愛ちやんの夢物語 ALICE'S ADVENTURES IN WONDERLAND. レウィス、キァロル Lewis Carroll 丸山英觀訳 はしがき 此書(これ)は有名(いうめい)なレウィス、キァロルと云(い)ふ人(ひと)の筆(ふで)に成(な)つた『アリス、アドヴェンチュアス、イン、ワンダー ランド』を譯(やく)したものです。邪氣(あどけ)なき一少女(せうぢよ)の夢物語(ゆめものがたり)、滑稽(こつけい)の中(うち)自(おのづか)ら 教訓(けうくん)あり。むかし、支那(しな)の莊周(さうしう)といふ人(ひと)は、夢(ゆめ)に胡蝶(こてふ)と化(な)つたと云(い)ふ話(はな) しがありますが、夢(ゆめ)なればこそ、漫々(まん/\)たる大海原(おほうなばら)を徒渉(かちわた)りすることも出來(でき)ます、空飛(そらと) ぶ鳥(とり)の眞似(まね)も出來(でき)ます。世(よ)に夢(ゆめ)ほど面白(おもしろ)いものはありません。今(いま)少時(しばし)、※(ねえ) [#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、1-7]さんの膝(ひざ)を枕(まくら)の假寐(かりね)に結(むす )んだ愛(あい)ちやんの夢(ゆめ)、解(と)いてほどけば美(うつく)しい花(はな)の數々(かず/\)、色鮮(いろあざや)かにうるはしきを摘(つ )みなして、この一篇(ぺん)のお伽噺(とぎばなし)は出來(でき)あがつたのです。 明治四十二年十二月 譯者 [#改丁] 第一章  兎(うさぎ)の穴(あな)へ  愛(あい)ちやんは、※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、1-4]さんと堤(どて)の上(う へ)にも坐(すわ)り勞(つか)れ、その上(うへ)、爲(す)ることはなし、所在(しよざい)なさに堪(た)へ切(き)れず、再三(さいさん)※(ねえ )[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、1-5]さんの讀(よ)んでる書物(ほん)を覘(のぞ)いて見(み )ましたが、繪(ゑ)もなければ會話(はなし)もありませんでした。愛(あい)ちやんは、『繪(ゑ)もなければ會話(はなし)もない書物(ほん)が何( なん)の役(やく)に立(た)つだらうか?』と思(おも)ひました。  それで愛(あい)ちやんは、慰(なぐさ)みに雛菊(ひなぎく)で花環(はなわ)を造(つく)つて見(み)やうとしましたが、面倒(めんだう)な思(お も)ひをしてそれを探(さが)したり摘(つ)んだりして勘定(かんぢやう)に合(あ)ふだらうかと、(暑(あつ)い日(ひ)で直(すぐ)に眠(ねむ)く なつたり、 ※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81) 然(ぼんやり)するものだから一心(しん)に)心(こゝろ)の中(うち)で考(かんが)へてゐますと、突然(とつぜん)可愛(かあい)い眼(め)をした 白兎(しろうさぎ)が、その傍(そば)に驅(か)け寄(よ)つて來(き)ました。  が、これぞと云(い)ふ程(ほど)の事(こと)もありませんでした。又(また)愛(あい)ちやんは、兎(うさぎ)が途(みち)から駈(か)け出(だ) して來(き)て、『あァ/\遲(おそ)くなつた』なんて云(い)ふだらうとは些(ちつ)とも思(おも)ひませんでした。(後(あと)からよく考(かんが )へて見(み)れば不思議(ふしぎ)だが、其時(そのとき)にはそれが全(まつた)く通常(あたりまへ)のやうに思(おも)はれました)が、其時(その とき)兎(うさぎ)は實際(じつさい)襯衣(チヨツキ)の衣嚢(ポケツト)から時計(とけい)を取出(とりだ)して、それを見(み)てゐましたが軈(や が)て駈(か)け出(だ)しました、愛(あい)ちやんも亦(また)駈(か)け出(だ)しました。愛(あい)ちやんは兎(うさぎ)が襯衣(チヨツキ)の衣 嚢(ポケツト)から時計(とけい)を取出(とりだ)して、面白(おもしろ)さうにそれを燒(や)いて了(しま)うなんてことを、是(こ)れまで决(けつ )して見(み)たことがないわと心(こゝろ)に一寸(ちよつと)思(おも)ひました。愛(あい)ちやんは野原(のはら)を横斷(よこぎ)つて其後(その あと)を追蒐(おツか)けて行(い)つて、丁度(ちやうど)それが生垣(いけがき)の下(した)の大(おほ)きな兎穴(うさぎあな)に跳(と)び下(お )りるのを見(み)ました。  直(す)ぐ其後(そのあと)から愛(あい)ちやんも下(お)りて行(ゆ)きました。今度(こんど)は何(ど)うして出(で)て來(こ)やうかと云(い )ふやうなことは些(ちつ)とも考(かんが)へずに。 白兎の図  兎(うさぎ)の穴(あな)は暫(しばら)くの間(あひだ)隧道(トンネル)のやうに眞直(まつすぐ)に通(つう)じて居(ゐ)ました。止(と)まらう と思(おも)ふ隙(ひま)もない程(ほど)急(きふ)に、愛(あい)ちやんは非常(ひじよう)に深(ふか)い井戸(ゐど)の中(なか)へ落(お)ちて、 びッしよりになりました。  井戸(ゐど)が深(ふか)かつたのか、それとも自分(じぶん)の落(お)ちるのが極(きは)めて徐(のろ)かつた所爲(せゐ)か、落(お)ち切(き) つてから身(み)の周(まは)りを見廻(みまは)し、此先(このさき)何(ど)うなるだらうかと疑(うたが)ひ出(だ)した迄(まで)には隨分(ずゐぶ ん)長(なが)い間(あひだ)經(た)ちました。最初(さいしよ)愛(あい)ちやんは下(した)を見(み)、それから今迄(いまゝで)の事(こと)を知 (し)らうとしましたが、眞暗(まツくら)で何一(なにひと)つ見(み)えませんでした。乃(そこ)で愛(あい)ちやんは井戸(ゐど)の四方(はう)を 見(み)て、其處(そこ)が蠅帳(はへちやう)や棚(たな)で一ぱいになつてることを知(し)りました。此處彼處(こゝかしこ)に地圖(ちづ)も見(み )えれば、木釘(きくぎ)には數多(あまた)の繪(ゑ)も掛(かゝ)つて居(ゐ)ました。過(す)ぎがてに愛(あい)ちやんは、棚(たな)の一(ひと) つから一個(こ)の甕(かめ)を取下(とりおろ)しました、それには『橙糖菓(オレンジたうくわ)』と貼紙(はりがみ)してありましたが、空(から)だ つたので大(おほ)いに失望(しつばう)しました。愛(あい)ちやんは脚下(あしもと)の生物(いきもの)を殺(ころ)すのを恐(おそ)れて其甕(その かめ)を放(はふ)り出(だ)さうとはせず、其處(そこ)を通(とほ)りがけに蠅帳(はへちやう)の一(ひと)つに其(そ)れを藏(しま)ひました。 『よし、此(この)流(なが)れに隨(つ)いて行(ゆ)けば、梯子段(はしごだん)を轉(ころ)がり落(お)ちる氣遣(きづか)ひもなし!家(うち)に 居(ゐ)る皆(みンな)がどの位(くらゐ)私(わたし)を大膽(だいたん)だと思(おも)ふでせう!さうだ、斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)事(こと)何(なん)にも話(はな)すまい、縱令(よし)屋根(やね)の上(うへ)から落(お)ちても!』愛(あい)ちやんは自(みづか)ら 斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)事(こと)を思(おも)ひました。(どれが眞實(ほんと)のことやら)  下(くだ)るわ、/\、/\。流(なが)れは何處(どこ)まで行(い)つても盡(つ)きないのかしら?『今(いま)までに私(わたし)は幾(いく)哩 (マイル)落(お)ちたかしら?』と愛(あい)ちやんは聲高(こわだか)に云(い)ひました。『私(わたし)は何處(どこ)か地球(ちきう)の中心(ち ゆうしん)近(ぢか)くへ出(で)なければならない。オヤ、どうも四千哩(マイル)下(お)りたらしいよ―』(愛(あい)ちやんは學校(がくかう)の課 業(くわげふ)に斯(か)ういふ風(ふう)な種々(いろ/\)な事(こと)を習(まな)びました、そしてこれが自分(じぶん)の智識(ちしき)を示(し め)すに甚(はなは)だ好(い)い機會(きくわい)ではなかつたが、誰(だれ)も聞(き)いてるものがなかつたので一層(そう)復習(ふくしふ)をする に好(い)い都合(つがふ)でした)『――さア、大分(だいぶ)人里(ひとざと)遠(とほ)く離(はな)れた――緯度(ゐど)や經度(けいど)は何(ど )の邊(へん)まで來(き)てるでせう?』(愛(あい)ちやんは緯度(ゐど)が何(なに)か、經度(けいど)が何(なに)か、其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)事(こと)は些(ちつ)とも知(し)りませんでした、が其言葉(そのことば)を立派(りつぱ)な崇重(そうちやう)な言葉(ことば)だと思( おも)つて居(ゐ)ました)  愛(あい)ちやんは又(また)直(たゞ)ちに斯(か)う云(い)ひ出(だ)しました。『私(わたし)は若(も)しや地球(ちきう)を貫(つらぬ)いて 一直線(ちよくせん)に落(お)ちて行(ゆ)くのぢやないかしら!逆(さか)さになつて歩(ある)いてる人間(にんげん)の中(なか)へ出(で)て行( い)つたらどんなに可笑(をかし)いでせう!オー可厭(いや)なこと、私(わたし)は――』(と云(い)つて、今度(こんど)は正(たゞ)しい言葉(こ とば)が出(で)なかつたものだから、其處(そこ)に誰(だれ)も聞(き)いてるものゝないのを、寧(むし)ろ喜(よろこ)びました)『――でも私(わ たし)は其(その)國(くに)が何(なん)といふ國(くに)だか其(その)人達(ひとたち)に訊(き)いてやりたいわ。ねえ阿母(おかア)さん、ニュー ズィーランドでせう、それともオーストレリア?』 (さう云(い)つて阿母(おかア)さんに寄(よ)りかゝらうとしました――皆(みな)さんが空中(くうちゆう)を落(お)ちて行(ゆ)く時(とき)に寄 (よ)りかゝることを想像(さうざう)して御覽(ごらん)なさい!そんな事(こと)が出來(でき)るものでせうか?)『それで阿母(おかア)さんは、私 (わたし)を何(なん)といふ莫迦(ばか)な娘(こ)だとお思(おも)ひでせう!もう决(けつ)してお尋(たづ)ねしまい、屹度(きつと)何處(どこ) かに書(か)いてあるわ』  下(くだ)るわ、/\、/\。所在(しよざい)なさに、愛(あい)ちやんは又(また)話(はな)し初(はじ)めました。『玉(たま)(猫(ねこ)の名 (な))が屹度(きつと)今夜(こんや)私(わたし)を探(さが)してよ!皆(みンな)が夕飯(ゆうはん)時分(じぶん)に牛乳皿(ぎうにうざら)を出 (だ)してやるのを憶(おぼ)えてゝくれゝば可(い)いが。玉(たま)や、さう/\、お前(まへ)も一緒(しよ)に來(く)れば好(よ)かつたね!空中 (くうちゆう)には鼠(ねずみ)は居(ゐ)ないだらうけど、蝙蝠(かうもり)なら捕(つか)まへられる、それは鼠(ねずみ)に酷(よ)く似(に)てゐる のよ。でも猫(ねこ)が蝙蝠(かうもり)を食(た)べるかしら?』ところで愛(あい)ちやんは徐々(そろ/\)眠(ねむ)くなり、夢(ゆめ)でも見(み )てるやうに『猫(ねこ)が蝙蝠(かうもり)を食(た)べるかしら?猫(ねこ)が蝙蝠(かうもり)を食(た)べるかしら?』と頻(しき)りに云(い)つ てゐましたが、時々(とき/″\)反對(あべこべ)に、『蝙蝠(かうもり)が猫(ねこ)を食(た)べるかしら?』なんて云(い)ひました、それで愛(あ い)ちやんは、どつちが何(ど)うとも其質問(そのしつもん)に答(こた)へることが出來(でき)ませんでした。愛(あい)ちやんは自分(じぶん)が轉 寐(うたゝね)しながら、玉(たま)と手(て)に手(て)を取(と)つて歩(ある)いて居(ゐ)るのを夢(ゆめ)に見(み)て、『さァ玉(たま)ちやん 、眞實(ほんと)の事(こと)をお云(い)ひ、お前(まへ)これまでに蝙蝠(かうもり)を食(た)べたことがあるかい?』と一生懸命(しやうけんめい) になつて云(い)つて居(ゐ)ますと、急(きふ)に、がさッ!/\!といふ音(おと)がして、愛(あい)ちやんは棒(ぼう)ッ切(き)れや枯葉(かれは )の積(つ)み堆(かさ)なつた上(うへ)に下(お)りて來(き)て、水(みづ)の流(なが)れは此處(こゝ)に盡(つ)きました。  愛(あい)ちやんは些(ちツ)とも怪我(けが)をしませんでした、一寸(ちよツと)跳(と)び上(あが)つて上(うへ)を見(み)ましたが頭(あたま )の上(うへ)は眞暗(まツくら)でした。愛(あい)ちやんの前(まへ)には、も一(ひと)つ長(なが)い路(みち)があつて、白兎(しろうさぎ)がま だ急(いそ)いで駈(か)けて行(ゆ)くのが見(み)えました。逡巡(ぐづ/″\)してゐずに愛(あい)ちやんは風(かぜ)のやうに走(はし)りました 、兎(うさぎ)が角(かど)を曲(まが)らうとした時(とき)に、『あれッ、私(わはし)[#ルビの「わはし」はママ]の耳(みゝ)と髯(ひげ)は何( ど)うしたんだらう、遲(おそ)いこと』と云(い)ふのを聞(き)きました。愛(あい)ちやんは其後(そのあと)から直(す)ぐに其角(そのかど)を曲 (まが)りましたが、もう兎(うさぎ)の姿(すがた)は見(み)えませんでした。愛(あい)ちやんは屋根(やね)からずらりと一列(れつ)に吊(つ)ら れた洋燈(ランプ)の輝(かゞや)いてる、長(なが)くて低(ひく)い大廣間(おほびろま)に出(で)ました。  大廣間(おほびろま)の周圍(しうゐ)には何枚(なんまい)となく戸(と)がありましたが、何(いづ)れも皆(みな)閉(しま)つて居(ゐ)ました。 愛(あい)ちやんは一方(ぱう)は下(した)、一方(ぱう)は上(うへ)と一枚(まい)毎(ごと)に檢(しら)べてから、その眞中(まんなか)へ行(い )つて見(み)ました、どうしたら再(ふたゝ)び出(で)られるだらうかと怪(あや)しみながら。  突然(とつぜん)愛(あい)ちやんは、全然(すつかり)丈夫(じやうぶ)な硝子(ガラス)で出來(でき)た小(ちひ)さな三脚(きやく)洋卓(テーブ ル)の所(ところ)へ來(き)ました。其上(そのうへ)には小(ちひ)さな黄金造(こがねづく)りの鍵(かぎ)が只(たツた)一(ひと)つあつたばかり 、愛(あい)ちやんは最初(さいしよ)、此(この)鍵(かぎ)が大廣間(おほびろま)の戸(と)の何(いづ)れか一枚(まい)に附屬(ふぞく)してるに 違(ちが)ひないと思(おも)ひました、が悲(かな)しいことには、其錠(そのぢやう)が大(おほ)き過(す)ぎても亦(また)小(ちひ)さすぎても、 何(いづ)れにせよ何(ど)の戸(と)をも開(あ)けることの出來(でき)ないことです。けれども次(つぎ)に愛(あい)ちやんは前(まへ)に氣(き) のつかなかつた窓帷(カーテン)の所(ところ)へ來(き)ました、其背後(そのうしろ)には殆(ほと)んど五尺(しやく)位(ぐらゐ)の高(たか)さの 小(ちひ)さな戸(と)がありました、愛(あい)ちやんは其(その)小(ちひ)さな黄金(こがね)の鍵(かぎ)を其錠(そのぢやう)に試(こゝろ)み、 それがぴッたり合(あ)つたので大悦(おほよろこ)び!  愛(あい)ちやんは戸(と)を開(あ)けて、それが鼠穴(ねずみあな)位(ぐらゐ)の小(ちひ)さな路(みち)に通(つう)じて居(ゐ)ることを知( し)り、膝(ひざ)をついて前(まへ)に見(み)たことのある美(うつく)しい花園(はなぞの)を、其(その)路(みち)について覘(のぞ)き込(こ) みました。愛(あい)ちやんは何(ど)うかして此(この)暗(くら)い穴(あな)から出(で)て、美(うつく)しい花壇(くわだん)や、清冽(きれい) な泉(いづみ)の邊(ほとり)に ※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33) ※(「彳+羊」、第3水準1-84-32) (さまよ)ひたいと頻(しき)りに望(のぞ)みました、が其戸口(そのとぐち)からは頭(あたま)を出(だ)すことさへも出來(でき)ませんでした、可 哀相(かあいさう)に愛(あい)ちやんは、『縱令(よし)私(わたし)の頭(あたま)ばかり拔(ぬ)け出(だ)しても、肩(かた)が無(な)くては何( なん)にもならない』と思(おも)ひました。『何(なに)が何(なん)でも望遠鏡(ばうゑんきやう)のやうに篏(は)め込(こ)まれては堪(たま)らな い!些(ちよツ)と始(はじ)めさへ解(わか)ればもう占(し)めたものだ』此頃(このごろ)では身(み)にふりかゝる種々(いろ/\)の難事(なんじ )を、愛(あい)ちやんは何(なん)でも一(ひと)つとして出來(でき)ないことはないと思(おも)ふやうになりました。  此(この)小(ちひ)さな戸(と)の傍(そば)に待(ま)つて居(ゐ)ても仕方(しかた)がないと、愛(あい)ちやんは洋卓(テーブル)の所(ところ )へ戻(もど)つて行(ゆ)きました、半(なかば)は他(た)の鍵(かぎ)を見出(みいだ)したいと望(のぞ)みながら、さもなければ兎(と)に角(か く)、人間(にんげん)を望遠鏡(ばうゑんきやう)のやうに篏(は)め込(こ)む何(なに)か規則(きそく)の書物(ほん)でもありはしないかと。今度 (こんど)は其上(そのうへ)に小(ちひ)さな瓶(びん)が一本(ぽん)ありました、(『確(たし)かに前(まへ)には此處(こゝ)に無(な)かつた』 と愛(あい)ちやんが云(い)ひました)瓶(びん)の頸(くび)には、『召上(めしあが)れ』と美事(みごと)に大(だい)字で刷(す)つた貼紙(はり がみ)が結(むす)びつけてありました。 『召上(めしあが)れ』と云(い)ふのだから此程(これほど)結構(けつこう)なことはないが、悧巧(りこう)な小(ちひ)さな愛(あい)ちやんは大急 (おほいそ)ぎで其(そ)れを飮(の)まうとはしませんでした。『否(いゝ)え、先(ま)ァ見(み)てから、其上(そのうへ)「毒(どく)」か毒(どく )でないかを確(たし)かめなくては』と云(い)ひました、それと云(い)ふのも愛(あい)ちやんが、友達(ともだち)から教(をし)へられた瑣細(さ さい)な道理(だうり)を憶(おぼ)えて居(ゐ)なかつたため、野獸(やじう)に食(く)ひ殺(ころ)されたり、其他(そのた)正體(えたい)の知(し )れぬものに害(がい)されたりした子供(こども)の話(はなし)を種々(いろ/\)讀(よ)んでゐたからです。その瑣細(ささい)な道理(だうり)と 云(い)ふのは例(たと)へば、眞赤(まツか)に燒(や)けた火箸(ひばし)を長(なが)い間(あひだ)持(も)つてると火傷(やけど)するとか、又( また)は指(ゆび)を小刀(ナイフ)で極(ごく)深(ふか)く切(き)ると何時(いつ)でも血(ち)が出(で)るとか云(い)ふことです。それから又( また)『毒(どく)』と記(しる)してある瓶(びん)から澤山(たくさん)飮(の)めば、それが屹度(きつと)晩(おそ)かれ早(はや)かれ體(からだ )の害(がい)になるものだと云(い)ふことを决(けつ)して忘(わす)れませんでした。  しかし、此(この)瓶(びん)には『毒(どく)』とは書(か)いてありませんでした、其故(それゆゑ)愛(あい)ちやんは思(おも)ひ切(き)つてそ れを味(あぢは)つて見(み)ました、ところが大變(たいへん)味(あぢ)が好(よ)かつたので、 ※(始め二重括弧、1-2-54) それは實際(じつさい)櫻實漬(さくらんばうづけ)、カスタード(牛乳(ぎうにう)と鷄卵(たまご)とに砂糖(さたう)を入(い)れて製(せい)したる もの)、鳳梨(パイナツプル)、七面鳥(めんてう)の燒肉(やきにく)、トッフィー(砂糖(さたう)と牛酪(バター)で製(せい)して固(かた)く燔( や)いた菓子(くわし))、それに牛酪(バター)つきの※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、11-5]い ※(「火+亢」、第4水準2-79-62) 麺麭(やきぱん)、と云(い)ふやうなものを一緒(しよ)にしたやうな一種(しゆ)妙(めう)な味(あぢ)がしました ※(終わり二重括弧、1-2-55) 早速(さつそく)それを飮(の)んで了(しま)ひました。         *        *        *             *        * 『まア好(い)い氣持(きもち)だこと!望遠鏡(ばうゑんきやう)のやうに締(し)めつけられるやうだわ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。  眞箇(ほんと)にそんなでした。愛(あい)ちやんは今(いま)僅(わず)か一尺(しやく)あるかなしの身長(せい)になつたので、これなら其(その) 美(うつく)しい花園(はなぞの)に此(この)小(ちひ)さな戸口(とぐち)から拔(ぬ)けて行(ゆ)かれると思(おも)つて、その顏(かほ)は嬉(う れ)しさに輝(かゞや)きました。それでも最初(さいしよ)暫(しばら)くは、もつと收縮(しうしゆく)するだらうと待(ま)つて居(ゐ)ました。愛( あい)ちやんは些(や)や薄氣味惡(うすぎみわる)くなつて來(き)たと見(み)えて、『出(で)て行(い)つた先(さき)で、私(わたし)は蝋燭(ら ふそく)のやうに消(き)え失(う)せて了(しま)うのではないかしら、まァ何(ど)うなるでせう?』と呟(つぶや)いて、試(こゝろ)みに蝋燭(らふ そく)が吹(ふ)き消(け)された後(あと)の ※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64) (ほのふ)の樣(さま)を想像(さうざう)して見(み)ました、前(まへ)に其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)物(もの)を見(み)たことを記憶(きおく)して居(ゐ)ませんでしたから。  暫(しばら)くしてから、もう何(なん)ともないことを知(し)つて、愛(あい)ちやんは直(たゞ)ちに花園(はなぞの)へ行(ゆ)かうと决心(けつ しん)しました、が可哀相(かあいさう)に愛(あい)ちやんは、戸口(とぐち)まで來(き)てから、其(その)小(ちひ)さな黄金(こがね)の鍵(かぎ )を忘(わす)れたことに氣(き)がついて、それを取(と)りに洋卓(テーブル)の所(ところ)へ戻(もど)つて行(い)つた時(とき)には、もう何( ど)うしてもそれに手(て)が達(とゞ)きませんでした。硝子(ガラス)を透(す)いて明(あきら)かにそれが見(み)えてるので、愛(あい)ちやんは 一心(しん)に洋卓(テーブル)の一脚(きやく)に攀登(よぢのぼ)らうとしましたが滑々(すべ/″\)してゝ駄目(だめ)でした。可哀相(かあいさう )に愛(あい)ちやんは、終(しまひ)には試(ため)し草臥(くたび)れて、坐(すわ)り込(こ)んで泣(な)き出(だ)しました。 『そんなに泣(な)いたつて仕方(しかた)がない』と愛(あい)ちやんは些(や)や鋭(するど)い聲(こゑ)で獨語(ひとりごと)を云(い)ひました。 『時間(じかん)さへ經(た)てば可(い)いわ!』愛(あい)ちやんは何時(いつ)も自分(じぶん)に良(い)い忠告(ちゆうこく)をし、(それに從( したが)ふことは滅多(めつた)にないが)時(とき)には涙(なみだ)の出(で)る程(ほど)我(わ)れと我(わ)が身(み)を責(せ)めることもあり ました。甞(かつ)て自分(じぶん)一人(ひとり)で毬投(まりな)げをして居(ゐ)て、吾(わ)れと吾(わ)れを騙(だま)したといふので、自分(じ ぶん)の耳(みゝ)を叩(たゝ)かうとしたことを思出(おもひだ)しました、それといふのも此(この)不思議(ふしぎ)な子供(こども)が、一人(ひと り)でありながら、假(か)りに二人(ふたり)だと思(おも)つてることが甚(はなは)だ好(す)きだつたからです。『二人(ふたり)だと思(おも)つ ても駄目(だめ)よ!と云(い)つて、一人(ひとり)だけ立派(りつぱ)な人(ひと)にするんでは滿(つま)らないわ!』と愛(あい)ちやんは可哀相( かあいさう)にもさう思(おも)ひました。  忽(たちま)ち愛(あい)ちやんは洋卓(テーブル)の下(した)に在(あ)つた小(ちひ)さな硝子(ガラス)筺(ばこ)に眼(め)がつきました。開( あ)けて見(み)ると、中(なか)には極(ご)く小(ちひ)さな菓子(くわし)があつて、それに『お上(あが)り』と美事(みごと)に小(ちひ)さな乾 葡萄(ほしぶだう)で書(か)いてありました。『よし、食(た)べやう、若(も)し其爲(そのた)めに私(わたし)が、もつと大(おほ)きくなれば鍵( かぎ)に手(て)が達(とゞ)くし、又(また)若(も)し小(ちひ)さくなれば戸(と)の下(した)を匍(は)はれる、何方(どツち)にしろ私(わたし )は其花園(そのはなぞの)に出(で)られる、何(ど)うなつても關(かま)はない!』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは少(すこ)し食(た)べて、氣遣(きづかは)しさうに『何方(どツち)?何方(どツち)?』と呟(つぶや)いて、何方(どツち)へ 大(おほ)きくなつたかと思(おも)つて頭(あたま)の天邊(てツぺん)へ手(て)をやつて見(み)ましたが、矢張(やツぱり)大(おほ)きさが同(お な)じなので落膽(がつかり)しました。確(たし)かに、これは大抵(たいてい)の子供(こども)が菓子(くわし)を食(た)べる時(とき)に起(おこ )ることだが、愛(あい)ちやんは何(なに)か素晴(すばら)しいことが起(おこ)るのをばかり望(のぞ)んで居(ゐ)て、通常(あたりまへ)の道(み ち)で進(すゝ)んで行(ゆ)くのは、一生(しやう)に取(と)つて全(まつた)く鈍(のろ)くさくて莫迦氣(ばかげ)てるやうに思(おも)はれました 。  それから愛(あい)ちやんは食(た)べ初(はじ)めると、直(ぢ)きに其菓子(そのくわし)を平(たひら)げて了(しま)ひました。 [#改ページ] 第二章  涙(なみだ)の池(いけ) 『奇妙々々(きめう/\)!』と愛(あい)ちやんが叫(さけ)びました(非常(ひじやう)に驚(おどろ)いた爲(ため)に何(なん)と云(い)つて可( い)いか些(ちよつ)と解(わか)らず)『今(いま)私(わたし)は一番(ばん)大(おほ)きい望遠鏡(ばうゑんきやう)のやうに、何時(いつ)も外( そと)へ向(む)いたッきりだわ!左樣(さやう)なら、足(あし)よ!(足(あし)を見下(みおろ)した時(とき)に、それが何處(どこ)か遠(とほ) くの方(はう)へ行(い)つて了(しま)つたと見(み)えて、殆(ほと)んど見(み)えませんでした)。『オヤ、可哀相(かあいさう)に私(わたし)の 小(ちひ)さな足(あし)は!今(いま)、誰(だれ)がお前(まへ)に靴(くつ)や靴足袋(くつした)を穿(は)かしてくれるでせう?私(わたし)には 迚(とて)も出來(でき)ないわ!でも、餘(あンま)り遠(とほ)ッ離(ぱな)れて居(ゐ)るんですもの。お前(まへ)精(せい)一ぱい遣(や)つて御 覽(ごらん)――だけど、私(わたし)深切(しんせつ)にしてやつてよ。でなければ、屹度(きつと)足(あし)が云(い)ふことを聞(き)かないわ!屹 度(きつと)さうよ。耶蘇降誕祭(クリスマス)の度毎(たんび)に私(わたし)は新(あた)らしい長靴(ながぐつ)を一足(そく)づつ買(か)つてやら う』と愛(あい)ちやんが思(おも)ひました。  それから愛(あい)ちやんは、それをするには何(ど)ういふ風(ふう)にしたら可(い)いだらうかと工夫(くふう)を凝(こら)し初(はじ)めました 、『それには乘物(のりもの)へ乘(の)つて行(ゆ)かなければならない』と思(おも)つたものゝ、『足(あし)に贈物(おくりもの)をするなんて餘程 (よツぽど)可笑(をかし)いわ!宛名(あてな)が何(ど)んなに變(へん)でせう! 愛(あい)ちやんの右(みぎ)の足(あし)樣(さま)へ   火消壺(ひけしつぼ)の傍(そば)の、     竈雜布(へツつひざふきん)を献(さゝ)ぐ。 (愛(あい)ちやんの優(やさ)しい心根(こゝろね)から)。 まア、何(な)んといふ莫迦(ばか)な事(こと)を私(わたし)は云(い)ふてるんでせう!』  折(をり)しも愛(あい)ちやんは、大廣間(おほびろま)の屋根(やね)で頭(あたま)を打(う)ちました。實際(じつさい)愛(あい)ちやんは今( いま)九尺(しやく)以上(いじやう)も身長(せい)が高(たか)くなつたので、直(す)ぐに小(ちひ)さな黄金(こがね)の鍵(かぎ)を取(と)り上 (あ)げ、花園(はなぞの)の入口(いりくち)へ急(いそ)いで行(ゆ)きました。  可哀相(かあいさう)な愛(あい)ちやん!横(よこ)になつて一(ひと)つの眼(め)で花園(はなぞの)を覘(のぞ)き込(こ)むことしか出來(でき )ず拔(ぬ)け出(で)ることは前(まへ)よりも一層(そう)六ヶ敷(しく)なつたので、愛(あい)ちやんは坐(すわ)り込(こ)んで又(また)泣(な )き出(だ)しました。 『耻(はづ)かしくもなく能(よ)く泣(な)けたものですね』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。『そんな大(おほ)きな體(なり)をしてさ!』( 愛(あい)ちやんはよく斯(か)う云(い)ひます)『泣(な)くなんテ!お默(だま)んなさい、よ!』云(い)つても矢張(やつぱり)同(おな)じやう に泣(な)いて居(ゐ)て!涙(なみだ)の一斗(と)も流(なが)した揚句(あげく)、到頭(とうとう)其處(そこ)に深(ふか)さ殆(ほと)んど四五 寸(すん)の大(おほ)きな池(いけ)が出來(でき)て、大廣間(おほひろま)が半分(はんぶん)も浸(つか)つて了(しま)ひました。  すると遠(とほ)くの方(はう)でパタ/\と小(ちひ)さな跫音(あしおと)のするのが聞(きこ)えました、愛(あい)ちやんは急(いそ)いで眼(め )を拭(ふ)いて何(なに)か來(き)たのだらうかと見(み)てゐました。歸(かへ)つて來(き)たのは兎(うさぎ)で、綺羅美(きらび)やかな服裝( なり)をして、片手(かたて)には白(しろ)い山羊仔皮(キツド)の手套(てぶくろ)を一對(つい)、片手(かたて)には大(おほ)きな扇子(せんす) を持(も)つて、『あァ、公爵夫人(こうしやくふじん)、公爵夫人(こうしやくふじん)!あァ、辛抱(しんばう)して待(ま)つて居(ゐ)たら此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)情(なさ)けない目(め)に合(あ)やしなかつたらうに!』と呟(つぶや)きながら、大急(おほいそ)ぎで駈(か)けて來(き)ました。愛( あい)ちやんは頗(すこぶ)る失望(しつばう)して誰(だれ)かに助(たす)けて貰(もら)はうと思(おも)つてた矢先(やさき)でしたから兎(うさぎ )が傍(そば)へ來(き)たのを幸(さいは)ひ、低(ひく)い怕々(おど/\)した聲(こゑ)で、『萬望(どうぞ)、貴方(あなた)――』と云(い)ひ かけました。すると兎(うさぎ)は何(なん)と思(おも)つたか大急(おほいそ)ぎで、白(しろ)い山羊仔皮(キツド)の手套(てぶくろ)も落(おと) せば扇子(せんす)も打捨(うツちや)つて、一目散(もくさん)に闇(やみ)の中(なか)へ駈(か)け込(こ)みました。 白兎と愛ちやんの図  愛(あい)ちやんは扇子(せんす)と手套(てぶくろ)とを取(と)り上(あ)げ、大廣間(おほひろま)が甚(はなは)だ暑(あつ)かつたので、始終( しゞゆう)扇子(せんす)を使(つか)ひながら話(はな)し續(つゞ)けました。『まァ今日(けふ)は餘程(よつぽど)奇妙(きめう)な日(ひ)よ!昨 日(きのふ)は何(なん)の事(こと)もなかつたんだのに、昨夜(ゆふべ)の中(うち)に私(わたし)は何(ど)うかなつたのかしら?さうねえ、今朝( けさ)起(お)きた時(とき)には何(なん)ともなかつたかしら?、何(なん)だか氣(き)が些(ちつ)と變(へん)なやうでもあるし、と云(い)つて 、若(も)し私(わたし)が同(おな)じやうでなかつたら何(ど)うなるんでせう、此(この)世(よ)の中(なか)で誰(だ)れが私(わたし)なんでせ う!まァ、それは大(おほ)きな謎(なぞ)だわ!』そして愛(あい)ちやんは、自分(じぶん)の同年齡(おないどし)で自分(じぶん)の知(し)つてる 子供(こども)を殘(のこ)らず片(かた)ッ端(ぱし)から考(かんが)へ始(はじ)めました、若(も)しも自分(じぶん)が其中(そのかな)[#ルビ の「そのかな」はママ]の誰(だれ)かと變(か)へられたのではないかと思(おも)つて。『私(わたし)、確(たし)かに花(はな)ちやんではなくッて よ』と云(いつ)て愛(あい)ちやんは、『でも、彼娘(あのこ)の髮(け)は彼 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (あんな)に長(なが)い縮(ちゞれ)ッ髮(け)だけど、私(わたし)のは一本(ぽん)だつて縮(ちゞ)れちや居(ゐ)ないもの。それから又(また)、 私(わたし)は確(たし)かに松子(まつこ)さんでもなくッてよ、だッて、私(わたし)は何(なん)でも知(し)つてるけども、彼娘(あのこ)は、あァ 、彼娘(あのこ)は些(ちつ)としか知(し)らしないわ!第(だい)一彼娘(あのこ)は彼娘(あのこ)、私(わたし)は私(わたし)よ、それから――あ ァ何(なん)だか譯(わけ)が解(わか)らなくなつて了(しま)つた!私(わたし)が平常(ふだん)知(し)つてた事(こと)を皆(みな)知(し)つて るか何(ど)うか試(ため)して見(み)やう。斯(か)うと、四五十二、四六十三、四七――オヤ!そんな割合(わりあひ)では二十にならないわ!けど、 乘算(じようざん)九々表(ひやう)も當(あて)にならないのね。今度(こんど)は地理(ちり)の方(はう)よ。倫敦(ロンドン)は巴里(パリー)の首 府(しゆふ)なり、巴里(パリー)は羅馬(ローマ)の首府(しゆふ)なり、又(また)羅馬(ローマ)は――ア、皆(みな)間違(まちが)つてるわ、屹度 (きつと)!私(わたし)は松子(まつこ)さんに變(か)へられたのだわ!私(わたし)試(や)つて見(み)やう「何(ど)うして磨(みが)く、小(ち ひ)さな――」を』乃(そこ)で愛(あい)ちやんは恰度(ちやうど)お稽古(けいこ)の時(とき)のやうに前掛(まへかけ)の上(うへ)へ兩手(りやう て)を組(く)んで、それを復習(ふくしう)し初(はじ)めました、が其聲(そのこゑ)は咳嗄(しわが)れて變(へん)に聞(きこ)え、其一語々々(そ のいちご/\)も平常(いつも)と同(おな)じではありませんでした。―― 『何(ど)うして磨(みが)く、小(ちひ)さな鰐(わに)が、   輝(かゞや)く尾(を)をば、  浴(あ)びるわ浴(あ)びるわナイルの河水(かすゐ)   黄金(こがね)の鱗(うろこ)の一枚(まい)ごとに!』 『嬉(うれ)しさうにも齒並(はなみ)を見(み)せて、   爪(つめ)をば殘(のこ)らず、  綺麗(きれい)にひろげて小魚(こうを)を招(まね)く、   愛嬌(あいきやう)こぼるゝ可愛(かあい)い ※(「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28) (あご)で!』 『屹度(きつと)間違(まちが)つてるわ』と憐(あは)れな愛(あい)ちやんが云(い)ひました、眼(め)には涙(なみだ)を一ぱい溜(た)めて、『私 (わたし)は屹度(きつと)松子(まつこ)さんになつたのよ、あの窮屈(きうくつ)な小(ちひ)さな家(うち)へ行(い)つて住(す)まなければならな いのかしら、翫具(おもちや)一箇(ひとつ)有(あ)りやしないわ!それで、お稽古(けいこ)ばかり澤山(たくさん)させられてさ!あァ斯(か)うしや う、私(わたし)が若(も)し松子(まつこ)さんだつたら此處(ここ)に斯(か)うして止(とゞ)まつて居(ゐ)やう!他人(ひと)の頭(あたま)を接 合(くツつ)けたつて駄目(だめ)だわ、「復(ま)たお出(い)で、ね、一體(たい)誰(だれ)が自分(じぶん)なんだか?」能(よ)く氣(き)をつけ て居(ゐ)やう、「それが解(わか)つたら來(く)るわ、それでなければ私(わたし)が他(ほか)の人(ひと)になるまで此處(こゝ)に居(ゐ)やう」 ――だけど、ねえ!』と愛(あい)ちやんは叫(さけ)んで、急(きふ)に泣(な)き出(だ)しました、『誰(だれ)か頭(あたま)を下(した)へおろし てくれゝば可(い)いなァ!もう唯(たツ)た一人法師(ひとりぽつち)で居(ゐ)るのは可厭(いや)になつて了(しま)つたわ!』  斯(か)う云(い)つて兩手(りやうて)を見(み)ると、驚(おどろ)くまいことか、愛(あい)ちやんは話(はなし)をしてる中(うち)に何時(いつ )か兎(うさぎ)の小(ちひ)さな白(しろ)い山羊仔皮(キツド)の手套(てぶくろ)を穿(は)めて居(ゐ)たのです。『何(ど)うして穿(は)めたの かしら?』と思(おも)ひました。『私(わたし)、復(ま)た小(ちひ)さくなるんだわ』愛(あい)ちやんは起(お)き上(あが)り、身長(せい)を度 (はか)らうと思(おも)つて洋卓(テーブル)の所(ところ)へ行(ゆ)きました、自分(じぶん)で思(おも)つてた通(とほ)り殆(ほと)んど二尺( しやく)も高(たか)くなつて居(ゐ)ましたが、急(きふ)に又(また)縮(ちゞ)み出(だ)しました。愛(あい)ちやんは直(たゞ)ちに此(こ)れが 扇子(せんす)を持(も)つて居(ゐ)た所爲(せい)だと云(い)ふ事(こと)を知(し)つて急(いそ)いで其扇子(そのせんす)を捨(す)てました、 恰(あだか)も縮(ちゞ)むのを全(まつた)く恐(おそ)れるものゝ如(ごと)く。 『それは狹(せま)い遁路(にげみち)だつたのよ!』と云つて愛(あい)ちやんは、急(きふ)な變化(かはりかた)には一方(ひとかた)ならず驚(おど ろ)かされましたが、それでも我(わ)が身(み)の然(さ)うして其處(そこ)に在(あ)つたことを大層(たいそう)悦(よろこ)んで、『さァ花園(は なぞの)の方(はう)へ!』と云(い)つて全速力(ぜんそくりよく)で小(ちひ)さな戸(と)の方(はう)へ駈(か)け戻(もど)りました。しかし悲( かな)しいことには、小(ちひ)さな戸(と)は又(また)閉(しま)つてゐて、小(ちひ)さな黄金(こがね)の鍵(かぎ)が以前(もと)のやうに硝子( ガラス)洋卓(テーブル)の上(うへ)に載(の)つてゐました、『前(まへ)より餘程(よつぽど)不可(いけな)いわ』と此(この)憐(あは)れな愛( あい)ちやんが思(おも)ひました、『だッて、私(わたし)は先(さツ)きには斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)に小(ちひ)さかなかつたんですもの、なかつたんですもの!眞箇(ほんと)に餘程(よつぽど)酷(ひど)いわ、さうよ!』  云(い)ひ終(をは)るや愛(あい)ちやんの片足(かたあし)は滑(すべ)つて、水(みづ)の中(なか)へぱちやん!愛(あい)ちやんは鹹水(しほみ づ)の中(なか)へ ※(「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28) (あご)まで浸(つか)りました。初(はじ)め、愛(あい)ちやんは兎(と)に角(かく)海(うみ)の中(なか)へ落(お)ちたんだと思(おも)つて、 『そんなら汽車(きしや)へ乘(の)つて歸(かへ)れるわ』と獨語(ひとりごと)を云(い)ひました(愛(あい)ちやんは生(うま)れてから是迄(これ まで)に只(たつ)た一度(ど)しか海岸(かいがん)へ行(い)つたことがないので、勝手(かつて)に斯(か)う獨斷(ひとりぎめ)をして居(ゐ)まし た。英吉利(イギリス)の海岸(かいがん)へ行(ゆ)けば何所(どこ)にでも、海(うみ)の中(なか)に泳(およ)いでる澤山(たくさん)の機械(きか い)が見(み)られる、子供等(こどもら)は木(き)の鍬(くわ)で沙(すな)ッ掘(ぽじ)りをしてゐる、そして一列(れつ)に並(なら)んでる宿屋( やどや)、それから其(その)後(うし)ろには停車場(ステーシヨン))併(しか)し愛(あい)ちやんは直(ぢ)きに、自分(じぶん)が涙(なみだ)の 池(いけ)に落(お)ちたんだと云(い)ふことに氣(き)がつきました。其池(そのいけ)は、愛(あい)ちやんの身長(せい)が九尺(しやく)ばかりに 伸(の)びた時(とき)に、濡(ぬ)れ法師(ばうず)になつた池(いけ)です。 『そんなに泣(な)くのは止(よ)さう!』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、出口(でぐち)を見出(みいだ)さうとして泳(およ)ぎ廻(まは)りまし た。『私(わたし)は今(いま)屹度(きつと)罰(ばつ)せられるんだわ、斯(か)うして自分(じぶん)の涙(なみだ)の中(なか)に溺(おぼ)れるな ^ンて―眞箇(ほんと)に奇態(きたい)だわ!