)しりつつ立ち現われ、前後左右を取り巻いて、取り押えようとした。呉青秀 は、これを見て怒(いかり)心頭に発し、屍体を投げ棄てて大喝一番『吾が天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二 三人、墓原(はかばら)にタタキ付け、鍬を拾い上げて残る人数をタタキ伏せ追い散らしてしまった。その隙(ひま)に、又も妓女(おんな)の屍体を肩にか けてドンドン山の方へ逃げ出したが、エライもので、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると、担いで来た屍体を浄(きよ)めて黛夫人の残骸の代りに床上に 安置し、香華(こうげ)を供え、屍鬼を祓(はら)いつつ、悠々と火を焚いて腐爛するのを待つ事になった。ところがそのうちに又、二三日経つと、思いもか けぬ画房の八方から火烟(ひけむり)が迫って来て、鯨波(ときのこえ)がドッと湧き起ったので、何事かと驚いて窓から首をさし出してみると、画房の周囲 は薪が山の如く、その外を百姓や役人たちが雲霞(うんか)の如く取り巻いて気勢を揚げている様子だ。つまり何者かが、コッソリ呉青秀の跡を跟(つ)けて 来て、画房を発見した結果、こんなに人数を馳(か)り催して、火攻めにして追い出しにかかった訳だね。その時に呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、 黛夫人の髪毛(かみのけ)の中から出て来た貴妃の賜物(たまもの)の夜光珠(やこうじゅ)……ダイヤだね……それから青琅 ※(「王+干」、第3水準1-87-83) (せいろうかん)の玉、水晶の管(くだ)なぞの数点を身に付けて、生命(いのち)からがら山林に紛れ込んだが、それから追捕を避けつつ千辛万苦する事数 箇月、やっと一ヶ年振りの十一月の何日かに都に着くと蹌踉(そうろう)として吾家(わがや)の門を潜った。既に死生を超越した夢心地で、恍惚求むるとこ ろなし。何のために帰って来たのか、自分でも解らなかったという」 「……ハア。ホントに可哀相ですね。そこいらは……」 「ウム。ちょうど生きた人魂(ひとだま)だね。扨(さ)て門を這入ってみると北風(ほくふう)枯梢(こしょう)を悲断(ひだん)して寒庭(かんてい)に 抛(なげう)ち、柱傾き瓦落ちて流 ※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61) (りゅうけい)を傷(いた)むという、散々な有様だ。呉青秀はその中を踏みわけて、自分の室(へや)に来て見るには見たものの、サテどうしていいかわか らない。妻の姿はおろか烏(からす)の影さえ動かず。錦繍(きんしゅう)帳裡(ちょうり)に枯葉(こよう)を撒(さん)ず。珊瑚(さんご)枕頭(ちんと う)呼べども応えずだ。涙滂沱(ぼうだ)として万感初めて到った呉青秀は、長恨悲泣(ちょうこんひきゅう)遂(つい)に及ばず。几帳(きちょう)の紐を 取って欄間(らんま)にかけ、妻の遺物を懐(ふところ)にしたまま首を引っかけようとしたが、その時遅く彼(か)の時早く、思いもかけぬ次の室(へや) から、真赤な服を着けた綽約(しゃくやく)たる別嬪(べっぴん)さんが馳け出して来て……マア……アナタッと叫ぶなり抱き付いた」 「ヘエ――。それは誰なんですか一体……」 「よく見ると、それは、自分が手ずから絞め殺して白骨にして除(の)けた筈の黛夫人で、しかも新婚匆々時代の濃艶を極めた装おいだ」 「……オヤオヤ……黛夫人を殺したんじゃなかったんですか」 「まあ黙って聞け。ここいらが一番面白いところだから……そこで呉青秀はスッカリ面喰(めんくら)ったね。ウ――ンと云うなり眼を眩(ま)わして終(し ま)ったが、その黛夫人の幽霊に介抱をされてヤット息を吹き返したので、今一度、気を落ち付けてよく見ると、又驚いた。タッタ今まで新婚匆々時代の紅い 服を着ていた黛子さんが、今度は今一つ昔の、可憐な宮女時代の姿に若返って、白い裳(もすそ)を長々と引きはえている。鬢鬟(びんかん)雲の如く、清楚 (せいそ)新花(しんか)に似たり。年の頃もやっと十六か七位の、無垢(むく)の少女としか見えないのだ」 「……不思議ですね。そんな事が在り得るものでしょうか」 「ウン。呉青秀も君と同感だったらしいんだ。危くまた引っくり返るところであったが、そのうちに、ようようの思いで気を取り直して、どうしてここに…… と抱き上げながら、その少女を頭のテッペンから、爪の先までヨクヨク見上げ見下してみると、何の事だ……それは黛夫人の妹で、双生児(ふたご)の片われ の芬子(ふんこ)嬢であった」 「ナアンダ。やっぱりそうか。しかし面白いですね。芝居のようで……」 「どこまでも支那式だよ。そこでヤット仔細(わけ)がわかりかけた呉青秀は、芬子さんを取り落したまま、開(あ)いた口が閉(ふさ)がらずにいると、そ の膝に両手を支えた芬子さん、真赤になっての物語に曰(いわ)く……ほんとに済まない事を致しました。嘸(さぞ)かしビックリなすった事で御座んしょう 。何をお隠し申しましょう。妾(あたし)はズット前からタッタ一人でこの家(うち)に住んでいて、姉さんが置いて行った着物を身に着けて、スッカリ姉さ んに化け込みながら、毎日毎日お義兄(にい)さまに仕える真似事をしていたんです。……妾の主人の呉青秀はこの頃毎日室(へや)に閉じ籠って、大作を描 いておりますと云い触らして、食料も毎日二人前宛(ずつ)、見計(みはか)らって買い入れるし、時折りは顔料(えのぐ)や筆なぞを仕入れに行ったりして 誤魔化(ごまか)していましたので、近所の人々は皆(みんな)……この天下大乱のサナカに、そんなに落ち付いて絵を描(か)くとは、何という豪(えら) い人だろうと……眼を丸くして感心していた位です。……妾はそんなにまでして苦心しいしい、お二人のお留守番をして、お帰りになるのを今か今かと待ちな がら、この一年を過したのですが、今日も今日とてツイ今しがた、買物に行って帰って来ますと、この室(へや)に物音がします。その上に誰か大きな声でオ イオイ泣いているようなので、怪しんで覗いて見たら、お義兄(にい)さまが死のうとしていらっしゃるのでビックリして、そのままの姿で抱き止めたのです 。それから気絶なすった貴方を介抱しておりますと、弛(ゆる)んだ貴方の懐中(ふところ)から、固く封じた巻物らしい包みと、姉さんが大切にしていた宝 石や髪飾りが転がり出して来ました。それと一緒に貴方が夢うつつのまま、どこかを拝む真似をしながら……黛よ。許してくれ。お前一人は殺さない……と泣 きながら譫言(うわごと)を仰言(おっしゃ)ったので、サテは姉さんはモウお義兄(にい)さまの手にかかって、お亡くなりになったのだ……そうしてお義 兄(にい)様は妾を姉さんの幽霊と間違えていらっしゃるのだ……という事がヤット解りましたから、お義兄(にい)さまの惑いを晴らすために、急いで自分 の一帳羅(いっちょうら)服に着かえてしまったのです。……ですが一体お義兄(にい)さまは、どうして黛子姉さんをお殺しになったのですか。そうして今 日が日まで一年もの長い間、どこで何をしていらっしたんですか……と涙ながらに詰め寄った」 「ハア……しかし何ですね。……その前にその芬子という妹は、何だってソンナ奇怪(おかし)な真似をしたんでしょうか。姉さんの着物を着て、その夫に仕 える真似事をしたりなんか」 「ウンウン……その疑問も尤(もっと)もだ。呉青秀もやっぱり同感だったろうと思われるね。それともまだ開(あ)いた口が塞(ふさ)がらずにいたのかも 知れないが、何の答えもあらばこそだ。依然として芬子嬢の顔を見下したまま唖然(あぜん)放神の体(てい)でいると、やがて涙を拭いた芬子嬢は、幾度も うなずきながら又曰(いわ)く……御もっともで御座います。これだけ申上げたばかりではまだ御不審が晴れますまいから、順序を立ててお話しましょうが… …お話はずっと前にさかのぼって丁度去年の暮の事です。……姉さんが宮中を去ってからというものは、外(ほか)に身寄り便(たよ)りのない妾の淋しさ心 細さが、日に増し募(つの)って行くばかりでした。そのうちに又、ちょうど去年の今月の、しかも今日の事……大切な大切なお義兄(にい)さま達御夫婦が 、外(ほか)ならぬ妾にまでも音沙汰(おとさた)なしで、不意に行衛(ゆくえ)を晦(くら)ましておしまいになったと聞いた時の妾の驚きと悲しみはどん なでしたろう。一晩中寝ずに考えては泣き、泣いては考え明かしましたが、思いに余ったその翌る日の事、楊貴妃様から暫時(しばし)のお暇を頂いた妾は、 お二人の行衛を探し出すつもりで、とりあえずこの家に来て見ました。そうして妾を見送って来た二人の宦官(かんがん)と、家(うち)の番をしていた掃除 人を還(かえ)してから、唯一人で家内の様子を隈なく調べてみますと、姉さんは死ぬ覚悟をして家を出られたらしく、結婚式の時に使った大切な飾り櫛を、 真二つに折って白紙に包んだまま、化粧台の奥に仕舞ってあります。けれども義兄(にい)さんの方は、そんな模様がないばかりか、絵を描(か)く道具をス ッカリ持ち出していらっしゃる様子……これには何か深い仔細(わけ)がある事と思いながら、そのままこの家に落ち付く事にきめましたが、それからという ものは今も申しました通り、スッカリ姉さんに化けてしまって、義兄(にい)さんと一緒に帰って来ているような風に出来るだけ見せかけておりました。仕合 (しあわ)せと義兄(にい)さんは子供の時から絵を描(か)き初められると、何日も何日も室(へや)に閉じ籠って、決して人にお会いにならない。御飯も 碌(ろく)に召し上らない事が多かったと聞いていましたから、近所の人や、お客様を欺(だま)すのには、ホントに都合がよかったのです。……しかし何故 (なにゆえ)妾がこんな奇怪(おかし)な事をしていたのかと申しますと、これはジッとしていながら、お二人の行衛を探すのに一番都合の良い工夫だと思っ たからです。つまりこうしておりますと、お二人とも世にも名高い御夫婦ですから、万一ほかでお姿を見た者があるとしたら、すぐに妾が怪しまれます。そう したらそれと一緒に、お二人の行衛もわかる事になるのですから、その時にあとを追うて行けばよい。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったと て、なかなか見付かるものではない……と思い付いたからの事です」 「……ヘエ……その妹はなかなかの名探偵ですね」 「ウン……この妹の方は姉と違ってチョットお侠(きゃん)なところがあるようだが、なおも言葉を続けて曰(いわ)くだ……しかし妾のこうした計劃は余り 利き目がありませんでした。……というのは妾がこの家に来てから十日も経たぬうちに天下は忽(たちま)ち麻と乱れて兵馬(へいば)都巷(とこう)に満ち 、迂濶(うかつ)に外へも出られないようになった。……のみならず、お金はなくなる。家は荒廃する。仕方なしに妾は此家(ここ)の台所に寝起きをして、 自分の身に附いたものは勿論のこと、義兄(にい)さん夫婦の家具家財や衣類なんぞを売り喰いにしていましたが、その中(うち)でも一番最後に残しておい たのが姉の新婚匆々時代の紅い服一着と、自分が着ていた宮女の服一着でした。その中でも又、この紅い服は、あく迄も妾を姉さんと認めさせるために外出着 としていたものです。又、宮女の服というのは、妾の忘れられない思い出と一緒に取っといたのですが、楊貴妃時代のスタイルで、ウッカリ持ち出すと反逆者 の下役人に見咎(みとが)められる虞(おそ)れもありますので、ソックリそのまま寝間着(ねまき)に使っていたのでした。妾はこの一年の長い間、こんな にまで苦心してお帰りを待っていたのです。……それだのに、あなたはイッタイ何のために、姉さんを殺してお終(しま)いになったんですか。そうして此家 (ここ)へ何しに帰って見えたんですか。そのお姿はどうなすったんです。姉さんを殺されたくらいなら、妾も序(ついで)に殺してちょうだい……というう ちに、ワッとばかりに泣出した」 「ずいぶん姉思いの妹ですね」 「ナアニ。前から呉青秀にモーションをかけていたんだよ」 「……ヘエ……どうして解ります」 「……どうしてって素振(そぶ)りが第一訝(おか)しいじゃないか。生娘(きむすめ)の癖に、亭主持ちの真似をして、一年近くも物凄い廃屋(あばらや) に納まっているなんてナカナカ義理や物好きでは出来るものじゃないよ。その間に人知れぬ希望と楽しみがなくちゃ……しかも姉の新婚匆々時代の紅い服を着 て歩きまわるところなんぞは、ドウ見ても支那一流の、思い切った変態性慾じゃないか。あるいは玄宗皇帝時代に、空閨(くうけい)に泣いていた夥(おびた だ)しい宮女たちから受けた感化かも知れないが」 「……ですけども、自分はそう思っていないじゃないですか」 「無論、そんな自省力を持ち得る年頃じゃないさ。殊(こと)に女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気儘な自己陶酔に陥って 行ける訳さ。気持ちの純な、頭のいい人間の変態心理は、ナカナカ見分けが付きにくいんだよ。……その代りこっちの眼さえ利いて来れば、そこいらの無邪気 な赤ん坊や、釈迦、孔子、基督(キリスト)にでも色んな変態心理を見出すことが出来る」 「……驚いたなあ。……そんなもんですかナア……」 「まだまだ驚く話が、今までの話の裏面に隠れているんだが、それは、あとから説明するとして、サテ、少々話が長くなったから端折(はしお)って話すと、 その時に呉青秀に迫って、根掘り葉掘り、これまでの事情を聞いた上に、現実の証拠として、自分とソックリの姉の死像を描いた絵巻物を開いて見せられた芬 子嬢は、実に断腸(だんちょう)、股栗(こりつ)、驚駭(きょうがい)これを久しうした。けれども結局、義兄夫婦の忠勇義烈ぶりにスッカリ感激して号泣 慟哭(どうこく)して云うには、蒼天蒼天、何ぞ此(かく)の如く無情なる。あなたは御存知あるまいが、あなたが姉さんの亡骸(なきがら)を写生し初めた 昨年の十一月というのが安禄山が謀反(むほん)を起した月で、天宝の年号は去年限り、今は安禄山の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬嵬 (ばかい)で殺されてお終(しま)いになった。折角の忠義も水の泡です。それよりも妾と一緒に、どこかへ逃げて下さらない……とキワドイところで口説( くど)き立てた」 「無鉄砲な女ですね。又殺されようと思って……」 「イヤ。今度は大丈夫なんだ。……というのは呉青秀先生、自分の全部を投げ出してかかった仕事がテンからペケだった事が、芬子の説明で初めて解ったのだ 。そこでアメリカをなくしたコロンブスみたいにドッカリとそこへ座ると、茫然自失のアンポンタン状態に陥ったまま、永久に口が利けなくなってしまったの だ。旧式の術語で云うと心理の急変から来る自家障害という奴だね。……そいつを見ると芬子さんイヨイヨ気の毒になって、天を白眼(にら)んで安禄山の奸 (かん)を悪(にく)んだね。同時にこの忠臣のお守りをして、玄宗皇帝や楊貴妃の冥福を祈りつつ一生を終ろうという清冽(せいれつ)晶玉(しょうぎょく )の如き決心を固めた……と告白しているが、実は大馬力をかけたお惚気(のろけ)だね」 「……まさか……」 「イヤ。それに違いないんだ。後で説明するがね……そこで呉青秀が懐(ふところ)にしていた姉の遺品(かたみ)の宝玉類を売り払って、画像だけを懐に入 れて、妖怪(ばけもの)然たる呉青秀の手を引きながら、方々を流浪したあげく、その年の暮つかた、どこへ行くつもりであったか忘れたが舟に乗って江(こ う)を下り、海に浮んだ。すると暴風雨数日の後(のち)、たった二人だけ生き残って絶海に漂流する事又十数日、遂(つい)に或る天気晴朗な払暁(あけが た)に到って、遥か東の方の水平線上に美々しく艤装(ぎそう)した大船が、旗差物(はたさしもの)を旭(あさひ)に輝やかしつつ南下して行くのを発見し た。そこで息も絶え絶えのまま、手招きをして救われると、その美しい船の中で、手厚い介抱を受ける事になったが、この船こそは日本の唐津を経て、難波( なにわ)の津に向う勃海使(ぼっかいし)の乗船であった。勃海国というのはその時分、今の満洲の吉林(キーリン)辺にあった独立国で、時々こうして日本 に貢物(みつぎもの)を持って来た事が正史にも載っているがね」 「何だかお伽話(とぎばなし)みたいになりましたね」 「ウム。何となく夢幻的なところがやはり支那式だよ。それから芬子さんの涙ながらの物語りで詳しい事情を聞いた船中の者は、勃海使を初め皆、満腔の同情 を寄せた。一様に呉氏の生き甲斐のない姿を憐れみ、且(か)つ芬夫人の身の上に同情して、手厚い世話をしながら日本に連れて行く事になったが、その途中 のこと、船中が皆眠って、月が氷のように冴え返った真夜半(まよなか)に、呉青秀は海に落ちたか、天に昇ったか、二十八歳を一期(いちご)として船の中 から消え失せてしまった。……芬夫人は時に十九歳、共に後を逐(お)おうとして狂い悶えたが、この時、既に呉青秀の胤(たね)を宿して最早(もはや)臨 月になっていたので、人々に押し止められながら辛(かろ)うじて思い止(とど)まると、やがて船の中で玉のような男の児(こ)を生んだ」 「やっと芽出度(めでた)くなって来たようですね」 「ウン、船中でも死人が出来て気を悪くしているところへ、お産があったと聞いたので喜ぶまい事か、手(て)ん手(で)に色々なお祝いの物を呉(く)れて 盛に芽出度がった上に、勃海使の何とかいう学者が名付け親となって、呉忠雄(ごちゅうゆう)と命名し、大袈裟(おおげさ)な命名式を挙げて前途を祝福し つつ、唐津に上陸させて、土地の豪族、松浦某に托した。そこで芬夫人はその由来をこの絵巻物に手記して子孫に伝えた……めでたしめでたしというわけだ」 「じゃその名文は芬夫人が書いたんですね」 「イヤ。文字はたしかに女の筆附きだが、文章の方はとてもシッカリしたもので、どうしても女とは思えない。処々に韻(いん)を践(ふ)んであったり、熟 字の使い方や何かが日本人離れをしているところなぞを見ると、やっぱりその名付親の勃海使が芬夫人の譚(ものがたり)に感激して、船中の徒然(つれづれ )に文案を作ってやったのを、芬夫人が浄書したものではあるまいかと思う。若林はその字体が、弥勒(みろく)像の底に刻んである字と似ているから勝空( しょうくう)という坊主が自分で聴いた話と、昔の文書とを照し合わせて文を舞わしたのじゃないかと云っているが、しかし肉筆と彫刻とは非常に字体が違う 事があるから当てにはならない」 「何にしても唐津の港では大評判だったでしょうね……芬夫人の身の上が……」 「無論、大いに一般の同情を惹(ひ)いたろうと思われる。何しろ日本人の大好きな忠勇義烈譚と来ているからね」 「そうですねえ。……それから今ヒョット思い出したんですが、その勝空という坊さんは、その絵巻物を弥勒像に納めてから、男は一切近づいてはいけないと 云ったそうですが、それはどうした理由(わけ)でしょう」 「……ソ……そこだて……そこがトテモ面白いこの話の眼目になるところで、延(ひ)いては大正の今日に於ける姪(めい)の浜(はま)事件の根本問題にま で触れて来るところなんだ。手っ取り早く云えばその勝空というお坊様は、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝チウものがある事をチャンと知って御座っ たのだ」 「ヘエ――ッ……そんなに大昔から心理遺伝の学問が……」 「あったどころの騒ぎじゃない。あり過ぎて困る位あった。……すなわち宇宙間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間 と進化して来たもので、コイツに囚(とら)われている奴ほど自由の利かない下等な存在という事になる。だから思い切って今のうちにキレイサッパリと心理 遺伝から超越しちまえ。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という宣言(プロパガンダ)を、新生(アラキ)のまま民衆にタタキ付けたのが基督( キリスト)で、オブラートに包んで投(ほう)り出したのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓で囃(は や)し立てて売り出したのがお釈迦様という事になるんだ。そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞいう当世向きの名 前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値を貪(むさ)ぼろうと企てているのが、ここにいる吾輩という事になるがね……ハッハッハッ……まあ、そん な事はドウでもいいとして、勝空という坊さんの名前はどうやら天台宗らしいから、多分法華経あたりを読んでこの理屈を悟ったんだろう……。  この絵巻物を見るとタッタ一眼で過去、現在、未来の三世の因果因縁がナアール程とわかった。呉青秀(ごせいしゅう)の子孫がこれを見ると同時に遺伝心 理を刺戟されて、先祖の真似を初めるのは無理もない。ケンノンケンノン……不憫(ふびん)至極な事と思ったのであろう。世界の一番おしまいに出て来ると いう弥勒菩薩(みろくぼさつ)の像を刻(きざ)んで、その中に封じ込めて『男見るべからず』と固く禁制しておいた。……ところが見てはいけないと云われ るとイヨイヨ見たくてたまらなくなるのが『安達(あだち)ヶ原(はら)』以来の人情だもんだから、呉青秀の子孫の中(うち)にコッソリと、弥勒様の首を 引き抜いて、絵巻物を取り出して見る奴が出て来た。そいつがみんなキチガイになって暴れ出した訳なんだが、そこへやって来たのが呉虹汀(くれこうてい) の美登利屋坪太郎(みどりやつぼたろう)だ……こいつが又、禅学か何かの力で、この心理遺伝の作用を看破して、一思いに絵巻物を焼いて終(しま)おうと した。……か、どうか知らないが、おおかた惜(おし)かったんだろう……表面は焼いたふりをして、実は焼かずに元の穴へ納めて、巻物の供養を大々的にや ったりしてお茶を濁しておいた。その絵巻物が又、現代の物質万能の世界に大見得(おおみえ)を切って出現して、恐るべき悲劇を捲き起した……というのが 大体の筋道だがね……」 「ハア……やっと解ったようですが……しかしその絵巻物を見てキチガイになるのが男に限っているのは何故(なにゆえ)でしょうか」 「ウムッ……豪(えら)い。豪いぞ君は……ステキな質問だぞ、それは……」  と云ううちに正木博士は突然にテーブルを平手でタタイたので、私はビックリして座り直した。何だか解らないままに胸をドキンとさせながら……。しかし 正木博士は委細構わずに言葉を続けた。 「イヤ感心感心。この事件の興味のクライマックスは実にそこに在るんだ。スッカリ心理遺伝学の大家になっちゃったナ。君は……」 「……ドウしてですか……」 「ドウシテじゃない。まあこの絵巻物を開いて見給え。今の疑問は一ペンに解けてしまうから……もっとも、それと同時に君がホントウの呉一郎ならば、呉青 秀の子孫としての心理遺伝的夢遊をフラフラと初めるか初めないか……又は自分はどこそこの何の某(それがし)という者で、ドンナ来歴でこの事件に関係し て来たかという過去の記憶を一ペンにズラリと回復するかしないか……それとも又『この絵巻物はこの前に、いつどこで、どんな奴から見せられた事がある』 という、この事件の黒星のまん中をピカリと思い出すか出さないか……若林と吾輩のドッチが勝つか負けるか……そうして最後に君の将来は如何なる因果因縁 の下に、イヤでもあの美しい令嬢とスイートホームを作らなければならぬのか……というようなアラユル息苦しい重大問題がこの絵巻物を見ると同時に、一ペ ンに解決される事になるかも知れないのだからね。ハッハッハッハッ」  正木博士は一息にこう云ってしまうと口一パイの白い義歯を露(あら)わしつつ高らかに笑って見せた。その片手に眼の前の新聞の包みを引き寄せて、無雑 作にガサガサ引き披(ひら)くと、中から長方形の白木の箱が出た。その蓋を今度は叮嚀な手付きで開いて、直径三寸、長さ六寸位の鬱紺木綿(うこんもめん )の包みを取り出すと箱のふちに一端を載せて、その上からソッと蓋を置きながら、私の前に押し進めた。  今まで弛(ゆる)み加減になっていた私の全神経は、正木博士の高やかな笑いの波動のうちに、見る見る一パイに緊張して来たのであった。  ……冷(ひや)かしているのか……威嚇(いかく)しているのか……又は何等かの暗示を与えているのか、それとも亦(また)……心安立てに冗談を云って いるのか……全く見当のつかないその笑い顔を見ているうちに、私は又もその笑い顔の持ち主が、世にも恐るべく、戦慄すべき魔法使いその者のように見えて 来て仕様がなかった。しかし又それと同時に…… ……何を糞ッ……高の知れた絵巻物の一巻に、男一匹が発狂するまで飜弄されるような事が、あり得よう筈はない……ドンナ名人の手に成った如何にモノスゴ イ絵であるにしろ、要するに色と線との配合以外の何者でもないだろう。況(いわ)んやこっちで覚悟をしている以上、何の恐ろしい事があろう……ヨシッ… …  というような反抗心が見る見る高まって来るのを押え付ける事が出来なかった。  ……だから私はできるだけ冷静な態度で箱を引き寄せた。そうして木の蓋と、鬱紺木綿を開くと、又も、どことなく緊張しかけて来た感情を押え付けようと 力(つと)めつつ、まず絵巻物の外側から見まわした。  巻物の軸は美しい緑色の石で八角形に磨いてあるが、あまり美しいので思わず指を触れて撫で廻してみた位であった。表装の布地(きれ)はチョット見たと ころ織物のようであるが、眼を近づけて見るとそれは見えるか見えぬ位の細かい彩糸(いろいと)や金銀の糸で、極く薄い絹地の目を拾いつつ、一寸大の唐獅 子の群れを一匹毎(ごと)に色を変えて隙間(すきま)なく刺した物で、貴いものである事がシミジミとわかって来る。千年も昔のものだというのにピカピカ と新しく見えるのは、叮嚀に蔵(しま)ってあったせいであろう。その一隅には小さな短冊型の金紙が貼りつけてあるが、何も書いた痕(あと)はない。 「それが問題の縫(ぬ)い潰(つぶ)しという刺繍なんだよ。呉一郎の母の千世子は、それを手本にして勉強したに違いないのだ」  と正木博士は投げ遣るように説明しつつ、クルリと横を向いて葉巻を吹かし初めた。しかし私も丁度そんなような聯想を頭に浮かめていたところだったので 、格別驚きもせずにうなずいた。  象牙の篦(へら)を結び付けた暗褐色の紐を解いて巻物をすこしばかり開くと、紫黒色の紙に金絵具(きんえのぐ)で、右上から左下へ波紋を作って流れて 行く水が描いてあるが、非常に優雅な筆致(ふでつき)に見えた。私はその青暗い平面に浮き出している夢のような、又は細い煙のような柔らかい金線の美し い渦巻きに魅せられながら、何の気もなくズルズルと右から左へ巻物を拡げて行ったのであったが……やがて眼の前に白い紙が五寸ばかりズイとあらわれると 、私は思わず…… 「……アッ……」  と叫びかけた。けれどもその声は、まだ声にならない次の瞬間に咽喉(のど)の奥へ引返してしまった。……巻物を両手に引き拡げたまま動けなくなってし まった。息苦しい程胸の動悸が高まって……。  そこに横たわっている裸体婦人の寝顔……細い眉……長い睫毛(まつげ)……品のいい白い鼻……小さな朱唇……清らかな腮(あご)……それはあの六号室 の狂美少女の寝顔に生き写しではないか……黒い、大きな花弁(はなびら)の形に結(ゆ)い上げられた夥しい髪毛(かみのけ)が、雲のように濛々(もうも う)と重なり合っている……その鬢(びん)の恰好から、生え際のホツレ具合までも、ソックリそのままあの六号室の少女の寝姿を写生したものとしか思われ ないではないか…………。  しかしこの時の私には「何故」というような疑問を起す余裕がなかった。その寝顔……否、眠っているかのように見える表情の下から、微妙な彩色や線の働 らきによって見え透いて来る死人の相好(そうごう)の美くしさ……一種譬(たと)えようのない魅力の深さに、全霊を吸い寄せられ吸い奪われてしまって、 今にもその眼がパッチリと開きはしまいか。そうして最前のように「アッ……お兄様ッ……」と叫んで飛び付いて来はしまいか……というような、あり得べか らざる予感に全神経を襲われつづけていたのであった。瞬(まばたき)一つ出来ず、唾液一つ呑み込み得ないままに、その臙脂(えんじ)色の薄ぼけた頬から 、青光りする珊瑚(さんご)色の唇のあたりを凝視していたのであった。 「ハッハッハッ。馬鹿に固くなっているじゃないか。エー……オイ。どうだい。大したものだろう。呉青秀(ごせいしゅう)の筆力は……」  絵巻物の向うから正木博士がこんな風に気軽く声をかけた。しかし私は依然として身動きが出来なかった。唯やっと切れ切れに口を利く事が出来ただけであ った。今までと丸で違った妙なカスレた声で……。 「……この顔は……さっきの……呉モヨ子と……」 「生き写しだろう……」  と正木博士はすぐに引き取って云った。その途端に私は、やっと絵巻物から眼を外(そ)らして、正木博士のこっちに振り向いた顔を見る事が出来たが、そ の顔には一種の同情とも、誇りとも、皮肉とも何ともつかぬ笑いが一面に浮き出していた。 「……どうだい面白いだろう。心理遺伝が恐ろしいように肉体の遺伝も恐ろしいものなんだ。姪の浜の一農家の娘、呉モヨ子の眼鼻立ちが、今から一千百余年 前(ぜん)、唐の玄宗皇帝の御代(みよ)に大評判であった花清宮裡(かせいきゅうり)の双 ※(「虫+夾」、第3水準1-91-54) 姉妹(そうきょうきょうだい)に生き写しなんていう事は、造化の神でも忘れているだろうじゃないか」 「……………」 「歴史は繰り返すというが、人間の肉体や精神もこうして繰り返しつつ進歩して行くものなんだよ。尤(もっと)もコンナのはその中でも特別誂(あつら)え の一例だがね……呉モヨ子は、芬(ふん)夫人の心理を夢中遊行で繰り返すと同時に、その姉の黛(たい)夫人が、喜んで夫の呉青秀に絞め殺された心理も一 緒に繰り返しているらしい形跡があるのを見ると、二人の先祖にソンナ徹底したマゾヒスムスの女がいて、その血脈を二人が表面に顕(あら)わしたものかも 知れぬ。又は呉青秀を慕う芬女の熱情が、思う男の手にかかって死んだ姉の身の上を羨ましがる位にまで高潮していたと認められる節(ふし)もある。しかし そこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、呉青秀と、黛芬姉妹の夫婦愛の極致を顕(あら)わしていることはたやすく解るだろう……とにかくズット 先まで開いて見たまえ。呉一郎の心理遺伝の正体が、ドン底まで曝露して来るから……」  私はこの言葉に追い立てられるように、半ば無意識に絵巻物を左の方へ開いて行った。  それから順々に白紙の上に現われて来た極彩色の密画を、ただ、真に迫っているという以外に何等の誇張も加えないで説明すると、それは右を頭にして、両 手を左右に伏せて並べて、斜(ななめ)にこっち向きに寝かされた死美人の全長一尺二三寸と思われる裸体像で、周囲が白紙になっているために空間に浮いて いるように見える。それが間隔三四寸を隔てて次から次へと合わせて六体在るのであるが、皆殆ど同じ姿勢の寝姿で、只違うのは、初めから終りへかけて姿が 変って行っている事である。  すなわち巻頭の第一番に現われて私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白(せっぱく)の肌で、頬や耳には臙脂(えんじ)の色がなまめかしく浮 かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃い睫毛(まつげ)を伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔(おとな)しそうなみめかたちを凝視していると 、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。  然(しか)るに第二番目の絵になると、皮膚(はだ)の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらか腫(は)れぼったく見える上に、眼のふちのま わりに暗い色が泛(うか)み漂(ただよ)い、唇も稍(やや)黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。  その次の第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の背後(うしろ)と、腹部の皮膚の処々が赤く、又は白く爛(ただ)れはじめて、眼はウッスリと輝 き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のように膨(ふく)らんで光っている。  第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、爛れた処は茶褐色、又は卵白色が入り交(まじ)り、乳が辷(すべ)り流れて肋骨が青白く露 (あら)われ、腹は下側の腰骨の近くから破れ綻(ほころ)びて、臓腑の一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れ て白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトに濡れて脱け落ちた髪毛(かみのけ)の中からは、美しい櫛や珠玉の類がバ ラバラと落ち散っている。  第五になると、今一歩進んで、眼球が潰(つい)え縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑は腹の皮と一緒に 襤褸切(ぼろき)れを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになってしまい、肋骨(あばらぼね)や、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた恥骨(ちこつ )のみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている。  最終の第六図になると、唯、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然 こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。  ……私は嘘を記録する事は出来ない。あとから考えても恥かしい限りであるが、私はおしまいの方ほど急いで見た。  勿論、この絵巻物を開いた最初のうちこそ、一種の反抗心と共に落ち付いた態度を保っていたが、死美人の絵が出て来ると間もなくそんな気持ちはどこへや ら消えうせて、巻物を開き進める手がだんだんと早くなるのを自覚しながら、どうしてもそれを押し止める事が出来なくなった。それでも眼の前の正木博士に 笑われてはいけないと思って一所懸命に息を詰めて、出来るだけ念を入れて見たつもりであったが、それでもとうとうしまいには我慢出来なくなって、第六番 目の絵なぞは殆ど眼の前を通過させただけと云ってよかった。画面から湧き出して来る底知れぬ鬼気と、神経から匂って来る堪(た)え難い悪臭に包まれて、 殆ど窒息しそうな思いをしながら、やっと、おしまいの由来記の頭が見える処まで来ると、思わずホッとして吾に返った。それから四五尺の長さにメッキリと 書き詰めた漢文の上を形式ばかり眼を通して、その結末にある、 大倭朝(やまとちょう)天平宝字(てんぴょうほうじ)三年(ねん)癸亥(きがい)五月(がつ)於(おいて)[二]西海(さいかい)火国(ひのくに)末羅 潟(まつらがた)法麻殺几駅(はまさきえきに)[一] 大唐(だいとう)翰林学士(かんりんがくし)芳九連(ほうきゅうれん)二女(じょ)芬(ふん) 識(しるす)  という文字を二三度繰り返して読んで、いくらか気を落付けてから、もとの通りに巻き返して箱の横に置いた。それから神経を鎮(しず)めるべく椅子に背 を凭(も)たせて、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。 「……どうだ。驚いたろう。ハハハハハ。これだけ描いてもまだ足りないと思った、呉青秀の心理がわかるかね」 「……………」 「常識から考えれば天子を驚かすには、そこに描いてある六ツの死美人像だけで沢山なんだ。大抵の奴はその半分を見ただけでも参ってしまうんだ。それに呉 青秀が、なおも新しい女の屍体を求めたというのは、彼が病的の心理に堕落していた証拠だ。自分の描いた死美人の腐敗像に咀(のろ)われて精神に異状を来 たしたんだ。その心理がわかるかね君には……」  こうした言葉を鼓膜にピンピンと受け付けながら、眼をシッカリと閉じて、両手でグッと押え付けている、瞼(まぶた)の内側の薄赤い暗(やみ)の中に、 たった今見たばかりの死美人の第一番目の絵像が、白い光りを帯びてウッスリと現われた。……と思う間もなく第二図、第三図と左から右へ順々に辷(すべ) り初めたが、ちょうど第五番目の死後五十日目にあらわしている、白茶気た笑い顔のところまで来ると、ピタリと眼の前に静止してしまった。  私は思わず身ぶるいをした。パッと眼を開くと、いつの間にか椅子を廻転さして、こっちを正面に腕を組んでいる正木博士と視線がカチ合った……途端に博 士は黒ずんだ唇の間から義歯(いれば)を光らしてニッと笑いつつ、その顔の両脇に在る赤い薄っペラな耳朶(みみたぶ)をズッと上の方へ動かしたので、私 は又、思わずゾッとして眼を伏せた。 「ウフフフフフフ。ぞっとしたろう。ウフフフフフフ……ゾッとする筈だ。……あの呉一郎も初めてこれを見た時には、君と同じように慄(ふる)え上がった に違いないのだ。……恰(あたか)も太古の生物の遺骸が、石油となって地層の底に残っているように、あの呉一郎の心理の底に隠れ伝わっていた祖先の一念 は、この絵巻物を見てゾッとすると同時に点火されたんだ。……そうしてみるみるうちに一切の現実の意識を打ち消すほどの大光明となって燃え上って来た。 過去も、現在も、未来も、日月星辰(じつげつせいしん)の光りもことごとくその大光明に掻き消されてしまって、自分自身が呉青秀と同じ心理……すなわち 呉青秀自身になり切ってしまうまでゾッとし続けたのだ……姪の浜の石切場の赤い夕日の中に立ち上って、この絵巻物を捲き納めながら、ホッと溜め息をして 西の空を凝視していた呉一郎は、最早(もはや)、今までの呉一郎ではなかったのだ。呉青秀の熱烈な慾求そのものを全身の細胞に喚び起した、或る青年の記 憶力、判断力、習慣性なぞの残骸に過ぎなかったのだ……呉一郎が発狂以後今日まで、呉青秀と同じ心理で暮して来たことは、この由来記に現われている呉青 秀の心理の推移と、呉一郎の今日までに於ける精神病状態の経過が、全然同一であるところを見ても遺憾なく推察される。否、二人の行動に現われた心理の推 移を精神病理的に観察してみると、呉一郎は、一千年後の呉青秀に相違ないのだ」  私は又、別の気持ちでゾッとして腰をかけ直した。 「この驚くべき奇怪な現象を理解するには、まず、呉一郎と呉青秀とがどんな順序で入れかわって行ったかという、その精神病理的の階梯(かいてい)から明 かにして行かねばならぬ。平たく云えば、如何に秀才とはいえ、中学卒業以来漢文を勉強しなかったという呉一郎が、純粋の漢文の白文で、四五尺近くも細か に書き続けてあるこの由来記を、発狂するほど深刻な程度にまでドウして読みこなし得たか……という事から疑ってかからねばならぬ。……どうだ……わかる かね。その理由が」  私は正木博士の底光りする眼を凝視(みつ)めたまま、乾燥した咽喉(のど)に唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。 「……わかるまいナ……わからない筈だ。呉一郎が自分の学力でこの由来記を読んだと思うと誰でも理屈がわからなくなる」 「……じゃ誰か……読んで聞かせた……」  と云いも終らぬうちに私は愕然として慄(ふる)え上がった。 ……誰か……何者かが傍に附いていたんだ……今しがた私が聞いたような説明をして聞かせた奴が居たんだ……居たんだ……そいつが……そいつが……そいつ は……そいつは……  こう思ううちに一しきり高まっていた心臓の鼓動が又ピッタリと静まった。そうして、それと同時に正木博士の厳粛な眼の光りが次第次第に柔らいで行くの を見た。一文字に結ばれた唇が見る見る弛(ゆる)んで、私を憫(あわ)れむような微笑(ほほえみ)にかわって行くのを見た……と思うと、無雑作に投げ出 すような言葉が葉巻の煙と一緒に飛び出した。 「……『狐憑(きつねつ)き、落つればもとの無筆(むひつ)なり』……という川柳を知っているかね君は……」  私は面喰った。不意に横頬に何か見えないものをタタキ付けられたような気持ちがして、暫く眼をパチパチさせていた。 「……そ……そんな川柳は知りません」 「……フ――ン……この句を知らなけあ川柳を知っているたあ云えないぜ。柳樽(やなぎだる)の中でもパリパリの名吟なんだ」  こう云うと正木博士は得意の色を鼻の先にほのめかしながら、片膝をぐっと椅子の上に抱え上げた。 「……ソ……それが……どうしたんです」 「ドウしたんじゃない。この川柳があらわしている心理遺伝の原則を呑み込んでいない以上、シャイロック・ホルムスとアルセーヌ・ルパンのエキスみたいな 名探偵が出て来ても、この疑問は解けっこない」  冷やかにこう云い放った正木博士の口から、小さな煙の輪が一ツクルクルと湧き出して、私の頭の上の方へ消えて行った。私は又、眼をパチパチさした。  ……狐憑き……落つれば……落つれば……もとの無筆……もとの無筆……  と心の中で繰り返したが、わからないものはいくら考えても解らなかった。 「若林先生は知っているんですか……その理屈を……」 「吾輩が説明してやった。感謝していたよ」 「……ヘエ……どういう訳なんで……」 「どういう訳ったって……こうだ。いいかい……」  正木博士はユッタリと椅子の背に身を凭(も)たせて足を長々と踏み伸ばした。 「……この川柳は狐憑きが、心理遺伝の発作である事を遺憾なく説明しているのだ……すなわち狐憑きはその発作の最中に妙な獣(けもの)じみた身振りをし たり飯櫃(めしびつ)に面(つら)を突込んだり、床下に這い込んで寝たがったりして、眼の玉を釣り上がらせつつ、遠い遠い大昔の先祖の動物心理を発揮す るから、狐憑きという名前を頂戴しているんだが、同時にこの狐憑きはソンナ性質と一緒に、何代か前の祖先の人間の記憶や学力なぞいうものまでも発揮する 場合が多いのだ。一字も知らなかった奴が狐憑きになるとスラスラと読んだり書いたり、祖先のいろんな才能や知識を発揮したりして人を驚かす例がイクラで もあるから、こんな川柳にまで読まれているんだ」 「ヘエ――。そんなに細かいところまで先祖の記憶が……」 「……出て来るから心理遺伝と名付けるんだ。無学文盲の土百姓が狐に憑(つ)かれると歌を詠(よ)んだり、詩を作ったり、医者の真似をして不治の難病を 治したりする。一寸(ちょっと)不思議に思えるが心理遺伝の原則に照せば何でもない。当り前の事なんだ……殊にこの絵巻物は、絵の方が先になっているん だから、それを見ているうちに呉一郎はスッカリ昂奮して、あらかた呉青秀の気持ちになってしまっている。そうしているうちに自分の先祖代々が、何度も何 度も発狂する程深く読んで来た由来記の内容に対する記憶までも一緒に呼び起しているんだから訳はない。范陽(はんよう)の進士呉青秀の学力が、自分の経 歴を暗記した奴を、又読み返すようなもんだ。白紙を突きつけても間違わずに読める訳だ」 「……驚いた……成る程……」 「こいつが第一段の暗示になった訳だが、次に、第二段の暗示となって呉一郎を昏迷させたものは、その六個の死美人像の中(うち)に盛り込まれている思想 である」 「思想というと……やはり呉青秀の……」 「そうだ。この心理遺伝のそもそもというものは、呉青秀の忠君愛国から初まって、その自殺に終る事になっているが、それはその由来記の表面だけの事実で 、その事実の裡面に今一歩深く首を突込んでみると豈計(あにはか)らんや。呉青秀の忠勇義烈がいつの間にか変化して、純然たる変態性慾ばかりになって行 く過程が遺憾なく窺われるのだ。ちょうど材木が乾溜(かんりゅう)されて、アルコールに変って行くようにね」 「……………」 「……ところでこの経過を説明すると、とても一年や二年ぐらいの講座では片付かないのだが、吾輩が昨夜(ゆんべ)焼いてしまった心理遺伝論のおしまいに 、附録にして載せようと思っていた腹案の骨組みだけを掻(か)い抓(つま)んで話すと、こうだ。……呉青秀がこの仕事を思い立ったソモソモの動機という のは今も云った通り、天下万生のためという神聖無比な、純誠純忠なもののように思えるが、これは皮相の観察で、その後の経過から推測して研究すると、そ の神聖無比、純誠純忠の裏面に、芸術家らしい変態心理の深刻なものの色々が異分子として含まれているのを、御本人の呉青秀も気付かずにいた。……と考え なければ、その絵巻物の存在の意義に就いて、いろんな不合理があるのを、どうしても説明出来なくなって来るのだ」 「この絵巻物の存在の意義……」 「そうだよ。その絵巻物の絵と、由来記に書いてある事実とを、よくよく比較研究してみると、この絵巻物はその根本義に於て、存在の意義が怪しくなって来 るのだ。……すなわち……この絵巻物は、この六体の画像を描(か)き並べただけで、天子を諫(いさ)めるだけの目的は充分に達し得るのだ。女の肉体美が 如何に果敢(はか)ないものか……無常迅速なものかという事を悟らせるにはこの六個の腐敗美人像だけで沢山なのだ。……論より証拠だ。現在、たった今、 君が一(ひと)わたり眼を通しただけでもゾッとさせられた位だからね……」 「……それは……そう……ですねえ……」 「そうだろう。その第六番目の乾物みたような姿のあとに、今一つ白骨の絵か何かを描(か)き添えたら、それでモウ充分にその絵巻物は完成していると云っ ていい。そうして残った白い処へ諫言(かんげん)の文だの、苦心談だのを書いて献上しておいて、自分はあとで自殺でもすれば、気の弱い文化天子の胆(き も)っ玉(たま)をデングリ返らせる効果は十分、十二分であったろうものを、そうしないで、なおも飽く事を知らずに、必要もない新しい犠牲を求めて歩い たのは何故か……黛夫人の遺骸が白骨になり終るのを、温和(おとな)しく待っておりさえすれば、何の苦もなく完成するであろうその絵巻物を、未完成のま まに後代に伝えて、呉家(くれけ)を呪いつくす程の恐ろしい心理遺伝の暗示材料としたのは何故か……一千百年後の今日、吾々の学術研究の材料として珍重 さるべき因果因縁を作ったのは何故か……」  私は思わず溜息をさせられた。正木博士の話から湧出(わきだ)して来る一種の異妖な気分に魅せられて、何となく狂人(きちがい)じみた不可思議な疑い が、だんだん嵩(こう)じて来るのを感じながら……。 「どうだ……不思議だろう。小さな問題のようで仲々重大な問題だろう。しかもこの問題は、考えれば考える程、わからなくなって来る筈だからね。ハハハハ ハ。だから吾輩は云うのだ。この問題を解くには、やはり呉青秀がこの絵巻物の作製を思い立った最初の心理的要素にまで立返って観察して見なければならぬ 。その時の呉青秀の心理状態を解剖して、こうした矛盾の因(よ)って起ったそのそもそもを探って見なければならぬ……しかもそれは決して難かしい問題で はないのだ」 「……………」 「すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っ剥(ぱ)いで見ると、その下から第一番に現 われて来るのは燃え立つような名誉慾だ。その次には焦(こ)げ付くような芸術慾……その又ドン底には沸騰点を突破した愛慾、兼、性慾と、この四つの慾望 の徹底したものが一つに固まり合って、超人間的な高熱を発していた。つまるところ、呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻 な、変態性慾の固まりに過ぎなかった事が、ザラリと判明して来るのだ」  私は思わずハンカチで鼻を撫でた。自分の心理を解剖されているような気がしたので……。 「こいつを具体的に説明するとこうであったろうと思う。すなわち……李太白が玄宗皇帝の淫蕩(いんとう)と、栄耀栄華(えいようえいが)に媚(こ)び諛 (へつら)った詩を作って、御寵愛を蒙(こうむ)ったお蔭で、天下の大詩人となったのを見た呉青秀は、よろしい。それならば俺は一つその正反対の行き方 でもって名を丹青(たんせい)、竹帛(ちくはく)に垂れてやろう。自分の筆力で前代未聞の怪画を描いて、天下後世を震駭(しんがい)させてくれようと思 った……これがこうした若い、天才肌な芸術家にあり勝ちの、最も高潮した名誉慾だ。又、呉青秀自身の男ぶりと、天才に相応した名声に惚れ込んで、ゾッコ ン首(くび)っ丈(たけ)になっている新夫人から、身も心も捧げられた、新婚早々の幸福さに有頂天になった呉青秀は、僅か数箇月の間にあらゆる愛し方と 、愛され方を味(あじわ)いつくしてしまった。この上はその美しい愛人を、極度に残忍な方法で虐待するかどうかしなければ、この上の感激は求められられ られられないといった程度にまで高潮した慾求を、夜毎日毎(よごとひごと)に感じ初めて来た。これがやはり天才肌の青年……殊(こと)に頭の優れた芸術 家なぞに在り勝ちの超自然的な愛慾、兼、性慾だ。……それから今一つ……嘆美の極はこれを破壊するにあり。そうしてその醜怪な内容をドン底までも曝露さ して冷やかに観察するに在り……という芸術慾のドン詰まりと、この四ツの慾望が白熱的の焦点を作ってこの計画の中に集中されていた。しかもその強烈な慾 求を呉青秀はやはり純忠純誠の慾求として錯覚していたものと考えられるのだが、そうした呉青秀の心理状態の裏面を、端的に解り易く説明しているものは、 矢張(やは)りこの絵巻物の絵だ。腐敗して行く美人の姿だ」  私の眼の前に又しても最前の死美人の幻覚が現われ出て来そうになった。思わず両手で眼をこすると、鼻の先の絵巻物に視線を落して、表装の中に光ってい る黄金(こがね)色の唐獅子の一匹を睨み付けた。出て来る事はならぬ……というように……。 「……その死美人の腐敗して行く姿を、次から次へと丹念に写して行くうちに呉青秀は、何ともいえない快感を受け初めたのだ。画像の初めから終りへかけて 、次から次へと細かく冴えて行っているその筆致(ふでつき)を見てもわかる。人体という最高の自然美……色と形との、透きとおる程に洗練された純美な調 和を表現している美人の剥(む)き身(み)が、少しずつ少しずつ明るみを失って、仄暗(ほのくら)く、気味わるく変化して、遂(つい)には浅ましく爛( ただ)れ破れて、見る見る乱脈な凄惨(むご)たらしい姿に陥って行く、その間(かん)に表現(あらわ)れて来る色と、形との無量無辺の変化と、推移は、 殆ど形容に絶した驚異的な観物(みもの)であったろうと思われる。その間(かん)に千万無量に味(あじわ)われる『美の滅亡』の交響楽を眼の前に眺めつ つ、静かに紙の上に写して行く心持は、とても一国の衰亡史を記録する歴史家の感想なぞとは比較にならなかったろうと思われる。呉青秀は彼(か)の忠義も 、この名誉も、愛慾も、性慾も、その芸術慾も、何もかもを打ち込んだ無我夢中の気持の中に、この快感と美感とを、どこまでも細かく筆にかけつつ、飽くと ころを知らず惜しみ味わったに違いない。そうしてその残骸が、最早(もはや)この上には白骨になるよりほかに変化の仕様がないところまで腐ってしまった のを見ると、決然筆を擲(なげう)って起(た)った。今一度、この快美感を味いたい白熱的な願望に、全霊をわななかしつつさ迷い出た。しかも……呉青秀 のこうした心理の裡面には、その永い間の禁慾生活によって鬱積、圧搾された性慾が、疼痛(うず)く程の強烈な刺戟を続けていたに違いないのだ。その刺戟 が疲労し切った、冴え切った神経によって盛んに屈折分析され、変形、遊離させられつつ、辛辣、鋭敏を極めた変態的の興奮を、呉青秀の全身に渦巻かせてい たに相違ないのだ。そうしてその捩(よ)じれ狂うた性慾の変態的習性と、その形容を絶した痛烈な記憶とを、その全身の細胞の一粒(ひとつぶ)一粒毎(ご と)に、張り裂けるほど充実感銘させていた事と思う」  寂(さ)び沈んだ、一種の凄味(すごみ)を帯びた正木博士の声は、ここで一寸(ちょっと)中絶した。  私は眼の前に在る獅子の刺繍が、視力の疲労のためにボーッとなるのを、なおも飽かず飽かず見詰めていた。そのボーッとした色の中に、たった一つ浮出し ている草色の一つに何故ともなく心を惹(ひ)かれながら耳を傾けていた。 「……こうして忠君も、愛国も、名誉も、芸術も、夫婦愛も、何もかも超越してしまって、ただ極度に異常な変態性慾の刺戟だけで、生きて、さ迷うていた呉 青秀は、一年振りに帰って来た我家の中でこれも同じく一種の変態性慾に囚(とら)われている処女……義妹(いもうと)の芬氏(ふんし)に引っかけられて 美事な背負(しょ)い投げを一本喰わされると、その強烈深刻な刺戟から一ペンに切り離されてしまった。最後の最後まで自分の意識を突張り支えていた烈火 のような変態性慾が、その燃料と共に消え失せて、伽藍洞(がらんどう)の痴呆状態に成り果てた。そうしてその変態的に捩(よ)じれ曲るべく長い間、習慣 づけられて来た性慾と、これに絡み付いている、あらゆるモノスゴイ記憶の数々を一パイに含んだ自分の胤(たね)を後世に残して死んだ……するとこの胤が 又、生き代り死に代り明かし暮して来て、呉一郎に到って又も、愕然として覚醒する機会を掴んだ。呉一郎の全身の細胞の意識のドン底に潜み伝わっていた心 理遺伝……先祖の呉青秀以下の代々によって繰返し繰返し味い直されて来た変態性慾と、これに関する記憶とは、その六個の死美人像によって鮮やかに眼ざめ させられた……すなわち、この絵巻物を見た後(のち)の呉一郎は、呉一郎の形をした呉青秀であった。一千年前の呉青秀の慾求と記憶が、現在の呉一郎の現 実の意識と重なり合って活躍する……それが夢中遊行以後の呉一郎の存在であった。『取憑(とりつ)く』とか『乗移る』とかいう精神病理的な事実を、科学 的に説明し得る状態はこの以外にないのだ」 「……………」 「……この深刻、痛烈を極めた変態性慾の刺戟の前には、呉一郎自身に属する一切の記憶や意識が、何の価値もない影法師同然なものになってしまった。今ま で呉一郎を支配して来た現代的な理智や良心の代りに、一千年月の天才青年の超無軌道的な、強烈奔放な慾求が入れ代ったのだ。そうしてその記憶の中(うち )にタッタ一つ美しいモヨ子……一千年前の犠牲であった黛(たい)夫人に生写(いきうつ)しの姿がアリアリと浮出した」 「……………」 「……一千年後に現われた呉青秀の変態性慾の幽霊はかくして現代青年の判断力や、記憶や、習慣を使って無軌道的な活躍を初めた。姪の浜の石切場を出ると 飛ぶように急いで家に帰って、モヨ子と何かしら打合わせた。多分、母屋(おもや)の雨戸の掛金を内側から外(はず)しておく事や、土蔵(くら)の鍵だの 、蝋燭だのいうものを用意しておく事であったろうと思われるが……それから呉一郎は家中が寝鎮(ねしず)まるのを待って母屋へ忍び込んで、そっとモヨ子 を呼び起した。……ところで無論モヨ子はこの時まで、こうした新郎の要求の真実(ほんとう)の意味を知らなかったようである。云う迄もなく呉一郎も、イ ザというドタン場までは故意(わざ)と真実の事を話さずに、高圧的な命令の形で、熱心に迫ったものらしいので、モヨ子も真逆(まさか)にそれ程の恐ろし い計劃とは知らずに、ただ当り前の意味に解釈して、非常に恥かしい事に思い思い躊躇していたらしい事が、戸倉仙五郎の話に出ている前後の状況で察せられ る。……けれどもモヨ子は気質(きだて)が温柔(おとな)しいままに結局、唯々(いい)として新郎の命令に従う事になった。そいつを呉一郎の呉青秀は蝋 燭の光りを便(たよ)りにして土蔵の二階に誘い上げた……という順序になるんだ。そこでその現場に関する調査記録を開いてみたまえ」 「……………」 「……それそれ。そこん処だ。階下より蝋燭の滴下起り……云々と書いて在るだろう。その百匁(め)蝋燭の光りの前で、新郎と差向いになったモヨ子は、初 めてその絵巻物を突き付けられながら……この絵巻物を完成するために死んでくれ……という意味の熱烈な要求を受けたに相違ない。しかもその絵を見ると、 眼鼻立から年頃まで自分に生写しの裸体少女の腐敗像の、真に迫った名画と来ているのだからタマラない。腸(はらわた)のドン底まで震え上ると同時に卒倒 して、そのまま仮死の状態に陥ってしまったものと考えられる……という事実を、その調査記録は『抵抗、苦悶の形跡なし』とか『意識喪失後に於て絞首』云 々の文句で明かに想像させているではないか」 「……のみならずモヨ子がその後に於て、程度は余り深くないながらに自分と同姓の祖先に当る花清宮裡(かせいきゅうり)の双 ※(「虫+夾」、第3水準1-91-54) 姉妹(そうきょうしまい)の心理遺伝を、あの六号室で描(か)き現わしている事実に照してみると、その仮死に陥った瞬間というのは、彼(か)の土蔵の二 階で、呉一郎がサナガラに描き現わした一千年前の呉青秀の心理遺伝の身ぶり素振りによって、モヨ子が先祖の黛(たい)、芬(ふん)姉妹(きょうだい)か ら受け伝えていたマゾヒスムス的変態心理の慾望と記憶とを、ソックリそのままに喚起(よびおこ)された刹那(せつな)であったろうという事も、併せて想 像されて来るではないか」 「……………」 「……但(ただし)。こういうと不思議に思うかも知れないが心理遺伝の発作と消滅の前後に、仮死状態や無意識、昏睡状態なぞいうものが伴う例は古来、幾 多の記録や伝説に残されているので、この方面の専門的研究眼から見ると、少しも不思議な事ではないのだ。……すなわち昔はこれを『神憑(かみうつ)り』 とか『神気(かみげ)』とか『神上(かみあが)り』とか称していたもので、甚(はなはだ)しいのになるとその期間が余り長いために、真実(ほんとう)に 死んだものと思って土葬した奴が、墓の下で蘇った……なぞいう記録さえ珍らしくない。能楽『歌占(うたうら)』の曲の主人公になっている伊勢の神官、渡 会(わたらえ)の某(なにがし)は三日も土の中で苦しんだために白髪(しらが)となって匐(は)い出して来た……なぞいうのは、そんな伝説の中でも最も 有名な一つで、これを精神科学的に説明すると電気のスイッチを一方から一方へ切り換える刹那(せつな)に生ずる暗黒状態みたようなものだ。勿論その気持 の変化の強弱、又はその人間の体質、性格等によって時間の長短の差はあるが、普通の場合、突然の驚きに似た卒倒と、それに引続く身神(しんしん)の全機 能の停止があって後(のち)に、やがて息を吹き返すと、挙動が全く別人のようになる……すなわち心理遺伝の夢遊発作を初める……又はそうした発作を続け て来た人間が同じ暗黒状態の経過の後(のち)に、正気に立帰ったりするので、前に述べた狐憑きなどの場合は、夢中遊行発作の程度が割合に浅いだけに、無 意識状態に陥る時間も短かいのが通例になっているのだ。……尚(なお)この仮死の間に於ける栄養作用や、新陳代謝の具合なぞの研究は、この呉モヨ子のモ デルに依って、若林が充分な研究を遂(と)げている事と思うし、吾輩も他人の受売りなら多少出来るが、この話には直接の必要がないから略する。いずれに しても呉モヨ子が仮死状態に陥った直接の原因が、呉一郎の夢中遊行から来た暗示であったろうという事は、この若林の手に成った調査書類の文句が云わず語 らずの中(うち)に表明している推論で、吾輩も双手を挙げて賛成せざるを得ないところだ」 「……………」 「なお又、これは吾輩一個人としての想像であるが、従来の呉家(くれけ)にはモヨ子のように、女性としての祖先である黛、芬、両夫人から来た心理遺伝を あらわした婦人の話が一つも残っていないようである。又、この絵巻物を警戒して、人に見せないようにした勝空(しょうくう)という坊さんも、呉家の中興 の祖である虹汀(こうてい)も、この点には全然注意を払っていないようであるが、しかしこれはこの絵巻物が現わしている変態心理の暗示が、男性にだけ有 効な事がわかり切っていると同時に、これに刺戟された男性たちの心理遺伝の発作が、相手の女性の心理遺伝に影響するような場合が全く想像され得なかった からだ。……ところが今度は場合が全く違う。違うにも何にもお互に他人同志ではない。千載の一遇と云おうか、奇蹟中の奇蹟とでも考えられようか、相手の モヨ子の姿が、その絵巻物の主人公と寸分違わなかったために、呉一郎の心理遺伝も、今までに類例の無い、殆ど完全に近い暗示に支配される事になった。従 ってその一言一句、一挙一動の極く細かいところまでも、その当時の呉青秀の動作と寸分違わぬ感じを現わし続けたために、ゆくりなくもモヨ子の心理遺伝を 誘発する事になったのではあるまいかと考えられる。これは余りにも奇怪に過ぎる事実の暗合を想像したものだが、しかし満更の想像ばかりではない。相当の 根拠を持って云う事なのだ。……というのは外でもない。すなわちその調査書が証明している通り、呉一郎が死人同様になって倒れているモヨ子の頸部(くび )を、わざわざ西洋手拭で絞め上げたものとすると、この変態性慾は女を殺すばかりが目的でなかった事がわかる。死んでいても構わないから、女の首を絞め 付けるという特異な快感を味(あじわ)いたい……という願望のために、コンナ余計な事をしたものと考える事が出来る。……どうだい。一千年前(ぜん)に いた或る一人の男の変態性慾の心理遺伝が、こんなに細かいところまでも正確に伝わっているとしたら実に面白い研究材料ではないか」 「……………」 「……ところでサテ。こうしてこの発作が済むと、呉一郎は、その屍体をモデルにするつもりで腐るのを待った。それを土蔵の窓から伯母の八代子が覗いた時 に、呉一郎は平気で振り返って『モウじき腐ります』云々と云った。この言葉には吾々が聞くと実に一千年間……一千里に亘る時間と空間の矛盾が含まれてい るんだが、彼、呉一郎自身にとっては、どちらも現在の、眼の前の事であった。彼がモヨ子を絞殺した目的が、そうした大昔の遠方の先祖である呉青秀の、超 自然的な心理の満足以外になかった事は、モヨ子の屍体解剖の結果が、情交の形跡なしとあるのを見てもわかる……」  一気に続いて来たモノスゴイ説明が、やっとここで中絶すると、私は長い、ふるえた深呼吸をしいしい顔を上げた。正木博士はやはり偉大な精神科学者であ った。……というような最初の尊敬を取返すと同時に、何となく安心したような気持になって……それに連れて全身がどことなく冷え冷えと汗を掻いているの に気が附いた。  私はそのまま今一度ホッとして問うた。 「しかし……あの呉一郎の頭は……治りましょうか」 「呉一郎の頭かね。それあ回復するとも……吾輩には自信がある」  こう云い放った正木博士は、皮肉な表情でニヤニヤと笑って見せた。私の顔を透(す)かして見るような暗い眼付を真正面から浴びせかけた。 「あの呉一郎の頭が回復するのは、ちょうど君の頭が回復するのと同時だろうと思うがね」  私は又しても呉一郎と同一人という暗示を与えられたような気がしてドキンとした。……のみならず二人の頭の病気が、全然おなじ経過を執(と)って回復 して行きつつあるような正木博士の口吻(くちぶり)に、云い知れぬ気味わるさを感じたのであった。……が……しかし、さりげなくハンカチで顔を拭いて又 問うた。 「ハア……でも仲々困難でしょうね」 「ナニ訳はない。発病の原因と経過とが、今まで述べて来たように、精神病理学的に判然しておれば治療(なお)す方法もチャントわかって来る。殊にこの呉 一郎みたように、原因のハッキリした精神異状が、治癒(なお)らなければ、吾輩の精神病理学は机上の空論だ」 「……ヘエ。それで……ドンナ方法で治療するんですか」 「ウン。適当な暗示という薬を臨機応変に用いて治療するのだ。それも禁厭(まじない)とか御祈祷とかいうような非科学的なものじゃない。……つまり今ま で話して来たように呉一郎は、黴毒(ばいどく)とか、結核とかいう肉体的の疾患に影響されて神経を狂わしたのじゃない。純粋な精神的な暗示だけで発狂し たんだ。すなわちこの絵巻物を見た後(のち)の呉一郎は、時間も、空間も、呉一郎も、呉青秀も、支那も、日本もわからなくなって、ただ濃厚、深刻を極め た支那一流の変態性慾の刺戟と、これを渦巻きめぐる錯覚、幻覚、倒錯観念ばかりで生きる事になったんだ。そうしてその変態性慾も亦(また)、呉青秀が一 千年前に経過して来た通りの順序で変化して来て、遂(つい)にはただ『女の屍体が見たい』というような単純な、且つ、率直な慾望だけになっている事が、 その解放治療場内に於ける夢中遊行の状態で察せられるようになった。……呉一郎の遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾……すなわち一千年前の 呉青秀の怨霊の眼で見ると、世界中、到る処の土の下には、女の死体がベタ一面に匿(かく)されているように思われて来たのだ。だから土さえ見れば鍬が欲 しくなったのだ。そうして鍬を貰うと毎日毎日死物狂いに土を掘返す事になったのだ。  ……こうしてその、時間も空間も超越した変態性慾の幽霊が、先刻も話した通り毎日毎日、当てなしの労働を続けて行くうちに、迫々(おいおい)と屁古垂 (へこた)れて来た。人間の性慾の刺戟を高める燃料ホルモン……俗に精力と称する内分泌の刺戟液は、激しい労働を続行すると、その方の精力に消耗されて 終(しま)うのだからね。そんな性慾の刺戟をダンダン感じなくなって、唯、疲れ切った神経の端々に、一種の惰力みたように浮出して来る女の屍体の幻覚に 釣られながら、喘(あえ)ぎ喘ぎ鍬を動かすというミジメな状態に陥っている。今まで一切の精神作用を圧倒していた変態性慾の怨霊が、消え消えになって来 たお蔭で、その下から……ああ苦しい。遣り切れない。いったい俺は、どうしてコンナに非道(ひど)い労働を続けなければならないのだろう……といったよ うな、正気に近い意識が次第次第に浮上りはじめた。時々鍬を休めてボンヤリとそこいらを見まわしては又、思い出したように仕事にかかるらしい気振(けぶ り)が見えて来た。その潮合(しおあ)いを見て、吾輩が出て行って、その眼の底に在る疲れ切った意識の力と、吾輩の眼の底に在る理智的の意識力とをピッ タリと合わせながら『その女の屍体が、土の底に埋まったのはいつの事だ』と問いかけたものだから、サアわからなくなった。つまり今まで、全く忘れていた 『時間』という観念が『いつ』という言葉の暗示力で反射的に復活しかけて来たのだ。それに連れて『ハテ。ここは一体、どこなんだろう』といったような空 間的の観念も動き出して来たので、不思議そうにそこいらを見まわし初めた。同時に『ハテ。おかしいぞ。自分は今まで何をしていたのだろう』といったよう な自己意識も、それにつれて頭を擡(もた)げて来たので、何となく不可思議な淋しい気持になった。悲し気に頸低(うなだ)れると、今まで大切に抱えてい た鍬を力なく取落して、自分の部屋へ引込んで行った……というのが、この遺言書に出ている呉一郎の治療順序の説明だ。