けども今日(けふ)は何(なに)も彼(か)も皆(みん)な變(へん)よ』  折(をり)も折(をり)、愛(あい)ちやんは少(すこ)しく離(はな)れて池(いけ)の中(なか)で何(なに)かゞ水音(みづおと)を立(た)てゝる のを聞(き)きつけ何(なん)だらうかと思(おも)ひつゝ傍(そば)へ/\と泳(およ)いで行(ゆ)きました。初(はじ)め愛(あい)ちやんは、それが 海象(かいざう)か河馬(かば)に違(ちが)ひないと思(おも)ひました。が今(いま)の我(わ)が身(み)の小(ちひ)さいことに氣(き)がつくと共 (とも)に、それが矢張(やつぱり)自分(じぶん)のやうに滑(すべ)り落(お)ちた一疋(ぴき)の鼠(ねずみ)に過(す)ぎないことを知(し)りまし た。『さて此(この)鼠(ねずみ)に何(なに)を話(はな)してやらうかしら?大抵(たいてい)皆(みん)な變(へん)な事(こと)ばかりだが、兎(と )に角(かく)話(はな)しても關(かま)はないだらう』と愛(あい)ちやんが思(おも)ひました。乃(そこ)で愛(あい)ちやんが云(い)ふには、『 鼠(ねず)ちやん、お前(まへ)此(この)池(いけ)の出口(でぐち)を知(し)つてゝ?私(わたし)全然(すつかり)泳(およ)ぎ草臥(くたび)れて 了(しま)つてよ、鼠(ねず)ちやん!』(愛(あい)ちやんはこれが鼠(ねずみ)と話(はなし)をする正(たゞ)しい方法(はうはふ)だと思(おも)ひ ました。嘗(かつ)て此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)事(こと)をしたことはないのですが、兄(にい)さんの拉典語(ラテンご)の文典(ぶんてん)に、『鼠(ねずみ)は――鼠(ねづみ)の――鼠 (ねずみ)に―鼠(ねずみ)を――おゥ鼠(ねず)ちやん!』と書(か)いてあつたのを覺(おぼ)えて居(ゐ)ましたから)鼠(ねずみ)は些(や)や訝( いぶか)しげに愛(あい)ちやんの方(はう)を見(み)て、其(その)小(ちひ)さい片方(かたはう)の眼(め)を瞬(またゝ)くやうに見(み)えまし たが、何(なん)とも云(い)ひませんでした。 『屹度(きつと)それは英語(えいご)を知(し)らないんだ』と愛(あい)ちやんは思(おも)つて、『あァ解(わか)つた佛蘭西(フランス)の鼠(ねず み)だわ、ウィリアム第(だい)一世(せい)と一緒(しよ)に來(き)た』(歴史(れきし)を習(なら)つたけれども愛(あい)ちやんは、何(なに)が 何年位(なんねんぐらゐ)前(まへ)に起(おこ)つた事(こと)か判然(はツきり)と知(し)りませんでした)乃(そこ)で又(また)愛(あい)ちやん が云(い)ふには、『私(わたし)の猫(ねこ)は何處(どこ)に居(ゐ)るでせう?』それは佛語(ふつご)教科書(けうくわしよ)の一番(ばん)初(は じ)めの文章(ぶんしよう)でした。鼠(ねずみ)は水(みづ)の中(なか)から一^ト跳(と)びはねて、なほも跳(と)び出(だ)しさうに全身(ぜんし ん)を振(ふる)はして居(ゐ)ました。『あら御免(ごめん)よ!』と愛(あい)ちやんは急(いそ)いで叫(さけ)びました、此(この)憐(あは)れな 動物(どうぶつ)の機嫌(きげん)をそこねた事(こと)を氣遣(きづか)つて。『私(わたし)はお前(まへ)が猫(ねこ)を好(す)かないことを全(ま つた)く忘(わす)れて了(しま)つてゐたの』 『猫(ねこ)は可厭(いや)!』と鋭(するど)い激(げき)した聲(こゑ)で鼠(ねずみ)が云(い)ひました。『若(も)しお前樣(まへさま)が私(わ たし)だつたら猫(ねこ)を好(す)くの?』 『まァ可厭(いや)なこと』と優(やさ)しい聲(こゑ)で云(い)つて愛(あい)ちやんは、『怒(おこ)ッちや可厭(いや)よ。だけど、私(わたし)は あの玉(たま)ちやんを見(み)せてあげたいわ、若(も)しお前(まへ)が玉(たま)ちやんを只(たつ)た一^ト目(め)でも見(み)やうものなら屹度 (きつと)猫(ねこ)が好(す)きになつてよ、そりや玉(たま)ちやんは可愛(かあい)らしくつて大人(おとな)しいわ』と半(なか)ば呟(つぶや)き ながら涙(なみだ)の池(いけ)を物憂(ものう)げに泳(およ)ぎ廻(まは)りました、『それから、玉(たま)ちやんは圍爐裏(ゐろり)の傍(そば)に さも心地好(こゝちよ)ささうに、咽喉(のど)をゴロ/\云(い)はせながら坐(すわ)つて、前足(まへあし)を舐(な)めたり、顏(かほ)を洗(あら )つたりしてゐるの――飼(か)つて見(み)れば可愛(かあい)いものよ――鼠捕(ねずみと)りの名人(めいじん)だわ――オヤ、御免(ごめん)よ!』 と又(また)愛(あい)ちやんが叫(さけ)びました。今度(こんど)は鼠(ねずみ)が全身(ぜんしん)の毛(け)を逆立(さかだ)つて居(ゐ)たので、 愛(あい)ちやんは屹度(きつと)鼠(ねずみ)が甚(ひど)く怒(おこ)つたに違(ちが)ひないと思(おも)ひました。『そんなにお前(まへ)が嫌(き ら)ひなら、もう玉(たま)ちやんのことは話(はな)さないわ!』 『さう、眞箇(ほんとう)に!』怖(おそ)れて尻尾(しツぽ)の先(さき)までも顫(ふる)へてゐた鼠(ねずみ)が叫(さけ)びました。』若(も)し私 (わたし)が斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)事(こと)を話(はな)したが最期(さいご)!私(わたし)の一家族(かぞく)は殘(のこ)らず猫(ねこ)を仇敵(かたき)に念(おも)ふ。 えッ、あの不潔(ふけつ)な、下等動物(かとうどうぶつ)め!もう二度(ど)と云(い)ふのは御免(ごめん)だ!』 『私(わたし)もさ!』と云(い)つて愛(あい)ちやんは大急(おほいそ)ぎで話(はなし)を外(そ)らしました。『え――好(す)き――い――い―― 犬(いぬ)を?』鼠(ねずみ)が返辭(へんじ)をしなかつたので、愛(あい)ちやんは又(また)一心(しん)になつて續(つゞ)けました。『私(わたし )の家(うち)の近所(きんじよ)に、それは綺麗(きれい)な犬(いぬ)が居(ゐ)てよ、お前(まへ)に見(み)せてやりたいわ!可愛(かあい)い清( すゞ)しい眼(め)をした獵犬(かりいぬ)よ、知(し)つてゝ、こんなに長(なが)い縮(ちゞ)れた茶色(ちやいろ)の毛(け)の!何(なん)でも投( な)げてやると取(と)つて來(き)てよ、御馳走(ごちそう)なんぞ遣(や)るとチン/\するわ――私(わたし)、よくは知(し)らないけど――それは 百姓(ひやくしやう)の犬(いぬ)で、大變(たいへん)役(やく)に立(た)つんですッて、一疋(ぴき)百圓(ゑん)よ!それが皆(みん)な鼠(ねずみ )を殺(ころ)すんですッて――ナニ、否(いゝ)え!』と痛(いた)ましげな聲(こゑ)で愛(あい)ちやんが叫(さけ)びました、『又(また)氣(き) に觸(さは)つたかしら!』鼠(ねずみ)が池(いけ)の水(みづ)を攪(か)き亂(みだ)し、一生懸命(しやうけんめい)に泳(およ)ぎ去(さ)らうと するのを、愛(あい)ちやんは靜(しづ)かに呼(よ)び止(と)めました。『鼠(ねず)ちやん!戻(もど)つてお出(い)でよ、可厭(いや)なら、もう 猫(ねこ)や犬(いぬ)の事(こと)を話(はな)さないから!』鼠(ねずみ)はこれを聞(き)いて振返(ふりかへ)り、靜(しづ)かに再(ふたゝ)び愛 (あい)ちやんの所(ところ)へ泳(およ)いで來(き)ましたが、其顏(そのかほ)は眞青(まツさを)でした、(愛(あい)ちやんはそれを甚(はなは) だ氣(き)の毒(どく)に思(おも)ひました)鼠(ねずみ)は低(ひく)い慄(ふる)へ聲(ごゑ)で、『あの岸(きし)へ行(ゆ)かうぢやありませんか 、それから身(み)の上(うへ)談(ばなし)をしませう、然(さ)うすれば何故(なぜ)私(わたし)が猫(ねこ)や犬(いぬ)が嫌(きら)ひか解(わか )ります』と云(い)ひました。  恰度(ちやうど)立去(たちさ)るべき時(とき)が來(き)ました、池(いけ)にはそろ/\其中(そのなか)に落(お)ち込(こ)んだ澤山(たくさん )の鳥(とり)や動物(どうぶつ)が群集(ぐんじゆう)して居(ゐ)ました。家鴨(あひる)やドード鳥(てう)、ローリー鳥(てう)や小鷲(こわし)、 其他(そのほか)種々(いろ/\)の珍(めづ)らしい動物(どうぶつ)が居(ゐ)ましたが、愛(あい)ちやんの水先案内(みづさきあんない)で、皆(み ん)な隊(たい)を成(な)して殘(のこ)らず岸(きし)に泳(およ)ぎつきました。 [#改ページ] 第三章  候補(コーカス)競爭(レース)と長話(ながばなし)  岸(きし)の上(うへ)に集(あつ)まつた一隊(たい)は、それこそ滑稽(こつけい)で觀物(みもの)でした――鳥(とり)の諸羽(もろは)は泥塗( どろまみ)れに、動物(けもの)は毛皮(もうひ)と毛皮(もうひ)と膠着(くツつ)かんばかりに全濡(びしよぬれ)になり、雫(しづく)がたら/\落( お)ちるので體(からだ)を横(よこ)に捩(ひね)つて、氣持惡(きもちわる)さうにしてゐました。  最初(さいしよ)の問題(もんだい)は、云(い)ふまでもなく何(ど)うして再(ふたゝ)びそれを乾燥(かはか)さうかと云(い)ふことで、その爲( た)め皆(みン)なで相談會(さうだんくわい)を開(ひら)きました、暫(しばら)くして愛(あい)ちやんは、宛(まる)で前(まへ)から皆(みん)な を知(し)つてでも居(ゐ)たやうに、臆面(おくめん)もなく親(した)しげに話(はな)し出(だ)しました。  乃(そこ)で愛(あい)ちやんは隨分(かなり)長(なが)い間(あひだ)ローリー鳥(てう)と議論(ぎろん)をしました、ローリー鳥(てう)は終(つ ひ)には澁(しぶ)ッ面(つら)して拗(す)ねて背中(せなか)を向(む)けて、『私(わたし)はお前(まへ)より年上(としうへ)だよ、私(わたし) の方(はう)が能(よ)く知(し)つてる^サ』と只(たゞ)斯(か)う云(い)つたばかりなので、此(この)愛(あい)ちやんはローリー鳥(てう)が果 (はた)して幾(いく)つ年(とし)とつて居(ゐ)るか、それを聞(き)かない中(うち)は承知(しようち)しませんでした、がローリー鳥(てう)が何 (ど)うしても其年齡(そのとし)を云(い)ふのを拒(こば)んだものですから、終(つひ)には仕方(しかた)なく默(だま)つて了(しま)ひました。  到頭(とう/\)、其中(そのうち)でも權勢家(けんせいか)の一人(ひとり)らしく見(み)えた鼠(ねずみ)が、『坐(すわ)り給(たま)へ諸君( しよくん)、まァ聞(き)き給(たま)へ、僕(ぼく)が直(ぢ)きにそれの乾(かわ)くやうにして見(み)せる!』と呶鳴(どな)りました。多勢(おほ ぜい)のものは殘(のこ)らず言下(ごんか)に、鼠(ねずみ)を中心(まんなか)にして大(おほ)きな輪(わ)を作(つく)つて坐(すわ)りました。愛 (あい)ちやんは怪訝(けゞん)な顏(かほ)しながら眼(め)を離(はな)さず見(み)て居(ゐ)ました、でも早速(さつそく)乾燥(かわか)さなけれ ば屹度(きつと)惡(わる)い風邪(かぜ)を引(ひ)くと思(おも)ひましたから。 鼠の演説の図 『エヘン!』と一つ咳拂(せきばら)ひして、鼠(ねずみ)は尊大(そんだい)に構(かま)へて、『諸君(しよくん)宜(よろ)しいか?最(もつと)も乾 燥無味(かんさうむみ)なものは是(これ)です、まァ默(だま)つて聞(き)き給(たま)へ、諸君(しよくん)!「ウィリアム第(だい)一世(せい)、 其人(そのひと)の立法(りつぱふ)は羅馬(ローマ)法皇(はふわう)の御心(みこゝろ)に ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56) (かな)ひ、忽(たちま)ちにして首領(しゆれう)の必要(ひつえう)ありし英人(えいじん)の從(したが)ふ所(ところ)となり、近(ちか)くは纂奪 (さんだつ)[#「纂奪」はママ]及(およ)び征服(せいふく)を恣(ほしひまゝ)にするに至(いた)りました。エドウィン、モルカー、マーシア及(お よ)びノーザンブリア伯(はく)、皆(みな)然(しか)りです――」』 『ウム!』と云(い)つてローリー鳥(てう)は慄(ふる)へ上(あが)りました。 『何(なん)です!』と鼠(ねずみ)は顏(かほ)をしかめたが、頗(すこぶ)る丁寧(ていねい)に、『何(なに)か仰(おツ)しやいましたか?』 『私(わたし)ではない!』とローリー鳥(てう)が急(いそ)いで云(い)ひました。 『貴方(あなた)に違(ちが)ひありません』と鼠(ねずみ)が云(い)ひました。『――さて、「エドウィンとモルカー、マーシア及(およ)びノーザンブ リア伯(はく)が彼(か)れに盟(ちか)ひました。するとカンタベリーの忠節(ちゆうせつ)なる大僧正(だいそうじよう)スチガンド氏(し)すら、それ を當然(たうぜん)の事(こと)だと思(おも)ひました――」』 『それを?』と家鴨(あひる)が云(い)ひました。 『それをさ』と鼠(ねずみ)は些(や)や意地惡(いぢわる)く答(こた)へて、『無論(むろん)君(きみ)も「それ」の譯(わけ)を知(し)つてるだら う』 『それは能(よ)く解(わか)つてる、大方(おほかた)蛙(かはづ)か蟲(むし)ぐらゐのものだらう』と云(い)つて家鴨(あひる)は『しかし、僕(ぼ く)の訊(き)くのは大僧正(だいそうじよう)が何(ど)うしたと云(い)ふのだ?』  鼠(ねずみ)は此(この)質問(しつもん)を聞(き)き流(なが)して速(すみや)かに云(い)ひ續(つゞ)けました、『――エドガーアセリングと共 (とも)に、行(ゆ)きてウィリアムに面謁(めんえつ)し、王冠(わうくわん)を捧(さゝ)げたのは當然(たうぜん)のことです。ウィリアムの行動(か うどう)は最初(さいしよ)禮(れい)に適(かな)ふたものでした。併(しか)しながら彼(か)のノルマンの倨傲(きよがう)――何(ど)うかしました か?』と云(い)つて愛(あい)ちやんの方(はう)を振向(ふりむ)きました。 『矢張(やつぱり)濡(ぬ)れてるは、些(ちツ)とも乾(かわ)かなくッてよ』と愛(あい)ちやんが悲(かな)しさうに云(い)ひました。 『然(さ)らば』とドード鳥(てう)が嚴格(げんかく)に云(い)つて立上(たちあが)り、『此(この)會議(くわいぎ)の延期(えんき)されんことを 動議(どうぎ)します。蓋(けだ)し、もつと早(はや)い有効(いうかう)な治療(ちれう)方法(はうはふ)が――』 『英語(えいご)で云(い)ひ給(たま)へ!』と云(い)つて小鷲(こわし)は、『そんな長(なが)ッたらしい事(こと)は半分(はんぶん)も解(わか )らない、幾(いく)ら云(い)つたつて駄目(だめ)だ、何(いづ)れも信(しん)ずるに足(た)らん!』云(い)つて微笑(びせう)を秘(かく)すた めに頭(あたま)を下(さ)げました。他(た)の數多(あまた)の鳥(とり)の中(うち)には故意(わざ)と聞(きこ)えよがしに窃笑(ぬすみわらひ) をしたのもありました。 『余輩(よはい)の云(い)はんと欲(ほつ)する所(ところ)のものは』と憤激(ふんげき)してドード鳥(てう)が云(い)ひました、『吾々(われ/\ )を乾(かわ)かせる唯一(ゆゐいつ)の方法(はうはふ)は候補(コーカス)競爭(レース)(西洋(せいやう)鬼(おに)ごつこ)である』 『候補(コーカス)競爭(レース)とは?』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。愛(あい)ちやんは別段(べつだん)其(そ)れを知(し)りたくはな かつてのですが、ドード鳥(てう)が恰(あだ)かも誰(だれ)かゞ何(なに)か話(はは)[#ルビの「はは」はママ]すだらうと思(おも)つて言(い) ひ澱(よど)みましたが、他(ほか)に誰(だれ)も何(なん)とも言(い)はうとするものがなかつたので。 『さて』ドード鳥(てう)が云(い)ふには、『それを説明(せつめい)する唯一(ゆゐいつ)の方法(はうはふ)はそれを行(おこな)ふことである』(若 (も)し皆(みな)さんが冬(ふゆ)の或(あ)る日(ひ)、自(みづか)ら其(そ)れを試(こゝろ)みんと欲(ほつ)するならば、ドード鳥(てう)がそ れを如何(いか)にして行(や)つたかを話(はな)しませう)  最初(さいしよ)ドード鳥(てう)は、一(いつ)の輪(わ)を描(か)いて競爭(レース)進路(コース)を定(さだ)めました、(「輪(わ)の形(か たち)は些(や)や正確(せいかく)でなくても關(かま)はない」とドード鳥(てう)が云(い)ひました)それから其處(そこ)に居(ゐ)た一隊(たい )のものが皆(みン)な、其進路(そのコース)に沿(そ)うて其方(そつち)此方(こつち)に排置(はいち)されました。『一、二、三、進(すゝ)め』 の號令(がうれい)もなく、各自(てんで)に皆(みな)勝手(かつて)に走(はし)り出(だ)して勝手(かつて)に止(と)まりましたから、容易(よう い)に競爭(きやうさう)の終(をは)りを知(し)ることが出來(でき)ませんでした。けれども各自(てんで)に一時間半(じかんはん)か其所(そこ) いら走(はし)り續(つゞ)けた時(とき)に、全(まつた)く乾(かわ)いて了(しま)ひました、ドード鳥(てう)は急(きふ)に、『止(や)めッ!』 と叫(さけ)びました。乃(そこ)で皆(みン)な息喘(いきせ)きながら其周圍(そのしうゐ)へ集(あつま)つて來(き)て、『だが、誰(だれ)が勝( か)つたの?』と各自(てんで)に訊(き)きました。  此(この)質問(しつもん)には、ドード鳥(てう)が大思想家(だいしさうか)でないため答(こた)へることが出來(でき)ず、一本(ぽん)の指(ゆ び)で其額(そのひたひ)を抑(おさ)え、長(なが)い間(あひだ)立(た)つて居(ゐ)ました(よく繪(ゑ)にある沙翁(シエークスピア)のやうな姿 勢(しせい)をして)其間(そのあひだ)他(た)のものも皆(みな)默(だま)つて待(ま)つてゐました。終(つひ)にドード鳥(てう)が口(くち)を 開(ひら)いて、『各自(てんで)に皆(みン)な勝(か)つた、皆(みん)な褒美(はうび)が貰(もら)へる』 『しかし誰(だれ)が褒美(ほうび)を呉(く)れるんですか?』と異口同音(いくどうおん)に尋(たづ)ねました。 『左樣(さやう)、無論(むろん)、彼娘(あのこ)が』と愛(あい)ちやんを指(ゆびさ)しながらドード鳥(てう)が云(い)つたので、其(その)一隊 (たい)が殘(のこ)らず一時(じ)に愛(あい)ちやんの周(まは)りを取圍(とりかこ)みました。『褒美(はうび)!褒美(はうび)!』とガヤ/\叫 (さけ)びながら。  愛(あい)ちやんは當惑(たうわく)して、知(し)らず/\衣嚢(ポケツト)に片手(かたて)を入(い)れ、乾菓子(ひぐわし)の箱(はこ)を取出( とりだ)し、(幸(さいは)ひ鹹水(しほみづ)は其中(そのなか)に浸込(しみこ)んで居(ゐ)ませんでした)褒美(はうび)として周圍(しうゐ)のも のに殘(のこ)らず其(そ)れを渡(わた)してやりました。丁度(ちやうど)一個(ひとつ)と一片(ひとかけ)宛(づゝ)。 『しかし彼娘(あのこ)は自分(じぶん)から自分(じぶん)に褒美(はうび)を貰(もら)はなければならない』と鼠(ねずみ)が云(い)ひました。 『無論(むろん)』とドード鳥(てう)が莫迦(ばか)に眞面目(まじめ)になつて答(こた)へました。 『お前(まへ)は未(ま)だ他(ほか)に何(なに)か衣嚢(ポケツト)に持(も)つてるの?』と云(い)ひ足(た)して、愛(あい)ちやんの方(はう) を振向(ふりむ)きました。 『只(たツ)た指環(ゆびわ)を一箇(ひとつ)』と愛(あい)ちやんが悲(かな)しさうに云(い)ひました。 『皆(みん)な渡(わた)してお仕舞(しま)ひ』とドード鳥(てう)が云(い)ひました。  それから再(ふたゝ)び皆(みん)なが集(あつま)つた時(とき)に、ドード鳥(てう)は嚴(おごそ)かに指環(ゆびわ)を示(しめ)して、『吾輩( わがはい)は此(この)優美(いうび)なる指環(ゆびわ)を諸君(しよくん)の受納(じゆなふ)せられんことを望(のぞ)む』此(この)短(みじか)い 演説(えんぜつ)が濟(す)むと一同(どう)拍手喝采(はくしゆかつさい)しました。  愛(あい)ちやんは何(なに)から何(なに)まで可笑(をかし)くて堪(たま)りませんでした、が皆(みん)な揃(そろ)ひも揃(そろ)つて眞面目( まじめ)くさつてるので、眞逆(まさか)自分(じぶん)獨(ひと)り笑(わら)ふ譯(わけ)にも行(ゆ)きませんでした。何(なん)と云(い)つて可( い)いか解(わか)らぬので、愛(あい)ちやんは只(たゞ)一禮(れい)し、成(な)るべく嚴格(げんかく)な容貌(かほつき)をして指環(ゆびわ)を 取出(とりだ)しました。  それから乾菓子(ひぐわし)を食(た)べました。大(おほ)きな鳥(とり)は其味(そのあぢ)が解(わか)らないと云(い)つて訴(こぼ)す、小(ち ひ)さな鳥(とり)は哽(む)せて背中(せなか)を叩(たゝ)いて貰(もら)う、それは/\大騷(おほさわ)ぎでした。それが濟(す)むと、皆(みん) な復(ま)た輪(わ)になつて坐(すわ)り、もツと何(なに)か話(はな)してくれと鼠(ねずみ)に迫(せま)りました。 『お前(まへ)身(み)の上話(うへばなし)をする約束(やくそく)ではなくッて』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『何故(なぜ)嫌(きら)ひなの サ――ネとイが』と後(あと)から ※(「口+耳」、第3水準1-14-94) (さゝや)くやうに云(い)ひました、又(また)鼠(ねずみ)が怒(おこ)りはしないかと氣遣(きづか)はしげに。 『私(わたし)のは長(なが)くて其上(そのうへ)可哀相(かあいさう)なの』と云(い)つて、鼠(ねずみ)は愛(あい)ちやんの方(はう)へ振向(ふ りむ)きながら長太息(ためいき)を吐(つ)きました。 『長(なが)いの、さう』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、鼠(ねずみ)の尾(を)を不思議(ふしぎ)さうに眺(なが)めて、『でも、何故(なぜ)可 哀相(かあいさう)なの?』愛(あい)ちやんの鼠(ねずみ)が話(はなし)をしてる間(あひだ)始終(しゞゆう)謎(なぞ)でも聞(き)いてるやうな氣 (き)がしました、それで愛(あい)ちやんの考(かんが)へでは、其話(そのはなし)といふのは何(なに)か斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)風(ふう)なものだらうと思(おも)ひました。―― 『福公(ふくこう)が   家(うち)で鼠(ねずみ)に     逢(あ)つて      云(い)ふに       は、「一        緒(しよ)に芝(しば)ッ         原(ぱら)へ來(こ)          い、罰(ばつ)         してや        るから――       サア、も      う何(なん)と     云(い)つて    も駄目(だめ)   だ。何(ど)  うして   も訊問(じんもん)    の必要(ひつえう)     がある、      今朝(けさ)か       ら眞箇(ほんと)        に何(なん)に         も爲(し)な          いのだ           もの」            すると、           鼠(ねずみ)が小人(こびと)          に云(い)ふに         は「こん        な訊問(じんもん)が       何(なん)にな      るか、檢(けん)     事(じ)もな    ければ   判事(はんじ)も  ない、徒(いたづ)   らに吾々(われ/\)    の息(いき)を     費(つひや)すば      かりだ」       「僕(ぼく)が判(はん)        事(じ)にな         つてや          らう、檢(けん)         事(じ)にもな        つてやら       う」と云(い)      つて狡猾(かうかつ)     な福公(ふくこう)は、    「吾輩(わがはい)が總(すべ)   ての訴訟(そせう)    を判(さば)く、     可(い)いか、      汝(なんぢ)に死(し)       刑(けい)の宣(せん)        告(こく)をす         る」』 『お前(まへ)の知(し)つた事(こと)ではない』と鼠(ねずみ)は眞面目(まじめ)になつて愛(あい)ちやんに云(い)つて、『何(なに)を考(かん が)へてるのか?』 『え、何(なん)ですか』と愛(あい)ちやんは丁寧(ていねい)に答(こた)へて、『貴方(あなた)はこれで五度(たび)お辭儀(じぎ)をしましたね? 』 『しない!』と鼠(ねずみ)は怒(おこ)つて叫(さけ)びました。 『皆(みな)さん!』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、尚(な)ほ續(つゞ)けやうとして氣遣(きづか)はしげに身(み)の周(まは)りを見廻(みま は)し、『さア、これで解散(かいさん)しやうぢやありませんか!』 『そんな事(こと)をする必要(ひつえう)はない』と云(い)ひさま、鼠(ねずみ)は起(た)ち上(あが)つて歩(ある)き出(だ)しました。 『莫迦(ばか)なことを云(い)ふ、それは私(わたし)を侮辱(ぶじよく)すると云(い)ふものだ!』 『そんな譯(わけ)ぢやなくッてよ』と優(やさ)しくも愛(あい)ちやんが辯疏(いひわけ)しました。『眞箇(ほんと)に腹立(はらだち)ッぽいのね、 もう怒(おこ)つてゝ!』  鼠(ねずみ)は只(たゞ)齒軋(はぎし)りしたばかり。 『お出(い)でよ、話(はな)してお了(しま)ひな!』と愛(あい)ちやんが背後(うしろ)から呼(よ)びかけました。他(ほか)の者(もの)も皆(み な)聲(こゑ)を合(あは)せて、『さうだとも/\!』併(しか)し鼠(ねずみ)は只(たゞ)口惜(くや)しさうに頭(あたま)を振(ふ)つて、さッさ と歩(ある)いて行(い)つて了(しま)ひました。 『まァ、行(い)つて了(しま)つた、可哀相(かあいさう)に!』鼠(ねずみ)の姿(すがた)が全(まつた)く見(み)えなくなるや否(いな)や、ロー リー鳥(てう)は斯(か)う云(い)つて長太息(ためいき)を吐(つ)きました。乃(そこ)で初(はじ)めて機會(きくわい)を得(え)て、一疋(ぴき )の年老(としと)つた蟹(かに)が自分(じぶん)の娘(むすめ)に云(い)ひ聞(き)かせるには、『あァ、お前(まへ)ね!よく憶(おぼ)えてお居( ゐ)で、これは、お前(まへ)の惡性(あくしやう)は何(ど)うしても直(なほ)すことが出來(でき)ないと云(い)ふ好(い)い一つの教訓(けうくん )だから!』『何(なん)ですッて阿母(おかア)さん!』と其(その)若(わか)い蟹(かに)が怒(おこ)つて咬(か)みつくやうに云(い)ひました。 『年甲斐(としがひ)もない、お愼(つゝし)みなさい!』 『あァ、此處(こゝ)に玉(たま)ちやんが居(ゐ)れば可(い)いにねえ!』と別段(べつだん)誰(だれ)に云(い)ふともなく愛(あい)ちやんが聲高 (こわだか)に云(い)ひました。 『玉(たま)ちやんて誰(だれ)のこと、え、誰(だれ)?』とローリー鳥(てう)が云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは素(もと)より、其(その)可愛(かあい)い猫(ねこ)のことを話(はな)さう話(はな)さうと思(おも)つてた所(ところ)だッ たので、※心(ねつしん)[#「執/れんが」、U+24360、43-12]に答(こた)へて云(い)ふには、『玉(たま)ちやんは私(わたし)の猫( ねこ)よ。鼠捕(ねずみと)りの名人(めいじん)だわ!あァ然(さ)うだ、鳥(とり)を追(お)ッ驅(か)ける所(ところ)を見(み)せてあげたいのね !それこそ玉(たま)ちやんは其(そ)れを見(み)るが早(はや)いか、直(す)ぐに小鳥(ことり)などは捕(と)つて食(た)べて了(しま)つてよ! 』  此(この)話(はなし)は一同(どう)に著(いちじる)しき感動(かんどう)を與(あた)へました。中(なか)には遁出(にげだ)した鳥(とり)さへ あり、年老(としと)つた一羽(わ)の鵲(かさゝぎ)は用心深(ようじんぶか)くも身仕舞(みじまひ)して、『家(うち)へ歸(かへ)らう、夜露(よつ ゆ)は咽喉(のど)に毒(どく)だ!』と云(い)ひ出(だ)しました。又(また)金絲雀(かなりや)は顫(ふる)へ聲(ごゑ)で、『お歸(かへ)りよ、 皆(みン)な!もう寢(ね)る時分(じぶん)ぢやないか!』と其子供等(そのこどもら)を呼(よ)びました。種々(いろ/\)の口實(こうじつ)を設( まう)けて、皆(みン)な殘(のこ)らず立去(たちさ)つた後(あと)には、唯(たツ)た愛(あい)ちやん一人(ひとり)になつて了(しま)ひました。 『玉(たま)ちやんの事(こと)を話(はな)さなければ可(よ)かつた』と悲(かな)しげな聲(こゑ)で愛(あい)ちやんが呟(つぶや)きました。『誰 (だれ)も此處(こゝ)に居(ゐ)たもので、玉(たま)ちやんの好(す)きなものはないと見(み)える、だけど、屹度(きツと)玉(たま)ちやんは世界 中(せかいぢゆう)で一番(ばん)良(い)い猫(ねこ)に違(ちが)ひないわ!おゥ可愛(かあい)い玉(たま)ちやん!私(わたし)は今迄(いまゝで) のやうに始終(しゞゆう)お前(まへ)の傍(そば)に居(ゐ)られるかしら!』云(い)つて憐(あは)れな愛(あい)ちやんは、心細(こゝろぼそ)くな つて急(きふ)に又(また)泣(な)き出(だ)しました。  暫(しばら)くして愛(あい)ちやんは遠(とほ)くの方(はう)で、パタ/\小(ちひ)さな跫音(あしおと)のするのを聞(き)きつけ一心(しん)に 其方(そのはう)を見戌(みまも)[#「見戌」はママ]つて居(ゐ)ました、鼠(ねずみ)が機嫌(きげん)を直(なほ)して、戻(もど)つて來(き)て 、彼(あ)の話(はなし)を終(しまひ)までして呉(く)れゝば可(い)いがと思(おも)ひながら。 [#改ページ] 第四章  蜥蜴(とかげ)の『甚公(じんこう)』  來(き)たのは白兎(しろうさぎ)でした、再(ふたゝ)び駈(か)け戻(もど)つて來(き)て、恰(あだか)も何(なに)か遺失物(おとしもの)でも した時(とき)のやうにきよろ/\四邊(あたり)を見廻(みまは)しながら、『公爵夫人(こうしやくふじん)!公爵夫人(こうしやくふじん)!オヤ、私 (わたし)の可愛(かあい)い足(あし)は!私(わたし)の毛皮(けがは)や髯(ひげ)は!何(なん)と云(い)つても屹度(きつと)夫人(ふじん)は 私(わたし)を罰(ばつ)するに違(ちが)ひない!何處(どこ)へ其(そ)れを落(おと)したかしら?』と呟(つぶや)くのを聞(き)いて、愛(あい) ちやんは立所(たちどころ)に屹度(きつと)兎(うさぎ)が扇子(せんす)と白(しろ)い山羊仔皮(キツド)の手套(てぶくろ)とを探(さが)して居( ゐ)るに違(ちが)ひないと思(おも)つて、深切(しんせつ)にも其(そ)れを尋(たづ)ねてやりましたが、何處(どこ)にも見(み)えませんでした。 ――あの涙(なみだ)の池(いけ)で泳(およ)いでからは何(なに)も彼(か)も變(かは)つたやうで、硝子(ガラス)洋卓(テーブル)も小(ちひ)さ な戸(と)のあつた大廣間(おほびろま)も全(まつた)く何處(どこ)へか消(き)え失(う)せて了(しま)ひました。  忽(たちま)ち兎(うさぎ)は愛(あい)ちやんの居(ゐ)るのに氣(き)がつき、聲(こゑ)を怒(いか)らして呼(よ)びかけました、『オヤ、梅子( うめこ)さん、其處(そこ)に何(なに)をしてるの?早(はや)く行(い)つて手套(てぶくろ)と扇子(せんす)とを持(も)つてお出(い)で!早(は や)くさ!』愛(あい)ちやんの驚(おどろ)きは如何(いか)ばかりでしたらう、直(す)ぐに兎(うさぎ)の指(ゆびさ)した方(はう)へ向(むか)つ て駈(か)け出(だ)しました、間違(まちが)つてるのも何(なに)も關(かま)はず。 『私(わたし)を小間使(おこま)だと思(おも)つてるのよ』と愛(あい)ちやんは駈(か)けながら獨語(ひとりごと)を云(い)ひました。『喫驚(び ツくり)して人(ひと)の見境(みさかひ)もないんだわ!だけど、扇子(せんす)と手套(てぶくろ)は持(も)つて來(き)てやつた方(はう)が可(い )いわ――さうよ、若(も)し有(あ)つたら』云(い)ひ終(をは)ると同時(どうじ)に小綺麗(こぎれい)な小(ちひ)さな家(うち)へ來(き)て居 (ゐ)ました、其入口(そのいりくち)にはぴか/\した眞鍮(しんちゆう)の表札(へうさつ)に『山野兎(やまのうさぎ)』と其名(そのな)が彫(ほ) りつけてありました、愛(あい)ちやんは聲(こゑ)もかけずに二階(かい)へ駈(か)け上(あが)りました、眞實(ほんと)の梅子(うめこ)さんに逢( あ)つて、扇子(せんす)と手套(てぶくろ)とを見付(みつ)けない前(さき)に戸外(おもて)へ追出(おひだ)されやしないかと氣遣(きづか)ひなが ら。 『奇態(きたい)だこと、兎(うさぎ)の使(つか)ひに來(く)るな^ンて!』と獨語(ひとりごと)を云(い)つて、『今度(こんど)は屹度(きつと) 玉(たま)ちやんが私(わたし)を使(つか)ひにやるだらう!』云(い)つて愛(あい)ちやんは其時(そのとき)の事(こと)を種々(いろ/\)想像( さうざう)して見(み)ました、『「愛(あい)ちやん!まァ此處(こゝ)へお出(い)で、用(よう)があるんだから^サ!」「一寸(ちよツと)お入(は い)り、乳母(ばア)やも!私(わたし)が歸(かへ)つて來(く)るまで鼠(ねずみ)が逃(に)げ出(だ)さないやうに、此(この)鼠穴(ねずみあな) を番(ばん)してお居(ゐ)で」だけど』と云(い)つて尚(な)ほ、『若(も)し斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)風(ふう)に人(ひと)を使(つか)ふやうでも、皆(みん)なが玉(たま)ちやんを家(うち)に置(お)いて呉(く)れるかしら!』  やがて愛(あい)ちやんは整然(きちん)と片付(かたづ)いた小(ちひ)さな部屋(へや)へ行(ゆ)きました、窓(まど)の中(うち)には洋卓(テー ブル)もあり、其上(そのうへ)には(愛(あい)ちやんの望(のぞ)み通(どほ)り)一本(ぽん)の扇子(せんす)と二三の小(ちひ)さな白(しろ)い 山羊仔皮(キツド)の手套(てぶくろ)とが載(の)つてゐました。愛(あい)ちやんは其扇子(そのせんす)と手套(てぶくろ)とを取上(とりあ)げ、將 (まさ)に其處(そこ)を立去(たちさ)らうとして、姿見鏡(すがたみ)の傍(そば)にあつた小(ちひ)さな壜(びん)に眼(め)が止(と)まりました 。今度(こんど)は『召上(めしあが)れ』と書(か)いた貼紙(はりがみ)がありませんでしたが、それにも拘(かゝは)らず愛(あい)ちやんは栓(せん )を拔(ぬ)いて直(たゞ)ちに唇(くちびる)に宛(あ)てがひました。『屹度(きつと)今(いま)に好(い)い心持(こゝろもち)になるに違(ちが) ひない』と獨語(ひとりごと)を云(い)つて、『私(わたし)の食(た)べたり飮(の)んだりするものは何時(いつ)でも然(さ)うですもの、何(ど) んなものだかこれも一つ試(ため)して見(み)よう、好(い)い鹽梅(あんばい)にも一度(ど)私(わたし)が大(おほ)きくなつて呉(く)れゝば可( い)いが、全(まつた)く斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)小(ちひ)さな容體(なり)をしてるのは可厭(いや)だわ!』  實際(じつさい)思(おも)つたよりも早(はや)く、それを半分(はんぶん)飮(の)まない中(うち)に愛(あい)ちやんは頭(あたま)が天井(てん じやう)につかへたのを知(し)り、首(くび)の折(を)れない用心(ようじん)に屈(かゞ)んで、急(いそ)いで壜(びん)を下(した)に置(お)き 、『もう澤山(たくさん)よ――もう伸(の)びたかないわ――此(この)通(とほ)り、戸外(おもて)へ出(で)られなくなつて了(しま)つてよ――眞 箇(ほんと)にあんなに飮(の)まなければ好(よ)かつた!』と獨語(ひとりごと)を云(い)ひました。  可哀相(かあいさう)に!それは最(も)う後(あと)の祭(まつり)でした!愛(あい)ちやんは段々(だん/\)大(おほ)きくなるばかり、見(み) る間(ま)に床(ゆか)の上(うへ)へ跪(ひざまづ)かなければならなくなつて、其爲(そのため)に部屋(へや)は忽(たちま)ち一寸(すん)の隙間( すきま)もない程(ほど)になりました、愛(あい)ちやんは仕方(しかた)なく片方(かたはう)の肘(ひぢ)は戸(と)に凭(もた)れ、片方(かたはう )の腕(うで)は頭(あたま)の下(した)へ敷(し)いて横(よこ)になりましたが、それでも尚(な)ほ寸々(ずん/″\)伸(の)びて行(い)つて、 一番(ばん)終(しまひ)には、愛(あい)ちやんは片腕(かたうで)を窓(まど)の外(そと)に突出(つきだ)し、片足(かたあし)を煙突(えんとつ) の上(うへ)へ出(だ)しました、『どんな事(こと)があつても最(も)うこれが止(とま)りだらう、これで何(ど)うなるのかしら?』と呟(つぶや) きました。  愛(あい)ちやんの爲(ため)には勿怪(もツけ)の幸(さいはひ)、小(ちひ)さな魔法壜(まはふびん)は今(いま)充分(じうぶん)其功能(そのこ うのう)を顯(あら)はし終(をは)つたので、愛(あい)ちやんも最(も)うこれより大(おほ)きくはなりませんでした、が、それは非常(ひじよう)に 不愉快(ふゆくわい)で、恐(おそ)らくは再(ふたゝ)び其部屋(そのへや)から出(で)られる機會(きくわい)がないと知(し)つた時(とき)には、 何(ど)んなに愛(あい)ちやんはつく/″\身(み)の不幸(ふかう)を感(かん)じたでせう。 『家(うち)に居(ゐ)た方(はう)が幾(いく)ら面白(おもしろ)かつたか知(し)れないわ』と呟(つぶや)いて、最早(もう)これで大(おほ)きく もならなければ小(ちひ)さくもなれず、其上(そのうへ)鼠(ねずみ)や兎(うさぎ)に追(お)ひ使(つか)はれるんなら。私(わたし)は兎(うさぎ) の穴(あな)を下(お)りて來(こ)なければ好(よ)かつた――でも――でも――奇妙(きめう)だわ、こんな生活(せいくわつ)!これから何(ど)うな るのかしら!私(わたし)は何時(いつ)もお伽噺(とぎばなし)を讀(よ)む度(たび)に、有(あ)りさうにもない突飛(とつぴ)な事(こと)ばかり想 像(さうざう)するのよ、今(いま)も其最中(そのさいちゆう)なの!屹度(きつと)私(わたし)の事(こと)を書(か)いた本(ほん)が出來(でき) るわ、屹度(きつと)!私(わたし)が大(おほ)きくなつたら一(ひと)つ書(か)いてやらう――けど、今(いま)最早(もう)大(おほ)きくなつたん だわね』と悲(かな)しげな聲(こゑ)で、『もう大(おほ)きくならうとしても隙(すき)がないわ』 『これから先(さき)决(けつ)して最(も)う今(いま)より齡(とし)を加(と)らないのかしら?』と思(おも)つて愛(あい)ちやんは、『そんなら 可(い)いけど、一つ――决(けつ)してお婆(ば)アさんにはならず――けども――始終(しゞゆう)お稽古(けいこ)をしなければならないのですもの! それが一(ひと)つ可厭(いや)だわね!』『オヤ、莫迦(ばか)な愛(あい)ちやんだこと!』と自分(じぶん)で自分(じぶん)に云(い)つて、『何( ど)うして此處(こゝ)でお稽古(けいこ)が出來(でき)て?まァ部屋(へや)もありやしないわ、それから教科書(けうくわしよ)だッて!』  斯(か)うして愛(あい)ちやんは自問自答(じもんじたふ)を續(つゞ)けて居(ゐ)ましたが、暫(しばら)くして外(そと)の方(はう)で何(なに )か聲(こゑ)がするのを聞(き)きつけ、話(はなし)を止(や)めて耳(みゝ)を欹(そばだ)てました。 『梅子(うめこ)さん!梅子(うめこ)さん!直(す)ぐに手套(てぶくろ)を持(も)つて來(き)て頂戴(てうだい)!』と云(い)ふ聲(こゑ)がして 、軈(やが)てパタ/\と梯子段(はしごだん)を上(のぼ)る小(ちひ)さな跫音(あしおと)がしました。愛(あい)ちやんはそれが自分(じぶん)を見 (み)に來(き)た兎(うさぎ)だと知(し)つて、屋(おく)をも搖(ゆる)がさんばかりにガタ/\慄(ふる)へ上(あが)りました、自分(じぶん)は 兎(うさぎ)よりも殆(ほと)んど千倍(せんばい)も今(いま)大(おほ)きくなつて居(ゐ)るのだから何(なに)も怖(おそ)れる理由(わけ)はない のですが、そんな事(こと)は全然(すツかり)忘(わす)れて了(しま)つて。  忽(たちま)ち兎(うさぎ)は戸(と)に近(ちか)づき、それを開(あ)けやうとして中(なか)の方(はう)へ押(お)しましたが、愛(あい)ちやん の肘(ひぢ)が緊乎(しツかり)支(つか)へて居(ゐ)て駄目(だめ)でした。『仕方(しかた)がない、廻(まは)つて窓(まど)から這入(はい)らう 』愛(あい)ちやんは兎(うさぎ)が斯(か)う獨語(ひとりごと)を云(い)ふのを聞(き)きました。 