狂人の解放治療というのは、そうい う風に患者の自由行動にあらわれた心理状態を観察して、病気の経過を察しながら、適当な暗示を与えつつ治療して行く意味から付けた名前に外ならないのだ 。  ……勿論こうした治療法をこころみるには、相当の頭が要る。些(すくな)くとも今までのように当てズッポーの病名を付けて、浅薄な外科や内科の療法を 応用したり、そいつが巧く当らなかった時には縛り上げたり、監禁したりなぞ、原始時代をそのままの手当を試みたりするような低級な頭では駄目の皮だ。今 後の世界に於て行わるべき、正しい精神病の治療法というものは、そんな曖昧(あやふや)なもんじゃない。即ち精神というものの解剖、生理、病理の原則を 、心理遺伝の学理に照してドン底まで理解すると同時に、解放されている患者の自由奔放な一挙一動によって、その心理遺伝の夢中遊行発作が、如何に推移し 変化しつつ在るかを隅から隅まで看破しつつ、適当な時機に、適当な暗示を与えて、一歩一歩と正しい時間と空間の観念……正気に導いて行くだけの鋭敏さを 持った頭でなくちゃならぬ。アハハハハ。思わず手前味噌に脱線してしまったが……ところでだ……。  ……ところで、話を前に戻すと、それから後一個月の間、呉一郎が一回も解放治療場に出て来ないで、例の七号室に閉じ籠もってばかりいたのは、その間( かん)に色んな意識を回復していたものと考えられるのだ。すなわち時間の意識、空間の意識、自己の存在を認める意識なぞが、吾輩の暗示をキッカケにして 次第次第に夜が明けるように蘇(よみがえ)りはじめた。『ハテナ……ここはどこで、今はいつで、俺は何という名前の人間なんだろう』とか『おれは一体、 何のためにこんな処に閉籠(とじこ)められているんだろう』といった風にネ……それに連れて又、それに伴う色んな疑問や不可解が、雲の如く渦巻き起って 、迷っては考え、考えては迷いしていたものだ。これは呉一郎の毎日の言動を、特に医員に命じて、細大洩らさず病床日誌に記録させてあるから、それに就い て観察して見れば、その迷い具合が手に取る如くわかる。君が最前若林博士に読まされたアンポンタン・ポカン博士の街頭演説なぞも、その時分の出来事を吾 輩が実例に取って、新聞記者に説明しただけのものなんだが、それでも最近になったら、そんなような観念が呉一郎の頭の中で、次第に一つの焦点に統一され て、余程、正気に近付いて来たらしい。つまり『考えても解らないが、いずれその中(うち)に解るだろう』というような、一種の諦らめに似た安心が付いて 来たらしく見える。……というのは一箇月前に鍬を棄てて、自分の部屋に引込んだ当時は、かなり非道い憂鬱状態に陥っていた。食慾が非常に減退して排泄の 具合が悪くなり、体量なぞもかなり減少していたが、その後だんだんと回復して来て、今では涼しくなったせいでもあろうが、旧来(もと)以上になっている 事が、病床日誌にチャンと出ている。だから目下はあのとおり、ステキに良(い)い栄養状態で、精神状態も頗(すこぶ)る明朗になったらしく、アンナにニ コニコしている訳なのだ。  ……そうして昨日(きのう)まで部屋に閉じ籠もっていた奴が、思い出したようにヒョッコリとあそこへ出て来たのは、そうした意識の秩序の回復が、一段 落のところまで落付いたか、それとも栄養が良くなったために再び頭を擡(もた)げて来た性慾の刺戟が、以前の変態にまで高潮して来たので、又もあの鍬を 振廻しに出て来たのか……という事は、もう暫く模様を見ていないと、わからないがね……いずれにしても呉一郎の精神状態の回復はここいらで、又、一転機 を描くらしい予感が、先刻からシキリに吾輩の頭を襲って来るようだがね。ハッハッハッ」  私はこんな言葉や笑い声を、耳には慥(たし)かに聞いていた。……窓の下で又も、何やら唄い出している舞踏狂の少女の声と一緒に……けれども眼は一心 に大卓子(テーブル)の燃え上るような緑色を見詰めていた。 ……如何なる名探偵が出て来ても探り得ない精神科学応用の犯罪……お前自身に名探偵となって、この事件の真相を探って見よ……  と云った正木博士の言葉を頭の中で繰返しつつ……。その時に正木博士の言葉が途絶(とだ)えて、何やらカチッという音がした。ビクリとして頭を上げて みると、それは正木博士の頭の上に掛っている電気時計の針が、十時五十六分から七分へ移った音であった。 「……どうだ。愉快な話だろう。この一例を見ても、今までの精神病学者の治療法が、全然、見当違いをやっていた事が解るだろう。同時に、吾輩のこの解放 治療の実験が、如何に素晴らしい、学界空前の……」 「ちょっと待って下さい」  私は右手を揚げて、滝のように迸(ほとばし)り出て来る正木博士の言葉を遮(さえぎ)り止めた。得意に輝く骸骨ソックリの顔を仰ぎつつ、廻転椅子の上 に座り直して問うた。 「……ちょっと……待って下さい。……しかし……先生の、そうした治療の実験は、純粋な学術研究の目的でなさるのですか、それとも……」 「……無論……むろん純粋の学術研究を目的としているんだよ。精神病の治療というものはこうするものだ……という事を、洽(あま)ねく全世界のヘゲタレ 学者たちに……」 「マ……待って下さい。そうじゃありません。僕がお尋ねしているのは……」 「……何だ……」  正木博士は不満そうに眼の球を凹(へこ)ました。肩を一つ揺り上げて椅子の背に反(そ)り返った。 「僕がお尋ねしようと思っている事は、こうなんです。呉一郎を発狂さした暗示が、この絵巻物だって事は、まだ誰も知らないでいるんですね」 「……ア。その話はまだ、しなかったっけね。無論、誰も知ってやしないよ。司法当局の奴等だって知らないも同然だよ。テンデ問題にしていないんだからね 」  正木博士は又、ツルリと顔を撫でまわして、鼻眼鏡をかけ直した。 「最前からも話した通り、この絵巻物は、呉一郎の伯母の八代子が、土蔵の二階から取って来て隠していたのを、若林が睨んで捲上げて、そのまんま吾輩に引 渡したものだから、若林と吾輩以外にこの絵を見た者は君だけだ。裁判所や警察の連中は、八代子が現場の机の上の、この絵巻物が置いてあった所に、自分の 鼻紙を拡げておいたので、見事に一パイ喰わされている上に『迷宮破りの若林博士が、事件の真相の説明に窮して迷信を担(かつ)ぎ出した』と云って笑って いるそうだ。たしかその当時の新聞の編輯余録といったような欄の中に、素破抜(すっぱぬ)いてあったと思うが……却(かえ)って仙五郎爺から巻物の話を 聞いた村の者が、色んな事を云っているそうだ。一郎が夢のお告(つげ)を受けて石切場に行ったら、巻物が高岩の蔭に置いてあったんだとか、その時がちょ うど日暮狭暗(ひぐれさぐれ)の逢魔(おうま)が時(とき)だったとか云ってね……又、そんな迷信を担がない連中は、誰かモヨ子に惚れ込んでいた奴が、 叶(かな)わぬ恋の意趣晴らしに、古い云い伝えから思い付いて、一郎にコンナ悪戯(いたずら)をしかけたのが、マンマと首尾よく図に当ったんだとか何と か……」 「アッ……」  と私は突然に叫んで立上りかけた。大卓子(テーブル)の端に両手を突張って、穴の明くほど正木博士の顔を見た。正木博士も私の叫び声に驚いたらしく、 吐きかけた煙を頬張ったまま、眼を丸くした。  私の呼吸と胸の動悸が、見る見る息苦しく高まって来た。 ……わかった。わかった……正木博士が、何気もなく云ったらしい一言が、事件の真相らしいものをチラリと私の頭に閃(ひら)めかしてくれた……。 ……私という人間は、一件記録の上には出ていないけれども、やはり呉青秀の血を引いた、呉一郎と瓜二つの青年に違いないのだ。 ……二人の博士は、千世子が一人しか子を生んでいないという屍体解剖の結果によって、そんな事実の存在を否認しているようだけれども、事によると、それ は私をこの実験にかけるための一つのトリックに過ぎないかも知れない。真実の私の過去は、やはり呉一郎と双生児(ふたご)で、幼い時に何かの理由で別れ 別れになっていたその片割(かたわれ)かも知れないのだ。 ……それが人知れず故郷に帰って来て、人知れずモヨ子を恋していた。或(あるい)は呉一郎と瓜二つなのを利用して、真物(ほんもの)の呉一郎に覚られな いように絡み合って、奇抜巧妙な二人一役を演じながら所在(ありか)を晦(くら)ましていたものかも知れない。そうしてその中(うち)に、呉家に絡(ま つ)わる不思議な因縁話を聞き知って、呉一郎の結婚式の前日に、こんな残虐を試みた。……それがこの私であったのだ。 ……けれども、そうした私自身も、呉青秀の心理遺伝を受け継いでいたために呉一郎と同時にか、又は相前後して、同じような発狂をしたために、真物(ほん もの)の呉一郎と入れ違ってしまったのだ。ドッチがドウなのか本人同志にも解らなくなってしまったのだ。 ……正木、若林の両博士は、それを見別けようとしているのだ。被害者と加害者を鑑別しようとして苦心しているのだ。 ……そうだ。そう考えれば疑問の根本が立派に解ける。そうだ。それに違いない。それに違いない。それ以外に一切の不思議の解決方法がないではないか。 ……ああ。私はやはりこの事件の神秘の正体であったか。……ああこの私が……。  一瞬間にコンナ事を考え廻らしつつ魘(おび)え、わなないている私の顔を、椅子の上に反(そ)り返った正木博士は依然として微笑を含みつつ眺めていた 。そうして私の呼吸(いき)が鎮(しず)まりかけると間もなく、わざとらしい驚いた顔付きで問うた。 「……どうしたんだい。急に立上ったりして……」  私は喘(あえ)ぎながら答えた。 「……もし僕が……呉一郎に……この絵巻物を……見せた本人……」 「アッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッハッ……」  正木博士は、私の云う事を半分聞かぬうちに大袈裟(おおげさ)に吹き出して反(そ)りかえった。 「ハッハッハッハッ。君が加害者で、呉一郎が被害者か。これあいい。探偵小説なら古今の名トリックだが、多分そんな事になるだろうと思っていた。アッハ ッハッハッハッ。しかしだね。事実はその正反対だったら、どうなるかね、この事件は……」 「……エッ……正反対?……」 「ハッハッハッ。何も君が、そんなに遠慮して、加害者の憎まれ役を引受けなくとも、いいじゃないか。どうせ君と呉一郎とは瓜二つなんだから、御都合によ っては吾輩の小手先一つで、加害者側へでも、被害者側へでも、どちらへでも廻せるんだがどうだい。どうせ同じ事なら、被害者側へまわった方が、この事件 では得になるんだがドウダイ。アハアハアハアハ……」  私はドシンと椅子に腰を卸(おろ)した。又しても何が何やらわからなくなったまま……。 「……どうも、そう一々泡を喰っちゃ困るぜ。……だから最初っから注意しておいたじゃないか。この事件は、よほど頭を緊(しっか)りさせて研究しないと 、途中で飛んでもない錯覚に陥る虞(おそ)れがあると云って警告しといたじゃないか……吾輩は姪の浜、浦山の祭神、鶉(うず)の尾(お)権現(ごんげん )の御前(おんまえ)にかけて誓う。君はそんな浅薄な意味で、この事件に関係しているのじゃない。もっと重大深刻な意味で……」 「……でも……でも……それ以上に重大深刻な意味で関係が……」 「……出来ないと云うんだろう。ところが出来るから奇妙なんだ。クドイようだがモウ一度断っておく。吾々が住んでいる、この世界は現代の所謂(いわゆる )、唯物科学の原則ばかりで支配されているんじゃないんだよ。同時に唯心科学……即ち精神科学の原則によって何から何まで支配されている事を肝に銘じて 記憶していないと、この事件の真相はわからないよ。……早い話が純客観式唯物科学の眼で見るとこの世界は長さと、幅と、高さの三つを掛け合わせた三次元 の世界に過ぎないんだが、純主観式精神科学の感ずる世界は、その上に更に『認識』もしくは『時間』を掛け合わせた四次元もしくは五次元の世界が現在吾々 の住んでいる世界なんだ。その高次元の精神科学の世界で行われている法則は、唯物世界の法則とは全然正反対と云ってもいい位違うのだ。その不可思議な法 則の活躍状態は、既に今まで君がこの部屋で見たり聞いたりして来た話だけでも、十分に察しられるだろう。……その中からこの事件の解決の鍵を探し出せば いいのだ。……否……この事件の鍵は、もうトックの昔に、君のポケットに落ち込んでいる筈だがね。ツイ今しがた慥(たし)かにその鍵を君の手に渡した事 を、吾輩はハッキリと記憶しているのだがね」 「……そ……それはドンナ鍵……」 「離魂病の話さ」 「離魂病……離魂病がどうしたんですか」 「ハハハハ。まだわからないと見えるね」 「……わ……わかりません」 「……いいかい……この事件で差当り一番不思議に思えるところは、君とソックリの人間がモウ一人居る事であろう。そのモウ一人の君自身のお蔭で、スッカ リ事件がコグラカッてしまっている訳だろう。しかも、それは君の離魂病のせいだっていう事をツイ今しがた、説明して聞かせたばかりのところじゃないか」 「だって……だって……そんな不思議な……馬鹿馬鹿しい事が……」 「ハッハッハッ。まだ離魂病が信じられないと見えるね。まあまあ無理もないさ。誰でも自分の頭が一番、確実(たしか)だと信じているんだからね。その方 が結局、無事でいいし、お蔭で話の筋道もステキに面白くなって来る訳だから、そう慌てて結論を付ける必要もないだろうよ。呉一郎を発狂さした犯人はあら ゆる人間の中の一人か、又は呉一郎自身か、それとも又、絵巻物が独り手に弥勒(みろく)様のお像から脱け出して活躍したものか……というこの三つを前提 にしてユックリと考えた方がいい。そうして冷静な気持で君の過去を思い出した方が早道だ」 「……しかし……そんな神秘的な……不思議な事実が……」  ここまで云いかけると私は、自分自身の考えに堪(た)えられなくなって言葉を切った。 「だから慌てるなと云うんだよ。今に神秘でも何でもなくなるから……」 「……でも……今っていつです」 「いつだか解らないが、きょうは駄目だよ。吾輩は君の記憶力を回復すべく、先刻(さっき)からの話の中(うち)に、かなり強烈な精神科学の実験を君に対 して、かけ通しにして来たんだけれども、君はどうしても過去の記憶を思い出さないのだから仕方がない。きょうの実験はこれで中止だ。つまり君の頭が、そ こまで回復していないのだから、この上、実験を続けても無駄だと吾輩は……」 「しかし……それじゃ最前のお約束に……」 「約束はしたが仕方がない。お互いに無駄骨を折るよりも、今すこし君に休養してもらってから、今一度実験をやり直す事に……」 「待って下さい……チョット……それじゃ先生は、その神秘の正体をスッカリ御存じなんですね」 「そうさ。知っているからこそ、君と関係があると云うんじゃないか」 「……じゃ……それをスッカリ僕に話して下さい」 「……イケナイ……」  正木博士は、こうキッパリと云い切ると、葉巻を横ッチョに啣(くわ)え直した。腕を組んで反(そ)り返りつつ冷やかに笑った。すこしムッとしている私 の顔を見ながら……。 「……何故って考えて見給え。この事件の神秘の正体を明かにするためには、是非とも呉一郎を発狂させた犯人の名前を明かにする必要があるだろう。ところ がその犯人の名前は、君自身か、呉一郎か、どちらかが過去の記憶を回復すると同時に思い出したのでなければ、真実(ほんもの)とは云えないだろう。たと い法医学者の若林博士が、如何に動かすべからざる確証を掴んでいるにしても、又は吾輩自身がその犯人と、犯行の現状を確認しているにしても、君か、もし くは呉一郎が万一過去の記憶を回復した際に、その犯人を否定してしまえば何にもならないじゃないか。姪の浜の石切場で、私に絵巻物を見せてくれた人はこ の人じゃありませんと云い張れば、それっ切りの千秋楽じゃないか。そこがこの事件の普通の犯罪事件と違うところだからね。……だから吾輩は、そんな無価 値な事を饒舌(しゃべ)るのは御免だ」  私は、われ知らず長大息させられた。自分の判断力が見る見る迷妄に陥って行くのを自覚しながら……。 「……まだ解らないかい。……それじゃ、もう一つ深刻な事実を説明してやろう。いいかね。……この事件で、是非ともその不可思議な犯人の正体を突止めな くちゃならぬ当面の責任者は、誰が何といっても法医学者たる若林だろう。仮令(たとい)、警察当局の方では、単なる呉一郎の発狂から起った事件として放 棄しているにしても、精神科学応用の犯罪を研究する学者として、ここまで深入りして来た以上カンジンカナメの点を放(ほ)ったらかしたまま、後へ退(ひ )く事は、学者としての良心が第一、許さないだろう。つまり若林の立場としては、否(いや)でも応(おう)でも、この事件の真犯人を有耶無耶(うやむや )に葬り去る事が、どうしても出来ない立場におるのだ。……然(しか)るにだ。……一方に吾輩の立場はどうかというと、必ずしもそうでない。そうした若 林の探偵的な努力、苦心に対しては助手ほどの責任もない。単なる私的の相談役の仕事をして来たに過ぎないのだ。……いいかい……それよりも吾輩の専門上 、当然の責任として、全力を挙げて来たのは君自身、もしくは呉一郎の『頭の回復』であったんだが、併しそれにしてもその犯人の名前とか、顔とかを是非と も思い出させなければならぬ責任とか、必要とかいうものは全然こっちにはないのだ。……というのは精神病学者としての吾輩の立場から見ると、発病の原因 と経過さえ判明すれば、発狂さした犯人の名前は、目下不明と書いておいても、研究発表上、何等の差支(さしつか)えがないのだからね。……呉一郎の発病 の状態と、この絵巻物との関係は、心理遺伝学的な立場から立派に説明が付く事だし、学術上の発表としての価値は、もう十分、十二分に備わっている訳だか らね。それを若林が躍気(やっき)になって、是非とも犯人を探し出してもらいたいと云ってヤイヤイ騒ぎ立てるために、ツイこんな事になってしまったんだ が……とにかく吾輩は、そんな訳で、犯人なぞに用はないんだ……ハハン……」  こう云い放った正木博士は、悠然と椅子の上に両肱を張った。呆れている私を眼下に見下しながら葉巻の煙を輪に吹いた。  私は、その如何にも学者然たる冷やかな風付(ふうつ)きに、云い知れぬ反感を唆(そそ)られない訳に行かなかった。そればかりでなく、その人を愚弄し ておいて突放すような態度に対して、たまらない不愉快を感じ初めたので、私は思わず座り直して咳払いをした。 「……そ……それあ怪(け)しからんじゃないですか先生。……いくら学者だってアンマリ冷淡過ぎはしませんか」 「冷淡過ぎたって仕方がない。よしんば吾輩が大負けに負けて、若林の加勢をして、その犯人を探し出したにしたところが、そいつをフン縛る法律が在るか無 いか……」  私は眼の中が何となく熱くなって来るのを感じた。云いたい事を一ペンに云って終(しま)おうとして、云えなくなったような気がして……。 「……法律……法律なんてものは、どうでもいいんです。……その犯人を突止めて八裂(やつざき)にでもしなければ、浮かばれない人間がイクラでもいるじ ゃないですか。八代子だって、モヨ子だって、又あの呉一郎だって……僕も連累(まきぞえ)を喰っているんなら僕もです。……何の罪も科(とが)も無いの に、殺される以上の残虐を受けているじゃないですか」 「……フン……それで……」  と色も味もなく云い棄てたまま正木博士は、自分の吹いた煙の行衛(ゆくえ)をウットリと見送った。私は自分の魂を吐き出すような気持で云った。 「……それで、僕の魂がもし、この身体(からだ)を脱け出せるものなら、僕は今でも、或る一人に乗り移ってその人間の記憶に残っている犯人の名前を怒鳴 ってやります。白昼の大道で、公表してやります。死ぬが死ぬまでその犯人に跟随(くっつ)いて行って、殺す以上の復讐をしてやります」 「……フーン。左様(さよう)願えたら面白いがね。しかし誰に乗り移ろうと云うんだい」 「誰って……わかり切ってるじゃありませんか。犯人の顔を直接に見知っている呉一郎がいるじゃありませんか」 「ハッハッハッ。こいつは面白いな、遠慮なく乗り移るがいい。しかしマンマと首尾よく乗り移れたらお手拍子喝采どころじゃない。吾輩の精神科学の研究は 全部遣り直しだよ。魂が『乗り移る』とか『取り憑(つ)く』とか『生れ変る』とかいう事実は、その本人の『心理遺伝』の作用以外の何ものでもないという のが、吾輩の学説の中でも、最重要な一箇条になっているんだからね。……フン……」 「それは解っています。しかし仮令(たとい)、先生の方で犯人に用がなくとも、若林先生の方では用があるでしょう。若林先生が、貴方にこの調査書類を引 渡されたのは、その最後の一点を、呉一郎の過去の記憶の中から取出して頂きたいばっかりが目的じゃなかったですか」 「それはそうだ。百も承知だ。今朝(けさ)から吾輩と若林が、君をこの部屋に引張り込んで、色々と試みた実験も、帰するところ、同じ目的一つのために外 (ほか)ならなかったんだが……しかし吾輩は最早(もう)、これ以上にこの事件の真相を突込んで行きたくないのだ。その理由は、犯人の名前が判明(わか )ると同時にわかるんだがね」  正木博士は又も長々と煙を吹き上げて空嘯(そらうそぶ)いた。私はその顎を睨みつつ腕を組んだ。 「それじゃ、僕が勝手にこの犯人を探し出すのは、お差支えありませんね」 「それは無論、君の自由だ。御随意に遊ばせだが……」 「ありがとう御座います。それじゃ済みませんが、僕を此病院(ここ)から解放して下さい。ちょっと出かけて来たいのですから……」  と云ううちに私は立上って、卓子(テーブル)の端に両手を支(つ)いてお辞儀をした。しかし正木博士は平気でいた。お辞儀を返そうともしないまま悠々 と椅子に踏反(ふんぞ)り返って、葉巻の煙を思い切り高々と吹上げた。 「出かけるって、どこへ出かけるんだい」 「どこだか、まだ考えていませんけど……帰って来る迄には事件の真相を根こそげ抉(えぐ)り付けてお眼にかけます」 「フフン。抉り付けて胆を潰(つぶ)すなよ」 「……エッ……」 「この絵巻物の神秘は、お互いに破らない方がよかろうぜ」 「……………」  私は思わず立竦(たちすく)んだ。そういう正木博士の態度の中には、私を押え付けて動かさない或る力が満ち満ちていた。……曠古(こうこ)の大事業… …空前の強敵……絶後の怪事件……そんなものに取巻かれて、嘘か本当か自殺の決心までさせられながら、それを片(かた)ッ端(ぱし)から茶化(ちゃか) してしまっている。その物凄い度胸の力……その力に押え付けられるように私は又、ソロソロと椅子に腰をかけた。そうして改めてその力に反抗するように居 住居(いずまい)を正した。 「……よござんす……それじゃ僕は出かけますまい。その代りこの犯人を発見するまで、僕はここを動きません。僕の頭が回復して、この絵巻物の神秘を見破 り得るまで、この椅子を離れませんが……いいですか先生……」  正木博士は返事をしなかった。そうして何と思ったか、急に腰を落して、グズグズと椅子の中に屈(かが)まり込み初めた。短かくなった葉巻を灰落しの達 磨(だるま)の口へ突込んで、背中を丸めて、卓子(テーブル)に頬杖を突いたが、その時にジロリと私を見た狡猾(ずる)そうな眼付と、鼻の横に浮かんだ 小さな冷笑と、一文字に結んだ唇の奥に、何かしら重大な秘密を隠しているらしい気振(けぶり)を見せた。  私は思わず身体(からだ)を乗り出した。身体中の皮膚が火照(ほて)るほどの異状な昂奮に包まれてしまった。 「いいですか先生……その代りに、万一、僕がこの犯人を発見し得たら、僕が勝手な時に、勝手な処でその名前を発表しますよ。そうして呉一郎を初め、モヨ 子、八代子、千世子の仇敵(かたき)を取りますよ。そのためには、僕がドンな眼に会おうとも、又、犯人が如何なる人間であろうとも驚きませんが……いい ですか、先生……。その残忍非道な人間のために、こんな狂人(きちがい)地獄に陥れられて、一生涯、飼い殺しにされているなんて……僕にはトテモ我慢が 出来ないのですから……」 「ウン……まあやって見るさ」  正木博士は如何にも気のなさそうにこう云った。そうしてアヤツリ人形のようにピッタリと眼を閉じた、一種異様な冷笑を鼻の横に残して……。  私は今一度座り直した。自分の無力を眼の前に自覚させられたような気がして、思わずカーッとなった。 「……いいですか先生。僕が自分で考えてみますよ。……まず仮りにこの犯人が僕でないとすればですね。まさか村の者の云うように、この絵巻物がひとり手 に弥勒様の仏像から抜け出して、呉一郎の手に落ちるような事は、有り得る筈がないでしょう」 「……ウフン……」 「……又……伯母の八代子と、母の千世子も、呉一郎をこの上もなく愛して、便(たよ)り縋(すが)りにしている女ですから、こんな恐ろしい云い伝えのあ る絵巻物を呉一郎に見せる筈はありますまい。雇人(やといにん)の仙五郎という爺(じじい)も、そんな事をする人間ではないようです。……お寺の坊さん は又、呉家の幸福を祈るために呉家に仕えているようなものですから、巻物があると判ったら却(かえ)って隠す位でしょう。そうとすれば、他にまだ誰にも 気付かれていない、意外な人間の中に、嫌疑者がある筈です」 「……ウフン。自然、そういう事になる訳だね」  正木博士は変な粘(ねば)っこい口調で、不承不承にこう云った。それからチョット眼を開(あ)いて私を見た。その眼の色は、鼻の横の微笑とは無関係に 、いかにも青白く残忍であった……と思う間もなく又、もとの通りにピッタリと閉じた。  私は一層急(せ)き込んだ。 「若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者について色々と心当りが、調べてあるんですね」 「……ないようだ」 「……エッ……一つも……」 「……ウ……ウン……」 「……じゃ……その他の事は、みんな念入りに調べてあるんですか」 「……ウ……ウン……」 「……何故ですか……それは……」 「……ウ……ウン……」  正木博士は微笑を含んだまま、ウトウトと眠りかけているようである。その顔を見詰めたまま私は唖然となった。 「……そ……そ……それは怪訝(おか)しいじゃないですか先生……犯人の事をお留守にして、他の事ばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃな いですか。ねえ先生……」 「……………」 「……ねえ先生……たとい悪戯(いたずら)にしろ何にしろ、これ程に残忍な……そうしてコンナにまで非人道的に巧妙な犯罪が、ほかに在り得ましょうか。 ……本人が発狂しなければ無論、罪にはならないし、万一発狂すれば何もかも解らなくなる。又、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもとより、道徳 上の罪までも胡魔化(ごまか)せるかも知れないというのですから、これ位アクドイ、残酷な悪戯(いたずら)は又と在るまいと思われるじゃないですか先生 ……」 「……ウ……フン……」 「その根本問題にちっとも触れないで調査した書類を、先生に引渡すのは、どう考えても怪訝(おか)しいじゃないですか」 「……ウ……フン。……おかしいね……」 「……この事件の真犯人を明かにするには、是非とも呉一郎か、僕かの頭を回復さして、犯人を指示(ゆびさ)させるより他に方法はないのでしょうか……先 生みたような偉い方が二人も掛り切っておられながら……」 「……ないよ……」  正木博士は乞食を断るように、面倒臭そうな口ぶりで答えた。サモサモ眠たそうに眼を閉じたまま……。私はグイと唾液(つば)を嚥込(のみこ)んだ。 「……一体、この絵巻物を呉一郎に見せた目的というのは何でしょうか」 「……ウ……ウン……」 「ほんとうの心から出た親切か……又は悪戯(いたずら)か……恋の遺恨か……何かの咀(のろ)いか……それとも……それとも……」  私はギョッとした。呼吸が絞め上げられるように苦しくなった。胸を波打たせつつ正木博士の顔を凝視した。  博士の鼻の横の微笑がスッと消えた。……と同時に、眼をパッチリと開いて私を見た。心持ち蒼い顔に、黒い瞳を凝然(じっ)と据えたまま静かに部屋の入 口を振返った……が、やがて又おもむろに私の方へ向き直ると、やおら椅子の上に居住居(いずまい)を正した。  その黒い瞳(め)は博士独特の鋭い光りを失って、何ともいえない柔らかい静けさを帯びていた。その態度にも今までの横着な、図々しい感じが全くなくな っていた。見る見る一種の神々しい気品を帯びて来ると同時に、何ともいえず淋しい、悲しい心持を肩のあたりに見せている。その態度を見ているうちに私の 呼吸がだんだんと静まって来た。そうして吾にもあらず眼を伏せて、頭を低(た)れてしまったのであった。 「……犯人は俺だよ……」  と博士は空洞(ほらあな)の中で呟(つぶや)くような声で云った。  私は思わずビクリとして顔を上げた。弱々しい、物悲しい微笑を漾(ただよ)わしている博士の顔を仰いだが又、ハッと眼を伏せた。  ……私の眼の前が灰色に暗くなって来た。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ初めたような……。  私はヒッソリと眼を閉じた。わななく指を額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍りまわっているのに、額は冷めたく濡れている。その耳元に正木博士の 悄然(しょうぜん)たる声が響く。 「……君がそこまで判断力を回復しているならば止むを得ない。一切を打明けよう」 「……………」 「何を隠そう。吾輩は夙(と)うから覚悟を決めていたのだ。この調査書類の内容の全部が、吾輩をこの事件の犯人として指していることを、最初から明かに 認めていながら、知らぬ顔をし通して来たのだ」 「……………」 「この調査書類の内容は一字一句、吾輩を指して『お前だお前だ。お前以外にこの犯人はない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方(のうが た)で起った惨劇は、高等な常識を持っている思慮周密な人間が、あらゆる犯跡を掻き消しつつ、事件が迷宮に這入るように、故意に呉一郎が帰省した時を選 んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎の夢中遊行では断じてない……と……」  正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。私は又もビクリとさせられたが、それでも顔を上げる事が出来なかった。正木博士が吐き出す一句一句の重大 さに、圧(お)しかかられたようになって……。 「……その犯行の目的というのは外でもない。呉一郎を母親の千世子から切離して、モヨ子と接近させるべく、伯母の手によって姪の浜へ連れて来させるにあ る……モヨ子は姪の浜小町と唄われている程の美人だから、とやかく思っている者が、その界隈(かいわい)に多いにきまっているし、同時に、絵巻物の本来 の所在地で、大部分の住民は多小に拘わらず、それに関する伝説を知っている。一方に呉一郎とモヨ子の縁組は、九十九パーセントまで外(はず)れる気遣い がないのだから、この実験を試みるにも、又は、その跡を晦(くら)ますにも、この姪の浜以上に適当な処はない訳である」 「……………」 「……だから第二回の姪の浜事件というのも、決して神秘的な出来事ではない。直方事件以来の計劃通り、或る人間が、石切場附近で呉一郎の帰りを待伏せて 、絵巻物を渡したにきまっている……すなわちこの直方と、姪の浜の二つの事件は、或る一つの目的のために、同一の人間の頭脳によって計劃されたものであ る。その人間は、この絵巻物に関する伝説に対して、非常に高等な理解と、興味とを併(あわ)せ持っている者で、これを実地に試験すべく最適当した時機… …すなわち被害者、呉一郎が或る大きな幸福に対する期待に充たされている最高潮のところを狙って、その完全な発狂を予期しつつ、この曠古(こうこ)の学 術実験を行った……と云えば、吾輩より以外(ほか)に誰があるか……」 「ありますッ……」  私は突然に椅子を蹴って立上った。顔が火のようにカ――ッと充血した。全身の骨と筋肉が、力に満ち満ちて戦(おのの)いた。愕然としている正木博士の 鼻眼鏡を睨み付けた。 「……ワ……ワ……若林……」 「馬鹿ッ……」  という大喝が木魂(こだま)返しに正木博士の口から迸(ほとばし)り出た。同時に黒い、凹(くぼ)んだ眼でジリジリと私を睨み据えた。……がその真黒 い眼の光りの強烈さ……罪人を見下す神様のような厳粛さ……怒った猛獣かと思われる凄じさ……。怒髪天を衝(つ)くばかりの勢(いきおい)であった私は 一たまりもなく慄(ふる)え上った。ヨロヨロと背後(うしろ)によろめく間もなくドタリと椅子に尻餅を突いた。その恐ろしい瞳に、自分の眼を吸い付けら れたまま……。 「……馬鹿ッ……」  私は左右の耳朶(みみたぼ)に火が附いたように感じつつ、ガックリと低頭(うなだ)れた。 「……無考(むかんが)えにも程がある……」  その声は私の頭の上から大磐石(だいばんじゃく)のように圧(お)しかかって来た。しかも今までのタヨリない、淋しい態度とは打って変って、父親の言 葉かと思われるほどの威厳と慈悲とが、その底に籠(こも)っていた。  私は又、何故ともなく胸が一パイになりかけて来た。正木博士の筋ばった両手の指が机の端を押え付けて、一句一句に力を入れて行くのを見詰めながら…… 。 「……これ程の恐ろしい実験を、ここまで突込んで行(や)り得る者が、吾輩でなければ、外には今一人しかいないであろうという事は誰でも考え得る事じゃ ないか。又それがわかればその人間の名前が、ウッカリ歯から外へ出されない事も、直ぐに考え付く筈じゃないか。……何という軽率さだ」 「……………」 「況(いわ)んや本人は既に……一切を自白している」 「……エッ……エッ……」  私は愕然として顔を上げた。  見ると正木博士は、青いメリンスの風呂敷に包まれた調査書類を、右手でシッカリと押え付けながら、冷然として唇を噛んでいた。