『それも駄目(だめ)だ』と心(こゝろ)秘(ひそ)かに思(おも)つてる中(うち)、愛(あい)ちやんは兎(うさぎ)が窓(まど)の下(した)へ來(き )たのを知(し)り、急(きふ)に片手(かたて)を伸(の)ばして只(たゞ)當(あて)もなく空(くう)を掴(つか)みました。何(なん)にも捕(つか ま)らなかつたが小(ちひ)さな叫(さけ)び聲(ごゑ)と地響(ぢひゞき)と硝子(ガラス)の破(こわ)れる音(おと)とを聞(き)きました、其物音( そのものおと)で愛(あい)ちやんは、兎(うさぎ)が屹度(きつと)胡瓜(きうり)の苗床(なへどこ)の中(なか)へでも落(お)ち込(こ)んだに違( ちが)ひないと思(おも)ひました。  それから怒氣(どき)を含(ふく)んだ聲(こゑ)が聞(きこ)えました――兎(うさぎ)の――『小獸(ちび)や小獸(ちび)や!お前(まへ)何處(ど こ)に居(ゐ)るんだい?』すると聞(き)き慣(な)れない聲(こゑ)で、『此處(こゝ)に居(ゐ)るよ!林檎(りんご)を掘(ほ)つて!』 『林檎(りんご)を掘(ほ)つてるッて、眞箇(ほんと)か!』と兎(うさぎ)が腹立(はらだゝ)しげに云(い)ひました。『オイ、來(き)て助(たす) けて呉(く)れ!』(猶(な)ほ硝子(ガラス)の破(わ)れる音(おと)がする) 『何(ど)うしたんだい、小獸(ちび)、何(なん)だい窓(まど)のは?』 『オヤ、腕(うで)ぢやないか、え!(彼(かれ)はそれを『うンで』と發音(はつおん)しました) 『腕(うで)だ、莫迦(ばか)!そんな大(おほ)きな腕(うで)があるものか?なんだ、窓(まど)一ぱいぢやないか!』 『さうさ、お前(まへ)、けど、何(なん)と云(い)つたつて腕(うで)に違(ちが)ひない^サ』 『兎(と)に角(かく)、其儘(そんなり)で置(お)いちや仕樣(しやう)がない。行(い)つて取(と)つて了(しま)はう!』  後(あと)は暫(しば)らく森(しん)として、愛(あい)ちやんは只(たゞ)折々(をり/\)こんな ※(「口+耳」、第3水準1-14-94) (さゝや)きを聞(き)きました、『眞箇(ほんと)だ、可厭(いや)になつちまう、さうだとも、全(まツた)くさ!』『僕(ぼく)の云(い)つた通(と ほ)りにお爲(し)よ、卑怯(ひけう)だね!』終(つひ)に愛(あい)ちやんは再(ふたゝ)び其手(そのて)を伸(の)ばしてモ一度(ど)空(くう)を 掴(つか)みました。今度(こんど)は二(ふた)つの叫(さけ)び聲(ごゑ)がして、又(また)硝子(ガラス)のミリ/\と破(わ)れる音(おと)がし ました。『胡瓜(きうり)の苗床(なへどこ)が幾(いく)つあるんだらう!』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。『彼等(かれら)は次(つぎ)に 何(なに)をするかしら!引(ひ)き下(おろ)せるなら窓(まど)から私(わたし)を引(ひ)き下(おろ)して呉(く)れゝば好(い)いが!もう長(な が)く此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)處(ところ)に居(ゐ)たくない!』  愛(あい)ちやんはそれから暫(しばら)くの間(あひだ)待(ま)つて居(ゐ)ましたが何(なん)にも聞(きこ)えませんでした。良久(やゝあつ)て 小(ちひ)さな二輪車(りんしや)の響(ひゞ)きがしたと思(おも)ふと、皆(みん)なで一緒(しよ)に話(はな)しをする好(い)い澤山(たくさん) の聲(こゑ)が一時(じ)に耳(みゝ)に入(い)りました、愛(あい)ちやんは其言葉(そのことば)を聞(き)き分(わ)けました、『何處(どこ)にモ 一つ梯子(はしご)がある?――何故(なぜ)私(わたし)は一つしか持(も)つて來(こ)なかつたんだらう。甚公(じんこう)が未(ま)だ持(も)つて る――甚公(じんこう)が!それを此處(こゝ)へ持(も)つて來(こ)い、丁稚(でつち)!其隅(そのすみ)へ置(お)け――先(ま)ァ皆(みん)な一 緒(しよ)に縛(しば)れ――皆(みん)なだッて半分(はんぶん)も達(とゞ)きやしない――あァ!それで可(い)い、別々(べつ/\)にしては駄目( だめ)だ――さァ、甚公(じんこう)!此(この)繩(なは)を持(も)つてろ――屋根(やね)は大丈夫(だいじやうぶ)かしら?――其(その)緩(ゆる )い屋根瓦(やねがはら)に氣(き)をつけろ――ソラ落(お)ちるぞ!頭(あたま)の上(うへ)へ!(恐(おそ)ろしい響(ひゞ)き)――オヤ誰(だれ )がそんな事(こと)をしたんだ?――甚公(じんこう)だらう――煙突(えんとつ)を下(お)りて行(ゆ)くのは誰(だれ)だ?――否(いゝ)え、私( わたし)ぢやない!お前(まへ)だ!――でも私(わたし)ぢやない、甚公(じんこう)が下(お)りて行(ゆ)くんだ――さァ甚公(じんこう)!旦那(だ んな)が然(さ)う云(い)つたよ、お前(まへ)に煙突(えんとつ)を下(お)りて行(ゆ)けッて!』 『あァ!それで甚公(じんこう)が煙突(えんとつ)を下(お)りて來(き)たんだわ?』と愛(あい)ちやんは獨語(ひとりごと)を云(い)つて、『オヤ 、皆(みん)なが甚公(じんこう)の上(うへ)へ何(なに)も彼(か)も積(つ)んでるわ!私(わたし)は永(なが)く甚公(じんこう)の居(ゐ)る所 (ところ)には居(ゐ)まい。此(この)圍爐裡(ゐろり)は屹度(きつと)狹(せま)いわ、どれ、一寸(ちよツと)蹴(け)つて見(み)やう!』 蜥蜴の甚公の図  愛(あい)ちやんは思(おも)ひ切(き)つて遙(はる)か下(した)の方(はう)へ其煙突(そのえんとつ)を蹴落(けおと)しました、暫(しばら)く すると小(ちひ)さな動物(どうぶつ)(愛(あい)ちやんには何(なん)だか解(わか)りませんでした)が、直(す)ぐ其煙突(そのえんとつ)の中(な か)で攀登(よぢのぼ)らうとして引(ひ)ッ掻(か)く音(おと)を聞(き)きました、乃(そこ)で愛(あい)ちやんは、『これが甚公(じんこう)かし ら』と獨語(ひとりごと)を云(い)つて又(また)一つ劇(はげ)しく蹴(け)つて、それから何(ど)うなる事(こと)かと見(み)て居(ゐ)ました。  愛(あい)ちやんは最初(さいしよ)多勢(おほせい)が一緒(しよ)に、『甚公(じんこう)が出(で)た!』と云(い)ふのを聞(き)きました、それ から兎(うさぎ)の聲(こゑ)ばかりで――『捕(つかま)へろ、ソレ生垣(いけがき)の所(ところ)へ!』やがて又(また)がや/\と――『頭(あたま )を抑(おさ)へろ――サァ、文公(ぶんこう)――殺(ころ)すな――何(ど)うしたんだ、え?何(ど)うかしたのか?云(い)はないかよ!』  終(つひ)に小(ちひ)さな脾弱(ひよわ)い金切聲(かなきりごゑ)で(それが甚公(じんこう)だと愛(あい)ちやんは思(おも)ひました)『さァ、 私(わたし)には解(わか)らない――もう、有(あ)りがたう、もう可(い)い――でも腹(はら)が立(た)つて話(はな)せない――皆(みん)な知( し)つてるけど、何(なん)だかごちや/\で雜物箱(がらくたばこ)のやうだ、私(わたし)は烽火(のろし)のやうに空(そら)へ上(あが)つて行(ゆ )く!』 『然(さ)うだ!』と他(ほか)の者(もの)が云(い)ひました。 『此(この)家(うち)を燒(や)き潰(つぶ)せ!』と兎(うさぎ)の聲(こゑ)。愛(あい)ちやんは精(せい)一ぱい大(おほ)きな聲(こゑ)で、『 其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)事(こと)をすれば玉(たま)ちやんを使嗾(けしか)けるから可(い)いわ!』と叫(さけ)びました。  直(たゞ)ちに皆(みん)な息(いき)を殺(ころ)して默(だま)つて了(しま)ひました、愛(あい)ちやんは心(こゝろ)に思(おも)ふやう、『彼 等(かれら)はこの次(つぎ)に何(なに)をするだらう!若(も)し生(しやう)があるものなら屋根(やね)を取除(とりの)けるやうな莫迦(ばか)は しないだらう』程(ほど)經(へ)て彼等(かれら)は再(ふたゝ)び動(うご)き出(だ)しました、愛(あい)ちやんは兎(うさぎ)が、『一(ひと)ッ 車(くるま)あれば可(い)い、さァ、行(や)らう』と云(い)ふのを聞(き)きました。 『一ッ車(くるま)、何(なん)だらう?』とは思(おも)つたものゝ考(かんが)へてる隙(ひま)もなく、軈(やが)て砂礫(されき)の雨(あめ)が窓 (まど)に降(ふ)りかゝると見(み)る間(ま)に、二三人(にん)して愛(あい)ちやんの顏(かほ)を打擲(ちやうちやく)しました。 『最(も)う爲(し)ないから』と愛(あい)ちやんは獨語(ひとりごと)を云(い)つて、『皆(みん)なも最(も)うそんな事(こと)をしないでお呉( く)れ!』と叫(さけ)びました。すると又(また)皆(みん)な默(だま)つて了(しま)つたので四邊(あたり)が森(しん)としました。  小石(こいし)が床(ゆか)の上(うへ)に落(お)ち散(ち)つた時(とき)に、それが殘(のこ)らず小(ちひ)さな菓子(くわし)と變(かは)つた のを見(み)て、愛(あい)ちやんは大層(たいそう)驚(おどろ)きました、が又(また)同時(どうじ)に好(い)い事(こと)を考(かんが)へつきま した。『若(も)し此(この)菓子(くわし)を一(ひと)つ食(た)べたなら屹度(きつと)私(わたし)の大(おほ)きさが變(かは)つて來(く)るに 違(ちが)ひない、大抵(たいてい)大(おほ)きくなる氣遣(きづか)ひはなからう。小(ちひ)さくなるに定(き)まつてる』と愛(あい)ちやんは思( おも)ひました。  其故(それゆゑ)愛(あい)ちやんは其菓子(そのくわし)を一個(ひとつ)嚥(の)み込(こ)みました、ところが直(す)ぐに縮(ちゞ)み出(だ)し たのを見(み)て喜(よろこ)ぶまいことか、戸口(とぐち)から出(で)られる位(くらゐ)小(ちひ)さくなるや否(いな)や家(うち)から駈(か)け 出(だ)して、戸外(そと)に待(ま)つてる筈(はづ)の小(ちひ)さな動物(どうぶつ)や鳥(とり)の全群(ぜんぐん)を探(さが)しました。憐(あ は)れな小(ちひ)さな蜥蜴(とかげ)の甚公(じんこう)が眞中(まンなか)に居(ゐ)て、二匹(ひき)の豚(ぶた)に支(さゝ)へられながら一本(ぽ ん)の壜(びん)から何(なん)だか出(だ)して貰(もら)つて居(ゐ)ましたが、愛(あい)ちやんの姿(すがた)を見(み)ると直(す)ぐに皆(みん )な其方(そのはう)へ突進(とつしん)しました、すると愛(あい)ちやんは何(なん)と思(おも)つたか一生懸命(しやうけんめい)に逃(に)げ出( だ)して忽(たちま)ち欝蒼(こんもり)した森(もり)の中(なか)へ無事(ぶじ)に駈(か)け込(こ)みました。 『先(ま)づ第一(だいいち)に、復(ま)た元(もと)の身長(せい)にならなくては』と、森(もり)の中(なか)を ※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33) ※(「彳+羊」、第3水準1-84-32) (さまよ)ひながら愛(あい)ちやんは獨語(ひとりごと)を云(い)つて、『それから第(だい)二には、あの美(うつく)しい花園(はなぞの)に行(ゆ )く道(みち)を探(さが)さなくてはならないが、何(なに)か良(い)い工夫(くふう)はないかしら』  彼此(かれこれ)と種々(いろ/\)優(すぐ)れた簡便(かんべん)な方法(はうはふ)を稽(かんが)へては見(み)たものゝ、只(たゞ)厄介(やく かい)な事(こと)には何(ど)うして其(そ)れを實行(じつこう)すべきかと云(い)ふ名案(めいあん)を持(も)たなかつたことです。愛(あい)ち やんは心配(しんぱい)さうに木々(きゞ)の間(あひだ)を覗(のぞ)き廻(まは)つてゐましたが、軈(やが)て其頭(そのあたま)の眞上(まうへ)に あつた小(ちひ)さな尖(とが)つた木(き)の皮(かは)に、ひよいと眼(め)が着(つ)きました。  恐(おそ)ろしく大(おほ)きな犬(いぬ)ころが、大(おほ)きな圓(まる)い眼(め)をして愛(あい)ちやんを見下(みおろ)して居(ゐ)ました、 愛(あい)ちやんに觸(さわ)らうとして前足(まへあし)を一本(ぽん)恐(おそ)る/\伸(の)ばして。愛(あい)ちやんは媚(あま)へるやうな聲( こゑ)で、『まァ、可哀相(かあいさう)に!』と云(い)つて、思(おも)はず口笛(くちぶえ)を吹(ふ)かうとしました、が、待(ま)てよ、若(も) し其犬(そのいぬ)ころが飢(う)ゑて居(ゐ)ては、幾(いく)らお世辭(せじ)をつかつても屹度(きつと)噛(か)み殺(ころ)されて了(しま)うに 違(ちが)ひないと思(おも)つて、心配(しんぱい)の餘(あま)りガタ/\慄(ふる)へてゐました。  われ知(し)らず愛(あい)ちやんは小枝(こえだ)の切(きれ)ッ端(ぱし)を拾(ひろ)ひ上(あ)げ、それを犬(いぬ)ころの方(はう)へ出(だ) してやると、犬(いぬ)ころは直(たゞ)ちに四ッ足(あし)揃(そろ)へて空(くう)に跳(と)び上(あが)りさま、喜(よろこ)び勇(いさ)んで其枝 (そのえだ)に吠(ほ)えつきました、乃(そこ)で愛(あい)ちやんは跳(と)びつかれては大變(たいへん)だと大(おほ)きな薊(あざみ)の後(うし ろ)へ身(み)をかはしました。一^ト廻(まは)りして愛(あい)ちやんが他(ほか)の方(はう)へ現(あらは)れた時(とき)に、犬(いぬ)ころはモ 一度(ど)枝(えだ)を目蒐(めが)けて跳(と)びかゝり、それに掴(つか)まらうとして餘(あま)り急(いそ)いだ爲(た)め、過(あやま)つて筋斗 返(とんぼがへ)りを打(う)ちました。其時(そのとき)愛(あい)ちやんは犬(いぬ)ころが、馬車馬(ばしやうま)の眞似(まね)をして遊(あそ)ぶ のが大好(だいす)きだと云(い)ふことを思(おも)ひ出(だ)したので、踏(ふ)みつけられては大變(たいへん)だと再(ふたゝ)び薊(あざみ)の周 圍(しうゐ)を廻(まは)りました、犬(いぬ)ころは其枝(そのえだ)へ跳(と)びうつるばかりになつて、嬉(うれ)しさうに絶(た)えず戯(たはむ) れたり吠(ほ)えたりして、呼吸苦(いきぐる)しい所爲(せゐ)か、ゼイ/\云(い)ひながら、其口(そのくち)からは舌(した)を垂(た)れ、又(ま た)其(その)大(おほ)きな眼(め)を半(なか)ば閉(と)ぢてゐました。 「われ知《し》らず愛《あい》ちやんは小枝《こえだ》の切《きれ》ツ端《ぱし》を拾《ひろ》ひ上《あ》げ、それを犬《いぬ》ころの方《はう》に出《だ》 してやりました、」のキャプション付きの図 われ知(し)らず愛(あい)ちやんは小枝(こえだ)の切(きれ)ツ端(ぱし)を拾(ひろ)ひ上(あ)げ、それを犬(いぬ)ころの方(はう)に出(だ)し てやりました、  愛(あい)ちやんは今(いま)こそ逃(に)げるに好(い)い時(とき)だと思(おも)つて遽(には)かに駈(か)け出(だ)し、終(つひ)には疲(つ か)れて息(いき)も絶(き)れ、犬(いぬ)ころの遠吠(とほゞえ)が全(まつた)く聞(きこ)えなくなるまで走(はし)り續(つゞ)けました。 『でも、可愛(かあい)い犬(いぬ)ころだッたわね!』息(やす)まうとして毛莨(キンポーゲ)に凭(よ)り掛(かゝ)つた時(とき)に、其葉(そのは )の一枚(まい)を取(と)つて扇(あふ)ぎながら愛(あい)ちやんが云(い)ひました、『私(わたし)が若(も)しそんな事(こと)をする年頃(とし ごろ)ならば、ねえ!――もつと澤山(たくさん)惡戯(わるさ)を教(をし)へてやつたもの!復(ま)た大(おは)[#ルビの「おは」はママ]きくなら なければならないのだが!しかし――何(ど)うしたら可(い)いでせう?屹度(きつと)何(なに)か食(た)べるか飮(の)むかすれば可(い)いに違( ちが)ひないわ、けれども茲(こゝ)に大問題(だいもんだい)があるのよ、何(なに)?』  大問題(だいもんだい)と云(い)ふのは確(たし)かに『何(なに)?』と云(い)ふことでした。愛(あい)ちやんは自分(じぶん)の周圍(しうゐ) にある草(くさ)の花(はな)や葉(は)を殘(のこ)らず見(み)ましたが、此(この)場合(ばあひ)食(た)べたり飮(の)んだりして可(い)いやう な適當(てきたう)の物(もの)を見出(みいだ)すことが出來(でき)ませんでした。所(ところ)が不圖(ふと)傍(わき)を見(み)ると自分(じぶん )の身長(せい)くらゐもある大(おほ)きな菌(きのこ)が出(で)て居(ゐ)るのに氣(き)がつくや、早速(さつそく)其兩面(そのりやうめん)と後 (うし)ろとを見終(みをは)つたので、次(つぎ)には其頂(そのいたゞ)きに何(なに)があるかを能(よ)く檢査(けんさ)する必要(ひつえう)が起 (おこ)つて來(き)ました。  愛(あい)ちやんは爪先(つまさき)で立上(たちあが)り、菌(きのこ)の縁(ふち)を殘(のこ)る隈(くま)なく見(み)て居(ゐ)る中(うち)、 端(はし)なくも其(その)眼(め)は直(たゞ)ちに大(おほ)きな青(あを)い芋蟲(いもむし)の眼(め)と出合(であ)ひました。芋蟲(いもむし) は腕(うで)を組(く)んで其頂(そのいたゞ)きに坐(すわ)り、悠々(いう/\)と長(なが)い水煙草(みづたばこ)の煙管(きせる)を喫(ふか)し てゐて、愛(あい)ちやんや其他(そのた)の物(もの)にも一切(いつさい)眼(め)をくれませんでした。 [#改ページ] 第五章  芋蟲(いもむし)の訓誨(くんくわい)  芋蟲(いもむし)と愛(あい)ちやんとは互(たがひ)に暫(しばら)く默(だま)つて睨(にらめ)ツ競(こ)をして居(ゐ)ましたが、終(つひ)に芋 蟲(いもむし)が其口(そのくち)から煙管(きせる)を離(はな)して、舌(した)ッたるいやうな眠(ねむ)さうな聲(こゑ)で、 『誰(だれ)だい?』と言葉(ことば)をかけました。  こんな事(こと)ではなか/\談話(はなし)の口切(くちきり)にはなりませんでしたが、それでも愛(あい)ちやんは些(や)や羞(はに)かみながら 、『私(わたし)――さうね、今(いま)――それは今朝(けさ)起(お)きた時(とき)から私(わたし)が誰(だれ)だか位(ぐらゐ)は知(し)つゝて よ、けれども是迄(これまで)に何遍(なんぺん)[#ルビの「なんぺん」はママ]も變(かは)つてるからね』 『何(なん)だつッて?』芋蟲(いもむし)は嚴(いか)めしさうに云(い)つて、 『お前(まへ)何者(なにもの)だ!』 『何(なん)だか解(わか)らないの、自分(じぶん)で自分(じぶん)が』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『でも、自分(じぶん)が自分(じぶん) でないんだもの、ね』 『解(わか)らないなァ』と芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。 芋蟲の図 『けど、もつと分明(はつきり)云(い)へと云(い)つたつてそれは無理(むり)よ』愛(あい)ちやんは極(きは)めて愼(つゝ)ましやかに答(こた) へて、『でも、私(わたし)は初(はじめ)ッから自分(じぶん)で自分(じぶん)が解(わか)らないんですもの、幾度(いくど)も大(おほ)きくなつた り小(ちひ)さくなつたりしたんで、何(なに)が何(なん)だか滅茶苦茶(めちやくちや)になつて了(しま)つてよ』 『そんな筈(はづ)はない』と芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。 『では、未(ま)だお前(まへ)はそれを知(し)らないんだわ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『でも、お前(まへ)が蛹(さなぎ)に化(な)つて から――何時(いつ)かしら屹度(きつと)解(わか)るわ――それから更(ま)た蝶(てふ)になる時(とき)に、お前(まへ)はそれを幾(いく)らか變 (へん)だと思(おも)ふに違(ちが)ひないわ?』 『些(ちつ)とも、何(なん)とも思(おも)やしない』と芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。 『まァ、お前(まへ)の感覺(かんかく)は何(ど)うかしてるんだわ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『私(わたし)には何(ど)うしても變(へん )に思(おも)はれてよ』 『お前(まへ)に!』と芋蟲(いもむし)は輕蔑(けいべつ)して、『一體(たい)お前(まへ)は誰(だれ)だい?』  爰(こゝ)で復(ま)た話談(はなし)が後戻(あともど)りをしました。愛(あい)ちやんは芋蟲(いもむし)がこんな詰(つま)らぬ念(ねん)を押( お)すので少(すこ)し焦心(じれ)ッたくなつて、やゝ後退(あとじさ)りして極(きは)めて眞面目(まじめ)に構(かま)へて、『お前(まへ)こそ誰 (だれ)だ、一體(たい)前(さき)に話(はな)すのが當然(あたりまへ)ぢやなくッて』 『何(なに)ッ?』と芋蟲(いもむし)。  乃(そこ)で種々(いろ/\)押問答(おしもんだふ)しましたが、愛(あい)ちやんの方(はう)でも別段(べつだん)巧(うま)い理屈(りくつ)も出 (で)ず、殊(こと)に芋蟲(いもむし)が非常(ひじよう)に不興(ふきよう)げに見(み)えたので、愛(あい)ちやんは早速(さつそく)戻(もど)り かけました。 『お還(かへ)りよ!』と芋蟲(いもむし)が後(あと)から呼(よ)びかけて、『大事(だいじ)な事(こと)を云(い)ひ殘(のこ)したから^サ!』  これは確(たし)かに有望(いうばう)だと思(おも)つて、愛(あい)ちやんは振向(ふりむ)きさま再(ふたゝ)び歸(かへ)つて來(き)ました。 『さう怒(おこ)るものぢやない』と芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。 『其(それ)ッ限(き)り?』と愛(あい)ちやんはグツト怒(いか)りを嚥(の)み込(こ)んで云(い)ひました。 『否(いゝ)え』と芋蟲(いもむし)。  愛(あい)ちやんは他(ほか)に別段(べつだん)用事(ようじ)もなかつたので、大方(おほかた)終(しま)ひには何(なに)か良(い)い事(こと) を話(はな)して呉(く)れるだらうと思(おも)つて悠然(ゆつくり)待(ま)つてゐました。暫(しばら)くの間(あひだ)芋蟲(いもむし)は話(はな )しもしないで莨(たばこ)の煙(けむ)を吹(ふ)いて居(ゐ)ましたが、終(つひ)には腕組(うでぐみ)を止(や)めて再(ふたゝ)び其口(そのくち )から煙管(きせる)を離(はな)し、 『それでもお前(まへ)は變(かは)つたと思(おも)へるか、え?』 『さうらしいのよ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『でも、習慣(しふくわん)になつて了(しま)つて憶(おぼ)えて居(を)られないわ――だッて 、十分(ぷん)間(かん)を全(まつた)く同(おな)じ大(おほ)きさで居(ゐ)られないのですもの』 『憶(おぼ)えて居(ゐ)ないッて、何(なに)を?』と芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。 『私(わたし)、「小(ちひ)さな蜜蜂(みつばち)」の唱歌(しよう)[#ルビの「しよう」はママ]を云(い)つて見(み)たの、けど、皆(みん)な違 (ちが)つて居(ゐ)たのよ!』と愛(あい)ちやんは大層(たいさう)悲(かな)しげな聲(こゑ)で答(こた)へました。 「『裏(うら)の老爺(ぢい)さん」を復誦(ふくせう)して御覽(ごらん)』と芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは兩手(りやうて)を擴(ひろ)げて、歌(うた)ひ初(はじ)めました。―― 若(わか)い男(をとこ)の云(い)ふことにや、  『裏(うら)の老爺(ぢい)さん、白髮(しらが)になつた、 それでも、頭(あたま)で立(た)つては居(ゐ)るが――  幾歳(いくつ)になつたか憶(おぼ)えてゐるか?』 裏(うら)の老爺(ぢい)さんの云(い)ふことにや、  『若(わか)い時分(じぶん)にや一生懸命(いつしやうけんめい)、 腦味噌(のうみそ)痛(いた)めぬ算段(さんだん)ばかり、   斯(か)うした平氣(へいき)も、それがため』 若(わか)い男(をとこ)の云(い)ふことにや、  『老爺(ぢい)さん、此頃(このごろ)莫迦(ばか)げて肥(こ)えた、 それでも、妄(やたら)に、戸板(といた)の上(うへ)で、   筋斗返(とんぼがへ)りするとは何(ど)うした譯(わけ)だ?』 白髮頭(しらがあたま)を振(ふ)り立(た)てゝ、   裏(うら)の老爺(ぢい)さんの云(い)ふことにや、 『手足(てあし)へ貼(は)ッ置(と)いた膏藥(こうやく)の所爲(せゐ)で――   一錢(せん)で一(ひ)^ト箱(はこ)――二箱(ふたはこ)賣(う)ろか?』 若(わか)い男(をとこ)の云(い)ふことにや、  『蝋(らふ)より軟(やらか)い ※(「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28) (をとがひ)してゝ 骨(ほね)から嘴(くち)から、すッかり揃(そろ)た――  そんな鵞鳥(がてう)が何(ど)うして造(つく)つた?』 裏(うら)の老爺(ぢい)さんの云(い)ふことにや  『これでも、若(わか)い時(とき)や、芝(しば)ッ原(ぱら)へ出(で)かけ、 偶(たま)には、嚊(かゝ)ァと角力(すまふ)をとつた、   腕(うで)の力(ちから)の今(いま)猶(な)ほあれば』 若(わか)い男(をとこ)の云(い)ふことにや、  『年齡(とし)の加※(かげん)[#「冫+咸」、U+51CF、70-10]で眼(め)は霞(かす)んでも、 鼻(はな)ッ粱(ぱしら)[#「粱」はママ]で鰻(うなぎ)の藝當(げいたう)――   感心(かんしん)する程(ほど)、上手(じやうず)な技倆(てなみ)』 裏(うら)の老爺(ぢい)さんの云(い)ふことにや、  『これで、三(みツ)つの問答(もんだう)が終(を)へた、 文句(もんく)云(い)はずに、さッさと歸(かへ)れ、   歸(かへ)らにや、蹴(け)るぞよ、梯子段(はしごだん)の下(した)へ!』 『それは間違(まちが)つてる』と芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。 『間違(まちが)つてるかも知(し)れないわ』と愛(あい)ちやんは恐(おそ)る/\云(い)つて、『二言(ふたこと)や三言(みこと)は變(か)へた のよ』 『始(はじめ)から終(しまひ)まで間違(まちが)つてる』と斷乎(きつぱり)芋蟲(いもむし)が云(い)ひました。それから双方(さうはう)とも口( くち)を噤(つぐ)んで了(しま)つたので、暫(しばら)くの間(あひだ)又(また)森(しん)としました。  やがて芋蟲(いもむし)から、 『どの位(ぐらゐ)大(おほ)きくなりたいのか?』と訊(き)きました。 『特別(とくべつ)然(さ)う大(おほ)きくなりたかないの』と答(こた)へて愛(あい)ちやんは忙(いそが)しさうに、『他(ほか)の人(ひと)もこ んなに度々(たび/″\)變(かは)るかしら、え』 『知(し)らないねえ』と芋蟲(いもむし)。  愛(あい)ちやんは何(なん)とも云(い)ひませんでした、生(うま)れてから今(いま)までに斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)無愛想(ぶあいさう)な事(こと)を云(い)はれたことがなかつたので、愛(あい)ちやんは甚(はなは)だ面白(おもしろ)からず思(おも) ひました。 『お前(まへ)それで滿足(まんぞく)かい?』と芋蟲(いもむし)。 『然(さ)うねえ、も少(すこ)し大(おほ)きくなりたいの、知(し)らず識(し)らずの中(うち)に』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『三寸(ず ん)ばかりぢや見窄(みすぼ)らしくッて不可(いけな)いわ』 『それで結構(けつこう)さ!』と芋蟲(いもむし)は氣短(きみじ)かに云(い)つて、ツイと伸(の)し上(あが)ると(それが丁度(ちやうど)三寸( ずん)の高(たか)さでした)。 『其位(そのくらゐ)ぢや滿足(まんぞく)は出來(でき)ないわ』と痛(いた)ましげな聲(こゑ)で憐(あは)れな愛(あい)ちやんが呟(つぶや)いて 、さて思(おも)ふやう、『何(ど)うかして芋蟲(いもむし)を怒(おこり)ッぽくしない工夫(くふう)はないものかしら』 『今(いま)に習慣(しうくわん)で何(なん)ともないやうになつて了(しま)う』と云(い)つて芋蟲(いもむし)は、口(くち)に煙管(きせる)を啣 (くわ)へて再(ふたゝ)び喫(の)み初(はじ)めました。  今度(こんど)も愛(あい)ちやんは、芋蟲(いもむし)が復(ま)た話(はな)し出(だ)すまで辛抱(しんばう)して待(ま)つて居(ゐ)ました。良 久(しばらく)して芋蟲(いもむし)は口(くち)から煙管(きせる)を離(はな)し、二つ三つ欠(あくび)をして身振(みぶる)ひしたかと思(おも)ふ と、軈(やが)て菌(きのこ)の下(した)を草(くさ)の中(なか)へ這ひ込(こ)みました、只(たゞ)斯(か)う云(い)ひ殘(のこ)して、『一方( ぱう)へばかり、もッと高(たか)く、それから一方(ぱう)は、ずッと短(みじ)かくしてやらう』 『一方(ぱう)ッて何(なん)の?モ一方(ぱう)ッて何方(どつち)?』と愛(あい)ちやんは考(かんが)へました。 『菌(きのこ)のさ』と芋蟲(いもむし)は、恰(あだか)も愛(あい)ちやんに問(と)はれたかの如(ごと)く聲高(こわだか)に云(い)つて、直(ぢ )きに見(み)えなくなりました。  愛(あい)ちやんは暫(しばら)く立停(たちどま)り、其兩面(そのりやうめん)を知(し)らうとして一心(しん)に菌(きのこ)を眺(なが)めて考 (かんが)へ込(こ)みました、それが全(まつた)く眞圓(まんまる)だつたので、これは甚(はなは)だ厄介(やくかい)な難問題(なんもんだい)だと 思(おも)ひました。が、やがて愛(あい)ちやんは、伸(の)びるだけ遠(とほ)くへ兩腕(りやううで)を伸(の)ばして、其端(そのはし)を一^ト片 (かけ)叩(たゝ)き落(おと)しました。 『さァ、何方(どつち)が何方(どつち)?』と呟(つぶや)いて、功能(こうのう)を試(ため)すために右手(めて)に持(も)つた一^ト片(かけ)を 少(すこ)し舐(な)めました、すると愛(あい)ちやんは忽(たちま)ち、其顎(そのあご)の下(した)を強(したゝ)か打(う)たれたのに氣(き)が ついて、不圖(ふと)見(み)ると、顎(あご)と足(あし)と鉢合(はちあは)せをしてゐました。  愛(あい)ちやんは此(この)急激(きふげき)な變化(へんくわ)に一方(ひとかた)ならず驚(おどろ)かされました、逡巡(ぐづ/″\)してる場合 (ばあひ)ではないと知(し)つて、直(たゞち)に他(た)の手(て)に持(も)つた一(ひ)^ト片(かけ)を食(く)はうとしましたが、顎が足(あし )に緊乎(しツかり)と接合(くツつ)いて了(しま)つてるので、殆(ほと)んど口(くち)を開(あ)くことも出來(でき)ませんでした、辛(やつ)と のことで左手(ゆんで)の一(ひ)^ト片(かけ)を少(すこ)しばかり嚥(の)み込(こ)みました。     *      *      *      *        *      *      *      * 『オヤ、私(わたし)の頭(あたま)は何處(どこ)かへ行(い)つて了(しま)つたわ』愛(あい)ちやんは雀躍(こおどり)して喜(よろこ)んだ甲斐( かひ)もなく、其(その)喜(よろこ)びは忽(たちま)ち驚(おどろ)きと變(へん)じました、愛(あい)ちやんは自分(じぶん)の肩(かた)が何處( どこ)にも見(み)えなくなつたのに氣(き)がついて、方々(はう/″\)探(さが)し廻(まは)り、下(した)を見(み)ると驚(おどろ)く程(ほど )首(くび)が長(なが)くなつて居(ゐ)て、宛(まる)でそれは、遙(はる)か眼下(がんか)に横(よこ)たはれる深緑(しんりよく)の木(こ)の葉 (は)の海(うみ)から抽(ぬ)き出(で)て居(ゐ)る莖(くき)のやうに見(み)えました。 『あの緑(みどり)の織物(おりもの)は皆(みん)な何(なん)でせう?』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『何處(どこ)へ私(わたし)の肩(かた )は行(い)つて了(しま)つたのかしら?オヤ、可哀相(かあいさう)に、何(ど)うしたんでせう、私(わたし)の手(て)も見(み)えないわ?』愛( あい)ちやんは斯(か)う云(い)ひながらそれを振(ふ)つて見(み)ましたが、別(べつ)に變(かは)つた事(こと)もなく、只(たゞ)遠方(ゑんぱ う)の緑(みどり)の葉(は)の中(なか)で、それが僅(わづ)かばかり動(うご)いてゐました。  頭(あたま)へ其手(そのて)を上(の)せることは迚(とて)も出來(でき)さうもないので、愛(あい)ちやんは頭(あたま)を下(さ)げて手(て) に達(とゞ)かせやうとして、今度(こんど)は自分(じぶん)の首(くび)が蛇(へび)のやうに容易(ようい)に遠(とほ)くの方(はう)へ曲(まが) り廻(まは)るのを見(み)て大變(たいへん)喜(よろこ)びました。愛(あい)ちやんは軟(やはら)かい梢(こずゑ)を押(お)し分(わ)けて、其首 (そのくび)を突(つ)ッ込(こ)み、半圓(はんゑん)を描(えが)きながら巧(たく)みに青葉(あをば)の中(なか)に濳(もぐ)らうとしました、愛 (あい)ちやんは此時(このとき)まで、木(こ)の葉(は)は只(たゞ)樹(き)の頂上(てうじやう)にのみあるものだと思(おも)つてゐました、木( き)の下(した)に ※(「彳+羊」、第3水準1-84-32) ※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33) (さまよ)[#「 ※(「彳+羊」、第3水準1-84-32) ※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33) 」はママ]つてると何處(どこ)ともなく叱(し)ッと云(い)ふ聲(こゑ)がしたので、思(おも)はず愛(あい)ちやんは後退(あとじさ)りしました、 ト一羽(は)の大(おほ)きな鳩(はと)が顏(かほ)に飛(と)びついて、翼(つばさ)を以(もつ)て激(はげ)しく愛(あい)ちやんを搏(う)ちまし た。 『蛇(へび)だ!』と鳩(はと)が叫(さけ)びました。 『蛇(へび)ぢやないわ!』と愛(あい)ちやんは腹立(はらだゝ)しげに云(い)つて、『大(おほ)きなお世話(せわ)よ!』 『ナニ蛇(へび)だ、蛇(へび)だ!』と繰返(くりかへ)しましたが鳩(はと)は、以前(まへ)よりも餘程(よほど)優(やさ)しく、其上(そのうへ) 可哀相(かあいさう)に歔欷(すゝりなき)までして、『私(わたし)は種々(いろ/\)經驗(ため)したが、蛇(へび)に似寄(によ)つたものは他(ほ か)に何(なに)もない!』 『お前(まへ)の云(い)ふことは少(ちつ)とも解(わか)らない』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『私(わたし)は所有(あらゆる)木(き)の根(ね)を驗(しら)べました、堤防(どて)も試(み)ました、それから垣(かき)も』と云(い)ひ足(た )して、鳩(はと)は愛(あい)ちやんには關(かま)はず、『けど蛇(へび)は!誰(だれ)でも嫌(きら)ひだ!』  愛(あい)ちやんは益々(ます/\)何(なん)の事(こと)だか譯(わけ)が解(わか)らなくなりましたが、鳩(はと)の言葉(ことば)の終(をは) るまで何(なん)にも云(い)ふまいと控(ひか)へてゐました。 『縱令(よし)、それが全(まつた)く卵(たまご)を孵(かへ)す邪魔(じやま)をしないにせよ』と云(い)つて鳩(はと)は、『それにしても、私(わ たし)は晝夜(ちうや)蛇(へび)を見張(みは)らなければならない!さう云(い)へば、私(わたし)はこの三週間(しうかん)些(ちツ)とも羊(ひつ じ)の影(かげ)も見(み)ないが!』 『まァ、氣(き)の毒(どく)だわねえ』愛(あい)ちやんは徐々(そろ/\)その意味(いみ)が解(わか)つて來(き)ました。 『何時(いつ)でも森(もり)の中(なか)の一番(ばん)高(たか)い木(き)に登(のぼ)つて』と云(い)つて鳩(はと)は、金切聲(かなきりごゑ) を張上(はりあ)げて、『これなら大丈夫(だいじやうぶ)だと思(おも)つてると屹度(きつと)、彼奴(あいつ)が宙(ちう)からぶらりと下(さが)つ て來(く)る!ソラ、蛇(へび)だ!』 『でも、私(わたし)は蛇(へび)ぢやなくッてよ、さうよ!』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『私(わたし)はね――私(わたし)はね――』 『え、お前(まへ)は何(なに)?』と鳩(はと)が云(い)つて、『何(なに)か發明(はつめい)でもする人(ひと)かね!』 『私(わたし)――私(わたし)は小(ちひ)さな娘(むすめ)よ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、一日(にち)の中(うち)に何遍(なんべん)も變 化(へんくわ)したことを思(おも)ひ出(だ)して、些(や)や顧慮(うしろめた)いやうな氣(き)がしました。 『さうか、眞箇(ほんとう)に!』と鳩(はと)は甚(ひど)く輕蔑(けいべつ)した口調(くてう)で、『これまでに澤山(たくさん)小(ちひ)さな女( をんな)の子(こ)を見(み)たが、人間(にんげん)はそんな首(くび)をしちや居(ゐ)ない!いや/\!お前(まへ)は蛇(へび)だ、何(なん)と辯 疏(いひわけ)しても駄目(だめ)だ。お前(まへ)は未(ま)だ卵(たまご)の味(あぢ)を知(し)るまい!』 『知(し)つてるわよ、私(わたし)、卵(たまご)を食(た)べたわ、眞箇(ほんとう)よ』と極(きは)めて正直(しやうぢき)な愛(あい)ちやんが云 (い)ひました、『小(ちひ)さな女(をんな)の兒(こ)だつて蛇(へび)のやうに矢張(やツぱり)卵(たまご)を食(た)べるわ、けど』 『何(ど)うだか』と云(い)つて鳩(はと)は、『若(も)し然(さ)うなら、彼等(かれら)も蛇(へび)の一種(しゆ)だ、さうだらう』  愛(あい)ちやんは呆氣(あつけ)にとられて暫(しばら)く凝(ぢツ)と默(だま)つて居(ゐ)ました、そこで鳩(はと)が又(また)、『お前(まへ )は卵(たまご)を狙(ねら)つてる^ナ、的然(ちやんと)知(し)つてるから。お前(まへ)が小(ちひ)さな女(をんな)の兒(こ)であらうと、假令 (よし)又(また)蛇(へび)であらうと、それは一向(かう)差支(さしつか)へないやうなものだが!と云(い)ひ續(つゞ)けました。 『大變(たいへん)差支(さしつか)へるわ』と愛(あい)ちやんは急(いそ)いで云(い)つて、『卵(たまご)など狙(ねら)つちや居(ゐ)なくつてよ 、そんな、そんな卵(たまご)なんて欲(ほ)しかないわ。生(なま)なもの厭(いや)なこッた』 『巧(うま)い事(こと)云(い)つてら!』と云(い)ひ捨(す)てゝ鳩(はと)は再(ふたゝ)び巣(す)に落着(おちつ)きました、愛(あい)ちやん は首(くび)が枝(えだ)から枝(えだ)に絡(から)みさうなので、出來(でき)るだけ森(もり)の中(なか)に屈(かゞ)んでゐましたが、歩(ある) く時(とき)には屡々(しば/\)足(あし)を停(と)めて、それを彼方(あちら)此方(こちら)へ曲(ま)げなければなりませんでした。軈(やが)て 愛(あい)ちやんは猶(な)ほ其兩手(そのりやうて)に菌(きのこ)の缺片(かけ)を持(も)つてゐたのに氣(き)がついて、怕(おそ)る/\再(ふた ゝ)びそれを食(た)べ初(はじ)めました、初(じ)[#ルビの「じ」はママ]めは一方(ぱう)を、それから他(ほか)の方(はう)を交(かは)る/″ \舐(な)めて、普通(ふつう)の身長(せい)になるまでには幾度(いくたび)大(おほ)きくなつたり小(ちひ)さくなつたりしたか知(し)れませんで した。  長(なが)い間(あひだ)かゝつて辛(やつ)と元(もと)の大(おほ)きさになるや、愛(あい)ちやんは常(つね)の如(ごと)く獨語(ひとりごと) を云(い)ひ初(はじ)めました、『まァこれで安心(あんしん)した、餘(あま)り變(かは)るので何(なに)が何(なん)だか譯(わけ)が解(わか) らなくなつて了(しま)つたわ!一分間(ぷんかん)と同(おな)じで居(ゐ)ないのですもの!けど、最(も)う今(いま)は元(もと)の大(おほ)きさ よ、これから彼(あ)の美(うつく)しい花園(はなぞの)に這入(はい)りさへすれば可(い)いんだ――何(ど)うしたら入(はい)れるかしら?』其時 (そのとき)愛(あい)ちやんは突然(とつぜん)打開(うちひら)いたる廣場(ひろば)に出(で)ました、其所(そこ)には漸(やうや)く四寸位(すん ぐらゐ)の高(たか)さの小家(こいへ)がありました、『誰(だれ)が住(す)んでも關(かま)はないのだらう』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひまし た、『此位(このくらゐ)の身長(せい)では駄目(だめ)よ、さうだ、一(ひと)つ彼等(かれら)を驚(おど)ろかしてやらう!』と云(い)つて愛(あ い)ちやんは、再(ふたゝ)び右手(みぎて)の一(ひ)^ト片(かけ)を舐(な)め初(はじ)めました、それから九寸位(すんぐらゐ)の高(たか)さに なるまでは、何(ど)うしても其家(そのいへ)の側(そば)へ近寄(ちかよ)りませんでした。 [#改ページ] 第六章  豚(ぶた)に胡椒(こせう)  暫時(しばらく)の間(あひだ)愛(あい)ちやんは立(た)つて其家(そのいへ)を眺(なが)めながら、さてこれから何(ど)うしたものだらうと思案 (しあん)最中(さいちゆう)、突然(とつぜん)一人(ひとり)の歩兵(ほへい)が制服(せいふく)を着(つ)けて森(もり)の中(なか)から驅(か) け出(だ)して來(き)ました――(制服(せいふく)を着(つ)けて居(ゐ)たので一見(けん)歩兵(ほへい)と云(い)ふことが解(わか)りましたが 、さもなければ、只(たゞ)其顏(そのかほ)だけで判斷(はんだん)したなら、或(あるひ)は愛(あい)ちやんは其(そ)の者(もの)を魚(うを)と稱 (よ)んだかも知(し)れませんでした)――拳(こぶし)で荒々(あら/\)しく戸(と)を敲(たゝ)くと、戸(と)は中(なか)から制服(せいふく) を着(つ)けた、圓顏(まるがほ)で蛙(かはづ)のやうに大(おほ)きい眼(め)をしたモ一人(ひとり)の歩兵(ほへい)の手(て)で開(ひら)かれま した。歩兵(ほへい)は二人共(ふたりとも)、其(その)縮(ちゞ)れた髮(かみ)の毛(け)に殘(のこ)らず火藥(くわやく)を仕込(しこ)んで居( ゐ)るやうに愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。愛(あい)ちやんは何(なに)も彼(か)も不思議(ふしぎ)で堪(たま)らず、森(もり)の外(そ と)に這(は)ひ出(だ)して、聞(きこ)ゆる事(こと)もやと耳(みゝ)を欹(そばだ)てました。  魚(うを)の顏(かほ)した歩兵(ほへい)は其腋(そのわき)の下(した)から殆(ほと)んど自分(じぶん)の身長(せい)位(ぐらゐ)もありさうな 大(おほ)きな手紙(てがみ)を取(と)り出(だ)して、此(こ)れをモ一人(ひとり)の歩兵(ほへい)に手渡(てわた)しながら嚴(おごそ)かな口調 (くてう)で、※公爵夫人(こうしやくふじん)[#「※」は底本では「』」の転倒]の許(もと)へ毬投(まりな)げのお催(もよほ)しあるに就(つ)き 、女王樣(じよわうさま)よりの御招待状(ごせうたいじやう)』。すると今度(こんど)は蛙(かはづ)の歩兵(ほへい)が、同(おな)じ嚴(おごそ)か な口調(くてう)で繰返(くりかへ)しました、只(たゞ)僅(わづ)か言葉(ことば)の順(じゆん)を變(か)へて、『女王樣(ぢよわうさま)より。球 投(まりな)げのお催(もよほ)しあるにつき公爵夫人(こうしやくふじん)への御招待状(ごせうたいじやう)』  云(い)つて二人(ふたり)が互(たがひ)に丁寧(ていねい)にお辭儀(じぎ)をし合(あ)つた時(とき)に、双方(さうはう)の縮髮(ちゞれけ)が 一緒(しよ)に絡(から)みつきました。  愛(あい)ちやんはこれを見(み)て哄笑(おほわらひ)しました、しかし其聲(そのこゑ)を聞(き)きつけられては大變(たいへん)だと思(おも)つ て急(いそ)いで復(ま)た森(もり)の中(なか)へ駈(か)け戻(もど)りました。良久(しばらく)して覘(のぞ)いて見(み)ると魚(うを)の歩兵 (ほへい)の姿(すがた)はなくて、モ一人(ひとり)の方(はう)が戸(と)の側(そば)に地面(ぢべた)の上(うへ)に坐(すわ)つて、茫然(ぼんや り)空(そら)を凝視(みつめ)てゐました。  愛(あい)ちやんは恐(おそ)る/\傍(そば)まで行(い)つて戸(と)を敲(たゝ)きました。 蛙の歩兵と魚の歩兵の図 『そんな箇所(ところ)を敲(たゝ)く必要(ひつえう)はない』と云(い)つて歩兵(ほへい)は、『私(わたし)がお前(まへ)と同(おな)じ戸(と) の傍(そば)に居(ゐ)るではないか、それに中(なか)で彼 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (あんな)噪(さわ)ぎをして居(ゐ)るのに、何(なに)が聞(きこ)えるものか』確(たし)かに中(なか)では恐(おそ)ろしい大噪(おほさわ)ぎを して居(ゐ)ました――絶(た)えず吼(ほ)えたり、嚏(くさめ)をしたり、それから時々(とき/″\)悽(すさま)じい音(おと)がしたり、宛(まる )で皿(さら)や鍋(なべ)が粉々(なこ/″\)[#ルビの「なこ/″\」はママ]に打碎(うちくだ)かれるやうに。 『萬望(どうぞ)、そんなら』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『何(ど)うすれば中(なか)へ這入(はい)れるの?』 『敲(たゝ)く以上(いじやう)は何(なに)か意味(いみ)が無(な)くてはならない』と云(い)つて歩兵(ほへい)は、愛(あい)ちやんに關(かま) はず續(つゞ)けました、『若(も)し吾々(われ/\)二人(ふたり)の間(あひだ)に戸(と)があつたとしたら。譬(たと)へばお前(まへ)が中(な か)に居(ゐ)て敲(たゝ)いたとする、さうすれば私(わたし)はお前(まへ)を外(そと)へ出(だ)してやると云(い)ふものだらう、ね』斯(か)う 話(はな)してる間(ま)も彼(かれ)は絶(た)えず空(そら)を仰視(みあげ)て居(ゐ)るので、愛(あい)ちやんは眞個(ほんとう)に無作法(ぶさ はふ)な者(もの)もあればあるものだと思(おも)ひました。『けど屹度(きつと)然(さ)うしないやうには出來(でき)ないんだわ』と愛(あい)ちや んは獨語(ひとりごと)を云(い)つて、『だッて彼(あ)の眼(め)が彼 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (あんな)に頭(あたま)の天邊(てツぺん)についてるんですもの。でも、兎(と)に角(かく)私(わたし)の質問(しつもん)には答(こた)へて呉( く)れてよ。――何(ど)うしたら中(なか)へ這入(はい)れて?』と再(ふたゝ)び聲高(こわだか)に云(い)ひました。 『私(わたし)は只(たゞ)此處(こゝ)に坐(すわ)つて居(ゐ)れば可(い)いンだ、明日(あした)まで――』と歩兵(ほへい)が云(い)ひました。  此時(このとき)家(いへ)の戸(と)が開(あ)いて、大(おほ)きな皿(さら)が歩兵(ほへい)の頭(あたま)の上(うへ)を眞直(まつすぐ)に、 それから鼻(はな)の尖(さき)を掠(かす)つて、背後(うしろ)にあつた一本(ぽん)の木(き)に當(あた)つて粉々(こな/″\)に破(こわ)れま した。 『其又(そのまた)明日(あした)も、大抵(たいてい)』と歩兵(ほへい)が同(おな)じ調子(てうし)で續(つゞ)けました、恰(あだか)も全(まつ た)く今(いま)何事(なにごと)もなかつたかの如(ごと)くに。 『何(ど)うしたら中(なか)へ這入(はい)れて?』と以前(まへ)よりも一層(そう)大(おほ)きな聲(こゑ)で再(ふたゝ)び愛(あい)ちやんが訊 (たづ)ねました。 『お前(まへ)、何(ど)うしても這入(はい)りたいのか?』と云(い)つて歩兵(ほへい)は、『それが第(だい)一の難題(なんだい)^サ』  それは全(まつた)く其(そ)れに違(ちが)ひなかつたが、只(たゞ)愛(あい)ちやんは然(さ)う云(い)はれたのが口惜(くや)しくて堪(たま) らず、『まァ、怖(おそ)ろしいこと、澤山(たくさん)動物(どうぶつ)が喧嘩(けんくわ)してるンですもの。其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)所(ところ)へ行(ゆ)く者(もの)は狂人(きちがひ)だわ!』と呟(つぶや)きました。  歩兵(ほへい)は得(え)たり賢(かしこ)しと、『私(わたし)は何時迄(いつまで)も何時迄(いつまで)も、毎日々々(まいにちまいにち)此處(こ ゝ)に坐(すわ)つて居(ゐ)れば可(い)いンだ』と繰返(くりかへ)しました。 『そんなら、私(わたし)は何(ど)うするの?』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『どうともお前(まへ)の勝手(かつて)^サ』云(い)つて歩兵(ほへい)は口笛(くちぶえ)を吹(ふ)き初(はじ)めました。 『それぢや、話(はな)しにならないわ』と愛(あい)ちやんは自棄(やけ)になつて、『何(なん)て、愚物(ばか)なんだらう!』と云(い)ひながら、 戸(と)を開(あ)けた中(なか)へ這入(はい)りました。  這入(はい)ると眞直(まつすぐ)に大(おほ)きな厨房(だいどころ)へ行(ゆ)きました。厨房(だいどころ)は隅(すみ)から隅(すみ)まで烟(け むり)で一ぱいでした、公爵夫人(こうしやくふじん)は中央(まんなか)の三脚几(きやくき)に凭(よ)つて坊(ぼ)ッちやんに乳(ちゝ)を飮(の)ま して居(ゐ)ました、それから料理人(クツク)は圍爐裡(ゐろり)の彼方(むかふ)で、肉汁(スープ)でも一ぱい入(はい)つてゐさうな大鍋(おほなべ )を掻(か)き廻(まは)して居(ゐ)ました。 『まァ、澤山(たくさん)胡椒(こせう)が入(はい)つてること、肉汁(スープ)の中(なか)に!』愛(あい)ちやんは斯(か)う云(い)ひながら大變 (たいへん)嚏(くさめ)をしました。  四邊(あたり)は其香(そのにほ)ひで大變(たいへん)でした。公爵夫人(こうしやくふじん)でさへも、坊(ぼ)ッちやんと殆(ほと)んど交(かは) る/″\嚏(くさめ)をして、噎(む)せる苦(くる)しさに互(たがひ)に頻切(しツきり)なしに泣(な)いたり喚(わめ)いたりして居(ゐ)ました。 厨房(だいどころ)に居(ゐ)るもので嚏(くさめ)をしないのは只(たゞ)料理人(クツク)と、それから竈(へツつひ)の上(うへ)に坐(すわ)つて、 耳(みゝ)から耳(みゝ)まで剖(さ)けた大(おほ)きな口(くち)を開(あ)いて、齒(は)を露出(むきだ)して居(ゐ)た一疋(ぴき)の大猫(おほ ねこ)ばかりでした。 『後生(ごしやう)ですから話(はな)して下(くだ)さい』と些(や)や改(あらたま)つて愛(あい)ちやんが云(い)ひました、然(さ)うした素振( そぶり)で話(はな)しかけても可(い)いか何(ど)うか全(まつた)く解(わか)らなかつたので、『何故(なぜ)その猫(ねこ)は其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)に齒(は)を露出(むきだ)してゐるのですか?』 『それは朝鮮猫(てうせんねこ)です』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、『コレ、豚(ぶた)!』  夫人(ふじん)が急(きふ)に大聲(おほごゑ)で斯(か)う云(い)つたので、愛(あい)ちやんは喫驚(びツくり)して跳(と)び上(あが)りました 。 が直(ぢ)きにそれは坊(ぼツ)ちやんに云(い)つたので、自分(じぶん)に云(い)はれたのではないと知(し)つて、元氣(げんき)づき又(また)云 (い)ひ出(だ)しました、 『私(わたし)は今迄(いまゝで)、朝鮮猫(てうせんねこ)が始終(しじゆう)齒(は)を露出(むきだ)して居(ゐ)るなんて事(こと)を些(ちつ)と も知(し)りませんでした、眞個(ほんと)に知(し)らずに居(ゐ)ましたわ、猫(ねこ)が齒(は)を露出(むきだ)すなんて事(こと)を』 『どの猫(ねこ)でも皆(みん)な然(さ)うです』と公爵夫人(こうしやくふじん)は云(い)つて又(また)、『大抵(たいてい)のが爲(し)ます』 『私(わたし)は些(ちつ)とも知(し)りませんでした』と丁寧(ていねい)に云(い)つて、愛(あい)ちやんは談話(はなし)の乘勢(はず)んで來( き)たのを大層(たいそう)喜(よろこ)びました。 『お前(まへ)は薩張(さつぱり)未(ま)だ何(なに)も知(し)らないね』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、『それは眞個(ほんとう) の、事(こと)なんです』  愛(あい)ちやんは念(ねん)を押(お)すやうに云(い)はれたのを面白(おもしろ)からず思(おも)つて、何(なに)か他(ほか)の話題(はなし) を始(はじ)めやうとして、彼(あ)れか此(こ)れかと考(かんが)へて居(ゐ)ました。愛(あい)ちやんが此(この)事(こと)を一(ひと)つ話(は な)さうと定(き)める中(うち)に、料理人(クツク)は圍爐裏(ゐろり)から肉汁(スープ)の鍋(なべ)を取(と)り外(はづ)して、手當(てあた) り次第(しだい)に何(なに)も彼(か)も投(な)げ始(はじ)めました、公爵夫人(こうしやくふじん)に達(とゞ)く程(ほど)でしたから無論(むろ ん)坊(ぼツ)ちやんにも當(あた)りました。火箸(ひばし)が眞(ま)ッ先(さき)に飛(と)んで來(き)て、それから續(つゞ)いて肉汁(スープ) 鍋(なべ)や、皿(さら)や小鉢(こばち)の雨(あめ)が降(ふ)つて來(き)ました。公爵夫人(こうしやくふじん)は、其等(それら)が我(わ)が身 (み)を打(う)つをも平氣(へいき)で居(を)りました。坊(ぼ)ッちやんは最早(もう)オイ/\泣(な)いてばかりゐて、何(なん)にも云(い)は ないので、怪我(けが)をしたのかしないのか一向(かう)譯(わけ)が解(わか)りませんでした。 『オヤ、何(ど)うしてたの、氣(き)をおつけなね!』と叫(さけ)びながら愛(あい)ちやんは怖(おそ)れ戰慄(をのゝ)いて跳(は)ね廻(まは)り ました。『オヤ、其處(そこ)に彼(か)れの大事(だいじ)な鼻(はな)が歩(ある)いて行(い)つてよ』通常(なみ/\)ならぬ大(おほ)きな肉汁( スープ)鍋(なべ)が其(そ)の側(そば)に飛(と)んで來(き)て、正(まさ)にそれを取(と)つて去(い)つて了(しま)つたのです。 『若(も)し、人(ひと)各々(おの/\)その仕事(しごと)に專念(せんねん)なる時(とき)は』と公爵夫人(こうしやくふじん)は咳嗄(しわが)れ た銅鑼聲(どらごゑ)で云(い)つて、『世界(せかい)は常(つね)よりも迅(すみや)かに回轉(くわいてん)します』 『何方(どつち)にしても利益(とく)はないでせう』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました、自分(じぶん)の知慧嚢(ちゑぶくろ)の幾分(いくぶん) を示(しめ)す機會(きくわい)に到(いた)つたのを大變(たいへん)喜(よろこ)ばしく思(おも)つて、『まァ、考(かんが)へても御覽(ごらん)な さい、夜晝(よるひる)爲(す)るなんて何(ど)んな仕事(しごと)でせう!貴方(あなた)は地球(ちきう)が其地軸(そのちゞく)を回轉(くわいてん )するに二十四時間(じかん)を要(えう)する――』 『ナニ、挫(くじ)くと云(い)ふのか』公爵夫人(こうしやくふじん)は愛(あい)ちんや[#「愛(あい)ちんや」はママ]が、地軸(ちゞく)と云(い )つたのを挫(くじ)くと聞(き)き違(ちが)へて、『娘(むすめ)の頭(あたま)を捩斷(ちぎ)つて了(しま)へ』と云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは、若(も)しや料理人(クツク)がそれを覺(さと)りはしないかと、稍々(やゝ)氣遣(きづか)はしげにその方(はう)を眺(なが )めました、が、料理人(クツク)は忙(いそが)はしげに肉汁(スープ)を掻(か)き廻(まは)して居(ゐ)て、それを聞(き)いて居(ゐ)ないやうに 見(み)えたので、愛(あい)ちやんは再(ふたゝ)び思(おも)ひ切(き)つて云(い)ひ續(つゞ)けました、『二十四時間(じかん)だつたわ、確(た し)か、ハテ、それとも、十二時間(じかん)だつたかしら?私(わたし)は――』 『五月蠅(うるさい)ね』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、『そんな事(こと)に關(かま)つては居(ゐ)られない!』乃(そこ)で夫人 (ふじん)は再(ふたゝ)び其子供(そのこども)に乳(ちゝ)を飮(の)ませ始(はじ)めました、一種(しゆ)の子守歌(こもりうた)を唱(うた)ひな がら、一^ト節(ふし)終(を)へるとは[#「終(を)へるとは」はママ]其子(そのこ)を搖(ゆす)り上(あ)げて、 『子供(こども)の時分(じぶん)にや嚴(きび)しく仕込(しこ)め、   嚏(くさめ)をしたらば背中(せなか)を敲(たゝ)け、 憂(う)き目(め)を見(み)るのも心(こゝろ)がら、   苦(くる)しい事(こと)には耐(た)へ忍(しの)べ』        合唱(がつしよう) (其所(そこ)で料理人(クツク)と赤子(あかご)が一緒(しよ)に)、――  『良(い)い子(こ)だ!良(い)い子(こ)だ!良(い)い子(こ)だよ!』  公爵夫人(こうしやくふじん)は其(その)第(だい)二節(せつ)を唱(うた)ふ間(ま)も、絶(た)えず赤子(あかご)を甚(ひど)く搖(ゆす)り 上(あ)げたり搖(ゆす)り下(おろ)したりしたものですから、可哀相(かあいさう)に小(ちひ)さなのが泣(な)き叫(さけ)ぶので、愛(あい)ちや んは殆(ほと)んど其(そ)の一語々々(いちご/\)を聽(き)き取(と)ることが出來(でき)ませんでした、―― 『それ故(ゆゑ)、嚴(きび)しく云(い)ふたぢやないか、   嚏(くさめ)すれや背中(せなか)を打(う)ちますよ、 何(ど)うして其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)に好(す)きなんだらう、   いつでも/\胡椒(こせう)ばかり!』    合唱(がつしよう) 『良(い)い子(こ)だ!良(い)い子(こ)だ!良(い)い子(こ)だよ!』 『さァ!お前(まへ)少(すこ)しあやして御覽(ごらん)、好(す)きなら!』公爵夫人(こうしやくふじん)は赤子(あかご)を投(な)げ出(だ)しな がら愛(あい)ちやんに、『私(わたし)はこれから行(い)つて、女王樣(ぢよわうさま)と毬投(まりな)げをする仕度(したく)をしなければなりませ ん』云(い)つて急(いそ)いで、部屋(へや)の外(そと)へ出(で)て行(ゆ)きました。料理人(クツク)は夫人(ふじん)が出(で)て行(い)つた 時(とき)に、其後(そのあと)から鍋(なべ)を投(な)げつけました、それでも好(い)い鹽梅(あんばい)に當(あた)りませんでした。  愛(あい)ちやんは不器用(ぶきよう)な手(て)つきで赤子(あかご)を取(と)りました、それは妙(めう)な格好(かくかう)をした小(ちひ)さな 動物(どうぶつ)で、其(そ)れが付(つ)いてるまゝに其腕(そのうで)や脚(あし)を皆(みん)な外(そと)へ出(だ)すと、『恰度(ちやうど)海盤 車(ひとで)のやうだ』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。此(この)哀(あは)れな小(ちひ)さな物(もの)は、愛(あい)ちやんが捕(つかま )へた時(とき)に蒸氣(じやうき)機關(きくわん)のやうな恐(おそ)ろしい鼻息(はないき)をしました、それからわれと我(わ)が體(からだ)を二 つに折(を)り重(かさ)ねたり、又(また)眞直(まつすぐ)に伸(の)ばしたりなどしたものですから、最初(さいしよ)辛(やつ)と一二分(ふん)間 (かん)それを抱(だ)いて居(ゐ)たのも、却々(なか/\)容易(ようい)なことではありませんでした。  好(い)い工合(ぐあひ)にそれを抱(だ)く方法(はうはふ)を考(かんが)へつくや否(いな)や、(それを瘤(こぶ)のやうに丸(まる)めて了(し ま)つて、それから其(そ)れが解(と)けないやうに、其(その)右(みぎ)の耳(みゝ)と左足(ひだりあし)とを緊乎(しツかり)と持(も)つて)愛 (あい)ちやんはそれを廣場(ひろば)へ持(も)つて行(ゆ)きました。『若(も)し私(わたし)が此子(このこ)を一緒(しよ)に伴(つ)れて行(ゆ )かなかつたならば』と思(おも)ふや愛(あい)ちやんは、『皆(みん)なが一日(にち)二日(か)で其(そ)れを殺(ころ)して了(しま)ふに違(ち が)ひない、それとも打棄(うツちやり)放(ぱな)しにして置(お)いても大丈夫(だいじやうぶ)かしら?』愛(あい)ちやんが尻上(しりあが)りに斯 (か)う云(い)ひますと、其(その)小(ちひ)さな物(もの)が唸(うな)り出(だ)しました(今度(こんど)は嚏(くさめ)をせずに)。『唸(うな )つちや可厭(いや)よ、唸(うな)つて居(ゐ)たつて何(なん)だか解(わか)りやしなくッてよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。  赤子(あかご)が復(ま)た唸(うな)つたので、何(ど)うかしたのではないかと、愛(あい)ちやんは氣遣(きづか)はしげに其顏(そのかほ)を覘( のぞ)き込(こ)みました。紛(まが)ふ方(かた)なく其處(そこ)には、普通(あたりまへ)の鼻(はな)よりも獅子(しゝ)ッ鼻(ぱな)に酷似(そつ くり)の、甚(ひど)くそッくり反(かへ)つた鼻(はな)がありました、又(また)其眼(そのめ)も赤子(あかご)にしては非常(ひじよう)に小(ちひ )さすぎました、全(まつた)く愛(あい)ちやんは、其(その)容貌(かほつき)を見(み)るのも可厭(いや)になつて了(しま)ひました。『でも、屹 度(きつと)歔欷(すゝりなき)してるのだ』と思(おも)つたもんですから、若(も)しや涙(なみだ)が出(で)ては居(ゐ)ないかと、再(ふたゝ)び 其兩眼(そのりやうがん)を見(み)ました。  ところが、一滴(てき)の涙(なみだ)もありませんでした。『若(も)しもお前(まへ)が豚(ぶた)になつて了(しま)うならば、ねえ』と愛(あい) ちやんは眞面目(まじめ)に云(い)つて、『さうすれば世話(せわ)がなくて可(い)いけれど、ねえ!』憐(あは)れな小(ちひ)さな物(もの)が再( ふたゝ)び歔欷(すゝりなき)しました(否(いや)、唸(うな)りましたが、何(なん)と云(い)つたのだか解(わか)りませんでした)、乃(そこ)で 兩方(りやうはう)とも暫(しばら)くの間(あひだ)默(だま)つてゐました。  愛(あい)ちやんは熟(じツ)と考(かんが)へ初(はじ)めました、『さて、私(わたし)がそれを家(うち)へ伴(つ)れて行(い)つて何(ど)うし やう?』やがて又(また)甚(ひど)く唸(うな)つたので、愛(あい)ちやんは驚(おどろ)いて其顏(そのかほ)に見入(みい)りました。今度(こんど )こそは何(なん)と云(い)つても、寸分(すんぶん)豚(ぶた)に相違(さうゐ)ありませんでしたから、愛(あい)ちやんも最(も)う其(そ)れを伴 (つ)れて行(ゆ)くのは全(まつた)く莫迦氣(ばかげ)たことだと思(おも)ひました。  乃(そこ)で、愛(あい)ちやんは其(その)小(ちひ)さな動物(どうぶつ)を下(した)へ置(お)き、屹度(きつと)それが徐(しづ)かに森(もり )の中(なか)へ逃(に)げ込(こ)むだらうと思(おも)つて見(み)てゐました。『若(も)しそれが大(おほ)きくなつたら』と獨語(ひとりごと)を 云(い)つて、『隨分(ずゐぶん)醜(みにく)い子供(こども)になるでせう、けど、何方(どつち)かと云(い)へば大人(おとな)しい豚(ぶた)よ』 云(い)つて愛(あい)ちやんは、豚(ぶた)にでもなりさうな、自分(じぶん)の知(し)れる限(かぎ)りの他(た)の子供等(こどもら)の身(み)の 上(うへ)をよく/\考(かんが)へながら、『若(も)し誰(だれ)かゞ、巧(うま)く彼等(かれら)を變(か)へる方法(はうはふ)を知(し)つて居 (ゐ)たならば――』と我(わ)れとわれに云(い)つて、恰(あだか)も其時(そのとき)朝鮮猫(てうせんねこ)が、二三尺(じやく)距(へだた)つた 樹(き)の枝(えだ)の上(うへ)に坐(すわ)つて居(ゐ)るのを見(み)て、少(すくな)からず驚(おどろ)かされました。 「猫《ねこ》は愛《あい》ちやんを見《み》て、唯《たゞ》その齒並《はなみ》を見《み》せたばかり」のキャプション付きの図 猫(ねこ)は愛(あい)ちやんを見(み)て、唯(たゞ)その齒並(はなみ)を見(み)せたばかり  猫(ねこ)は愛(あい)ちやんを見(み)て、唯(たゞ)その齒並(はなみ)を見(み)せたばかりでした。優(おとな)しさうだと愛(あい)ちやんは思 (おも)ひました、矢張(やつぱり)其(そ)れが大層(たいそう)長(なが)い爪(つめ)と澤山(たくさん)の齒(は)とを持(も)つてゐたので、鄭重 (ていちやう)にしなければならないとも考(かんが)へました。 『猫兒(プス)や』猫(ねこ)の氣(き)に入るか何(ど)うかは解(わか)りませんでしたが、兎(と)に角(かく)愛(あい)ちやんは些(や)や恐(お そ)る/\斯(か)う呼(よ)びかけました。けれども猫(ねこ)は、只(たゞ)以前(まへ)よりも稍々(やゝ)廣(ひろ)く齒(は)を出(だ)して見( み)せたばかりでした。『まァ、大層(たいそう)悦(よろこ)んでること』愛(あい)ちやんは然(さ)う思(おも)つて猶(な)ほも言(い)ひ續(つゞ )けました。『教(をし)へて頂戴(てうだい)な、ね、私(わたし)は此處(こゝ)から何方(どつち)へ行(い)けば可(い)いの?』 『それは云(い)ふまでもなく、お前(まへ)の往(ゆ)く所(ところ)に依(よ)るさ』と猫(ねこ)が云(い)ひました。 『所處(どこ)へでも關(かま)やしないわ――』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『それなら、何方(どつち)の道(みち)へ行(い)つたつて關(かま)やしない』と猫(ねこ)が云(い)ひました。 『――私(わたし)が何處(どこ)かへ出(で)られるまで』と愛(あい)ちやんは説明(せつめい)のやうに附加(つけくは)へました。 『あァ、それでも可(い)いさ、只(たゞ)長(なが)く歩(ある)きたいのなら』と猫(ねこ)が云(い)ひました。  愛(あい)ちやんもこれには何(なん)とも抗辯(こうべん)し兼(かね)て、今度(こんど)は他(ほか)の事(こと)を聞(き)き初(はじ)めました 。 『此邊(このへん)にはどんな種類(しゆるゐ)の人間(にんげん)が住(す)んでるの?』 『其邊(そのへん)には』と云(い)ひながら猫(ねこ)は、其右(そのみぎ)の前足(まへあし)を振(ふ)つて弧(こ)を描(えが)き、『帽子屋(ぼう しや)が住(す)んで居(ゐ)る、それから其方(そつち)の方(はう)には』と他(ほか)の前足(まへあし)を振(ふ)つて、『三月兎(ぐわつうさぎ) が住(す)んでゐる。何方(どつち)でもお前(まへ)の好(す)きな方(はう)を訪(たづ)ねて御覽(ごらん)、何方(どつち)も皆(みん)な狂人(き ちがひ)だから』 『でも、私(わたし)、狂人(きちがひ)の中(なか)へなぞ行(ゆ)きたかなくッてよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『ナニ、そんな事(こと)を云(い)つても駄目(だめ)だ』と猫(ねこ)が云(い)ひました、『自分達(じぶんたち)だつて皆(みん)な斯(か)うして 居(ゐ)たつて狂人(きちがひ)なんだ。私(わたし)も狂人(きちがひ)。お前(まへ)も狂人(きちがひ)』 『何(ど)うして私(わたし)が狂人(きちがひ)だつてことが解(わか)つて?』 と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『だつて、然(さ)うぢやないか』と猫(ねこ)が云(い)つて、『さもなければ、お前(まへ)は此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)所(ところ)へ來(こ)なくても可(い)いぢやないか』  愛(あい)ちやんは全(まつた)く、何(なん)と答(こた)へのせんやうもありませんでしたが、それでも猶(な)ほ、『それから、お前(まへ)の狂人 (きちがひ)だと云(い)ふことは何(ど)うして解(わか)つて?』と云(い)ひつぎました。 『さうねえ』と云(い)つて猫(ねこ)は、『犬(いぬ)は狂人(きちがひ)でない。さう云(い)つたら嬉(うれ)しいかい?』 『然(さ)うよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『それならねえ』と猫(ねこ)は續(つゞ)けて云(い)つて、『お前(まへ)は、犬(いぬ)が怒(おこ)る時(とき)には唸(うな)り、喜(よろこ)ぶ 時(とき)には其尾(そのを)を振(ふ)るのを見(み)たらう。ところが今(いま)、私(わたし)は喜(よろこ)ぶ時(とき)に唸(うな)り、怒(おこ )る時(とき)に尾(を)を振(ふ)る。だから私(わたし)は狂人(きちがひ)さ』 『それは咽喉(のど)をゴロ/\させるんだわ、唸(うな)るんぢやなくつてよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『何(なん)とでも好(す)きなやうに云(い)ふさ』と猫(ねこ)は云(い)つて、『お前(まへ)は今日(けふ)、女王樣(ぢよわうさま)と毬投(まり な)げをしないの?』 『私(わたし)、それが大好(だいす)き』と愛(あい)ちやんが云(い)つて、『だけど、私(わたし)は未(ま)だ招待(せうたい)されないのよ』 『又(また)其處(そこ)で逢(あ)はうね』と云(い)つて猫(ねこ)は姿(すがた)を掻(か)き消(け)しました。  愛(あい)ちやんは此(こ)れを左程(さほど)に驚(おどろ)きませんでした、種々(いろ/\)の不思議(ふしぎ)な出來事(できごと)には全然(す つかり)慣(な)れて了(しま)つて。それが居(ゐ)た所(ところ)を見(み)て居(ゐ)ますと、突然(とつぜん)復(ま)た其(そ)れが現(あら)は れました。 『時(とき)に、赤子(あかご)は何(ど)うしたかしら?』と猫(ねこ)が云(い)つて、『私(わたし)は聞(き)くのを殆(ほと)んど忘(わす)れて 居(ゐ)ました』 『豚(ぶた)になつてよ』と愛(あい)ちやんは徐(しづ)かに云(い)ひました、恰(あだか)も然(さ)うなるのが當然(あたりまへ)であるかのやうに 。 『大方(おほかた)然(さ)うだらうと思(おも)つた』と云(い)つて猫(ねこ)は再(ふたゝ)び消(き)え失(う)せました。  愛(あい)ちやんは、軈(やが)て又(また)それが現(あら)はれるだらうと豫期(よき)して、暫(しばら)くの間(あひだ)待(ま)つてゐました、 が、それは到頭(とうとう)姿(すがた)を見(み)せませんでした、良久(しばらく)して愛(あい)ちやんは、三月兎(ぐわつうさぎ)が住(す)んでる と云(い)はれた方(はう)へ歩(ある)いて行(ゆ)きました。『私(わたし)は甞(かつ)て帽子屋(ばうしや)を見(み)たことがある』と獨語(ひと りごと)を云(い)つて、『三月兎(ぐわつうさぎ)とは大變(たいへん)面白(おもしろ)いのね、大方(おほかた)これが五月(ぐわつ)なら狂人(きち がひ)になつて暴(あば)れ廻(まは)るだらう――假令(たとひ)三月(ぐわつ)程(ほど)ではなくとも』愛(あい)ちやんは斯(か)う云(い)つて上 (うへ)を見(み)ると、復(ま)た其猫(そのねこ)が木(き)の枝(えだ)の上(うへ)に坐(すわ)つてゐました。 『お前(まへ)は豚(ぶた)と云(い)つたのか、それとも贅肉(むだ)と云(い)つたのか?』と猫(ねこ)が云(い)ひました。 『豚(ぶた)ッて云(い)つたのよ』と愛(あい)ちやんは答(こた)へて、私(わたし)はお前(まへ)が何時(いつ)までも然(さ)うして出(で)て居 (ゐ)ないで、急(きふ)に失(な)くなつて呉(く)れゝば可(い)いと思(おも)つてるのよ、眞個(ほんとう)に眩暈(めまひ)がするわ』 『可(よ)し』と云(い)ひながら、猫(ねこ)は今度(こんど)徐々(そろ/\)消(き)え失(う)せました、尾(を)の尖端(とつぱな)から引(ひ) ツ込(こ)み初(はじ)めて、體(からだ)が全然(すつかり)見(み)えなくなつて了(しま)つても、一番(ばん)終(しま)ひに猶(な)ほ暫(しばら )くの間(あひだ)、其(その)露出(むきだ)した齒(は)ばかりは殘(のこ)つて居(ゐ)ました。 『でも!私(わたし)は度々(たび/\)齒(は)を出(だ)して居(ゐ)ない猫(ねこ)を見(み)てよ』と愛(あい)ちやんは云(い)はうとしたものゝ 、『齒(は)を露出(むきだ)してるものは猫(ねこ)の他(ほか)に!私(わたし)が是迄(これまで)に見(み)たものゝ中(うち)で一番(ばん)奇妙 (きめう)なのは』  愛(あい)ちやんは幾(いく)らも歩(ある)かない中(うち)に、三月兎(ぐわつうさぎ)の家(いへ)の見(み)える所(ところ)へ來(き)ました、 それは耳(みゝ)のやうな格好(かくかう)をした煙突(えんとつ)もあれば、毛皮葺(けがはぶ)きの屋根(やね)まである整然(ちやんと)した家(うち )に違(ちが)ひありませんでした。それは莫迦(ばか)げて大(おほ)きな造(つく)りでした、愛(あい)ちやんは又(また)左手(ひだりて)に持(も )つて居(ゐ)た菌(きのこ)の一^ト片(かけ)を舐(な)めて、殆(ほと)んど二尺(しやく)の高(たか)さに達(たつ)した迄(まで)は、きまりが 惡(わる)くてその側(そば)へ思(おも)ひ切(き)つて近寄(ちかよ)れませんでした、二尺(しやく)になつた時(とき)ですらも愛(あい)ちやんは 、些(や)や臆(おく)しながら其方(そのはう)へ歩(ある)いて行(ゆ)きました、『屹度(きつと)それは何(ど)うしても暴(あば)れる狂人(きち がひ)に違(ちが)ひない!私(わたし)はそれよりも寧(むし)ろ帽子屋(ばうしや)を見(み)に行(ゆ)きたいわ!』と云(い)ひながら。 [#改ページ] 第七章  狂人(きちがひ)の茶話會(さわくわい)  其家(そのいへ)の前(まへ)なる一本(ぽん)の木(き)の下(した)には洋卓(テーブル)が一脚(きやく)置(お)いてあつて、三月兎(ぐわつうさ ぎ)と帽子屋(ばうしや)とが其處(そこ)で茶(ちや)を飮(の)んで居(ゐ)ると、一疋(ぴき)の福鼠(ふくねずみ)が其間(そのあひだ)へ來(き) て坐(すわ)つて居(ゐ)ましたが、軈(やが)て熟(よ)く眠(ねむ)つて了(しま)つたので、他(ほか)の者(もの)らは好(い)い幸(さいは)ひに 其(そ)れを坐布團(ざぶとん)にして其上(そのうへ)に彼等(かれら)の肘(ひぢ)を載(の)せ、其頭(そのあたま)を越(こ)えて向(むか)ひ合( あは)せになつて話(はな)してゐました。『福鼠(ふくねずみ)はさぞ心地(こゝろもち)が惡(わる)いだらう』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひまし た、『只(たゞ)眠(ねむ)つてるばかりで氣(き)が付(つ)かないんだわ』  洋卓(テーブル)は大(おほ)きなものでした、が、彼等(かれら)は三つとも皆(みん)な其(その)一^ト隅(すみ)に一緒(しよ)に群集(かたま) つて居(ゐ)ました。『空(あ)いてないよ!空(あ)いてないよ!』と彼等(かれら)は愛(あい)ちやんが來(く)るのを見(み)た時(とき)に叫(さ け)びました、『澤山(たくさん)空(あ)いてる!』と愛(あい)ちやんは怒(おこ)つて云(い)ひながら、洋卓(テーブル)の片端(かたはし)にあつ た大(おほ)きな肘懸椅子(ひぢかけいす)に腰(こし)を卸(おろ)しました。 『酒(さけ)を持(も)つて來(こ)い』と三月兎(ぐわつうさぎ)が催促(さいそく)がましい口調(くてう)で云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは洋卓(テーブル)の周圍(しうゐ)を殘(のこ)らず見廻(みまは)しましたが、其上(そのうへ)には茶(ちや)の他(ほか)に何( なに)もありませんでした。『酒(さけ)な^ンて無(な)くッてよ』と愛(あい)ちやんが注意(ちうい)しました。 『其處(そこ)には無(な)いサ』と三月兎(ぐわつうさぎ)が云(い)ひました。 『それを持(も)つて來(こ)いな^ンて不作法(ぶさはふ)な』と愛(あい)ちやんが腹立(はらだゝ)しげに云(い)ひました。 『招待(せうだい)されもしないで坐(すわ)り込(こ)むな^ンて不作法(ぶさはふ)な』と三月兎(ぐわつうさぎ)が口返答(くちへんたふ)しました。 『お前(まへ)の洋卓(テーブル)だとは知(し)らなかつたのよ』と愛(あい)ちやんは云(い)つて、『それは三人(にん)ばかりでなく、もつと多勢( おほぜい)のために置(お)かれてあるんだわ』 『お前(まへ)の髮(かみ)は刈(か)らなくッては』帽子屋(ばうしや)は暫(しばら)くの間(あひだ)さも珍(めづ)らしさうに愛(あい)ちやんを眺 (なが)めて居(ゐ)ましたが、軈(やが)て先(ま)づ斯(か)う云(い)ひ出(だ)しました。 『禮儀(れいぎ)正(たゞ)しくおしなさい』と愛(あい)ちやんは些(や)や嚴格(げんかく)に云(い)つて、『何(なん)です、他人(ひと)に對(た い)して亂暴(らんばう)な』  帽子屋(ばうしや)はこれを聞(き)いて著(いちじる)しく其(そ)の眼(め)を ※(「目+登」、第3水準1-88-91) (みは)りました、が、云(い)つたことは、『何故(なぜ)嘴太鴉(はしぶとがらす)が手習机(てならひづくゑ)に似(に)てるか?』と、只(たゞ)こ れだけでした。 『さうね、今(いま)、五六本(ぽん)扇(あふぎ)が欲(ほ)しい』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。『私(わたし)は皆(みん)なで謎(なぞ )かけして遊(あそ)ぶのが大好(だいす)き。――私(わたし)にだつて其(そ)れが解(と)けると思(おも)ふわ』と續(つゞ)いて聲高(こわだか) に云(い)ひました。 『ナニ、其(そ)れがお前(まへ)に答(こた)へられるッて』と三月兎(ぐわつうさぎ)が云(い)ひました。 『さうですとも』と愛(あい)ちやん。 『そんなら、何(なん)と云(い)ふことだか當(あ)てゝ御覽(ごらん)』と三月兎(ぐわつうさぎ)が續(つゞ)けました。 『當(あ)てるわ』と愛(あい)ちやんは言下(ごんか)に答(こた)へて、『屹度(きつと)――屹度(きつと)私(わたし)の云(い)ふ通(とほ)りに 違(ちが)ひないわ――さうでせう、ねえ』 『ナニ、さうぢやない!』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。『何故(なぜ)ッて、斯(か)うも云(い)へるぢやないか、「私(わたし)が食(く )ふところの物(もの)を見(み)る」とも、又(また)、「私(わたし)が見(み)るところの物(もの)を食(く)ふ」とも!』 『斯(か)うも云(い)へるさ』と云(い)つて三月兎(ぐわつうさぎ)が附加(つけくわ)へました、『「私(わたし)が買(か)ふところの物(もの)を 好(この)む」と云(い)つても、「私(わたし)が好(この)むところの物(もの)を買(か)ふ」と云(い)つても同(おな)じ事(こと)だ!』 『斯(か)うも云(い)へるさ』と福鼠(ふくねずみ)が附言(つけた)しました、宛(まる)で寢言(ねごと)でも云(い)ふやうに、『「私(わたし)は 眠(ねむ)つて居(ゐ)る間(ま)も呼吸(いき)をしてる」と云(い)つても、「私(わたし)は呼吸(いき)をしてる間(ま)も眠(ねむ)つてゐる」と 云(い)つても同(おな)じことだ!』 『それはお前(まへ)と同(おな)じことだ』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました、これで談話(はなし)はぱつたり止(や)んで、其(そ)の連中( れんぢゆう)は霎時(しばし)默(だま)つて坐(すわ)つて居(ゐ)ました、其間(そのあひだ)愛(あい)ちやんは嘴太鴉(はしぶとがらす)と、それか ら多(おほ)くも無(な)かつた手習机(てならひづくゑ)について想(おも)ひ起(おこ)したことの數々(かず/\)を、繰返(くりかへ)し繰返(くり かへ)し考(かんが)へました。  帽子屋(ばうしや)が先(ま)づ其(そ)の沈默(ちんもく)を破(やぶ)りました。『何日(いくにち)だね?』と云(い)つて愛(あい)ちやんの方( はう)を振向(ふりむ)き、衣嚢(ポケツト)から時計(とけい)を取(と)り出(だ)し、不安(ふあん)さうにそれを眺(なが)めて、時々(とき/″\ )振(ふ)つては耳(みゝ)の所(ところ)へそれを持(も)つて行(ゆ)きました。  