それは何の意味か知らず 、或る神聖な言葉を発する前提と思われる。その緊張した態度に打たれて、私は又も頭を垂れてしまった。 「その自白の記録が、この調査書類である。これは本人が、自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したものだ」  ……スラリ……と冷めたいものが一筋、私の背中を走り降りて行った。 「……君はまだ犯罪の隠蔽心理とか、自白心理とかいうものが、ドンナものだか詳しくは知るまいが……よく聞いておき給え。人間の智慧が進むに連れて…… 又は社会機構が、複雑過敏になって来るに連れて、こんな恐ろしい犯罪心理が、有触(ありふ)れたものと成って来るに、きまっているんだから……よろしい か……」 「……………」 「……この調査書が如何に恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠蔽心理と自白心理の二つが、如何に深刻な、眩惑的な、水も洩 らさぬ魔力をもって吾輩に、この罪を引受るべく迫って来たか……という理由を、これから説明するから……」  私は、私の全身の筋肉が、みるみる冷え固って行くのを感じた。両眼の視線は又も、眼の前に横たわる緑色の羅紗(らしゃ)に吸い寄せられて、動かす事が 出来なくなった。  その時に正木博士は軽い咳払いを一つした。 「……仮りに或る人間が一つの、罪を犯したとすると、その罪は、如何に完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残って いる。罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消す事が出来ないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、止むを得ないので、誰でも軽 蔑する位よく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照してみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは 、常に、五分も隙(すき)のない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れ途(みち)のない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶 対の弱点となって、最後の息を引取る間際(まぎわ)まで、人知れず犯人に附纏(つきまと)って来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から 救われ得る道は唯二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言っても宜(い)い位、その恐ろしさが徹底している。世俗に所謂(いわゆる)、『良心の苛責』なる ものは、畢竟(ひっきょう)するところこうした自分の記憶から受ける脅迫観念に外(ほか)ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶 力を殺して了(しま)うより外に方法はない……という事になるのだ。  ……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいい程、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段が又、十人が十人、百人が百人 共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の『罪の姿』を『 記憶の鏡』と一緒に密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、生憎(あいにく)な事に、この『記憶の鏡』という代物(しろもの) は、周囲を暗くすればする程、アリアリと輝き出して来るもので、見まいとすればする程、見たくてたまらないという奇怪極まる反逆的な作用と、これに伴う 底知れぬ魅力とを持っているものなのだ。しかもそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなって来るので、死物狂いに我慢をした揚句(あ げく)、やり切れなくなってチラリとその記憶の鏡を振返る。そうするとその鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線 が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれる事になる……こんな事が度重なるうちに、とうとう遣り切れなくなって 、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。『犯人は俺だ。この罪の姿を見ろ』……と白日の 下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。  ……又は、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この苛責を免れる一つの方法だ。そうしておいて 記憶の鏡を振返ると、鏡の中の『自分の罪の姿』も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと『自分の罪の姿』も自分 を見て、憫(あわ)れむように微苦笑している。それを見ると又、いくらか気が落付いて来る……これが吾輩の所謂(いわゆる)自白心理だ……いいかい…… 。  ……それから今一つ、やはり極く頭のいい……地位とか信用とかを持っている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯に置きたいと考えたとする。その方 法の中(うち)でも最も理想的なものの一つとして今云った自白心理を応用したものがある。即ち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠を悉(こと ごと)く自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬ事が、云わず語らずの中にわかる……という紙一枚のところまで切詰(きりつ)める 。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破し得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手 の心理に、人情の自然と、論理の焦点の見損ないから生ずる極めて微細な……実は『無限大』と『零(れい)』ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どう しても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、殆ど絶対の安全地帯に立つことが出来る。そうなった ら最早(もう)、占(し)めたものである。一旦、この錯覚が成立すると、容易に旧態(もと)に戻すことが出来ない。事実を明らかにすればする程、相手の 錯覚を深めるばかりで、自分が犯人である事を主張すればする程、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚に引っか かる度合いは、相手の頭が明晰であればある程、深いのだ……いいかい……。  ……この『犯罪自白心理』の最も深刻なものと『犯罪隠蔽心理』の最も高等なものとが、一緒になって現出したのが、この調査書類なのだ。正に、これこそ 、吾輩の遺言以上の、前代未聞の犯罪学研究資料であろうと思われるのだ……いいかい……そうして更に……」  ここまで云って言葉を切ったと思うと、正木博士は不意に身軽く、如何にも自由そうに廻転椅子から飛降りた。自分の考えを踏み締めるように両手を背後( うしろ)に組んで、一足一足に力を入れて、大卓子(テーブル)と大暖炉(ストーブ)の間の狭いリノリウムの上を往復し初めた。  私は矢張(やっぱ)り旧(もと)の通りに、廻転椅子の中に小さくなって、眼の前の緑色の羅紗(らしゃ)の平面を凝視していた。その眩(まぶ)しい緑色 の中に、ツイ今しがた発見した黒い、留針(ピン)の頭ほどの焼け焦(こ)げが、だんだんと小さな黒ん坊の顔に見えて来る……大きな口を開(あ)いてゲラ ゲラ笑っているような……それを一心に凝視していた。 「そうして更に恐るべき事には、この書類に現われている自白と、犯罪の隠蔽手段は、一分一厘の隙間(すきま)もなく吾輩をシッカリと押え付けておるのだ 。……即ち、もしもこの書類が公表されるか、又は司直の手に渡るかした暁には、如何に凡(ぼん)クラな司法官でも、直ぐに吾輩を嫌疑者として挙げずには おられないように出来ているのだ。……のみならず……万一そうして吾輩が法廷に立つような事があった場合には、仮令(たとい)、文殊(もんじゅ)の智慧 、富楼那(フルナ)の弁が吾輩に在りと雖(いえど)も、一言も弁解が出来ないように、この調査書は仕掛けてあるのだ。そのカラクリ仕掛の恐ろしい内容を 今から説明する……いいかい……吾輩がこの戦慄すべき学術実験の張本人として名乗りを上げずにおられなくなった、その理由を説明するんだよ」  こう云ううちに正木博士は大卓子(テーブル)の北の端にピタリと立止まった。両腕を縛られているかのようにシッカリと背後(うしろ)に組んだまま、私 の方を振返ってニヤニヤと冷笑した。その瞬間に、その鼻眼鏡の二つの硝子(ガラス)玉が、南側の窓から射込む青空の光線をマトモに受けて、真白く剥(む )き出された義歯(いれば)と共に、気味悪くギラギラピカピカと光った。それを見ると私は思わず視線を外(そ)らして、眼の前の小さな焼焦(やけこ)げ を見たが、その中から覗いていた黒ん坊の顔はもうアトカタもなく消え失せていた……と同時に私の頬や、首筋や、横腹あたりが、ザワザワザワと粟立(あわ だ)って来るのを感じた。  正木博士はそのまま、黙って北側の窓の処まで歩いて行った。そこでチョイト外を覗くと直ぐに大卓子(テーブル)の前の方へ引返して来たが、その態度は 、今までよりも又ズット砕(くだ)けた調子になっていた。これ程の大事件を依然として馬鹿にし切って、弄(もてあそ)んでいるような、滑(なめ)らかな 、若々しい声で言葉を続けた。 「……そこでだ。いいかい。まず君が裁判長の頭になって、この前代未聞の精神科学応用の犯罪事件を、厳正、公平に審理してみたまえ。吾輩が検事、兼、被 告人という一人二役を兼ねた立場になってこの事件の最後の嫌疑者、即ち『W』と『M』の行動に関する一切の秘密を、知っている限り摘発すると同時に、告 白するから……君は結局、双方の弁護士であると同時に裁判長だ。同時に精神科学の原理原則に精通した名探偵の立場に立ってもいい……いいかい……」  私の直ぐ傍に立佇(たちど)まった正木博士は、リノリウムの床の上を、北側から南側へコツリコツリと往復しながら咳一咳(がいいちがい)した。 「……まず……呉一郎が、その絵巻物を見せられて、精神病的の発作に陥れられた当時の事から話すと……その大正十五年の四月の二十五日……呉一郎とモヨ 子との結婚式の前日には『W』も『M』も姪の浜から程遠からぬこの福岡市内に確かに居た。……Mはまだ九州大学に着任匆々で、下宿が見付からなかったた めに、博多駅前の蓬莱館(ほうらいかん)という汽車待合兼業の旅宿(はたご)に泊っていたが、この蓬莱館というのはかなりの大きな家(うち)で、部屋の 数が多い上に、客の出入りがナカナカ烈しい。おまけに博多一流で客待遇(あしらい)が乱暴と来ているから、金払いをキチンキチンとして飯をチャンチャン と喰ってさえおれば、半日や一晩いなくたって、気にも止めてくれないという、現場不在証明(アリバイ)の胡魔化(ごまか)しには持って来いの場所だ。… …ところでこれに対するWはと見ると、いつも九大医学部の法医学教授室に立て籠(こも)って勉強ばかりしている。仕事の忙がしい時は内側から鍵をかけて いて、一切の用事は電話で弁ずる。鍵穴が塞(ふさ)がっている時は、決して外からノックしないのが、法医学部関係者の規則みたような習慣になっている。 こうしたWの神経質は、小使や友人は勿論の事、新聞記者仲間でも評判になっている位だから、これも現場不在証明(アリバイ)の製造には最も便利な習慣だ 。  ……サア又、一方に……呉一郎が、結婚式の前日に出席する筈になっていたという、福岡高等学校の英語演説会の日取や、時刻は、新聞に気を付けておれば キットわかる。呉一郎が軌道に乗らずに歩いて帰るという習慣も、著しい習慣だから、前以て調査しておれば直ぐに気が付く……そこで石切場に働いている石 切男(いしや)の一家族に、何かしら検出の困難な毒物を喰わせて、その日を中心にした二三日か一週間も休ませて、その隙(すき)に仕事をするという段取 りになるのだ。もっともこの姪の浜という処は半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よく虎列剌(コレラ)とか、赤痢(せきり)とかいう流行病 の病源地と認められる事があるので、その手の病原菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時その時の健康の状 態によって利かない事があるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛だから、その方の手筈には 頗(すこぶ)る便利な訳だと思う。とにかく微塵(みじん)も狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。  ……次に当日、呉一郎が福岡市の出外(ではず)れの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田圃(た んぼ)に挟まれた国道を通らなければならぬ事は、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見ても直ぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、 深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かない事にしておれば、顔形や背恰好 までもかなり違った人間に見せかける事が出来たであろう。……そこで帰って来る呉一郎を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実は私は貴 方(あなた)の亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだ貴方がお幼少(ちいさ)いうちに、貴方の事に就いて極く秘密のお頼みを受けている事があり ました。そのお約束を果すために、斯様(かよう)な処でお待ち受けしていたのです……テナ事を云えばイクラ呉一郎が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けら れずにはいられないだろう。そこでその絵巻物を勿体らしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家中(うち)に置いておくと教育上悪いからとい うので、私に預けておかれたものですが、最早(もう)、明日(あした)からは貴方が一軒の御家庭の主人公になられると承(うけたまわ)りましたから、御 返却(おかえ)しに参りました。つまり貴方が、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかれなければならぬ品物で、貴方の遠い御先祖に当る或 る御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致をこの中に描きあらわして在るのです。これに就ては色々な恐ろしい噂や伝説が絡(まつ)わり 付いている程の御宝物なのですが、それはウッカリした者が見ないように云い触(ふ)らしたのが一種の迷信みたようになってしまったので、実はトテモ素晴 らしい名画と名文章なのです。嘘だと思われるならば今、ここで御覧になっても宜しい。その上で御不用だったら今一度、私が御預りしても構いません。あす この高い岩の蔭なら、誰も来はしないでしょう……と云ったかどうか知らないが、吾輩だったら、そんな風に云いまわして好奇心を唆(そそ)るのが一番だと 思うね。果せる哉(かな)、呉一郎は美事に蹄係(わな)に引っかかった。岩の蔭で夢中になって絵巻物を繰り展げているうちに、スラリと姿を消して終(し ま)うくらい何でもない芸当であったろう……いいかね……。  ……それから次にその二年前のこと……すなわち大正十三年の三月二十六日に起った直方(のうがた)事件に移ると、あの当夜も、WとMは、たしかに福岡 市に居たことになっている。……というのはその三月二十六日の前日の二十五日には、久方振りでこの大学の門を潜って、当時、精神病学教授として存命中で あった斎藤博士初め、同窓や旧知の先輩、後輩に面会した後(のち)、総長に会って論文を提出して、卒業以来預けておいた銀時計を受取っている。宿はやは り蓬莱館に泊る事にした。またWもその当時から今の春吉(はるよし)六番町の広い家に、飯爨婆(めしたきばあ)さん一人を相手の独身生活をやっているん だから、日が暮れてからソッと脱け出して、朝方帰って来る位、何でもない仕事だ。つまり二人とも現場不在証明(アリバイ)を胡魔化(ごまか)すには持っ て来いの処に居た訳だ。……それかあらぬかその晩の九時頃に一台の新しい箱自動車(セダン)が、曇り空の暗黒を東に衝(つ)いて福岡を出た。乗っている 人物は炭坑成金らしい風采で「ちょうど直方へ連絡する汽車が無くなったところへ、急用が出来たものだから止むを得ない。一つ全速力で直方まで遣(や)っ てくれ」と云って……」 「……エッ……そ……それじゃあの呉一郎の夢遊病は……」  正木博士は私の前を通り抜けつつ振り返って冷笑した。 「……ウソさ……真赤な嘘だよ」 「……………」  私の脳髄の全部が忽ち煽風機(せんぷうき)のような廻転を初めた。身体(からだ)が自然(おのず)と傾いて一方に倒れそうになったのを、辛(かろ)う じて椅子の肘掛けで支え止めた。 「……あんな夢中遊行があったら二度とお眼にかからないよ。……第一、台所の入口の竹の心張棒が落ちた説明からして甚だ明瞭を欠いているじゃないか。い ずれ手袋を穿(は)めた手を、戸の間から差し入れて指の股で掴もうと試みたものだろうが、その時に誤って取落した……とでも考えれば説明が付くが……又 は難なく無事に外(はず)しておいて、あとで自然に落ちたように見せかけておいた……と考える事も出来るが……しかし、まあいい。イクラ際どいところが 抜きにしてあっても、吾輩の説明を聞いておれば一ペンに解るから……。それを吾輩が何故(なにゆえ)に夢中遊行病と断定してしまったかという理由も、同 時に判明するんだから……」  私の脳味噌の中の廻転が次第に静まって、やがてヒッソリと停止した。同時に頭の毛がザワザワザワとし初めたのを奥歯でギュッと噛み締めながら眼を閉じ た。 「……裁判長……シッカリしないと駄目だぞ。これから先がいよいよ解らない、恐ろしい事ずくめになって来るんだから……ハハ……」 「……………」 「……そこでだ……次にこの調査書類を、よくよく読み味わって見ると、異様に感ぜられる点が二つある。その一ツはツイ今しがた君が疑ったところで、犯人 の捜索方法を、ただ呉一郎の記憶回復後の陳述のみに期待して、その他の捜索方法を全然放棄している事である。……それから今一つは呉一郎の生年月日に就 いて特別の注意が払ってある点と……この二つだ。いいかい……」 「……ところでその呉一郎の年齢に就いて、この調査書には一つの新聞記事の切抜を参考として挿入してあるのであるが、その記事に依ると、呉一郎の母親の 千世子は、明治三十八年頃に家出をしてから一年ばかりの間、福岡市外水茶屋(みずぢゃや)の何とかいう、気取った名前の裁縫女塾に通っていたが、その間 には子供を生まなかったように見える。……で……もしその頃に生まなかったものとすれば呉一郎が生まれたのは、明治三十九年の後半から、四十年一パイぐ らいの間だ……という推測が出来る。……但(ただし)、こんな年齢の推定材料の切抜記事は、常識的に考えると、呉一郎が私生児だから、特に念のために挿 入したものと考えられるかも知れぬ。又はその当時の話題になっていたこの『美人後家(ごけ)殺しの迷宮事件』の真相を、古い色情関係と睨んでいた新聞記 者が、そんなネタを探し出した。ところが又その記事の中に、虹野(にじの)ミギワなぞいう呉虹汀(くれこうてい)に因(ちな)んだ名前が出て来たりした ので、傍々(かたがた)以てこの調査書の中に取入れたものとも考えられるようでもある。……が……しかし吾輩の眼から見るとそこにモットモット意味深長 な、別個の暗示が含まれているように思える。……というのは外でもない。その呉一郎が生まれた年らしく推定される明治四十年の十二月は、この九州帝大の 前身たる福岡医科大学が、第一回の卒業生……即ち吾々を生んだ年に当るのだ。……いいかい……」 「……………」 「……ところでこれが又、局外者の眼から見るとチョット根拠の薄弱な、余計な疑いのように見えるかも知れないが実はそうでない。当時の大学生の中に怪し い奴がいた。そいつがこの事件のソモソモの発頭人で、直方事件の下手人も其奴(そやつ)に相違ないという事を、この調査書は云いたくて云い得ずにおるよ うに見える。……これが吾輩の所謂(いわゆる)、自白心理だ。問うに落ちずして語るに落ちるという千古不磨(せんこふま)の格言のあらわれだ。呉一郎が 生まれた真実の時日と場所を知っているのは、母親の千世子を除いてはWとMの二人きりだからね」  私は強く肩をユスリ上げた、自分でも意味がわからないままに……。正木博士もその時にチョット沈黙したが、その沈黙は私を無限の谷底に陥れるように深 く、私の胸を打った……と思うと正木博士は又、言葉を続けた。 「……そうと気が付いた時に吾輩はゾッとしたよ。おのれと思ったが弁解の余地がない。しかも呉一郎の血液を検査して誰の子かを決定する法医式鑑定法の世 界的権威はWの手中に在る」  正木博士は南側の窓の所で向うむきにハタと立止まった。悄然とうつむいて唾液(つば)を嚥(の)み込んでいるように見えた。  私は又もわななき出した片手を額に当てた。湧き起り湧き起りして来る胴ぶるえを押え付け押え付けしながら片手でシッカリと膝頭を掴んでいた。  正木博士はやがて太い溜息を一つした。恰(あたか)も窓の外を見るのを恐れるかのようにクルリとこっちを向いた。……黙って……うつむいて……心の動 揺を落付けるかのように、大卓子(テーブル)を隔ててコトリコトリと私の前を横切って行った。そうして北側の窓の処で今度は直角に向(むき)を換えて、 窓側とスレスレに往復し初めたのであったが、その心持ちうつむいた姿は、眩しい窓の前を通り過ぎる度毎(ごと)に、チラリチラリとした投影を、私の眼の 前の大卓子(テーブル)の縁に閃(ひら)めかすのであった。  正木博士は又も念入りに咳一咳(がいいちがい)した。 「……今から二十余年前……福岡の県立病院が医科大学に改造されてこの松原に建直(たてなお)された当時の事、その大学の第一回の入学生として這入って 来た青年の中に、WとMという二人がいた。その中でもWは法医学、Mは精神病学という…いずれもその当時の医学界で発達の十分でない方向を志しつつ、互 いに首席を争い続けていたが、Wは元来の結核系統の家(うち)に生れたせいか、その当時の学生の中(うち)でも一二を争う好男子の偉丈夫で、性質は念に 念を入れる神経質の実際家……Mはまたその頃から矮躯(チビ)の醜男(ぶおとこ)で、空想家の早飲込みのドチラかといえば天才肌という風に、各自正反対 の特徴を持っていた……それが互いに鎬(しのぎ)を削(けず)って学業の覇(は)を争っていたのであった。  ……然(しか)るに今も云う通りWは法医学、Mは精神病学と、その志す最後の目標は違っていたが、唯一の、その頃はまだソンナ名前すら人が知らなかっ た精神科学方面の研究に対する二人の興味は、一種の宿命であるかのように一致していた。或(あるい)は二人の頭脳の正反対の特徴の極端と極端とが偶然に 一致していたせいかも知れないが……とにかくそのために、特に当時のその方面の権威者、斎藤博士に就いて指導を仰ぐ事になった訳であるが、その中でも又 、特に専門の医学と縁の薄い、迷信とか、暗示とかいう問題に対する二人の研究熱は、殆ど沸騰点を突破しているかの観があった。もっともこれは東洋哲学に 造詣(ぞうけい)の深い斎藤先生の指導に影響されたせいでもあるが、その結果、福岡から程遠からぬ所に在るこの有名な、恐ろしい伝説に、二人とも相前後 して惹付(ひきつ)けられて行くようになったのは、寧ろ当然の帰結と云うべきであったろう。  ……今まで一種の敵愾心(てきがいしん)をもって、どことなく折合いかねていた二人は、この伝説に着眼すると同時に、何もかも忘れて握手してしまった 。そうして互いに意見を交換して、この問題に対する研究手段の一般方略をきめた結果、Wは『迷信、伝説の起原と精神異状』といったような比較的質実(じ み)な方面から……又、これに対するMの方は『Wの研究の結果から見た、仏教の因果応報論』もしくは『印度(インド)、及(および)、埃及(エジプト) の各宗教に含まれたる輪廻転生(りんねてんしょう)説の科学的研究』といったような途方もない派手な題目で……いずれにしても相関聯した裏と表の二方面 から狙いを付けて、どこまでも突貫して見ようという事になった……が……何しろまだその伝説の正体も突止めない中(うち)から、こんな恐ろしい研究主題 (テーマ)を決めて掛った位だから、その当時の二人の意気組みが、如何に素晴らしいものであったかが想像出来るであろう。事実二人とも、この研究を完成 するためには、あらゆる人情も良心も、神も仏も踏み潰し蹴散(けち)らして行く決心であった。毛唐人の中でも科学の新境地を開拓した連中の中には、随分 思い切った研究手段を執(と)った者がある。特に医学方面の大家の中には学術のために良心を殺して極度に残忍な犠牲を取った例が無数に在って、社会の非 難を受けた連中も相当あるが皆、学術のためとか人類文化のためとかいう名の下に敢然として非人道的な研究を断行して来たものらしい。その通りにWもMも 、あらゆる犠牲を顧(かえりみ)ずに、この実験を徹底して行こうではないか……と固く約束した事であった。  ……二人はコンナ訳で、互いに首席を争う以上の熱度を上げて、協力一致、この伝説の調査を開始したものであったが、ちょうど都合のいい事に、呉家の長 女でY子というのが最早(もう)、妙齢になっていて、婿を探しているところであったけれども、田舎の癖として呉家の精神病系統(きちがいすじ)の噂がど こまでも附き纏って行くので、婿に来てくれる者がない。そこで色々と手を尽して探しているうちにヤットの事で、当時、福岡の簀子町(すのこまち)という 処に京染悉皆屋(きょうぞめしっかいや)の小店を開いていた渡り者のGという三十男を引っ張って来て間に合わせる事になったが、そんな経緯(いきさつ) のために、一時絶えかけていた呉家の血統(ちすじ)に絡まる伝説が、八釜(やかま)しく復活していたところだったので研究上、非常に便宜であった。  ……WとMは、そこでそのような噂や伝説をグングンと突込んで行った。古蹟調査に名を藉(か)りたWが如月寺(にょげつじ)の和尚に取り入って縁起文 を盗み写している間に、同じようにして和尚の信用を得たMは、問題の御本尊の弥勒(みろく)様の首を引抜いて見るといった調子で、グングンと求心的に肉 迫して行くと実に意外千万な事実を発見した。すなわち如月寺の縁起文の中では、呉虹汀(くれこうてい)の手で焼棄てられた事になっている絵巻物が、実は 焼棄てられていなかった……ツイこの間まで御本尊の胴体の中に厳存していたのみならず、それを最近になって何者かが発見して、どこかへスッパ抜きに持っ て行ってしまっているに相違ない事実が発見されたのだ。  ……これは呉家の系図と、これに絡まる伝説の史実的調査だけで満足するつもりであった二人にとって実に思い設けぬ発見であると同時に、非常な失望を齎 (もたら)したものであった。けれども、その失望は一時の事であった。若い二人は間もなく前に倍した勇気を盛り返しつつ、今までよりも一層、申合わせを 厳重にして、あらゆる方面から手を廻して絵巻物の行衛(ゆくえ)を探索した。そうしてその結果を綜合してみると、その泥亀(すっぽん)抜きの犯人という のは又、意外千万にもY子の妹のT子という美しい女学生に違いないという目星が付いたので、サア事がややこしくなった。少々中(あ)てられるかも知れな いが、裁判長だから仕方があるまい……ハハハ……」 「……………」 「……ところでWとMの二人の提携はここまで来ると又、キレイに断絶する事になった。……アノT子に絵巻物を握られていては事が面倒だ。お寺の御本尊の 中に在るのと違って、生きた人間が保管しているのだから盗み出すにしても容易な事ではない。ここいらでこの研究は一時中止しようじゃないか。ウン。そう しよう。いずれ又……とか何とかいうので最初の意気組にも似合わない、恐ろしくアッサリとした別れ方であったが……しかし内実は決してアッサリでない事 を、お互いにチャンと見透(みす)かし合っていた。アッサリどころか、前に何層倍した熱烈な決心をもってこの実験を突き貫(ぬ)いてくれよう、どうする か見ろ……と思っている事を、互いに感付き過ぎる程、感付いていた。もっとも二人のそうした決心にはT子の美貌が反映していた事を否定出来ない。……が 併しながら呉青秀の忠志と違ってこの実験に対するWとMの誠意ばかりは、今日までも断々乎(だんだんこ)として一貫している筈だ。むろん二人ともだよ。 いいかい……」 「……………」 「……ところでその頃の福岡附近は所謂(いわゆる)、角帽の草分け時代で『末は博士か院長さんか』と芸者連が唄うくらい大学生大持ての時代であった。一 般家庭でも『学士様なら娘を遣るか』といった調子で、紅葉山人の金色夜叉(こんじきやしゃ)や、小杉天外の魔風恋風(まかぜこいかぜ)が到る処にウロウ ロしていた。WもMもこれに紛れてT子嬢を張合った訳だが、その結果がどうなったかというと、矢張(やは)り遺憾なく二人の特徴を発揮している。  ……まず最初のうちはWが勝利を占めた。何しろWはその当時の角帽連の中でも、特別誂(あつら)えの好男子、兼秀才で、おまけに物腰が応揚(おうよう )で、叮嚀で、透きとおる程親切……だという、この方面に対する絶好の条件ばかり、倶有(ぐゆう)していたんだから敵(かな)わない。手もなくタタキ付 けられた揚句(あげく)、到底二人の仲には歯が立たぬものと諦らめさせられたMは、学業も何も放り出して、野山を馳けめぐって、化石なぞを探しながら、 辛(かろ)うじて或る気持を慰めていた。  ……しかも一方にWは、決して成功の美酒に酔い痴れるような単純な男ではなかった。T子を手馴付(てなづ)けてしまうと間もなく、兼ねての計劃どおり に『貴女(あなた)の家系(いえすじ)に絡(まつ)わる、悪い因縁の絵巻物があるそうですが、それは今の中(うち)に、よく調査してみようではありませ んか。そうして一番新らしい科学の知識で研究して、その悪因縁を断ち切っておこうではありませんか。そうしないと、もし二人の間に男の児(こ)が生まれ るような事があった時に、剣呑(けんのん)な思いをしなければなりませんから』といったような塩梅(あんばい)式に、言葉を巧みにして絵巻物を手に入れ ようとした。……けれども流石(さすが)のT子さんも、こればかりは手離しかねたと見えて『そんなものは知りません』と云うのでナカナカ出さない。第一 その絵巻物を隠している場所が判らないので、今度は手段(て)を変えてT子を福岡へ連れ出しにかかった。連れ出しさえすればキット、その絵巻物を持って 来るに違いない……というのがWの見込みであったろう事は云う迄もない。  ……すると又都合のいい事には、T子の姉婿のGという京染悉皆屋(しっかいや)が、仕様のないニヤケ男の好色(すけべい)野郎で、婿入りをすると間も なく、義妹(いもうと)のT子に云い寄りはじめて、恐ろしく執拗(しつこ)いので困っている矢先だったから、Wに誘いをかけられたT子は二つ返事で家( うち)を飛出して、福岡でWとコッソリ同棲する事になった。一方に姉のY子もハッキリかウスウスかそんな事情を心得ていたらしく、あまり追求しなかった のでイヨイヨ好都合であったが、しかし肝腎カナメの絵巻物の所在は依然として不明であった。彼Wの眼力を以てしても、果してT子が絵巻物を持っているか 、いないかすら看破し得ない有様であったらしい。  ……しかしWは失望しなかった。なおもT子の身のまわりを探ると同時に、時折は学校の仕事を放(ほ)ったらかしてまでもT子の行動を附けまわしていた のであったが、これはWとしては無理もない事であった。T子が、如月寺の和尚様と、自分の姉のY子以外には誰も気付まいと思って使っていた『虹野ミギワ 』の変名や、品評会に出した支那古代の刺繍なぞが、絵巻物の故事来歴を知り抜いている彼Wの眼を逃れ得よう筈はないので、どうしてもT子がどこかに隠し 持っているに違いないという推測は、当然過ぎるくらい当然な推測であった。  ……しかし一方に、怜悧そのもののようなT子自身も、そうしたWの態度の中から、窃(ひそ)かに或る事を察していた。  ……つまりハッキリとはわからないが、Wが自分に近付いて来た目的が単純ではないらしい。事によるとその目的は絵巻物かも知れない。そうしてその絵巻 物を欲しがる目的は……といったような漠然たる疑いを抱くようになったものらしいが、しかし、そんな疑いを抱いている気ぶりも見せないように気を付けて いたので、流石(さすが)のWも歯が立たなくなった。全く立往生の姿にされてしまったらしい。……のみならずその中(うち)にWは又、それ以上の手厳し い打撃を受けて、涙を呑んで退却しなければならぬ破目(はめ)に陥った。すなわち絵巻物探索の唯一無上の手がかりとして、手を換え、品を変えて機嫌を取 っていたT子から、抵抗不可能ともいうべき自分の急所に、思いもかけぬ肘鉄砲を一発ズドンと喰わされたのであった。  ……というのは別の事でもない。T子が相手の恋を敵本主義の裏打ちものとウスウス感付いていた事は、今話した通りであるが、今一つにはそのWが、甚し い肺病の家筋で、本人の体質がその事実を遺憾なく証明している事を、その頃になって初めて聞き知ったからで、この点についてWはT子に対して全然、事実 を偽っていた事が、同時に判明したからであった。……しかも、これは余談ではあるが、こうした事実に照してみると、T子のこうしたふしだらが、決して尋 常一様の浮気から出たものでない事がわかると同時に、その薄情な態度も強(あなが)ちに咎(とが)められなくなる。その浮気の裡面には呉家の血統の継続 という痛々しい、悲しい観念が有力に動いていた。それが魔風恋風(まかぜこいかぜ)以来の自由恋愛の風潮に乗って具体化されたものに外(ほか)ならない 。かよわい女の判断ながら、出来るだけ人格の正しい、健康な血統(ちすじ)の子孫を設けたいものと、一心に憧憬(あこが)れ願っていた心情がハッキリと 首肯(うなず)かれる訳で、T子が家出をした当時に、その界隈の人々が『どうせい自宅(うち)に居て婿どんを探しても、旅烏(たびがらす)のGぐらいの 男が関の山じゃろうけに』というような冷評的な噂をしていた事実も、やはり、こうしたT子の心情を裏書きしていたと云うべきであろう。同時にT子が如何 に純情と、理智とを兼ね備えた、怜悧そのものともいうべき性格の持主であったかという事実も首肯(うなず)かれる訳で、斯様(かよう)な点から見るとT 子は生れながらにして不幸薄命な女性であったとも考えられるようである。  ……それから、なおここに今一つ、是非とも告白しておかなければならぬ事がある。というのは外(ほか)でもない。最早(もはや)察しているかも知れな いがWの血統(ちすじ)と、現在の健康状態に関する秘密を、手紙でT子に密告したのは外ならぬ恋敵のMであった……という事である。これは依然としてT 子に対する愛着と、この研究に関する未練を棄て得なかったMが、Wと別行動を執(と)って、T子以外に絵巻物を隠している者がいはしまいかと、色々探索 しているうちに、今云ったような村人の噂からT子の心中を推測して、もしやと思って試みた、反間苦肉(はんかんくにく)の密告が図星に当ったものである が、むろん、これは卑怯とも何とも云いようのない所業(しわざ)で、Wに対して弁解の余地は毛頭(もうとう)ない。況(いわ)んやその手紙をチャンスと して又もT子に接近し初めたに於てをやである。……が……しかし……この時のMの所業(しわざ)の卑怯さが、それから後(のち)、今日までのMの生涯に 、どれ程の恐ろしい代償を要求しつつ祟(たた)り続けて来たか……という事実を回顧すると、実に身の毛も竦立(よだ)つばかりである。『因果応報』の研 究に志して来た者が、その因果応報の実物に悩まされて、自殺まで決心させられている。その運命の皮肉さ……笑う力もない事を併せてここに告白しておく。  ……とはいうものの……その時のMが、どうしてそんな将来を予知し得よう。この伝説が含んでいる精神科学的の魅力と、T子の美貌に引かされつつ、学術 のためならば後事(あと)はドウなっても構わないという、最初の意気組をそのままに盲進した。そうして半年足らずの間T子と同棲していると、そのうちに T子の姙娠の徴候がだんだんと著しくなって来た。そうしてその年の暑中休暇に入ると間もなく、明らかに胎動が感じられるようになったのであるが……しか も……この胎動こそは、それから後(のち)二十年の長日月に亘って、WとMの二人の運命を徹底的に掌握しようと藻掻(もが)いている或るもの……運命の 魔神とでも形容すべきものの胎動であった。WとMの二人の心臓をガッシリと掴んで手玉に取ろうと焦燥(あせ)っている胎児のワインド・アップであった。 ……精神科学の研究を中心とする血も涙も、義理も人情も超越した邪妖劇……長い長い息苦しい、毒悪不倫劇の中心的な主役を引受けて、登場俳優を片端(か たっぱし)から生死のドタン場にまで飜弄しようとしている運命の魔神の、お目見得(めみえ)の所作に外ならなかったのだ。……ところでその無言の所作が 、開幕の皮切りに、大衆に投げかけた疑問というのは『私は誰の児(こ)か』という質問であった。……しかもその当時から今日までの間に、この質問に対し て与えられた回答は、有形的にも無形的にも絶無(ノン)という事になっているのである。  ……無論、この質問に対する回答はWも、Mも持合せている筈である。しかしその回答が、果して確実、動かすべからざる事実に立脚したものかどうかとい う事は、それから後(のち)に『血液型による親子の鑑別法』の大家となったWも、調査が出来ないでいる筈だ。自分の血液もMの血液もウッカリ取る訳に行 かないからね……のみならず一方には、この事実を、何人(なんぴと)よりも明白に証言し得るであろう胎児の母親のT子も、そんな調査が出来ないでいるう ちに所謂(いわゆる)『死人に口なし』となってしまって、あとには何等の証拠も残っていない。せめてT子が生前に、その児の父親と認めた人間の苗字を、 その児に附けて、何かに書き残してでもいるならば文句もなく面倒もない筈であるが、遺憾ながらソンナものが一つも残っていない。戸籍面にも簡単に『父不 詳――呉一郎』としか書いてない今日となっては、WとMとが、そのT子との関係を、肯定するのも否定するのも自由自在の勝手次第となっている。況(いわ )んやT子が、WとM以外の男には一人も関係していなかったか、どうかという事は、死んだT子の良心以外に何者が記憶していよう。これを要するにT子の 腹に宿った胎児の父親は、T子がこの世に蘇生して来て、明白に証言するか、又は何かに動かすべからざる記録として書き止めていない限り、永久に、絶対に わからず仕舞(じま)いになる外はないのだ。  ……その運命の魔神……胎児が出生してみると、それこそ文字通りに玉のような男の児であった。明治四十年十一月の二十二日に、それまで二人が隠れ住ん でいた福岡市外の松園(まつぞの)という処の皮革商(かわや)の離座敷(はなれ)で生れたのであったが、その生声(うぶごえ)を聞くと間もなく、今まで 隠忍自重していたMは、初めてT子に謎をかけてみた。『呉家の男の児を呪う絵巻物があるそうだが』と持ちかけてみたが、ここのところはチョットWがMに お株を取られた形であった。すると流石(さすが)のT子も初めて知った母親の情でたまらなくなったと見えてスッカリ白状する事になった。その告白に曰( いわ)く……。  ……私は小さい時から本を読んだり、絵を描(か)いたりする事が三度の御飯よりも好きでしたので、物心が付く頃からショッチュウ、たった一人でお寺へ 行って、虹汀(こうてい)様が自分でお描(か)きになったという襖の絵や、自分でお彫りになった欄間(らんま)の天人なぞを眺めたり、写したりしていた のですが、そのうちに参詣しに来た村の人や何かが私の居る事を知らないで、御寺の縁起について色々とお話をしているのを聞いて、子供心に非常に感動しま した。そうしてソンナお話の中に、この御寺の縁起の事を詳しく書いたものが残っているゲナ。和尚さんが大切に蔵(しま)って御座(ござ)るゲナ。……と いうような話を聞きますと、それが見たくて見たくてたまらなくなりましたので、人の居ない頃を見計(みはか)らって、絵や何かを見まわる振りをしながら 方々を探しておりますと、案の定和尚様のお部屋の本箱の抽出(ひきだ)しから縁起の書附けを見付け出しました。  ……それを見ると又、その焼棄てられたという絵巻物が惜しくて惜しくてたまらないような気がしましたので、何心なく本堂に来て、御本尊様をゆすぶって 見ますと、どうでしょう。確かに巻物らしいものが這入っているのがコトコトと手に応(こた)えて来ましたので、余りの事にビックリして胸がドキドキしま した。  ……けれどもこの事を和尚様に話したら一ペンに叱られてしまいましたので、それから一週間ばかり経って後(のち)に、学校の帰りがけにお線香を上げに 行く振りをして、御本尊様の首を抜いて、絵巻物を取出して来ました。  ……ところがその絵巻物を持って帰って、人の居ない倉庫(おくら)の二階で開いてみますと、思いもかけない怖ろしい、胸がムカムカするような絵ばかり でしたので、私は二度ビックリしまして、直ぐにも御寺に返しに行こうと思いましたが、その時にフト気が付いて絵巻物の表装を見ますと、何ともいえない見 事なものなので、返すのが惜しくなりました。そうして、それから後(のち)は一人で留守番をするたんびに、少しずつ裏面(うら)の紙を引き剥(は)いで 壊れた幻燈の眼鏡(めがね)で糸の配りを覗いては、絳絹(もみ)の布片(きれ)に写しておりましたが、見付かると大変ですから、作ったものはみんな焼き 棄てたり、室見川(むろみがわ)へ流したりしてしまいました。  ……そうしてイヨイヨその刺繍の作り方を自分の手に覚え込んでしまいますと、引剥(ひきはが)した紙を旧(もと)の通りに修繕(つくろ)って、絵巻物 を御本尊様の胎内に返してしまいましたが、盗む時よりも返す時の方が、よっぽど怖う御座いました……そうして、それから間もなく福岡へ出て来たのですか ら、絵巻物はやっぱりあの、如月寺(にょげつじ)の弥勒(みろく)様の胎内に在る筈です。  ……けれどもこうして吾児(わがこ)というものが出来て見ますと、つくづくあの絵巻物の恐ろしさがわかって来ました。姉のY子でも私のように男の児を 生んで、あの絵巻物の在る事を知っているとしましたならば、同じ思いをするにきまっております。虹汀様が、あの絵巻物を焼かれなかった未練なお心を怨む にきまっております。  ……とはいえあの絵巻物が在るという事を知っている者は誰もいないのです。たった私一人だけなのです。ですから私の一存で、あの絵巻物を貴方の御学問 の研究材料に差上げますから、私の家の血統(ちすじ)を引いた男の児にだけ祟(たた)るという、その恐ろしい、不思議な絵巻物の力を、科学の力で打ち破 って、その呪咀(のろい)がこの児にかからないようにして下さい。是非是非お頼みしますから……。  ……という涙ながらの話だ。  ……Mは呆れた。且(か)つ喜んだ。なる程それではイクラ探しても判明(わか)らない筈だ。吾々の捜索方針と絵巻物の隠れ処が、ちょうど鼬(いたち) ゴッコ式に入り違いになって行ったので、二人とも絵巻物の無い方へ無い方へと捜索して行った訳だ。偶然の作用を推理の力で追っかけたんだから見付からな いのも無理はない。……なぞと独りで北叟笑(ほくそえ)みながら、T子にも内証でコッソリ姪の浜へ来て、如月寺の本堂へ忍び込んで、御本尊の首を抜いて みると……。  ……あとは説明しない……しても説明にならないから……」 「……………」 「裁判長の判断に任せる」 「……………」 「……WとMのその後の行動によって……否、今日只今、この仮法廷に於て……吾輩という検事の論告と、Mという被告の陳述を憑拠(ひょうきょ)として、 絵巻物の行衛を推断してもらうよりほかに方法はない」 「……………」 「……Mは黙々として寒風に吹かれながら姪の浜から帰って来た。いつかはその絵巻物の魔力……六体の腐敗美人像に呪咀(のろ)われて……学術の名に於て する実験の十字架に架けられて、うつつない姿に成果(なりは)てるであろう、その可愛らしい男の児の顔を眼の前に彷彿させつつ……同時にその母子(おや こ)の将来に、必然的に落ちかかって来るであろう大悲劇に直面した場合に、ビクともしない覚悟と方針とを考えまわしつつ……」 「……………」 「……彼は松園の隠れ家に何喰わぬ顔をして帰って来ると、何も知らずに添乳(そえぢち)をしているT子に向って誠しやかな出鱈目(でたらめ)を並べた。 ……絵巻物は和尚か誰かが、取出してどこかに隠したものと見えて、弥勒様の胎内にはモウ見当らなかった。しかしこっちから請求して貰って来る訳にも行か ない品物なので、そのまま諦らめて帰って来た。いずれ自分が学士になって大学に奉職する事にでもなったならば、その時に大学の権威で、学術研究の材料と して提供させても遅くはないであろう。ところで絵巻物の問題はそれでいいとして、実は自分の故郷の財産の整理がこの歳暮に押し迫っているので、困ってい る。兎(と)にも角(かく)にも大急ぎで帰って来なければならないのだ。その序(ついで)に、お前達の戸籍の事も都合よく片付けて来たいと思うから、用 事が出来たらコレコレ斯様斯様(かようかよう)の処へ通信をするがいい……といったような事で話の辻褄(つじつま)を合わせて、渋々ながら納得をさせる と、その翌々日の福岡大学最初の卒業式をスッポカシて上京してしまった。しかもそのまま故郷へは帰らずに東京へ転籍の手続をして、全速力で旅行免状を手 に入れて海外に飛び出した。これがこの時、既にMの心中に出来上っていた、来るべき悲劇に対する戦闘準備の第一着手であった。Wにだけわかる宣戦の布告 であったのだ」 「……………」 「然るに、これに対するWの応戦態度はというと、頗(すこぶ)る落付き払ったものであった。殊勝気(しゅしょうげ)に白い服を着込んで、母校の研究室に 居据ってしまった。そうして一切を洞察していながら、何喰わぬ顔で顕微鏡を覗いていたのであった」 「……………」 「WとMの性格の相違は、その後も引続いて発揮された。すなわちMは、欧米各地の大学校を流れ渡って、心理学や遺伝学、又はその頃から勃興しかけていた 精神分析学なぞを研究しつつ、一方に内地の官報や新聞を通じて、Wの動静に注意を払いつつ時季を待っていた。これはその男の児に、Mの苗字を冠(かぶ) せるのを嫌ったのと、モウ一つは、T子の追求を避けるためであった。……というのは女としては珍らしい冴えた頭脳(あたま)を持っているT子がもし、M の行衛不明と、如月寺の絵巻物の紛失事件を綜合して考えた場合には、遅かれ早かれ或る恐ろしい、一つの疑いに直面(ぶつか)るにきまっている。WとMが 何故にあの絵巻物を欲しがったかという理由を色々と考えまわすにきまっている。そうして万に一つも女の頭の敏感さと、母性愛の一所懸命さとで、二人が絵 巻物を欲しがっている、そのホントウの下心を想像し得るような事があったならば、何はともあれMに疑いをかけて、眼の色を変えて追いかけて来るであろう 。場合によっては国境だろうが何だろうが乗越えて追求しかねない女である事が、Mには解り過ぎるくらい解っていたからである。  ……然るにこれに対するWは、それと知ってか知らずにか、相も変らず悠々と落付き払っていた。自分の名前や行動を公々然と曝露していたのは無論のこと 、『犯罪心理』だの『二重人格』だの『心理的証跡と物的証跡』なぞいう有名な研究を次から次に発表して、これ見よがしに海外にまで名を揚(あ)げていた ……が……これが又、Wの最も得意とする常套手段で、こうしてこの方面に大家の名を売り広めておけば将来、この恐るべき精神科学の実験が行われた暁でも 、却(かえ)って世間から疑われない、一種の『精神的現場不在証明(アリバイ)』になるばかりでなく、事件が発生した時に透(すか)さず飛び込んで行け る口実が出来るという、W一流の両天秤をかけた思い付であったろうと考えられる。いずれにしてもその思切って大胆な、同時に透き通るほど細心な行き方は 、後年(のち)になって、その恐るべき実験の経過報告を、当の相手の面前に投出した手口によっても察しられるではないか。  ……こうして十年の歳月が飛んだ大正の六年になると、その二三年前から英国に留学していたWが帰朝する。それと知ったMも亦、すぐに後を追うて帰って 来たのであるが、このWの留学と、帰朝の時季というのが、Mにとっては仲々の重大問題であった。何故かと云うと外でもない。T子母子(おやこ)はMに振 棄てられた後(のち)の十中八九は松園の隠れ家を引払って、どこかへ姿を隠している筈であるが、たとい天に隠れ、地に潜んでも、その行衛を見逃がすよう なWでは絶対にない筈である。……と同時に、もしそのWが、海外に留学するような事があれば、それは取りも直さずWが、T子母子(おやこ)を確実に掌握 し得た証拠になる。換言すればT子母子(おやこ)がどこかに定住して、当分、動く気遣(きづかい)はないという見込みがハッキリと付けばこそ、安心して 留学出来る訳で、そうとすれば又、そのWが帰朝するという事は疑いの眼を以て見れば何かしら、その点に関するWの或る種類の心配か、又は或る種の計劃を 発動させる時季が来た事を意味していないとは断言出来ないであろう。今一つ言葉を換えて云えば、MはWのそうした行動によって、T子母子(おやこ)の行 衛を割合に楽に探り出す事が出来る訳で、海外留学中のMが絶えず内地の新聞や官報に気を附けていたというのは、そうした注意が必要だからであった。  ……が……しかし、Wがそんな気振(けぶり)でも見せるような男でない事は無論であった。帰朝後はチョットした出張以外には福岡を離れる模様もなく、 毎日毎日大学に腰弁をきめ込んでいるうちに、間もなく助教授から教授に進む。引続いて色々な難事件を解決する。名声はいよいよ揚(あが)る。その合間合 間には喘息(ぜんそく)が起る……といった調子でなかなか忙がしかったのであるが、しかしその態度は依然として悠々たるもので、彼(か)れもこれ一(ひ )と昔の夢という風に、明暮れ試験管と血液に親しんでいた。  ……が……しかし又一方にMも困らなかった。そうしたWの帰朝後の態度から、T子母子(おやこ)が福岡市を中心とする一日旅程以内の処に住んでいるに 違いない事をアラカタ読んでしまっていた。……のみならずT子はまだ三十になるかならずで、相変らず美しいとすれば、どこに居るにしたところが、多少の 噂の種にはなっているに相違ない。又その子のIも、父親は誰だかわからないまま無事に母親の膝下(しっか)で育っているとすれば、格別の事情がない限り 、Mの計劃通りに母方の姓を名乗っている筈である。年齢は私生児の事だから届出が後(おく)れているかも知れないが、多分、尋常校の三四年程度であろう という事が帰朝当時から見当が附いていた。あとは足まかせの根気任せというので、福岡を中心としたWの出張先を第一の目標として、虱殺(しらみつぶ)し に調べて行くと、果せる哉(かな)、帰朝後半年も経たぬうちに、直方小学校の七夕会の陳列室で、五年生の成績品のうちにIの名前を発見した。もっともそ の時までMはウッカリしていて、Iの成績が抜群の結果、年齢(とし)はまだ十一歳のままに、一級飛んだ五年生になっている事に気付かずにいたので、もし かすると別人ではないかと疑ってみた事であった。  ……が……そこに如何なる天意が動いたのであろう。間もなくその陳列室へ這入って来た一人の生徒が、偶然にも背後(うしろ)を振り返った視線がピッタ リとMの視線と行き合ったのであったが、その時にMは、吾ともなく視線を背向(そむ)けずにはおられなかった。逃げるようにして校門を出ると、思わず眼 を蔽うて、科学者としての自分の生涯を呪わずにはおられなかった。その生徒が全くの母親似で、眼鼻立ちから風付(ふうつ)きのどこにも、Wの子らしい面 影がないと同時に、Mに似たところさえもなかった事を思い確かめて、ホウと安心の溜息を吐(つ)きながらも、直ぐに後から、その溜息を呪咀(のろ)わず にはおられなかった。……遠からず学術実験の十字架に架けられて、無残な姿に変るであろうその児の顔立ちの、抜ける程可愛らしくて綺麗であったこと…… その発育の円満であったこと……そうしてその風付きのタマラない程温柔(おとな)しくて、無邪気であったこと……菩提心(ぼだいしん)とはこれを云うの であろうか……その児の清らかな澄み切った眼付きが、自分の眼の前にチラ付くのを、払っても払っても払い切れなくなったMは、その児が将来、間違いなく 投込まれるであろう『キチガイ地獄』の歌を唄って、われと我が恥を大道に晒(さら)しつつ、罪亡ぼしをしてまわった。木魚をたたきたたきその児の後生( ごしょう)を弔(とむら)ってまわった。……それ程にその児は美しく清らかに育っていたのであった。  ……Wは、こうしたMの行動を、九州帝国大学、法医学教室の硝子(ガラス)窓越しに見透かして、あの蒼白な顔に人知れず、彼一流の冷笑を浮かめていた 事と思う。彼はMが海外に逃げ出した心理を通じて、Mは遅かれ早かれ、必ず日本に帰って来る。Iが思春期に達する以前に、しかもこの九州に帰って来るで あろう事を確信していたに違いないのだ。そうしてこの実験に関聯するあらゆる研究を遂(と)げ、一切の準備を整えつつ待っていたに違いないのだ。  ……というのはMも実際のところ、頭から爪の先まで学術の奴隷であった。Mがその生涯の研究目標としている『因果応報』もしくは『輪廻転生』の科学的 原理……すなわち『心理遺伝』の結論として、是非ともこの実験の成績を取入れねばならぬと、あくがれ望んでいるその熱度は、当の相手のWが心血を傾注し ている名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』の実例として、この絵巻物の魔力を取入れたがっているその熱度に、優るとも劣る気遣いはなかった。それ程の 研究価値と魅力とをこの絵巻物が持っている事を、Wはどこまでも信じて疑わなかったのだ。  ……けれども……けれども……Mはそれでも尚(なお)、どれくらい深刻な煩悶をその以後に重ねた事か。学術のために良心を犠牲にして、罪も報(むくい )もない可憐の一少年が、生きながら魂を引き抜かれて行くのを正視する……その生きた死骸を自分の手にかけて検査する……そうしてその結果を手柄顔に公 表する……という決心がドレ位つき難(にく)い事を思い知ったか。彼が大学卒業後の十数年間に於ける死物狂いの研究は、こうした良心の苛責を忘れたいと いう一念からではなかったか……自分が死刑立会人である苦痛を忘れるために、一心不乱に断頭刃(ギロチン)を磨(みが)くのと同じ悲惨な心理のあらわれ ではなかったか。そうして彼(か)の学術研究……断頭刃(ギロチン)磨(と)ぎを断然打切るべく、彼が母校に提出した学位論文の根本主張は、何であった か……曰(いわ)く……『脳髄は物を考える処に非ず……』」 「……………」 「……かくしてMの個人としての煩悶は遂(つい)に、学術の研究慾に負けた。全世界に亘る『狂人の暗黒時代』と、その中(うち)に蔓延する『キチガイ地 獄』を、自分の学説の力で打ち破るべく、何もかも打ち忘れて盲進する当初の意気組を回復した。恐らくWに負けないであろう程の冷静、残忍さをもってIの 年齢を指折り数え得るようになった」 「……………」 「T子の運命は風前の灯火(ともしび)である。……T子はもうその頃までには、嘗て自分を中心として描かれたWとMとの恋のローマンスが何を意味してお ったかを、底の底まで考え抜いている筈であった。その頃の二人の自分に対する情熱が、揃いも揃って絵巻物の魔力と、自分の肉体の魅力との両道(ふたみち )かけたもので、しかも、それ以外の何ものでもなかった事を露ほども疑わなくなっている頃であった。そうして絵巻物を奪い去ったものは、自分から絵巻物 の所在(ありか)を聞いたMかもしくは失恋の怨(うら)みを呑んでいるであろうWのどちらか、一人に相違ない事を、余りにも深く確信していた。……同時 にその二人が揃いも揃って、繊弱(かよわ)い女の手で刃向(はむか)うべく、余りに恐ろしい相手である事を、知って知り抜きながらも必死と吾児を抱き締 めつつ、慄(ふる)え戦(おのの)いていた筈である。  ……だから彼女、T子の想像の奥の奥に、よもやと思いつつも戦(おのの)き描かれていたであろう絵巻物の魔力の実地試験が、万に一つもIに対して行わ れたとなれば、T子はすぐに二ツの名前を思い出すにきまっている。WかMか……。  ……だから……T子の死は、この空前の学術実験の準備として是非とも必要な第一条件……」 「……あアッ……先生ッ……待って下さいッ……もう止して下さい……ソ……そんな怖ろしい……事が……」  私は思わず悲鳴をあげた。ピッタリと大卓子(テーブル)の上に突伏(つっぷ)した。頭の中は煮えるように……額は氷のように……掌(てのひら)は火の ように感じつつ、喘(あえ)ぎに喘ぎかかる息を殺した。 「……何だ……何を云うのだ……そっちから突込んで質問して来たから説明しているのじゃないか」  こうした正木博士の、不可抗的な弾力を含んだ声が、私の頭の上から落ちかかって来た。……が、直ぐに調子を変えて、諭(さと)すような口ぶりになった 。 「そんな気の弱い事でどうする。他人の生涯の浮沈に関する重大な秘密を、一旦、聞くと約束して話させておきながら、途中で理由もなしに、モウいいという 奴があるか。実際にこの事件と闘っている俺の立場にもなって見ろ……あらゆる不利な立場を切抜けて来た、俺の苦しみを察してみろ……まだまだ恐ろしい事 が出て来るんだぞ……これから……」 「……………」 「……いいか……T子もこの事件の第一条件の存在を或る程度までは察していたに違いないのだ。その子のIに『お前が大学校を卒業する迄、私が無事でいた ら、何もかも話して上げる』と云ったのは、T子が吾子(わがこ)可愛さの余りに、色々と考えまわした揚句(あげく)に、とうとうそこまで気をまわしてい た何よりの証拠だ。つまるところその間(かん)のT子の生活というのは全くの生命(いのち)がけであったに違いないので、一方にはこの呪いから極力Iを 遠ざけて、I自身がこの呪いの正体を理解し、且つ警戒し得る頭が出来るまで、何事も話さずに……そんな絵巻物や、物語から来る誘惑を感じさせないように してジッと待っていなくてはならないし、一方には、人知れずMの行衛を探し求めて、絵巻物の有無(うむ)を突止めなければならなかった。さもなければ自 分の力と工夫で、WとMを突合わせて、何もかも泥を吐かせてしまいたい。この恐ろしい学術の研究慾と、愛慾の葛藤を解消さしてしまいたい。そうして出来 る事ならば絵巻物を、自分の手で消滅させておきたい……なぞいうアラユル惨憺たる母性愛を、頭の中に渦巻かせていたに違いないのだ。  ……しかし、そのT子の昔の情人は、二人とも二十年来の……否、宿命的の仇讐(あだがたき)同志であった。人情世界の怨敵(おんてき)、学界の怨敵同 志であった。そうしてT子母子(おやこ)を仲に挟んで、お互いにお互いを呪咀(のろ)い合って来た結果、その時はもう二人とも救うべからざる学術の鬼と なってしまっていた。……お互いに精神的に噛み殺し合うより外に、生きる道をなくしてしまっている二人であった。……しかもその怨敵を呪咀(のろ)い合 う心の、積極と消極の力の限りを合わせて、二人の中(うち)のドチラかの子供であるべきIに、絵巻物の魔力を試みるべく……そうしてその結果を学界に公 表する名誉を自分のものにすると同時に、そうした非人道に関する罪責の一切合財を、相手の頸部(くび)に捲き付けるべく、一心不乱に爪牙(つめ)を磨( と)ぎ澄ましている二人であったのだ。その犠牲が誰の児か……なぞいう事は、モウとっくの昔に問題でなくなっていたのだ。ただその児が、確実に呉家の血 統を引いた男の児でさえあれば、学術研究上、申分(もうしぶん)ないと思っていただけなのだ」  今度こそは最早(もはや)、とても我慢出来ない戦慄が、私の全身に湧き起った。頭をシッカリと抱えて、緑色の羅紗(らしゃ)の上に突伏した。悽愴たる 正木博士の声……解剖刀(メス)のように鋭い言葉の一句一句に全神経を脅やかされつつ……。 「……結果は遂(つい)に来た。二十年前にMが予想していたところに落ちて来た。Mが恐れ、戦(おのの)き、藻掻(もが)き狂いつつ、逃げよう逃げよう としていたその恐ろしいスタートの決勝点に、悪魔的な不可抗力をもって立還(たちかえ)るべく余儀なくされて来た。二十年前に彼(か)の……Mを逐(お )い走らした彼(か)の卒業論文『胎児の夢』が、眼に見えぬ宿命の力をもって確実に彼をモトのところへグングンと引戻して来たのだ」  私は椅子から飛上って部屋の外へ逃出(にげだ)したかった。けれども私の身体(からだ)は不思議な力で椅子に密着して、ひたすらに戦慄を続けているば かりであった。耳を塞(ふさ)ぐ事すら出来なかった。その私の耳の穴へ正木博士のカスレた声が、一句一句明瞭に飛込んで来た。 「……かくしてこの実験の進行に関する第一の障害……T子の生命(いのち)は、完全に取除(とりのぞ)かれた。WとMとIとの過去を結び付け得る唯一人 の証人……Iが誰の児かという事を的確に証言し得ると同時に、この恐ろしい科学実験の遂行者を一言の下に立証し得るであろう『生き証拠』のT子は、予定 通り完全な迷宮の中(うち)に葬り去られた。続いて起る問題は、この実験に必要な第二の条件……即ち……Mがこの九州帝国大学、医学部、精神病科教室の 教授の椅子に座ることであった。これは換言すればこの実験の結果として、万一追求されるかも知れないであろうその事件の下手人の所在を晦(くら)ますた めにも……お互いの秘密を完全に保護して、絶対の安全を保つためにも……又は、そうして適当な時機を見計らってその犯行を相手にナスリ付けるためにも、 極めて完全無欠な、用心に用心を重ねた、必要欠くべからざる条件であった」  今までコツコツと床の上を歩きまわっていた正木博士は、こう云い切ると同時に、ピタリと立止まった。そこはちょうど東側の壁にかかっている斎藤博士の 肖像と「大正十五年十月十九日」の日附を表わしているカレンダーの前である事が、突伏している私によくわかった。そこで正木博士の足音が急に止まると同 時に、言葉もプッツリと絶えて、部屋の中が思いがけない静寂に鎖(とざ)されたために、その足音と声ばかりに耳を澄ましていた私は、正木博士が突然にど こかへ消え失せたように感じられた。  ……が……そう思ったままジッと耳を澄ましていたのは、ほんの二三秒の間であったろう。間もなくヒシヒシと解り初めたその静寂の意味の恐ろしかったこ と……。  ……扨(さて)は……扨(さて)は……と気付く間もなく、私の頭の中に又も、今朝(けさ)からのアラユル疑問が一時に新しく閃(ひら)めき出て来た。 思わず両手で頭の毛を掴み締めつつ、次に出て来る正木博士の言葉を、針の尖端のように魘(おび)えつつ待っていた。  ……十月十九日の秘密……。  ……その日に発見された斎藤博士の変死体の秘密……。  ……その斎藤博士の変死に因果された正木博士の精神科教授就任に関する裏面のカラクリの秘密……。  ……それから一週年目の同月同日に当る昨日(きのう)という日に、正木博士を自殺の決心にまで追い詰めた運命の魔手の秘密……。  ……その正木博士を奇怪にも、既に一箇月前に自殺していると明言した若林博士の意識溷濁(こんだく)的、心理状態の秘密……。  ……そうして……それ等の秘密の裏面に隠れて、それらの秘密の全部を支配しているに違いないであろうモウ一つの大きな秘密……。  ……すべては唯一人の所業……。  ……Wか……Mか……。  ……それが次に発せられるであろう正木博士のタッタ一言によって、電光の如く闡明(せんめい)されはしまいかと思われる……その云い知れぬ恐怖の前の 暗黒的な沈黙……静寂……。  ……けれども正木博士は間もなく、そこから何気もない足取りでコトリコトリと歩き出した。そうして僅かの沈黙の間に、私の恐れていた説明の箇所を飛越 (とびこ)して説明を続けた。 「……かくしてMが、この斎藤博士の後任となって九大に着任すると間もなく、この学界空前の実験は決行された。そうしてその結果の全部が、この通り吾輩 の前に投出(なげだ)された」 「……………」 「……だから……目下のところWとMの二人は同罪である。同罪でないと云っても、云い免れるだけの証拠がない」 「……………」 「……だから吾輩は覚悟を決めた。そうして君が先刻(さっき)から読んだその心理遺伝の附録の草案によって直方(のうがた)事件の真相までも、すっかり 蔽い隠してしまった。ロクロ首や、屍体鬼(しびとつかみ)までも引合いに出して、苦辛惨憺を重ねた結果、学術研究の参考材料として公表しても、無罪と云 える程度にまで辻褄(つじつま)を合わせておいた」 「……………」 「……そんな裏面の消息を、唯二人の間の絶対の秘密として葬り去るべく……怨みも、猜(そね)みも忘れて……学術のために……人類のために……」 「……………」 「……これも矢張(やは)り菩提心(ぼだいしん)と云えば云えるであろう。……あの呉一郎の狂うた姿を見て、たまらなくなったからであろう……」  正木博士の声は、ここまで来ると急に涙に曇りつつ、机の上に突伏したままの私の真正面に近付いて来た。……ドッカリと廻転椅子に腰を卸す音がした。… …と……間もなくカラリと鼻眼鏡を大卓子(テーブル)の縁に置いて、ポケットからハンカチを取出して、涙を拭う気はいである。  ……けれどもこの時……何故だか解らないけれども、私の全身を伝わっていた戦慄が、一時にピッタリと止まってしまった。その代りに、今までとは丸で違 った、何ともいえない不愉快な感情が、正木博士の涙声に唆(そそ)られて、腸(はらわた)のドン底からムラムラと湧き起って来るのを、どうする事も出来 なかった。そうしてただ、今までの通りの姿勢で、殆ど形式的に机の上に突伏しているような……正木博士に対して「何とでも饒舌(しゃべ)るなり、泣くな り勝手になさい。