愛(あい)ちやんは暫(しばら)く考(かんが)へてから云(い)ひました、『四日(か)』 『二日(か)違(ちが)つてる!と帽子屋(ばうしや)が長太息(ためいき)を吐(つ)きました。『牛酪(バター)は役(やく)に立(た)たないとお前( まへ)に云(い)ふて置(お)いたぢやないか!』と言(い)ひたして、腹立(はらだた)しげに三月兎(ぐわつうさぎ)の方(はう)を見(み)ました。 『それは上等(じやうとう)の牛酪(バター)でした』と三月兎(ぐわつうさぎ)は優(おとな)しやかに答(こた)へました。 『さうか、だけど屹度(きつと)、屑(くづ)が同(おな)じ位(ぐらゐ)入(はい)つて居(ゐ)たに違(ちが)ひない』帽子屋(ばうしや)は不平(ふへ い)たら/″\で、『麺麭(パン)庖丁(ナイフ)で其中(そのなか)へ押(お)し込(こ)んだナ』  三月兎(ぐわつうさぎ)は時計(とけい)を取(と)つて物思(ものおも)はしげにそれを眺(なが)めました、それから彼(かれ)はそれを茶碗(ちやわ ん)の中(なか)へ浸(ひた)して又(また)それを見(み)てゐました、併(しか)し彼(かれ)は自分(じぶん)が最初(さいしよ)云(い)つた『それ は上等(じやうとう)の牛酪(バター)でした』と云(い)ふ言葉(ことば)より他(ほか)に何(なに)も、もつと好(い)い言(い)ふことを考(かんが )へつきませんでした。  愛(あい)ちやんは、さも不思議(ふしぎ)さうに自分(じぶん)の肩(かた)を左顧右盻(とみかうみ)してゐました。『可笑(をか)しな時計(とけい )!』斯(か)う云(い)つて又(また)、『日(ひ)が解(わか)つて、それで時(とき)が解(わか)らないなンて!』 『何故(なぜ)だらう』と帽子屋(ばうしや)は呟(つぶや)いて、『お前(まへ)の時計(とけい)で何年(なんねん)だかゞ解(わか)るかい?』 『無論(むろん)解(わか)らないわ』と愛(あい)ちやんは極(きは)めて速(すみや)かに答(こた)へて、『けど、それは全(まつた)くそんなに長( なが)い間(あひだ)同(おな)じ年(とし)でゐるからだわ』 『それでは私(わたし)と同(おな)じことだ』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは宛然(まるで)狐(きつね)に魅(つま)まれたやうな氣(き)がしました。帽子屋(ばうしや)の云(い)つた事(こと)は何(なに )が何(なん)だか譯(わけ)が分(わか)りませんでした、併(しか)しそれはそれでも確(たし)かに英語(えいご)でした。『私(わたし)には些(ち ツ)とも解(わか)りませんの』と愛(あい)ちやんは出來(でき)るだけ丁寧(ていねい)に云(い)ひました。 『福鼠(ふくねずみ)が又(また)睡(ねむ)つてゐる』と云(い)ひさま、帽子屋(ばうしや)は其(そ)の鼻(はな)の上(うへ)へ少(すこ)し熱(あ つ)いお茶(ちや)を注(つ)ぎました。  福鼠(ふくねずみ)は耐(た)へ切(き)れずに其(そ)の頭(あたま)を振(ふ)つて、眼(め)も開(あ)かないで云(い)ふことには、『勿論(もち ろん)、今(いま)私(わたし)が云(い)はうと思(おも)つて居(ゐ)た所(ところ)だ』 『お前(まへ)にまァ謎(なぞ)が解(わか)つたのか?』帽子屋(ばうしや)は再(ふたゝ)び愛(あい)ちやんの方(はう)へ振向(ふりむ)いて云(い )ひました。 『否(いゝ)え、私(わたし)は止(よ)したの』と愛(あい)ちやんは答(こた)へて、『其(そ)の答(こたへ)は何(なに)?』 『些(ちツ)とも解(わか)らない』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。 『私(わたし)にもサ』と三月兎(ぐわつうさぎ)。  愛(あい)ちやんは物憂(ものう)さうに長太息(ためいき)を吐(つ)きました。『此(この)時間(じかん)で、もつと何(なに)か好(い)いことを した方(はう)が可(い)いわ、解(と)けもしない謎(なぞ)をかけて空(むだ)に浪費(つぶ)すよりは』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『私(わたし)のやうによくお前(まへ)が時間(じかん)を知(し)つてるなら、時間浪費(じかんつぶし)に話(はな)しなぞしないが可(い)い。それ は彼人(あれ)さ』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。 『彼人(あれ)ッて云(い)つたつて、誰(だれ)のことだか分(わか)りやしないわ』と愛(あい)ちやん。 『無論(むろん)お前(まへ)には解(わか)らないサ!』帽子屋(ばうしや)は輕蔑(けいべつ)するものゝ如(ごと)く、其(そ)の頭(あたま)を突( つ)き出(だ)して云(い)ひました。『宜(い)いかい、决(けつ)して最(も)う時間(じかん)の事(こと)を口(くち)にしないが可(い)い!』 『多分(たぶん)最(も)う』と愛(あい)ちやんは恐(おそ)る/\答(こた)へました、『だけど、私(わたし)が音樂(おんがく)を習(なら)ふ時( とき)には、時(とき)を打(う)たなくてはならないわ』 『それで!其理由(そのわけ)は』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。『打(う)ち續(つゞ)けやしないだらう。次(つぎ)に打(う)つまでには 可(か)なり間(あひだ)がある、其(そ)の中(うち)に人(ひと)は思(おも)ひ/\の仕事(しごと)をする。例(たと)へば、それが朝(あさ)の九 時(じ)であつたと假定(かてい)して、丁度(ちやうど)其時(そのとき)に稽古(けいこ)を初(はじ)める、時々(とき/″\)何時(なんじ)になつ たかと思(おも)つて見(み)る、時計(とけい)の針(はり)は廻(めぐ)つて行(ゆ)く!一時半(じはん)に晝食(ちうじき)!』 (『然(さ)うしたものかねえ』と三月兎(ぐわつうさぎ)が ※(「口+耳」、第3水準1-14-94) (さゝや)くやうに獨語(ひとりごと)を云(い)ひました) 『それは眞個(ほんとう)に結構(けつかう)な事(こと)だわ』と愛(あい)ちやんは分別(ふんべつ)ありげに云(い)つて、『けど、それなら――それ でもお腹(なか)は空(す)かないかしら』 『空(す)かないだらう、多分(たぶん)』と帽子屋(ばうしや)が云(い)つて、『お前(まへ)の思(おも)ふ通(とほ)り一時半(じはん)まで續(つ ゞ)けられるさ』 『お前(まへ)も然(さ)うするの?』と愛(あい)ちやんが訊(たづ)ねました。  帽子屋(ばうしや)は痛(いた)ましげに其頭(そのあたま)を振(ふ)り、『私(わたし)ではない!』と答(こた)へて、『自分等(じぶんら)は去( さ)る三月(ぐわつ)喧嘩(けんくわ)をした――丁度(ちやうど)彼(あ)れが狂人(きちがひ)になる以前(まへ)さ――』(三月兎(ぐわつうさぎ)の 方(はう)を茶匙(ちやさじ)で指(さ)して)――『それは心臟(ハート)の女王(クイーン)に依(よ)つて開(ひら)かれた大會議(だいくわいぎ)が あつて、私(わたし)が斯(か)ういふ歌(うた)を唄(うた)つた時(とき)でした 「燦然(きら/\)、々々(/\/\)、小(ちひ)さな蝙蝠(かうもり)!  何(ど)うしてそんなに光(ひか)るのか!」 お前(まへ)も此(この)歌(うた)を知(し)つてるだらう?』 『何(なん)だか聞(き)いたことがあるやうだわ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『其先(そのさき)は、それ』と帽子屋(ばうしや)が續(つゞ)けて、『こんな風(ふう)だ、―― 「世界(せかい)の上(うへ)に飛(と)んでゐる  空(そら)にふか/\茶盆(ちやぼん)のやうに。   きら/\、きら/\――」  乃(そこ)で福鼠(ふくねずみ)が身振(みぶる)ひして、寢(ね)たまゝで唄(うた)ひ初(はじ)めました『きら/\、きら/\、きら/\、きら/\ 、――』餘(あま)り長(なが)く續(つゞ)けて居(ゐ)るので、皆(みん)ながそれを抑(おさ)えつけて止(や)めさせました。 『さァ、辛(やつ)と第(だい)一の節(せつ)が終(を)へた』と帽子屋(ばうしや)が云(い)つて、『其時(そのとき)に女王(クイーン)は跳(と) び上(あが)り、「時(とき)を打殺(うちころ)してるのは彼(あ)れだ!其頭(そのあたま)を刎(は)ねて了(しま)へ!」と叫(さけ)びました』 『何(なん)と云(い)ふ野蠻(やばん)な事(こと)でせう!』と愛(あい)ちやんが叫(さけ)びました。 『それから後(のち)は』と帽子屋(ばうしや)は悲(かな)しげな調子(てうし)で、『私(わたし)の云(い)ふことを聞(き)かなくなつて了(しま) つて!まァ、何時(いつ)でも六時(じ)のところに止(とま)つてゐる』  愛(あい)ちやんは、礑(はた)と思(おも)ひ當(あた)ることあるものゝ如(ごと)く、『それで此處(こゝ)に此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)に澤山(たくさん)茶器(ちやき)があるのねえ?』と訊(たづ)ねました。 『まァ、そんなものサ』と帽子屋(ばうしや)は長太息(ためいき)して、『それは何時(いつ)もお茶(ちや)時分(じぶん)だ、それで、間(あひだ)に 其器(そのうつは)を洗(あら)ふ時間(じかん)もない』 『それならお前(まへ)は始終(しゞゆう)動(うご)き廻(まは)つてるの?』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『全(まつた)くそうだ』と帽子屋(ばうしや)は云(い)つて、『其(そ)の器(うつは)が始終(しゞゆう)使(つか)はれてるやうに』 『それは兎(と)に角(かく)、終(しま)ひから復(ま)た始(はじ)めに還(かへ)るのには何(ど)うしたら可(い)いの?』と愛(あい)ちやんが突 飛(とつぴ)なことを訊(たづ)ねました。 『然(さ)うするには話題(はなし)を變(か)へるサ』と欠(あくび)をしながら三月兎(ぐわつうさぎ)が云(い)つて、『もう、此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)事(こと)には厭(あ)きて來(き)た。其(そ)の若夫人(わかふじん)に何(なに)か一(ひと)つ話(はな)して貰(もら)はうぢやないか 』 『お氣(き)の毒(どく)だが一(ひと)つも知(し)らないの』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、些(や)や其(そ)の發議(はつぎ)に對(たい)し て警戒(けいかい)しました。 『そんなら福鼠(ふくねずみ)だ!』と彼等(かれら)二人(ふたり)は叫(さけ)んで、『起(お)きろ、福鼠(ふくねずみ)!』と云(い)ひさま、同時 (どうじ)に兩方(りやうはう)からそれを抓(つね)りました。  福鼠(ふくねずみ)は徐(しづ)かに其(そ)の眼(め)を見開(みひら)き、『眠(ねむ)つちや居(ゐ)ない』と咳嗄(しはが)れた脾弱(ひよわ)い 聲(こゑ)で、 『お前達(まへたち)の饒舌(しやべ)つて居(ゐ)たことは皆(みん)な知(し)つてる』 『一(ひと)つ話(はな)せ!』と三月兎(ぐわつうさぎ)。 『さう、萬望(どうぞ)!』と愛(あい)ちやんが頼(たの)みました。 『さァ、早(はや)く』と帽子屋(ばうしや)は促(うなが)して、『それでないと、又(また)お前(まへ)が眠(ねむ)つて了(しま)ふからさ』 『昔々(むかし/\)或(あ)る所(ところ)に三人(にん)の小(ちひ)さな姉妹(きやうだい)がありました』と福鼠(ふくねずみ)は大急(おほいそ) ぎで初(はじ)めて、『其名(そのな)を、榮(えい)ちやん、倫(りん)ちやん、貞(てい)ちやんと云(い)つて、三人(にん)とも皆(みん)な井戸( ゐど)の底(そこ)に住(す)んでゐました――』 『何(なに)を食(た)べて生(い)きてたの?』と常(つね)に飮食(いんしよく)の問題(もんだい)に多大(たゞい)の興味(きようみ)を有(も)つ て居(ゐ)た所(ところ)の愛(あい)ちやんが訊(たづ)ねました。 『糖蜜(たうみつ)を舐(な)めて』と福鼠(ふくねずみ)が暫(しばら)く考(かんが)へてから云(い)ひました。 『そんな事(こと)が出來(でき)るも^ンですか』と云(い)つて愛(あい)ちやんは優容(しとやか)に、『では、皆(みん)な病氣(びやうき)になつ たでせう』 『さう/\、大變(たいへん)な病氣(びやうき)』と福鼠(ふくねずみ)が云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは、こんな怖(おそ)ろしい事(こと)をしても生(い)きて居(ゐ)られるものだらうかと、少(すこ)しく自分(じぶん)の身(み) について想像(さうざう)を廻(めぐ)らしましたが、益々(ます/\)譯(わけ)が分(わか)らなくなるばかりでした、ところで、『だけど何故(なぜ) 、井戸(ゐど)の底(そこ)に住(す)んでゐたんでせう?』 『もつとお茶(ちや)を呉(く)れ』と三月兎(ぐわつうさぎ)が切(せつ)に愛(あい)ちやんに願(ねが)ひました。 『もう些(ちつ)とも無(な)いわ』と愛(あい)ちやんは焦心(ぢれ)ッたさうに答(こた)へて、『そんなに私(わたし)、進上(あげ)られなくッてよ 』 『ナニ、少(ちつ)とばかりは進上(あげ)られないッて』と帽子屋(ばうしや)が云(い)つて、『何(なん)にも無(な)いのを呉(く)れるのは難(む づか)しいけど、澤山(たくさん)有(あ)るのを呉(く)れるのは容易(ようい)なことだ』 『大(おほ)きなお世話(せわ)よ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『私(わたし)を誰(だれ)だと思(おも)つてるか?』と帽子屋(ばうしや)が威丈高(ゐたけだか)に問(と)ひました。  愛(あい)ちやんは云(い)ふべき言葉(ことば)もなく、幾(いく)らかのお茶(ちや)と麺麭(パン)と牛酪(バター)とを出(だ)して、福鼠(ふく ねずみ)の方(はう)に振向(ふりむ)き、『何故(なぜ)皆(みん)な井戸(ゐど)の底(そこ)に住(す)んでゐたの?』と問(と)ひ返(かへ)しまし た。  福鼠(ふくねずみ)は又(また)それについて暫(しばら)く考(かんが)へて居(ゐ)ましたが軈(やが)て、『それは糖蜜井戸(たうみつゐど)でした 』 『そんなものは無(な)くッてよ!』と愛(あい)ちやんは頗(すこぶ)る腹立(はらだた)しげに云(い)ひました、帽子屋(ばうしや)と三月兎(ぐわつ うさぎ)とは、『叱(し)ッ!叱(し)ッ!』と續(つゞ)けさまに叫(さけ)びました。福鼠(ふくねずみ)は自棄(やけ)になつて、『そんな失敬(しつ けい)な事(こと)をするなら談話(はなし)を止(や)めて了(しま)うから可(い)い』 『もう爲(し)ないから、萬望(どうぞ)話(はな)して頂戴(ちやうだい)な』と愛(あい)ちやんは極(ご)く謙遜(けんそん)して、『二度(ど)と喙 (くち)を容(い)れないわ。屹度(きつと)そんな井戸(ゐど)が一(ひと)つ位(くらゐ)あつてよ』 『然(さ)うさ、一つ位(くらゐ)!』と福鼠(ふくねずみ)は焦心(ぢれ)ッたさうに云(い)つて、又(また)話(はな)し續(つゞ)けました、『其故 (それゆゑ)此等(これら)三人(にん)の姉妹(きやうだい)は――皆(みん)なで描(えが)くことを學(まな)んで居(ゐ)ました――』 『何(なに)を描(えが)いて居(ゐ)たの?』と約束(やくそく)したことを全(まつた)く忘(わす)れて、愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『糖蜜(たうみつ)を』今度(こんど)は些(ちつ)とも考(かんが)へずに福鼠(ふくねずみ)が云(い)ひました。 『清潔(きれい)な洋盃(カツプ)を呉(く)れ』と帽子屋(ばうしや)が喙(くち)を容(い)れて、『皆(みん)なで一(ひと)つ場所(ばしよ)を取交 (とりか)へやうぢやないか』  彼(かれ)は斯(か)う云(い)つて動(うご)き出(だ)しました、福鼠(ふくねずみ)が其後(そのあと)に隨(つ)いて行(ゆ)きました、三月兎( ぐわつうさぎ)は福鼠(ふくねずみ)の居(ゐ)た場所(ばしよ)へ移(うつ)りました、愛(あい)ちやんは厭々(いや/\)ながら三月兎(ぐわつうさぎ )の居(ゐ)た所(ところ)へ行(ゆ)きました。帽子屋(ばうしや)が唯(た)ッた一人(ひとり)場所(ばしよ)を取(と)り交(か)へた爲(ため)に 一番(ばん)好(い)いことをしました、愛(あい)ちやんは以前(まへ)よりも餘(よ)ッ程(ぽど)割(わり)が惡(わる)くなりました、だつて、三月 兎(ぐわつうさぎ)が丁度(ちやうど)其時(そのとき)自分(じぶん)の皿(さら)へ牛乳壺(ぎうにうつぼ)を有(あ)りッたけ空(あ)けて了(しま) つたのですもの。  愛(あい)ちやんは再(ふたゝ)び福鼠(ふくねずみ)に腹(はら)を立(た)たせまいと、極(きは)めて愼(つゝ)ましやかに、『私(わたし)には解 (わか)りませんわ。何所(どこ)から皆(みん)な糖蜜(たうみつ)を汲(く)んで來(き)たのでせう?』 『お前(まへ)は水井戸(みづゐど)から水(みづ)を汲(く)むだらう』と帽子屋(ばうしや)が云(い)つて、『それで解(わか)るぢやないか、糖蜜井 戸(たうみつゐど)からは糖蜜(たうみつ)が汲(く)めるサ――え、さうぢやないか、莫迦(ばか)な?』  未(ま)だ其言葉(そのことば)の終(をは)らぬ中(うち)に愛(あい)ちやんは、『だけど、皆(みん)なが井戸(ゐど)の中(なか)に居(ゐ)ては 』と福鼠(ふくねずみ)に云(い)ひました。 『無論(むろん)皆(みん)なが居(ゐ)たさ』と云(い)つて福鼠(ふくねずみ)は、『――井戸(ゐど)の中(なか)に』  答(こた)へられたが愛(あい)ちやんには愈々(いよ/\)合點(がてん)がゆかず、福鼠(ふくねずみ)の饒舌(しやべ)るがまゝに委(まか)せて、 少時(しばらく)の間(あひだ)敢(あへ)て喙(くち)を容(い)れやうともしませんでした。 『皆(みん)なで描(えが)くことを習(なら)つて居(ゐ)ました』と福鼠(ふくねずみ)は言(い)ひ續(つゞ)けて、欠(あくび)をしたり、その眼( め)を擦(こす)つたり、さぞ眠(ねむ)さうに、『皆(みん)なで種々(いろ/\)なものを描(えが)いて居(ゐ)ました――ネの字(じ)のつくものは 何(なん)でも――』 『何故(なぜ)ネの字(じ)のつくものばかり?』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『何故(なぜ)、それでないのぢや不可(いけ)ないか?』と三月兎(ぐわつうさぎ)が云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは默(だま)つて居(ゐ)ました。  福鼠(ふくねずみ)は又(また)その眼(め)を閉(と)ぢ、そろ/\坐睡(ゐねむ)りを初(はじ)めました、が、帽子屋(ばうしや)に抓(つね)られ て喫驚(びツくり)して跳(と)び上(あが)り、『――ネの字(じ)がつくんだ、例(たと)へば、鼠罠(ねずみわな)とか、舟(ふね)とか、金(かね) とか、種(たね)とか――擧(あ)げ來(きた)れば山程(やまほど)ある――お前(まへ)は其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)物(もの)が畫(ゑ)に描(か)かれたのを見(み)たことがあるか?』 『まア、私(わたし)に訊(き)くの』と愛(あい)ちやんはさも迷惑(めいわく)さうに云(い)つて、『私(わたし)知(ゝ)らなくつてよ――』 『話(はな)せないねえ』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。  輕蔑(けいべつ)せられて愛(あい)ちやんは堪(た)へ切(き)れず、忌々(いま/\)しさうに起(た)ち上(あが)つて、さつさと歩(ある)き出( だ)しました、福鼠(ふくねずみ)は眠(ねむ)つてゐるし、誰(だ)れ一人(ひとり)として愛(あい)ちやんの出(で)て行(ゆ)くのを氣(き)にする ものはありませんでした、皆(みん)なが呼(よ)び戻(もど)すだらうと思(おも)つて、愛(あい)ちやんが後(あと)を振(ふ)り返(かへ)つて見( み)ると、驚(おとろ)[#ルビの「おとろ」はママ]くまいことか、皆(みん)なで急須(きふす)の中(なか)へ福鼠(ふくねずみ)を押(お)し込(こ )まうとして居(ゐ)ました。 『何(なん)でも可(い)い、もう二度(ど)と其處(そこ)へは行(ゆ)かないから!』云(い)ひながら愛(あい)ちやんは、森(もり)の中(なか)を 徒歩(おひろひ)て行(ゆ)きました。『莫迦(ばか)げた茶話會(さわくわい)よ、初(はじ)めて見(み)たわ!』  云(い)ひ終(をは)るや愛(あい)ちやんは、一本(ぽん)の木(き)に戸(と)があつて、其中(そのなか)へ眞直(まつすぐ)に這入(はい)れるの に氣(き)がつきました。愛(あい)ちやんは『これは奇妙(きめう)だ!』と思(おも)ひました。『何(ど)うして今日(けふ)は此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)に奇妙(きめう)な事(こと)ばかりなんでせう。直(すぐ)に中(なか)へ行(ゆ)かれさうだわ』云(い)つて愛(あい)ちやんは這(は)ひ 込(こ)みました。  再(ふたゝ)び愛(あい)ちやんは細長(ほそなが)い大廣間(おほびろま)の中(なか)の、あの小(ちひ)さな硝子(ガラス)洋卓(テーブル)の眞近 (まぢか)へ出(で)ました。『まア、今度(こんど)は巧(うま)くやらう』と獨語(ひとりごと)と[#「獨語(ひとりごと)と」はママ]云(い)ひな がら、其(その)小(ちひ)さな黄金(こがね)の鍵(かぎ)を取(と)つて、花園(はなぞの)に通(つう)ずる戸(と)を打(う)ち開(ひら)きました 。それから愛(あい)ちやんは菌(きのこ)を甜(な)[#「甜(な)」はママ]めて(衣嚢(ポケツト)の中(なか)に有(あ)つたもう一^ト片(かけ) の)殆(ほと)んど一尺(しやく)ばかりの身長(せい)になつて、その小(ちひ)さな路(みち)を下(くだ)つて行(ゆ)き、軈(やが)て――愛(あい )ちやんは遂(つひ)に赫灼(かくしやく)として目(め)も綾(あや)なる花壇(くわだん)や、清冽(せいれつ)掬(きく)すべき冷泉(れいせん)のあ る、其(その)美(うつく)しき花園(はなぞの)に入(い)ることを得(え)ました。 [#改ページ] 第八章  女王樣(ぢよわうさま)の毬投場(まりなげば)  一本(ぽん)の大(おほ)きな薔薇(ばら)の木(き)が、殆(ほと)んど其花園(そのはなぞの)の中央(ちゆうわう)に立(た)つてゐて、白(しろ) い花(はな)が幾(いく)つもそれに咲(さ)いてゐましたが、其處(そこ)には三人(にん)の園丁(えんてい)が居(ゐ)て、忙(いそが)はしげにそれ を赤(あか)く彩色(さいしき)してゐました。愛(あい)ちやんは處(こ)[#ルビの「こ」はママ]れは奇妙(きめう)だと思(おも)つて、近寄(ちか よ)つて凝(じつ)と見(み)てゐますと、やがて其中(そのなか)の一人(ひとり)が云(い)ふことには、『意(き)をお注(つ)けよ、何(なん)だね 、五點(フアイブ)!こんなに私(わたし)に顏料(ゑのぐ)を撥(は)ねかして!』 『そんな事(こと)を云(い)つたつて仕方(しかた)がない』と拗(す)ねた調子(てうし)で五點(フアイブ)が云(い)ひました。『七點(セヴン)が 私(わたし)の肘(ひぢ)を衝(つ)いたんだもの』  云(い)はれて七點(セヴン)は空嘯(そらうそぶ)き、『さうだよ、五點(フアイブ)!何時(いつ)でも惡(わる)い事(こと)は他人(ひと)の所爲 (せゐ)にするさ!』 園丁の図 『然(さ)う怒(おこ)つたものぢやない!』と云(い)つて五點(フアイブ)は『私(わたし)は昨日(きのふ)女王樣(ぢよわうさま)が、何(ど)うし てもお前(まへ)は首(くび)を刎(は)ねられるやうな惡(わる)い事(こと)をしたと云(い)はれるのを聞(き)いた!』 『何(ど)うしてさ?』と最初(さいしよ)話(はな)し出(だ)したのが云(い)ひました。 『お前(まへ)の知(し)つた事(こと)ぢやない!』と五點(フアイブ)。『そんなら私(わたし)は彼(あ)れに話(はな)してやらう――玉葱(たまね ぎ)の代(かは)りに欝金香(うつこんかう)の根(ね)を料理人(クツク)の許(ところ)へ持(も)つて行(い)けッて』  七點(セヴン)は彼(か)れの刷毛(はけ)を投(な)げ出(だ)し、『さア、何(なん)でも惡(わる)い事(こと)は――』圖(はか)らずも其視線( そのしせん)が、立(た)つて皆(みん)なの爲(す)ることを見(み)てゐた愛(あい)ちやんの視線(しせん)と衝突(ぶつか)り合(あ)つたので、急 (いそ)いで彼(かれ)はそれを外(そ)らしました、他(ほか)の者(もの)は云(い)ひ合(あは)せたやうに四邊(あたり)を見廻(みまは)し、それ から一齊(せい)に腰(こし)を低(ひく)めてお辭儀(じぎ)をしました。 『話(はな)して聞(き)かしてお呉(く)れな』と愛(あい)ちやんは恐(おそ)る/\云(い)つて、『何故(なぜ)其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)に薔薇(ばら)の花(はな)を彩色(さいしき)するの?』 『五點(フアイブ)と七點(セヴン)とは何(なん)とも云(い)はないで二點(ツウ)の方(はう)を見(み)ました。二點(ツウ)は小(ちひ)さな聲( こゑ)で『何故(なぜ)ッて、斯(か)うです、お孃(じやう)さん、これは元來(ぐわんらい)赤(あか)い薔薇(ばら)の木(き)であつたんですが私( わたし)どもが過(あやま)つて白(しろ)いのを一つ雜(ま)ぜたのです、それで、若(も)し其(そ)れが女王樣(ぢよわうさま)のお目(め)にとまら うものなら、私共(わたしども)は一人(ひとり)殘(のこ)らず皆(みん)な頭(あたま)を刎(は)ねられて了(しま)ひます。それですから、ねえ、お 孃(じやう)さん、私共(わたしども)は女王樣(ぢよわうさま)のお出(い)でになる以前(まへ)に、一生懸命(しやうけんめい)にそれを塗(ぬ)つて 置(お)くんです、それ――』此時(このとき)恰(あだか)も花園(はなぞの)の向(むか)ふを氣遣(きづか)はしげに眺(なが)めて居(ゐ)た五點( フアイブ)が、『女王樣(ぢよわうさま)が!女王樣(ぢよわうさま)が!』と叫(さけ)んだので、三人(にん)の園丁(えんてい)は直樣(すぐさま)各 自(てんで)に平伏(ひれふ)しました。續(つゞ)いて多(おほ)くの跫音(あしおと)がしたので、愛(あい)ちやんは女王樣(ぢよわうさま)のお顏( かほ)を拜(はい)せんとして※心(ねつしん)[#「執/れんが」、U+24360、125-1]に方々(はう/″\)を見廻(みまは)しました。  最初(さいしよ)、十人(にん)の兵士(へいし)が棍棒(こんぼう)を携(たづさ)へて來(き)ました、此等(これら)は皆(みん)な三人(にん)の 園丁(えんてい)のやうな恰好(かつかう)をして居(ゐ)て、長楕圓形(ちやうだゑんけい)で平(ひら)たくて、隅々(すみ/″\)からは其(そ)の手 足(てあし)が出(で)て居(ゐ)ました、次(つぎ)に來(き)たのは十人(にん)の朝臣(てうしん)で、此等(これら)は一人(ひとり)殘(のこ)ら ず數多(あまた)の菱形金剛石(ダイアモンド)を鏤刻(ちりば)めて、先(さき)の兵士(へいし)と同(おな)じやうに二列(れつ)になつて歩(ある) いて來(き)ました。此等(これら)の後(あと)から皇子(わうじ)が見(み)えました、丁度(ちやうど)十人(にん)在(ゐ)らせられて、小(ちひ) さな可愛(かあい)い方々(かた/″\)が最(いと)も樂(たの)しげに、手(て)に手(て)を取(と)つてお二人(ふたかた)づゝ跳(と)んでお出( い)でになりました、何(いづ)れも皆(みん)な心臟(ハート)で飾(かざ)りたてられてゐました。次(つぎ)に來(き)たのは多(おほ)くの賓客(ま らうど)で、大抵(たいてい)は王樣(わうさま)と女王樣(ぢよわうさま)とで、その中(なか)に愛(あい)ちやんは白兎(しろうさぎ)の居(ゐ)るの を看(み)て取(と)りました、それはさも忙(いそが)しさうに、氣短(きみじ)がに[#「氣短(きみじ)がに」はママ]話(はな)しながら、云(い) はれる事々(こと/″\)に笑(わら)ひ興(きよう)じて、愛(あい)ちやんには氣(き)も止(と)めずに行(ゆ)き過(す)ぎました。それから續(つ ゞ)いて心臟(ハート)の軍人(ネーブ)が、眞紅(しんく)の天鵞絨(びろうど)の座布團(ざぶとん)の上(うへ)に、王樣(わうさま)の冠(かんむり )を戴(の)せて持(も)つて來(き)ました、此(こ)の壯麗(さうれい)な行列(ぎやうれつ)の總殿(さうしんがり)には、心臟(ハート)の王樣(わ うさま)と女王樣(ぢよわうさま)とが在(ゐ)らせられました。  愛(あい)ちやんは自分(じぶん)も亦(また)、三人(にん)の園丁(えんてい)のやうに平伏(ひれふ)さなければならないか何(ど)うかは些(ち) と疑問(ぎもん)でしたが、甞(かつ)て行列(ぎやうれつ)に出逢(であ)つた場合(ばあひ)、かうした規則(きそく)のあることを聞(き)きませんで した、『行列(ぎやうれつ)なンて一體(たい)何(なん)の必要(ひつえう)があるのかしら』と思(おも)ふと同時(どうじ)に、『若(も)し人民(じ んみん)どもが皆(みん)な平伏(ひれふ)さなければならない位(くらゐ)なら、寧(いつ)そ行列(ぎやうれつ)を見(み)ない方(はう)が益(まし) ぢやないの?』其故(それゆゑ)愛(あい)ちやんは自分(じぶん)の居(ゐ)た所(ところ)に靜(しづ)かに立停(たちどま)つて待(ま)つてゐました 。  行列(ぎやうれつ)が愛(あい)ちやんと相對峙(あひたいぢ)する迄(まで)進(すゝ)んで來(き)た時(とき)に、彼等(かれら)は一齊(せい)に 止(とゞ)まつて愛(あい)ちやんを打眺(うちなが)めました、女王樣(ぢよわうさま)は嚴肅(げんしゆく)に、『こは何者(なにもの)ぞ?』と心臟( ハート)の軍人(ネーブ)にまで申(まを)されました。心臟(ハート)の軍人(ネーブ)はお辭儀(じぎ)をしたばかりで、笑(わら)つて答(こた)へま せんでした。 『痴人(ばか)め!』女王樣(ぢよわうさま)は焦心(ぢれ)ッたさうに御自身(ごじしん)の頭(あたま)を突(つ)き出(だ)して申(まを)されました 、それから愛(あい)ちやんに振向(ふりむ)いて、『何(なん)と申(まを)す名(な)ぢや?子供(こども)』 『私(わたし)の名(な)は愛子(あいこ)です、陛下(へいか)よ』愛(あい)ちやんは頗(すこぶ)る恭々(うや/\)しく申(まを)し上(あ)げまし た、しかし愛(あい)ちやんは心(こゝろ)の中(うち)では、『高(たか)の知(し)れた、彼等(かれら)は骨牌(かるた)の一組(ひとくみ)に過(す )ぎないぢやないか。ナニ恐(おそ)れることがあるものか』と思(おも)つて居(ゐ)ました。 『して此等(これら)は何者(なにもの)か?』女王樣(ぢよわうさま)は薔薇(ばら)の木(き)の周(まは)りに平伏(ひれふ)してゐた三人(にん)の 園丁(えんてい)どもを指(ゆびさ)して申(まを)されました、何故(なぜ)と云(い)ふに、彼等(かれら)は俯伏(うつぶ)せに臥(ね)てゐるし、そ の脊中(せなか)の模樣(もやう)が一組(ひとくみ)の其他(そのた)のものと同(おな)じことであつて、女王樣(ぢよわうさま)には何(ど)れが、園 丁(えんてい)か、兵士(へいし)か、朝臣(てうしん)か、又(また)御自分(ごじぶん)のお子供衆(こどもしゆう)のお三方(さんかた)であつたかを 、お判別(みわけ)になることがお出來(でき)になりませんでしたから。 『如何(どう)して私(わたし)が存(ぞん)じて居(を)りませう?』云(い)つて愛(あい)ちやんは自(みづか)ら其勇氣(そのゆうき)に驚(おどろ )きました。『それは私(わたし)の知(し)つた事(こと)ではありません』  女王樣(ぢよわうさま)は滿面(まんめん)朱(しゆ)をそゝいだやうに眞赤(まつか)になつてお怒(いか)りになりました、暫時(しばし)の間(あひ だ)野獸(やじう)の如(ごと)く愛(あい)ちやんを凝視(みつめ)てお在(ゐ)でになりましたが、軈(やが)て、『頭(あたま)を刎(は)ね飛(と) ばすぞ!刎(は)ね――』と叫(さけ)ばれました。 『莫迦(ばか)なことを!』と愛(あい)ちやんは大聲(おほごゑ)で嚴然(げんぜん)と云(い)ひました。女王樣(ぢよわうさま)は默(だま)つて了( しま)はれました。  王樣(わうさま)は其(その)お手(て)を女王樣(ぢよわうさま)の腕(かひな)にかけされられ、恐(おそ)る/\申(まを)されました、『考(かん が)へても御覽(ごらん)なさい、え、高(たか)が一人(ひとり)の子供(こども)ではないか!』  女王樣(ぢよわうさま)は怒氣(どき)を含(ふく)ませられ、王樣(わうさま)から振向(ふりむ)いて軍人(ネーブ)に申(まを)されました、『其奴 等(そやつら)を顛覆(ひつくりかへ)せ!』  軍人(ネーブ)が顛覆(ひつくりかへ)しました、極(きは)はめて[#「極(きは)はめて」はママ]注意(ちうい)して、片脚(かたあし)を以(もつ )て。 『起(お)きよ!』女王樣(ぢよわうさま)が鋭(するど)い大(おほ)きな聲(こゑ)で申(まを)されました。三人(にん)の園丁等(えんていら)は直 (たゞ)ちに跳(と)び起(お)き、王樣(わうさま)と、女王樣(ぢちわうさま)[#ルビの「ぢちわうさま」はママ]と、皇子方(わうじがた)と、それ から其他(そのた)の者(もの)とに、各々(おの/\)お辭儀(じぎ)をし初(はじ)めました。 『そんな事(こと)は止(や)め!』と女王樣(ぢよわうさま)は叫(さけ)んで、『眩暈(めまひ)がする』それから薔薇(ばら)の木(き)に振向(ふり む)いて、『何(なに)をお前方(まへがた)は此處(こゝ)でして居(ゐ)たのか?』 『何卒(なにとぞ)お宥(ゆる)し下(くだ)さい、陛下(へいか)よ』二點(ツウ)は極(きは)めて謙遜(けんそん)した調子(てうし)で云(い)つて 片膝(かたひざ)をつき、『私(わたし)どもの爲(し)て居(を)りましたことは――』 『宜(よろ)しい解(わか)つた!』言(い)つて女王樣(ぢよわうさま)は少時(しばし)薔薇(ばら)の花(はな)を檢査(けんさ)して居(を)られま した。 『皆(みん)な頭(あたま)を刎(は)ねて了(しま)へ!』やがて行列(ぎやうれつ)が動(うご)き出(だ)しました。三人(にん)の兵士(へいし)は 不幸(ふこう)な園丁等(えんていら)を刑(けい)に處(しよ)するために後(あと)に殘(のこ)りました。園丁等(えんていら)は保護(ほご)を願( ねが)ひに愛(あい)ちやんの許(もと)へ駈(か)けて來(き)ました。 『刎(は)ねられやしない大丈夫(だいじやうぶ)よ!』云(い)つて愛(あい)ちやんは、傍(そば)にあつた大(おほ)きな植木鉢(うゑきばち)の中( なか)へ彼等(かれら)を入(い)れました。三人(にん)の兵士(へいし)はそれを見(み)ながら二三分間(ぷんかん)彷徨(うろ/\)して居(ゐ)ま したが、やがて徐(しづ)かに他(た)の者(もの)の後(あと)に隨(つ)いて進(すゝ)んで行(ゆ)きました。 『殘(のこ)らず頭(あたま)を刎(は)ねたか?』と女王樣(ぢよわうさま)が叫(さけ)ばれました。 『殘(のこ)らず頭(あたま)は御座(ござ)いません、陛下(へいか)のお望(のぞ)み通(どほ)り!』と兵士(へいし)は叫(さけ)んで答(こた)へ ました。 『よろしい!』と女王樣(ぢよわうさま)がお叫(さけ)びになりました。『汝(なんぢ)、毬投(まりな)げを仕(つかまつ)るか?』  兵士等(へいしら)は默(だま)つて愛(あい)ちやんの方(はう)を見(み)ました、此(こ)の問(とひ)は明(あきら)かに愛(あい)ちやんに對( たい)してゞした。 『はい!』と愛(い)[#ルビの「い」はママ]ちやんが叫(さけ)びました。 『お出(い)で、そんなら!』と女王樣(ぢよわうさま)が聲高(こわだか)に申(まを)されました。愛(あい)ちやんは其行列(そのぎやうれつ)に加( くは)はつたものゝ、これから何(ど)うする事(こと)かと大層(たいさう)怪訝(けゞん)がつて居(ゐ)ました。 『それは――それは好(い)い日和(ひより)でした!』愛(あい)ちやんの傍(そば)で小(ちひ)さな聲(こゑ)がしました。愛(あい)ちやんは白兎( しろうさぎ)の側(そば)に隨(つ)いて歩(ある)いて居(ゐ)たのです、白兎(しろうさぎ)は心配(しんぱい)さうに愛(あい)ちやんの顏(かほ)を 覘(のぞ)き込(こ)みました。 『オヤ!』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『――何處(どこ)に公爵夫人(こうしやくふじん)がお在(ゐ)でになるの?』 『叱(し)ッ!叱(し)ッ!』小(ちひ)さな聲(こゑ)で忙(いそが)しさうに兎(うさぎ)が云(い)ひました。云(い)つて兎(うさぎ)は氣遣(きづ か)はしげに自分(じぶん)の肩(かた)を幾度(いくど)も見(み)ました、それから爪先(つまさき)で立(た)ち上(あが)り、愛(あい)ちやんの耳 元(みゝもと)近(ちか)く口(くち)を寄(よ)せて、『愛(あい)ちやんが死刑(しけい)の宣告(せんこく)の下(もと)にある』と云(い)ふことを ※(「口+耳」、第3水準1-14-94) (さゝや)きました。 『何(ど)うして?』と愛(あい)ちやん。 『「何(なん)と可哀相(かあいさう)に!』とでもお前(まへ)は云(い)つたのか?』と兎(うさぎ)が訊(き)きました。 『否(いゝ)え、云(い)やしなくッてよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました、『些(ちつ)とも可哀相(かあいさう)だとは思(おも)はないわ。私 (わたし)は「何(ど)うして?」と云(い)つたのよ』 『娘(むすめ)が女王樣(ぢよわうさま)の耳(みゝ)を毆(なぐ)つた――』と兎(うさぎ)が云(い)ひ初(はじ)めました。愛(あい)ちやんはきやッ /\と笑(わら)ひました。『オイ、默(だま)れ!』と云(い)つて兎(うさぎ)は ※(「口+耳」、第3水準1-14-94) (さゝや)くやうな調子(てうし)で、『女王樣(ぢよわうさま)がお前(まへ)の事(こと)をお訊(き)きになつた!お前(まへ)は女王樣(ぢよわうさ ま)が些(や)や遲(おく)れてお出(い)でになつたことを知(し)つてるだらう、それで女王樣(ぢよわうさま)の仰(あふ)せらるゝには――』 『もとへ!』と雷(らい)のやうな聲(こゑ)で女王樣(ぢよわうさま)が叫(さけ)ばれました。人々(ひと/″\)は互(たがひ)に衝突(ぶつか)りま はりながら、四方八方(しはうはつぱう)に駈(か)けめぐりました。暫(しばら)くして皆(みん)なが各々(おの/\)元(もと)の位置(ゐち)につく や、競技(ゲーム)が始(はじ)まりました。愛(あい)ちやんは是迄(これまで)にこんな奇妙(きめう)な毬投場(まりなげば)を見(み)たことがない と思(おも)ひました。それは隅(すみ)から隅(すみ)まで數多(あまた)の畦畝(うね)になつて居(ゐ)ました、其球(そのボール)は生(い)きた針 鼠(はりねずみ)、槌(つち)は生(い)きた紅鶴(べにづる)で、それから兵士等(へいしら)は二列(れつ)になつて、緑門(アーチ)を造(つく)る爲 (ため)に手(て)を擧(あ)げ足(あし)を欹(そばだ)てました。  愛(あい)ちやんの先(ま)づ氣(き)がついた第(だい)一の困難(こんなん)は、其(そ)の紅鶴(べにづる)を取扱(とりあつか)ふことでありまし た。愛(あい)ちやんは其(そ)の體(からだ)を巧(うま)く自分(じぶん)の腋(わき)の下(した)へ壓(お)し込(こ)み、其(そ)の足(あし)は 垂(た)れるがまゝになし、首(くび)をば眞直(まつすぐ)に伸(の)し出(だ)させ、其(そ)の頭(あたま)を以(もつ)て針鼠(はりねずみ)を打( う)たうとしましたが、それが身(み)を捻(ひね)つて、妙(めう)な容貌(かほつき)をして、愛(あい)ちやんの顏(かほ)を見(み)たので、愛(あ い)ちやんは可笑(をか)しさに堪(た)へ切(き)れず、哄笑(ふきだ)しました。軈(やが)て今度(こんど)は、愛(あい)ちやんが其(そ)の頭(あ たま)を下(した)へやり、再(ふたゝ)び始(はじ)めやうとすると針鼠(はりねずみ)が、自分(じぶん)を仲間外(なかまはづ)れにしたと云(い)つ て大(おほい)に怒(いか)り、將(まさ)に匍(は)ひ去(さ)らうとする素振(そぶり)が見(み)えました。