私とは全然無関係の事ですけれども、聞くだけはイクラでも聞いて上げますよ」と云ってやりたいような、どこまでも冷淡な、赤の他人じみ た気持になってしまった。これは後から考えても不思議千万な心理状態の変化であった。自分自身にも、どうしてソンな気持に変ったか解らなかったが、しか し私はそのまんま、身動き一つしないで突伏していたので、自分の話に夢中になっている正木博士には、私のそんな気持の変化を気取(けど)られよう筈がな かった。  正木博士は、そうしている私の前で、軽い咳払いみたようなものを一つして声を繕(つくろ)った……と思うと今度は調子を改めて、極めて荘重な語気にな った。私の頭の上から圧付(おしつ)けるように、一句一句を切って云った。 「……唯……ここに一人……君という人間が居る……」 「……………」 「君は吾輩と若林とに選まれた、この事業の後継者である。……否……吾輩や若林は実を云うと、この事業の最後の成績を社会に公表し得べき資格を持った人 間でない。ただそこに居る君だけが、その神聖なる使命を担(にな)うべく選まれて、吾々の前に差遣(さしつか)わされた唯一、無上の天使である。自分で その天命の何たるかを知らない……徹底的に何も知らない……ホントウの意味の純真無垢の青年である」 「……………」 「……というのは、ほかでもない。吾輩も若林も、正直正銘のところを告白すると、この事件の真相をコンナ風に偽った形にして、自分達の手で発表したくな い。出来得べくは自分達の死後に、然(しか)るべき第三者の手で、真実の形に直して発表してもらいたい……というのが吾々二人の畢生(ひっせい)の願で ある。純誠無二の学者としての良心から出た二人の希望である。……だから吾輩と若林とは、云わず語らずのうちに協力一致して、この事件に重大な関係を持 っている君の頭脳(あたま)を回復すべく、全力を挙げているのだ。……今にも君が君自身の過去の記憶を回復して、以前の意識状態に立帰り得たならば、必 ずやこの仕事の後継者が、君以外に一人もいない事を、明白に自覚してくれるであろう。そうして君が死ぬ程の驚愕と感激の裡(うち)に、この空前絶後の大 研究の発表を引受けて、全人類を驚倒、震駭(しんがい)させてくれるであろう……その発表によって太古以来の狂人の闇黒(あんこく)時代を一時に照し破 り、全世界のキチガイ地獄をドン底から顛覆、絶滅させて、この唯物科学万能の闇黒世界を、一斉に、精神文化の光明世界にまで引っくり返してくれるであろ う。……と同時に、それに引続いて来るべき精神科学応用の犯罪の横行時代を未然に喰い止めて、彼(か)の可憐の一少年呉一郎その他の犠牲を、無用の犠牲 として葬り去らないのみならず、全人類の感謝と弔慰とを彼等に捧げさしてくれるであろう……そうして最後に……永劫(えいごう)消ゆる事のない極地の氷 のような『冷笑』を、吾々二人の死後の唇に含ませてくれるであろう事を確信しつつ、幾何(いくばく)もない余命を一刹那(せつな)に縮めつつ、努力して いるのだ」 「……………」 「……とはいえ……これは現在の君の頭から考えると、実に不可解と不合理とを極めた註文と思われるかも知れない。吾輩と若林とが、あの呉一郎と瓜二つに よく似ている君を換え玉か何かに使って、虚偽の学術研究を完成して、それを又、虚偽の方法で発表しようと試みているかのように誤解されるかも知れない。 しかし……しかし……吾輩は天地の霊に誓って云う。それは吾々二人の間の私的の駆引にこそ凡百(あらゆる)虚偽が含まれておれ、その行っている学術の実 験と、それによって証明さるべき学理、原則の中には、一点、微塵(みじん)の虚偽も含まれていないのだ。ただ、その内容とは全然無関係な発表の形式方法 にだけ、止(やむ)を得ない虚偽が混っていた訳であるが、それもタッタ今、真実の形に訂正して、君に報告してしまったばかりのところである。  ……だから……これだけは、どこまでも吾々を信じてもらいたい。……君は疑いもなくこの実験の経過を、真実の形に直して発表すべき、唯一の責任者なの だ。すなわち若林の調査書類と、吾輩の遺言書とを、一まとめにしてこれに一つの結論をつけて、学界に発表すべく、神様の思召(おぼしめし)によって選ま れた無二の資格者である事が、君の過去の記憶の回復と共に判明するであろうことを、吾輩も若林も信じて疑わないのだ……否、吾輩と若林ばかりでない。一 般社会の人々とても、万一君の姓名を知り得るような事があったならば……君の名前は既に、今までの話の中に幾度となく出て来た名前で、世間にも相当記憶 されている筈であるが……単にその名前を聞いただけでも、すぐに君より以外に、この仕事の適任者が絶対にいない事を確認するであろう事が、火を睹(み) るよりも明らかに解り切っているのだ。……だから吾輩は、君が精神状態を回復しかけている事がわかると同時に、いよいよ安心してこの遺言書を書く事が出 来たのだ。  ……しかし吾輩が自殺の決心をしたのは全く別の理由からである。それは昨日の正午を期して、あの解放治療場内に勃発した大悲惨事が、吾輩の責任感を刺 戟したからでもなければ、又は、この日が偶然に、斎藤先生の祥月(しょうつき)命日に当っていたために、一種の天意とか、無常とかを観じたからでもない 。正直なところを云うと吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界の浅薄、低級さに、たまらない程 うんざりさせられてしまったのだ。  ……それもこの出来損(そこ)ないの世界を、新発明の火薬で爆発させるとか、蛙の卵から人間を孵化させるといったような、一端(いっぱし)、気の利い た研究ならまだしもの事、心理遺伝なんていう三つ児にでもわかる位、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になる程の 苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く附纏われて、それこそ地獄の苦しみに堕(お)ちながら、やっと真理の証明が出来たに しても、その報酬として何が残るか。妻子眷族(けんぞく)に取捲かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の 時だ。飛んでもない野郎だというので、踏んで蹴られて、唾液(つば)を吐きかけられる時だ。……ザマア見やがれとはこの事だ」 「……………」 「……こんな見っともない、ダラシのない結論になって来る事を、今日がきょうまで気付かずに来た吾輩は、つくづく自分の馬鹿さ加減に愛想(あいそ)が尽 きたのだ。人間も学者も同時に御免蒙(こうむ)って、モトのアトムに帰りたくなったのだ。当の相手の前に一切をタタキ付けて……」 「……………」 「……こうした吾輩の現在の気持は、無論、若林の目下のソレとは全然正反対でなければならぬ。若林はあくまでもこの実験を固執して徹底的に吾輩と闘うべ く腰を据えているに違いないのだ。……殊に若林は自分自身が結核に取付かれて、余命幾何(いくばく)もない事を知っている。……だからこの事件の最後の 結論の発表を引受るべき君の精神状態が、今朝(けさ)から回復しかけている事を見て取るや否や、頭を刈ってやったり、大学生の服を着せたり、彼女に引会 わせたりなぞ、いろんな事をして、出来るだけ早く君自身を呉一郎と認めさして、自分の味方に取付けて、都合のいい発表をしてもらおうと焦燥(あせ)って いたのだ。……否……現在でも君と吾輩の上下左右に、眼に見えぬ網を張詰めて、グングンと自分の方へ手繰(たぐ)り寄せつつあるのだ」 「……………」 「……しかし吾輩は元来そんな面倒な闘いにお相手になる必要はなかったのだ。どうせ自分自身は電子か何かになって、箒星(ほうきぼし)のお先走りでも承 (うけたまわ)るつもりでいたし、一切の財産は軽少ながら、この真相の発表に対するお礼の印として、書類と一緒に一旦若林に預けて、君の頭が回復した後 (のち)に改めて引渡してもらう考えでいたし、又、発表の内容だって同様に、心理遺伝そのものの大体の要領さえ得ておれば、附録の実例に出て来る事件の 犯人の名前なんぞは、どうでもいい……勝手にしやがれという了簡(りょうけん)で、つい今さっきまでいたんだが……。  ……しかし、これが前世の業(ごう)とでもいうんだろう……先刻(さっき)から若林が、彼奴(きゃつ)一流の御叮嚀な遣り口で、そろりそろりと催眠術 みたような暗示を君に与えながら、自分の勝手のいい方向に、君の頭を引っぱり込もうとしている態度を見ているうちに、吾輩の持って生れた癇(かん)の虫 がジリジリして来た。その若林の見え透いた手の中(うち)がゾクゾクする程イヤ味になって来たので、一つ逆襲してやれという気になって、ここへ出て来た 訳なんだが……。  ……ところが又……こうやって君と話しているうちに……つい今しがたから、何だか又気が変って来たようだ。理屈は兎(と)も角(かく)として、何もか もがヤタラに面倒臭くなって来たようだ。どうせ破れカブレの罰当り仕事だ。後は野となれ山となれだ。何もかも一思いにブチ毀(こわ)してやれという気に なって来たようだ……。  ……こうなれあ訳はない……。  ……吾輩は今日只今即刻に、君とあのモヨ子とを、この病室から解放してやろう。そうしてコンナ書類を残らず焼棄て、玉無(たまな)しにしてくれよう。  ……吾輩は断言しておく……。  ……あの六号室の少女モヨ子は、あの解放治療場の一角に突立っている美青年の、妻となるべき少女では断然ないのだ。法律上から云っても道徳上から見て も確かに、そこにいる君の未来の妻たるべく運命付けられている女性なんだ。君のベターハーフたるべく、明暮(あけくれ)、身を悶(もだ)えて、恋い焦( こが)れている可憐の少女に相違ない事が、科学的立場から見ても寸分間違いのない事を、若林と吾輩の専門の名誉にかけて誓言しておく。  ……同時に吾輩は、吾輩の専門の立場から今一つ、断言しておく……。  ……君はそうしない限り……君自身が進んでモヨ子さんとの結婚生活に入ってみない限り、若林と吾輩がイクラ他所(はた)から苦心努力しても、現在の自 己障害……『自我忘失症』から離脱出来ないであろう事が、やっと今になって判ったのだ。それがモヨ子さんと君自身とを救い得るタッタ一つの最後の手段で ある事が、最前からの色々な実験の結果やっと判明して来たのだ。……むろん、これは決して君を無理に押付るために云うのではない。君自身の堅固な童貞生 活から来ている現在の自家障害――『自我忘失症』を回復させるためには、これが最有効な、最後の最後の取っときの精神科学的療法である。この療法の原理 原則に関しては、精神分析屋のフロイドでも、性科学専門のスタイナハでも全然吾輩と説を同じくしているのだから……。  ……こうした最後的な治療手段の効果が、二と二を加えて四になる以上に的確なことは、直ぐにわかる。論より証拠だ。吾輩の言葉の全部が虚構でない証拠 は、彼女と君とが幸福な結婚生活に入ると同時に、回復して来る君の記憶力の中に、無量無辺に思い出されて来るであろう。今までの神秘と怪奇とを極めた出 来事の数々が、決して彼(か)の解放治療場の片隅で微笑している、君とソックリの美青年に関係した事でない事が、君自身にはっきりと自覚されることによ って証明されるであろう。それ等の驚くべき出来事のすべてが、直接に君自身と関係を持った話であることが、殆ど電燈(でんき)のスイッチを拈(ひね)る のと同様な鮮やかさで、一時に判明して来るであろう。……何故(なにゆえ)かと云うと、君は彼(か)の令嬢との新婚生活に入ると同時に、現在、君の頭の 中に鬱積、緊張して、そうした自家障害を与えているその生理的の原因から解放される事になるのだから……今まで、どうしても思い出し得なかった過去の記 憶の全部を、一時にズラリと思い出すにきまっているのだから。同時に現在、君が疑い、迷い、苦しんでいる事件の真相を裏の裏まで看破し、思い出して…… 成る程……そうであったかと長大息するに違いないのだから……そうして物質的にも精神的にも恵まれた、真実に幸福な家庭生活に入ると同時に、他人に頼ま れる迄もなく、君自身の理智に立脚した公平な立場から観察した、この事件の真実の記録を学界に発表して、吾輩と若林の苦心努力の実情を正義の審判にかけ ると同時に、その発表によって、現代の脱線的な邪悪文化に一大転期を劃さずにはおられないであろうことを、吾輩は今一度、吾輩の専門の名にかけて……君 とモヨ子さんとの名誉と幸福のために……」 「……いけませんッ……」  私は突然に非常な力で跳ね起きた。火のような憤激に、全身をわななかせつつ廻転椅子から立上った。正木博士の口をアングリと開いて、呆気(あっけ)に 取られている顔を見下しつつ、ギリギリと歯切(はぎし)りをして、唇を震わした。 「……イ……イ……嫌です。……ま……真平(まっぴら)御免です。……ゼゼ……絶対にお断りします」 「……………」  私は先刻(さっき)から一所懸命に我慢していた、あらゆる不愉快な思いが、口を衝(つ)いて迸(ほとばし)り出るのを止める事が出来なくなった。 「……ボ……僕は精神病者(キチガイ)かも知れません。……痴呆(バカ)かも知れません。けれども自尊心だけは持っています。良心だけは持っているつも りです。……たとい、それが、どんなに美しい人でありましょうとも、僕自身にまだ、誰の恋人だか認める事が出来ないような女と、たかが治療のために一緒 になるような事は断じて出来ません。法律上、道徳上、学術上、間違いない事がわかっていても、僕の良心が承知しません。……たといその女の人が、僕を正 当の夫と認めて、恋い焦(こが)れているにしてもです。僕自身に、そんな記憶がない限り……そんな記憶を回復しない限り、どうしてそんな浅ましい、恥知 らずな事が出来ましょう。……況(ま)して……まして……こんな穢(けが)らわしい研究の発表なんぞ……ダ……誰が……エエッ……」 「……マ……待て……」  正木博士が座ったまま、真青になって両手を上げた。 「……が……学術のために……」 「……ダ……駄目です……駄目です……絶対に駄目です」  私の眼から、涙が止め度もなく溢れ流れはじめた。そのために正木博士の顔も、部屋の中の光景もボンヤリして見えなくなったが、それを拭いもあえずに私 は叫び続けた。 「学術が何です。……研究が何です。毛唐の科学者がどうしたんです。……僕はキチガイかも知れませんが日本人です。日本民族の血を稟(う)けているとい う自覚だけは持っています。そんな残忍な……恥知らずな……毛唐式の学術の研究や、実験の御厄介になるのは死んでも嫌です。……学術の研究というものが 、どうしてもコンナ穢らわしい、恥知らずな事をしなければならないものならば……そうして僕が是非ともコンナ研究に関係しなければならない人間ならば、 僕はそんな過去の記憶と一緒に、この頭をブッ潰してしまいます……今……直ぐに……」 「……ソ……ソ……そんな訳じゃない……実はお前は……君は呉一郎の……呉一郎が……」  こう云ううちに正木博士の態度が、シドロモドロに崩れて来た。天地が引っくり返っても平気の平左(へいざ)と思われたその大胆不敵な、浅黒い顔色が、 みるみる真赤になり、又たちまち真青に変化した。中腰になって両手を伸ばしつつ、私の言葉を遮(さえざ)り止めようとして狼狽(ろうばい)している態度 が、新しく新しく湧き出る私の涙越(なみだごし)にユラユラと揺らめき泳いだ。しかし私は皆まで聞かなかった。 「嫌です嫌です。僕が呉一郎の何に当ろうが……どんな身の上だろうが同じ事です。誰が聞いたって罪悪は罪悪です」 「……………」 「先生方は、そんな学術研究でも何でも好き勝手な真似をして、御随意に死んだり生きたりなすったらいいでしょう……しかし先生方が、その学術研究のオモ チャにしておしまいになった呉家の人達はドウなるのですか……呉家の人達は先生方に対して何一つわるい事をしなかったじゃありませんか。そればかりじゃ ありません。先生方を信じて、尊敬して、慕ったり、便(たよ)り縋(すが)ったりしているうちに、その先生方に欺瞞(だま)されたり、キチガイにされた りしているじゃないですか。この世に又とないくらい恐ろしい学術実験用の子供を生まされたりしているじゃないですか。そんな人々の数えても数え切れない 怨みの数々を、先生方は一体どうして下さるのですか。……死ぬ程、愛し合っている親子同志や恋人同志が、先生方の手で無理やりに引離されて、地獄よりも 、非道(ひど)い責苦を見せられているのを、先生方はどうして旧態(もと)に返して下さるのです。唯、学術の研究さえ出来れば、ほかの事はドウなっても 構わないと仰言(おっしゃ)るのですか」 「……………」 「御自分で手を下しておいでにならなくとも、おんなじ事ですよ。その罪の告白を、他人に発表させておけば、それで何もかも帳消しになると思っておいでに なるのですか……良心に責められているだけで、罪は浄(きよ)められると思っておいでになるのですか」 「……………」 「……あんまり……あんまり……非道(ひど)いじゃありませんか」 「……………」 「……セ……先生ッ……」  と叫ぶと眼が眩(くら)みそうになった私は、思わず大卓子(テーブル)の上に両手を支えた。新しく湧き出す熱い涙で何もかも見えなくなったまま、呼吸 (いき)を喘(はず)ませた。 「……後生ですから……後生ですから……その罰を受けて下さいませんか……そうして……そんな気の毒な人達の犠牲を無駄にしないようにして下さいません か……喜んで……心から感謝してその研究の発表を、僕に引受けさして下さいませんか」 「……………」 「その罰の手初めには、若林博士を僕が引張って来て、先生の前で謝罪させます。恋の怨みだったかドウか……どうしてコンナ恐ろしい……非道い事をしたか ……白状させます……」 「……………」 「……それから先生と、若林博士とお二人で、被害者の人達に謝罪して下さい。その斎藤先生の肖像と、直方(のうがた)で殺された千世子の墓と、それから あの狂人(きちがい)の呉一郎と、モヨ子と、お八代さんの前に行って、一人一人になすった事を懺悔(ざんげ)して下さい。学術研究のためだった……と云 って、心からお二人であやまって下さい……」 「……………」 「お願いというのはそれだけです。……ドウゾ……ドウゾ……後生ですから……僕が……こうして……お願いしますから……」 「……………」 「……ソ……そうすれば……僕はドウなっても構いません。手でも足でも、生命(いのち)でも何でも差上げます。……この研究を引継げと仰言(おっしゃ) れば……一生涯かかっても……一切の罪を引き受けても……」  私はタマラなくなって両手で顔を蔽(おお)うた。その指の間を涙が迸(ほとばし)り流れた。 「……コ……コンナ非道い……冷血な罪悪……ああ……ああ……僕はモウ頭が……」  私は大卓子(テーブル)の上に崩折(くずお)れ伏した。声を立てまいとしても押え切れない声が両手の下から咽(むせ)び出た。 「……ス……済みませんが……僕に……みんなの……か……讐(かたき)を取らして下さい……」 「……………」 「……この研究を……シ……神聖にして下さい……」 「……………」 「……………」  ……コツコツ……コツコツ……と入口の扉(ドア)をたたく音……。  ……私はハッと気が付いた。慌ててポケットからハンカチを取り出して、涙に濡れた顔を拭いまわしながら、正木博士の顔を見上げると……ギョッとして息 が詰った……。  それは昂奮の絶頂まで昇り詰(つめ)ていた私の感情を、一時に縮み込ませてしまった程恐ろしい、鬼のような形相であった。……瀬戸物のように血の気を 喪(うしな)った顔面(かお)一パイに、蒼白い汗が輝やき流れて……額(ひたい)の皺を逆さに釣り上げて……乱脈な青筋をウネウネと走らせて……眼をシ ッカリと閉じて……義歯(いれば)をガッチリと喰い締めて……両手でシッカリと椅子の肱に掴まりながら、首と、肱と、膝を、それぞれ別々の方向にワナワ ナとわななかせて……。  ……コトコトコトコトコトコトと扉(ドア)をたたく音…………。  ……私はドタリと廻転椅子に落ち込んだ。  何かの宣告のような……地獄の音(おと)づれのような……この世のおわりのような……自分の心臓に直接に触れるようなそのノックの音を睨み詰(つめ) て聾唖者(おし)のように藻掻(もが)き戦(おのの)いた。……扉(ドア)の向うに突立っている者の姿を透視しようとして透視出来ないまま……救援を叫 ぼうにも叫びようがないまま……。  コツコツコツコツコツ……。  ……と……やがて正木博士が、全身の戦慄を押し鎮めるべく、一層烈しく戦慄しながら、物凄い努力を初めた。……すこしばかり身体(からだ)をゆるぎ起 して、桃色に充血した眼を力なく見開いた。灰色の唇をふるわして返事をすべく振り返ったが、その声は、痰(たん)に絡まれたようになって二三度上ったり 下ったりしたまま、咽喉(のど)の奥の方へ落ち込んで行った。……と思ううちに見る見る椅子の中に跼(かが)まり込んで死人のようにグッタリと首を垂れ てしまった。  コツコツコツ……コトコトコトコト……コツンコツンコツンコツン……。  私はこの時、自分で返事をしたような気がしない。何だか鳥ともつかず、獣(けもの)ともつかぬ奇妙な声が、どこからか飛び出して、室(へや)中に響き 渡ったように思った。それと同時に頭の毛が一本一本にザワザワと走り出したように感じたが、そのザワザワが消えないうちに、入口の扉が半分ばかり開かれ ると、ガタガタと動く真鍮(しんちゅう)のノッブの横合いから、赤茶色のマン丸いものがテカテカと光って現われた。それは最前カステラを持って来た老小 使の禿頭(はげあたま)であった。 「……ヘイヘイ……御免なさいまっせい。お茶が冷えましつろう。遅うなりまして……ヘイヘイ……ヘイ……」  と云い云いまだ湯気を吹いている新らしい土瓶を大卓子(テーブル)の上に置いた。そうして只さえ弓なりに曲った腰を一層低くして、白く霞んだ眼をショ ボショボとしばたたきながら、皺だらけの首をさし伸べて恐る恐る正木博士の顔を覗き込んだ。 「……ヘヘ……ヘイヘイ。ちっと遅うなりまして……ヘイ……。昨晩(ゆうべ)からほかの小使がみんな休みまして、今朝から私一人で御座いますもんじゃけ ん。ヘイ。まことに……」  老小使の言葉がまだ終らないうちに、正木博士は最後の努力かと思われる弱々しい力で、椅子からヒョロヒョロと立ち上った。死人のように力無い表情で私 を振り返って、何か云いたそうに唇を引き釣らせつつ、微(かす)かに頭を左右に振ったようであったが、忽(たちま)ち涙をハラハラと両頬に流すと、私に 目礼をするように眼を伏せて、又も頭をグッタリとうなだれた。そうして小使が明け放しておいた扉(ドア)の縁に捉まりながらフラフラと室を出て行ったが 、今にも倒れそうによろめきつつ、入口の柱に手をかけて、ようやっと、廊下の板張りの上に立ち止まった。するとその後から追いかけるようにギイギイと閉 まって行った扉(ドア)が、忽ちバラバラに壊れたかと思うほど烈しい音を立てると、室中の硝子(ガラス)窓が向うの隅まで一斉に共鳴して、ドット大笑い をするかのように震動し、鳴動し、戦慄した。  そのあとを振り返って見送っていた小使は、やがてオズオズとこちらに向き直りながら、呆れたように私を見上げた。 「……先生は……どこか、お加減が、お悪いので……」  私も最後の努力ともいうべき勇気を振い起して、無理に、泣くような笑い声を絞り出した。 「ハハハハハ。何でもないんだよ。今チョット喧嘩をしたんだ。……ツイ先生を憤(おこ)らしちゃったんだ。心配しなくともいいよ。じきに仲直りが出来る んだから……」  と云ううちに両方の腋の下から、冷たい水滴がバラバラと落ちた。嘘を云うのがこんなにタマラないものとは知らなかった。 「……ヘエイ……左様(さよう)で御座いましたか。それならば安堵(あんど)致しました。はじめてあのようなお顔をばお見上げ申しましたもんじゃけん… …ヘイヘイどうぞ御ゆるりと、なさいまっせえ。私一人で誠に行き届きまっせんで……ヘイ。先生はホンニよいお方で御座います。ようお叱りになりますが、 まことに御親切なお方で……それに昨日からは又、あの解放治療場で大層もない御心配ごとが出来まして、そのために今一人しかおりませぬ小使が、足を踏み 挫きまして休んでおりますようなことで……先生様もお気の毒で御座います……ヘイヘイ……ヘイ……どうぞ御ゆるりと……」  禿頭(はげあたま)の小使は冷めた方の茶瓶を提(さ)げて、曲った腰を一つヤットコサと伸ばしつつ、ヨチヨチと出て行った。私は、私の魂を喰いに来た 鬼が出て行くかのように、その後姿を見送った。  小使が出て行ったあとの扉(ドア)がガチャガチャと閉まると、私は又、思い出したようにグッタリとなった。長い長いふるえた呼吸(いき)を腹の底から 吐き出しながら、大卓子(テーブル)に両肱を突いた。両掌(りょうて)でシッカリと顔を蔽(おお)うて、指先で強く二つの眼の球(たま)を押えた。頭の 芯(しん)が乾燥(ひから)びたような、一種名状の出来ない疲労を覚えると共に、強く押えた眼の球の前にいろいろな幻像があらわれるのを見た。その中を 縦横無尽に、電光のように馳けめぐる…… ?(インタロゲーションマーク) ……を見た。そうしてその…… ?(インタロゲーションマーク) ……を頭 の中で押え付けよう押え付けようと焦燥(あせ)った。  ……解放治療場の白い砂の光り……?……  ……そのまん中の枯れ葉を一パイに着けた桐の木……?……  ……その向うに突立っている呉一郎の姿……?……  ……その向うの煉瓦塀の上の、屋根の上の、巨大な二本の煙突……?……  ……その上から吐き出されて行く黒い煤烟(ばいえん)のうねりと、青い青い空の色……?……  ……白いベッドの上に泣き伏した、白い患者服の少女の姿……?……  ……緑の平面の上に開いたまま置き忘れられている若林博士の調査書類……?……  ……紫色に渦巻く葉巻の煙……?……  ……若林博士の奇妙な微笑……?……  ……正木博士の鼻眼鏡の反射……?……  ……?……?……?……?……?……???????……………………  ……?…………  私は頭を一つ強く振った。……そんなものをつなぎ合わせて、飽く迄も私を学術の餌食にしようとしている、眼にも見えず、手にも取られぬ因果の網を掻き 払うかのように、眼を閉じたまま両手を動かした。  ……狂人の暗黒時代を背景にして、私を捉えるべく糸を操っているその網の主というのは、学術界に棲息している二匹の大きな毒蜘蛛(どくぐも)である。 曠古(こうこ)の精神科学者Mと、無双の名法医学者Wである。……その中でもMが私に投げかけた網の恐ろしかった事……私は今の今まで全力を挙げて抵抗 して来た。全身の血を逆行させて、冷たい汗と、熱い涙のあらん限りを絞って闘って来た。そうして何かしらその相手に非常な打撃を与えて追い払ったようで あるが、しかし、それと同時に私も力が尽きた。自分の行為の善悪を判断する力はおろか、この大テーブルから離れる元気さえなくなった。精神的にも肉体的 にも、再び起つ勇気があるかないかすら解らない位疲れてしまっている。  ……けれども……けれども私の背後には今一つの強敵が控えている。その強敵Wは、或はこの場の光景までも見透かして、冷笑しているかも知れぬ。それ程 に抜け目のない、堅実な網を張って、私が落ち込んで来るのを待ち構えているに違いない。私自身は勿論のこと、あの正木博士すら気付かぬ位巧妙な、行き届 いた、偉大な智慧の力でシッカリと私を押え付けて、血も涙も、骨も抜き取って、虚偽と穢(けが)れによって作り上げられた学術の犠牲に供すべく、刻一刻 に私の背後から迫りつつある事がヒシヒシと全神経に感じられる。  ……あの蒼白い、大きな、毛ムクジャラな手に掴まれる位なら、私は正木博士に反抗するのじゃなかった。私は何故かわからぬけれども、若林博士よりも正 木博士の方が好きだ。二人とも私を餌食にしようとしている学界の毒蜘蛛であるにしても、私は正木博士の方が何となく懐かしくて親しみ易い気がする。今で も正木博士が引返して来て唯一言…… 「吾輩が悪かった……」  と云ってくれさえすれば、私は一も二もなく喜んで、何もかも忘れて正木博士の奴隷になるかも知れぬ。若林博士の卑怯さを発(あば)いて、正木博士に同 情した記録を発表するかも知れぬ。……若林博士のあの蒼白い手で、私の心臓を握られたくないために……。  しかし……四囲(あたり)はシンとしている。正木博士が引返して来るような音も聞えぬ。……運命を待つよりほかはない。その運命と闘う力をなくしたま ま……。  ああ……どうしよう……。  私の呼吸が又一しきり胸を圧迫して来た。  そうして、やがて又、ふるえ、わななきつつ、力無く静まって来た。……身体(からだ)中が空虚になったような……耳の穴の奥だけがシイ――ンと鳴るよ うな……。 「…………………………  …………………………  黒(く)ウろい黒(く)ウろいまっ黒い  トットの眼玉を喰べたらば  白(し)イろい白(し)イろい真白い  ホントの眼玉が飛び出した     ポンチキポンチキポンチキチ……  白(し)イろい眼玉は可愛いよ  お口の中から飛び出して  お箸(はし)の先から逃げ出して  コロコロコロコロ転がって  どこかへ見えなくなっちゃったア     ラアラアラアラアポンチキチ……  白(し)イろい眼玉は可愛いよ  トットの眼玉は可愛いよ  ホントの眼玉は可愛いよ  可愛い可愛い可愛いよオ――     ラアラアラアラアポンチキチ……     ポンチキポンチキポンチキチ……  可愛いヨオ――可愛いヨオ――  …………………………」  という最前の舞踏狂の少女の澄み切った声が、南側の硝子(ガラス)窓越しに洩れて来る……。 ……突然……一つの素晴らしい考えが頭の中に閃(ひら)めいた。私の頭の中心にコビリ付いていた千万無数の…… ?(インタロゲーションマーク) …… が一時にパッと光って消え失せたような気がした。器械人形のように顔から手を離して、廻転椅子の上に腰かけ直した。正木博士が出て行った入口の扉(ドア )を見た。正面の壁にかかった黄金と黒の二つの額ぶちを見た。眼の前に散らばっている様々の書類を見まわした。秋の正午に近い光りが、室(へや)中一パ イに籠(こも)った葉巻の煙を青白く透かして、色々な品物の一つ一つにハッキリした反射を作っているのを見た。 「……ナア――ンダ……ナア――ンのコッタイ。……これあ……アッハッハッハッハッハッハッハッハッ……」  私は両方の横腹から、たまらない可笑(おか)しさがコミ上げて来るのを両手で押え付け押え付けして笑い続けた。 ……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったんだぞ俺……アッハッハッハッハッ…… ……若林博士も、正木博士もそうなんだ。イヤ、俺よりもモットモット念入りの大馬鹿なんだ。俺たちは三人共、飛んでもない誤解をし合っているのだ。何と いう馬鹿馬鹿しい間違いだ、……これは……。 ……誰が千世子を殺したか。誰が呉一郎に絵巻物を渡したか。……誰が呉一郎の本当の親なのか。WかMか……それとも外にモウ一人チャンと控えているのか ……そんな謎はまだ、丸っきり一つも解かれていないのだ。みんないい加減な第三者の仕事かも知れないのだ…… ……否々、この事件には初めっから一人も犯人がいないのに違いない。この事件の内容というのは偶然に離れ離れに起った、原因不明の出来事の色々を、一つ に重ね合わせで覗いたものに過ぎないのだ。千世子の縊死(いし)だって……斎藤博士の溺死だって……呉一郎の発狂だって……みんな自分勝手にし出かした 事かも知れないのだ……でなければ、こんなに神秘的な、不可解な、底の知れない事件があり得る筈はないじゃないか。 ……それを二人の博士が感違いをして、無理に一枚に重ね合わせて、一つの焦点を作ろうとしているのだ。お互いに相手を恐れて……自分の大切な研究材料を 相手に取られまいとして、色眼鏡をかけて睨み合ったために、何もかも相手がタッタ一人でして来た事のように見えたに過ぎないのだ。 ……可哀相に……めいめい自分で覚えがあり過ぎるために……否……否……今まで手応えのある相手を発見し得なかった古今無双の二つの脳髄同志が、ここで 互いに好敵手を発見し合って、本能的に戦闘慾を発揮し初めたんだ。力一パイ四ツに取組んで、動く事が出来なくなっているのだ。 ……アハ……アハ……こんな馬鹿馬鹿しい……間の抜けた……トンチンカンな争いが又とこの世にあり得ようか。事件そのものの内容よりも、二人の博士の研 究と争闘の方が、ズット真剣で、深刻で恐ろしいのだもの。もしかすると学者なんてものは皆、こんな詰らない事ばかりを本気になって争い合っているものじ ゃないかしら……。 ……しかし考えて見れば無理もないだろう。あの呉一郎と、この俺とはドウしても双生児(ふたご)としか思えないくらい肖通(にかよ)っているんだもの。 おまけにあの呉モヨ子と、この絵巻物の死美人像とが、瓜二つどころじゃない。ソックリそのままなんだもの……こんなに在りそうにもない二重の偶然同志が この地方で、しかも同じ血統(ちすじ)の中に固まり合っているのを発見したら、誰だってビックリするに違いないだろう。そうしてこれには何か深い原因( わけ)があるに違いないと思って、最初から色眼鏡をかけて研究を初めるだろう。……本人はそんなつもりでなくても、研究を初める気持が既に色眼鏡をかけ たのと同じ気持だから仕方がない。その証拠には、この事件を組み立てている色々な出来事を一つ一つに離してみると、別に二人の博士が手伝わなくても、そ れぞれ勝手次第に、自由自在に起り得る事件ばかりではないか。