見渡(みわた)す限(かぎ)り、愛(あい )ちやんが針鼠(はりねずみ)を送(おく)らうと思(おも)ふ所(ところ)には總(すべ)て畦畝(うね)があつて、二列(れつ)になつた兵士(へいし) が常(つね)に起(お)きて、毬投場(グラウンド)の他(た)の部分々々(ぶゝん/\)を歩(ある)いてゐました。愛(あい)ちやんは忽(たちま)ちそ れが實(じつ)に難(むづか)しい競技(ゲーム)だと云(い)ふことを思(おも)ひ定(さだ)めました。  競技者(プレーヤー)は皆(みん)な自分(じぶん)の番(ばん)の來(く)るのを待(ま)たずして同時(どうじ)に遊(あそ)び戯(たはむ)れ、絶( た)えず爭(あらそ)つて、針鼠(はりねずみ)を取(と)らうとして戰(たゝか)つてゐますと、軈(やが)て女王樣(ぢよわうさま)が甚(いた)くお腹 立(はらだ)ちになり、地鞴踏(ぢだんだふ)みながら、『彼(か)れの頭(あたま)を刎(は)ねよ!』さもなければ『其娘(そのこ)の頭(あたま)を刎 (は)ねよ!』と一時(じ)にお叫(さけ)びになりました。  愛(あい)ちやんは心中(しんちゆう)頗(すこぶ)る不安(ふあん)を感(かん)じました、確(たし)かに愛(あい)ちやんは未(ま)だ女王樣(ぢよ わうさま)とは試合(しあひ)をしませんでしたが、何時(いつ)か其時(そのとき)が來(く)るだらうと思つて居ました、『さうなつたら私(わたし)は 何(ど)うすれば可(い)いかしら?彼(あ)の方々(かた/″\)は怖(おそ)ろしくも、此處(こゝ)に居(ゐ)る人々(ひと/″\)の頭(あたま)を 刎(は)ねたがつて居(を)られるが、それにしては甚(はなは)だ不思議(ふしぎ)な事(こと)にも、生(い)き殘(のこ)つてる者(もの)のあること だわ!』  愛(あい)ちやんは何處(どこ)か遁路(にげみち)をと思(おも)つて探(さが)しましたが、不思議(ふしぎ)にも、見(み)つからないやうには何處 (どこ)へも行(ゆ)かれませんでした。やがて愛(あい)ちやんは空中(くうちゆう)に奇態(きたい)なものゝ現(あら)はれてるのに氣(き)がつきま した、それは最初(さいしよ)甚(はなは)だ愛(あい)ちやんを惑(まど)はしましたが、暫(しばら)く見(み)てゐる中(うち)、露出(むきだ)しの 齒(は)だと云(い)ふことが分(わか)り、愛(あい)ちやんは獨語(ひとりごと)を云(い)ひました『朝鮮猫(てうせんねこ)だわ、先(ま)づこれで 談話(はなし)對手(あひて)が出來(でき)た』 『其後(そのご)は御無沙汰(ごぶさた)、御機嫌(ごきげん)よう?』口切(くちき)りに猫(ねこ)が斯(か)う云(い)ひました。  愛(あい)ちやんは其兩眼(そのりやうがん)が現(あら)はれるのを待(ま)つて、首肯(うなづ)きました。『それに話(はな)しするのは無駄(むだ )だわ、其兩耳(そのりやうみゝ)の出(で)ない中(うち)は、少(すくな)くとも片耳(かたみゝ)出(で)ない中(うち)は』と思(おも)つて居(ゐ )ると、忽(たちま)ら[#「忽(たちま)ら」はママ]全頭(ぜんとう)が現(あら)はれたので、愛(あい)ちやんは持(も)つて居(ゐ)た紅鶴(べに づる)を下(お)ろし、競技(ゲーム)の數(かず)を數(かぞ)へ初(はじ)めました、自分(じぶん)の云(い)ふ事(こと)に耳(みゝ)を傾(かたむ )けるものが出來(でき)たのを大層(たいそう)悦(よろこ)ばしく思(おも)つて。猫(ねこ)は今(いま)それで充分(じうぶん)だと思(おも)つた か、もうそれ以上(いじやう)は姿(すがた)を見(み)せませんでした。 『あれでは皆(みん)なが全(まつた)く都合(つがふ)よく遊(あそ)べる筈(はづ)がないわ』と愛(あい)ちやんは些(や)や不平(ふへい)がましく 、『自分(じぶん)の云(い)ふことさへ自分(じぶん)に聞(きこ)えない程(ほど)、恐(おそ)ろしく爭(あらそ)つてるんですもの――特(とく)に これと云(い)ふ規則(きそく)もないらしいのね、些(ちつ)とでも若(も)しあるとしたならば、誰(だ)れもそれに氣(き)がついてゐないんだわ―― その考(かんが)へがないため、どの位(くらゐ)皆(みん)なが秩序(しだら)なく周章狼狽(あはてまは)るか知(し)れないのよ、例(たと)へば競技 場(グラウンド)の他(た)の端(はし)に行(ゆ)くのには、是非(ぜひ)とも拔(ぬ)けて行(ゆ)かなければならない緑門(アーチ)があると云(い) ふものだわ――私(わたし)は唯今(たゞいま)、女王樣(ぢよわうさま)の針鼠(はりねずみ)で蹴鞠(けまり)をしやうとしたの、さうしたら、それが私 (わたし)の來(く)るのを見(み)て逃(に)げて了(しま)つてよ!』 『お前(まへ)は女王樣(ぢよわうさま)がそんなに好(す)きかい?』低(ひく)い聲(こゑ)で猫(ねこ)が訊(き)きました。 『否(いゝ)え、些(ちつ)とも』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『女王樣(ぢよわうさま)は隨分(ずゐぶん)――』丁度(ちやうど)其時(そのと き)愛(あい)ちやんは女王樣(ぢよわうさま)が其背後(そのうしろ)へ近寄(ちかよ)つて、立聞(たちぎゝ)してお在(ゐ)でになるのに氣(き)がつ きましたから、わざと紛(まぎら)はして『――多分(たぶん)お勝(か)ちになるでせう、競技(ゲーム)の濟(す)むまでは瞭然(はつきり)云(い)へ ないけど』  女王樣(ぢよわうさま)は微笑(ほゝゑ)んで行(ゆ)き過(すご)されました。 『話(はな)しをしてるのは誰(だれ)か?』王樣(わうさま)が愛(あい)ちやんに近(ちか)づきながら申(まを)されました、それから、さも珍(めづ )らしさうに猫(ねこ)の頭(あたま)を見(み)てお在(ゐ)でになりました。 『それは私(わたし)のお友達(ともだち)です――朝鮮猫(てうせんねこ)です』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『恐(おそ)れながら御紹介(ごせ うかい)申(まを)し上(あ)げます』 『そんな容貌(かほつき)をしたものは全(まつた)く好(この)まん』と王樣(わうさま)が申(まを)されました、『それは何時(いつ)でも勝手(かつ て)にわが手(て)を接吻(キツス)する』 『私(わたし)は致(いた)しません』と猫(ねこ)がお斷(ことは)り申(まを)し上(あ)げました。 『無禮者(ぶれいもの)め』と王樣(わうさま)が申(まを)されました、『其顏(そのかほ)は何(なん)だ!』云(い)つて愛(あい)ちやんの背後(う しろ)へお出(い)でになりました。 『猫(ねこ)だとて王樣(わうさま)を拜(はい)して差支(さしつか)へない』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。『私(わたし)は或(あ)る書物 (しよもつ)でそれを讀(よ)みました、何處(どこ)であつたか憶(おぼ)えて居(ゐ)ませんが』 『宜(よろ)しい、移(うつ)すから』决然(けつぜん)として王樣(わうさま)が申(まを)されました。やがて其處(そこ)をお通(とほ)りになつた女 王樣(ぢよわうさま)にお聲(こゑ)をかけさせられ、『ねえ!此(この)猫(ねこ)を何處(どこ)かへ遣(や)つては呉(く)れまいか?』  女王樣(ぢよわうさま)は事(こと)の大小(だいせう)に拘(かゝは)らず、總(すべ)ての困難(こんなん)を解决(かいけつ)する唯一(ゆゐいつ) の方法(はうはふ)を御存(ごぞん)じでした。『彼(か)れの頭(あたま)を刎(は)ねよ!』と四邊(あたり)も見(み)ずに申(まを)されました。 『然(しか)らば、死刑執行者(しけいしつかうしや)を伴(つ)れて參(まゐ)らう』と切(せつ)に申(まを)されて、王樣(わうさま)は急(いそ)い で行(い)つてお仕舞(しまひ)になりました。  愛(あい)ちやんは歸(かへ)らうとしましたが、怒(いか)り號(さけ)ぶ女王樣(ぢよわうさま)のお聲(こゑ)が遠(とほ)くに聞(きこ)えたので 、如何(どう)なることかと猶(な)ほも競技(ゲーム)を見(み)てゐました。愛(あい)ちやんは既(すで)に三人(にん)の競技者(プレーヤー)が、 その順番(じゆんばん)を過(あやま)つた爲(ため)に、女王樣(ぢよわうさま)から死刑(しけい)の宣告(せんこく)を下(くだ)されたと云(い)ふ ことを聞(き)きました。やがて愛(あい)ちやんは、何時(いつ)になれば自分(じぶん)の番(ばん)だか一向(かう)譯(わけ)の分(わか)らぬ此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)競技(ゲーム)を見(み)てゐるのが莫迦々々(ばか/\)しくなつて來(き)たので、それよりも自分(じぶん)の針鼠(はりねずみ)を探(さ が)しに行(ゆ)きました。  針鼠(はりねずみ)は他(た)の針鼠(はりねずみ)と鬪(たゝか)つてゐました、それが愛(あい)ちやんには、二疋(ひき)の針鼠(はりねずみ)が他 (た)の一疋(ぴき)の針鼠(はりねずみ)を好(い)いやうに使(つか)つて、互(たがひ)に勝負(しやうぶ)を爭(あらそ)つてるやうに見(み)えま した、只一(たゞひと)つ厄介(やくかい)な事(こと)には、愛(あい)ちやんの紅鶴(べにづる)が花園(はなぞの)の他(た)の側(がは)に越(こ) して行(い)つて了(しま)つてたことで、其處(そこ)に愛(あい)ちやんは、それが空(むな)しく一本(ぽん)の木(き)に飛(と)び上(あが)らう として、それを試(こゝろ)みてるのを見(み)ました。  愛(あい)ちやんが紅鶴(べにづる)を捕(とら)へて持(も)ち歸(かへ)つた時(とき)には、已(すで)に鬪(たゝか)ひが終(を)へて居(ゐ)て 、二疋(ひき)の針鼠(はりねずみ)の姿(すがた)は見(み)えませんでした、『が、それは何(ど)うでも可(い)いとして、緑門(アーチ)も皆(みん )な競技場(グラウンド)の此方側(こつちがは)から何處(どこ)かへ行(い)つて了(しま)うかしら』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。乃( そこ)でそれが再(ふたゝ)び逃(に)げ出(だ)せないやうに、愛(あい)ちやんはそれを腋(わき)の下(した)へ壓(お)し込(こ)み、それからその 友達(ともだち)と猶(な)ほも談話(はなし)を續(つゞ)けやうとして戻(もど)つて行(ゆ)きました。  愛(あい)ちやんが朝鮮猫(てうせんねこ)の所(ところ)へ歸(かへ)つて行(い)つた時(とき)に、其周圍(そのしうゐ)にゐた大勢(おほぜい)の 群集(ぐんじゆ)を見(み)て一方(ひとかた)ならず驚(おどろ)きました、其處(そこ)には死刑執行者(しけいしつかうしや)と、王樣(わうさま)と 、それから女王樣(ぢよわうさま)との間(あひだ)に、一(いつ)の爭論(さうろん)が始(はじ)まつてゐました、皆(みん)な他(ほか)の者(もの) が全(まつた)く默(だま)つて、極(きは)めて不快(ふくわい)な容貌(かほつき)をしてゐるにも拘(かゝは)らず、女王樣(ぢよわうさま)は何(な に)から何(なに)まで一人(ひとり)で饒舌(しやべ)つて居(を)られました。  愛(あい)ちやんは姿(すがた)を見(み)せるや否(いな)や、其(そ)の問題(もんだい)を解决(かいけつ)するやうにと三人(にん)から歎願(た んぐわん)されました。乃(そこ)で彼等(かれら)は愛(あい)ちやんに其(そ)の爭論(さうろん)を繰返(くりかへ)して聞(き)かせました、皆(み ん)なが殘(のこ)らず各々(おの/\)一時(いちじ)に話(はな)すので、それを一々(いち/\)正確(せいかく)に聽(き)き取(と)ることは、愛 (あい)ちやんにとつて非常(ひじよう)な困難(こんなん)でありました。  死刑執行者(しけいしつかうしや)の論據(ろんきよ)は斯(か)うでした、それから斬(き)り離(はな)さるべき體(からだ)がなければ、頭(あたま )を切(き)ることは出來(でき)ない、甞(かつ)てそんな事(こと)をしたこともなければ、これから後(さき)とても一生涯(しやうがい)そんな事( こと)の有(あ)らう筈(はづ)がない。  王樣(わうさま)の論據(ろんきよ)は斯(か)うでした、頭(あたま)のあるものなら何(なん)でも頭(あたま)を刎(は)ねることが出來(でき)る 、死刑執行者(しけいしつかうしや)の云(い)ふところも強(あなが)ち間違(まちが)つては居(ゐ)ない。  女王樣(ぢよわうさま)の論據(ろんきよ)は斯(か)うでした、若(も)し何事(なにごと)にせよ、全(まつた)く時間(じかん)を要(えう)せずし て成(な)し了(を)うせられなかつたなら、所有(あらゆる)周圍(しうゐ)の誰(たれ)でもを死刑(しけい)に處(しよ)する。(全隊(ぜんたい)の 者(もの)をして眞面目(まじめ)ならしめ、又(また)氣遣(きづか)はしめたところのものは、此(こ)の最後(さいご)の言葉(ことば)でした)  愛(あい)ちやんは只(たゞ)斯(か)う云(い)ふ他(ほか)には何(なん)にも考(かんが)へつきませんでした、『それは公爵夫人(こうしやくふじ ん)の受持(うけもち)よ、其(そ)の事(こと)なら夫人(ふじん)に訊(たづ)ねた方(はう)が可(い)いわ』 『夫人(ふじん)は牢屋(らうや)に居(ゐ)る』と云(い)つて女王樣(ぢよわうさま)は死刑執行者(しけいしつかうしや)に、『此處(こゝ)へ伴(つ )れて參(まゐ)れ』乃(そこ)で其(そ)の死刑執行者(しけいしつかうしや)が箭(や)の如(ごと)く走(はし)り去(さ)りました。  猫(ねこ)の頭(あたま)は彼(か)れが行(い)つて了(しま)うと消(き)え失(う)せ始(はじ)めて、彼(か)れが公爵夫人(こうしやくふじん) を伴(ともな)ひ來(きた)つた時(とき)に、それが全(まつた)く消(き)え失(う)せて居(ゐ)ました、それ故(ゆゑ)王樣(わうさま)と死刑執行 者(しけいしつかうしや)とは、其他(そのた)の仲間(なかま)の者等(ものら)が皆(みん)な競技(ゲーム)に歸(かへ)つて行(い)つた後(あと) で、妄(やたら)に上下(うへした)を探(さが)し廻(まは)りました。 [#改ページ] 第九章  海龜(うみがめ)の話(はなし) 『まア、何(なん)といふ嬉(うれ)しいことでせう、復(ま)た逢(あ)つたのねえ!』云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は可愛(かあい)さの 餘(あま)り、腕(かひな)と腕(かひな)と觸(ふ)れるばかりに摺寄(すりよ)つて、二人(ふたり)は一緒(しよ)に歩(ある)いて行(ゆ)きました 。  愛(あい)ちやんは、夫人(ふじん)が斯(か)かる快活(くわいくわつ)な氣性(きしやう)になつたのを見(み)て甚(はなは)だ喜(よろこ)び、あ の厨房(だいどころ)で出逢(であ)つた時(とき)に、夫人(ふじん)が彼 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (あんな)に野蠻(やばん)めいた事(こと)をしたのは、全(まつた)く胡椒(こせう)の所爲(せゐ)であつたのだと思(おも)ひました。『私(わたし )が公爵夫人(こうしやくふじん)になつたら』と愛(あい)ちやんは獨語(ひとりごと)を云(い)つて(甚(はなは)だ得意(とくい)な口振(くちぶり )ではなかつたが)『全(まつた)く厨房(だいどころ)には胡椒(こせう)を置(お)かないことにしやう、肉汁(スープ)にはそれが無(な)くつても可 (い)いわ――屹度(きつと)何時(いつ)でも胡椒(こせう)が人(ひと)の氣(き)を苛々(いら/\)させるに違(ちが)ひない』と云(い)ひ足(た )して一(ひと)つの新規則(しんきそく)を發見(はつけん)したことを非常(ひじよう)に喜(よろこ)びました、『が、酢(す)ならば酸(す)ッぱく なるし――カミツレ草(さう)ならば苦(にが)くするし――ト云(い)つて――ト云(い)つて砂糖(さたう)やなどでは子供(こども)を甘(あま)やか して了(しま)うし。皆(みん)なが然(さ)う知(し)つてれば可(い)いけれども、然(さ)うすれば其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)に吝々(けち/\)しないだらうに、ねえ――』  愛(あい)ちやんは此時(このとき)迄(まで)に、全(まつた)く公爵夫人(こうしやくふじん)を忘(わす)れて了(しま)つてゐたので、耳元(みゝ もと)で夫人(ふじん)の聲(こゑ)を聞(き)いた時(とき)には些(すこ)しく驚(おどろ)きました。『何(なに)を考(かんが)へてるの、え、話( はな)すことも何(なに)も忘(わす)れて了(しま)つてさ。私(わたし)は今(いま)それについて徳義(とくぎ)が何(ど)うの斯(か)うのとは言( い)はない、些(すこ)しは知(し)つてるけれども』 『全(まつた)く知(し)らないのでせう』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひ切(き)つて云(い)ひました。 『でも、お前(まへ)!』と公爵夫人(こうしやくふじん)は云(い)つて、『何事(なにごと)でも徳義(とくぎ)で持(も)つてるのさ、よく氣(き)を つけて御覽(ごらん)』夫人(ふじん)は尚(な)ほも愛(あい)ちやんの傍(そば)へ近寄(ちかよ)りました。  愛(あい)ちやんはそんなに近寄(ちかよ)られるのを非常(ひじよう)に厭(いや)がりました、第(だい)一、公爵夫人(こうしやくふじん)が甚(は なは)だ醜(みにく)い容貌(ようばう)でしたから、それから第(だい)二には、夫人(ふじん)が愛(あい)ちやんの肩(かた)の上(うへ)に、其(そ )の可厭(いや)な尖(とが)つた頤(あご)を息(やす)める程(ほど)、全(まつた)く身長(せい)が高(たか)かつたものですから。それでも愛(あ い)ちやんは粗暴(そばう)な振舞(ふるまひ)を好(この)みませんでしたから、出來(でき)るだけそれを耐(た)へ忍(しの)んで居(ゐ)ました。『 競技(ゲーム)は今(いま)、些(や)や好(い)い工合(ぐあひ)に行(い)つて居(ゐ)る』云(い)つて愛(あい)ちやんは少(すこ)しく談話(はな し)を機(はず)ませやうとしました。 『さう』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、『それにも徳義(とくぎ)がある――「それは、それは友愛(いうあい)です、それは友愛(いう あい)です、それは此世(このよ)を圓滑(ゑんくわつ)にするところのものです!」』 『誰(だれ)かゞ云(い)つたわ』と愛(あい)ちやんは ※(「口+耳」、第3水準1-14-94) (さゝや)いて、『自分(じぶん)の稼業(しやうばい)に忠實(ちゆうじつ)なものは誰(だれ)でも成功(せいこう)する!』 『あア、さう!それは同(おな)じやうな事(こと)だ』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は愛(あい)ちやんの肩(かた)に、其(そ)の尖( とが)つた小(ちひ)さな ※(「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28) (あご)の滅込(めりこ)む[#「滅込(めりこ)む」はママ]ほど力(ちから)を入(い)れて云(い)ひ足(た)しました、『それから其(そ)れの徳義 (とくぎ)は――」嗅官(しうくわん)に注意(ちうい)をするのは、やがて其(そ)の音聲(おんせい)に注意(ちうい)をするのと同(おな)じことです 」』 『まア、何事(なにごと)に依(よ)らず、徳義(とくぎ)を見出(みいだ)すことの好(す)きな人(ひと)だこと!』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひ ました。 『お前(まへ)は、何故(なぜ)私(わたし)がお前(まへ)を抱(だ)かないかと、不思議(ふしぎ)に思(おも)つてるに違(ちが)ひない』良久(やゝ あつ)て公爵夫人(こうしやくふじん)は、『其(そ)の理由(わけ)は、私(わたし)がお前(まへ)の紅鶴(べにづる)の性質(せいしつ)を危(あや) ぶんでるからなの。一(ひと)つ試(ため)して見(み)やうかしら?』 『啄(つツつ)くわ』と、愛(あい)ちやんは注意(ちうい)したものゝ、全(まつた)く試(ため)しても關(かま)はないと云(い)ふ風(ふう)で。『 然(さ)う/\』云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、紅鶴(べにづる)と芥子菜(からしな)とは何方(どちら)もつッつく。其(そ)れの徳義 (とくぎ)は――『類(るゐ)を以(もつ)て集(あつ)まる」』 『でも、芥子菜(からしな)は鳥(とり)ではなくつてよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『然(さ)うとも』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は『なか/\明瞭(はつきり)とお前(まへ)は物事(ものごと)を判別(はんべつ)する !』 『それは鑛物(くわうぶつ)だと思(おも)ひます』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『無論(むろん)さうさ』と公爵夫人(こうしやくふじん)は、直(たゞ)ちに愛(あい)ちやんの云(い)ふことに賛成(さんせい)しました、 『此(こ)の近所(きんじよ)に大(おほ)きな芥子菜(からしな)鑛山(くわうざん)がある。それで、其(そ)れの徳義(とくぎ)は――「私(わたし) のが多(おほ)ければ多(おほ)いだけお前(まへ)のが少(すくな)い」』 『えゝ、知(し)つて居(ゐ)てよ!』と愛(あい)ちやんが叫(さけ)びました、この最後(さいご)の言葉(ことば)には頓着(とんちやく)せずに。『 それは植物(しよくぶつ)だわ。些(ちつ)とも人間(にんげん)のやうな恰好(かつかう)をしちや居(ゐ)なくつてよ』 『お前(まへ)の云(い)ふ通(とほ)りだ』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、『それで、其(そ)れの徳義(とくぎ)は――「 ※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15) (かく)すより露(あら)はるゝはなし」――尚(な)ほ言(い)ひ換(か)へれば――「外見(ぐわいけん)を飾(かざ)るな、幾(いく)ら體裁(ていさ い)ばかり繕(つくろ)つても駄目(だめ)だ、蛙(かはづ)の子(こ)は矢(や)ツ張(ぱり)蛙(かはづ)さ」』 『大變(たいへん)能(よ)く解(わか)りました』と愛(あい)ちやんは甚(はなは)だ丁寧(ていねい)に云(い)つて、『書(か)いて置(お)きませ う、覺(おぼ)えて居(ゐ)るやうに』 『それ程(ほど)のものではない』と公爵夫人(こうしやくふじん)が嬉(うれ)しさうに答(こた)へました。 『もう其(そ)の話(はなし)なら澤山(たくさん)よ』と愛(あい)ちやん。 『そんなら、止(よ)さう!』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、『今(いま)云(い)つた事(こと)は皆(みん)な、私(わたし)がお前 (まへ)への贈物(おくりもの)です』 『安(やす)い贈物(おくりもの)だ!』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。『私(わたし)は誕生日(たんじやうび)に此 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)吝(けち)な贈物(おくりもの)をして貰(もら)ひたくない!』併(しか)し愛(あい)ちやんは敢(あへ)てそれを聲(こゑ)に出(だ)して 言(い)ひませんでした。 『復(ま)た考(かんが)へてる?』と公爵夫人(こうしやくふじん)は、其(その)尖(とが)つた小(ちひ)さな頤(あご)でモ一度(ど)衝(つ)いて 云(い)ひました。 『私(わたし)、考(かんが)へる權利(けんり)があつてよ』と愛(あい)ちやんが劍突(けんつく)を啗(く)はせました、少(すこ)し煩悶懊惱(むし やくしや)し出(だ)してゐたものですから。 『丁度(ちやうど)此位(このくらゐ)の權利(けんり)だらう』と云(い)つて公爵夫人(こうしやくふじん)は、『豚(ぶた)が跳(と)ぶくらゐのサ、 それで、ト――』  併(しか)し此時(このとき)、愛(あい)ちやんは驚(おどろ)くまいことか、公爵夫人(こうしやくふじん)が其(その)好(す)きな「徳義(とくぎ )」と云(い)ふ言葉(ことば)を云(い)ひさして聲(こゑ)が消(き)え失(う)せ、愛(あい)ちやんの腕(かひな)に鎖(くさり)のやうに結(むす )びついて居(ゐ)たその腕(かひな)が顫(ふる)へ出(だ)したのですもの。見(み)ると、自分(じぶん)の前(まへ)には女王樣(ぢよわうさま)が 、腕(うで)を拱(こまね)いて立(た)つて居(を)られました、苦蟲(にがむし)を噛(か)みつぶしたやうな可厭(いや)な顏(かほ)して。 『御機嫌(ごきげん)如何(いかゞ)に在(ゐ)らせられますか、陛下(へいか)よ!』公爵夫人(こうしやくふじん)が低(ひく)い脾弱(ひよわ)い聲( こゑ)でお伺(うかゞ)ひ申上(まをしあ)げました。 『汝(なんぢ)、覺悟(かくご)をせよ』女王樣(ぢよわうさま)は唐突(いきなり)聲(こゑ)を怒(いか)らし、斯(か)う云(い)ひながら地 ※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84) 踏(ぢだんだふ)んで、『頭(あたま)を刎(は)ねるが、宜いか、唯(たつ)^タ今(いま)!さァ!』  公爵夫人(こうしやくふじん)は、さつさと行(い)つて了(しま)ひました。 『競技(ゲーム)に參(まゐ)れ』と女王樣(ぢよわうさま)が愛(あい)ちやんに申(まを)されました、愛(あい)ちやんは驚(おどろ)きの餘(あま) り一言(ひとこと)をも云(い)ひ得(え)ませんでしたが、徐(しづ)かに其(そ)の後(あと)に隨(つ)いて毬投場(まりなげば)へ行(ゆ)きました 。  他(た)の數多(あまた)の賓客(まらうど)は女王樣(ぢよわうさま)のお留守(るす)につけこんで、樹蔭(こかげ)に息(やす)んで居(を)りまし た、が、女王樣(ぢよわうさま)のお姿(すがた)を拜(はい)するや否(いな)や、急(いそ)いで復(ま)た競技(ゲーム)に取(と)りかゝりました。 女王樣(ぢよわうさま)は只(たゞ)彼等(かれら)が一分(ぷん)でも遲(おく)れゝば、其(そ)れが彼等(かれら)の生命(いのち)に關(かゝは)つ て來(く)ると云(い)ふことだけを注意(ちうい)されました。  彼等(かれら)が競技(ゲーム)をしてる間(あひだ)も、始終(しゞゆう)女王樣(ぢよわうさま)は他(た)の競技者(プレーヤー)と爭(あらそ)ひ を止(や)めませんでした、それで、『彼(かれ)の頭(あたま)を刎(は)ねよ!』とか、『その娘(むすめ)の頭(あたま)を刎(は)ねよ!』とか叫( さけ)んで居(を)られました。女王樣(ぢよわうさま)が宣告(せんこく)せられた人々(ひと/″\)は、數多(あまた)の兵士(へいし)に依(よ)つ て禁錮(きんこ)の中(なか)に入(い)れられました、兵士(へいし)は勿論(もちろん)これを爲(な)すためには緑門(アーチ)を形造(かたちづく) つてることを止(や)めねばなりませんでした、其故(それゆゑ)半時間(はんじかん)か其所(そこ)いら經(た)つと緑門(アーチ)は一(ひと)つ殘( のこ)らず無(な)くなつて了(しま)ひました。それから競技者(プレーヤー)は悉(ことごと)く、王樣(わうさま)と女王樣(ぢよわうさま)と愛(あ い)ちやんとを除(のぞ)いては、禁錮(きんこ)の中(なか)に入(い)れられ、死刑(しけい)の宣告(せんこく)を待(ま)つばかりでした。  それから女王樣(ぢよわうさま)は、急(きふ)に立(た)ち去(さ)られやうとして愛(あい)ちやんに、『お前(まへ)は海龜(うみがめ)を見(み) たことがあるか?』 『否(いゝ)え、どんなのが海龜(うみがめ)ですか些(ちつ)とも存(ぞん)じません』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『それで海龜(うみがめ)肉汁(スープ)が出來(でき)る』と女王樣(ぢよわうさま)が申(まを)されました。 『私(わたし)は一(ひと)つも見(み)たことがありません、一(ひと)つどころか頭(あたま)さへも』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『そんならお出(い)で』と云(い)つて女王樣(ぢよわうさま)は、『それがお前(まへ)に身(み)の上話(うへばなし)をするだらうから』  一緒(しよ)に行(ゆ)かうとした時(とき)に、愛(あい)ちやんは王樣(わうさま)が小聲(こゞゑ)で、一體(たい)に其(そ)の仲間(なかま)の 者(もの)どもに斯(か)う云(い)はれるのを聞(き)きました、『皆(みん)な放免(はうめん)する』 『さア、それは好(い)い鹽梅(あんばい)だ!』と愛(あい)ちやんは獨語(ひとりごと)を云(い)ひました、女王樣(ぢよわうさま)が宣告(せんこく )された死刑(しけい)の人々(ひと/″\)を、如何(いか)にも氣(き)の毒(どく)に思(おも)つてた所(ところ)でしたから。  彼等(かれら)は直(たゞ)ちにグリフォン(鷲頭獅身(しうとうしゝん)の怪物(くわいぶつ))の所(ところ)へ來(き)て、日向(ひなた)ぽつこ[ #「日向(ひなた)ぽつこ」はママ]しながら寢込(ねこ)んで了(しま)ひました。『起(お)きよ、懈惰者(なまけもの)が』と云(い)つて女王樣(ぢ よわうさま)は、『此(こ)の若夫人(わかふじん)を、海龜(うみがめ)を見(み)に、又(また)その身(み)の上話(うへばなし)を聞(き)きに伴( つ)れてまゐれ。私(わたし)は戻(もど)つて、宣告(せんこく)して置(お)いた死刑(しけい)の面々(めん/\)を取調(とりしら)べなければなら ない』女王樣(ぢよわうさま)は愛(あい)ちやんばかり一人(ひとり)グリフォンの所(ところ)へ置(お)き去(ざ)りにして行(い)つて了(しま)は れました。愛(あい)ちやんは全(まつた)く其動物(そのどうぶつ)の容子(ようす)を好(この)みませんでしたが、それでも未(ま)だあの野蠻(やば ん)な女王樣(ぢよわうさま)の後(あと)へ隨(つ)いて行(ゆ)くよりは、それと共(とも)に止(とゞ)まつて居(ゐ)た方(はう)が幾(いく)ら安 全(あんぜん)だか知(し)れないと思(おも)ひました、其故(それゆゑ)愛(あい)ちやんは待(ま)つて居(ゐ)ました。  グリフォンは坐(すわ)り込(こ)み、兩眼(りやうがん)を※(こす)[#「てへん+麾」の「毛」に代えて「手」、U+64F5、151-7]つて、 見(み)えなくなるまで女王樣(ぢよわうさま)を見戍(みまも)り、それから得意(とくい)げに微笑(ほゝゑ)みました。『何(なん)と滑稽(こつけい )な!』とグリフォンは、半(なか)ば自分(じぶん)に、半(なか)ば愛(あい)ちやんに云(い)ひました。 『何(なに)が滑稽(こつけい)なの?』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『ソレ、あの女王樣(ぢよわうさま)サ』とグリフォンが云(い)ひました。『みんな女王樣(ぢよわうさま)の空想(くうさう)だ、どうして一人(ひとり )でも死刑(しけい)に出來(でき)るものか。ねえ。お出(い)でよ!』 『誰(だれ)でも大抵(たいてい)「お出(い)でよ!」さァと云(い)ふものだのに』と思(おも)ひながら愛(あい)ちやんは、徐(しづ)かに其(そ) の後(あと)から隨(つ)いて行(ゆ)きました、『こんな風(ふう)に云(い)はれたのは生(うま)れてから初(はじ)めで[#「初めで」はママ]だわ 、眞個(ほんとう)に!』  彼等(かれら)は遙(はる)か行(ゆ)かずして、遠方(ゑんぱう)に海龜(うみがめ)が、爼形(まないたなり)の小(ちひ)さな岩(いは)の上(うへ )に、悲(かな)しさうにも亦(また)淋(さび)しさうに坐(すわ)つて居(ゐ)るのを見(み)ました、彼等(かれら)が段々(だん/\)近寄(ちかよ )つて來(き)た時(とき)に、愛(あい)ちやんは其(そ)れが其(そ)の心臟(しんざう)も碎(くだ)けよとばかり大(おほ)きな溜息(ためいき)を 吐(つ)くのを聞(き)きました。『愛(あい)ちやんは深(ふか)くそれを憫(あは)れに思(おも)ひました。『何(なに)か悲(かな)しいのでせう! 』と愛(あい)ちやんがグリフォンに訊(たづ)ねました、グリフォンは以前(まへ)と殆(ほと)んど同(おな)じやうな言葉(ことば)で、『それは皆( みん)な彼(あれ)の空想(くうさう)だ、何(なに)も悲(かな)しんでるのではない、ねえ。お出(い)でよ!』  乃(そこ)で彼等(かれら)は海龜(うみがめ)の傍(そば)へ行(ゆ)きました、海龜(うみがめ)は大(おほ)きな眼(め)に一ぱい涙(なみだ)を溜 (た)めて彼等(かれら)を見(み)ました、が、何(なに)も云(い)ひませんでした。 『これ此(こ)の若夫人(わかふじん)が』云(い)つてグリフォンは、『夫人(ふじん)がお前(まへ)の身(み)の上話(うへばなし)を聞(き)きたい と被仰(おツしや)ッてだ』 『話(はな)しませう』と云(い)つて海龜(うみがめ)は太(ふと)い銅鑼聲(どらごゑ)で、『お坐(すわ)りな、二人(ふたり)とも、それで私(わた し)が話(はな)し終(をへ)るまで、一言(ひとこと)でも饒舌(しやべ)つてはならない』  そこで彼等(かれら)は坐(すわ)り込(こ)みました、暫(しばら)くの間(あひだ)誰(だれ)も話(はな)しませんでした。愛(あい)ちやんは自( みづか)ら思(おも)ふやう、『何時(いつ)話(はな)し終(を)へるんだか私(わたし)には解(わか)らないわ、話(はな)し初(はじ)めもしないで 居(ゐ)てさ』併(しか)し愛(あい)ちやんは我慢(がまん)して待(ま)つてゐました。 『甞(かつ)て』と終(つひ)に海龜(うみがめ)が云(い)つて、深(ふか)い長太息(ためいき)をして、『私(わたし)は實際(じつさい)海龜(うみ がめ)でした』  長(なが)き沈默(ちんもく)に次(つ)ぐに僅(わづ)かこれだけの言葉(ことば)でした、それも時々(とき/″\)グリフォンの『御尤(ごもつと) も!』と云(い)ふ間投詞(かんとうし)や、絶(た)えず海龜(うみがめ)の苦(くる)しさうな歔欷(すゝりなき)とに妨(さまた)げられて絶(た)え /″\に。愛(あい)ちやんは殆(ほと)んど立(た)ち上(あが)らんばかりになつて、『有(あ)り難(がた)うよ、面白(おもしろ)い話(はな)しだ わ』云(い)つたものゝ、未(ま)だ後(あと)が無(な)ければならないと思(おも)つたものですから、靜(しづ)かに坐(すわ)つて何(なに)も云( い)ひませんでした。 『私(わたし)どもは小(ちひ)さい時(とき)に』と終(つひ)に海龜(うみがめ)が續(つゞ)けました、尚(な)ほ折々(をり/\)少(すこ)しづゝ 歔欷(すゝりなき)して居(ゐ)たけれども、以前(まへ)よりは沈着(おちつ)いて、『私(わたし)どもは海(うみ)の中(なか)の學校(がくかう)へ 行(ゆ)きました。校長先生(かうちやうせんせい)は年老(としと)つた海龜(うみがめ)でした――私(わたし)どもは其(そ)の先生(せんせい)を龜 (かめ)^ノ子(こ)先生(せんせい)と呼(よ)び慣(な)らしてゐました。――』 『何故(なぜ)龜(かめ)^ノ子(こ)先生(せんせい)ッて呼(よ)んだの、然(さ)うでないものを?』と愛(あい)ちやんが尋(たづ)ねました。 『其(そ)の先生(せんせい)が私(わたし)どもに教(をし)へたから、其(そ)の先生(せんせい)を龜(かめ)^ノ子(こ)先生(せんせい)ッて呼( よ)んだのさ』と海龜(うみがめ)は腹立(はらだゝ)しげに云(い)つて、『眞個(ほんとう)にお前(まへ)は鈍物(どん)だね!』 グリフォンと愛ちやんと海龜の図 『耻(はづ)かしくもなく能(よ)くこんな莫迦(ばか)げた事(こと)が訊(き)かれたものだ』とグリフォンが云(い)ひ足(た)しました。彼等(かれ ら)は雙方(さうはう)とも默(だま)つた儘(まゝ)坐(すわ)つて憐(あは)れな愛(あい)ちやんを見(み)てゐました。愛(あい)ちやんは穴(あな )にも入(い)りたいやうな氣(き)がしました。やがてグリフォンが海龜(うみがめ)に云(い)ふには、『もつと先(さ)きをサ!早(はや)くしないと 日(ひ)が暮(くれ)るよ!』促(うな)がされて漸(やうや)く彼(かれ)は、『全(まつた)く、私(わたし)どもは海(うみ)の中(なか)の學校(が くかう)へ行(い)つたのです、お前方(まへがた)が信(しん)じないかも知(し)れないけど―』 『决(けつ)して信(しん)じないとは云(い)やしなくッてよ!』と愛(あい)ちやんが喙(くち)を容(い)れました。 『では、信(しん)じて』と海龜(うみがめ)。 『默(だま)つて聽(き)け!』愛(あい)ちやんが復(ま)た饒舌(しやべ)り出(だ)しさうなので、グリフォンが注意(ちうい)しました。海龜(うみ がめ)は尚(な)ほも續(つゞ)けて、―― 『私(わたし)どもは最上(さいじやう)の教育(けういく)を受(う)けました――實際(じつさい)、私(わたし)どもは毎日(まいにち)學校(がくか う)へ行(ゆ)きました――』 『私(わたし)だつても學校(がくかう)時代(じだい)はあつてよ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『そんなに自慢(じまん)しなくッても可(い) いわ』 『殊更(ことさら)に!』と少(すこ)し氣遣(きづか)はしげに海龜(うみがめ)が云(い)ひました。 『さうよ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『私達(わたしたち)は佛蘭西語(フランスご)と音樂(おんがく)とを習(なら)つたわ』 『そんなら洗濯(せんだく)は?』と海龜(うみがめ)が云(い)ひました。 『全(まつた)く習(なら)はないの!』と、愛(あい)ちやんは口惜(くや)しさう。 『あァ!それならお前(まへ)のは眞個(ほんとう)に善(よ)い學校(がくかう)ではなかつたのだ』と海龜(うみがめ)は大(だい)なる確信(かくしん )を以(もつ)て、『今(いま)私(わたし)どもの方(はう)では其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)ものは皆(みん)な課目表(くわもくへう)の終(をは)りにある、「佛蘭西語(フランスご)や、音樂(おんがく)や、それから洗濯(せんだく )――其他(そのた)」』 『海(うみ)の底(そこ)に住(す)んでるのに、そんなに何(なに)も必要(ひつえう)はないわ』と愛(あい)ちやん。 『私(わたし)はそれを習(なら)ふために授業(じゆげふ)を受(う)けてはゐませんでした』と云(い)つて海龜(うみがめ)は長太息(ためいき)し、 『私(わたし)は只(たゞ)規則(きそく)通(どほ)りの課程(くわてい)を履(ふ)んだゝけです』 『それは何(ど)んなの?』と愛(あい)ちやんが訊(たづ)ねました。 『紡(つむ)ぐことゝ ※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93) (よ)ることサ、無論(むろん)、初(はじ)めから』と海龜(うみがめ)は答(こた)へて、『それから算術(さんじゆつ)の四則(そく)、――野心(や しん)、亂心(らんしん)、醜飾(しうしよく)、それに嘲弄(てうろう)』 『「醜飾(しうしよく)」なンて聞(き)いたことがないわ』と愛(あい)ちやんが一本(ぽん)突(つ)ッ込(こ)みました。『一體(たい)それはどんな 事(こと)!』  グリフォンは驚(おどろ)きの餘(あま)り其(そ)の前足(まへあし)を兩方(りやうはう)とも持上(もちあ)げました。『醜飾(しうしよく)なんて 聞(き)いたことがないね!』と叫(さけ)んで、『お前(まへ)は裝飾(さうしよく)するッて何(なん)の事(こと)だか知(し)つてるだらう、え?』 『えゝ』と愛(あい)ちやんは生返辭(なまへんじ)をして――、『その意味(いみ)は――す――するッて――何(なに)かを――もつと綺麗(きれい)に するッて』 『よし、それなら』とグリフォンは續(つゞ)けて、『若(も)し醜飾(しうよしよく)[#ルビの「しうよしよく」はママ]すると云(い)ふことを知(し )らないならお前(まへ)は愚人(ばか)だ』  愛(あい)ちやんは最(も)う其(そ)れについて質問(しつもん)する勇氣(ゆうき)も何(なに)も無(な)くなつて了(しま)ひ、海龜(うみがめ) の方(はう)へ振向(ふりむ)き、『其(そ)の他(ほか)何(なに)を習(なら)つて!』 