それを二人の博士がお互いに相手の所業(しわざ)と思って疑い合っているお蔭で、一つに重 なり合って見えているだけの事で、二人の博士の八釜(やかま)しい説明が付いていなければ、単純な二つの変死事件と、一つの発狂事件の寄り集まりに過ぎ ないじゃないか……。 ……そうだそうだ。それに違いない。ソレに違いない。みんな根のない事件のブツカリ合いに過ぎないのだ。それを俺が気付かずにいたんだ。そうしてウンウ ン云って苛(いじ)め付けられていたんだ……馬鹿馬鹿馬鹿。馬鹿の、馬鹿の、大馬鹿揃いだったんだ……三人が三人とも……。 ……ウッカリするとこの事件の犯人は、ヤッパリ俺になるのかも知れないぞ……。 「……アハハハハハハハハ……」  私は室(へや)じゅうに反響する自分の笑い声を聞くと、フイと口を噤(つぐ)んだ。そうしていつの間にか頬杖を突いていた私の眼は、鼻の先の緑色の平 面に転がっている絵巻物に、ピッタリと吸い寄せられているのに気が付いた。  ……これが霊感というものであろうか……。  ……私は不意にドキンとして、今一度回転椅子の上に座り直した。今までにない……何とも云えない神聖な気持に満たされつつ、恭(うやうや)しく絵巻物 を取り上げると、ジッと見詰めて考えた。  ……最後に残るものはこの絵巻物の魔力である。……すべては否定出来る。……しかしこの絵巻物の魔力ばかりは最後の最後まで否定出来ない……と……  ……この事件は表面から見ると、すべてがノンセンスに出来上っていると云える。実に詰まらない小事件の寄せ集めに過ぎないと考えられるので、唯、その 間に正木、若林の両博士が引っかかり合ってこの絵巻物の魔力を中心にして或る怪事業を成し遂(と)げようと試みているために、全体が非常に有意義な、戦 慄すべき緊張味を示しているかのように見えるのであるが、しかし一歩退いて、この事件を裏から覗いてみると、実は二人の博士が二人とも、この絵巻物にコ キ使われているのだ。自分たちが持っているだけの智慧も、度胸も、学問も、地位も、名誉も、生命(いのち)までも投げ出して、この絵巻物の魔力の前に三 拝九拝しているのだ。その以外の人間の生死も、流転も、煩悶も、万一(もし)正木博士の話が真実とすれば、やはりこの絵巻物から引き起された事件に相違 ないので、結局するところ、一切の摩訶(まか)不思議を支配する中心的の魔力は、この絵巻物一つから現われている事になる。すべての現実的事実と一切の 科学的説明はノンセンス化し得るとも、この絵巻物の魔力ばかりは絶対に、何人(なんぴと)もノンセンス化する事が出来ない事になるであろう。  ……だから……この絵巻物にしてもし霊があるならば、すべてを知っているに違いない。同時に自分自身の経歴を、何者よりもよく知っている筈である。… …この事件にドンナ風に関係して来たか。どんな手順で呉一郎の手に落ち込んで来たかを一分一厘、間違いなく知っている筈である。そうして又、如何にして 両博士を悩まし、且つ、私までも苦めているかという、その裏面の消息をも残らず心得ている筈である。  ……この絵巻物の一巻は、今までの間に多くの人々を狂乱させ、迷動させ、互いに相(あい)殺傷させ合いつつ知らん顔をして来た。同様に現在の今日只今 も、何一つ知らぬかの如く装(よそお)うて、私の掌(てのひら)に乗っかっている……が……しかし……。  ……今から一千百余年前、大唐の玄宗皇帝の淫蕩は、青年紳士、呉青秀の忠志に反映して、六体の美人の腐敗像をこの一巻の中に顕現(あら)わした。…… 然るにその怪画像に籠った、怪芸術家の一念は、はるばる日本に渡って来て後(のち)までも、呉家の血統に絡み付いて、恐るべき因果の姿を現実に描きあら わすこと幾十代。しかも十数世紀を隔てた今日に到って、何等の血縁もない正木、若林両博士の手に移って、科学知識の無上の大光明に照らされる時節に遭( お)うても、遂(つい)にその魔力を喪(うしな)わないどころか、却(かえ)ってその怪作用を数層倍してその両博士の全生涯をアラユル方向に蹂躙(じゅ うりん)し嘲弄している。のみならず今日只今、処もあろうに現代文化の淵叢(えんそう)であり権威である九州帝国大学のまん中の、まひるの真只中(まっ ただなか)に、ほとんど仮初(かりそ)めに私の指先に触れたと思う間もなく、早くもその眼に見えぬ魔手をさし伸ばして、私の心臓をギューギューと握り締 めて、生血(なまち)と生汗(なまあせ)を絞りつくす程の苦しみを投げかけている……不可解の因縁を以て私に絡み付いて、不可思議の運命の渦に私を吸い 込みつつある。……事実の真相に白い曇りを吹きかけつつ、その白い曇りの魅力にかけて私を散々に弄(もてあそ)んでいるではないか……思い出されない事 を思い出させ、考えられない事を考えさせ、見えないものを見させようとしているではないか……消え失せた過去の記憶を求めさせ、自分でない自分の身の上 を考えさせ、ありもしない事件の真相を無理やりに探させつつ、迷わせ、狂わせ、泣かせ、笑わせているではないか……。キチガイ地獄以上のキチガイ地獄の 中にノタ打ち廻らせているではないか……。  ……おお……何という恐ろしい魔力……。  ……眼の前の空間を凝視して、ここまで考えて来た私の、大きく見開いた眼の底の大虚空に、あの死後五十日目の黛(たい)夫人の冷笑のまぼろしが、又も アリアリと現われて来た。  それを私は消え失せるまで白眼(にら)み付けた。  ……畜生……どうするか見ろ……。  こう思うと私は、何かしらこの絵巻物の中から、一切の神秘と不可解とを、一挙に打ち破るに足る或る恐るべき秘密の鍵を発見しそうな予感に打たれつつ、 唇を強く噛み締めた。二人の博士と私を苦しめている魔力の正体を一撃の下に曝露するに足るあるもの……まだ何んにも気付かれずに残っている意外千万なあ るものがこの絵巻物のどこかに潜んでいそうな一種の霊感に満たされつつ手早く絵巻物の紐(ひも)を解いた。その序(ついで)に腕時計を見ると、ちょうど 十二時に十分前である。正面の電気時計は十一分前であるが、これはもう長い針がXの字の処へ飛ぼうとしている間際かも知れない。  絵巻物の軸になっている緑色の石の処に息を吐きかけてみると、誰のともわからぬ指紋が重なり合って見えるようであるが、これは先刻(さっき)私がイジ クリまわした跡だと気が付いたので苦笑しいしい巻物を取り直した。こんな迂濶(うかつ)な事では駄目だぞ……と自分で自分を冷罵しながら……。  表装の刺繍と内部の紺色の紙の上に、細く光る繊維みたようなものが、数限りなく粘り付いているが、これは嘗てこの絵巻物を真綿か何かで包んでいた遺跡 であろう。鼻に当てて嗅いでみると、黴臭(かびくさ)いにおいと、軽い樟脳(しょうのう)みたような香気が一緒になった中から、どこともなく奥床(おく ゆか)しい別の匂いがして来るようであるが、なおよく気を落ち付けて嗅ぎ直して見ると、それは私が初めて嗅ぎ出したものではないかと思われる程の淡い、 上品な香水の匂いに違いない事が解った。 ……面白いナ。この調子で行くと、まだ色んな物が発見出来そうだぞ。この黴臭い匂いと樟脳に似た木の香(か)が弥勒様の木像の中で滲(し)み込んだもの である事は、誰でも考え付く事であろうが、併し、この香水の匂いにはチョット気の付く者がいなかったであろう。そうしてこの床(ゆか)しい芳香は、この 絵巻物の前の持主を暗示するものでなくて何であろう。 ……占めた。もしもこの上に、まだ誰にも気付かれていない何物かが在ったら最後……それは一本の髪の毛でも煙草の屑でもいい……犯人を決定する有力な材 料になるのだぞ……  ……とさながらに自分自身が名探偵にでもなったように考えつつ、一層勢付(いきおいづ)いて来た私は、絵巻物を頭の方から、逆に捲き込みながら、絵の 処から由来記の文章の終っているところまで、裏表とも叮嚀に見て行ったが、先刻(さっき)は意地にも我慢にも正視出来なかった死美人の腐敗像が、今度は 愛想(あいそ)もこそもない只の顔料の配列としか見えなくなっているのには尠(すく)なからず驚かされた。而(しか)も、それは決して光線の具合でも何 でもなかった。黛夫人の腐れ破れた唇から見え透く歯並の美しいところ、臓腑が瓦斯(ガス)を包んで滑らかに膨れ光っているところまで、細かに注意して見 たが、何ともないものは、いくら見ても何ともない。私は人間の神経作用の馬鹿馬鹿しさにスッカリ張り合いが抜けてしまった。  ……しかし……と思って尚(なお)よく注意してみると、初めの方は紙の地が幾分ボヤケているが、由来記のおしまいの方に近づけば近づく程、紙の表面が スベスベして上光りがしている。これは無理もない話で、最初に筆を執った呉青秀からして、初めの方ほど余計に開いたり捲いたりしたに決っている。又、そ の後(のち)この絵巻物を開いて見た呉家の先祖代々の者も同様で、最初私がした通りに、初めの完全な姿に近い所ほど念を入れて見たわけで、これは人情か らいっても止むを得ないであろう……巻物の裏一面に何かキラキラ光る淡褐色の液体を塗ってある上に指の跡みたような白い丸いものが処々附いているようで あるが、あまり滑らかでない紙の下から、粗い布目が不規則に浮き出しているのだから、何の痕跡(あと)だかハッキリと見分け難(がた)い。……結局、私 がこの絵巻物から発見したものは、今の上品な香水の匂いだけであった。  私は今一度、絵巻物に顔を近付けて、ほのかにほのかに何事かを私に話しかけるような香気を繰返し繰返し、腹の底まで吸い込んでみた……が……それは何 という香水か知らないが、ホントウに上品な、清浄そのもののような香気と思えるばかりでなく、私の記憶の底の底から何かしらなつかしいような又は遣(や )る瀬(せ)のない夢のような……正直に云えば吸い付きたいような思い出を喚(よ)び起すらしい気持のする匂いであった。云うまでもなくそれは女性のソ レらしく思われるが、併しそれが私の昔の恋人か、それとも母か姉か……というような見当がつく程まざまざとした感じではない。……私は念のために立ち上 って、入口の扉(ドア)の横から自分の角帽を取って来て、その内側の香(にお)いと、絵巻物の香気とを嗅ぎ較べて見た。けれども私の帽子の内側は、いく ら嗅いでも新しい羅紗(らしゃ)と、エナメル皮と、薄い黴(かび)の匂いしかしなかった。私が絵巻物のソレと同じ香水を使っていたという証拠にも参考に もならなかった。  私は帽子を横に置きながら軽い嘆息をして、絵巻物を捲き返そうとしたが、又……ビクリ……とすると手を止めた。思わず空間を凝視しながら……。  ……実に意外千万な暗示が頭の中に閃(ひら)めき込んで来たからであった……。  ……姪の浜の石切場で、呉家の常雇(じょうやと)いの老農夫戸倉仙五郎が呉一郎を発見した時には、絵巻物の白い処ばかりを呉一郎が凝視していたという ……その不可思議な事実のホントの意味が、チラリと判りかけて来たからであった……。  ……というのは外でもない……。  この絵巻物の中でも、おしまいの漢文の由来記が書いてある処までは、度々人間の手によって拡げられたり、捲かれたりしたものに違いない事がわかり切っ ている。従って、その一丈近い長さの間には、何かしらこの絵巻物を覗いた人間の身に附いたものが落ち込んでいるべき可能性のある処である……が併(しか )し、それと同時に、万人の中に一人でも、これから先の白い紙ばかりの処を、ズット先の方まで開いて見る人間があったとすれば、その人間の頭は、余程普 通と違った頭でなければならぬ訳で、どちらかといえば、そんな人間は絶無に近い事が、常識で考えても直ぐに判るであろう。……とはいえ又、万一にもソン ナ常識で想像出来ない或る場合とか、又はその余程アタマの構造の違った人間とかが実際に出現して、由来記の後の白紙ばかりの処をズット先の方まで開いて 見た事があったとしたらドウであろうか。早い話が、この絵巻物の筆者呉青秀は、黛夫人の白骨になった姿だけを、悠々と落ち付いて、一番おしまいの処に描 いているような事がありはしまいか。……それを黛夫人の妹の芬(ふん)女を初め、呉家の代々の人々から正木博士に到るまで、唯、常識で考えて、この中に 描いてある死像を六体限りとアッサリきめているような事がありはしまいか。……そうして更に、その中でも、この絵巻物が人を発狂させる程の魔力を持って いることを看破するような頭を持った人間だけが、そこまで気を廻して開いて見ているとしたら、どんなものであろう……もしそんな事が在り得るとしたら、 そこに何かしら落ち込んでいないとはドウして云えよう。……しかもその落ち込でいる何かしらは、たといそれがドンナに微細なものであろうとも、スバラシ ク重大な意味をあらわす事になるではないか。この絵巻物を使って、この事件を捲き起した犯人の正体をズバリと指す事になるかも知れないではないか。否。 もしかするとこの絵巻物の神秘力を一挙に打ち破って、一切の迷いを真実に還(かえ)す程の力を持った者であるかも知れない。……少く共そこまで調べて見 た上でなければ、この絵巻物の中から何も発見出来なかったとはどうして云えよう。 ……呉一郎は姪の浜の石切場でこの絵巻物の白い処を一心に凝視していたという。しかもその時は既に半分呉青秀、半分は呉一郎の気持ちでいたものと推定さ れているから果して、どちらの気持ちでそうしていたものか判然しないのであるが、しかしいずれにしても、この絵巻物の白い処をズットおしまいの処まで見 て行った……そうしてそこに落ち込んでいる何ものかを発見したに違いない事は容易に推定出来ると思う。 ……その証拠に呉一郎は「この絵巻物の預り主の正体を知っている」と仙五郎爺さんに話しているではないか……。 ……どうして……どうして私は今の今までこの事実に気付かなかったのだろう……。  こうした考(かんがえ)を一瞬間のうちに頭に閃(ひら)めかした私は、又も、何者かに追駈(おいか)けられているような予感がして、チョット腕時計と 電気時計を見較べた。どちらも十二時に四分前である。  私の手は再び反射的に絵巻物を持ち直して白い処を捲き拡げ始めた。そうして最初の一分間かそこらは、できるだけ冷静に調べて行くつもりであったが、ど こまで行っても唯真白いばかりの唐紙の上を一心に見つめて行かなければならぬ事が、判り切っているように思えるので、私は間もなく、涯(はて)しもない 白い砂漠を、当(あて)もないのにタッタ一人で旅行させられているような苛立たしさと、馬鹿らしさを感じ初めた。自分一人で名探偵を気取っているような 自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。  それにつれて……かどうか知らないが、呉青秀が一番おしまいに白骨の絵を書いているかも知れない……という推量も怪しくなって来た。  呉青秀が痴呆状態に陥ったものとすれば、自分が古今無類の馬鹿者であった、当もない忠義立てのために最愛の妻を犬死にさせた……という事を、義妹の芬 女の説明でハッキリ思い当った刹那(せつな)に、茫然自失してからの事であろう。そうすればその数分間前、もしくはその数秒前までは正気でいた筈だから 、もし云い忘れたのでなければ、一番おしまいに白骨の絵を描いたか如何(どう)かを説明していない筈はない。又、芬女にしてからが同じ事で、自分の恋い 慕っている男が、大事な大事な姉を犠牲にして企てた事業の成績品を披(ひら)いて見ながら、千年も経った今日になって赤の他人の私が思い付く位の事を気 付かずにいるような事は万に一つもありそうにない……こう思うと私は一遍に気が抜けてゲンナリとしてしまった。  ……しかし……それでも私は、つまらない一種の惰力みたような、気の抜けた義務心に義務附けられたような気持と、今までの気疲れが一時に出初めてウト ウト睡くなって行くような気持とを一緒に感じながら、あと一丈許(ばか)りもあろうかと思われる白い処を両手で一気に繰り拡げながら、ほんの申訳(もう しわけ)同様に追いかけ追いかけ見て行った。そうしてやっと二丈か三丈位ありそうに思われる長い巻物の白いところを、最終の処まで追い詰めて来ると意外 にも、黒い汚染(しみ)のようなものがチラリと見えたので、思わずドキンとして眼を瞠(みは)った。  よく見ると、それは一番お終(しま)いの紺色の紙に、金絵具で波紋を描いたところから一寸(ちょっと)ばかり離れた個所に、五行に書かれた肉細い、品 のいい女文字であった。これが小野鵞堂流(おのがどうりゅう)というのであろうか…… 子を思ふ心の暗(やみ)も照しませ    ひらけ行く世の智慧のみ光り   明治四十年十一月二十六日 福岡にて 正木一郎母 千世子   正木敬之様 みもとに  ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… …………………………………………………私の頭髪は皆、逆立(さかだ)った……。  ……慌てて絵巻物を捲き返そうとしたが……手がふるえて取り落した……。  ……と、その絵巻物がさながら生きているもののように、ひとりでに捲き拡がって、大卓子(テーブル)の上から床の上に這い落ちて、リノリウムの上をク ルクルクルと伸びて行くのを見ているうちに、ゾーッとして来て夢中になった私は、どうして扉(ドア)を開いたか、いつ廊下を走ったか判らぬまま階段を一 散に駆け降りて、玄関から外へ飛び出した。  トタンに非常な大音響が、私を追い散らすかのように、九大構内の松原に轟き渡った。  それは午砲(ドン)であった。  それは一つの奇蹟であったとしか思えない……或る目に見えぬ偉大な力が、空中から手を差し伸ばして、私を自由自在に引きずり廻していたとしか思えない 。それほどに、不思議な出来事であった。  私は九大医学部の正門を飛び出して後(のち)、どこをどう歩き廻ったかまるっきり記憶しない。そうして何を目標にして、又もとの九大精神病科の教授室 に帰って来たものか全くわからない。  ……背後から絶叫して来る自動車の警笛を聞いた。眼の前に急停車する電車の唸りに脅かされた。自転車のベルに追い散らされた。叱咤(しった)する人の 声や吠えつく犬の声をきいた。グルグル廻る太陽と、前後左右に吹きめぐる風と、戦争のように追いつ追われつする砂ほこりを見た。雲の中からブラ下ってい る電柱を見た。軒の下まで鮮血を滴(したた)らしている絵看板を見た。地平線の向うが透明な山に続く広い広い平野を眺めた。何千、何万、何億あるか判ら ぬ夥(おびただ)しい赤煉瓦の堆積の中へ迷い込んだ。その紫色の陰影の中に、手足を蠢(うごめ)かして藻掻(もが)いている孩児(あかんぼ)の幻影(ま ぼろし)を見た。青澄んだ空の只中を黄色く光って行く飛行機を仰いだ……そのあとから白い輪廓ばかりの死美人の裸体像が六個(むっつ)ほど、行儀よく並 んで辷(すべ)って行くのを見た。  人の頭のように……又は眼の形……鼻の恰好……唇の姿なぞ取り取り様々の形に尾を引いて流るる白い雲……黒い雲……黄色い雲……その切れ目切れ目に薬 液のように苦々しく澄み渡っている青い青い空……そんなものの下に冴えに冴え返る神経と、入り乱れて火花を散らす感情を包んだ頭の毛を、掻き ※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77) (むし)り、掻き乱しつつ……時々飛び上る程の痛みを前額部に感じつつ……眩(まぶ)しさと砂ほこりとでチクチク痛み出した眼をコスリコスリ、どこへ行 くのか自分でも判らないまま、無茶苦茶によろめいて行った。  ……川……橋……鉄道……赤い鳥居……その赤い鳥居の左右に、青白い顔をして立っている正木博士と若林博士の姿……終(つい)には駆け出したくなるの を押え付け押え付けして歩いて行った。 …………何もかも真実であった……虚偽の学術研究でも、捏造(ねつぞう)の告白でもなかった。しかも、それは初めから終りまで正木博士がタッタ一人で計 画して、実行して来た事ばかりであった。 ……若林博士は何でもなかったのだ……。 ……若林博士は初めから何も知らずに、正木博士の研究の手先に使われていたのだ。 ……正木博士が行った巧妙奇怪を極めた犯罪に魅惑されて、自分から進んで調査をしているうちにいつの間にか正木博士の研究発表の材料を集める役廻りを引 受けさせられていたのだ。正木博士が仕掛けておいた蹄係(わな)に美事に引っかかって、スッカリ馬鹿廻(ばかまわ)しにされていたのだ……。 ……けれども若林博士はその結論として、あの絵巻物の最終に残されている千世子の筆蹟を発見した。あらゆる疑問を重ね合わせた最後の疑問の焦点となるべ き、唯(ただ)一点を発見して私と同じようにビックリしたに違いない。そうして私と同じように一瞬間の裡(うち)に一切を解決したに違いない。すべてが 正木博士の所業(しわざ)である事を発見したに違いないのだ。 ……しかしそこで若林博士が執(と)った態度の如何に立派であった事よ……若林博士は、かくして事件の真相を奥の奥の核心まで看破すると同時に、その同 窓同郷の友人として、又は学者としての有らん限りの同情と敬意とを正木博士に払うべく決心をしたのであった。そうしてその事件の内容の、要点だけを解ら なくした。正しい調査記録を当の本人の正木博士に引き渡して、焼くも棄てるも、その自由に委(まか)した。……又は態々(わざわざ)茶菓子を持たして寄 越して、「私は遠くに離れ退(の)いておりますから、どうか御心配なく御自由にお話し下さい」という心持ちを、云わず語らずの中(うち)に知らせたりし た。 ……「正木博士は一箇月前に自殺した」なぞいうような口から出任せな嘘を吐(つ)いたのも、やっぱりそんな意味の親切気から、立ち聞きをしている正木博 士が、あの場面に出て来ないように……そうしてアンナ苦しい破目(はめ)に陥らないように……もしくは回復しかけている私の頭を、又も取り返しのつかぬ 混乱に陥らせないように警戒するつもりで云った事であろう……あとで嘘だと判ってもいいつもりで……。 ……実に男らしい尊い、申分(もうしぶん)のない紳士的態度を、若林博士は執(と)って来たのであった。 ……然(しか)るにこれに反して正木博士は、この実験のために、その全生涯と、全霊魂とを犠牲に供して来たのであった。最初から自分一人でこの伝説に興 味を持って、千世子を欺して、子供を生まして、絵巻物を提供させたのであった。そうして一切を顧(かえりみ)ずにこの計画を遂行したのであった。 ……けれども千世子が、あの絵巻物を提供する時に、あの和歌と、年月日と、子供の名前と生れた処とを、その父親の名前と一緒に奥付の処に書込んで、意味 深長な釘を刺している事を正木博士は夢にも気付かずにいたのだ。世にもミジメに深刻な母性愛と、ステキな才智の結晶とも見るべき彼女の悲しい頭の働らき が、そこまで行き届いていようとは露程(つゆほど)も想像し得なかったのだ。大胆な、眩惑的な、そうして飽く迄も天才的なその事業計画の中心に、唯(た だ)一点、致命的な疎漏(そろう)がある事を考え得なかったのだ。……そうして学術のため、人類のためと思って、神も仏も、血も涙も冷笑し蹂(ふ)み躙 (にじ)って行きながらも、尚も、あとから追いかけて来る良心の苛責と人情の切なさに、寝ても醒めても悩まされ抜いて来たのだ……死人に心臓を掴まれた まま、跳ね廻って来たのだ。 ……これが正木博士の全生涯なのだ。極度に穢(けが)されると同時に、極度に浄(きよ)められている……飽く迄も悲しく、飽く迄も痛快な……。 ……しかもその正木博士は、その呪われた研究がいよいよ最後の場面に這入ると同時に、若林博士から投げ与えられた彼(か)の調査書類を見ると流石(さす が)に胆を冷してしまった。その相手の恐るべき透徹した脳髄が、極めて遠廻しに……一分一厘の隙間(すきま)もなく自分を取り囲んでいる事を知った。そ うしてその恐るべき明察の重囲に陥った苦しさに堪(た)え得ないままに、極めて卑怯な、且つ徹底的に皮肉巧妙な手段を以て逆襲を試みようとした。お手の ものの患者の中から選み出した第三者の私を使って極めて冒険的な発表を決行させるべく、一切を私の前に告白した。 ……が……その告白は初めから終りまで自分一人で計画して、タッタ一人で実行した事を二人に分割したものであった。その独特の機智を以て、相手の性質や 行動を巧みに描写しつつ取り入れた、空前の巧妙精緻を極めた……そうして、それと同じ程度に浅薄幼稚を極めた思い付きであった。……その自縄自縛を切り 抜けている一人二役式の思い付きの非凡さ……MとWの使い分けの大胆さ、巧妙さ……そうして、やはり旧(もと)の自縄自縛に陥ってしまっているそのミジ メさ……愚昧(おろか)さ……。 「……アブナイッ……」 「馬鹿ッ……」 「アターッ……」  という怒号と悲鳴が、私の直ぐ背後(うしろ)から重なり合って飛びかかって来た。と同時に、  ……ガラガラガラガラ……ガチャンガチャン……パーン……パチーン……  という激しい物音が、引き続いて私の足の下に起った。……ハッとして振り返ると、其処辺(そこいら)に立っている人が皆、私の顔を睨みつけている。… …私の直ぐ背後(うしろ)には青塗の巨大(おおき)な貨物自動車が向うむきに停車している……くの字形になった自転車と、無残に壊れた空瓶の群が私の足 下に散らばって、茶褐色の醤油がダラダラと漂(ただよ)うている。……浅黄色(あさぎいろ)の事業服(しごとふく)を着た大男が自動車の上から飛び降り て、タイヤの蔭に手を突込みながら、紙のように血の気を失くした印絆纏(しるしばんてん)の小僧を、眩(まぶ)しい日陽(ひなた)に引きずり出している ……人々がその方へ駆け寄って行く……。  私はスタスタと歩き出しながら又も考え続けた。 ……トテモ恐ろしい……考え切れないくらい恐ろしい秘密だ。一千年前に死んだ呉青秀の悪霊と、現代に生きている正木博士の科学知識との闘争(たたかい) は今酣(たけなわ)なんだ。 ……しかも正木博士は、この研究に志した当初の一瞬間から、その良心の急所を呉青秀の悪霊に掴まれてしまっている。人間愛の中(うち)でも最大最高の親 子の情と、夫婦の愛とを握り殺されてしまっている。そうして自分自身にはそれを気付かないで、どんな事があっても自分だけは決して呉青秀の悪霊に呪われ まいと頑張り通して来ている……その呪われた心理状態を、色々な論文や、談話やチョンガレ歌なぞの形に現わして、次から次に公表して来ている……その一 方には千世子を初めとして呉一郎、モヨ子、八代子と次から次に痛ましい犠牲を作り出しつつ、勇敢にもそれを踏み越え踏み越えして、科学の勝利を確信しつ つ……呉青秀の悪霊を向うに廻しつつ、一心不乱に斬って斬って切り結んでいる。……ああ何という凄惨な、冷血な、あくどい執念深い闘争(たたかい)であ ろう。……魂から滴(したた)り落ちる血と汗の臭気(におい)がわかるような……。 ……けれども……。 ……けれども……。  ここまで考えて来ると、私はパッタリと立ち止った。……賑やかな往来を見た。……不思議そうな目付きや顔付きで私を振り返って行く人々を見まわした。 高い高い広告塔の絶頂でグルグルグルグルまわり出した光の渦巻を見上げた。その上に横たわる鮮肉のような夕映(ゆうばえ)の雲を凝視した。 ……けれども……。 ……けれども……。 ……よく考えてみると、私はまだその中から、私の過去の記憶の一片だも、思い出していないのであった――私は何者――という解答を自分自身に与える事が 出来ない。憐れな健忘症の状態に止(とど)まっているのであった。私は今朝(けさ)あの七号室で眼を開いた時と少しも変らない……依然としてタッタ一人 で宇宙間を浮游(ふゆう)する、悲しい、淋しい、無名の一微塵(みじん)に過ぎないのであった。 ……私は何者?……。 ……ああ……これを思い出したら私はすぐにも呉青秀の呪いから醒めそうに思われるのに……あの絵巻物の魔力から切離されてしまいそうに思われるのに…… どうしてもそれが思い出せない。いくら考えてもコレダケが最後の、唯一の疑問として残って行く……。 ……私は誰だろう……誰だろう……私の過去とこの事件の間にはドンナ因果関係が結ばれているのだろう……。  ……とこう考えては今日の記憶を繰返し、くり返しては又考え直しつつ、暗雲(やみくも)に足を早めたり、緩(ゆる)めたりして歩いて行った。……遠く 近くで打出す半鐘(はんしょう)の音……自動車ポンプの唸(うな)り……子供の泣き声、機(はた)を織る響(ひびき)……どこかの工場で吹出す汽笛の音 ……と次から次へ無意識の裡(うち)に耳にしながら、右に曲り、左に折れしていたが、そのうちに私は又、突然に土を蹴って立ち止った。気絶する程ドキン として首を縮めながら立ち竦(すく)んだ。  ……大変だ。あの絵巻物を、あのままにして来た。  ……あの絵巻物のお終(しま)いの処にある千世子の筆蹟は誰にも見せてはならぬ……。  ……正木博士が見たら発狂するか……本当に自殺するかも知れぬ……。  ……タタ大変だッ……。  私は思わず飛び上った。そうしてその次の瞬間にはクルリとうしろを向いて、どこか判らぬ真暗(まっくら)になった田舎道を一直線に駆け出していた。  やがて明るい、美しい街筋に走り込んだ……。  間もなく暗いゴミゴミした横町を突き抜けた……。  三味線や太鼓の音の聞える眩(まぶ)しい通りを飛んで行った……。  電燈の並んだ防波堤を三方海原(うなばら)の行き止まりまで来てビックリして引き返した……。  いろんな店の品物や、電車や、自動車や人ゴミが走馬燈(まわりどうろう)のように後(うしろ)へ後へと辷(すべ)った……。  汗と涙で見えなくなる眼をコスリコスリ元来た方へ元来た方へと急いだ……。  ……眼が眩(くら)んで、息が切れて、そこいらが明るくなったり暗くなったりしたように思う。  ……眼の前に灰色の鳥が無数に乱れ飛んでは消えて行ったように思う。  ……いつの間にか往来に倒れているのを誰か扶(たす)け起してくれたように思う。そうしてそれを振り離して、又駆け出したようにも思う。  そんな事を繰り返して行くうちに私はとうとう何もかも判らなくなってしまった。何のために走って行くのか。どっちの方向へ行こうとしているのか考えよ うともしないようになった。時々見えたり聞えたりするものを夢うつつのように感じたが、終(しま)いにはその夢うつつさえ感じられなくなるまで恍惚とし て蹌踉(よろめ)いて行った……ように思う。  それから何時間経ったか、何日経ったか判らない……。  フト身体(からだ)中がゾクゾクと寒気立(さむけだっ)て来たようなので気がついて見ると、私はいつの間にか最前(さっき)の九州帝国大学精神病科の 教授室に帰っていて、最前腰をかけていた回転椅子に、最前のように腰をかけて、大卓子(テーブル)の緑色の羅紗(らしゃ)の上に両手を投げ出したまま突 伏(つっぷ)しているのであった。  私はチョットの間、夢を見ているのではないかと疑った。先刻(さっき)……正午(ひる)頃にこの室を飛び出してから、方々を歩きまわって、見たり聞い たりした色々の出来事や、考えまわしたいろんな不思議な事……又はその間に感じたタマラナイ恐ろしさや息苦しさは、みんなここにこうして気絶している間 に見た夢ではなかったかと疑ってみた。そうして気味わる気味わると自分の身のまわりを見まわして見たのであった。  私の服もシャツも、穿(は)いている靴も、汗と塵埃(ほこり)にまみれて真白になっている。両方の肱や膝は大きく破れたり泥まみれになったりして、ボ タンが二つ程ちぎれて、カラーが右の肩にブラ下っている姿は恰度(ちょうど)、酔漢(よいどれ)と乞食との混血児(あいのこ)を見るようである。左の手 の甲に真黒く血が固まり附いているのはどこを怪我したのであろう。別段に痛い処も痒(かゆ)い処もないが……併し眼と口の中が砂ホコリで一パイになって いるらしく、瞼(まぶた)がヒリヒリして歯の間がガリガリするその不愉快さ……。  私はその眼と口を今一度、机の上に突伏せながら、ジット後先(あとさき)を考えて見たが、一体何しにここへ帰って来たのか、どうしても思い出せなかっ た。机の端に置き忘れて行った新しい角帽を凝視(みつめ)ながらその時の気持を思い出そう思い出そうと努力したが、この時に限って不思議な程、私の聯想 力が弱っていた……何かしら非常に重大な品物か何かをこの室に忘れて、それを取りに帰って来たようにも思うのだが……と思い思いソロソロと頭を上げて前 後左右を見まわして見ると、私の頭の上には大きな白熱電球が煌々(こうこう)と輝いている。  入口の扉(ドア)は半分開(あ)いたままになっている。  しかし、大卓子(テーブル)の上の書類は誰が片附けたものか、旧(もと)の通りにキチンと置き並べてあった。今朝(けさ)若林博士と一緒に這入って来 て、初めて見た時の並び具合と一分一厘違わず……いじり散らした形跡なぞは微塵(みじん)もないように見えた。その横に座っている赤い達磨(だるま)の 灰落しも、今朝最初に見た時の通りの方向を向いて、永遠の欠伸(あくび)を続けているのであった。  尤(もっと)もその中(うち)でもカンバス張りの厚紙に挟まった「狂人の暗黒時代」のチョンガレ歌や「胎児の夢」の論文なぞいう書類の綴込(つづりこ )みだけは、よく見ると確かに誰かが、ツイこの頃手を触れているらしく、少し横すじかいのX形に重なり合ったまま、投出されているようであるが、もう一 つの方の、今日の午前中に正木博士が私の眼の前で塵を払ったに相違ない、青いメリンスの風呂敷包みの上には、やはり初めて見た時の通りに、灰色の細かい 埃が一面に被(かぶ)さっていて、久しく人間の手が触れていない事を証拠立てている。そのほか大卓子(テーブル)の上には、茶を飲んだ形跡(あと)もな ければ、物を喰べた痕跡(なごり)もない。念のために、赤い達磨の灰落しを覗いてみると、中には葉巻の灰の一片すらなく、相も変らぬ大欠伸を続けたまま 、黄金色(きんいろ)と黒の瞳でグリグリと私を睨み上げている。 ……不思議だ……きょうの午前中の出来事の大部分は夢だったのか知ら。……私は確かにあの風呂敷包みの内容(なかみ)を見たのだが……僅かの間に、あん なに埃がたかる筈はないわけだが……。  私はやおら立上った。膝頭が気味悪くブラブラして脱け落ちそうになるのを、大卓子(テーブル)の縁に突いた両手で辛(かろ)うじて支えながら、綿のよ うな身体(からだ)を無理矢理に引立てた。ヒクヒクと戦(わなな)く指でメリンスの風呂敷包みを掴んで引寄せると、あとに四角い埃のアトカタがクッキリ と残った。その結び目に落込んでいる埃の縞(しま)を今一度よく見たが、どう考えても最近に人の手が触れた形跡はない。そうして、その結び目を解いてい る中(うち)に、白い埃の縞は跡型もなく消え飛んでしまったのであった。  私は唖然となった。  眼の前の空間を凝視(みつめ)たまま、今朝(けさ)からの記憶を今一度頭の中で繰り返して見た。けれども、この風呂敷の中のものを正木博士から見せら れて、あの恐ろしい説明を聞いた記憶と、この結び目の白い埃は永久に両立しない二つの事実に相違なかった。正確に矛盾した二つの出来事であった。  私は全身に伝わる悪感(おかん)を奥歯で噛み締めながら、尚(なお)もワイワイと痙攣する両手の指で、青い風呂敷包みを引き拡げた。するとその中から 最前見た通りの新聞紙包みと、若林博士の調査書類の原本とがやはり最近見た通りの形にキチンと重なり合って出て来た。それ許(ばか)りでなくメリンスの 目から洩れ込んだ細かい埃は、調査書類の原本の表紙になっている黒いボール紙の上にもウッスリと被(かぶ)さっていて、絵巻物の新聞包みを取除(とりの )けると、又も長方型のアトカタがクッキリと残った。  私は又も唖然となった。余りの不思議さに狐に抓(つま)まれたようになりつつ、自分が正気でいるか如何(どう)かを確かめるような気持ちで、まず絵巻 物の新聞包みをソロソロと開いた。その新聞紙の折れ具合、箱の蓋の合い加減、巻物の捲(ま)き様(よう)、紐の止め方まで細かに調べてみたが、余程几帳 面な人間の手で蔵(しま)い込んであったものらしく、どこもここもキチンとしていて、二重に折れ曲った処や、折目の歪(ゆが)んだ処は一個所もないのみ ならず、巻物を繰り拡げて見ると、防虫剤らしい、強い香気を放つ白い粉が、サラサラと光って机の上に散り落ちた。次に開いた調査書類も同様で防虫剤こそ 施(ほどこ)してないが、パラパラと頁(ページ)を繰って行くうちに、埃臭い香(かおり)がウッスリと鼻に迫って来る。いずれにしても最近に人の手が触 れなかった事は確かである。  私はそれから尚(なお)念のために、フールスカップを綴じ合せた正木博士の遺言書を開いて見た。そうして最後の二三頁を繰り返して見たが、今朝(けさ )まではインキが乾いて間もない、青々としたペンの痕跡(あと)に見えたのが、今はスッカリ真黒くなって、行と行との間には黄色い黴(かび)さえ付いて いるようである。どう見ても二日や三日前に書いたものとは思えないのであった。  私は不思議から不思議へ釣り込まれつつ、最前正木博士がした通りにその調査書類を風呂敷の外へ抱え出してみた。すると意外にもその下に、一枚の古ぼけ た新聞の号外が下敷になっているのを発見した。これは最前、正木博士がこの風呂敷をハタイタ時には、確かに存在していなかったものであった。  私はキョロキョロとそこいらを見廻した。  私はこの室(へや)の中のどこかに、眼に見えぬ奇術師が居て、手品を使っているとしか思えなかった。それとも私の精神が又も変調を起して、何かの幻覚 に陥っているのではないか知らんと思い思い、こわごわその号外を取上げて見たが、八ツに折られた新聞紙一頁大の右肩にトテツもない大きな活字で印刷して ある標題を読むと思わず「アッ」と叫び声を挙げた。背後の廻転椅子に引っかかってヨロメキ倒れそうになった。  それは大正十五年の十月二十日……正面の壁のカレンダーが示す斎藤博士の命日の翌日……正木博士が自殺したと若林博士が言ったその日に、福岡市の西海 新聞から発行されたもので、頁の左肩には鼻眼鏡を光らして、義歯をクワット剥出(むきだ)した正木博士の笑い顔が、五寸四方位の大きさに目の荒い粗(あ ら)い写真版で刷り出してあった。    九大精神病学教授     正木博士投身自殺す       同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有(けう)の惨殺事件曝露す 今(こん)二十日午後五時頃、九州帝国大学精神病学教授、従六位医学博士正木敬之氏が溺死体となって、同大学医学部裏手、馬出浜(まえだしはま)、水族 館附近の海岸に漂着している事が発見されたので、同大学部内は目下非常な混雑を極めている。然(しか)るにその混雑に依って、その以前の昨十九日正午頃 、同精神病学教室に於ける同博士独特の創設に係る「狂人の解放治療場」内に於て、一狂少年が一狂少女を惨殺し、引続いて場内にありし数名の狂人に即死、 もしくは瀕死の重傷又は軽傷を負わしめ、これを制止せむとした看視人までも重傷せしめた事件が端(はし)なくも曝露したので、大学当局は勿論、司法当事 者に於ても狼狽(ろうばい)措(お)くところを識(し)らず、目下極秘密裡に厳重なる調査を進めている。    狂少年鍬を揮(ふる)って      五名の男女を殺傷           治療場内一面の流血※[#感嘆符三つ、626-10] 昨十九日(火曜日)正午頃、事件勃発当時、同科担任教授正木博士は同科教授室に於て午睡しおり、同解放治療場内には平常の通り十名の患者が散在して各自 思い思いの狂態を演じつつあったが、その時一隅に畠を耕していた足立儀作(仮名六〇)が午砲と同時に看護婦が昼食を報ずる声を聞いて、使用していた鍬を 投げ棄てて病室に去るや、以前から儀作の動静(ようす)を覗(うかが)っていたらしい狂少年、福岡県早良(さわら)郡姪(めい)の浜(はま)町一五八六 番地農業、呉八代の養子にして同女の甥に当る一郎(二〇)は突然、その鍬を拾い上げて、傍(かたわら)に草を植えていた狂少女、浅田シノ(仮名一七)の 後頭部を乱打し、血飛沫(ちしぶき)の中に声も立て得ず絶息せしめた。かくと見た同治療場の監視人で柔道四段の力量を有する甘粕藤太(あまかすとうた) 氏は、直ちに急を呼びつつ場内に駆け入ったが、時既に遅く、場内に居った政治狂の某、及(および)、敬神狂の某の二名は、少女シノを救うべく呉一郎に肉 迫すると見る間に、前者は横頬を、後者は前額部を呉一郎の鍬の刃先にかけられ、朱(あけ)に染まって砂の上に昏倒した。この時、隙間(すきま)を発見し た甘粕氏は一郎の背後から組み付いて、一気に締め落そうと試みたが、一郎の抵抗力意想外に強く、鍬を投げ棄てて甘粕氏の両腕を掴み、体量二十貫の同氏の 全身を縦横上下に水車(みずぐるま)の如く振り廻しつつ引き離そうとするので、流石(さすが)の甘粕氏も必死となり、振り離されまいとのみ努力するうち 、呉一郎が過(あやま)って狂女の作った落し穴に片足を踏み込んだ拍子に肩を隙(す)かされて同体に倒れると、身を替(かわ)す暇もなく本館軒下の敷石 に肋骨を打ち付けて人事不省に陥った。この時同治療場の入口には甘粕氏の声を聞き付けた数名の男看護人、及小使、医員等が駆け付けおり、中には柔道の心 得のある者も在ったが、再び治療場の中央に進み出で、落した鍬を拾い上げた呉一郎が、返り血を浴びたまま顔色蒼白となって四辺(あたり)を睥睨(へいげ い)しつつ「俺の事業(しごと)を邪魔するかッ」と叫んだ剣幕に呑まれて一人も入場し得なくなった。その間(かん)に場内の一隅に眼を転じた一郎は顔色 忽(たちま)ち旧(もと)に帰り、ニコニコ然と微笑し初め、血に染まった鍬を取り直しつつそこに佇立していた二名の女に迫り、まず舞踏狂の少女某を畑の 隅に追い詰めて眉間を打ち砕き、続いて最前から女王の姿に扮装しつつ平然として場内を逍遥し続けていた年増(としま)女に近づいて行ったが、同女が ※(「厂+萬」、第3水準1-14-84) 声(れいせい)一番、「無礼者。妾(わらわ)を知らぬか」と一睨(いちげい)すると、呉一郎は愕然たる面(おも)もちで鍬を控えて立止ったが、「アッ。 貴女(あなた)は楊貴妃様」と叫びつつ砂の上に跪座(きざ)した。その時に辛(かろ)うじて意識を回復した甘粕氏は苦痛を忍びつつ起き上り、場(じょう )の入口を開いて逃げ迷うていた狂人たちを外へ出すと、又も安心のためか気が遠くなって打ち倒れた。そのあとから呉一郎も鍬を片手に、片脇には最初の犠 牲、浅田シノの死骸を軽々と引き抱えつつ、女王姿の狂女に一礼して流血淋漓(りんり)たる場内を出で、悠々と自分の病室、七号室に帰って行ったが、皆手 を束(つか)ねて戦慄しつつ遠くから傍観するばかりであったという。    狂少年の自殺      平然たる正木博士 この時急を聞いて駆け付けた正木博士は、極めて平然たる態度で医員を指揮しつつ暴れ狂う一郎の手からシノの死骸と鍬を奪い取り、一郎に狂人制御(せいぎ ょ)用袖無しシャツを着せ、足枷(あしかせ)を加えて七号室に監禁する一方、被害者シノ以下四名の男女患者に応急の手当を施(ほどこ)したが、その中二 名の男子患者はいずれも致命傷ではないが生死の程はまだ見込み立たず、又、二名の少女は共に頭蓋骨を粉砕されているので手の下しようなく、この旨(むね )それぞれの近親に急報した。同時に正木博士は単身七号室に引返し、前に監禁した一郎の様子を見に行ったところ、同人は病室の壁に頭を打ち付けて絶息し ているのを発見し、急遽(きゅうきょ)医員を呼んだので又も大騒ぎとなった。而(しか)してその騒ぎが一先(ひとま)ず落着し、それぞれの処置を終ると 間もなく、正木博士は同教室を出たものらしく、午後二時半頃、医員山田学士が「呉一郎は回復の見込あり」という報告を為(な)すべく、同教授を探しまわ った時には、最早(もはや)、同科教室及病院内のどこにも正木博士の姿を発見し得なかったという。    解放治療は      予想通りの大成功        と正木博士放言す! 然(しか)るにその間(かん)に於て正木博士は同大学本部に到り、松原総長に面会して声高に議論していた事実がある。その議論の内容の詳細は判明しない が「狂人の解放治療の実験は今回の出来事に依(よ)って予想通りの大成功に終りました」と繰り返して放言し「同解放治療場は今日限り閉鎖を命じておきま した。永々御厄介をかけましたが御蔭(おかげ)で都合よく実験を終りまして感謝に堪えませぬ。(註=同治療場は正木博士が総長の許可を得て、私費を以て 開設していたもので、これに附属する雇員等も同博士から直接に給与されていたものである)なお私の辞表は明日提出致します。後(あと)の事は若林学部長 に委託してありますから」云々と云い棄てて、呵然(かぜん)大笑しつつ扉(ドア)を押し開き、どこへか立ち去ったとの事で、総長室の隣室で聞いていた事 務員連は皆、同教授の発狂を疑いつつ顔を見合わせつつ震え上ったという。    鼾声(かんせい)雷(らい)の如く      酔臥(すいが)して後(のち)行衛を晦(くら)ます 正木博士は総長室を出ると無責任にも死傷せる患者を医員連の看護に一任したまま帰途に就いた模様であるが、その途中どこかで飲酒泥酔したらしく、その夕 方、福岡市湊町(みなとまち)の下宿に帰って二三時間のあいだ雷(らい)の如き鼾声(かんせい)を放って熟睡していた。それから同夜九時頃になると「飯 喰いに行って来る」と称して飄然(ひょうぜん)として下宿を出でそのまま行衛(ゆくえ)を晦(くら)ましたとの事であるが、仄聞(そくぶん)するところ に依れば窃(ひそ)かに九大精神病科の自室に引返し徹宵(てっしょう)書類を整理していたともいう。    狂人を模倣した      気味悪い屍体 然るに本日午後五時頃、大学裏海岸を通りかかった沙魚(はぜ)釣り帰りの二名の男が、海岸に漂着している一個の奇妙な溺死体を発見し、この旨(むね)箱 崎署に届出たので万田(まんだ)部長、光川(みつかわ)巡査が出張して取調べたところ、懐中の名刺により正木博士である事が判明したので又々大騒ぎとな り、福岡地方裁判所から熱海判事、松岡書記、福岡警察署より津川警部、長谷川警察医外一名、又、大学側からは若林学部長を初め川路(かわじ)、安楽(あ んらく)、太田、西久保の諸教授、田中書記等が現場に駆け付けたが、検案の結果同博士は、同海岸水族館裏手の石垣の上に帽子と葉巻きの吸いさしを置き、 診察服を着けたまま手足を狂人用鉄製の手枷足枷(てかせあしかせ)を以て緊縛し、折柄の満潮に身を投じたものらしく、死後約三時間を経過しているので救 急の法も施(ほどこ)しようがなかった。而(しか)して右に就いては若林学部長その他関係者一同口を緘(かん)して一語をも洩らさず、前記の大惨事と共 に極力秘密裡に葬り去ろうとした模様であるが、本社の機敏なる調査に依って、かく真相が曝露したものである。因(ちな)みに正木博士の自殺原因に就ては 遺書等も見当らぬらしく、下宿の書庫机上等も平生の通りに整頓してあって何等の異状をも認めなかったそうである。又飲酒泥酔して下宿に帰り、或(あるい )は散歩と称して外出して帰宅しない事も、従来毎月一二回宛(ずつ)あった事とて下宿の者も何等怪しまなかったという。    奇怪な謎      狂少年の一語 右に就て同解放治療場の監視人であった甘粕藤太氏は、負傷した胸部に繃帯を施したまま市内鳥飼(とりかい)村自宅に於てかく語った。  全く不意の出来事で、こんな事なら初めからあのような役目を引き受けなければよかったと後悔しています。しかし責任は無論私にあるでしょうし、殊に狂 人の解放治療場は昨日限り閉鎖されているそうですから、取り敢(あえ)ず正木先生の手許へ辞表を出して謹んでおります。あれが気違い力というものでしょ うか、意想外の強力(ごうりき)で力を入れ切っておりますところへ不意に肩をすかされましたために思わぬ不覚を取りまして二度も気絶して面目次第も御座 いません。しかし二度目の気絶からはすぐに覚醒しましたので、私は三名の医員と共に七号病室に駆け付けまして、一郎を取り押えようとしましたが、血に狂 った一郎は手にせる鍬(くわ)を竹片(たけぎれ)の如くブンブンと振りまわして「見に来てはいけない見に来てはいけない」と叫びますので、非常に危険で 近寄れません。そこへあとから駆け付けられた正木先生の顔を見ると、呉一郎は忽(たちま)ち鎮静しまして、嬉し気に一礼しつつ血に塗(まみ)れて床の上 に横たわっている少女シノの半裸体の屍体を指して「お父さん、この間あの石切場で、僕に貸して下すった絵巻物を、も一ペン貸して下さいませんか。こんな いいモデルが見つかりましたから……」という奇怪な一語を発しました。これを聞かされた正木先生は何故か非常に昂奮された模様で、今思い出しても物凄い ほど真青な顔になって私たちを見まわされましたが、そのまま「何をタワケた事を云うかッ」と大喝されますと、単身呉一郎に組み付いて取押えられたのであ ります。それから暫くはお顔の色が悪いようでしたが、呉一郎が壁に頭を打付けて絶息しました後(のち)は気力を回復されたらしく、あれ程の大事件のさな かにも拘わらず、快濶(かいかつ)にキビキビと種々(いろいろ)の指図をしておられました。(記者が一郎の蘇生せる旨を告ぐれば)ヘエ。それは本当です か。私が見ました時は顔中血だらけになっておりましたし、正木先生も急激な脳震盪(のうしんとう)で呼吸も止まっているから迚(とて)も助からぬと云う ておられましたが、やはり、手足が不自由なまま、壁に頭を打ち付けたのですから、そう強くなかったのでしょう。(次いで正木博士の自殺を告げ死因に就て の心当りを問えば甘粕氏は愕然蒼白となり流涕(りゅうてい)して唇を震わしつつ)それは本当ですか。本当ならば私はこうしておられません。正木先生には 大恩があります。私が先年亜米利加(アメリカ)で流浪しておりますうちに市俄古(シカゴ)附近で肺炎にかかり誰も構ってくれ手がなくなりましたところを 正木先生に拾われまして入院さして頂きました。その時に正木先生はもしこの恩が報じたければ福岡へ住んで俺が帰るのを待っておれと云われまして沢山の旅 費まで頂きましたので、帰国匆々(そうそう)当地の英和学院の柔道師範を奉職していたのですが、正木先生が大学に来られるとすぐに辞職して治療場の監視 をお引き受けした位です。正木先生は何でも楽観される方で私も私淑しておりましたが人格の高い方でしたから責任観念も強かったのでしょう。云々。    姪の浜の大火      名刹(めいさつ)如月寺(にょげつじ)に延焼             放火女無残の焼死を遂(と)ぐ  本日午後六時頃福岡県早良郡姪の浜一五八六呉ヤヨ方母屋奥座敷より発火し、人々驚きて駆け付ける間もなく打ち続く晴天と折柄(おりから)の烈風に煽( あお)られて火勢忽(たちま)ち猛烈となり、数棟の借家を含みたる同家は見る見る一団の大火焔に包まれると見る中(うち)に程近き如月寺(にょげつじ) 本堂裏手に飛火(とびひ)し目下盛んに延焼中であるが、遠距離の事とて市中の消防は間に合わず、附近の消防のみにては手に余る模様である。而(しか)し て右放火者と認めらるる呉ヤヨ(前記呉一郎伯母四〇)は寺院本堂の猛火に飛び入り衆人環視の裡(うち)に無残の焼死を遂(と)げたが、同女は今春、ただ 一人の娘を喪(うしな)いたる際より多少精神に異状を呈しおりたるところ、本日又最愛の甥一郎が変死した噂が同地方に伝わっていたのを耳にしたために一 層錯乱昂奮してこの始末に及んだものであろうと。        ――――――――――――――――――――  この号外から顔を上げた私は、頭を押え付けられたようになったまま、オズオズとそこいらを見まわした。  すると間もなく、すぐ鼻の先に拡げられた青い風呂敷のまん中に、今まで号外の下になっていたらしい一枚のカードみたようなものが見つかった。……オヤ ……まだこんなものが残っていたのか……と思い思い立ち上って覗き込んでみると、それは一枚の官製端書(はがき)の裏面で見覚えのある右肩上りのペン字 が、五六行ほど書きなぐってあった。  面目無い  S先生と酒を飲んだのも僕だ  生れかわって遣り直す  忰(せがれ)と嫁の将来を頼む     二十日午後一時    Mより  W兄 足下  私の手から号外が力なくヒラヒラと辷(すべ)り落ちた。それと同時に室(へや)全体が、私の身体(からだ)と一緒にだんだんと地の底へ沈んで行くよう に感じた。  私はヨロヨロとよろめきながら立ち上った。吾(われ)ともなくヨチヨチと南側の窓に近付いた。  向うの屋根から突き出た二本の大煙突の上に満月がギラギラと冴え返っている。その下に照し出された狂人の解放治療場は闃寂(げきせき)として人影もな く、今朝(けさ)までは一面の白砂ばかりの平地に見えていたのが、今は処々に高く低く、枯れ草を生やした空地となって、そのまん中に、いつの間にか一枚 も残らず葉を振い落した五六本の桐の木が、星の光りを仰ぎつつ妙な枝ぶりを躍らしている。 「……不思議だ……」  と独語(ひとりごと)を洩らしつつ頭に手を遣(や)って見ると……又も不思議……今朝から私が感じていた奇怪な頭の痛みは、どこを探しても撫でまわし てもない。拭いて取ったように消え失せていた。  私はその痛みの行衛(ゆくえ)を探すかのように、片手で頭を押えたまま、黄色い光線と、黒い陰影(かげ)の沈黙(しじま)を作っている部屋の中を見ま わした。そうして又、白金色(プラチナ)に冴え返っている窓の外の月光を見た……………………………………………………………………………。  ……その時であった……。  ……一切の真相が、氷のように透きとおって、私の前に立ち並んで見えて来たのは……………………………………………………………………………………… …………。 ……不思議ではない。 ……チットモ不思議ではない。 ……私は今朝(けさ)から二重の幻覚に陥っていたのだ。正木博士の所謂(いわゆる)離魂病にかかっていたのだ。 ……私は今から一箇月前の十月二十日にも、やはり、きょうとソックリの夢遊を行ったに違いないのであった。 ……その一箇月前の十月二十日の早朝の、やはりまだ真暗(まっくら)いうちのこと……私は彼(か)の七号室のタタキの上に、今朝の通りの姿で寝ていて、 今朝の通りの状態で眼を見開いたのであった。自分の名前を探すべくウロタエまわったのであった。 それから……若林博士に会って、私の過去の記憶を回復すべく、今朝の通りの実験を色々と受けた揚句(あげく)に、この室(へや)に連れ込まれて、やはり 今朝と同じ順序で、いろんな物を見たり聞いたりしたのであった。 ……それから遺言書を読み終った私は間もなく、その遺言書を書いた当の本人の正木博士に会って、きょうの通りに肝を潰した。そうしてその正木博士の案内 で、南側の窓の外を覗くと、その前日限りに閉鎖されたまんまの解放治療場内の光景を見ると同時に私は、自分の過去の記憶の中でも、一番最近の記憶に支配 された夢中遊行に陥って、やはりその前日のちょうど、その時刻に、そこで、そうしていた通りに、爺さんの畠打(はたう)ちを見物している自分の姿を窓の 外に幻覚した。そうして、それと同時に、やはり、その前の晩に、頭を壁に打ち付けた際に出来た頭の痛みを、無意識に手に触れて飛び上ったのであった。 ……その時に正木博士は、やはり、今日と同じように離魂病の説明を聴かしてくれたのであるが、その説明は矢張(やは)り真実であったのだ。 ……とはいえ……その時に、あまりに深い幻覚に囚(とら)われていたために、それを信ずる事が出来なかった私は、それから正木博士と対座して、あの通り の議論をした揚句に、正木博士をメチャクチャに遣っ付けてしまった。トウトウ本当に自殺の決心をさせてしまったのであった。 ……けれども私は、そんな事とは気付かないままこの室に居残って、この絵巻物の一番おしまいに書いてある千世子の和歌を発見した。そうして今日の通りに 驚いて外に飛び出して、福岡の町々を歩きまわっているうちにこの室に拡げたままにして来た絵巻物の事を思い出して、又も、きょうの通りに無我夢中で飛ん で帰ったのであった。……もしかすると正木博士は、後で今一度この室に引返して来て、拡げたままの絵巻物のおしまいに書いてある千世子の和歌を発見した のかも知れない。そうして、そこでイヨイヨの覚悟を決めたのかも知れないけれども…………。 ……そうした出来事を一箇月後の今日になって、私は又、その通りの暗示の下に、寸分違(たが)わず正確に繰り返しつつ夢遊して来たに過ぎないのだ。…… 否……事によると、今朝あんなに早く、時計の音に眼を醒ました事からして一種の暗示に支配されていたのかも知れない……若林博士がホンノ思い付きで云っ た「一箇月後」という言葉をその通りに記憶していた私の潜在意識が、その一箇月後の今朝になってキッカリと私を呼び醒ましてくれたのかも知れない……が ……いずれにしても今日の午前中、私が色んな書類を夢中になって読んでいるうちに、若林博士がコッソリと立ち去った後にはこの室の中に誰も居なかったの だ。正木博士も、禿頭(はげあたま)の小使も、カステラも、お茶も、絵巻物も、調査書類も、葉巻の煙も何もかも、みんな私の一箇月前の記憶の再現に過ぎ ないのだ。たった一人で夢遊中の夢遊を繰返していたに過ぎなかったのだ。 ……私の頭は、そこまで回復して来たまま、同じ処ばかりをグルグルまわっているのだ。 ……そうでないと思おうとしても、そうした不思議な事実の証拠の数々が、現在、生き生きと私の眼の前に展開して、私に迫って来るのをどうしよう。ほかに 解決のし方がないのをどうしよう……。 ……若林博士は、そうした私の頭を実験するために、一箇月前と同じ手順を繰り返しつつ、私をこの室に連れ込んだものに違いない。そうして多分一箇月前( ぜん)もそうしたであろう通りに、どこからか私を監視していて、私の夢遊状態の一挙一動を細大洩らさず記録しているに違いない……否々……否々……きょ うは、大正十五年の十一月二十日、と云った若林博士の言葉までも嘘だとすれば、私はもっともっと前から……ホントウの「大正十五年の十月二十日」以来、 何度も何度も数限りなく、同じ夢遊状態を繰り返させられている事になるではないか……そうしてその一挙一動を記録に残されている事になるではないか…… …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… …………… ……オオ……若林博士こそ世にも恐ろしい学術の権化(ごんげ)なのだ。……精神科学の実験と、法医学の研究とを同時に行っている……。 ……極悪人と名探偵とを兼ねている……。 ……正木博士と、呉家の運命と、福岡県司法当局と、九大の名誉と……この事件に関する出来事の一切合財をタッタ一人で人知れず支配し、飜弄している…… 。 ……そうして知らん顔をしている怪魔人…………。  私は云い知れぬ戦慄が、全身の皮膚を暴風のように這いまわり、駆けめぐるのを感じ初めた。歯の一枚一枚がカチカチと打ち合うのを止める事が出来なくな った。……部屋の中の全体がどことなく、大きく開いた若林博士の口腔の恰好に似て来たように思いつつ……そのまん中に突立って、煽風機(せんぷうき)の ように廻転する自分の頭の中を、眼の奥底に凝視しつつ…………。 ……けれども……。 ……けれども、もしそうとすれば、私は是非とも呉一郎でなければならぬ…………。 ……お……オオ……私が……アノ呉一郎…………。 ……あの正木博士が私の父親……。 ……あの千世子が私の母親……。 ……そうしてアノ狂える美少女……モヨ子…………モヨ子は…………。 ……おお……おお…………。 ……私は親を呪い、恋人を呪い、最後に見ず識(し)らずの男女数名の生命(いのち)までも奪うべく運命づけられた、稀有(けう)の狂青年であったのか… ………。 ……死んだ父親の罪悪を、白昼公然と発(あば)き立てている、冷酷無残な精神病者であったのか……。 「アアッ……お父オさア――ン……お母アさ――ン……」  と叫んだが、その声は自分の耳には這入らなかった。ただ嘲(あざ)けるような反響を室の隅々に聞いただけであった。  私はそのまま下顎を固張(こわば)らせつつ、森閑(しんかん)とゆらめく電燈の光りを振り返った。大きな歎息をした後のように静まり返っている室の中 を見まわした。  ……意識の力はどこまでもハッキリしたまま……うつつともなく、夢ともなく、私の眼の前の床が向うの方に傾くにつれて、半分(なかば)開いた入口の方 向を眼指(めざ)しつつ蹌踉(ひょろひょろ)と歩み出した。 「出入厳禁」と書かれた白紙を扉(ドア)の外から振り返った。  ……しっかりせねばならぬ……どこまでも理性を働かせねばならぬ……と思いつつ白い月の光りがさし込んでいる窓付きの廊下を、右に左に傾き歩いた。  玄関の左右に並んだ真暗な階段の左側を、棒のように強直(ごうちょく)しつつ……ゴト――ン……ゴト――ン……という自分の足音を聞きつつ……一段一 段と降りて行った。そのおしまいがけに、もう床に行き着いたと思うと、私の足は空を踏んで、全身が軽々とモンドリを打った……ように思う。  それから私はどうして起き上ったか、どこをどう歩いて行ったかわからない。いつの間にか自然と七号室の扉(ドア)の前に来て、石像のように突立ってい る私自身を発見した。  私は何かしら思い出せない事を、一所懸命に考え詰めた揚句(あげく)に、思い切ってその扉を開いて中に這入った。今朝(けさ)のままになっている寝台 の上に、靴穿(ば)きのまま這い上って、仰向けにドタリと寝た。その頭の処で、扉がひとりでに閉まって来て重々しい陰鬱な反響を部屋の内外に轟かした。  ……すると、それと殆ど同時に、混凝土(コンクリート)の厚い壁を隔てた隣りの六号室から、魂切(たまぎ)るような甲高(かんだか)い女の声が起った 。 「兄さん兄さん……兄さんに会わして下さい。今お帰りになったようです。あの扉(ドア)の音がそうです。兄さんに会わして下さい……イイエイイエ……妾 (あたし)は狂女(きちがい)じゃありません……兄さんの妹です。妹です妹です……兄さん兄さん。返事して頂戴……妾です妾です妾です妾です」 ………………………………………………………………………………………………………………これが胎児の夢なんだ………………………………………………… ……………。 ……と私は眼を一パイに見開いたまま寝台の上に仰臥して考えた。 ……何もかもが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声も……この暗い天井も……あの窓の日の光も……否々……今日中の出来事はみんなそうなんだ……。 ……俺はまだ母親の胎内に居るのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見て藻掻(もが)き苦しんでいるのだ……。 ……そうしてこれから生れ出ると同時に大勢の人を片(かた)ッ端(ぱし)から呪い殺そうとしているのだ……。 ……しかしまだ誰も、そんな事は知らないのだ……ただ俺のモノスゴイ胎動を、母親が感じているだけなのだ。  私の寝ている横のコンクリートの壁を向側からたたく音がし初めた。 「……兄さん兄さん。一郎兄さん。あなたはまだ妾(あたし)を思い出さないのですか。あたしですあたしです……モヨ子ですよ……モヨ子ですよ。返事して 下さい……返事して……」  と二三度連続して叩いたと思うと、痛々しい泣声にかわって、何かの上にひれ伏した気はいである。  私は寝台の上に長々と仰臥したまま、死人のように息を詰めていた。眼ばかりを大きく見開いて…………………………………。  ……ブ…………ンンンンン……  という時計の音が、廊下の行き当りから聞えて来た。  隣室(となり)の泣声がピッタリと止んだ。それにつれて又一つ……  ……ブ――――ン……  という音が聞えて来た。前よりもこころもち長いような……私は一層大きく眼を見開いた。  ……ブ――――ン……  ……という音につれて私の眼の前に、正木博士の骸骨みたような顔が、生汗(なまあせ)をポタポタと滴(た)らしながら鼻眼鏡をかけて出て来た……と思 うと、目礼をするように眼を伏せて、力なくニッと笑いつつ消え失せた。  ……ブ――――ン……  夥しい髪毛(かみのけ)を振り乱しつつ、下唇を血だらけにした千世子の苦悶の表情が、ツイ鼻の先に現われたが、細紐で首を締め上げられたまま、血走っ た眼を一パイに見開いて、私の顔をよくよく見定めると、一所懸命で何か云おうとして唇をわななかす間もなく、悲し気に眼を閉じて涙をハラハラと流した。 下唇をギリギリと噛んだまま見る見るうちに青褪(あおざ)めて行くうちに、白い眼をすこしばかり見開いたと思うと、ガックリとあおむいた。  ……ブ――――ン……  少女浅田シノのグザグザになった後頭部が、黒い液体をドクドクと吐き出しながらうつむいて……。  ……ブ――――ン……  八代子の血まみれになった顔が、眼を引き釣らして……。  ……ブ――ンブ――ンブ――ンブ――ンブ――ン……  頬を破られたイガ栗頭が……眉間を砕かれたお垂髪(さげ)の娘が……前額部の皮を引き剥がれた鬚(ひげ)だらけの顔が……。  私は両手で顔を蔽(おお)うた。そのまま寝台から飛び降りた。……一直線に駆け出した。  すると私の前額部が、何かしら固いものに衝突(ぶっつか)って眼の前がパッと明るくなった。……と思うと又忽(たちま)ち真暗になった。  その瞬間に私とソックリの顔が、頭髪(かみのけ)と鬚を蓬々(ぼうぼう)とさして凹(くぼ)んだ瞳(め)をギラギラと輝やかしながら眼の前の暗(やみ )の中に浮き出した。そうして私と顔を合わせると、忽(たちま)ち朱(あか)い大きな口を開いて、カラカラと笑った……が…… 「……アッ……呉青秀……」  と私が叫ぶ間もなく、掻き消すように見えなくなってしまった。  ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。 __________________________________________________________________ 底本:「夢野久作全集9」ちくま文庫、筑摩書房    1992(平成4)年4月22日第1刷発行    2002(平成14)年9月5日第4刷発行 初出:「ドグラ・マグラ」松柏館書店    1935(昭和10)年1月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※このファイル中で注記している最大の文字は「6段階大きな文字」です。6段階大きな文字は、高さと幅が本文で使われている文字の2倍強程度の大きさで す。 なお、文字の大きさの注記は、論文のタイトルや新聞の見出しを想定している箇所など、文字が本文より特に大きい箇所のみにつけました。 ※「キチガイ地獄外道祭文」「十」の葉書中、切手を貼る位置を示す罫は、底本では波線です。 入力:砂場清隆 校正:ドグラマグラを世に出す会 2007年11月29日作成 2011年5月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました.入力、校正、制作にあたった のは、ボランティアの皆さんです。 __________________________________________________________________ ●表記について * このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 * [#…]は、入力者による注を表す記号です。 * 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。 * この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示 しました。 「隱」の「こざとへん」に代えて「りっしんべん」、U+61DA 487-14 感嘆符三つ 626-10 __________________________________________________________________ ●図書カード