『さうね、不思議(ふしぎ)なこと』と海龜(うみがめ)は答(こた)へて、其(そ)の岩(いは)の上(うへ)に目録(もくろく)を數(かぞ)へ出(だ) しました、『――不思議(ふしぎ)な事(こと)、古今(こゝん)に亘(わた)れる大海學(だいかいがく)の、それから懶聲(なまけごゑ)を發(だ)すこ と――懶聲(なまけごゑ)の先生(せんせい)は年老(としと)つた海鰻(はも)で、一週(しう)一度(ど)來(く)ることになつて居(ゐ)ました、彼( かれ)は私(わたし)どもに懶聲(なまけごゑ)を出(だ)すことゝ、伸(の)びをすることゝ、それから蜷局(とぐろ)を卷(ま)くことゝを教(をし)へ ました』 『それは何(なに)が好(す)きだつたの?』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『さァ、私(わたし)にはそれをお前(まへ)にやつて見(み)せられない』と海龜(うみがめ)は云(い)つて、『體(からだ)が餘(あま)り岩疊(がん じよう)だから。それでグリフォンも决(けつ)してそれを習(なら)ひませんでした』 『時間(じかん)がなかつたんだもの』と云(い)つてグリフォンは、『でも、私(わたし)は古典學(こてんがく)の先生(せんせい)の所(ところ)へ行 (ゆ)きました。先生(せんせい)は年老(としと)つた蟹(かに)でした、全(まつた)く』 『私(わたし)は一度(ど)も其(そ)の先生(せんせい)の所(ところ)へ行(ゆ)きませんでした』と云(い)つて海龜(うみがめ)は長太息(ためいき )し、『その先生(せんせい)は笑(わら)ふことゝ悲(かな)しむことゝを教(をし)へてゐたさうです』 『然(さ)うかい、さうかい』と云(い)つてグリフォンは、自分(じぶん)の番(ばん)が來(き)たと云(い)はぬばかりに、これも亦(また)長太息( ためいき)を吐(つ)きました、それから二疋(ひき)の動物(どうぶつ)は其(そ)の顏(かほ)をその前足(まへあし)で掩(おほ)ひ隱(かく)しまし た。 『そんなら一日(にち)に何時間(なんじかん)お前(まへ)は稽古(けいこ)をしたの?』と愛(あい)ちやんは話題(はなし)を變(か)へやうとして急 (いそ)いで云(い)ひました。 『初(はじ)めの日(ひ)は十時間(じかん)』と海龜(うみがめ)が云(い)つて、『次(つぎ)の日(ひ)は九時間(じかん)、それからずッとそんな風 (ふう)に』 『奇妙(きめう)な仕方(しかた)だわね!』と愛(あい)ちやんが叫(さけ)びました。 『それだから其(そ)れが學科(がくくわ)と稱(い)はれるのです』とグリフォンが注意(ちうい)しました、『然(さ)うして毎日々々(まいにち/\) 習(なら)ひくづしになつて行(ゆ)くのです』  これは全(まつた)く愛(あい)ちやんには耳新(みゝあたら)しい事柄(ことがら)でした、愛(あい)ちやんは暫(しばら)く考(かんが)へてゐまし たが、『それで十一日目(じふいちにちめ)には日曜(にちえふ)だつたでせう』 『無論(むろん)然(さ)うでした』と海龜(うみがめ)。 『では十二日目(にちめ)には何(ど)うしたの?』と愛(あい)ちやんが熱心(ねつしん)に續(つゞ)けました。 『それで最(も)う學課(がくくわ)の事(こと)は澤山(たくさん)だ』とグリフォンは决然(きつぱり)云(い)つて、『何(なに)か遊戯(いうぎ)に ついて其娘(そのこ)に話(はな)してやれ』 [#改ページ] 第十章  蝦(えび)の舞踏(ぶたう)  海龜(うみがめ)は深(ふか)くも長太息(ためいき)を吐(つ)いて、その眼前(がんぜん)に懸(かゝ)れる一枚(まい)の屏風岩(べうぶいは)を引 寄(ひきよ)せました。彼(かれ)は愛(あい)ちやんの方(はう)を見(み)て、談話(はなし)をしやうとしましたが、暫(しばら)くの間(あひだ)、 歔欷(すゝりなき)のために其(そ)の聲(こゑ)が出(で)ませんでした。『宛(まる)で咽喉(のど)に骨(ほね)でも痞(つか)へてゐるやうだ』と云 (い)つてグリフォンは、其背中(そのせなか)を搖(ゆす)つたり衝(つ)いたりし初(はじ)めました。遂(つひ)に海龜(うみがめ)の聲(こゑ)は直 (なほ)りましたが、涙(なみだ)は頬(ほゝ)を傳(つた)はつて―― 『お前(まへ)には長(なが)く海(うみ)の下(した)に住(す)んでることが出來(でき)なかつたらう――』(『住(す)んぢや居(ゐ)なかつたわ』 と愛(あい)ちやんが云(い)ひました)『それで多分(たぶん)蝦(えび)には紹介(せうかい)されなかつたらうね――』(愛(あい)ちやんは『何時( いつ)か食(た)べたことがあつてよ――』と云(い)ひ出(だ)しました、が急(いそ)いで止(や)めて、『否(いゝ)え、全(まつた)くないのよ』と 云(い)ひ直(なほ)しました)『――ではお前(まへ)は未(ま)だ蝦(えび)の舞踏(ぶたう)が何(ど)んなに面白(おもしろ)いものだか知(し)ら ないね!』 『さうよ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『それはどんな風(ふう)な舞踏(ぶたう)?』 『然(さ)うさね』と云(い)つてグリフォンは、『最初(さいしよ)海岸(かいがん)に沿(そ)うて一列(れつ)をつくる――』 『二列(れつ)さ!』と海龜(うみがめ)は叫(さけ)んで、『多(おほ)くの海豹(あざらし)や、海龜(うみがめ)なぞが、それから往來(わうらい)の 邪魔(じやま)になる海月(くらげ)を追(お)ッ拂(ぱら)ふ――』 『それは大抵(たいてい)二三時間(じかん)かゝる』とグリフォンが喙(くち)を容(い)れました。 『――二度(ど)進(すゝ)む――』 『各々(おの/\)一疋(ぴき)の蝦(えび)を相手(あひて)に!』とグリフォンが叫(さけ)びました。 『勿論(もちろん)』と海龜(うみがめ)は云(い)つて、『二度(ど)進(すゝ)んで、相手(あひて)を打棄放(うつちやりぱな)しにする――』 『――蝦(えび)を變(か)へて、順々(じゆん/″\)に後(あと)へ退(しざ)つて來(く)る』とグリフォンが續(つゞ)けました。 『それで、ねえ』と海龜(うみがめ)は續(つゞ)けて、『お前(まへ)が投(な)げる――』 『蝦(えび)を!』と叫(さけ)んでグリフォンは、空中(くうちゆう)に跳(と)び上(あが)りました。 『――精(せい)一ぱい遙(はる)かの海(うみ)へ――』 『其後(そのあと)から泳(およ)いで行(ゆ)く!』とグリフォンが叫(さけ)びました。 『海(うみ)の中(なか)で筋斗返(とんぼがへ)りをする!』と叫(さけ)んで海龜(うみがめ)は、妄(やたら)に跳(は)ね廻(まは)りました。 『も一度(ど)蝦(えび)を變(か)へる!』とグリフォン。 『再(ふたゝ)び陸(りく)に返(かへ)る、それで――それが第一(だいいち)の歩調(ほてう)の總(すべ)てゞある』と海龜(うみがめ)は、遽(には )かに其(そ)の聲(こゑ)を落(おと)して云(い)ひました。始終(しゞゆう)氣(き)の狂(くる)つたやうに跳(は)ね廻(まは)つて居(ゐ)た二 疋(ひき)の動物(どうぶつ)は、極(きは)めて悲(かな)しげにも亦(また)靜(しづ)かに再(ふたゝ)び坐(すわ)り込(こ)み、愛(あい)ちやん の方(はう)を眺(なが)めました。 『それは屹度(きつと)大層(たいそう)結構(けつかう)な舞踏(ぶたう)に違(ちが)ひないわ』と愛(あい)ちやんが恐(おそ)る/\云(い)ひまし た。 『少(すこ)し見(み)たいだらう?』と海龜(うみがめ)が云(い)ひました。 『澤山(たくさん)見(み)たいわ、眞個(ほんとう)に』と愛(あい)ちやん。 『どれ、第一(だいいち)の歩調(ほてう)をやつて見(み)よう!』と海龜(うみがめ)がグリフォンに云(い)ひました。『蝦(えび)がなくても出來( でき)るだらう、何方(どつち)が歌(うた)はう?』 『さうだ、お前(まへ)、歌(うた)へ』とグリフォンが云(い)ひました。『私(わたし)は全然(すつかり)言葉(ことば)を忘(わす)れて了(しま) つた。  乃(そこ)で彼等(かれら)は正式(せいしき)に愛(あい)ちやんの周(まは)りをぐる/\踊(をど)り廻(まは)りました、餘(あま)り近(ちか) づき過(す)ぎて時々(とき/″\)その趾(あしゆび)を踏(ふ)んだり、拍子(ひやうし)を取(と)るために前足(まへあし)を振(ふ)つたりして、 其(そ)の間(あひだ)海龜(うみがめ)は極(ご)く徐(しづ)かに又(また)悲(かな)しげに斯(か)う歌(うた)ひました、―― 『もつと素早(すばや)く何故(なぜ)ゆけぬ?』と蝸牛(でゝ)に向(むか)つて胡粉(ごふん)が云(い)つた、 『海豚(いるか)が背後(うしろ)で、尻尾(しつぽ)を踏(ふ)むに。  蝦(えび)と龜(かめ)とが一生懸命(しやうけんめい)に進(すゝ)んで行(ゆ)くは!  皆(みん)な待(ま)つてる磧(かはら)の上(うへ)に――さア/\一緒(しよ)に來(き)て踊(をど)らぬか?  お出(い)でよ、お出(い)で、お出(い)でよ、お出(い)で、さア/\一緒(しよ)に來(き)て踊(をど)らぬか?  お出(い)でよ、お出(い)で、お出(い)でよ、お出(い)で、さア/\一緒(しよ)に來(き)て踊(をど)らぬか? 『ほんとに知(し)らぬか其(そ)の嬉(うれ)しさを、  手玉(てだま)に取(と)られて海(うみ)の方(はう)へ遠(とほ)く、蝦(えび)と一緒(しよ)に投(な)げられる時(とき)の!』  蝸牛(かたつむり)めが答(こた)へて云(い)つた、『早(はや)い、早(はや)い!』と横目(よこめ)で睨(ね)めて――  眞白(ましろ)な胡粉(ごふん)に心(しん)から謝(しや)して、それでも踊(をど)りの仲間(なかま)にや入(い)らず。  仲間(なかま)にならぬか、仲間(なかま)におなり、仲間(なかま)におなりよ、仲間(なかま)におなり、一緒(しよ)に入(はい)つて踊(をど)ら んせ。 『遠(とほ)くへ行(い)ツ了(ちま)つて何(ど)うする積(つも)り?』と、同(おな)じ鱗(うろこ)の友達(ともだち)が云(い)つた。 『も一(ひと)つ海岸(かいがん)が、向(むか)ふの方(はう)に。  英吉利(イギリス)離(はな)れて佛蘭西(フランス)に近(ちか)く――  歸(かへ)るな可愛(かあい)い、蒼白(あをじろ)い蝸牛(でゝ)よ、さア/\一緒(しよ)に來(き)て踊(をど)らんせ。  踊(をど)れよ、踊(をど)れ、 踊(をど)れよ、踊(をど)れ、さア/\一緒(しよ)に來(き)て踊(をど)らぬか?  踊(をど)れよ、踊(をど)れ、 踊(をど)れよ、踊(をど)れ、さア/\一緒(しよ)に來(き)て踊(をど)らぬか?』 『有難(ありがた)う、見(み)てると却々(なか/\)面白(おもしろ)い舞踏(ぶたう)だわ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、漸(やうや)くそれ が濟(す)んだのを嬉(うれ)しく思(おも)ひました、『私(わたし)も其(そ)の奇妙(きめう)な胡粉(ごふん)の歌(うた)が大好(だいす)きよ! 』 『ナニ、胡粉(ごふん)だつて』と云(い)つて海龜(うみがめ)は、『彼等(かれら)が――勿論(もちろん)、お前(まへ)はそれを見(み)たことがあ るんだらう?』 『然(さ)うよ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、度々(たび/\)それを見(み)てよ、御馳(ごち)――』云(い)ひかけて急(きふ)に口(くち) を噤(つぐ)んで了(しま)ひました。 『何處(どこ)に御馳(ごち)なンてものがあるか』と云(い)つて海龜(うみがめ)は、『だが、若(も)しお前(まへ)がそんなに度々(たび/\)それ を見(み)たならば、無論(むろん)お前(まへ)はそれの好(す)きな物(もの)を知(し)つてるだらう』 『えゝ、知(し)つてゝよ』と愛(あい)ちやんは小癪(こしやく)にも答(こた)へて、『其(そ)の中(なか)に尾(を)のやうなものがあるのは――そ れは皆(みん)な屑(くづ)ですッて』 『屑(くづ)だなんて云(い)つては間違(まちがひ)だ』と海龜(うみがめ)が云(い)ひました、『屑(くづ)は皆(みん)な海(うみ)の中(なか)で 洗(あら)ひ流(なが)す。でも、其(そ)の中(なか)には尾(を)のやうなものがある、其(そ)の理由(わけ)は――』海龜(うみがめ)は欠(あくび )をして、それから目(め)を瞑(つぶ)り、『其理由(そのわけ)を悉皆(すつかり)娘(むすめ)に話(はな)してやれとグリフォンに云(い)ひました 。 『その理由(わけ)は』と云(い)つてグリフォンは、『それは何時(いつ)でも蝦(えび)と一緒(しよ)に舞踏(ぶたう)をする。其故(それゆゑ)皆( みん)な海(うみ)の中(なか)へ放(はふ)り込(こ)まれる。それで長(なが)い道程(みちのり)を墜(お)ちて行(ゆ)かなければなりませんでした 。そのため中(なか)に先(ま)づ尾(を)のやうなものがあるので、その尾(を)は再(ふたゝ)び外(そと)へ出(だ)すことは出來(でき)ません。そ れだけの事(こと)です』 『ありがたう』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『隨分(ずゐぶん)面白(おもしろ)いのね。今(いま)まで知(し)らなかつたのよ、そんなに澤山( たくさん)胡粉(ごふん)のことについては』 『好(す)きなら、もつと幾(いく)らでも話(はな)す』とグリフォンが云(い)ひました。『それが胡粉(ごふん)と稱(よ)ばれる理由(わけ)は?』 『未(ま)だ其 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (そんな)事(こと)を考(かんが)へて見(み)たことがなくつてよ』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、『何故(なぜ)さ?』 『それは長靴(ながぐつ)にもなれば短靴(たんぐつ)にもなる』とグリフォンが頗(すこぶ)る嚴(おごそ)かに答(こた)へました。  愛(あい)ちやんは何(なに)が何(なん)だか薩張(さつぱり)道理(わけ)が解(わか)らず、『長靴(ながぐつ)にもなれは[#「なれは」はママ] 半靴(はんぐつ)にもなる!』と不審(いぶか)しげな調子(てうし)で繰返(くりかへ)しました。 『それ、お前(まへ)の靴(くつ)は何(なん)で然(さ)うなつてる?』と云(い)つてグリフォンは、『何(なん)だと云(い)ふことさ、そんなに光( ひか)つてるのは?』  愛(あい)ちやんはそれを見(み)ながら暫(しばら)く考(かんが)へて居(ゐ)ましたが、『それは全(まつた)く靴墨(くつずみ)の所爲(せゐ)だ わ』 『海底(かいてい)の長靴(ながぐつ)と半靴(はんぐつ)は』とグリフォンが重々(おも/\)しい聲(こゑ)で續(つゞ)けて、『胡粉(ごふん)を着( つ)けてる。何(ど)うだ、解(わか)つたらう』 『そんなら、それは何(なに)から製造(つく)られるの?』と愛(あい)ちやんはさも物珍(ものめづ)らしさうに訊(たづ)ねました。 『靴底魚(したひらめ)と鰻(うなぎ)とでサ、勿論(もちろん)』とグリフォンは些(や)や焦心(じれ)ッたさうに答(こた)へて、『蝦(えび)ッ子( こ)に聞(き)け』 『若(も)し私(わたし)が胡粉(ごふん)だつたら』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、猶(な)ほ其(そ)の歌(うた)のことを思(おも)ひながら、 『私(わたし)なら海豚(いるか)に云(い)つてやつたものを、「お歸(かへ)りよ、お前(まへ)なんぞとは一緒(しよ)に居(ゐ)たくもない!」ッて 』 『皆(みん)な仕方(しかた)なしに一緒(しよ)に居(ゐ)たんだ』と海龜(うみがめ)が云(い)ひました、『どんな賢(かしこ)い魚(さかな)でも、 海豚(いるか)を伴(つ)れなくては何處(どこ)へも行(ゆ)けやしないもの』 『然(さ)うかしら?』と如何(いか)にも驚(おどろ)いたやうに愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『無論(むろん)然(さ)うとも』と云(い)つて海龜(うみがめ)は、『だから、若(も)し或(あ)る魚(さかな)が私(わたし)の所(ところ)へ來( き)て、旅行(りよかう)に出懸(でかけ)るンですがと話(はな)すならば、私(わたし)は何時(いつ)でも「どんな海豚(いるか)と一緒(しよ)に? 」と訊(たづ)ねる』 『ナニ、「射(い)るか」ですッて?』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『今(いま)云(い)つた通(とほ)りさ』と海龜(うみがめ)は腹立(はらだゝ)しげに答(こた)へました。乃(そこ)でグリフォンが、『さァ、何(な に)かお前(まへ)の冐險談(ばうけんだん)を聞(き)かう』 『冐險談(ばうけんだん)をしませうか――今朝(けさ)から初(はじ)めて』と云(い)つて愛(あい)ちやんは些(や)や恐(おそ)る々々[#「恐(お そ)る々々」はママ]、『でも、昨日(きのふ)にまで後戻(あともど)りするには及(およ)ばなくつてよ、何故(なぜ)ッて、私(わたし)は其時(その とき)には異(ちが)つた人間(にんげん)だつたのですもの』 『何(ど)う云(い)ふ理由(わけ)だか皆(みん)な云(い)つて御覽(ごらん)』と海龜(うみがめ)が云(い)ひました。 『否(いゝ)え、否(いゝ)え!冐險談(ばうけんだん)が先(さ)き』云(い)つてグリフォンは焦心(じれ)ッたさうに、『説明(せつめい)なンて、時 間(じかん)ばかり要(かゝ)つて仕方(しかた)がない』  乃(そこ)で愛(あい)ちやんは、最初(さいしよ)白兎(しろうさぎ)を見(み)た時(とき)からの冐險談(ばうけんだん)を彼等(かれら)に話(は な)して聞(き)かせました。初(はじ)めの中(うち)は些(や)や心後(きおく)れして默(だま)つて居(ゐ)ますと、二疋(ひき)の動物(どうぶつ )がその側(そば)に近寄(ちかよ)つて來(き)ました、右(みぎ)と左(ひだり)に一疋(ぴき)宛(づゝ)、眼(め)と口(くち)とを開けるだけ大( おほ)きく開(あ)いて、でも、愛(あい)ちやんは元氣(げんき)を出(だ)して話(はな)し續(つゞ)けました。其(そ)の聽衆(てうしゆう)は愛( あい)ちやんが毛蟲(けむし)に、『裏(うら)の老爺(ぢい)さん』を復誦(ふくせう)して聞(き)かす段(だん)になる迄(まで)は、全(まつた)く 靜(しづ)かにしてゐましたが、全然(まるで)間違(まちが)つたことばかり言(い)ふので、海龜(うみがめ)は呆(あき)れ返(かへ)つて、『可笑( をか)しなこと』 『眞個(ほんとう)に莫迦(ばか)げて居(ゐ)る』とグリフォンが云(い)ひました。 『殘(のこ)らず違(ちが)つてる!』と考(かんが)へ拔(ぬ)いた揚句(あげく)、海龜(うみがめ)が復(ま)た云(い)ひました。『もう一度(ど) 復誦(ふくせう)して呉(く)れッて、娘(むすめ)に然(さ)う云(い)へ』其(そ)れは恰(あだか)も愛(あい)ちやん以上(いじやう)に或(あ)る 權威(けんゐ)を持(も)つてゞも居(ゐ)るかのやうに、グリフォンの方(はう)を顧(かへり)みました。 『立(た)つて、やり直(なほ)せ、今度(こんど)は「懶惰者(なまけもの)の聲(こゑ)」を』とグリフォンが云(い)ひました。 『まァ、可厭(いや)な動物(どうぶつ)だこと、人(ひと)に命令(いひつ)けたり、人(ひと)に學課(がくくわ)のやり直(なほ)しをさせたりして! 』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。『丁度(ちやうど)學校(がくかう)に居(ゐ)るやうだわ』云(い)つて愛(あい)ちやんは立(た)ち上( あが)り、それを復誦(ふくせう)し初(はじ)めました、が、全(まつた)く夢中(むちゆう)に蝦(えび)の舞踏(ぶたう)のことばかり思(おも)つて ゐて、自分(じぶん)で自分(じぶん)が何(なに)を云(い)つてるのか、殆(ほと)んど知(し)りませんでした、其故(それゆゑ)その詞(ことば)は 甚(はなは)た[#「甚(はなは)た」はママ]奇妙(きめう)なものになつて了(しま)ひました。 『あれは確(たし)かに、蝦(えび)の聲(こゑ)、  「莫迦(ばか)に眞赤(まつか)に燒(や)けすぎた、頭(あたま)に砂糖(さたう)をかけてくれ」  鶩(あひる)が瞼(まぶた)でするやうに、蝦(えび)は自(みづか)ら其(そ)の鼻(はな)で  帶(おび)しめ鈕(ぼたん)かけ身(み)を固(かた)め、趾(あしゆび)殘(のこ)らず裏返(うらがへ)す。   ※(「さんずい+(宀/(「眉」の「目」に代えて「貝」))」、第3水準1-87-27) (はま)の眞砂(まさご)の乾上(ひあが)る時(とき)は、樂(たの)しさうにも雲雀(ひばり)のやうに、  鱶(ふか)の奴(やつ)らの惡口(わるくち)云(い)へど、  潮(しは)[#ルビの「しは」はママ]が上(あが)つて數多(あまた)の鱶(ふか)が、  來(く)れば臆病(おくびやう)な顫(ふる)へ聲(ごゑ)』 『それは私(わたし)が子供(こども)の時(とき)に、始終(しゞゆう)口癖(くちぐせ)のやうに云(い)つて居(ゐ)たのとは異(ちが)ふ』とグリフ ォンが云(い)ひました。 『然(さ)うさ、私(わたし)もこれまで聞(き)いたことがない』と云(い)つて海龜(うみがめ)は、『妙(めう)な寐言(ねごと)だこと』  愛(あい)ちやんは何(なん)にも云(い)はず、兩手(りやうて)で顏(かほ)を抑(おさ)えて坐(すわ)り込(こ)みました、何(ど)うなることか と心配(しんぱい)しながら。 『どうか説明(せつめい)して貰(もら)ひたいものだ』と海龜(うみがめ)が云(い)ひました。 『あの娘(こ)に説明(せつめい)が出來(でき)るものか』と慌(あはたゞ)しく云(い)つてグリフォンは、『それよりも次(つぎ)の節(せつ)を願( ねが)ひませう』 『だが、趾(あしゆび)の事(こと)だらうね?』と海龜(うみがめ)が念(ねん)を押(お)しました。何(ど)うして鼻(はな)で其(そ)れを裏返(う らがへ)すことが出來(でき)たかえ?』 『それは舞踏(ぶたう)の第一(だいいち)の姿勢(しせい)だわ』と云(い)つたものゝ愛(あい)ちやんは、全(まつた)く當惑(たうわく)したので、 切(しき)りに話頭(はなし)を更(か)へやうとしました。 『次(つぎ)の節(せつ)を願(ねが)ひます』とグリフォンが再(ふたゝ)び云(い)ひました、『それは「庭(には)を通(とほ)る時(とき)」と云( い)ふのが始(はじ)めだ』  愛(あい)ちやんは决(けつ)して逆(さから)はうとはしませんでした、屹度(きつと)殘(のこ)らず間違(まちが)ふだらうとは思(おも)ひました が、それでも尚(な)ほ顫(ふる)へ聲(ごゑ)で、―― 『庭(には)を通(とほ)る時(とき)、ちらと見(み)た、  豹(へう)と梟(ふくろ)が饅頭(まんぢう)の分配(ぶんぱい)、  豹(へう)は外皮(かは)やら、肉(にく)やら、肉汁(スープ)、  梟(ふくろ)は馳走(ちさう)に皿(さら)貰(もら)うた。  饅頭(まんぢう)が終(を)へたら、お土産(みやげ)に、  梟(ふくろ)は衣嚢(かくし)に匙(さじ)入(い)れた、  豹(へう)は小刀(ナイフ)と肉叉(にくさじ)を、  藏(しま)うて、どうやら酒宴(さかもり)が――』 『品物(しなもの)ばかり列(なら)べ立(た)てたつて何(なん)の役(やく)に立(た)つか?』と海龜(うみがめ)は遮(さへぎ)つて、『幾(いく) ら云(い)つても説明(せつめい)しないから。こんなに錯雜紛糾(ごたくさ)したことを聞(き)いたことがない!』 『さうさ、だから廢止(よし)た方(はう)が餘(よ)ッ程(ぽど)可(い)い』とグリフォンが云(い)ひました、愛(あい)ちやんもそれには大賛成(だ いさんせい)でした。 『蝦(えび)の舞踏(ぶたう)のモ一(ひと)つの歩調(ほてう)をやつて見(み)やうか?』とグリフォンは續(つゞ)けて、『それとも海龜(うみがめ) にも一(ひと)つ歌(うた)を謳(うた)つて貰(もら)はうか?』 『然(さ)うね、歌(うた)の方(はう)が好(い)いわ、萬望(どうぞ)、海龜(うみがめ)の』と愛(あい)ちやんが熱心(ねつしん)に答(こた)へま した、グリフォンは頗(すこぶ)る不滿(ふまん)さうに、『フム!面白(おもしろ)くでもない!「海龜(うみがめ)肉汁(スープ)」なんぞ、何(なん) だ老耄奴(おいぼれめ)が?』  海龜(うみがめ)は深(ふか)くも長太息(ためいき)を吐(つ)いて、歔欷(すゝりなき)しながら咽(むせ)ぶやうな聲(こゑ)で、かう歌(うた)ひ ました、―― 『見事(みごと)な肉汁(スープ)、澤山(たくさん)で溢(こぼ)れさう、  温(あつた)かさうな皿(さら)に!  跼(こゞ)まにや吸(す)へぬ?  晩(ばん)の肉汁(スープ)、見事(みごと)な肉汁(スープ)!  晩(ばん)の肉汁(スープ)、見事(みごと)な肉汁(スープ)!    見(み)い――ごとなスウ――ウプ!    見(み)い――ごとなスウ――ウプ!  ばア――あン――の――スウ――ウプ、    見事(みごと)な、見事(みごと)な、肉汁(スープ)!』 『見事(みごと)な肉汁(スープ)、魚(さかな)は誰(だれ)の、  競技(ゲーム)か、それとも何(なん)の皿(さら)?  二錢(せん)でも廉價(やす)い?  見事(みごと)な肉汁(スープ)!  一錢(せん)で賣(う)りよか?    見(み)い――ごとなスウ――ウプ!    見(み)い――ごとなスウ――ウプ!  ばア――あン――の――スウ――ウプ、     見事(みごと)な、見(み)い――ごとな肉汁(スープ)!』 『モ一度(いちど)合唱(がつせう)を!』とグリフォンが叫(さけ)びました、海龜(うみがめ)がそれを繰返(くりかへ)さうとした時(とき)に丁度( ちやうど)、『審問(しんもん)始(はじ)め!』の叫(さけ)び聲(ごゑ)が遠方(えんぱう)に聞(きこ)えました。 『それッ!』と云(い)ひさまグリフォンは、愛(あい)ちやんの手(て)を取(と)つて急(いそ)ぎ立去(たちさ)りました、歌(うた)の終(をは)る を待(ま)たずして。 『何(なん)の審問(しんもん)?』愛(あい)ちやんは喘(あへ)ぎ/\駈(か)けました、グリフォンは只(たゞ)『それッ!』と叫(さけ)んだのみで 、益々(ます/\)速(はや)く走(はし)りました、風(かぜ)が持(も)て行(ゆ)く唄(うた)の節(ふし)、―― 『ばア――あン――のスウ――ウプ、    見事(みごと)な、見事(みごと)な、肉汁(スープ)!』 [#改ページ] 第十一章  栗饅頭(くりまんぢう)の裁判(さいばん)  心臟(ハート)の王樣(わうさま)と女王樣(ぢよわうさま)とがお着(ちやく)になり、其(そ)の玉座(ぎよくざ)につかせられました時(とき)、多 勢(おほぜい)のものどもが其周(そのまは)りに集(あつ)まつて來(き)ました――骨牌(カルタ)の一(ひ)^ト包(つゝみ)と同(おな)じやうな、 小鳥(ことり)や獸(けもの)が殘(のこ)らず、軍人(ネーブ)は鎖(くさり)に繋(つな)がれて、御前(ごぜん)に立(た)つてゐました、左右(さい う)から二人(ふたり)の兵士(へいし)に護衞(ごゑい)されて、王樣(わうさま)のお側(そば)には、片手(かたて)に喇叭(らつぱ)、片手(かたて )に羊皮紙(やうひし)の卷物(まきもの)を持(も)つた白兎(しろうさぎ)が居(ゐ)ました。法廷(ほふてい)の眞中(まんなか)には一脚(きやく) の洋卓(テーブル)があつた、其上(そのうへ)には栗饅頭(くりまんぢう)の大(おほ)きな皿(さら)が載(の)つてゐました、見(み)るからに美味( うま)さうなので、愛(あい)ちやんは何(ど)うかしてそれを食(た)べて見(み)たくて堪(たま)りませんでした――『審問(しんもん)が始(はじ) まれば可(い)いが』とも、亦(また)、『その菓子(くわし)を廻(まは)して欲(ほ)しいナ!』とも思(おも)ひましたが、却々(なか/\)そんな機 會(きくわい)の來(き)さうにもありませんでした、愛(あい)ちやんは所在(しよざい)なさに四邊(あたり)を眺(なが)め初(はじ)めました。 「法廷」のキャプション付きの図 法廷  愛(あい)ちやんは甞(かつ)て法廷(ほふてい)に行(い)つたことがありませんでした、只(たゞ)それを書物(しよもつ)で讀(よ)んだばかりでし たが、それでも其處(そこ)にある大抵(たいてい)の物(もの)の名(な)を知(し)ることが出來(でき)たので、非常(ひじやう)に悦(よろこ)んで ゐました。『あれが裁判官(さいばんくわん)だわ』愛(あい)ちやんは獨語(ひとりごと)を云(い)つて、 『だつて、大(おほ)きな鬘(かつら)を着(つ)けてゝよ』  裁判官(さいばんくわん)は序(つひ)でに、王樣(わうさま)がなされました。王樣(わうさま)は鬘(かつら)の上(うへ)に其(そ)の冠(かんむり )を戴(いたゞ)き、如何(いか)にも不愉快(ふゆくわい)さうに見(み)えました、それのみならず、それは少(すこ)しも似合(にあ)ひませんでした 。 『それから、あれが裁判官(さいばんくわん)の席(せき)なのよ』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひながら、『それで、あの十二の動物(どうぶつ)は』 (愛(あい)ちやんは否(いや)でも應(おう)でも動物(どうぶつ)と云(い)はない譯(わけ)には行(ゆ)きませんでした、でも其(そ)の中(なか) には動物(どうぶつ)も居(ゐ)れば、亦(また)鳥(とり)も居(ゐ)たのですもの)『屹度(きつと)陪審人(ばいしんにん)なんだわ』愛(あい)ちや んは此(こ)の最後(さいご)の詞(ことば)を獨語(ひとりごと)のやうに二三度(ど)繰返(くりかへ)し/\、些(や)や誇顏(ほこりがは)[#ルビ の「ほこりがは」はママ]に云(い)ひました、何故(なぜ)といふに、自分(じぶん)位(ぐらゐ)の年齡格好(としかつかう)の小娘(こむすめ)で、全 (まつた)く其意味(そのいみ)を知(し)つてるのは甚(はなは)だ稀(まれ)だと實際(じつさい)愛(あい)ちやんは然(さ)う思(おも)つてゐまし たから。けれども『陪審官(ばいしんくわん)』と云(い)つた方(はう)が一層(そう)正(たゞ)しいのです。  十二の陪審人(ばいしんにん)は皆(みん)な忙(いそが)しさうに石盤(せきばん)に書(か)いてゐました。『何(なに)を皆(みん)なで爲(し)て るんでせう?』と愛(あい)ちやんはグリフォンに ※(「口+耳」、第3水準1-14-94) (さゝや)いて、『審問(しんもん)が始(はじ)まらないので、未(ま)だそんなに何(なに)も書(か)くことがないんだわ』 『銘々(めい/\)自分(じぶん)の名(な)を書(か)いてるんだ』とグリフォンが答(こた)へて、『審問(しんもん)の濟(す)むまでに忘(わす)れ て了(しま)ふと困(こま)るから』 『愚物(ばか)だわねえ!』と愛(あい)ちやんは大(おほ)きな聲(こゑ)で齒痒(はがゆ)さうに云(い)ひ出(だ)しましたが、『默(だま)れ!』と 白兎(しろうさぎ)が叫(さけ)んだので、急(いそ)いで止(や)めました。王樣(わうさま)は眼鏡(めがね)をかけ、誰(だれ)が話(はな)したのか と思(おも)つて、きよろ/\四邊(あたり)を見廻(みまは)されました。  愛(あい)ちやんは陪審人(ばいしんにん)が殘(のこ)らず其(そ)の石盤(せきばん)に、『愚物(ばか)だわねえ!』と書(か)きつけてゐるのを、 皆(みん)なの肩越(かたご)しに全然(すつかり)能(よ)く見(み)ました、それのみならず愛(あい)ちやんは、其(そ)の中(うち)の一(ひと)つ が「愚物(ばか)」と何(ど)う書(か)いて可(い)いか分(わか)らないので、その隣(とな)りのに聞(き)いてたことまでも知(し)りました、『き れいに汚(よご)れて了(しま)ふだらう、石盤(せきばん)が、審問(しんもん)の濟(す)むまでには!』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。  陪審人(ばいしんにん)の一(ひと)つが鉛筆(えんぴつ)を軋(きし)らせました。立(た)つことを許(ゆる)されないにも拘(かゝは)らず愛(あい )ちやんは、法廷(ほふてい)を廻(まは)つて其(そ)の背後(うしろ)へ行(ゆ)き、隙(すき)を狙(ねら)つて手早(てばや)くそれを取(と)り去 (さ)りました。餘(あま)りに敏捷(すばしこ)くやられたので、可哀相(かあいさう)に小(ちひ)さな陪審人(ばいしんにん)は(それは蜥蜴(とかげ )の甚公(じんこう)でした)茫然(ぼんやり)して了(しま)ひました、隈(くま)なく探(さが)し廻(まは)つたが見當(みあた)らず、餘儀(よぎ) なく其(そ)の日(ひ)はそれから一本(ぽん)の指(ゆび)で書(か)いてゐました、が、それは殆(ほと)んど用(よう)をなしませんでした、石盤(せ きばん)に何(なん)の痕跡(あと)も殘(のこ)らぬので。 『使者(ししや)よ、其(そ)の告訴(こくそ)を讀(よ)め!』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。  乃(そこ)で白兎(しろうさぎ)は三度(たび)喇叭(らつぱ)を吹(ふ)き、それから羊皮紙(やうひし)の卷物(まきもの)を開(ひら)いて、次(つ ぎ)のやうに讀(よ)みました。 『心臟(ハート)の女王樣(ぢよわうさま)、栗饅頭(くりまんぢう)を製(つく)つた、   夏(なつ)の日(ひ)に皆(みん)な、  心臟(ハート)の軍人(ネーブ)、栗饅頭(くりまんぢう)を盜(ぬす)んで、   皆(みん)な持(も)つて逃(に)げた!』 『判决(はんけつ)は』と王樣(わうさま)が陪審官(ばいしんくわん)に申(まを)されました。 『未(ま)だ、/\!』と兎(うさぎ)は急(いそ)いで遮(さへぎ)つて、『其(その)以前(まへ)に爲(す)べき事(こと)が澤山(たくさん)ありま す!』 『第一(だいいち)の證人(しようにん)を喚(よ)び出(だ)せ』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。白兎(しろうさぎ)は三度(たび)喇叭( らつぱ)を吹(ふ)いて『第一(だいいち)の證人(しようにん)!』と聲(こゑ)をかけました。  第一(だいいち)の證人(しようにん)は帽子屋(ばうしや)でした。彼(かれ)は片手(かたて)に茶碗(ちやわん)、片手(かたて)に牛酪麺麭(バタ ーパン)を一(ひ)^ト片(かけ)持(も)つて入(はい)つて來(き)ました。『お免(ゆる)しあれ、陛下(へいか)よ』と云(い)つて彼(かれ)は、 『こんな物(もの)を持(も)ち込(こ)みまして、でも、お喚(よ)び出(だ)しになりました時(とき)、お茶(ちや)を飮(の)みかけて居(ゐ)まし たものですから。』 『濟(す)んで居(ゐ)た筈(はづ)だが』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。『何時(いつ)始(はじ)めたのか?』  帽子屋(ばうしや)は、福鼠(ふくねずみ)と手(て)に手(て)を取(と)つて、其(そ)の後(あと)から續(つゞ)いて法廷(ほふてい)に入(はい )つて來(き)た三月兎(ぐわつうさぎ)を見(み)て、『三月(ぐわつ)の十四日(か)だつたと思(おも)ひます』と云(い)ひました。 『十五日(にち)』と三月兎(ぐわつうさぎ)が云(い)ひました。 『十六日(にち)』と福鼠(ふくねずみ)が云(い)ひました。 『それを書(か)きつけとけ』と王樣(わうさま)が陪審官(ばいしんくわん)に申(まを)されました、陪審官(ばいしんくわん)は熱心(ねつしん)にそ の石盤(せきばん)に三つの日(ひ)を書(か)きつけました、それから何(なん)でも關(かま)はず其(そ)の答(こた)へを列記(れつき)しました。 『お前(まへ)の帽子(ばうし)を脱(ぬ)げ』と王樣(わうさま)が帽子屋(ぼうしや)に申(まを)されました。 『私(わたし)のではありません』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。 『盜(ぬす)んだナ!』と王樣(わうさま)は陪審官(ばいしんくわん)を顧(かへり)みながら叫(さけ)ばれました、陪審官(ばいしんくわん)は絶(た )えず事實(じゞつ)の備忘録(びばうろく)を作(つく)つてゐました。 『私(わたし)は賣(う)る爲(ため)にそれを持(も)つてるのです』と帽子屋(ばうしや)が説明(せつめい)のやうに言(い)ひ足(た)しました、『 自分(じぶん)の物(もの)は一個(ひとつ)も持(も)ちません。私(わたし)は帽子屋(ばうしや)ですもの』  乃(そこ)で女王樣(ぢよわうさま)は眼鏡(めがね)をかけ、氣味(きみ)の惡(わる)い程(ほど)帽子屋(ばうしや)を凝視(みつめ)られました、 帽子屋(ばうしや)は眞(ま)ッ蒼(さを)になつて顫(ふる)へてゐました。 『證據(しやうこ)やある』と王樣(わうさま)が申(まを)されました、『怕(おそ)れることはない、早(はや)く云(い)へ、さもなければ即座(そく ざ)に死刑(しけい)だ』  これでは全(まつた)く證人(しようにん)の元氣(げんき)づかう筈(はづ)がありませんでした、矢(や)ッ張(ぱり)ぶる/\顫(ふる)へながら、 氣遣(きづか)はしげに女王樣(ぢよわうさま)の方(はう)を見(み)て居(ゐ)ましたが、やがて無我夢中(むがむちゆう)で、持(も)つて居(ゐ)た 茶腕(ちやわん)[#「茶腕」はママ]を牛酪麭麺(バターぱん)[#「麭麺」はママ]と間違(まちが)へて、一^ト破片(かけ)大(おほ)きく齧(かじ )りました。  すると忽(たちま)ち愛(あい)ちやんは妙(めう)な心地(きもち)がして來(き)たので、何(ど)うしたことかと甚(はなは)だ不審(ふしん)に思 (おも)つて居(ゐ)ますと、復(ま)たもや段々(だん/\)大(おほ)きくなり初(はじ)めました、愛(あい)ちやんは最初(さいしよ)立(た)ち上 (あが)つて法廷(ほふてい)を出(で)やうとしましたが、考(かんが)へ直(なほ)して今度(こんど)は、空場所(あきばしよ)のある間(あひだ)斯 (か)うして居(ゐ)やうと决心(けつしん)しました。 『そんなに押(お)すな』と愛(あい)ちやんの次(つ)ぎに坐(すわ)つて居(ゐ)た福鼠(ふくねずみ)が云(い)ひました。『呼吸(いき)も吐(つ) けやしない』 『仕方(しかた)がないわ』と愛(あい)ちやんは優(やさ)しい聲(こゑ)で、『大(おほ)きくなるんですもの』 『お前(まへ)には此處(こゝ)で大(おほ)きくなる權利(けんり)は些(ちつ)とも無(な)い』と福鼠(ふくねずみ)が云(い)ひました。 『莫迦(ばか)なことをお言(い)ひでない』と云(い)つて愛(あい)ちやんは大膽(だいたん)にも、『お前(まへ)だつても大(おほ)きくなつてるぢ やないの』 『然(さ)うさ、だけど私(わたし)の大(おほ)きくなり方(かた)は法(ほふ)に適(かな)つてる』と云(い)つて福鼠(ふくねずみ)は、『そんな滑 稽(をかし)な風(ふう)ぢやない』乃(そこ)で忌々(いま/\)しさうに立(た)ち上(あが)り、法廷(ほふてい)の他(た)の側(かは)に越(こ) えて行(ゆ)きました。  此間(このあひだ)も始終(しゞゆう)女王樣(ぢよわうさま)は决(けつ)して帽子屋(ばうしや)から眼(め)を離(はな)されませんでした。丁度( ちやうど)福鼠(ふくねずみ)が法廷(ほふてい)を横切(よこぎ)つた時(とき)に、女王樣(ぢよわうさま)は廷丁(てい/\)の一人(ひとり)に、『 この以前(まへ)の音樂會(おんがくくわい)の、演奏者(えんそうしや)の名簿(めいぼ)を持(も)つて參(まゐ)れ』と仰(あふ)せられました、これ を聞(き)いて憐(あは)れな帽子屋(ばうしや)は、慄(ふる)へ戰(をのゝ)いて、穿(は)いてた靴(くつ)も何(なに)も脱(ぬ)いで了(しま)ひ ました。 『證據(しようこ)やある』と王樣(わうさま)は腹立(はらだた)しげに繰返(くりかへ)されました、『無(な)いなら死刑(しけい)だ、有(あ)るか 無(な)いか早(はや)く申(まを)せ』 『お助(たす)け下(くだ)さいませ、陛下(へいか)よ』と帽子屋(ばうしや)は顫(ふる)へ聲(ごゑ)で、『――お茶(ちや)を飮(の)んでは居(ゐ )ませんでした――もう殆(ほと)んど一週間(しうかん)以上(いじやう)も飮(の)みません――オヤ、牛酪麺麭(バターぱん)が莫迦(ばか)に薄(う す)くなつた――一寸(ちよつと)の間(ま)に――』 『一寸(ちよつと)の間(ま)に何(なに)が?』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。 『初(はじ)め、お茶(ちや)と申(まを)したのです』と帽子屋(ばうしや)が瞹昧(あいまい)に答(こた)へました。 『勿論(もちろん)一寸(ちよつと)と云(い)ふ詞(ことば)の初(はじ)めにもチがつくが!』と王樣(わうさま)が棘々(とげ/\)しく申(まを)さ れました。『我(わ)れを侮辱(ぶじよく)するか?え!』 『お助(たす)け下(くだ)さいませ』と帽子屋(ばうしや)は續(つゞ)けて、『何(なん)だか澤山(たくさん)其(そ)の後(うし)ろにちら/\して 居(ゐ)ます――談(はなし)をしたのは三月兎(ぐわつうさぎ)だけです――』 『しません!』と三月兎(ぐわつうさぎ)が大急(おほいそ)ぎで遮(さへぎ)りました。 『した!』と帽子屋(ばうしや)。 『しない!』と三月兎(ぐわつうさぎ)。 『屹度(きつと)しないと申(まを)すか』と云(い)つて王樣(わうさま)は、『もう止(よ)せ』 『まァ、それは兎(と)に角(かく)、福鼠(ふくねずみ)が云(い)ふには――』と帽子屋(ばうしや)は續(つゞ)けて、若(も)しや復(ま)た打消( うちけ)されはしないかと、心配(しんぱい)さうに四邊(あたり)を見廻(みまは)しましたが、福鼠(ふくねずみ)は打消(うちけ)すどころか、もう疾 (とツ)くに熟睡(ねこ)んで居(ゐ)ました。 『其(そ)の後(ご)』と帽子屋(ばうしや)は云(い)ひ續(つゞ)けて、『私(わたし)はもッと牛酪麺麭(バターぱん)を切(き)りました――』 『併(しか)し何(なに)を福鼠(ふくねずみ)が云(い)つたのか?』と陪審官(ばいしんくわん)の一人(ひとり)が訊(たづ)ねました。 『思(おも)ひ出(だ)せません』と帽子屋(ばうしや)が云(い)ひました。 『憶(おぼ)えてる筈(はづ)だが』と云(い)つて王樣(わうさま)は、『さもなければ汝(なんぢ)を死刑(しけい)に處(しよ)す』  不憫(ふびん)にも帽子屋(ばうしや)は、其(そ)の茶腕(ちやわん)[#「茶腕」はママ]と牛酪麺麭(バターぱん)とを落(おと)して了(しま)ひ 、片膝(かたひざ)ついて、『お助(たす)け下(くだ)さいませ、陛下(へいか)よ』と初(はじ)めました。 『お前(まへ)は如何(いか)にも可哀相(かあいさう)なものだ』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。  乃(そこ)で一疋(ぴき)の豚(ぶた)が何(なん)とか云(い)つて喝采(かつさい)しましたが、直(たゞ)ちに廷丁(てい/\)のために制止(とめ )られました。(それは漢語交(かんごまじ)りで些(や)や六ヶ敷(し)い言葉(ことば)でしたが、説明(せつめい)すれば、皆(みん)なで、大(おほ )きな麻布(あさ)の袋(ふくろ)の中(なか)へ、最初(さいしよ)頭(あたま)を切(き)つた豚(ぶた)を窃(そつ)と入(い)れ、その口(くち)を 緊乎(しつか)と糸(いと)で縛(しば)り、それから其(そ)の上(うへ)に坐(すわ)れと云(い)ふことでした) 『然(さ)うしたら甚 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (どんな)に面白(おもしろ)いでせう』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。『私(わたし)は審問(しんもん)の終(をは)りに「傍聽人(ばうち やうにん)が喝釆(かつさい)[#「喝釆」はママ]しやうとして、直(たゞ)ちに數多(あまた)の廷丁(てい/\)どもに制止(とめ)られた」と云(い )ふことを、屡々(しば/\)新聞(しんぶん)で讀(よ)んでは居(ゐ)ましたが、それが何(ど)う云(い)ふ意味(いみ)だか解(わか)りませんでし た。』 『宜(よろ)しい、下(さが)れ』と王樣(わうさま)がお續(つゞ)けになりました。 『もう是(これ)より下(さが)れません』と帽子屋(ばうしや)が言(い)ひました。『御覽(ごらん)の通(とほ)り床(ゆか)の上(うへ)に居(を) ります』 『然(しか)らば坐(すわ)れ』と王樣(わうさま)がお答(こた)へになりました。  乃(そこ)で他(た)の豚(ぶた)が喝釆(かつさい)[#「喝釆」はママ]しましたが、制止(とめ)られました。 『さァ、もう可(い)い!』と愛(あい)ちやんは思(おも)ひました。『これで安心(あんしん)』 『私(わたし)はお茶(ちや)を濟(す)ませて了(しま)ひたう御座(ござ)います』と云(い)つて帽子屋(ばうしや)は氣遣(きづか)はしげに、女王 樣(ぢよわうさま)の方(はう)を見(み)ました、女王樣(ぢよわうさま)は演奏者(えんそうしや)の名簿(めいぼ)を讀(よ)んで居(を)られました 。 『行(い)つても宜(い)い』と王樣(わうさま)が申(まを)されました、帽子屋(ばうしや)は急(いそ)いで法廷(ほふてい)を出(で)ました、靴( くつ)をも穿(は)きあへず。 『――それ、其(そ)の頭(あたま)を刎(は)ねとばせ』と女王樣(ぢよわうさま)が一人(ひとり)の廷丁(てい/\)に申(まを)されました、が帽子 屋(ばうしや)の姿(すがた)は、廷丁(てい/\)が戸口(とぐち)まで行(ゆ)かない中(うち)に見(み)えなくなりました。 『次(つぎ)なる證人(しようにん)を喚(よ)べ!』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。  次(つぎ)なる證人(しようにん)は公爵夫人(こうしやくふじん)の料理人(クツク)でした。料理人(クツク)は片手(かたて)に胡椒(こせう)の箱 (はこ)を持(もつ)て居(ゐ)ました、愛(あい)ちやんは已(すで)に彼(かれ)が法廷(ほふてい)に入(はい)らぬ前(まへ)に、戸口(とぐち)に 近(ちか)く、通路(とほりみち)に居(ゐ)た人民(じんみん)どもが、急(きふ)に嚏(くさめ)をし初(はじ)めたので、直(たゞち)にそれが誰(だ れ)であつたかを推察(すゐさつ)しました。 『證據(しようこ)は』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。 『御座(ござ)いません』と料理人(クツク)。  王樣(わうさま)は氣遣(きづか)はしげに白兎(しろうさぎ)を御覽(ごらん)になりました、白兎(しろうさぎ)は低聲(こゞゑ)で、『陛下(へいか )は此(こ)の證人(しようにん)の相手方(あひてかた)の證人(しようにん)を詰問(きつもん)せらるゝ必要(ひつえう)があります』 『よし、さらば、詰問(きつもん)せん』王樣(わうさま)は冱々(さえ/″\)しからぬ御容子(ごようす)にて、腕(うで)を拱(く)み、眉(まゆ)を 顰(ひそ)め、兩眼(りようがん)殆(ほと)んど茫乎(ぼうツと)なる迄(まで)、料理人(クツク)を凝視(みつ)めて居(を)られましたが、やがて太 (ふと)い聲(こゑ)で、『栗饅頭(くりまんぢう)は何(なに)から製(つく)られるか?』 『多(おほ)くは、胡椒(こせう)で』と料理人(クツク)が云(い)ひました。 『糖蜜(たうみつ)で』と彼(か)れの後(うし)ろで眠(ねむ)さうな聲(こゑ)が云(い)ひました。 『其(そ)の福鼠(ふくねずみ)を彩色(いろど)れ』と女王樣(ぢよわうさま)が金切聲(かなきりごゑ)で叫(さけ)ばれました。『其(そ)の福鼠(ふ くねずみ)を斬(き)れ!其(そ)の福鼠(ふくねずみ)を法廷(はふてい)から逐(お)ひ出(だ)せ!それ、抑(おさ)えよ!そら抓(つね)ろ!其(そ )の髯(ひげ)を引(ひ)ッ張(ぱ)れ』  暫(しばら)くの間(あひだ)全(まつた)く法廷(ほふてい)は上(うへ)を下(した)への大騷(おほさわ)ぎでした。福鼠(ふくねずみ)を逐(お) ひ出(だ)して了(しま)ひ、皆(みん)なが再(ふたゝ)び落着(おちつ)いた時(とき)迄(まで)に、料理人(クツク)は行方(ゆきがた)知(し)れ ずなりました。 『關(かま)はない!』悠然(いうぜん)として王樣(わうさま)が申(まを)されました。『次(つぎ)なる證人(しようにん)を喚(よ)べ』それから王 樣(わうさま)は低(ひく)い聲(こゑ)で女王樣(ぢよわうさま)に、『實際(じつさい)、あの、御身(おんみ)は次(つぎ)なる證人(しようにん)の 相手方(あひてかた)の證人(しようにん)を詰問(きつもん)しなければならない。甚(ひど)く頭痛(づつう)がして來(き)た!』  云(い)ひながらも王樣(わうさま)は、名簿(めいぼ)を彼方此方(かなたこなた)と索(さが)して居(を)られました、ところで愛(あい)ちやんは 、次(つぎ)なる證人(しようにん)が何(ど)んなのだらうかと頻(しき)りに見(み)たく思(おも)ひながら、凝(じつ)と白兎(しろうさぎ)を瞻戍 (みまも)つて居(ゐ)ました、が軈(やが)て、『――でも未(ま)だ充分(じうぶん)證據(しようこ)が擧(あが)らないのですもの』と獨語(ひとり ごと)を云(い)ひました。愛(あい)ちやんの驚(おどろ)きや如何(いか)ばかり、白兎(しろうさぎ)が、その細(ほそ)い金切聲(かなきりごゑ)を 張上(はりあ)げて、『愛子(あいこ)!』と其(そ)の名(な)を讀(よ)み上(あ)げました時(とき)の。 [#改ページ] 第十二章  愛(あい)ちやんの證據(しようこ) 『はい!』と叫(さけ)んだものゝ愛(あい)ちやんは、餘(あま)りに狼狽(あはて)たので自分(じぶん)が此所(こゝ)少時(しばらく)の間(あひだ )に、如何(いか)ばかり大(おほ)きくなつたかと云(い)ふことを全然(すつかり)忘(わす)れて、遽(には)かに跳(と)び上(あが)りさま、着物 (きもの)の裾(すそ)で裁判官(さいばんくわん)の席(せき)を拂(はら)ひ、陪審官(ばいしんくわん)をば殘(のこ)らず、下(した)なる群集(ぐ んじゆ)の頭上(づじやう)に蹴轉(けころ)がしました。愛(あい)ちやんは其處(そこ)に彼等(かれら)の這(は)ひ廻(まは)るのを見(み)て、偶 々(たま/\)自分(じぶん)が以前(まへ)の週(しう)に、數多(あまた)の金魚鉢(きんぎよばち)を轉(ひ)ッ覆(くりか)へした時(とき)の態( ざま)を想(おも)ひ起(おこ)しました。 『萬望(どうぞ)、お宥(ゆる)しを願(ねが)ひます』と愛(あい)ちやんは消魂(けたゝま)しい聲(こゑ)で叫(さけ)んで、再(ふたゝ)び手早(て ばや)く彼等(かれら)を拾(ひろ)ひ上(あ)げました。絶(た)えず金魚(きんぎよ)の事(こと)ばかり考(かんが)へてゐたので、直(たゞ)ちに彼 等(かれら)を集(あつ)め、各々(おの/\)その席(せき)へ歸(かへ)してやらなければならない、さもなければ皆(みん)な死(し)んで了(しま) うだらう、と愛(あい)ちやんは只(たゞ) ※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81) 然(ぼんやり)さう思(おも)つてたものですから。 『審問(しんもん)を進(すゝ)めることが出來(でき)ない』と王樣(わうさま)は極(きは)めて嚴格(げんかく)な聲(こゑ)で、『陪審官(ばいしん くわん)が殘(のこ)らずその位置(ゐち)に復(ふく)するまでは――殘(のこ)らず』と頗(すこぶ)る詞(ことば)を強(つよ)めて繰返(くりかへ) し、屹然(きつと)愛(あい)ちやんの方(はう)を御覽(ごらん)になりました。  愛(あい)ちやんは先(ま)づ裁判官(さいばんくわん)の席(せき)を見(み)、それから大急(おほいそ)ぎで蜥蜴(とかげ)を逆(さか)さまに置( お)きました。憐(あは)れな小(ちひ)さな物(もの)は、全(まつた)く自由(じゆう)に動(うご)くことが出來(でき)ないので、只(たゞ)悲(か な)しさうに其尾(そのを)ばかり振(ふ)つてゐました。愛(あい)ちやんは又(また)直(たゞ)ちにそれを以前(もと)のやうに置(お)き直(なほ) し、『何方(どつち)にしたつて大(たい)した違(ちが)ひはなくつてよ』と獨語(ひとりごと)を云(い)ひました、『これは何(ど)うしても矢張(や つぱり)、他(ほか)の者(もの)と同(おな)じ方法(はうはふ)で審問(しんもん)するに限(かぎ)るわ』  陪審官等(ばいしんくわんら)は些(や)や身體(からだ)の顫(ふる)えが止(とま)るや否(いな)や、再(ふたゝ)び石盤(せきばん)と鉛筆(えん ぴつ)とを渡(わた)されたので、皆(みん)な一心(しん)に事(こと)の始末(しまつ)を書(か)き出(だ)しました、獨(ひと)り蜥蜴(とかげ)の みは其口(そのくち)を開(あ)いたまゝ、徒(いたづ)らに法廷(はふてい)の屋根(やね)を見上(みあ)げて、爲(な)すこともなく茫然(ぼんやり) 坐(すわ)つてゐました。 『此(こ)の事件(じけん)に關(くわん)して、其方(そのはう)の存(ぞん)じて居(を)ることは!』と王樣(わうさま)が愛(あい)ちやんに申(ま を)されました。 『何(なん)にも存(ぞん)じません』と愛(あい)ちやん。 『屹度(きつと)何(なん)にも存(ぞん)ぜぬか?』と王樣(わうさま)が固(かた)く念(ねん)を押(お)されました。 『全(まつた)く何(なん)にも存(ぞん)じません』と愛(あい)ちやん。 『それは極(きは)めて必要(ひつえう)な事(こと)だ』と王樣(わうさま)は陪審官(ばいしんくわん)一同(どう)を顧(かへり)みて申(まを)され ました。彼等(かれら)が將(まさ)にこれを石盤(せきばん)に書(か)きつけんとした時(とき)に、白兎(しろうさぎ)は啄(くち)を容(い)れて、 『不必要(ふひつえう)で御座(ござ)います、陛下(へいか)よ、申(まを)す迄(まで)もなく』と甚(はなは)だ恭(うや/\)しく、併(しか)し眉 (まゆ)を顰(ひそ)めて申(まを)し上(あ)げました。 『不必要(ふひつえう)、勿論(もちろん)、左樣(さやう)』と王樣(わうさま)は口早(くちばや)に云(い)つて、尚(な)ほも低聲(こゞゑ)で獨語 (ひとりごと)を申(まを)されました、『不必要(ふひつえう)――不必要(ふひつえう)――不必要(ふひつえう)――不必要(ふひつえう)――』と宛 (あだか)も何(ど)の詞(ことば)が最(もつと)も善(よ)く發音(はつおん)されるかを試驗(しけん)するやうに。  或(あ)る陪審官(ばいしんくわん)はそれを『必要(ひつえう)』と書(か)きつけ、又(また)或者(あるもの)は『不必要(ふひつえう)』と書(か )きつけました。愛(あい)ちやんは彼等(かれら)の石盤(せきばん)を見越(みこ)せる程(ほど)近(ちか)くに居(ゐ)たので、全然(すつかり)そ れが分(わか)りました、『併(しか)しそれは何(ど)うでも關(かま)はないわ』と密(ひそ)かに然(さ)う思(おも)ひました。  此時(このとき)、今(いま)まで何(なに)か其(そ)の備忘録(ノートブツク)に忙(いそが)しさうに書(か)いて居(を)られた王樣(わうさま) が、『默(だま)れ!』と叫(さけ)んで、やがて御所持(ごしよぢ)の書物(しよもつ)をお開(ひら)きになり、『第(だい)四十二條(でう)。その身 長(せい)一哩(マイル)より高(たか)き者(もの)は法廷(はふてい)を去(さ)るべし』とお讀(よ)みになりました。  皆(みんな)が愛(あい)ちやんの方(はう)を見(み)ました。 『私(わたし)の身長(せい)は一哩(マイル)なくッてよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『ある』と王樣(わうさま)。 『殆(ほと)んど二哩(マイル)も高(たか)い』と女王樣(ぢよわうさま)がお附加(つけた)しになりました。 『何(なん)にしても、私(わたし)は出(で)て參(まゐ)りません、兎(と)に角(かく)』と云(い)つて愛ちやんは、『のみならず、それは正(たゞ )しい規則(きそく)ではありません、唯(たつ)た今(いま)考案(かうあん)されたのですもの』 『それは此(この)書物(ほん)にある最(もつと)も古(ふる)い規則(きそく)だ』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。 『そんなら、それは屹度(きつと)一番(ばん)に違(ちが)ひありません』と愛(あい)ちやん。  王樣(わうさま)は眞蒼(まつさを)になつて、急(いそ)いで其(そ)の備忘録(ノートブツク)を閉(と)ぢ、『判决(はんけつ)は』と陪審官(ばい しんくわん)に申(まを)されました、低(ひく)い顫(ふる)へ聲(ごゑ)で。 『まだ/\もつと多(おほ)くの證據(しようこ)が御座(ござ)います、陛下(へいか)よ』と云(い)つて白兎(しろうさぎ)は、遽(にはか)に跳(と )び上(あが)り、『此(こ)の文書(もんじよ)は只今(たゞいま)拾(ひろ)ひましたのです』 『何(なに)が其中(そのなか)に書(か)いてあるか?』と女王樣(ぢよわうさま)が申(まを)されました。 『私(わたし)は未(ま)だそれを開(ひら)きません』と云(い)つて白兎(しろうさぎ)は、『だが、それは手紙(てがみ)のやうです、囚人(しうじん )の手(て)になつた、――何者(なにもの)かに宛(あ)てた』 『それに違(ちが)ひない』と王樣(わうさま)が申(まを)されました、『名宛(なあて)が書(か)いてないとすれば、屹度(きつと)』 『誰(だれ)にとも指定(してい)してないのか?』と陪審官(ばいしんくわん)の一人(ひとり)。 『全(まつた)く指定(してい)してありません』と云(い)つて白兎(しろうさぎ)は、『實際(じつさい)、表面(ひやうめん)には何(なん)にも書( か)いてありません』それから其(そ)の文書(もんじよ)を開(ひら)いて、『全(まつた)く手紙(てがみ)ではありません、それは歌(うた)の一節( せつ)です』 『それが囚人(しうじん)の筆蹟(ひつせき)なのか?』とモ一人(ひとり)の陪審官(ばいしんくわん)が訊(たづ)ねました。 『否(いゝ)え、然(さ)うではありません』と云(い)つて白兎(しろうさぎ)は、『實(じつ)に不思議(ふしぎ)だ』(陪審官(ばいしんくわん)は皆 (みん)な途方(とはう)に暮(く)れて了(しま)ひました) 『誰(だれ)か他(ほか)の者(もの)の僞筆(ぎひつ)に相違(さうゐ)ない』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。(陪審官(ばいしんくわん) は殘(のこ)らず目(め)を ※(「目+登」、第3水準1-88-91) (みは)りました) 『願(ねがは)くは陛下(へいか)よ』と云(い)つて軍人(ネーブ)は、『私(わたし)が書(か)いたのでは御座(ござ)いません、その證據(しようこ )には、終(しま)ひに名(な)も何(なに)も書(か)いて御座(ござ)いません』 『若(も)しも汝(なんぢ)がそれに署名(しよめい)しなかつたとすれば』と云(い)つて王樣(わうさま)は、『尚々(なほ/\)惡(わる)い、汝(な んぢ)の惡戯(いたづら)に相違(さうゐ)ない、さもなければ正直(しようぢき)に署名(しよめい)して置(お)くべき筈(はづ)だ』  爰(こゝ)に於(お)いてか滿座(まんざ)悉(こと/″\)く拍手(はくしゆ)喝釆(かつさい)[#「喝釆」はママ]しました、それは眞(しん)に王 樣(わうさま)が其日(そのひ)に仰(おほ)せられた中(うち)の最(もつと)も巧(たくみ)みなる[#「巧(たくみ)みなる」はママ]お言葉(ことば )でした。 『それが何(なに)より罪(つみ)のある證據(しようこ)だ、云(い)ふ迄(まで)もなく』と女王樣(ぢよわうさま)が申(まを)されました、『關(か ま)はない、刎(は)ねろ――』 『そんなものは證據(しようこ)にはなりません!』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。『何(なん)だか譯(わけ)が解(わか)らないのですもの! 』 『それを讀(よ)め』と王樣(わうさま)が申(まを)されました。  白兎(しろうさぎ)は眼鏡(めがね)をかけ、『何處(どこ)から初(はじ)めて宜(よろ)しいのですか?陛下(へいか)よ』とお訊(たづ)ね申(まを )し上(あ)げました。 『初(はじ)めから始(はじ)めて』と王樣(わうさま)は嚴格(げんかく)に、『それから、ずつと終(しま)ひまで、濟(す)んだから止(や)め』  法廷(はふてい)は水(みづ)を打(う)てる如(ごと)く靜(しづ)かになりました、乃(そこ)で白兎(しろうさぎ)が次(つぎ)の歌(うた)を讀( よ)み出(だ)しました、 『何時(いつ)か彼處(あそこ)へ行(い)つた時(とき)、   私(わたし)の事(こと)ども話(は)[#ルビの「は」はママ]したと、  見事(みごと)な手紙(てがみ)を寄越(よこ)したが、   泳(およ)げないとの辯疏(いひわけ)で。  私(わたし)の行(ゆ)けぬと云(い)つたのが、  (何(なに)より嘘(うそ)ではない證據(しようこ))  それをも責(せ)めよと云ふのなら、   一體(たい)お前(まへ)は何(ど)うする氣(き)?  一個(ひつと)[#ルビの「ひつと」はママ]遣(や)つたに、又(また)二(ふた)つ、   三(み)つ四(よ)つ慾(よく)には限(かぎ)りなく、  殘(のこ)らずお前(まへ)の懷(ふとこ)ろへ、   以前(もと)は私(わたし)のものだけど。   斯(か)うして二人(ふたり)が共々(とも/″\)に、   若(も)しや連累(まきぞへ)されたとて、  お前(まへ)がついてれや大丈夫(だいじやうぶ)、   何時(いつ)かは疑(うたが)ひ睛(は)[#「睛(は)」はママ]れるだらう。  私(わたし)もお前(まへ)と同(おな)じこと、  (フイと恁 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)氣(き)になつたのも)  唯(たつ)タ一(ひと)つの邪魔者(じやまもの)が、   中間(なか)へ入(はい)つてした所業(しわざ)。  親(した)しいからとて油斷すな、   何時(いつ)になつても變(かは)りなく、  他人(ひと)に隱(かく)した此(こ)の秘密(ひみつ)、 『お前(まへ)と私(わたし)の間(あひだ)だけ』 『それこそ大事(だいじ)な證據(しようこ)の一(ひと)つである』と王樣(わうさま)は揉手(もみで)をしながら、『さらば陪審官(ばいしんくわん) に――』 『若(も)し誰(だれ)でも其(そ)の説明(せつめい)の出來(でき)たものに』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました、(此所(こゝ)少時(しばらく )の間(あひだ)に大變(たいへん)大(おほ)きくなつたので、誰(た)れ憚(はゞか)る所(ところ)もなく大膽(だいたん)に喙(くち)を容(い)れ て)、私(わたし)は十錢(せん)與(あ)げてよ。私(わたし)はそれに些(ちつ)とも意味(いみ)があるとは信(しん)じないわ』 裁判の図  陪審官(ばいしんくわん)は殘(のこ)らずその石盤(せきばん)に、『娘(むすめ)はそれに些(ちつ)とも意味(いみ)があるとは信(しん)じない』 と書(か)きつけました、併(しか)し誰(た)れ一人(ひとり)として其(そ)の文書(もんじよ)を説明(せつめい)しやうとはしませんでした。 『若(も)しそれに何(なん)の意味(いみ)も無(な)いとすれば』と云(い)つて王樣(わうさま)は、『それは面倒(めんだう)くさくなくて可(い) い、何事(なにごと)かを知(し)らうとしないで濟(す)むから。『どうも解(わか)らん』と續(つゞ)けて、其(そ)の膝(ひざ)の上(うへ)に歌( うた)を展(ひろ)げ、片眼(かため)で見(み)ながら、『併(しか)し何(なに)か其(そ)れには意味(いみ)があるやうに思(おも)はれる。「―― 泳(およ)げないとの辯疏(いひわけ)で――」其方(そのはう)には泳(およ)げぬか、え?』云(い)つて軍人(ネーブ)の方(はう)を御覽(ごらん) になりました。  軍人(ネーブ)は悲(かな)しげに其(そ)の頭(あたま)を振(ふ)つて、『私(わたし)はそれが好(す)きのやうに見(み)えますか?』と云(い) ひました。『骨牌(カルタ)が何(ど)うして泳(およ)げるものですか) 『宜(よろ)しい、それなら』と云(い)つて王樣(わうさま)は、頻(しき)りに口(くち)の中(うち)で其(そ)の歌(うた)を繰返(くりかへ)して 居(を)られました、「何(なに)より嘘(うそ)ではない證據(しようこ)――」それは勿論(もちろん)陪審官(ばいしんくわん)で――「それをも責( せ)めよと云(い)ふのなら」――それは女王(ぢよわう)に違(ちが)ひない「一體(たい)お前(まへ)は何(ど)うする氣(き)?」――何(ど)うす る、眞個(ほんとう)に!――「一(ひと)つ遣(や)つたに、又(また)二(ふた)つ――」さて、それは屹度(きつと)涙(なみだ)ながらに遣(や)つ たに違(ちが)ひない、どうだ――』 『未(ま)だ先(さき)に、「殘(のこ)らずお前(まへ)の懷(ふとこ)ろへ」と云(い)ふのがあつてよ』と愛(あい)ちやんが云(い)ひました。 『それ、其處(そこ)に!』と云(い)つて王樣(わうさま)は、洋卓(テーブル)の上(うへ)の栗饅頭(くりまんぢう)を指(ゆびさ)しながら、得意( とくい)げに申(まを)されました。『何(なん)と此程(これほど)見事(みごと)な物(もの)があらうぞや。それから又(また)――「フイと恁 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)氣(き)になつたのも――」そんな氣(き)になる筈(はづ)はないが、え、なつたのではなからうが?』と女王樣(ぢよわうさま)は申(まを) されました。 『决(けつ)して、なつたことはない』と云(い)つて女王樣(ぢよわうさま)は亂暴(らんぼう)にも、蜥蜴(とかげ)を目(め)がけてインキ壺(つぼ) を投(な)げつけられました。(不幸(ふかう)なる小(ちひ)さな甚公(じんこう)は、何(なん)にも痕跡(あと)の殘(のこ)らぬのを知(し)つて、 一本指(ぽんゆび)で石盤(せきばん)へ書(か)くことを止(や)めました、ところで、その顏(かほ)からインキの垂(た)れてるのを幸(さいは)ひ、 今度(こんど)は一生懸命(しやうけんめい)にインキを用(もち)ゐて再(ふたゝ)び書(か)き初(はじ)めました) 『どうだ、何(なん)とも言葉(ことば)が出(で)ないだらう』と云(い)つて王樣(わうさま)は、微笑(ほゝゑ)みながら法廷(はふてい)を見廻(み まは)されました。法廷(はふてい)は森(しん)としました。 『さァ、どうだ』と又(また)云(い)ひ足(た)して、『判决(はんけつ)は』 『まだ、/\!』と女王樣(ぢよわうさま)が申(まを)されました。『宣告(せんこく)が前(さき)で、――判决(はんけつ)はそれから後(のち)のこ とだ』 『何(なん)ですッて!』と愛(あい)ちやんは聲高(こわだか)に云(い)つて、『最初(さいしよ)宣告(せんこく)をするッて!』 『默(だま)れ!』と眞赤(まつか)になつて女王樣(ぢよわうさま)が申(まを)されました。 『默(だま)りません』と愛(あい)ちやん。 『頭(あたま)を刎(は)ねるぞ!』と女王樣(ぢよわうさま)が聲(こゑ)のあらん限(かぎ)り叫(さけ)ばれました。誰(だ)れ一人(ひとり)として 縮(ちゞ)み上(あが)らぬものはありませんでした。 『誰(だ)れがお前(まへ)の云(い)ふことなぞを聞(き)くものか?』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、(此時(このとき)までに大(おほ)きくな れるだけ充分(じうぶん)大(おほ)きくなつてゐました)『お前(まへ)は骨牌(カルタ)の一組(ひとくみ)に過(す)ぎないではないか!』  此(こ)の時(とき)、全(まつた)くその一組(ひとくみ)が空中(くうちゆう)に舞(ま)ひ上(あが)り、それから復(ま)た愛(あい)ちやんの上 (うへ)に飛(と)び降(お)りて來(き)ました。愛(あい)ちやんは驚(おどろ)きの餘(あま)り、怒(いか)り叫(さけ)び、其等(それら)を拂( はら)ひ除(の)けやうとして、身(み)は堤(どて)の上(うへ)に、※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U +59CA、206-4]さんの膝(ひざ)を枕(まくら)に臥(ね)て居(ゐ)たのに氣(き)がつきました、※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」 に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、206-4]さんは靜(しづか)に、顏(かほ)に散(ち)り來(く)る木(こ)の葉(は)を拂(はら )つて居(を)りました。 『お起(お)きよ、愛(あい)ちやん!』と※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、206-6]さ んが云(い)ひました。『まッ、大變(たいへん)長(なが)く眠(ねむ)つて居(ゐ)たのね!』 『然(さ)う、私(わたし)、恁 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)奇妙(きめう)な夢(ゆめ)を見(み)てよ!』と云(い)つて愛(あい)ちやんは、※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」 )、「姉」の正字」、U+59CA、206-8]さんに憶(おぼ)えて居(ゐ)たゞけを悉皆(すつかり)話(はな)しました。それは皆(みな)さんが是 迄(これまで)讀(よ)んで來(き)た所(ところ)の、種々(しゆ/″\)不思議(ふしぎ)な冐險談(ばうけんだん)でした。愛(あい)ちやんが語(か た)り終(を)へた時(とき)に、※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、206-10]さんは頬 摺(ほゝずり)しながら、『まァ、眞個(ほんとう)に奇態(きたい)な夢(ゆめ)だこと、さァ、お茶(ちや)を飮(の)みに行(ゆ)きませうね、もう遲 (おそ)いから、乃(そこ)で愛(あい)ちやんは、起(お)き上(あが)るや否(いな)や駈(か)け出(だ)しました、駈(か)ける間(ま)も、熟々( つく/″\)奇妙(きめう)な夢(ゆめ)であつたことを考(かんが)へながら。      ――――――――――――――――――――――  然(しか)し其(そ)の※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、207-3]さんは愛(あい)ち やんが行(い)つて了(しま)つても、頬杖(ほゝづゑ)ついて沈(しづ)みゆく夕日(ゆふひ)を見(み)ながら、可愛(かあい)い愛(あい)ちやんの事 (こと)から、又(また)その種々(しゆ/″\)不思議(ふしぎ)な冐險談(ばうけんだん)を考(かんが)へながら、やがて又(また)※(ねえ)[#「 女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、207-5]さんも其(そ)れに似(に)たやうな夢(ゆめ)を見初(はじ) めました、その夢(ゆめ)は、――  最初(さいしよ)、※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、207-6]さんは可愛(かあい)い 愛(あい)ちやんの夢(ゆめ)を見(み)、それから又(また)其(そ)の膝(ひざ)に抱(だ)きついた小(ちひ)さな手(て)やら、その清(すゞ)しい 可愛(かあい)い眼(め)が自分(じぶん)の眼(め)を見(み)つめてゐるのを夢(ゆめ)に見(み)ました――物言(ものい)ふ聲(こゑ)も聞(きこ) えました、又(また)その眼(め)の中(なか)に入(い)りさうな後(おく)れ毛(げ)を拂(はら)ひ除(の)けやうとして其(そ)の頭(あたま)を振 (ふ)つてる所(ところ)を見(み)ました――それから又(また)一心(しん)に何(なに)か聽(き)いてるやうにも見(み)えました、※(ねえ)[# 「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、207-10]さんの周圍(しうゐ)には殘(のこ)らず其(そ)の妹(い もと)の夢(ゆめ)に見(み)たやうな奇妙(きめう)な動物(どうぶつ)が生(い)きて居(ゐ)ました。  長(なが)い草(くさ)が白兎(しろうさぎ)の駈(か)け過(す)ぎた時(とき)に其足(そのあし)にサラ/\と鳴(な)りました――鼠(ねずみ)は 驚(おどろ)いて傍(そば)なる池(いけ)の中(なか)へ逃(に)げ込(こ)み、水煙(みづけむり)を立(た)てました――※(ねえ)[#「女+(「第 −竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、208-1]さんは三月兎(ぐわつうさぎ)と其(そ)の友達(ともだち)とが何時(い つ)になつても盡(つ)きない麺麭(ぱん)を分配(ぶんぱい)した時(とき)に、茶碗(ちやわん)の鳴(な)るのを聞(き)き、女王樣(ぢよわうさま) が其(そ)の不幸(ふかう)な賓客(まらうど)を死刑(しけい)にせよと命(せい)[#ルビの「せい」はママ]ぜられる金切聲(かなきりごゑ)も聞(き こ)えました――も一度(いちど)豚(ぶた)の仔(こ)が公爵夫人(こうしやくふじん)の膝(ひざ)に居(ゐ)て嚏(くさめ)をし、其(そ)の間(あひ だ)、皿小鉢(さらこばち)が其(そ)の周(まは)りに碎(くだ)けました――再(ふたゝ)びグリフォンの叫(さけ)び聲(ごゑ)、蜥蜴(とかげ)の鉛 筆(えんぴつ)を軋(きし)らす音(おと)、壓潰(おしつぶ)されて窒息(ちつそく)した豚(ぶた)、不幸(ふかう)な海龜(うみがめ)の絶(た)えざ る歔欷(すゝりなき)とがゴタ/\に其處(そこ)いらの空中(くうちゆう)に浮(うか)んで見(み)えました。  乃(そこ)で※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、208-8]さんは目(め)を瞑(つぶ)つ て坐(すわ)りました、而(そ)して些(や)や不思議(ふしぎ)な世界(せかい)のあることを信(しん)じました、ところで、再(ふたゝ)び眼(め)を 開(ひら)けば、總(すべ)てが塵(ちり)の浮世(うきよ)に變(かは)るに相違(さうゐ)ないとは知(し)りつゝも――草(くさ)は只(たゞ)風(か ぜ)にサラ/\と鳴(な)り、池(いけ)は葦(あし)の戰(そよ)ぎに美(うつく)しい小波(さゞなみ)が立(た)ちました――ガラ/\鳴(な)る茶碗 (ちやわん)はチリン/\と響(ひゞ)く鈴(すゞ)に、女王樣(ぢよわうさま)の金切聲(かなきりごゑ)は牧童(ぼくどう)の聲(こゑ)と變(へん)じ ました――而(そ)して赤兒(あかご)の嚏(くさめ)、グリフォンの鋭(するど)い聲(こゑ)、其他(そのた)不思議(ふしぎ)な聲々(こゑ/″\)は 、喧(かしま)しき田畑(たはた)の人聲(ひとごゑ)と(愛(あい)ちやんの知(し)つてる)變(へん)じました、――遠方(ゑんぱう)に聞(きこ)ゆ る家畜(かちく)の唸(うな)り聲(ごゑ)は、海龜(うみがめ)の重々(おも/\)しき歔欷(すゝりなき)であつたのです。  最後(さいご)に※(ねえ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、209-4]さんは、これが全(まつた )く妹(いもと)の見(み)た夢(ゆめ)に同(おな)じだと云(い)ふことを思(おも)ひ、自分(じぶん)が大人(おとな)になつた時(とき)(斯 ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57) (こんな)無邪氣(むじやき)な心(こゝろ)の少(すこ)しでも殘(のこ)つて居(ゐ)たいものだと願(ねが)ひました。而(さ)うして他(た)の小( ちひ)さな子供等(こどもたち)を集(あつ)めて、これらの不思議(ふしぎ)な世界(せかい)の夢(ゆめ)の面白(おもしろ)い話(はな)しをしたなら 、自分(じぶん)の過(す)ぎ來(こ)し夏(なつ)の日(ひ)の想出(おもひで)の如何(いか)ばかり、多(おほ)くの子供(こども)を喜(よろこ)ば すことだらうかと思(おも)ひ、一方(ひとかた)ならず愉快(ゆくわい)を感(かん)じました。 愛ちやんの夢物語 終 __________________________________________________________________ 底本:「愛ちやんの夢物語」内外出版協會    1910(明治43)年2月1日発行    1910(明治43)年2月12日発行 ※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。 ※「[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA]」と「姉」、「あァ」と「あア」、「さァ」と「さア」と「サァ」 と「サア」、「まァ」と「まア」と「先(ま)ァ」、「もツと」と「もッと」、「嘗」と「甞」、「双方」と「雙方」、「糸」と「絲」、「熱」と「[#「執 /れんが」、U+24360]」、「頤」と「 ※(「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28) 」の混在は底本通りです。 ※「鼠」に対するルビの「ねずみ」と「ねづみ」、「褒美」に対するルビの「はうび」と「ほうび」、「牛酪麺麭」に対するルビの「バターぱん」と「バター パン」の混在は、底本通りです。 ※ルビの片仮名の拗音、促音は、本文に準じて小書きしました。 ※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。 ※下記の括弧の不整合は、底本通りです。(頁数‐行数は底本のものです)  15頁‐4行 『今私は……       【』欠落】  27頁‐4行 』若し私が        【』は『か?】  50頁‐12行 ……大きくなつたんだわね』【始まりの『なし】  53頁‐3行 『オヤ、……       【終わりの』なし】  68頁‐5行 「『裏の老爺さん……   【「『は『「?】  101頁‐2行 ……するわ』       【始まりの『なし】  107頁‐4行 『二日……        【終わりの』なし】  124頁‐5行 『五点と七点……     【終わりの』なし】  131頁‐6行 『「何と可哀相に!』   【』が」?】  144頁‐12行 ……徳義は――」    【」は「?】  145頁‐9行 ……集まる」』      【始まりの「なし】  152頁‐7行 『愛ちやんは……     【『は不要?】  164頁‐3行 『私は全然……      【終わりの』なし】  164頁‐9行 『海豚が……       【終わりの』なし】  166頁‐5行 ……御馳――』      【始まりの『なし】  167頁‐2行 『其理由を……      【終わりの』なし】  173頁‐7行 出来たかえ?』      【始まりの『なし】  200頁‐1行 『何時か……       【終わりの』なし】  202頁‐6行 ……信じないわ』     【始まりの『なし】  203頁‐2行 『それは面倒……     【終わりの』なし】  203頁‐8行 『骨牌が何うして泳げるものですか)【『)と開括弧と閉括弧が異なる】  204頁‐1行 どうだ――』       【始まりの『なし】  206頁‐11行 『まア……       【終わりの』なし】  209頁‐5行 (斯……         【(不要?】 入力:田中哲郎 校正:みきた 2018年6月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたっ たのは、ボランティアの皆さんです。 __________________________________________________________________ ●表記について * このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 * [#…]は、入力者による注を表す記号です。 * 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。 * この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示 しました。 「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA 1-7、1-4、1-5、206-4、206-4、206-6、206-8、206-10、207-3、207-5、207-6、207-10、208 -1、208-8、209-4 「執/れんが」、U+24360 11-5、43-12、125-1 「冫+咸」、U+51CF 70-10 「てへん+麾」の「毛」に代えて「手」、U+64F5 151-7 「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」 U+59CA 「執/れんが」 U+24360 __________________________________________________________________ ●図書カード